■ ブハラ 2003 09.09


ブハラの歴史

ブハラは、サンスクリット語で「仏教の僧院」に当たるViharaが語源とされる。古代からシルクロードの重要な交易地点であったが、13世紀に、モンゴル(チンギス汗)の来襲により多大な被害をうけ、さらに14世紀には、ティムールによって征服された。ティムールの死後、シャイパーニー朝が始まると、しだいに勢力を盛り返して、隣接するヒヴァ汗国と並んで、現在のアフガニスタン北部にまでいたる、中央アジア西部の多くを支配する巨大な汗国の首都となった。

こうした政治、ならびにシルクロードの交易拠点としての経済機能の集中によって大きく栄えたブハラであったが、19世紀になると、ブハラ汗国は、イギリスとロシア帝国によるグレートゲームに巻き込まれていった。ヒヴァと比べると、かつて英領インドに近いだけあって、英国の影響が強かった。1839年と41年に、英国のストッダード大佐とコノリー大尉2人がブハラを訪れた。しかし、この2名の英国人がブハラ汗国に対し陰謀をたくらんでいるとの疑念を抱いたブハラの王は、1842年、この2名の英国人を、王宮の前庭で死刑にした。しかし、英国は、ブハラに出兵しなかった。このとき東アジアではまさにアヘン戦争と英国による香港植民地の奪取が起こったことを考えると、この中央アジアにおける英国の政策はていたことを考えると、この英国の及び腰の姿勢は奇異である。ブハラ汗国に対する攻撃がロシアの英領インドへの攻撃を引き起こすことを恐れたともいわれている。

その後、1868年に、カウフマン将軍率いるロシア帝国軍によりブハラは占領され、名目上ブハラ汗国は継続しつつも、ロシア帝国の保護国となった。そして、1920年にソ連の将軍フルンゼによってソ連の支配下に置かれ、ブハラ汗国は消滅した。1991年、ソ連崩壊後、ウズベキスタン共和国の一部となった。

このように、ヒヴァと同様、ブハラは決してただの遺跡ではなく、近代史の重要な一部の舞台である。

ブハラの様子



今日のブハラは、遺跡のかなりの部分が保存され、世界遺産として登録されている。街は、昔城壁で囲まれており、その跡は今でも残っている。しかし、単なる博物館ではなく、街の中には学校が設置され、居住区が形成されていて、市民生活が営まれる、生きた都市である。また、建造物の中や入り口といった場所など、隅々にまで街の住民が営む土産物屋が立ち並んでいたり、警官や警備員の姿が多く見られたり、観光客と片言だが英語でコミュニケーションをとったりと、観光地化が進んでいる。

全体として、ヒヴァの拡大版といった感じだったが、ヒヴァと比べると、修復工事が多く見られ、その一方で緑地が目立っていた。また、街中にごみはほとんどなくきれいであった。もっとも、ごみ処理方法は、塀に囲まれた街の一画に集められて、そこで燃やされていたにすぎず、よくできたものとは思えなかったが。

ブハラにて

この日の午前中は、ブハラの町を各自自由行動で視察することになった。宿舎であるLabi Hauz B&Bを9時に出発した私は、まず、Labi Hauzのあたりを散策してみた。ここは、ブハラが汗国の首都としてさかえたころ、コミュニティの中心となる、Hauzと呼ばれる池があったところである。この池は、身体を洗ったり、洗濯をしたりと、いわば昔の井戸端会議の中心地的存在であったが、伝染病を市民に蔓延させる役割も果たした。昨日の昼から冷たい飲み物を飲んでいない私は、庭園の左端にレストランを見つけ、500m?入りのコカコーラを買った。値段は1000スム(約120円)と、この国の標準価格、300スムという水準から考えると、ありえない高さだった。

