■ アルマティ 2003 9.1〜2


市内の様子 9.1

9月1日朝、2泊の列車の旅を終え、われわれはカザフスタンの主要都市アルマティAlmatyに到着した。降り立ったアルマティ第2駅は大理石造りになっており、駅前を走るトロリーバス、白壁の建造物、そして整然とした街路樹から、遂に旧ソ連圏にやってきたという感慨深さと、中国とは一線を画するヨーロッパ風の建造環境をうかがい知ることができた。

アルマティ市は、1854年にロシア帝国が入植してできた植民都市で、その時代には、帝国の砦としての機能を持っていた。1887年には大地震によって市中が全壊するという災害に見舞われたが、その後復興を遂げ、ソ連時代には、カザフスタン共和国の中心都市としての発展を続けた。1991年旧ソ連からの独立以降は、首都として機能していたが、1997年に北部のアスタナAstanaに遷都されたことにより、現在カザフスタン国内ではアルマティが経済の中心、北部のアスタナが政治の中心という位置づけになっている。人口は約50万人で55%がカザフ人、30%がロシア人、そのほか700以上の民族が生活している。宗教はイスラム教スンナ派およびロシア正教が大多数を占めている。

市内は、京都や札幌と同様碁盤の目状に道路が整備された、計画都市である。市街地の中心部に高層ビルが密集するウルムチから列車でアルマティに到着したわれわれは、その町並みの違いに眼を見張った。カザフスタン経済の中心というが、高層ビルがまったくといっていいほど見当たらず、一番高くても7・8階という程度である。日本国内を鉄道で旅行しても、出発地の都市と目的地の都市とのあいだに、都市景観の大きな差異はない。飛行機で例えば東京という点からパリという別の点に飛べば、都市景観に大きな違いがあって当然だと考える。こうした日常を幼少時から経験してきたわれわれにとって、陸上を連続的に移動しながら経験した都市景観における大きな断絶は、新鮮な驚きであった。中国と、旧ソ連・現在のカザフスタンは、空間的に連続している。しかし国境という物理的な障壁があることによって、全く異質の文化を持っているのである。国境という概念の乏しい日本人にとって、国境を接している国は似ているのではないかいう安直な予想にとらわれがちである。しかし、国境に仕切られた2つの都市の差異を作ってきた経済・社会の営力の違いは、はっきりしていた。このことを、東京からはるばるアルマティまで陸路で移動した今回の巡検で実感的できたことは、大きな収穫であった。

街路に並ぶ建物を見ると、ほとんどの建物で、1階のみが商業利用されている。1階が商店、その上が普通の住宅というタイプが、建造物利用のスタンダードである。旧ソ連時代は、「衣食住近接」という社会主義の特徴のもと、食品店、衣類店などが地域ごとにある一定の場所に配置されていた。しかし現在では、市内に建物の1階を活用するかたちで商店が点在している。

現在カザフスタンでこのような1階のみの利用が普及していることには、以下の2つの理由が考えられる。第一に、ソ連時代の国営住宅が独立後に民営化されて一般の不動産流通市場に出回り、国営住宅の商業利用に対する規制が緩和されたことを受けて、資本家が商店としての利用を始めたということである。1階を率先して商業化するのは、高い集客力を得るためであろう。第二に、新たに独立の商業ビルを建設するだけの大きな資本蓄積がまだなく、当面は既存の建物でテナント権を獲得して営業をしていかざるをえないということである。資本蓄積が十分進み、巨大デパートやショッピングモールを建設できるようになれば、単独で営業している個々の商店よりも高い集客力と収益性を達成することができるだろう。今後の商業発展に大きな可能性がありながらも、商業店舗の立地条件という切り口から見たアルマティは、現在まだ成長段階と言える。

ホテルにて

まずわれわれは、アルマティで宿泊するウユットホテルへ向かった。ホテルは駅から15分ほどの市内に位置する。だが、まわりを見ると、そこは旧ソ連の国営住宅地区そのものだった。ホテルの建物の外見も、まさに国営住宅である。要するに、1階の商業利用とおなじ過程で国営住宅が民営化され、改装されてホテルとして営業しているのである。ロビーは薄暗かったが、床全体に大理石が使われており、ここでもどことなくヨーロッパ風の印象を受けた。われわれの宿泊したホテルに隣接してもう一軒ホテルがあったことから、旧ソ連時代の国営共同住宅を改装してホテルにするのはこのあたりでは一般的なビジネスモデルなのかもしれない。ホテルの周辺は現在でも集団住宅地として利用されており、子供の遊ぶ姿が見られた。

荷物を下ろし、二日ぶりにシャワーを浴びて旅の疲れを多少癒し、その後朝食をとった。メニューはナン・ヨーグルト・スープ・紅茶と、ここでも中国の食事とは一線を画しており、建造環境のみならず食文化の違いも肌で感じることとなった。

日本人墓地にて

朝食後、われわれははじめに、郊外の日本人墓地を訪ねた。低所得層の住宅街のはずれに位置するこの日本人墓地は、1995年将兵を永久に追慕するためのNGOの管理下に置かれ、祖国から遠く離れたここカザフスタンで日本人抑留兵を鎮魂している。

日本兵抑留の事実は認識しているものの普段意識することがないため、今回墓前でその壮絶な内容を再認識することとなった。第二次世界大戦敗戦後、シベリア経由で1945年から48年にかけてカザフスタンに強制移送された日本兵は、カラカンダなどの炭鉱で強制労働に従事させられ、6000人以上がこの地で命を落とした。332人が奇跡的に生き残り、本国に無事帰ることができたという。1993年の人口統計調査によると、18人の元日本兵がこの地での永住を選択しており、現在でも彼らの子孫がカザフスタンで生活していると予想される。

また日本人墓地の敷地の隣にはドイツ人墓地があり、二次大戦後に強制労働を強いられたドイツ兵が10数名埋葬されている。ドイツ語の墓標があったことから、ここもドイツのNGOが管理をしているのだろう。また周辺には現地の住民の墓地もあった。 我々は161の墓前で不幸にも命を落とした日本兵・そしてドイツ兵の冥福を祈って黙祷をささげ、次の目的地に向かった。

