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家族の絆を求め母親と海外亡命したさなちゃんが成人、オランダから声明を発表――「児相が私にしたのは犯罪です」

大村市にある児童養護施設「大村子供の家」に、「長崎県こども・女性・障害者支援センター」(以下、長崎児相といいます)の申立を不当に認容した福岡高裁の決定で人身拘束されていた、さなちゃん。
2008年10月24日、さなちゃんは、「児相被害110番」など児相被害者支援団体の手でこの施設から救出され、母親とその場で熱く抱き合って、そのあとすぐ、福岡空港から母親とともにオランダに亡命しました。26日に母娘がアムステルダムに到着すると、さなちゃんの日本の最高裁が認めた施設措置は、「虐待」の再発可能性があるかどうかを基準に判断するオランダの法規によって裁きなおされ、オランダの裁判所は、母子がオランダ滞在し家族の共同生活を認める判断を下しました。以来、母娘は、オランダで家族の絆を固めあうことになります。
これが「オランダ母子亡命事件」です。すでに20年を超えてうち続く厚労省=児相権力と対抗する市民・家族の厳しい闘争史のなかに、市民・家族が勝ち取った金字塔として刻まれています。

「大村子供の家」は、敗戦によりアジア大陸などから多くの日本人が長崎県に引き揚げてきたなかに混じっていた、すでに親を失った孤児たちを養育するため、1946年9月から事業を開始した施設です。
http://www.omurakodomonoie.jp/kodomonoie
その当時は、社会的に有用な役割をはたしていましたが、引揚者の孤児が成人しても存続し続け、こんどは「虐待を受けた」と児相が判断した子どもたちに手を伸ばし、それにより社会福祉法人の経営が維持されてきたのです。こういう社会福祉法人の利権維持のコマに使われ、人身拘束を受けていた児童の一人が、さなちゃんでした。

事件の詳細は、『読売新聞』2009年1月18日付で大きく報道されました:

『読売新聞』2009年1月18日付。記事の写真は、オランダで、母娘の絆を確かめあうさなちゃん。

 

オランダは、児童虐待政策でも先進国として知られ、人権を重視するEUの児童虐待政策をリードしている国です(詳しくは、『児相利権』(八朔社)の第6章を参照ください)。そのオランダの裁判所が日本の児童虐待事案とされるものを裁いたことで、日本の厚労省=児相の行政や児相にかかわる司法(児相司法)が、子どもを護るという口実の下に、実はいかに児童と家族の人権侵害を行ない、「中世並み」に遅れているかが、現実において明らかになりました。
さらに、この事件は、西欧市民が歴史の中で闘って勝ち取った人権規範を共有するスイス、ジュネーブの国連子どもの権利委員会から、厚労省=児相による人権侵害を緊急に止めることを求める、2019年の一連の対日勧告につながっていったとみることもできます。その意味で、「オランダ母子亡命事件」は、日本の厚労省=児相から抑圧された家族・市民が、真に人権を尊重する国際社会と連帯して闘争を効果的に進めるスケールジャンピング戦略に、最初の一撃をあたえる義挙だったといえます。

母子が亡命に成功したあと、2009年1月19日になって、支援団体「家族破壊法犠牲家族支援の会」のリーダーであった野牧雅子、小菅清の両氏が連名で、厚生労働省虐待防止対策室長、長崎県知事、長崎児相所長、長崎県警あてに、次のような「抗議・要請書」を発出しました:

子供(女子 現9歳・小3[=さなちゃん])は児相の魔手から離れて、異国で家族と平穏に暮らしています。
私たちは貴職らに対して、この家族へこれ以上の迫害を加えない事、児相は直ちに「保護解除通知書」を出す事を要請します。
以下は経過です。
平成19年8月、母親は子供が悪さをしたため、自宅で躾けとして、お尻を叩いて叱りました。(当然、普通の母親の普通の子育てです)
その後、子供はまた元気になり、「遊びに行く」と伝えて、自宅から出て行きました。
(以下は児相の説明・・・腕・脚にケガをした子供がコンビニへ来たので、店長から警察、ここから児相へ連絡が有ったので、子供を保護(誘拐)した。裸にして調べたら、お尻が赤かったので、虐待と決めて、収容・隔離した)
やがて母親が呼ばれて児相職員と面談、母親は正常な叱り方=躾けであり、けがをしたならその後の事である、速やかに子供を返して欲しいと要請しました。
しかし既に「虐待」と決定していた児相は、子供に会わせないまま、「虐待の承認」を迫り、母親が「虚偽の承認」を断わったため、話は平行化しました。
やがて児相は誘拐・隔離を続け難くなったとして、家庭裁判所へ子供の隔離・軟禁を続ける事の許可を求めました[=28条申立て]。しかし同家裁は子供を含めた実情調査を行ない、同年12月、児相の申し出を却下しました。所が児相は子供を返さず、高等裁判所に控訴して隔離を続行しました。
やがて高裁は何らの調べも行なわず、書類審査のみで、平成20年5月、児相の申し出を許可しました。(高裁へは児相を勝たせる様にとの何らかの指導が有る様で、この書類のみで地裁決定をくつがえす方式が、他でも多発しています) なおこの様な場合、最高裁は一切審理せず、高裁決定を追認します)
母親は高裁決定後、何としても子供を助けたい・引き取りたいとして支援の会に相談して来ました。
また子供が転校させられた学校を探していました。やがて友人の助けにより発見します。そして仕事上で移住したオランダに連れ帰りたいと友人にも相談しました。
同20年10月、母親は下の子供(2歳)をオランダに残して来日、24日に友人・親族(子供の祖父)と共に下校途中の子供を救い出しに行きました。子供は祖父を見付けて駆け寄り、次に母親を見付けて抱き付いています。大喜びでした。
(この時、不手際が有り、やがて友人・親族は逮捕されました)
同10月26日、親子はオランダに帰着、家族三人の生活が始まりました。
しかし、28日、児相から警察から外務省から連絡を受けたオランダ警察により、子供は連れ去られました。また母親にも呼び出しが来ました。(この時、支援の会は状況が必ずしも悪くないと考え、この旨を伝えました)
同11・12月、オランダで関連する役所による調査・解明が始まりましたが、長崎児相などの書類の余りの奇妙さに驚いた様です。母親による虐待や拉致・誘拐が全く見えて来なかった様です。
所が長崎県警は12月16日に児相の依頼を受けて、オランダ警察へ母親を国外略取容疑で逮捕する様に要請しました。記者会見もしたため、各新聞にも掲載されました。
この要請にはオランダ側も全くあきれた様で、無視のまま何の行動も起こしていません。
(この記事内容に付いては記者も疑問を持った様で、問い合わせを受けて、支援の会から読売・他の記者へ説明しました)
同12月29日、オランダの裁判所は「虐待の兆候や心配はない」と明確に認め、この家族のオランダでの正常な家族生活を保障しました。やがて平成21年1月18日、調査を終えた読売新聞は家族が平穏に暮らしている現状を、全国版とPC上で報道しました。同11・12月、オランダで関連する役所による調査・解明が始まりましたが、長崎児相などの書類の余りの奇妙さに驚いた様です。母親による虐待や拉致・誘拐が全く見えて来なかった様です。所が長崎県警は12月16日に児相の依頼を受けて、オランダ警察へ母親を国外略取容疑で逮捕する様に要請しました。…この要請にはオランダ側も全くあきれた様で、無視のまま何の行動も起こしていません。

さなちゃん救出の場には「大村子供の家」関係者が現れ、支援者との間で、実力のもみ合いが起こりました。施設長は、「この子は、施設にいたいんだ!」と叫んで、取り返そうとしたそうです。しかし、さなちゃんは、母親を見ると抱きつき、施設から逃れることに成功しました。

