■ タシケント 2003 9.11-12


タシケントの都市空間

タシケントは、人口212万人を擁し、地下鉄が走る、中央アジアで最も大きな都市である。そして、ハブ空港を擁してもっとも国際的で、ソ連全体で4番目に大きな都市であり、中央アジアにあるロシアの飛び地といってもよく、現在の人口構成をみても、ウズベク人は30%しかいない。他に、ロシア人、朝鮮人、タタール人などの少数民族が暮らしている。

タシケントの都市空間は、細い路地が入り組んだ歴史の古いイスラム旧市街、その横に帝政ロシア時代に放射状街路をもって計画的に建設された都心部の新市街、そしてソ連時代に拡張した社会主義住宅地区・工業地区、さらに、独立後に郊外を開発して建設された行政・経済機能の集積地区という、大きく4つの部分に分けられる。イスラム旧市街のほかは、ヨーロッパ的な趣きが強い。


タシケント旧市街

午前中、われわれは、タシケントの旧市街の視察にでかけた。 ホテルから、車は北西に向かった。移動中の車の中から、真新しい国会議事堂の建物、そしてソ連時代に建てられたサーカス場が見えた。サーカスは、ソ連で大変好まれた娯楽だが、ウズベクの市民もこの趣味を持つようになり、ここでは今でもサーカスが上演されているそうだ。

サーカス場を通り過ぎると、街の趣はガラリと変わり、車は旧市街に入った。旧市街には、土壁づくりの古い家が多かった。このあたりにはいくつかモスクやマドラサがあり、昔からイスラム教の中心地であることがわかる。

マドラサというのはもともとイスラム教の神学学校のはずだが、まずわれわれが訪れたバラクハンマドラサBarakhon Madrassahは、ソ連時代には倉庫として使用されていて、独立後にはじめて、現在のように修復された。ただし、現在も神学学校としては使われておらず、ウズベキスタンのイスラム教の本部という管理機能をになっている。庭にはきれいに花が植えられ、整備されていた。

ウズベキスタンではソ連から独立した後、宗教信仰の機運が高まり、ここ12年でイスラム教徒の数は15パーセントから50パーセントへと増え続けているという。。だが、ウズベキスタン政府は、原理主義が増えることを恐れ、弾圧策をとっている。独立後も、多くのマドラサが神学学校としての機能を取り戻すことができていない。われわれのガイドは、実際に厳格なイスラム法を守る信者はほとんどいない、シャリーアと呼ばれるイスラム法は厳格すぎて実行不可能な部分が多いため、地域ごとにもっと実行しやすいイスラム法を作っている、タリバンなどイスラム原理主義者はごく一部であって、ウズベキスタンは民主国であり、宗教の自由も認められていて、実際にはキリスト教の教会も存在する、ここはイスラム国ではないのだ、などと力説ていした。しかし、ガイド氏は、政府によるイスラム教の抑圧など、体制批判になりそうなことについてはまったく触れなかった。ソ連時代の秘密警察システムを引き継いだウズベキスタン政府の治安政策により、観光客の中にKGB的な人間がまぎれこまされ、反体制的説明をツーリストに行うと密告されることになるのを警戒しているのかもしれない、と先生がおっしゃっていた。

このマドラサは、1階建なのが特徴的だ。サマルカンドブハラで見たマドラサはたいてい2階建で、1階部分にも、2階部分にも小部屋が並んでいたのを思い出した。

このバラクハンマドラサの通りをはさんだ反対側に、今も人々が日常的に利用しているジュマモスクがあった。中には入れなかったが、見学することができた。ムスリムの人々は、モスクは1日5回のお祈りのとき、金曜日の礼拝日、イスラム教の祝日、ラマダンなどのときに使う。特に、金曜の礼拝のときは必ずモスクに行ってお祈りしなければいけない。訪れたモスクの入り口には「5:20,13:00,16:55,18:55,20:30」というように、5回のお祈りの時間が書かれていた。この時間は日の出、日の入りの時間で時期ごとに変化するそうで、最初のお祈りの時間は夏では4:20、冬では7:30になるという。モスクの中は,偶像崇拝を忌避しているイスラム教らしく、じゅうたんが敷き詰められているだけの、がらんとした空間だった。

モスクの横には、実に多くのコーランが展示された博物館があった。この博物館で、世界最古といわれる7世紀のオリジナルコーラン、サウジアラビア、アフリカから持ってこられたコーラン、シルクやコットンで作られたコーランなどを見ることができた。オリジナルコーランは羊皮紙で作られているそうで、大きさも普通の本のサイズではなく、広げると横幅1メートルくらいある巨大なものだった。本来は撮影禁止らしいが、係りの人が「10ドル払ったら撮らせてやる」と言われ、払うとあっさり撮らせてくれた。お金の力は偉大だ・・・。

タシケント郊外

旧市街をでて、車は再び、市街地の南の郊外に向かい、ソ連時代に拡張された住宅地の奥にひっそりとたたずむ、日本人墓地を訪れた。この墓地には、敗戦後ソ連の捕虜となって抑留され、強制労働に従事させられて異国の地で命を落とした80柱の日本人が眠っている。1990年に日ソ親善協会福島県支部の建立実行委員会と財団法人全国強制抑留者協会により、「平和と友好不戦の誓いの碑」が建てられていた。1995年、第2次世界大戦後50周年を機に建てられた「ウズベク内の日本人墓地の鎮魂の碑」には、ウズベキスタン国内各地にある日本人の墓の数が記されていた。それによると、タシケント80、ヤッカサライ79、コーカンド240、フェルガナ2・・・などとあり、各地に眠る日本人捕虜の数を合計すると、984柱にも上った。われわれは、亡くなられた日本人の苦労をしのびながら、墓の前で黙祷した。隣には、同じように抑留され強制労働の結果命を落とした、ドイツ人捕虜の墓地もあった。

墓地のすぐ近くに、敗戦後ソ連に抑留された日本人についての展示を行う博物館があった。 この博物館は、厳重に警戒されたスロバキアの大使館のすぐ横にあり、大使館関係者が資料を収集したものであるらしい。内部には、収容所の写真や、フェルガナの加水分解工場や製油コンビナートで働く日本人捕虜、そして運河やナヴォイ劇場建設にかかわった日本人捕虜の写真が展示されていた。また、実際に抑留されていて、日本に帰還できた方が1978年に書かれた手記も残っていた。その手記によると、満州にいた日本人は、進攻してきたソ連軍の捕虜となったあと、満州北部の線路工事をさせられ、その後イルクーツクへ運ばれ、さらにシベリアを通過してタシケントまでつれてこられたのだそうだ。日本からこんなに遠く離れた地に強制的につれてこられ、この地で命を失った方々のことを考えると、ほんとうに胸が締め付けられる思いがした。各自ゲストブックに想いを記し、墓地と博物館をあとにした。