トロツキーが流刑時代を過ごした場所

市内に戻り、トロツキーが流刑生活をすごした住居の跡地を訪れた。それは、クナエフ通りUl. Kunayeva 66番地にある。

トロツキーは20世紀前半を生きたロシアの革命家である。1917年の2月革命・10月革命によってロシア帝政が廃止され、ソ連が成立した。ソ連では、レーニンの死後、後継者と社会主義建設の路線をめぐって争いが起こった。革命後に要職を歴任してレーニンの後継者と目されていたトロツキーは、ソ連のような後進国は単独での社会主義建設は不可能であり、ドイツのような資本主義先進国の革命が必要であるという世界革命論を主張した。これに対してスターリンは、ソ連のような広大な国は一国だけでも社会主義建設は可能であるという一国社会主義論を主張した。世界革命論と一国社会主義論をめぐって激しい論争が続き、1925年 スターリンの主張する一国社会主義論が勝利を収めた。党内論争に敗れたトロツキーは、共産党を除名された。トロツキーは、1928年、アルマティで一年を過ごし、なおスターリンとの戦いを続けた。だが、1929年1月には国外追放となり、イスタンブールを経て、政治活動を行わないという条件でメキシコに亡命の地を得て、そこで研究調査の生活を送った。だが、スターリンが放った家事使用人に化けた殺手により、1940年にメキシコ市の亡命先の家で暗殺された。

トロツキーがアルマティで実際に住んでいた住宅は、既に取り壊されていた。1970年、その跡地には新たな国営アパートが建設された。現在、そのアパートの外装はきれいに青色に塗らており、一階には、銀行と、Kazakhstan Ligal Groupという法律事務所が入っていた。われわれが視察したのはその建物である。ここがトロツキーの住んだ場所であることを示す標識は一切存在せず、ガイドの話では、こんなところを訪問する観光客はまずいないということだった。

トロツキーは、世界史を学ぶ者なら誰でも避けて通れない、著名な歴史上の人物である。今日、トロツキーの思想を改めて再評価する動きもある。それゆえ、それに縁のある場所は、もっと派手に宣伝してもよさそうなものだ。現に、メキシコ市のトロツキーが暗殺された住宅は、いま博物館になっていて、世界中から訪問者を集めている。ところが、ソ連時代の歴史解釈の影響からなのだろうか、それともロシアとの関係を目立たせることを嫌ってのことだからか、詳細な理由は定かではないが、ここにはトロツキーの旧居跡を示す看板は1つもない。ここにわれわれは、未だ旧ソ連時代の何かに縛られているカザフスタンの現実を見た気がした。われわれも、先生の指摘なしに個人旅行として訪れていたらきっとここは来なかっただろうと思い、巡検前に学習したソ連成立後の経緯を思い出しながら、歴史の一端に触れることができて興奮した。

戦勝記念公園

次にわれわれは、戦勝記念のパンフィロフ公園を訪れた。ここは1941年のモスクワ防衛戦においてカザフスタンから徴兵された兵士が活躍してドイツ軍を破り、その功績を称えて建設された公園である。

まず正面にロシア正教のゼンコフ教会がある。ガイドの話では、これはすべて木製で、一本も釘を使わずに建設されたそうだ。その割には非常に大きく、2度の地震にも耐えたということだったので、今まで木造建築は日本のお家芸だとばかり思っていた私は、旧ソ連にも素晴らしい木造建築技術があることに感心した。内部は聖母画をはじめとする宗教画が天井も含む壁一面に描かれており、われわれを圧倒した。現在では実際にミサや結婚式も行われるということだったが、旧ソ連支配時代は閉鎖され、自由な宗教活動が規制されていたという。

同じ公園内で教会のすぐ近くに戦時中使用された大砲と、モスクワ防衛のためたたかったアルマティ歩兵隊に属する28人の兵士のモニュメントがあり、戦争の記録を今に伝えていた。旧共産圏に特徴的な力強くデフォルメしたそのモニュメントからは、威圧的な雰囲気さえ感じた。巡検中何度も見ることになるそのような様式は社会主義リアリズムの特徴である。モニュメントの正面には永久灯火と軍関係のビルがあり、その周辺は整然としている。ガイドの話では、前述の教会で結婚式を挙げ、その後モニュメントを永遠の愛の誓いのため訪れることが一般的な風習になっているという。そのことから、この公園自体が、人々の日常に溶け込んでいる現状が推察できる。

カザフスタンは、独立後、レーニン通りを友情通りに名前を変えるなどしてソ連からの脱却を図っている姿勢を見せているし、ロシアとは一定の距離を置く外交政策をとっている。しかしながら、旧ソ連の首都防衛というソ連時代の軍事的功績を称えるモニュメントを残し、永久灯火付近でのパレードに対して何の対策も講じないカザフスタン政府の姿勢からは、未だソ連とのへその緒を断ち切れない状況を窺い知ることができる。





科学アカデミー

次に、科学アカデミーAcademy of Scienceを訪れた。この機関はカザフスタンの学術レベルの維持・向上、国家のイデオロギー創造を主な機能としている。Academy of Scienceについて特筆すべきことは、この建物の建築に、前述18人の永住日本兵のうち、その1人が携わったということである。恐らく実際に建築した訳ではなく、設計に携わったものと予想される。正面にはカザフスタンが生んだ著名な地理学者の像が建っており、学問の中心地という雰囲気がどことなく感じられた。

コクトゥーベ

その後、市内の南東に位置するコクトゥーベという丘に登った。コクトゥーベは海外からの観光客だけでなく、地元の人々も訪れるレジャースポットである。ゴンドラを使って上り(料金100テンゲ、80円)、頂上からはアルマティ市内が一望できた。頂上から見て初めてわかったのだが、アルマティ市は南から北に向かってやや傾斜している。丘のふもとはスプロール状の道路網をもつ戸建て住宅地になっていた。市内には、すぐに目を引くような高層ビルが全く存在していない。市周辺にはステップ、そして一部砂漠が広がり、どこまでも続く地平線が印象的であった。

昼食は頂上にあるレストランでとった。メニューがロシア語表記になっており、ゼミ生の中に何人かロシア語履修者がいたのにもかかわらずほとんど理解できず、おまけにガイドも詳しい説明をしてくれなかったため、メニューを適当に見て注文したら、出てきた食べ物はすべて前菜だった。前菜はサラミ・ボルシチ・サラダなどで、値段はカザフスタン標準と比較すればやや高めであった。しかし腹一杯食べても500円を切る値段は我々のような長期旅行者にとってはありがたいかぎりだ。