さなちゃんが亡命後4年間お母さんと住んだ、オランダ,プッテンの家

こうして、さなちゃん母娘がオランダ亡命を果たしてから早くも12年が経過しました。ところが、長崎児相は、さなちゃんの施設措置をずっと解除しなかったため、さなちゃんが日本に帰国すれば、その途端、再び児童養護施設に人身拘束されることになります。このため、児童福祉法の対象年齢である18歳を超えるまで、さなちゃんは一切帰国できませんでした。
さなちゃんが再び日本の土を踏んで、支援者らと涙ながらに抱き合うことができたのは、亡命後10年が経った、ようやく2018年4月23日のことでした。オランダの裁判所が判示したとおり、さなちゃんが、オランダで、お母様から「虐待」を受けたことは全くありません。ごく普通の平和なご家族だったのです。そのようなご家族から娘を奪って親子を切り離し施設に長期にわたり放り込む――それはいったい何のため、誰のためだったのでしょうか。
実は、さなちゃんが亡命した後も、「大村子供の家」は、さなちゃんが既に施設にいないにもかかわらず、1ヶ月約40万円というさなちゃんの「措置費」を血税からずっと受け取り続けていたということです。長崎児相がさなちゃんの施設措置を解除してしまうと、施設は措置費を受け取れなくなります。だから、さなちゃんの施設措置はいつまでも解除されることがなく、それゆえさなちゃんは長い間日本に帰国できなかったのです。児相の拉致と児童養護施設への人身拘束がいったい何のために行なわれているのか、とても分かりやすい状況といえるでしょう。

娘との再会を果たした母親は、長崎県警により、「未成年者国外略取容疑」の犯罪者とされました。日本に帰国すると母親は逮捕されますから、帰国できません。我が子と同居して普通の家庭を営み、養育している親が、一体どうして「犯罪者」なのでしょうか? まるで、児相にひとたび拉致されたら、その子は児童養護施設の所有物となるのだから、その所有物を取り返すのは「略取」となって罪だ、と言っているように聞こえます。つまり、ひとたび児相に拉致されると、子どもは児童養護施設が措置費を吸い取って経営を維持する「社会的養護」と称する利権のコマになる――これが、厚労省が所轄・推進する、日本の「児童福祉」と称する行政の実態なのです。
児童の最善の利益のためではなく、利権関係者の最善の利益をめざす行政だからこそ、日本の行政権力は、母親の容疑をずっと維持し続け、厚労省=児相の行政の正統性をとにかく維持しようとして必死な足掻きを続けました。そして10年も経った2018年12月7日になって、長崎県警はなんとこの母親を長崎地検に書類送検したのです。この母親は、自分の実の娘と一緒に生活したいと行動しただけなのに…いったいどういう悪いことをしたというのでしょう。こういう「中世的」な行政が国際社会から呆れられ無視されるのはきわめて当然です。

さなちゃんは、いまもオランダで生活しています。そのさなちゃんが、成人したのを機会に、このほど声明を出しました:

事件当時、小学生の私は早く家に帰りたいと児相の人にも訴えましたが、無視されて、無理矢理施設に入れられました。児相は施設入所の裁判で証拠ねつ造までして、裁判に勝ったのです。
私の家族と児相被害支援者の人達が私を助け出してくれて本当に感謝しています。
児相が私にしたのは犯罪です。それの知らないふりは止めて下さい。
奪われた私の日本での家族との暮らしと時間を返して下さい。
私を助けてくれた家族や支援者を犯罪者にした誤りを認めて名誉を回復して下さい。