次に、この庭園の東側に聳え立つNadir Divanbegi Medressaの中に入ってみた。すると、びっくりした事にマドラサの内装がじゅうたんでほぼ覆い隠され、みやげ物屋でマドラサの中がいっぱいになっていた。マドラサの中には、ゆっくり朝食をとったり、チェスを楽しんでいたりしてくつろいでいるブハラの人々もいた。ブハラ市民にとってマドラサは、学校ではなく、土産物を売る場所であり、また休息場所になっていたのである。これは、政府がマドラサの保存に積極的でなく、本来のイスラム思想を教育する場として機能させないようにしている姿勢の現れである。ウズベキスタンでは独立後、イスラム原理主義の影響が強まり、イスラム教の振興に必ずしも熱心でない政府への暴力的な攻撃が頻繁に起こっている。政府と異なる権威の根源であるイスラム教を教育する機関に、政府は消極的であり、そのマドラサの解体を目指しているのかもしれない。私は、イスラム教徒への教育の場としての古き時代のマドラサの様子を見たかったが、現実はそれとは違っていた。

せっかくきたのでマドラサ内の土産物屋をまわると、なかなかおしゃれなチェスセットを見つけた。いつもどおりに値切り交渉を開始したのだが、50ドル(5500円!)から始まり、10分で35ドルまでに落としたが、そのあとはうんともすんともさがらない。店の人は片言の英語で、「VERY GOOD ONE! !」 と言い続けて値段を割り引く気すらなさそうだ。帰るふりをして値段を引き落とそうとしたが、結局店員に引き止められず、すごすごとマドラサを退散した。

その後、自分の行きたい、カロン モスクKalon Mosqueを目指してLonely Planetを片手に歩いたが、道に迷ってしまった。仕方なく、さまよったあげくたどり着いたマドラサの中に入ってみることにした。

中に入ると、さっき行ったマドラサと同じく、中には土産物屋がぎっしりとつまっていた。またか、と引き返そうとすると、中年のいかにもムスリムの感じのおじさんが、私にしきりに「Come in」と言ってきた。せっかくだから、とそのおじさんの店の中に入った。中には、おじさんが書いたと思われるブハラの風景画がたくさんあった。おじさんはかたことの英語でしきりに、「買ってくれ、私にはたくさんの家族がいる」と言った感じのことをしゃべっていた。まあ、風景画もきれいだし一枚買っとくかと思って、一番小さいサイズの絵を、始値1枚5ドルのものを2枚3ドルで値切って買った。おじさんにThank you thank youと言われ、その店とマドラサをあとにしながら、その時、もうちょっと値切れたかなという気持ちと、これくらいの安い額ならいいかという気持ちが交錯した。

確かに私達は、だまされて、市場価格の数十倍で物を買う必要はない。しかし、関西人根性むき出しに、より安くしてやろうと励むのはどうかと思った。発展途上国では、地元住民価格の2〜3倍の値段で比較しても、大概は日本の物価よりも安い。また旅行者にとって、値切る事は目的ではないはずである。激しく値切って旅行者が得したつもりになった数十円は、地元の人たちにとっては、今晩の夕飯を家族と食べるか食べられないかという額であろう。世界の経済格差是正のためとでも思って、値切るのはほどほどに、少々高い値段で買ってもよいのではないかと思った。もちろん、現地の人が旅行者をだまそうとして付ける価格に対しては値切るべきではあるが。

このモスクを出て、自分の居場所を確認しようと通りに出たところに、住人であるおばさんが、道案内を買って出てくれた。「ラッキー」と思っておばさんの後についていく。途中に、工事中のホテルがあった。このホテルの土地には、もともとサウジアラビアの資金援助でマドラサが建設される予定だったらしい。ところが、イスラム原理主義の拡張を恐れるウズベキスタン政府が、それをつぶしてしまったらしい。また、その傍には、シルクロードの隊商宿があったが、ソ連によって破壊されてしまったという。これらをを見ながら、ようやくカロンモスクにたどり着いた。私はおばさんに「Thank you」とお礼を言って別れた。

カロンモスクは、1114年に建設され、チンギス・ハンによって破壊されたが再建された。ソ連支配下には倉庫として使用され、独立後は再びモスクとなったもので、保存状態のよさは中央アジア随一である。カロンモスクの中に入ったとたん、4,5人の黒スーツのガードマンが現れ、あたりを厳重に見張っているのが目に入った。いったいどうしたのかと思いつつ、中に入りモスクの内側の庭園に入っていった。モスクの内部の庭園には、土産物屋など余計なものは一つもなく、静まり返っていた。しばらくすると、自分のサイドとは反対側から、たくさんのSPをひきつれたVIPらしき人たちが現れた。彼らはモスク内をしばらく見るとすぐモスクから出て行った。彼らが出て行ったあと、ガードマンに「奴ら何もんや?」と尋ねると、ガードマンは「マレーシア国王です」と答え、足早に立ち去っていった。なかなかいいタイミングにはちあわせたなと思い、モスク内をみてまわった。