昼食後下山する途中に、大阪の車検証を貼った乗用車を発見した。まさか日本から数千キロ離れたこんな内陸地で日本の車検証を目にすることなどつゆ予想していなかっただけに、大いに驚いた。恐らくは、シベリア経由でここに運ばれてきた中古車なのだろう。また、ドイツのディーラーのナンバープレート枠をつけたままのドイツ車もあった。市内を走る自動車については日本車も多少見られたが、フォルクスワーゲン・ベンツがよく見られた。それらドイツ車の大半も中古車だろう。この二つの事実を合わせて考えてみると、カザフスタン全体では新車市場よりも大きな、相当規模の中古車市場の存在が予想される。

再開発地区

下山後、コクトゥーベの麓近くにある都市再開発地区を訪問した。再開発地区は市の中心から離れた場所にある。ガイドの話では、より標高が高い南部には高所得層、標高が低い北部には低所得層の住宅が集中しているという。道路一本をはさんで旧ソ連時代に建設された古いアパートと、建設中の新しいマンションがコントラストをなしていたが、将来的に再開発が進めば、視察した周辺一帯が高級住宅街になることが予想された。この際開発地区からそれほど遠くない一帯には、ドイツ・フランス・イギリスの各大使館があり、その周辺地区はもとから高級住宅街として知られているという。その空間的な延長として、既存の老朽化した国営住宅を取り壊し、住民を退去させて地区一帯を高級化するジェントリフィケーションの過程を目の当たりにすることができた。





国立博物館

その後、われわれはカザフスタン国立博物館を訪れた。青と白のカザフスタンのシンボルカラーで彩られたこの博物館では、ゴールドマンThe Golden Manを始めとする文化的遺産の展示や独立後の経緯を紹介する展示を視察した。ゴールドマンとは、カザフスタンで発掘されたヨーロッパ系の人物で、現在カザフスタンのシンボルとなっている。文字通り金の衣装をまとって発見された。博物館にはオリジナルではなく、レプリカがあった。独立後の展示コーナーでは、カザフスタンに関する様々な統計資料や地下資源に関する紹介が充実していた。石油採掘の労働者が使うヘルメットの展示が印象的であった。以下にカザフスタンの人口統計表と主要国との国交樹立年月日を掲載したので、参照されたい。

人口統計と民族の構成図(1999年)
カザフスタンの全人口 14,953,126人
カザフスタン人 7,985,039人(53.4%)
ロシア人 4,479,618人(29.9%)
ウクライナ人 547,052人(3.6%)
ウズベク人 370,663人(2.5%)
ドイツ人 353,441人(2.4%)
ベラルーシ人 111,726人(0.7%)
タタール人 248,952人(1.6%)
グルジア人 85643人(0.5%)

国交樹立年度(主要国)
アメリカ 26.12.92
日本 26.1.91
中国 3.1.92
イギリス 19.1.92

大統領官邸,独立記念広場,セントラルモスク

博物館視察後、道を挟んで向かいにある大統領官邸を視察した。入口だけではなく周辺がすべて頑丈な門で囲まれ、入口には憲兵が微動だにせず立っていた。18:00という視察の時間帯が幸いし、衛兵交代の場面を見ることができた。

銃を携えた物々しいその警備交代場面に際し、ふと中央アジアの大統領問題が頭をよぎった。旧ソ連中央アジアでは、独立後大統領が一度も変わっておらず、依然事実上の独裁が今も続いている国が多い。開発途上国では強力な大統領権限の元、発展を急ぐということはよくあることだが、最近中央アジア諸国では、大統領の親族への世襲が問題となっているのだ。カザフスタンではナザルバエフ大統領の娘が後継者として挙がっており、選挙を通じた一見正当と思われる方法、つまり巧妙に練られた選挙管理法などで不正に当選させようという計画によって、世襲を完全なものにしようと画策しているということだ。

世襲は、よく言われるように、利権を一族で独占する手段として悪名高い。中央アジア諸国の場合、ソ連からの独立は、勝ち取ったものというよりは、与えられたものという趣が強いため、旧共産党官僚がそのまま権力を掌握できるポストに居座っている構造が今も続いている。しかしながら、独立を大きな契機として民主化を望んでいる民衆は少なくないであろう。開発独裁自体を否定するつもりはないが、世襲というおまけのついた独裁で、果たして国家としてやっていけるのか疑問である。今後の民主主義進展の動向に注目する必要があると感じた。

その後独立記念広場を訪問した。ここには以前、レーニン像が立っていた。レーニンは、いうまでもなくソ連統一の中心的イデオロギーの象徴である。広場自体は1980年に作られ、独立記念塔は独立後の96年に完成した。広場は知事府の正面にあり、かなり大きかった。独立記念塔の先端にはゴールドマンのレプリカがシンボルとして飾られ、太陽と空を表したモニュメントがその周りを囲んでいた。この独立記念広場は、民衆の集会・パレードの場として旧ソ連時代に使われており、1986年にモスクワの共産党中央委員会からの命令で民衆の同意を得ることなくソ連カザフ共和国のリーダーをロシア人変えるという事件があったときには、大規模な反対運動が行われたそうだ。

最後に市の外れに位置する中央モスクCentral Mosqueを視察した。これは、1999年に政府が出資し完成したということで見た目にも新しく、歴史的なものはなにも感じなかった。モスクの正面ではトルコ系の住民がアクセサリーやコーランを売っており、周辺はトルコ系イスラム教徒の居住区になっているようだった。

スーパーマーケット

この日の夕食は、近くのスーパーマーケットで購入したお惣菜で、各自済ませた。異国の食文化、特に日常生活ではなかなか知ることのない中央アジアの食文化は一体どうなっているのだろうかと、我々は大変強い関心をもっていたため、地元のスーパーを訪れてみようと思い立ったのだ。

スーパーは、ホテルから歩いて10分ほどの所にあり、内部は整然としほとんど日本のスーパーと遜色ない、ヨーロッパ風の造りであった。地元といっても、その高所得層や海外からの駐在員をターゲットとしているスーパーなのだろう。惣菜はグラム単位で販売され20種類以上あったし、デザート、パン、酒の種類も大変豊富だった。飲料水は地元独自のブランドはなく、コカ・コーラとスプライトが大多数、値段は1?80テンゲ(64円)と大変安い。ちなみに酒も500mlのウォッカが100円を切って販売されており、日本では考えられないくらい安かった。旧共産国の店員は概してサービスがよくないという話を聞いていたが、ここは、元国営商店ではなく、はじめから民営の店であり、言葉がわからない我々にも愛想よく対応してくれた。