ウズベキスタン・日本人材開発センターでのインタビュー

車は、こんどは市の中心部を経て北に向かい、独立後、郊外に新しくできた中心業務地区に着いた。ここには、真新しい外資系の建物が集まっている。ブリティッシュアメリカン煙草会社ビル、米系資本のインターコンチネンタルホテル、そして青く光る高層ビルが2つ。1つはNBU(National Bank of Uzbekistan for Foreign Economic Activities)のビル。そしてもう1方のビルの中に、われわれの次の目的地、「ウズベキスタン・日本人材開発センター」が入居しているのだ。

このセンターは、JICA(日本)と対外経済関係庁(ウズベキスタン)によって開設・運営されており、主にウズベキスタン人へのビジネス・日本語・コンピュータ教育活動と日本文化の紹介を行っている。

センターに着くと、われわれはまず、現地人スタッフの方に施設を案内していただいた。案内役を勤めてくれた女性は流暢な日本語を話すウズベキスタン人の女性だった。彼女は日本の大学に留学し、帰国後このセンターで働いているのだという。センターでまず目を引いたのが、お茶のお座敷だった。ほかにも日本人形をはじめとする様々な日本のものが展示されていた。ここでは年間US$5の会費を払うと、日本の新聞・雑誌・書籍・ビデオなどが自由に閲覧でき、年間で5万3千人の利用者がいるのだそうだ。ほかにもインターネット接続されたコンピュータも数台あり、現地の人が利用している姿が見られた。最後に教室を見学した。ここは現地人を対象としたビジネススクールの講義が行われる場所で、ちょうどわれわれが居た時間に授業が始まるようで、数人の生徒と思しき人たちが入ってきた。年齢は若く女性の数が多かったことが印象的であった。授業はロシア語で行われているという。

このあと会議室に移動して、センターの岩波和俊所長ならびにビジネススクールのマネジャーをなさっている関忠夫さんと、われわれとの会談が始まった。二人は日本から派遣された長期専門家で、この施設は任期1年以上の4人の長期専門家と、10〜20人の短期専門家によって運営されている。

話は、このセンターについての紹介から始まった。この「ウズベキスタン・日本人材開発センター」は、ウズベキスタン政府対外経済関係庁とJICAの共同で始まったプロジェクトで、ウズベク政府の要請を受けて日本が援助を行っている。日本側には、中央アジアの拠点をここに置きたい希望があったようだ。ウズベキスタン側は、トルコからの借款で対外経済関係庁が建設・運営しているビルの6階を無償で提供し現地の人材を2名派遣している。部屋の内装などは日本がODAとJICAの協力で1億数千万円で整え、さまざまなプログラムとそれを実行するための人材を提供しているのだ。資金は、専門家の人件費も含め、5年間で3〜4億円程度で、年間2000万円のランニングコストがかかるという。

教育活動は、「技術協力」と位置づけられている。これは、2001年から始まったプロジェクトであり、これから4〜5年で本格化していく予定だ。この日本センターは、JICAの「技術協力」プロジェクトのなかで、この地域では最大規模であるそうだ。教育活動は、@ビジネス、Aコンピュータ(WEBデザイン)、B日本語のコースがあり、生徒を募集し授業を行っている。ソ連崩壊後の市場経済化によって旧来の経験が役に立たなくなることを受けて、このセンターでは人材育成を重視している。具体的には、経営実務の教育(ビジネスマネージメント)、日本語教育、相互の文化・歴史・社会交流を行っている。

関さんが、担当するビジネススクールについて話をしてくださった。ビジネスコースでは、市場経済移行期に必要な人材を育てることを目的としている。教師陣は日本人とウズベク人が半数ずついて、昼夜の2コースで5ヶ月のプログラムを提供している。米国系ビジネススクールの授業料は約US$2000であるのに対し、こちらの授業料は、5ヶ月でUS$240と約10分の1の安価で、毎回定員をオーバーする応募があるそうだ。生徒は大学生と実務経験のある社会人で、MBA的なマネージメント方式を教えている。特に、夜間部は、実務経験ある者が来る。ここで学生たちが市場経済についての知識を深め、経営の知識と企業家精神を身につけ、ウズベキスタン社会で活躍するのだという。まず市場経済とはどういうものかを教えるため、オアシスのバザールを例に出したりと、苦労しておられるようだ。

だが、ウズベキスタンの現実は、これとはかなりかけ離れている。現在でも企業の株式の約半分は国家所有でなくてはならず、「商法」のようなものは一応存在しても、企業のフレームワークやコーポレートガバナンス(企業統治)はかなり融通無碍なようであり、他方で独裁的な経営もあるらしい。

これでは、米国MBA式マネージメントが即座に役立つ機会はあまり無い。。しかし学生・社会人が市場主義についての知識を深めることで市場化の促進に役に立つであろうから、ここで生徒たちは経営の知識と起業家精神を身につけウズベキスタン社会で活躍するのだ、と関さんはいう。卒業生は、外資系企業に就職したり、あるいは自分で起業する者もいるという。

このような「技術協力」の考え方には、少なからず矛盾が見られるように思えてならない。このような移行経済期の下でMBA式マネージメントの教育は本当に急がれているのだろうか? このような状況で最も価値のある教育が、ほかにあるのではないだろうか?

ウズベキスタンでは、経済法も頻繁に改正が行われ、結局は、フェアな市場経済のやり方というより、ソ連時代からの慣習、あるいは事実上の賄賂で解決することが多いのだそうだ。それがいやなら、投資を引き揚げるしかない。

このような、官僚的支配・KGB的な監視網が根強く存在する社会と、学んだ市場経済の理念の間にあるギャップに学生は修了後直面する、と関さんは言う。また、学生は、ここで学んだ知識と、現実の改革の遅さとの矛盾についても認識するようになり、いずれ自分たちの力を国に役立てられるようになる時がくると考えているのだ、そしてそのため実力を蓄えておきたいとウズベク人たちは考えているのだ、ともおっしゃられた。さらに、この学校では、現在のウズベキスタン経済にうまくいかない点があったとしても、何かできないのは政府の責任だということを禁止しているのだそうだ。自分で努力せよ、というのである。しかし、では具体的にどのように努力して蓄えた実力を有効に活かせるのかについては、よく分からなかった。

この枠組みの中で、とにかく、現在ウズベキスタンはビジネスの面では日本の成功・失敗から学び取ろうとする姿勢が強く現れているという。もともとウズベク人は親日的であり、移行経済期の目標として日本やアジアNIESを志向しようとする、「アジアへの回帰」の考え方が広まっている、そしてその背景には、ロシアがウズベク社会に残した負の側面、そしてソ連によるロシア化・欧州化という歴史に対する反動があるのだ、と関さんは述べられた。ウズベキスタンは、キルギスカザフスタンと異なり、ロシアには距離を置いている。また、日本は何の「いやしい」欲望もこの地域にもっていないことが好感を得ている、ともおっしゃられた。