国王が出てきた場所は、絨毯や装飾品などで豪華に飾られた礼拝所になっていて、奥には扉があった。庭園の中心には木が植えてあり、それを囲って石製のベンチがあった。近くに、中央アジアで一番の、高さ47mをもち、チンギスハンの破壊からも免れているカランミナレットがあった。ティムール時代に特徴的な青いタイルの帯が巻かれているが、登れないようだった。仕方なく、モスクをあとにして、王宮Arkに向かうことにした。

王宮までの道は一本道で、すぐわかった。道沿いには途中までかなり土産物屋が立ち並んでいたが、道が広くなると土産物屋は全くなくなった。国王が来訪しているせいか警官や警備員がたくさんいて、私が歩道の下を歩いていると注意され、歩道を歩くようにといわれるほどの徹底振りだった。

王宮にたどり着いた。古代ブハラの発祥の地である王宮は,紀元後1世紀ごろに建てられたらしい。その後、チンギスハンが侵入してきたときたてこもったり、ここで市民が虐殺されたりと、血なまぐさい場所であり、1920年にソ連軍がここを襲撃して占領するまで、実際に王宮としての機能をもっていた。現在では、観光客が頻繁に目にする面の城壁についてはきれいに修復されているが、王宮内は、手入れが施されておらず荒れているところもあった。城内を歩くと、草が生え荒れたい放題になっていて、昔何があったのかわからなくなっている場所もあった。そこから王宮の城外を見渡すと、ブハラの景色が一望でき、東側に昔の牢屋跡らしきものを発見した。

王宮の内部には小さな博物館があり、ロシア帝国の保護領になったあとの洋装をしたブハラ汗国の貴族や、1920年にフルンゼ率いる軍隊が王宮を攻撃した戦争でソ連軍に破壊された王宮のありさまなど、貴重な写真が展示されていた。王座の部屋は、ヒバのものと似た構造だった。

別のゼミ生は、王宮に来る途中、市民と警官の衝突の場面にたまたま出くわした。始めは市民と市民の間のいざこざだったが、警官がその中に入ってきて、しまいに住民のうちの幾人かを連行してしまった。そのことに対して今度は、住民が警官のバスに投石を始め、衝突に発展したらしい。その様子を写真に収めたゼミ生のうちの一人は、警官に言いがかりをつけられ、フィルムを取られてしまった。この衝突からは、ウズベキスタン政府の独裁とその権限の強さ、そして、それに対して住民は必ずしも恭順でないということが分かる。ゼミ生のフィルムが没収された背景には、警官、更に言うと政府が住民を抑圧している姿を海外にもらしたくないという意志が感じられる。

王宮を出てしばらく戻るように歩くと、ウルグベクマドラサUlghbek MedressaとアブドゥールアジスハンマドラサAbdul Aziz Khan Medressaがあった。ウルグベクマドラサは、かの有名な、ティムールの孫で天文学者として有名なウルグベクが1418年に建てたマドラサで、アブドゥールアジスハンのマドラサはウルグベクマドラサより200年あとに建てられた。まず、私たちはウルグベクマドラサに入った。やはり内部は土産物屋である。始めにいったモスクと同様、せっかくティムールの青タイルが残っているのに、美しい文様のある歴史的な中庭も台無しだ。アブドゥールアジスハンのマドラサも同じだった。