ホテルに帰り、各々買った惣菜を食べ、おいしさはばらつきがあるものの、地元の食生活を体験できたという満足感があって充実した食事だったと思う。

カザフスタンのアイデンティティ

博物館で見たゴールドマン、そして独立記念広場から撤去されたレーニン像に関し、カザフスタンという国家のシンボリズムについて、考察を最後に加えたい。

前述、ゴールドマンはヨーロッパ系民族であることが確認されている。一方カザフ人はアジア系の民族である。ここで一つの疑問が浮上してこないだろうか。一般的に考えて、国家の象徴となりうる存在は、何かしら当該国家との関係のあるものであるのが普通である。それでこそ、その象徴性は、国民全体をまとめ上げることのできる強い力をもつ。例えば隣国のウズベキスタンでは歴史的英雄のティムールを象徴として掲げているし、日本では天皇を象徴として憲法に公式に掲げている。ではなぜ、カザフスタン政府は異民族であるゴールドマンを国家統合の象徴としているのだろうか。

そこには一つの理由が考えられる。旧ソ連時代、国家統合のシンボルであり国家の理念だったのはレーニンである。レーニン像がソ連各地に建設されていたという事実は、単にレーニンを崇拝する目的だけではなく、ソ連国民にイデオロギーすなわち国家理念を付与する目的もあった。しかし、カザフスタンは独立後、ソ連との関係を公式には断ち切って、レーニン像を各地から撤去し、もはやレーニンをイデオロギー維持の象徴として使用することが不可能になった。

どんな組織にもその構成員を統合するための理念が必要である。その組織が国家であり、更に多民族国家ならば尚更強力な統合理念が必要となる。カザフスタンは独立後すぐに、新たな国家理念と象徴を模索したことだろう。しかし、適当な国家理念の器となるような象徴が見つからなかった。よって、苦渋の選択として、ただ現カザフスタン国家領土内から見つかったという理由だけで、ゴールドマンを理念の器、象徴として採用しているのではないだろうか。あるいは、うがった見方をすれば、ゴールドマンがソ連時代のレーニンと同じヨーロッパ人であるというところに、現在のカザフスタンとソ連との間の連続性、そしてカザフスタンに以前多数居住する、ヨーロッパ人であるロシア人への妥協を読み取ることはできないだろうか。

いずれにせよ、ゴールドマンが異民族である以上、象徴として掲げても、それに強力なシンボリズムを付与することは難しい。カザフスタンの一般国民がゴールドマンに対しどのような感情を持っているのかをインタヴューする機会が残念ながらなく、どの程度その象徴性が実際に機能しているのかは不明だったが、私には大きな違和感が残った。

商工会議所 9.2

朝、お腹が痛くて目がさめた。朝から下痢だ。昨日食べた羊挽肉のピーマン詰めに当たったらしい。軽めの朝食を取った後、8時30分にウユットホテルを出発する。最初に向かうのは商工会議所である。商工会議所は、とても古びたソ連式の建物の中にあった。これは、写真撮影禁止ということであった。商工会議所では特に現在のカザフスタンの経済状況について副所長のIvan S. Datsyukさんに話を伺った。

カザフスタンは、ソ連時代、鉱物などの天然資源の第一次産業に加えて、ソ連全体に、90種類の軍需製品を生産していた、工業化された共和国であった。1991年に独立し、95年に憲法を制定した。97年のロシア通貨危機を受けて98年には不況におちいったが、石油生産の増加を受けて99年には成長路線に乗り、GDP成長率が約10%を達成することとなった。現在も同程度の成長を続けている。

このような成長を遂げた背景のひとつに、市場経済化の促進があげられる。Datsyukさんの話では、現在企業の80%が私企業となっている。民営化は、金融業を含む多くの経済部門にわたり、2003年には土地の取引の自由化が認められ、法整備という面でも市場経済化が進んでいる。5000の海外企業が投資していて、日本企業はそのうち100程度だそうだ。Datsyukさんの口からは、サムスンシェブロンなどの大手投資企業の名前があげられた。

現在のカザフスタンの産業として、化石燃料産業、鉱工業、農業などがあげられた。カザフスタンには7.億〜11億トンもの石油の埋蔵量がある。これは世界で17番目の規模だ。年間4500万トンの石油生産のうち1000万トンを国内で利用し、残りの3500万トンを海外に輸出している。さらに天然ガスも1 .8兆立米の確認埋蔵量を有している。その他に銅や鉄などの金属資源も豊富である。カザフスタンではこのような資源産業がまず中心であり、その他に穀物なども輸出している。1950年には2500万トンだった穀物の生産高も、今では4600万トンに増え、そのうち800万トンを海外に輸出している。その他に毛皮や綿を中国に向けて輸出しているという話だ。

Datsyukさんにカザフスタンで4人家族が1ヶ月間生活するのに必要な金額を質問したところ、金額ではなく具体的な量で教えてくれた。それが以下の表である。

パン 130kg
40kg
牛乳 200l
野菜 200kg
8kg

金額で表せないのは統計的資料の作成が進んでいないからなのだろうか。

なお、カザフスタンの1人当たり国民所得は、2000ドル程度である。そのなかで、現在大量の生産物が、国境を接する中国から輸入されている。中国製品は品質は低いが値段が安いので、これが、カザフスタン市民の手っ取り早い生活水準向上に役立っている。しかし、これでは製造業が育ちにくいので、いずれ、カザフスタン国内で雇用を創出するため、中国からの輸入品は統制されねばならないだろう、と語った。 Datsyukさんに教えてもらった1ドルあたりのテンゲのレートの変遷は、以下の通りである。テンゲの減価が著しかったことがわかる。しかし現在では、70億ドルの外貨準備があり、テンゲの価値は将来に向けて安定していると強調された。

1993年 5テンゲ
1998年 98テンゲ
2002年 145〜150テンゲ

カザフスタン経済の問題は、まず石油産業への一極集中という状態であるという。現在、国家予算の30%が石油収入によってまかなわれている状況である。Datsyukさんは、この割合を小さくしたいと話していた。また、市場経済化の結果、海外資本の流入は進んでいるが、国内産業が育たないという状況が生まれている。その例としてDatsyukさんは、銅を海外に輸出し、銅製品を輸入するという事実を紹介してくれた。

