■ コーカンド 2003 9.14


今日は、長かったウズベキスタン最後の日である。今日も天気は問題なしだ。 前日までの運転手とガイド氏は、別の客にキルギスとの国境で起こったトラブル処理に行かなくてはならないとのことで、今日は、旅行社が現地で車をチャーターし、その新しい運転手さんにお世話になった。とても明るくて、気さくな方だった。ただし、ガイド氏がおらず、運転手さんは英語が全く話せないので、われわれは片言のロシア語でやりとりしなくてはならない。ちょっと不安ではある。

二日間お世話になった金さんご一家にお礼を申し上げ、一緒に記念撮影をしてもらう。この二日間は、美味しいお米料理も食べられ、とてもリラックスした気分になれた。私には、ホテルよりもホームステイの方が合っているようだ。

8:30に出発する。最初に向かうのは、コーカンドである。コーカンドはフェルガナよりも西なので、行程はちょっと戻ることとなる。途中、道路は幅広い灌漑水路を横切り、水田地帯の中を走った。そこで車を止め、水田を見学した。稲はまだ青かったが、すでに稲穂は垂れていた。

10時過ぎに、われわれは、かつてコーカンド汗国の首都だった歴史都市、コーカンドに入った。

コーカンド汗国は、ウズベク族によって建設された。しだいに勢力をつけ、18世紀末葉には全フェルガナ盆地を統治し、汗国を名乗ることとなる。コーカンドが急激に繁栄したのは、清朝との交易によるところが大きい。清朝が禁輸政策を取ると、1830年、コーカンドは、カシュガルにまで勢力圏を広げ、清朝に対して強気の姿勢に出る。コーカンドの軍事力は強大で、コーカンド商人はコーカンドの庇護の下、ウイグル人の生活空間でもで有利に商売をすることができた。ロシアの攻勢が激しさを増すと、コーカンド汗国は、ブハラ軍による首都の攻撃や、さらには領内のキルギス遊牧民の反乱によって弱体化し、1876年ロシア帝国軍によって征服されてついに滅亡し、首都は徹底的に破壊されて、ここはロシア帝国の領土となった。(『中央ユーラシア史』山川出版社 参照)ウズベク、ロシア、中国という3つのフロンティアせめぎあいの場所が、このコーカンド汗国の版図だったのである。

コーカンドの王宮

まずわれわれが訪れたのは、1873年に建設された、コーカンドの王宮(Khan’s Palace)である。この王宮は、全体的には水色っぽく、表面には、イスラム的な幾何学模様が配置してあり、建物の上のほうに、アラビア文字的な文様が施されている。この王宮も、1876年のロシア帝国軍の攻撃によって、徹底的に破壊された。その後、修復され、1925年に博物館になったそうだ。しかし王宮の周りは修復されずに更地にされ、現在は公園となっている。他の2つの汗国の首都、ヒヴァと、 ブハラのように、一つの都市として遺跡が残っておらず、他に観光対象となりそうな遺跡はほとんど現存しないため、ウズベキスタンを訪問する観光客で、コーカンドまで足を伸ばす者は比較的少ない。

この王宮では、博物館の方が英語でガイドをしてくれた。この博物館には、コーカンド汗国で使用されていた、多くの調度品が展示してあった。これらは、コーカンド汗国がいかに交易によって栄えたかを示している。特に清朝との交易の影響は大きく、陶器のほか、「長勝神砲」と刻印された中国製の大砲もあり、中国経由で入ってきた、日本産の壷も展示してあった。その他、イラン、インド、アフガンや、ロシアなどから入ってきた多くの品物も展示されていた。民族衣装や装飾品も多く、スザンナと呼ばれる絨毯は、地区ごとに文様が異なるそうである。1960年代にソ連により、本格的に修復が始まったが、内装の装飾はロシア正教会で見られたような発色のきつい油性絵具で行われ、オリジナルのイメージと食い違っていたため、現在それを天然の絵具によって塗りなおしているところであった。

ジュマモスク

11:15分に王宮を離れ、われわれはジュマモスクJuma Mosqueに向かった。ジュマモスクは中央に大きなミナレットが立っていて、その周りを木彫りの柱が立ち並ぶモスクが取り囲んでいる。その装飾は細部まで手が込んであり、見事なものであった。このジュマモスクでは、最初に管理人のおばさんの方に一人US$1ドルと請求された。ゼミ生の何人かが払った後で、運転手さんが話をつけると、なぜかお金は払わなくて良くなった。既に払った分は戻ってこなかったが。このUS$1は、管理人のおばさんのお小遣いだったのかもしれない。運転手さんの計らいで、鍵がかかかって入れなかったミナレットにも登れることとなった。そこからは、樹木に覆われたコーカンドの街並みがとてもきれいに見えた。