米国流の市場主義の直輸入ではうまくいかないところから、そのアジア的な変種、あるいは非白人国唯一の近代化の過程に関心が高まっているということなのだろうか。ウズベキスタン政府は、この日本への親近感の現われとして、招待状なしで数次ビザを日本人には2日で出すという優遇措置をとっている。だが、その日本も、イスラム世界では、米国の後ろにつき従う存在とみられはじめたのではないか。また、援助中心で中央アジア諸国と向き合う日本に対し、援助よりも貿易を・援助よりも投資を、としびれをきらしはじめてもいるようである。イスラムの人々は、いつまで「親日的」でありうるのだろうか。 「アジアへの回帰」は、マハティール首相のマレイシアへの関心もよぴ、同時に「イスラムへの回帰」をも引き起こしている。イスラム教は帝政ロシア時代・ソ連時代と否定され禁止され続けてきた歴史がある。それが独立とともに民族のアイデンティティーとして復権しつつあるのだ。しかし同時に、イスラム過激派による実力を用いた抵抗も勃興している。1999年には「ウズベキスタン・イスラム運動」による、すぐ隣のNBU銀行爆破があったこともあり政府はテロ組織の弾圧に力を挙げている。暴力を伴う対抗運動に対して、一般市民のシンパシーは少ないが、現在の政府に対する不満の捌け口、現行政府へのアンチテーゼとして、イスラム運動への支持は根強く存在する。

ここにウズベキスタンの抱える大きなジレンマがある。ソ連崩壊後はじめて主権国家となったウズベキスタンのアイデンティティーを支えているのは間違いなくイスラム教である。多様な民族を抱えるウズベキスタンにとって、国をまとめ上げるシンボルが必要であろう。しかしそれを解き放てば、イスラム原理主義者が跋扈しはじめる。ウズベキスタン政府は、その政府主導の経済改革を遂行するため、政府や大統領の権威を維持しなくてはならない。このため、この権威に対抗しようとするアフガニスタン、タジキスタン、トルクメニスタンといった国境を接する国から流入してきそうな原理主義者の活動を警戒し、場合によっては武力弾圧することに十分な理由があると認識していてもおかしくはない。つまるところ、ウズベキスタンはイスラム教を、かつてティムール王朝がそうしたように統治のための道具として利用しているのだと言えるのではないだろうか。

最後に、日本の情報、具体的には日本の「最先端の」ビジネス情報を定期的に提供してほしいという依頼が関さんからあった。関さんが出された例は、自分で作ったものなどを売るスペースをレンタルしてコミッションをとる、日本の「小箱ストア」である。このようなアイデア主体の個人ビジネスでしか起業家精神を活かせないという、ウズベキスタン経済の内情が、垣間見られたようでもあった。提供された情報はWEB上などでウズベク人に公開するのだという。この依頼をわれわれは引き受けて会談は終了した。その後、われわれはカラオケボックスの情報をお送りした。

タシケント新市街

センターを辞したあと、われわれは、地下鉄に乗って美術館まで移動した。中央アジア唯一のタシケントの地下鉄は、ソ連時代に作られたものだ。ホームまでは、日本の地下鉄に比べるとはるかに長いエスカレーターでかなり下りなければいけない。空爆に耐えるシェルターとしての機能もあるからだそうで、写真撮影も禁止されていた。料金は一律120スムだった。地下鉄構内はとても豪華な装飾が施され、天井には美しい花の絵が描かれていた。5分も立たずに次々と電車が来るのだが、あと何分で地下鉄が来るかを知らせる電光掲示板のカウントダウンもあった。乗客はほとんどが学校帰りの生徒や若者だった。

実は、美術館訪問は、当初の予定に入っていなかった。本当はタシケントの博物館に行く予定だったが、ガイドさんとの意思疎通がうまくいっていなかったようで、この美術館に案内されてしまったのである。せっかくなので、中に入った。中にはブハラサマルカンドで見たような壷や、ドアの展示や、現代の絵画作品などが飾られていた。複製品のようだったが、エカテリーナの肖像画もあった。4階の一角にはアジアコーナーのようなものが設けてあり、中国の壷や琴なども展示されていたが、全体的にはヨーロッパ芸術が展示の主流であった。これらの美術品は、ソ連時代に収集されたものであろう。ソ連の中央アジアにおける拠点というタシケントの位置づけは、文化の面にも現れている。アジアとヨーロッパの中間に位置するけれども、自身はやはりヨーロッパの方を向いてきた、タシケントの都市の遺産が、ここにも感じられた。タシケントには日本人捕虜が建設したナヴォイ劇場もある。ソ連時代、社会主義が文化的側面を重要視していたことがうかがえた。

JETROでのインタビュー

ふたたび外資系企業が集まっている地区に地下鉄で戻り、JETRO(日本貿易振興会)のタシケント事務所を訪問した。さっぱりしたオフィスでわれわれを出迎えてくれたのは、日本から派遣されたGeneral Directorの下社(しもやしろ)学さん。下社さんの他に現地人のスタッフが2名いて、合計3人で運営されているのだそうだ。この事務所は、ウズベキスタンのみを管轄しており旧ソ連のほかの地域は、モスクワの事務所が管轄している。円卓会議室にて会談が始まった。

最初は、下社さんが、ウズベキスタン経済の概説をしてくださった。それによると、ウズベキスタン経済は、ソ連崩壊後、マクロ経済が安定して推移し、緩やかな成長を見せている。隣国のキルギスカザフスタンは、IMFの指導に従い急進的な改革をした結果、ハイパーインフレを初めとする様々な混乱に見舞われ、国民生活にダメージが及んでしまった。カリモフ大統領の、一気に経済を開放すると国民経済に混乱をもたらしかねないと言う考えにより、ウズベキスタンは漸進的な改革を進めてきたため、大きな落ち込みが無いが、その一方で大きな発展もない。マクロ経済は統計上、1996年にGDPが+0.4%成長を記録して以来、年間最大+5%の成長を続けている。ここまでは、われわれが事前に調査していったことと大差ない内容であった。しかし下社さんの話し方には、政府のマクロ統計の取り方に対する不信感がにじみ出ているように感じられた。