現在、このような問題を解決するためどのような将来的な展望を持っているのか聞いてみたところ、「工業国を目指す」ということであった。その具体例として、今後IT産業を振興するという方向を示された。技術の教育訓練を充実させたいということであったが、それ以上に具体的なビジョンはまだ持っていないようであった。ほかに、「どのような工業ですか」と質問をすると、「all industries」とだけ答えた。長い国境を接する、現在発展中の中国についても、そんなに深刻な脅威とは思っていないとのことであった。

一人のゼミ生が、カザフスタンでの自動車の生産と保有について質問した。現在カザフスタンには、ロシアの自動車会社ジグリの分工場がある。そこでは、農業に使うニヴァというブランドのジープを主に生産しており、中国にも輸出している。アルマティでの自動車の保有率は、1994年には10家族に1家族でしかなかったが、現在では2家族に1家族が自動車を保有するようになっているという。ドイツ、スウェーデン、韓国、日本などから来る中古車が多く、ロシア製ジグリの新車は1台5000米ドル、日本からの中古車も同じくらいの値段である。

Datsyukさんは最後に、「遅かれ早かれカザフスタンは発展する」と言って話を締めくくった。

Ivan S.DATSYUKさんにソ連時代の役職を尋ねると、カザフ共産党貿易部チーフとの事であった。独立後、12年が経過しても共産党時代に重要なポストにいた人々が政治を握っているのである。Datsyukさんは民主化の重要性を強調していたが、本当の意味での民主化は、どれほど進んでいるのだろうか。

Datsyukさんのカザフ経済に対する楽観的な見通しを支えているのは、現在のカザフスタンの資源開発産業の好調ぶりであろう。資源開発産業は、その埋蔵量やカザフスタン周辺国での需要拡大などからも、来的な発展が見込める分野であり、これからもカザフスタン経済を支えていくだろう。しかし資源開発産業への一極集中は、一国の経済を支える基盤としては危ういものである。例えば、資源の国際価格が下落した場合、その影響をもろに受けてしまうだろう。しかも、のちにみるように、その開発の主導権は、米国など外資系資本に握られている。現在の資源依存・外国依存型の産業構造からの脱却を図るためにも、加工業など国内産業の振興を進めていくべきだろう。 忙しい中、我々との話し合いを持ってくださったDatsyukさんにお礼を言い、一緒に記念撮影をして商工会議所を後にした。

三井物産

次の目的地は、ハイヤットホテル(Hyatt Regency)にある三井物産のアルマティ事務所である。広大な緑の敷地に建つハイヤットホテルは街の南部、大統領府などの近くにある。アメリカ資本で建設された新しい高層ビルは、ホテルとオフィスのツインタワーとなっている。ホテルには多くの外国人が宿泊しているようで、スーツ姿のビジネスマンも多く見うけられたが、現地人はほとんど見られなかった。ホテルの敷地の周りには旧ソ連時代の公営住宅が立ち並んでいるが、このハイヤットホテルは現地人の生活から切り離されたものとなっており、それは、一種の外国人居住区の様相を呈していた。

この事務所では、所長である笠間郁雄さんにカザフスタンでの投資状況と日本企業の投資について話を伺った。

この事務所は1993年に設立された。当時、カザフスタンは独立したばかりの新興国であり、インフラ整備など多くの需要が発生すると考えられたからである。三井物産では現在、アルマティを中心に、アゼルバイジャンキルギスウクライナトルクメニスタンにもオフィスがあるそうだ。

カザフスタン政府は現在、多くの市場を開放し、海外から投資を呼び込んでいる。 投資先としては、まず、特に石油産業への期待が大きい。しかし、輸送の面ではハンディがあり、現時点では、販売のためソ連時代にできたロシア経由のパイプラインを経由せざるを得ず、独自で石油を売れないという悩みを抱えているという。このため、ロシアとの協調が重要であった。こうした状況のなかで、アティラウのテンギス油田は、カスピ・パイプライン・コンソーシアムも稼動しはじめたことにより、最も有望な油田のひとつとなっている。さらに、カシャガン油田の開発も進んでおり、それによる経済効果は60億ドルにもなるそうだ。

このような中で、欧米系の石油メジャーの他、多くの海外企業が投資を行っている。しかし石油産業への日本企業の進出はほとんど無いという。笠間さんはその理由として、日本企業が石油探鉱技術を持っていないことをあげられた。日本企業は、既に出た石油を精製する分野が得意であるが、精製してしまうと、ナフサ、ガソリン、軽油…など品種ごとにパイプラインを設置しなければならなくなり、輸送コストが大幅にかさむ。また、消費地に立地していないと、需要動向に見合った品種の生産ができない。これらのことを考えると、カザフスタンに製油所を作るのは難しく、ナマの原油をパイプラインで輸出するほうが輸送費が安くなるという。

こうしたなかで日本企業は、丸紅がとりまとめて、カザフスタンの政府保証つき国際協力銀行(JBIC)の輸出信用資金を使い、日揮の技術で、ガソリンの増産を目指して、ソ連時代に作られたアティラウ製油所の改築に投資を行っている。これは、日本で設計し、部品を日本などのメーカーからカザフスタンに輸出して、現地で組み立てる方式である。日本から受けた融資は、石油製品を販売して返済されることになる。

石油産業以外でも、製造業など多くの分野で投資が進んでいる。特に韓国やトルコの投資は活発である。このような外資の資源エネルギー部門への相次ぐ進出、そして工業製品の輸入により、カザフスタン国内で、製造業が育ちにくく、いつまでも一次産品輸出国の地位につなぎとめられ、産業空洞化の問題が起こりはじめているという。

日本企業も、建設機械の小松製作所や、家電の松下電器などが投資を行っている。小松製作所の重機はカザフスタンの鉱山で使われている。松下電器は、3回進出に挑戦した。最初にカザフスタンに進出したのは5年前であったが、その時は、価格が安い韓国製品に勝てずに撤退した。さらに2年前に進出したときは、密輸された自社製品との競合に負けた。アラブ首長国連邦のドバイ経由でパナソニック製品が密輸されており、密輸品は関税が掛かっていないのでその分安く、正規ルートで自社が仕入れた製品が売れなかったというのだ。そして現在、パナソニックは3度目の進出を試みている。カザフスタン国内では、欧米人流入によって、1人当たり2000ドル程度のGDPでは考えにくい嗜好の変化が起こっており、高くてもよいものを求めて、韓国製品から日本製品への需要シフトが起こり始めているのだそうだ。