マドラサを後にして、スムが足りなかったので両替所に行くことにした。始めにいった交換所は残念ながら昼休みだったが、次にいった、観光客の通行量の多い道沿いにある交換所では開いていて、そこで両替した。公式の外貨交換所はブハラには数カ所あり、街の南にも銀行(National Bank)がある。私の行った両替所では、私が米ドルとスムを交換したあと、ヨーロッパ系の人が交換所にやってきてユーロと交換しようとしていた。だが、交換所の係りの人に「ここではユーロを交換できないから別のところをあたってくれ」と言われていた。ユーロはドルほどに交換性が高くなく、好まれていない。これは、ユーロが基軸通貨とは認められていない証拠ではないかと思う。一方米ドルは、闇でも両替が頻繁に行える。なぜなら、特にドルに限っては、貯蓄手段として好まれるからである。この事実は、いかに住民がスムを信用していないか、米ドルが基軸通貨としていかに選好されているかを示している。このドルを持つアメリカは、基軸通貨のシニョリッジ(通貨発行特権)を持って、アメリカ経済の強さの源となっているのだ。アメリカはいくらでもドルを発行できる。そのドルを使えばいくらでも物資が買え、更に極端に言うと今のアメリカの双子の赤字すらも解消できる。その結果インフレにが起こると、そのインフレは、ドルが国際通貨であり世界中で必要とされているため国際的なものになり、インフレのダメージは自国内では大幅に軽減される。いまユーロは、EUがアメリカと政治、経済的に対抗しようとする流れの中で、そういった経済的な強さを獲得しようと、国際基軸通貨を目指している。しかし、実態として、まだ基軸通貨と認知されていないという事が、ブハラで認知できた。参考に、2003年9月9日12時のレートを書いておく。1US$=973.83cym、1EURO=1059.03cym、1POUND=1535.54cym、10円=83.16CYM。貯蓄手段として重宝されているドルはともかく、ユーロやポンドや円の交換レートが書かれているという事は、この地域に西欧の人や日本人も多く観光に来ているということだろう。

両替のあと昼食をとった。昼食は、ラビハウズのそばで食べたが、100%ジュースが1800CYM、スープが600CYM、ピラフが800CYMと言った感じで、かなり高かった。味は、ピラフはまあまあだったが、ミモザ風サラダはかなりまずかった。

昼食を食べ終わった後、どうしてもNadir Divanbegi Medressaで売っていたチェスセットが欲しかったのでそのマドラサにいって35ドルでそれを買い2時ジャストにホテルに戻った。

そこで、ゼミ生が全員合流し、その後、みんなが行けなかった、クジャエフの家Fayzulla Khujayev House (National House)に車で行くことにした。かつて、ブハラは商業都市として栄えており、この博物館は、Fayzulla Khujayevの父親によって建てられたものだった。

クジャエフFayzulla Khujayevは、ウズベク人であり、ロシア帝国時代にはブルジョアだった人物である。この地域をソ連が支配するようになると、クジャエフは、ソ連と組んでロシア帝国時代に保護国であったブハラ汗国をボリシェビキが支配することを助けた。一時的に、ソ連の傀儡国家「ブハラ人民共和国」の大統領となり、それがソ連に併合されてからは、ウズベキスタン共産党の書記長をへて、ソ連ウズベク共和国議会議長となった。しかし、ウズベクの独自性を主張したため、最後はスターリンに疎まれ、1938年にモスクワで粛清された。

博物館の中は、ロシア語表記で説明されていた。19世紀のブハラの建築様式、生活様式や芸術の特徴などが色濃く残っており、内装は豪華で、19世紀の帝政ロシア支配下におけるブハラのブルジョアジーの生活様式を知るには、もってこいの所である。保存されているクジャエフの部屋は、やはりイスラミックな感じが前面にでている。イスラム風の文様の壁、色とりどりの衣装、絵画や生活道具にまじって、日本のこたつのようなものが展示されていた。こたつが日本固有のものでないことを知ってびっくりした。クジャエフが処刑される直前の家族写真など、クジャエフの生涯についての内容も触れられていた。ただ、まだ修復中といった感があり、見学の最後の部屋の壁は真っ白で何もなかった。

こうして、博物館を見学し終え、私達はサマルカンドを目指してブハラを後にした。

ヒバからブハラまで〜綿花農業〜

ブハラからサマルカンドに至る270kmの道の途中、遠くにはナヴォイの工業地帯が広がり、沿道には一面の綿花畑が広がっていた。その畑で、45歳のムヤサル(Muyassar)さんとその子供3人と出会い、その人達から話を聞くことができた。