しかし、ウズベキスタンの積極的な発展もあまりなく、隣国であるカザフスタンの主要都市アルマティウズベキスタンの首都タシケントの消費文化を比較した場合、アルマティの方が活発である、と下社さんは指摘された。われわれが見た、コクトゥーベ山麓のジェントリフィケーション・富裕者向け郊外住宅・そして高級スーバーマーケットなどのことを指しているのだろうか。一方、キルギスについては、人口も少ないため市場も狭く、狭い国土は山がちの「本当に何も無いところ」で、国際経済と肩を並べるため文章上の「改革」をし、そのような「改革」さえすればすぐにでも投資を呼び込めるかのように思い込んでしまっていると、われわれの予想通り手厳しかった。

次に、海外からの投資についてお話くださった。

まず、海外に直接投資が発生するための一般的なプロセスを説明された。まず2国間での財の貿易が発生・発展し、輸出相手国での市場規模が拡大する。国内生産をして経済的に成り立つだけの輸出規模になると、以前の輸出国が、輸送コストの削減や貿易摩擦軽減などの理由から、輸出相手国の国内に直接投資を行い、工場を建設して現地生産をはじめる。つまり「輸出代替」として海外直接投資が起る。

しかし、ウズベキスタンで日本製品が大量に売れているわけではない。ウズベキスタンは、外交権を持つ独立国としては世界で唯一の「ダブル・ランドロックド・カントリー」、すなわち外港にアクセスするために最低2回国境を越える必要がある国家であるという地理的な条件により、世界の海運の流れから取り残されている。その結果、国外から原材料・部品・プラントなどを輸入して製造業を行う「加工貿易」の形態をとることは困難な状況である。また国内人口は約2500万人、中央アジア5カ国の合計人口が約5000万人と、人口規模は決して多くもなく、個人の所得が低いことから市場規模が小さい。これは、産業発展には好ましくない条件だ、と下社さんは指摘された。

しかし、このような状況の中で精力的な投資を行っている企業も見られる。それは韓国系の企業であり、スイスの食品多国籍企業であるネスレNestleであり、米国のトラクター製造会社だ。下社さんは、韓国企業の大宇(デウ)の子会社であるウズデウーUzdaewoo、そしてフェルガナ盆地の韓国資本が遣っている綿紡績業を例に出して、ウズベキスタン内の企業状況と海外投資受け入れ態勢について話を始められた。

もともと韓国企業は、日本企業がすでに根を張っている地域は避けて、日本と競合しない最貧途上国や移行経済諸国のようなニッチに集中投資するという行動様式を採ってきた。モスクワには、このためにロシア語を勉強する韓国人留学生があふれているという。

大宇も例外でなく、ウズベキスタン国内で大々的な事業展開をしている。道行く車の半数は、「Damas」などの大宇車であり、リーズナブルな価格で、もはや国民車といっても過言ではない程のシェアを誇る。また大宇は、車のほかにも、紡績業・携帯電話ネットワーク構築なども請け負っておりウズベク経済と密接な関係にある。とくに、携帯電話事業は「破竹の勢い」で伸びているらしい。

その大宇もかつて失敗したことがあった。それは1997年から始めた、いわゆる白物家電事業だ。これには大宇のほかに三星(サムスン)も参入したが、1999年には撤退してしまった。この撤退は、1997年のアジア経済危機に端を発する韓国経済の危機がきっかけとなったかもしれないが、その背後には、ウズベキスタンでの事業が収益を挙げにくいような複雑な法規制があった、と下社さんは指摘された。

第一の原因として、「外貨の強制売却制度」が挙げられる。稼いだ外貨(主に米ドル)の50%は強制的にウズベキスタンの通貨スムへの両替を義務付けられる制度だ。これは、ウズベキスタン政府の外貨獲得政策の一環である。しかし企業は、せっかくの米ドルを、ウズベキスタン国内でしか利用できないスムに変換しないといけない。ただし、この制度は、現在は中小企業には適用が免除されるようになった。

第二の原因として、「外貨交換ライセンス枠組み制度(クォータ制度)」がある。これは、金融機関でスム→外貨の交換を行える額に枠を設け、スム売り(=外貨の流出)を制限することを目的としている。正規のビジネスプランを提出しても銀行で必ず交換ができる保証は無いのだそうだ。交換を確実にするために必要なのは、ビジネスプランというよりも「コネ」なのだという。

第三の理由として挙げられるのが、「利潤の本国送金repatriation制限」だ。利潤を本国に送金する規制が厳しいので、企業は利潤の相当部分をウズベキスタン国内に再投資することを強制されてしまう。

もっとも、ウズベキスタンに投資している韓国企業やトルコ企業は、こうした外貨規制をかいくぐるため、闇外貨市場の活用も行っているらしい。また、われわれがアティラウで乗った、ドシャンベに向かう列車内で目撃したタジキスタン向け密輸でも、商品の仕入れにはこうした闇市場で手に入れた外貨が使われているのであろう。むしろ、旧ソ連中央アジアの経済は、こうしたシャドウ・エコノミーを軸に回っているといってよい。フォーマルな経済だけ見ていたのでは、実態を見失う。

法律に関していえば、日々新しい経済関係の法律が制定されている。しかし2つの法律が矛盾するといったトラブルや、しっかりした法律があっても旧来の慣習、つまりコネが優先されてしまう場合が少なくないという。下社さんは、これをウズベキスタンの「文化だ」と形容された。トラブルが起こっても全部お金で即刻カタを付けられるのは、ある意味で単純明快である。日本や欧米で裁判に訴えても、結局弁護士報酬や法廷手続きに多額の費用と時間がかかるであろう。カネをどう使うかの問題であるともいえる。

では、これらの難しいように見えるビジネス環境にもかかわらず、なぜ大宇は自動車などの分野に進出したのか。そして、一定の成功を収められるのだろうか? この疑問の答えは「マルセイ案件」にある、と下社さんは説明した。われわれ一同は、「マルセイ案件」という耳慣れない言葉に戸惑ったが、それはいわゆる「政治案件」のことだった。大宇の車組立工場誘致を例に、下社さんは、次のように説明された。

1990年代中ごろ、ウズベキスタン大統領のカリモフ氏が訪韓した際、当時大宇グループの会長だった金宇中(キム・ウジュン)氏(現在は粉飾決算の罪で国際手配中)と会談した。ここで、総合産業としての自動車産業を誘致したいカリモフ大統領と中央アジア市場進出を狙う金宇中氏の思惑が一致したという。その後の詳しい動きは分からないが、1996年から大宇はウズベキスタン国内で自動車の生産・販売を開始した。年間3〜5万台を生産し、その内1万台をロシア市場に売却、残りをウズベク国内で販売する計画とした。ウズベキスタン政府は、他の輸入車に対して高い関税をかけ、国内での大宇車の販売を促進した。このほかにも、大宇はクォータ制に関して優遇措置を受けている。また、様々な税制面での優遇を受けていることが予想される。これは、ふらりと手ぶらで進出する企業が得られる便益ではない。しかし、経営は創業以来の赤字続きだそうだ。その一因としては、もちろん減価償却期間ということもあるが、より根本的には、年間20万台生産可能な工場施設で、ピーク時でも5万台しか生産していないことがあげられるという。