2020年10月31日  さな

さなちゃんは、「子どもの人権の最後の砦」を僭称し、さなちゃんの人権を守ったと言いたげな児童相談所を、はっきり「犯罪者」と断罪しています。さなちゃんがいうように、児相が無ければ、楽しく暮らせたはずの日本での家族の生活でした。その貴重な10年間をさなちゃんからすべて奪ったのは、児相にほかなりません。
これを実現するため、「児相は施設入所の裁判で証拠捏造」をしました。これは、次のような事実をいいます:
さなちゃんを施設措置するかどうか審理した28条審判第一審では、長崎児相の施設入所申立が長崎家裁に却下されました。この決定が出て、喜んだ母親がさなちゃんと面会のために児相を訪れたところ、その直前に、却下判決に焦った児相は、秘密裏にさなちゃんを児相収容所(一時保護所)から連れ出して隠し、即時抗告をしました。その際に長崎児相は、さなちゃんのお爺さんから母親の子育ての様子を聞き取ったのですが、長崎児相は、お爺さんが語った母親の子育て内容を、真逆の酷い内容に書き換えて即時抗告の証拠書面として提出したのです。全国の児相は、施設措置を裁判所に認めさせようとして、各地で証拠捏造を繰り返しています。さなちゃんの件も、その氷山の一角にすぎません。しかしお爺さんは、そのあまりの捏造の酷さに涙を流して悔しがっていたということです。
この長崎児相の仕打ちが、オランダ母子亡命事件へとこの家族を駆り立てる強い動機、原動力になっていきました。

「支援者を犯罪者にした誤り」とさなちゃんがいうのは、支援者たちが、さなちゃん救出成功後もその場にとどまっていたため、警察に逮捕されてしまい、その後拘禁されたことをいいます。支援者の学生は実刑判決を受けました。しかしこの学生は、「狂った国家権力に抗う」という自身の社会的位置を明確に認識しており、節を曲げず、あくまで「容疑」を認めなかったので、計3年間も拘禁されることになりました。また、お爺さんも逮捕・勾留され、これがきっかけとなり病気を患い他界されています。

逮捕されても、支援者たちは警察で、さなちゃんと母親を護る姿勢を徹底的に貫きました。警官から母娘の行き先を聞かれたので、機転を利かせて「関西空港から直行便でオランダに向かった」と誤魔化し、警察に関西空港に連絡させて、時間を稼ぎました。その隙を縫って母娘は、大村市から福岡空港に急行、福岡からソウル経由便でアムステルダムに向かいました。このため、福岡空港の出入国管理官に出国を阻まれることはなく、ぎりぎりで日本から出国することに成功したのです。母親は、ソウルでの乗り継ぎの時間、支援者の小菅氏に国際電話し、無事母娘で日本から逃れられたことの喜びを伝えました。

こうした支援者の行動は、江戸時代の百姓一揆にもたとえられる義挙というべきです。重い年貢に耐えかねて農民の一揆が起こると、江戸幕府は、例外なしに、一揆の首謀者を打ち首などで見せしめ的な厳罰に処していました。また、長崎では、キリシタンにも苛烈な弾圧が加えられました。この長崎児相、そして日本の警察と司法が母親と支援者に加えた権力の暴虐は、こういう江戸幕府とほぼ同じです。現代の児相行政・司法には戦前そのまま特別権力関係が孕まれているという法律専門家の見解が、このオランダ母子亡命事件で実証されたのです。
しかし、幕府がいくら打ち首を繰り返しても、百姓一揆が止むことは勿論ありませんでした。殉教者がはりつけにされても、人々は、隠れてキリシタンの信仰を維持し続けました。児相やそれと癒着した裁判所が特別権力関係を振り回して、さなちゃんの母親やその支援者・そして闘いに立ち上がっている全国の児相被害者を、鎖国の江戸幕府がしたように不当弾圧すればするほど、国際法で認められた人権と家族の絆を尊重する市民の、厚労省=児相に抵抗する闘いの炎はメラメラと燃え上がります。
さなちゃんがはっきり認識している通り、犯罪をおかしたのは児相です。そして児相行政を通達やマニュアルなどでコントロールしている厚労省です。お母様でも、支援者たちでもありません。お母様と支援者のみなさんの名誉が回復され、そして、家族の絆のためオランダに亡命したさなちゃんとお母様が、手を取り合って再び日本の土が踏める日が一日も早く訪れるよう、私たちは力を合わせ、国連はじめ国際社会と連帯しつつ、厚労省=児相権力に対する抵抗と闘争をますます強化してゆきましょう