 しかし日本企業の投資はまだまだ少ない。なぜ、日本企業の投資が少ないのだろうか。日本がカザフスタンに投資する上での問題としては、まず、カザフスタンが1500万人という少ない人口のため、需要が少ないという点があげられる。

さらに輸送の問題がある。まずカザフスタンは内陸にあるために輸送コストが多くかかる。この問題を解決するために、ナザルバエフ大統領は、2015年を目標に、輸送インフラ整備を主導で輸送路の整備を指示している。カザフスタンは、アルマティ空港ないしアティラウ空港をハブ空港として整備する希望をもっている。しかし、去年の9月に完成予定だったが、資金不足と利権のトラブルで建設は進んでいない。だがタシケントとの競争もあり、これはなかなか難しいとの見通しであった。

日本からカザフスタンへの、陸路による輸送路を記すと以下の通りである。

@ 日本→ナホトカ(船) ナホトカ→カザフスタン(鉄道)

A 日本→サンクトペテルブルク サンクトペテルブルク→カザフスタン

B 日本→中国(船) 中国→カザフスタン(鉄道)

C 日本→黒海(船) 黒海→カスピ海(運河) カスピ海→カザフスタン

D 日本→黒海 黒海→オデッサ オデッサ→カザフスタン

上記のルートの中でも特に高速と思われる鉄道を利用する輸送路では、シベリア経由と中国経由がある。しかし中国経由で輸送する場合、部品の盗難などの安全面での問題、そして中国とカザフスタンではレールの幅が違うため、その車体乗せ換え工事に時間がかかるという問題があるのだという。そのような理由から、中国経由での鉄道輸送はほとんどないそうである。しかし、われわれは上海からアルマティまで列車で移動してきたが、整然とした運行で安全面での問題は見られなかった。また車体乗せ換え工事にかかる時間も2時間30分であり、船などでの輸送と比べれば僅かなであろう。10年ほど前は安全面などでの問題も大きかったのだろうが、中国国内の発展は目覚しく、輸送路の整備も日夜進んでいる。現在のように鉄道輸送がシベリア経由に集中している状況では、シベリア鉄道に事故などがあった場合、輸送が途絶えてしまう危険性があるだろう。新たな輸送路の開拓や中国経由での輸送の見直しなどの努力をして、輸送路を分散させることこそが企業にとって重要なのではないだろうか。

また、日本とカザフスタンの間には二重課税防止条約もまだ結ばれていないという。二重課税防止条約というのは、日本企業がカザフスタンで利益を上げた場合、カザフスタンでその利益に所得税がかけられ、さらにその利益を日本に送った場合、日本でもまた所得税をとられるというものである。カザフスタン政府はすぐにでもこの条約を結びたいと思っている。しかし日本と二重課税防止条約を結びたい国は30カ国以上あり、その手続きに日本側で1つの国につき1年かかるという。しかも、どの国を先にするかは、政治的な力の強さなどで決まってしまうという。エネルギー資源供給地の多角化という戦略的視野も乏しい。日本政府は、真面目にやる気があるのか。本気で中央アジアへの日本企業の進出を考えるのであれば、すぐにでもこの条約を結ぶべきであろう。

しかしカザフスタンの需要が少ないこと、輸送における問題などは、韓国企業にも当てはまる問題である。このような困難がありながら、韓国企業は積極的に投資している。これでは日本と韓国の投資状況の差が説明できない。さらに詳しく話を聞いていくと、韓国企業と日本企業の違いが見えてきた。

笠間さんの話では、日本企業の傾向として、旧ソ連圏をひとまとめに投資先と考え、カザフスタンよりもまずロシアに目が行くという話だった。また現在の不況の中では国内のてこ入れが最重要であり、海外部門は重点地域にのみ投資される。一方で韓国は、スターリンの強制移住政策によりこの地域に朝鮮民族が多く居住していること、また、韓国企業の性格として、日本企業がすでに進出している中国やインドネシアなどの地域を避けて、日本がまだ進出していない隙間を狙い、中央アジアに進出しているという話だった。

現在、カザフスタンには、カシャガンのプロジェクトに関連して、パイプやバルブ工場など、油田開発と石油輸送資材を生産する欧州の企業が多く進出してきている。アジアの企業では、韓国のほか、中国の進出も活発である。中国政府は、アラル海北方地域にあるアクトベ鉱区に、60%の生産物を引き取るPSA(Product Sharing Agreement)契約をカザフスタン政府とむすんで、アクトベムナイガスという会社を設立し、さらに石油パイプラインを中国まで引いて、この石油を中国へ安定的に輸送するく画も考えているらしい。

しかしこのような状況では、将来的にカザフスタンに日本企業が入り込めなくなるのではないだろうか。このような疑問を笠間さんにぶつけてみると、日本企業はブランドイメージとクオリティーの2つをかねそろえているため、現在はまだ、電気製品では韓国企業には負けていないという話だった。しかし、韓国企業のブランドイメージやクオリティーも、現在では、次第に日本企業に近づいている。こうした海外の投資が積極的である一方で、日本は、90年代の不況によって海外から撤退し、内向きの、国内事業優先の経営姿勢に変わっている。投資は、既存の進出実績があり、需要が見込め、法制度などが整備されている国にしか行われず、旧ソ連では、ロシアには投資しても、カザフスタンが候補として挙がることは少ないという。「石橋を叩いて渡らない」という言葉に表れるような、官僚的で保守的な日本企業の体質にも問題があるのかもしれない、とわれわれは考えた。こうした状況の中で、笠間様は、中央アジアの地で頑張っておられるのであろう。

午後1時、話し合いを終え、お礼を申し上げて事務所を辞し、ハイヤットホテルのロビーへと向かった。ハイヤットホテルのロビーは天井がガラス張りの吹き抜けになっており、太陽の光がさんさんと降り注いでいた。ロビーの中央には噴水があり、そのそばにはユルトの天井の形をしたオブジェがあって、「中央アジアのイメージ」が美しく作り変えられていた。この、文化の見世物化という象徴の横のロビーには、欧米人のスーツ姿のビジネスマンが多くみられた。ホテルにはATMがあって、クレジットカードから現金がおろせた。ギフトショップでは絨毯や雑貨、絵葉書などが、カザフスタンの物価からは考えられないような高価格で売られていた。このハイヤットホテルでは物価という点でも、現地の人々の生活とはかけ離れているのだ。