韓国企業のほかにウズベキスタンに進出に成功している企業として、下社さんは、ネスレの進出を例に挙げられた。ネスレはフェルガナに工場を持ち、2000年から操業を始めている。われわれもお世話になったミネラルウォーター「pure life」をはじめ、パック入りミルク・ミルクセーキ、チョコレート等幾つかの製品を市場に送り出している。利潤の本国送金が保障されていないのに、なぜウズベキスタンに投資したのかと聞かれて、企業関係者は、「先行投資だ」と答えたという。ネスレが巧妙だったのは、ミルクにおいて大幅な価格破壊を行ったことである。つまり、ネスレは、清潔で安全なミルクを低価格で提供し、特に乳幼児の衛生と健康の向上に貢献した。安価で良質なミルクが市中に出回ったことで、それまでメジャーであった社会主義時代からの多くのミルクは姿を消したという。この点でネスレは、ウズベキスタンにとって歓迎される企業となり、既にしっかりしたブランドイメージ確立に成功し、市場を確保して、ライバル社を出し抜いたことは疑いないであろう。下社さんによると、ネスレは「乳幼児用」の枠で、大幅な税金の減免を受けたという。ウズベキスタンの人々にとって必要な生活基礎物資を生産するということで、政府にアピールしたのである。

このような、企業・産業の誘致のための政治的な案件はおそらくウズベキスタン内では頻繁に行われていると予想される。後に訪問したフェルガナの紡績工場も、「マルセイ案件」のにおいがした。

しかし、われわれはここで考えた。政治案件による誘致活動は、一概に否定すべきものなのだろうか。

たとえば隣国キルギスは、IMF式の自由放任的な市場競争の仕組みを整えているが、目立った海外からの投資はほとんど無い。移行経済期にある中央アジアにおいては、いかに早く投資案件を成立させるかが、産業発展・雇用の確保・物不足の解消・マクロ経済の安定といった様々な課題を実現するカギであり、政権の責任となる。ウズベキスタン政府は、IMFと長くねじれた関係にあり、最近ようやく平行線になってきたという状態である。われわれがゼミで勉強したスティグリッツのGlobalization and Its Discontentが批判しているように、IMFが各国一律に強要するマクロの帳尻あわせなどを優先課題とすると、いろいろな問題が起こる。現在ウズベキスタンでは、IMFの方針に沿って、闇為替レートと実勢レートとを収斂させるか、そして、通貨スムにより大きな外貨の裏づけを与えることを、重要な政策課題とするようになった。そのための処方箋は、通貨供給量の縮小である。ところが、そのためにキャッシュフローが減り、企業がキャッシュを手当てできず労働者に賃金を支払えないという問題が起こり始めた、と下社さんも指摘されている。 (注: われわれが訪問した3日後にあたる2003年9月15日には漸進的な改革を進めてきたウズベキスタンもついにIMF8条国に移行した。これにより為替取引は自由化され複数レートもほぼ解決した。)

このような市場主義一辺倒のやり方よりも、政治案件の活用によって、政府が経済発展のため必要と考える戦略部門への投資を早期に実現することが、1つの積極的な経済政策となるのではないだろうか。さらにいえば、政府が考えるこの経済発展のシナリオを実現するため、政策にマッチする企業を、互いに激しく競争しあう多国籍企業の中からピックアップし、税制面での優遇などを条件に誘致することは、各国がその主権のもとで自由にとって差し支えない開発戦略ではないだろうか。ウズベキスタン政府は、こうして、多国籍企業間の自由放任的な競争をしたたかに利用しているのだ。この場合、複雑で難解なさまざまの制度は、他の後発企業にとっての参入障壁として働くことになる。日本企業は、ウズベキスタンを投資先として「選ばなかった」のではなく、「郷に入って郷に従わなかった」ため相手から「選ばれなかった」可能性も、否定できない。

このように、「選ばれた」外国企業が活躍する中で、日本企業は全くといってよいほど進出できていない現状が浮き彫りになった。日本は、対ウズベキスタンODAの最大のドナー国であり、JICAや関連の援助機構の数は増加している。その一方で、ビジネスの方はさっぱりだ。日本企業と海外企業の違いは何だろうか?

日本企業は石橋をたたいても渡るかどうかわからない。為替の安定・つまり政府レートと闇レートの格差改善が達成され、内陸国(inland country)であるという条件をクリアし、東南アジアや中国との比較優位を中央アジアに認めたうえで初めて本格的に投資を行うであろう、現時点で日本から投資というのは「狂気の沙汰」だ、と下社さんはおっしゃる。一方、大宇やネスレは、現時点での利益が見込めない、またはマイナスであっても、所得の向上による市場拡大を視野にいれ、長期的展望の元で、現在はシェア拡大とブランドの浸透を目的に投資を続けている。この経済発展に伴う投資のダイナミズムをとらえ切れない日本企業は、現在進出することで受ける短期のマイナス収益(=リスク)のみに注目しすぎて、現在進出しないことで受ける長期のマイナスを計算に入れていないのではないだろうか。下社さんは、「今出て行かないことが一番の大きなリスクだ」とおっしゃられた。市場が熟してからではシェアの確保には数倍の資金がかかるし、先行者のブランドイメージを塗り替えるコスト、先行者と同じ税制面での優遇を得るために努力する必要も相当なものだ。しかも、海外直接投資の制度が整備され、市場主義がいきわたれば、それは、日本企業だけではなく、世界中どこの企業にとっても条件は同じになる。その中で日本企業は、他国の企業との競争に打ち勝とうとする用意はあるのだろうか。さらに日本企業は、ゴルフなど駐在幹部のエンターテインメントの機会がないと進出しにくいという話もあるらしい。そういう大名のようなことを考えていて、ビジネスになるのだろうか。日本企業は、中央アジア市場を半永久的に切り捨てたのであろうか。

現在の日本企業に求められていることは、とりあえず進出して駄目なら即座に撤退するといったフットワークの軽さだと思われる。そして何よりも、純粋な米国流の市場主義経済でない国は投資不適格としてしまうのではなく、各国の経済と政治の実情を見たうえで、相手国の「文化」を尊重しそれに適合した企業行動をとることだ。