ナルブタベイマドラサ

そこから少し行った所に、1799年に建設されたナルブタベイマドラサ Narbutabey Medresse があった。ソ連統治時代にはいったん閉鎖されたが、第二次世界大戦時のムスリム徴兵のための懐柔政策の一環として再開され、現在も神学校として機能している。ここでは、マドラサの正面にいたおじさんがガイドをしてくれることとなった。最初、モスクの中に案内してもらう。現在も機能しているモスクに非ムスリムであるわれわれが入るのは、普通ありえないことであり、とても貴重な機会である。さらに写真撮影もOKだという。 モスクは白地の壁に、落ち着いた色の絨毯が敷いてあり、とてもシンプルなものだった。

そのあと、なんと、ブハラのような土産物店ではなく、実際に機能しているマドラサの中を見学させてもらえることとなった。マドラサには中庭があり、それを取り囲むように小さな部屋がいくつも配置されている。われわれが行った時は、小学生くらいの子供たちがコーランを勉強していた。高校生くらいの少年もいた。たぶんイスラム教の他にも、いろいろな学問を勉強しているのだろう。ウズベキスタン政府はイスラム原理主義の台頭を恐れているために、国内の多くのマドラサを機能停止状態に置いている。しかし、そのなかで、コーカンドは、イスラム教の拠点都市となっている。イスラム教の熱烈な信者は、こうしたマドラサからつくりだされるのだろう。

ナルブタベイマドラサ周辺

マドラサの裏手は、地元民の墓地になっている。進んでいくと、周辺の林の中に青いドームが見えてきた。廃墟のようになった Modari Khan mausoleumは、1825年にコーカンドの汗(王)が母親の為に建造したお墓である。今まで見てきたイスラム建築に比べると規模は小さいが、細部まできれいに装飾されている。さらにそこから100mほど離れたところには、コーカンドの汗のお墓であるDakhma-i-Shokhonがあった。そのお墓も青のタイルで装飾されていて、とても美しい。

汗のお墓の見学を終えると、ガイドが一人あたり600スム(約72円)を請求してきた。まあこれだけいろいろ見学できて600スムは、安いほうだろう。こうして訪問者が、小さな案内サービスに心づけをすることは、決して豊かではない地元民の所得を補助し、また地元経済に貢献しているのだ。

このマドラサの周りは、小さなバザールのようになっていて、地元の人々が野菜や果物を売っていた。ここで運転手が、メロンをご馳走してくれた。その味は、今でも忘れられない。1個500スム(約60円)もしないメロンは、生涯食べたメロンの中で一番おいしかった。

出発する段になって、急に大音量のアザーンがスピーカーから流れ出した。アザーンとはモスクから流れるお祈りを呼びかける放送だ。時間は12:35である。周りにいた人々の多くがしゃがみこみ、じっとしている。アザーンが流れ終わると同時に、手を水を掬うような形にし、再び立ち上がった。とても貴重な経験ができた。中央アジアでアザーンが聞けたのは、コーカンドが初めてである。コーカンドはイスラム原理主義の中心地でもあり、イスラム教がそれほど形骸化していないのであろう。

コーカンドでの昼食

コーカンドの街のレストランで昼食を取る。ここでボルシチやナン、ビーフストロガノフを食べた。食事と一緒にとる飲み物として中央アジアで一般的なのは、チャイだろう。チャイとは紅茶のことであるが、中央アジアではとても安い価格でチャイが飲める。そしてこれが日本で飲むものとは比較にならないほどおいしい。硬水と軟水の違いなのかもしれないが、とにかくおいしかった。このレストランでお会計を済ませようとすると、1500スム(約180円)ほど多めに要求された。ただの計算間違いかもしれないが、このようなトラブルを避けるためにも、自分できちんと金額を確かめることが重要である。




ウズベキスタン−キルギスの国境への道のり

13:55、アンディジャンに向けて出発する。米作地帯を抜け、アンディジャンに近づくと一戸建ての民家が目立つようになってくる。 アンディジャンは、車の中から見た感じでは、大きなビルが立ち並んでいるというほどではないが、周辺の油田地帯の中心としての機能を果たす、結構活気のある街である。アンディジャンから国境へ向かう途中の道路沿いにも、小型の油井が立ち並んでいた。畑の中に点在するその機械は電気で動いていたが、稼動していないものも多く見られた。なぜ稼動していないのかはわからなかった。石油が枯渇したのだろうか、もしくは機械の老朽化が進んでいるのだろうか。