オフィスタワーには三井物産を含めて3つの企業しか入っていなかった。大きなオフィスタワーに3つしか企業が入っていないというのは、どういうことだろうか。三井物産の事務所がこのホテルにおかれたのが1993年である。その頃、他の多くの企業もカザフスタンに進出してきただろう。当時は、治安の面やカザフスタンという国の情報があまりなかったため、このオフィスタワーにも多くの企業が入っていたと考えられる。またハイヤットという高級ホテルにオフィスを構えるということが一種のステータスだったという面もあるだろう。しかし、現地状況を調べていくにつれ、治安がそんなに悪くないことや、他にも多くの良い物件があるということがわかってきたのだろう。ハイヤットホテルのようなコストが高い物件にオフィスを構えるよりも、もっとコストパフォーマンスの良い物件に移ったほうがよいと考える企業が、ハイヤットホテルを去っていったと考えられる。

LG

ハイヤットホテルを出発し、中央銀行や、大学、中央図書館の横を通った。ヤマハの楽器屋もあった。市街地の屋台が立ち並ぶところに着き、各自が自由に食べ物を買った。ここで買った羊肉のクレープは本当においしかった。たぶん、中央アジアで食べたものの中でベスト3に入ると思う。車の中でこれを食べながら、われわれはLG電子の工場に向かった。LG電子は韓国の財閥の家電部門であり、日本でも良く見かける。LG電子の看板はアルマティの街のいたるところで見ることができ、アルマティでは大変普及しているようだ。

中心地から北の郊外に進んでいく。郊外では、スプロール的に一戸建てが立ち並んでいる。LG電子は、平屋の工場であり、わりと新しいものだった。

この工場の責任者である黄 昊建さんにお話を聞うかがった。

現在、8人の韓国人と300人のカザフスタン人がこの工場で働いている。

LGは、カザフスタンに投資する前、最初はロシアに投資しようと考えたという。しかし、ロシアには税金の問題や、マフィアの問題などがあった。一方、カザフスタンでは1996年ごろから法整備が進み、海外の直接投資に対しての規制が緩和されたとあって、LG電子は1997年にカザフスタンへの投資を決定した。

この工場はもともと鉱業用機械器具工場として、ソ連時代の1984年に建設されたもので、カザフスタンにある他の工場と比べてとても新しく、1994年には改築も行われていた。このような老朽化していない工場をいち早く押さえたというところに、LG電子がカザフスタンへの投資にかける意気込みが感じられる。

カザフスタンの投資先としてのメリットとして、黄さんはまず、カザフスタンの経済状況をあげられた。多くの天然資源を有するカザフスタンは、2002年には9.5%、03年には13.5%のGDP成長率を達成し、国内総所得ではCISの中で、ロシア、ウクライナ、ベラルーシについで4番目に位置する(『データブックオブザワールド』2003年版より)。地理的に見ても、発展しつつある中国、ロシアという大国に隣接し、今後それらの国との輸出入によりさらに経済成長を遂げるだろう。さらに、多くの民族が存在するカザフスタンは、他の国の文化や他の国のシステムを受容に寛容であるという点もあげていた。カザフスタンに拠点を置くことにより、他のウズベキスタンやキルギスなどへの進出も容易になり、中央アジアの市場を押さえるのにも好都合であろう。

98年のロシア通貨危機を受けて、カザフスタンでも経済状況が悪くなったとき、多くの企業がカザフスタンから撤退したという。しかしそんな中でLG電子は逆に、積極策を取った。LGは、この工場を拠点として整備し、現在は、カザフスタンだけでなく、ウズベキスタン、キルギス、トルクメニスタンなどでTVやビデオ、オーディオ、洗濯機を販売している。TVは年間20万から30万台を販売しているそうだ。

この工場で組み立てる部品は韓国、中国、インドネシアから入っており、その輸送は中国から阿拉山口経由とロシアのシベリア経由が半々だという。

このように韓国企業は、新しい国への投資だけでなく、新しい輸送経路開拓にも意欲的で、鉄道輸送路を増やすことにより、リスクを分散させている。三井物産で伺った日本企業の話とは大きな違いである。「安全面に問題がある」といわれた経路を現実に使用している企業があるのである。日本企業も、新しい経由開拓を意欲的に進めるべきであろう。

LG電子の、カザフスタンでのブランド確立について、黄さんから戦略を伺った。LG電子はカザフスタンの法律を守り、尊敬を受けている。現在、LG電子では、カザフスタン国内で教育、文化、慈善事業を展開し、カザフ社会に大きな貢献をしている。教育事業では学校へコンピューターを寄付し、さらに今年からKIMEPというカザフスタンの商業大学への30000ドルの奨学金供与もはじめたそうだ。カザフスタン向けの製品の開発も行っており、カザフ語の歌が入ったカザフスタン専用カラオケディスクを開発した、「カザオケ」というブランド名なのかどうかは聞き漏らしたが、この地元化されたカラオケは、多くのカザフスタン人に愛されているという。このような地元に根付く努力により、今では、LG電子はカザフの会社だとまで思われているそうである。実際、カザフスタンでLG電子製品の普及率は40%もあり、LG電子がカザフスタンでの有力なブランドに成長しているのがわかる。

その後、LG電子のショールームを見学させていただいた。製品は、日本メーカーの製品に引けをとらないほど洗練されていた。またデザインもヨーロッパ的センスを取り入れ、中央アジアで売り込んでいこうという意欲が感じられた。製品は多岐にわたり、エアコンや掃除機、冷蔵庫やレンジ、TVに携帯電話などが展示されていた。冷蔵庫と冷水機が合体した製品や、トースターのついたレンジなどのアイディアが面白く、日本にあったらわれわれも買いたいと思った。

次に工場内を見学させていただいた。工場内はとても広かったが、その割にはラインの数が少なく、空きスペースもあった。韓国の仁川と書かれた部品の箱があった。この工場は、部品をすべて海外から入れて組み立て工程だけを現地でやる「プラモデル型」工場である。そのため、カザフスタンには部品生産の産業波及効果がない。われわれが見学している間、従業員の人々がわれわれを眺めたりしていたので、従業員にとっては余裕あるライン速度なのだろう。工場長の話では、残業は行われていないとのことだった。