下社さんは、その他のウズベキスタン内の経済事情についても触れられた。まずは、ソ連時代の工場について。ソ連時代の工場施設はこの巡検中にも幾つか見てきたが、ウズベキスタンでは、あまり現在の産業に活かされていないようであった。一部の工場は再投資が行われて生産を続けているが、老朽化が進んでいることや、1工場でソ連全体の需要をまかなうという計画で作られた工場は現在の独立したウズベキスタンには規模が大きすぎ、最適規模で生産できないといったことが原因で、生産性が低くなっている。なかには再投資が行われず、故障していない部分だけを利用して細々と生産を続けている工場もあるという。ウズベキスタン政府もこれらの工場を処分したいようで「旧国営の不良工場はタダ(=資産価値ゼロ)で引き取らせて良い法律」を制定したそうだが、鉄くずを需要するのであればともかく、当然のことながら誰も不良工場など必要としない。

また、ウズベキスタンには、純粋な民間セクターというのは極めて少なく、「協会(association)」という独自のシステムがある、と下社さんは指摘された。たとえば綿工場の多くは国の機関である「軽工業協会」に属している。これは、ソ連時代の国家機関の「省」が姿を変えたものであり、ここが会社の株を保有し、人事権・経営の意思決定の多くを掌握している。協会が「プログラム」という名のノルマを決定し、原料の綿花の配分も決定する。工場はそれを元に生産を行い、販売先だけは工場ごとにさがす。たとえ工場が生産の拡大を望んでも協会の許可が下りないとそれは実行不可能である。これは、マーケティングを除けば、ソ連時代の計画経済システムが形を変えて存続した制度である。このシステムの利点は、確実に徴税を行えること、そして安定的な生産を行える点にあるのだが、この制度のもとでは、ソ連時代の後期にはあった工場ごとの独立採算制度も存在するかどうか疑わしい。またこのような仕組みができた背景には、かつての共産党官僚たちの「利権」を守ろうとする力が働いた可能性も否定できない。このような協会がいろんな産業にあることで、実質上の民間部門は非常に少なくなっている。事実上の国営工場といってもいいだろうという下社さんの話であった。

民間部門振興の妨げになっている要因がもう一点ある、という。それは、未熟な金融システムである。結論から言えば、ウズベキスタンの金融システムはほぼ崩壊している。ではなぜ、このような状況になったのであろうか? 話は、ソ連崩壊直後にさかのぼる。ソ連邦から独立した直後の混乱期に、国民のほぼ全ての預金口座は凍結されてしまった。つまりウズベキスタンの金融機関に国民が預金していた全ての富が、一瞬にして消滅してしまったのだ。このことにより、国民の銀行に対する信用は無くなり、現在でも国民は銀行に預金しようとせず、銀行の財政基盤は不十分で、商業銀行の与信活動は活発ではない。このような中でまともな融資を行える銀行は、(2003年現在)国内にある32の銀行のうちわずか3行程度だという。またその3行の資金源は、海外からの融資である。下社さんが「ツーステップ融資」とよんだ仕組みは、以下のとおりだ。まず世銀や欧州復興開発銀行、アジア開発銀行等の国際金融機関からNBU(国立対外経済活動銀行)が融資を受ける。そしてNBUが(当然それ以上の利回りで)クライアントに融資するのだ。だが、前述したとおり「ツーステップ融資」を行える銀行は、与信審査などにかかわるノウハウの不足から国内に3行程度しかなく、寡占の弊害が強いことが予想される。この金融状況を改善しないことには、国内での投資は全くと言っていいほど期待できないであろう。

ウズベク社会の統合と安定については、われわれがキルギスやブハラ近郊の農民を訪問して学んだような、社会主義時代の制度的遺産が安全網として機能していることのほか、下社さんは、50世帯程度がまとまって構成される「マハラ」という相互扶助的な地縁的共同体の存在が、ウズベク社会をインドのような底辺的な貧困状況にしない要因として貢献している、と指摘された。他方、われわれもガイドと接して気づいた点であるが、ソ連のKGB以来の言論統制はいぜん続いており、政府に都合の悪いことを書くとジャーナリストは職を追われることになるらしい。日本の「2ちゃんねる」のような匿名掲示板がウズベキスタンにもあって、インターネットがマスコミに乗らない本音の情報をやり取りする場として活用されているようだが、これにも政府は時々アクセス規制をかけているという。

最後に、われわれが出した中国との関係についての質問に対し、下社さんは次のような状況説明をしてくださった。

まず日本企業の立場からいえば、無尽蔵の労働力をもつ中国・東南アジアだけで、加工貿易的な工場進出のニーズはすでに十分間に合っている。いまさら、遠方で輸送費のかかるウズベキスタンに、わざわざ低賃金を指向する工場を立地させねばならない必然性はない。

他の旧ソ連諸国同様、ウズベキスタン側は、は中国を「警戒」している。第1は、人口の面からである。ウズベキスタンは中央アジア最大の人口(約2500万人)を持つ国家だが、これは中国の人口(約13億人)の2%にも満たない。もちろん2500万人も中国人がやってくることはないだろうが、中国企業進出に伴う中国人人口の増加は社会を不安定にしかねず、国が乗っ取られかねないという危惧も生まれる。第2は、投資の面である。ウズベキスタンは独立直後の自由化によってトルコ資本が押し寄せ、いわゆる「おいしい部分」を全て持ち去られた痛い経験がある。国内市場を開放することでこれと酷似した状況が再発することを恐れているのである。しかし、国の発展のためには外資に頼らざるを得ない点は否定できず、ジレンマに悩まされているのだという。

とても有益な情報と、ウズベキスタンのみならず、途上国や移行経済諸国全般の開発・経済戦略を考えるための貴重な手がかりを提供していただき、われわれは下社さんへのいっぱいの感謝とともに、JETROの入ったビルを後にした。

再び新市街

翌朝、われわれは、大きくなった荷物の一部を日本に郵送するため、朝一番に中央郵便局に向かった。

途中、英国の大学が出資して出来たという、新しい大学のそばを通った。立派な独立した建物で、2000人ほどのウズベクの学生が、市場経済化にむけ、いろいろな知識を、英国式の正規のカリキュラムで学んでいるという。市場経済化に向けた教育についてはいろいろ問題もあることは、前日学んだことであるが、それにしても、英国は本腰を入れてやっている。日本で、このようにウズベキスタンに本格的な投資をしようとする大学があるだろうか。仮にあったとして、日本政府はODAでそれを援助するだろうか。立派な一等地のビルにはいったウズベキスタン・日本人材開発センターが、妙にさびしく思えてきた。