畑は、一農家につき1haを政府から借りている。家族が10人以上になると2〜3ha借りられるようになるが、家族が10人以下になると土地は返還しなければならない。農家は、麦を作るか綿を作るかを選ぶ。ちなみに、このあたりの農業生産組合の管轄している180haのうち、100haは麦を栽培していて、80haは綿を栽培している。収穫、収入高は、年間1haにつき、一般的に綿は2t、麦は0.7tで、1kgあたり綿は100CYM、麦は50CYMの収入が得られるという。この農家では当然、もうかる綿を選び、栽培している。

綿はほとんどが政府に強制的に買い取られる。そのあと、この農家では、2tの年収穫高に対して100kgしか手元に残らなかったという。綿の政府買い取り価格は、昨年1kgあたり70CYMで、今年は80〜90CYMである。毎年綿価格は変動しているが、全体に上昇傾向にある。闇市場での綿価格は政府の買い取り価格より10〜12CYM高い。ちなみにこの農家は去年100万CYM売り上げたらしい。

金銭面の取引は、農協信用組合といった組織のパフタ(Pakhta)で行われる。これには、農業に従事する180人程が参加している。これは、災害が起きても被害が甚大にならないようにするための、保険の機能もあるという。しかし、私は、この話を聞いて、この信用組合の資金運用はどうしているのか疑問が残った。農家から集められた資金繰りの実態について、この農家の人は知ろうとしているのだろうか。 これでは、仮にこの資金が管理している者に不正に使用されてもわからず、肝心な時に資金がないという事態に陥る恐れがある。

このあたりの農地は、アラル海から遠いので、綿栽培にあたって、アラル海による塩害の影響を全く受けていない。綿の種子は政府から無料で配布され、綿作の器具は、農業生産組合を通じて集団で安く購入し、個人で所有する。綿の収穫は手で行われ、トラックなどの機械は、農機具センターから借りてくる。収穫は6ヶ月間に4回行われる。また、災害時には政府からの救済措置がなされ、種も化学肥料なども、随時無料で配布される。このあたりは、ソ連時代のコルフォーズと実質的にはほぼそのままだ。

綿作は家族経営で行われ、土地は合法的に代々子供に受け継がれていく。但しこれは、相続権といった法律上の権利が保障されているというわけではない(物権では決してない)。ただ、子供が受け継ぎたいと希望すれば、他の土地になじみのない人に土地をまかせるよりはまし、といった具合に慣行的に相続が行われるのだ。土地の所有権がない為、固定資産税はかかっておらず、政府の指示通りに生産、納税すれば大変過ごしやすい国であることに違いはない。しかし、作付け強制条件があり、自由市場に販売しようにも、販売の量が少ないか手続きの煩雑さから自由販売が活発でなく、ビジネスの発展や革新のインセンティブが起きない。

政府から借りている1haの農業地とは別に、この農家では2アールの土地をソ連時代の自留地のようにして持っており、家畜を牛4頭、羊4頭、鶏10頭を所有している。ここでとれた農産物は、自由市場で販売する。家に関しても土地をまた政府から借りており、2アールを6ヶ月につき2000CYMで借りている。

そして最後に、この農家の人は,このような経済状態で、現在の生活や政府にたいして満足していると語って、満面の笑顔をみせてくれた。

結局、独立してからのウズベキスタンの農業形態と、ソ連時代のコルホーズ(ソ連時代の集団農業)とのあいだには、大差がないといえる。事実、この生産組織の名前はウズベク語でJamor Khujalagi、ロシア語でKhorkhozである。要するに、ソ連時代の遺産を、ほぼそのまま利用しているのだ。これにより、現在のウズベキスタンでも、多くの農民は、最低限の生活ができている。このような社会主義の遺産の活用は、市場主義を導入していく過程で、大きな安全網の役割を果たし、社会の安定に貢献しているであろう。だが、それが行き過ぎると、競争意識の欠如、官僚腐敗への道をたどることになりかねない。ウズベキスタンのジレンマを、垣間見る思いがした。

車がサマルカンドの町に入ったのは、ちょうど夕暮れ時だった。街路には美しい照明がともり、レギスタン広場の前を通った時、ライトアップされた壮麗なマドラサ群に、思わず息を呑んだ。

(遠藤 徹)

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