このことから考えると、まだまだ需要が少ないことが感じられる。LG電子はカザフスタンでのローカルなブランドイメージを作り上げることには成功しているが、需要の開拓という点ではまだまだこれからなのだ。しかし今後、中央アジア諸国の経済が発展するにつれて、現地の人々の所得が上昇してくれば、洗濯機や冷蔵庫、TVなどの必需品への需要が増加する可能性は十分あるだろう。その時、多くの企業が中央アジアに進出してくるだろう。ローカルなブランドイメージの確立は、その中で勝ち残るための先行投資なのだ。

3時30分に工場を出発した。市街地に向かうなかで、車の中から見たバザールはとても盛況そうだった。途中、中心地から少し離れた郊外にある、旧ソ連時代に建てられた一戸建ての住宅地区に立ち寄った。日本人墓地付近にあった低所得者の住宅とは違い、道もしっかりしていて、並木もある。とても古いが、建物の作りはしっかりしているので、旧ソ連時代に、ある程度のお金を持っていた人が建てたものと思われた。白い壁と塀が立ち並んでいて、屋根はトタンである。また最近できたと思われる新しい建物もあり、何かの事務所になっているようであった。独立後にお金を得た人々が改築したのだろう。

中央銀行やコカコーラ工場の横を通り、途中、旅行社に寄ったあと、統計資料を買うため、政府刊行物を売っている所に行った。厳しい警備員がいて、我々の行動を監視し、少しでもうろうろするとすぐに注意された。ここでは、統計資料を売る、売らないと相当もめた末、結局、カザフスタンの統計資料を1550テンゲで売ってくれた。領収書は出なかった。職員が、自分の個人の所有物を有料でわけてくれたのかもしれない。

高級住宅街

その後、郊外の住宅地区を2ヶ所視察した。

まず、ニューリッチが住む住宅地区である。ここは、塀で囲まれた大きな戸建の住宅で、広い庭がついた、ヨーロッパ風の建築だ。価格は、1戸およそ10万米ドルだそうだ。

次に、郊外の社会主義時代にできた住宅団地を見学した。1980年代に作られた公営住宅で、中心地にある公営住宅とは違い、民族融和的なイスラム風のデザインがほどこされていた。すぐそばを路面電車が走っているのは、住宅から仕事場所への交通を考えて計画されたものだろう。この公営住宅は、1995年に民営化したという。その時点で住宅を借りている人が優先的に購買できたが、その時の値段は500〜1000ドルだったらしい。それが、今では3000ドルへと跳ね上がったそうだ。このとき買った人たちは、それなりのキャピタルゲインを得たことになる。それにしても、いかにニューリッチが住む住宅の10万ドルが高額なことか。経済格差が広がっているのだろう。ソ連時代、住宅を手に入れるのは大変だったという。住宅供給がおいつかず、10〜20年待ちで、待っている人は、親の家に住んでいたそうだ。もっとも、15,000ルーブルという「袖の下」を払えば、すぐに手に入ったが、これは給料の50ヶ月分だったという。団地のエリアを出たすぐのところには、トヨタの販売所があった。

アルマティ〜ビシュケク

これからわれわれは、キルギスの首都ビシュケクに向かう。アルマティからビシュケクまでは236kmある。

アルマティの市域を抜けるときに、簡単な検問所があった。その辺りから、周りの景色が雄大な穀物地帯と草原になった。途中の道は、昔は舗装されていたようだったが、今は老朽化していて、でこぼこが目立つ。道路工事が、ところどころで行われていた。この辺りは集団農場の地域らしく、集落が点在している。道では馬に乗った人が多く見られた。また丘の上にある小さなモスクのようなお墓が見られた。

途中、緩やかな峠を越えた。その峠には所々に石像が配置してあったが、何の為にあるのかはわからなかった。小さいモスクのようなお墓もある。途中、休憩のため、ドライブインのようなレストランに寄った。そこのトイレはトビラがなく、50センチほどの高さの仕切りが入っているだけだった。ここで食べたケバブがカザフスタンに入って初めて食べたケバブだった。値段は90テンゲ。新彊と違うのは塩味であるというところで、私はスパイシーな新彊ケバブよりもシンプルなこのケバブの方が気に入った。

カザフスタンは、サマータイムを導入しているため、日の入りは遅く、この日は20時35分だった。草原の地平線に沈む太陽はとても美しかった。国境の街ゲオルギエフカGeorgievkaで、ドイツ料理というふれこみのレストランへ入り、遅い夕食をとった。ドイツ民族の人々が中央アジアに入っていることは勉強して知っていたので、ドイツ人の経営かと思い入ってみたのだが、カザフ人が経営するレストランであった。価格も安く、味もおいしかったが、ドイツ料理かどうかは判断できなかった。

夜11時過ぎ、われわれは国境についた。国境には、カザフスタンのナザルバエフ大統領と、アキルギスのカエフ大統領が並んでいる大きな看板が立っており、両国の友好関係を強調していた。

カーキ色の制服を着た係員にパスポートを渡した後、税関の事務所に入った。パスポートチェックの後、税関の書類を書く。ここでも通貨申告があった。11時55分、国境を歩いて渡るのを許してもらい、徒歩で国境を越えた。国境には橋がかかっており、河川国境であった。バスに乗り込んだ後、バス内でパスポートのチェックを行い、入国となった。1時間の時差があるので、キルギスの時間では、およそ午後11時である。

少し走ると、すぐにビシュケクについた。ビシュケクの街はとても暗かった。ほとんど街灯がなく、バーやレストランの灯り、そして遠くのホテルの電光看板がついている程度である。

ビシュケクの街に着いたのはいいが、ガイドがホテルの場所を知らないらしい。度々バスを止め、ドアを開けて街を歩く人にやみくもに場所を聞いている。真夜中で、治安もそんなに良くないであろう街で、そのような軽率な行動は控えて欲しかった。何も無かったから良かったが、バスに突如力づくで押し入られたらどうするのだろうか。さんざん探してやっとたどり着いたホテルは、駅の裏手にある、Asia Mountainsという名の、高原のペンション風をした瀟洒な建物だった。

(小池 倫太郎・渡辺 大介)

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