郵便局の営業時間は午前9:00からのようで、開局直後だった為か混んでいなかった。ウズベキスタンから荷物を送るためには、まず送るものを何らかのビニル袋に入れて郵便局に持参する。すると局員が紙と紐で結構しっかりと梱包してくれるのだ。もっとも、ただのサービスではなく有料であるし、梱包の際に荷物チェックが行われる。しかし、自分で面倒な荷造りをしなくて良いのは、正直のところ大変ありがたい。また書籍類は「書籍便」として送ることができ、通常便の重量計算より安く上がる。ただ面倒なのが、伝票である。税関申告の伝票を、同じ内容で4枚も書かないといけないのだ。伝票は、ロシア語とフランス語で、英語はまったくない。全く同じ内容の紙を4枚書くのならば複写紙にすれば・・・と思わず文句を言いたくなる。その一方で料金は良心的だった。私は2kg程度のものを航空便で日本に送ったのだが、約US$7程度しかかからず、2週間もかからずに日本についていた。船便で送ると約2ヶ月程度かかった。伝票を除けば、全体的に見て良いサービスだったと思う。

郵便局で用を済ませた後、午前中は、帝政ロシア時代に建設された新市街の中心部にあるモニュメントを、いくつか視察した。

最初に訪れたのは、第二次世界大戦の戦没者追憶メモリアルがある独立広場Mustakillik Squareの一帯だ。ここは、ソ連時代にはレーニン広場と呼ばれていた。

巨大な独立広場の横には、戦没者メモリアルがひっそりとたたずんでいる。メモリアルの中央には、出征した息子の帰りを空しく待つ母親の銅像が立ち、その周囲には、本の形をしたモニュメントがたくさん並んでいた。これは戦没者名簿で、総勢50万人の戦没者の名前が地域ごとに分けて刻まれていた。4年前の1999年に、このメモリアルが完成したそうだ。戦没者名簿の置かれているエスニックな雰囲気を醸し出す木造の建築物からは、ウズベキスタンのナショナリズムを見出すことができる。母親の像は、ソ連に息子を奪われた事への怒りと悲しみを表しているのであろうか。アルマティの公園にあった巨大な社会主義リアリズムの第2次大戦記念碑とは、明確な対照をなしている。しかし、例えレーニン像でなくても一方で広場の中心に銅像をたてるといった、いわゆる「ソ連的」な空間の発想にいぜんとして束縛されている一面も見られた。ここでは、エスニックすらも、そういった、無意識の中に埋め込まれてしまっている旧ソ連的発想の枠組みの中で展開するという、ウズベキスタンの現実を見ることができた。

次にわれわれは、先の戦没者追憶メモリアルから歩いて数分の場所にある、独立広場の中心部へ向かった。ここはかつて「赤の広場」と呼ばれていた場所で、1920年代に建設、1970年代にスタジアムが完成したのだという。かつてレーニン像があった場所には、地球儀の形をしているがウズベキスタンだけが描かれている、「ウズベク儀」とでもいえる巨大なモニュメントが建設されていた。ここにも、ウズベキスタンのナショナリズムが象徴化されているような気がした。

独立記念日には、毎年この場所で、音楽・スピーチ・ダンス・歴史ショー等が催されるそうで、階段状になった座席があった。また広場に隣接して、元ウズベク共産党中央委員会の建物が、今は内閣の建物として使われている様子が見られた。独立しても、以前の宗主国に支配されていた時代の場所の機能は、そのまま維持される好例である。

その後、車に乗って、緑あふれる木々の中に馬に乗ったティムール帝の像が立つティムール広場Amir Timur Maydoni に到着した。

ここは、帝政ロシア時代に計画されたタシケント新市街の中心部にあたる。タシケントの新市街は、サマルカンドや、のちにみるフェルガナと共通の、中心に都市を統合する象徴ないし機能をおき、そこから放射状に街路が広がる都市構造をもっている。その扇のかなめの位置にあるのが、この広場だ。

この広場は当初、帝政ロシアが中央アジアを征服した際の将軍で、その後植民地総督となったカウフマンを称えるための広場として建設された。ロシア革命が起こってのちは、ここにマルクスの像が建てられ、「マルクス広場」と改名された。さらに、独立後は 像がティムールに換えられ、名前もティムール広場と改称されたのである。この都市の支配者が変わっても、その支配の正統性を象徴する人物の像が位置するという、都市のこの場所の機能は変わっていない。かつてあったマルクス像を壊してティムール像を建てた点に、ティムールを国家統合の象徴にしようとするウズベキスタンのナショナリズムを窺える。また銅像の脇には、「この像はカリモフ大統領が建てた」という趣旨の書かれた石盤があった。カリモフ大統領は、自己をティムールになぞらえているのかもしれない。

この広場を中心に、「プロレタリア通り」「マルクス通り」「共産主義者通り」などの旧称をもった街路が放射状に広がり、その一角には、かつてインツーリスト系だったホテルウズベキスタンが建っていて、広場を中心とした新市街の美しい町並みが見られた。この同心円状の計画都市を通じて,ロシアの都市建設の優越性を示そうとした、かつての支配者の意思がうかがわれた。

このあと、商工会議所会頭との会談のため、われわれが契約した旅行社、ドロレスツアーズが事務所を構える会場のホテルへと向かった。その道中、車窓から「丸紅」の看板が掲げられたオフィスが見られた。カザフスタン三井物産や、この丸紅といったように、商社はオフィスを構えて中央アジア市場に乗り込んできている。

ホテルに着くと、「会頭さんに公の仕事が入ったため・・・」とのことで、残念ながらこの会談はキャンセルされてしまった。

次に向かったのは、昨日訪問する予定だった、大きな歴史博物館であった。ソ連時代に建てられたこの博物館は、かつて「レーニン博物館」と呼ばれていた。レーニンをはじめとする社会主義に関する展示があったのであろう。だが現在では、その類ものは一切なかった。ここにもロシアおよびその過去のソ連と一定の距離を置き、あくまでも「中立的」であろうとするウズベキスタンの姿勢が見受けられた。

博物館の構成はこれまでの旧ソ連式の博物館と大差なく、土器や石器といった考古学的な展示から始まり、上の階に行くほど現代に近づき歴史・地理・政治に至るまで幅広い内容をカバーしていた。特に印象的だったのがティムールに関する展示で、きわめて詳細であった。かつてこの地域に覇権を誇ったティムール王朝の直系としてウズベキスタンを位置付けようとする政府の意思が、ここにも表れていた。歴史展示の最後には、独立後の経済と政治の成功をアピールする展示が数多く見られた。その中に、9.11の写真と、ウズベキスタン内でイスラム原理主義者の攻撃による被害にあった銀行の写真が並列されていた。ウズベキスタン政府がイスラム原理主義者に対しどのような姿勢を取っているかをしめすもので、興味深かった。

ついで、ナボイオペラバレー劇場Alisher Navoi Opera and Ballet Theatreを訪れた。1947年から建設が始まったこの劇場は、第二次世界大戦時の日本人捕虜が建設した、大きな劇場である。ここでは、連日オペラやバレエが上演されている。劇場には、大ホールと、石造りで細かな彫刻のなされた、ウズベキスタンの各州ごとの部屋がある(つまり12個の部屋がある)。捕虜が作った部屋の壁の上には、各州の職人が、彫刻などの微細な装飾を施していた。大ホールから美しい音楽が漏れてきたのでのぞいてみると、オーケストラが、ロッシーニ作曲のオペラ「セビリアの理髪師」の練習をしていた。昨日訪問した美術館も、この劇場も、かつてこの中央アジアという僻遠の地にヨーロッパ文化をもたらそうという、社会主義ソ連の果たした努力を物語って余りあるものだった。

市内見学を一通り終えたわれわれは、昼食をテレビ塔でとることにした。タシケントのテレビ塔は、郊外の小高い丘の上に立っており、上海のテレビ塔を髣髴させる外観をしていた。高さは375mと東京タワーよりも高い。このテレビ塔はタシケントのシンボルになっているようで、現地で購入したロシア語の教科書などにも頻繁に写真が登場していた。

入場料は2000スムと一見高そうだったが、何とこれには、中の食堂での前菜代金が含まれているのだった。入場の際には厳しい荷物チェックがあった。一階には世界の高層建築物の模型が置かれており、高さの比較展示がなされていた。

エレベーターで展望台に登ると、そこが空中食堂になっており、60分で360度床が回転する。前菜以外は別料金ということなので、キエフ風カツレツ(鶏肉にチーズをはさんで焼いたもの)を注文した。しかし、出てきたカツを見ると、中身が赤く生焼けだったので焼直してもらった。窓から、タシケントの街が一望に見渡せた。眼下には、スプロール化した戸建の住宅、そして観覧車のある遊園地が目に入った。しかし全体として、街は低層の建物がべったりと広がる景観で、これといって大きな高層建築物は見受けられなかった。これは、巨大な高層ビルが林立し、さらに建設計画があちこちにあった中国ウルムチなどとは大きく異なっている点であった。やはり、中国と比較して経済活動が活発ではなく、建物に対する需要が小さいのであろう。オフィスビルを需要する海外からの投資も少ないと予想される。

食事を堪能し、勘定をして出ようとすると、計算を間違えたのであろうか、それともカツが生焼けだったことへのお詫びのしるしであろうか、かなり請求額が安く上がっていた。

フェルガナへの峠道

昼食を終え、タシケントからフェルガナへと移動することになる。

スターリンが引いたソ連共和国の境界がそのまま国境線となったために、隣国のタジキスタンがフェルガナ盆地の喉元を抑えているので、われわれは標高が低い盆地沿いに進むことができない。ウズベキスタン領内のみの通行でタシケントからフェルガナ盆地に抜ける道は、標高2150mの峠を越える曲がりくねった道1本しかない。歴史博物館にあった鉄道地図によると、ウズベキスタン政府はこの峠に鉄道を通す計画を持っているようであるが、まだ紙の上だけで、着工に至っていない。そのため、この道と峠は、経済的にも軍事的にも、ウズベキスタンの命運を制する非常に重要な輸送路となっている。

道が険しいためバンでの通行は認められていないとのことで、われわれは、SL博物館がそばにあるタシケント中央駅前の駐車場で、それまで乗っていたバンから大宇製の乗用車2台に乗り換えた。

市内を過ぎると、「アンディジャン、オシュ、イルケシュタム」と書かれた、これからわれわれが向かう道筋を示す巨大な道路標識に導かれ、フェルガナ盆地に向かう幹線道路に入った。周囲にはソ連時代に配置された多数の工場ならびに工業都市が続き、道路は、トラックを初めとする大型輸送車両やガスを運搬するタンクローリーが、ひっきりなしに通行していた。遠方の工場は黒煙を上げており、これらの工場がフル操業していたソ連時代は、環境汚染も相当深刻だったと推測される。このような内陸に工場が配置されたのには、二つの理由が考えられる。1つは、原燃料になる石炭が豊富に産出される点だ。実際、石炭の露天掘りを車窓から観察できた。しかし重要なのは、軍事にかかわるもう1つの理由であろう。アティラウの製油所でも学んだように、第2次世界大戦の折、ソ連は、現在の東欧〜モスクワ周辺でドイツと大規模な戦闘を行った。軍需工場をモスクワ周辺に配置することは、大変リスクが大きい。そのためにドイツの攻撃が及ばない中央アジアに工場を配置したのだ。こうしてできた工業地帯が、現在でも残っているのである。

峠の上り口に検問所があり、われわれはパスポートの提示を求められた。これは、ソ連時代に人々の自由な移動を束縛するための仕組みが、おそらく雇用の維持という目的のため、今も形を換えて残っているものであるともいえる。このような検問所は、国内いたるところにあるが、ここは特に検査に時間がかかり、20分ほどここで待たされた。フェルガナ盆地は、ウズベキスタンの中でイスラム原理主義がもっとも強い勢力をもつ地域であり、そのために人間の移動にも厳しい規制がかけられているのであろう。他にはタシケントとフェルガナ盆地を結ぶ国内の道が一切ないので、この規制は容易である。

検問をクリアし、車が坂道を登り始めると、あちこちで道路のカーブを緩和したり、片側2車線に拡幅する工事が行われていた。工事のために片側の時間差通行が行われており、大渋滞したこともあった。工事には、日本のODAで購入した機械が利用されているのも目に付いた。山肌には、巨大なNestleの広告が印象的に描かれている。主要都市までの距離を示す道路標識には、「カシュガル907km」とあり、ウズベキスタンを中心とした中央アジアの一体性を誇示するようであった。われわれはなお、最終目的地のカシュガルまで、約1000kmを旅するのだ。

峠のトンネルが視界に入ってきた。軍事ルートであり、またウズベキスタンの国土の空間統合で最も重要でしかも最も弱い部分だからであろうか、この峠のトンネルの写真撮影は禁止されている。このトンネルは、独立後、ソ連時代の主要ルートだったフェルガナ盆地の喉元を経由してフェルガナ盆地に入るルートが別の国になり通行困難になってから、ウズベキスタン政府が自力で掘削したものだという。日本の道路トンネルと比べて、坑内の巻き立てが不十分であるなど、造りはかなり粗末であったが、道路の舗装などは行き届いており、快適に走行できた。長さ、3kmはあると思われる長大なトンネルであった。 この険しい峠道を通行して、輸送上の問題上とても重要だとはいえ、峠を越える路線を作ることは容易ではないことを悟った。峠の頂上で車を降りてみた。標高2150メートルということで、さすがに肌寒い。

峠を下って、途中シルダリア川を越えた辺りから、次第にまわりは暗くなった。さらに車を進めると、道路のそばに、照明に浮かび上がる大宇の大きな自動車工場があった。 フェルガナ盆地で2晩お世話になるホームステイ先の金さんのお宅に着いたとき、既に時計は夜10時をまわっていた。

(成田 博之)

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