 国境へ向かう道路の周りには、綿花畑が広がっていた。国境が近くなるにつれて、民家が多くなってくる。そして、道路の先に、突然国境が現れた。ここが、西北端の国境カラカルパクスタンから足かけ9日間かけた、われわれのウズベキスタン縦断の終着点である。時間は、16:40であった。

この国境には、川のような明確な自然地理的な境界があるわけではない。もともと、この辺りは国境の向こう側のオシュも含めてウズベク人の生活空間であるが、それを政治的に分断しようと、スターリンによって人為的に引かれたものだ。それだからかどうか、国境では、きわめてたくさんの人と車が往来している。荷車を引く親子や自転車に乗った子供もいて、国境という感じがしない。迷彩服を着た軍人が銃を持って警備にあたっているが、それほどピリピリした感じはない。ただ、写真撮影は禁止である。地元の人々は、国境ゲートの手前でパスポートを見せ、ほとんどチェックもなく通過していく。国境だというのに両替所が無いというのが、ウズベキスタンでの経済統制の実情を表しているだろう。我々は出入国審査のためにパスポートをいったん渡した。パスポートチェックは15分ほどかかり、出国スタンプが押されたパスポートが戻ってきた。その後、国境ゲートの奥に進む。そこは税関で、申告書類を2枚書いて、再びパスポートと一緒に提出した。税関の雰囲気は悪くないのだが、他の外国人がいるわけでもないのに、仕事がとても遅い。30分たってもパスポートが戻ってこない。結局、1時間ほど待って、パスポートと税関の書類1枚が戻ってきた。

キルギス入国 オシュへ向かう

そのまま荷物の検査もなく、2度目のキルギスに入国した。キルギス側で再びパスポートを提出。キルギス側でも荷物チェックはなし、申告書記入も要求されず、口頭で麻薬、武器を持っていないか聞かれただけだった。国境係員は、日本国籍保有者はキルギス入国ビザが必要ないことを知らなかったが、説明すると理解してくれた、この国境を利用する日本人はとても少ないのかもしれない。日本人があまり来ないのは、キルギス南部が、日本国外務省による海外安全情報において、渡航延期検討、渡航是非検討の指定地区となっていることも影響しているだろうか。

15分ほどしてパスポートは戻ってきて、その後もう一度軽くチェックされた後、われわれは自由となった。ちょうど国境線のところで、ウズベク側からウズベキスタンの兵士が、「一緒に写真を撮ろう」などと女子学生をひきとめていた。だが、国境地帯は写真撮影禁止の規則であり、何か罠にはめられるといけないと思い、その場を去ることにした。

今からわれわれは、この外務省の「渡航の是非を検討して下さい」と外務省が主張している地域に立ち入るのである。この国境から中国新疆の国境まで、3日間同行することになっている、Asia Toursのガイドと落ち合い、車に乗った。

ウズベキスタンとキルギスとの時差は1時間だ。キルギス側に入るとすぐに両替所があった。両替レートは、キリル文字で下記のように表示してあった:

1USドル=42ソム

1ユーロ=45ソム

1ルーブル(ロシア)=13ソム

1スム(ウズベキスタン)=0.04ソム

1テンゲ(カザフスタン)=0.27ソム

オシュのゲストハウス

キルギス時間で20:00、ウズベキスタンから国境を越えて20〜30分程で、今夜我々が泊まるゲストハウスに到着した。

このゲストハウスは、普通の民家を改装し、ツーリスト向けに部屋を貸しているようだ。観光業の認定証のようなものが飾ってあったことから、この民宿ではビジネスマインドが発達しているのだろう。われわれのほかに、ドイツ人のツーリストが泊まっていた。二階建てのゲストハウスは、民家をそのまま流用して作られたもので、ベッド、ソファーや暖炉などがあり、かなりヨーロッパ風であった。

ゲストハウスにチェックインした後、外に一緒に夕食を食べに行くことにした。傍にあるRich Manはいかにも値段が高そうな名前であり、店の雰囲気からしても高級すぎる感じであったため、ゲストハウスから5分間ほどまっすぐ歩いた所にあるシシケバブの店に入った。そこでわれわれは、ナンとスープとシシケバブのつくねを注文した。ナンとスープはすぐに来たのだが、ケバブがくるのが異常に遅かった。やっときた時には時間がたちすぎて全員腹がいっぱいになってしまったので、1,2本しか食べられなかった。この時は誰も知らなかったのだが、このケバブのつくねが、翌日に悲劇を生むのだった。

ゼミ生とガイド氏の議論

午後9時半から、ガイド氏とキルギスの現在の状況について話し合いを持った。このガイドは、ジョージ・ソロスの援助によって設立された、ビシュケクのアメリカ大学で、経済学・経営学を学んでいるそうである。授業は英語で行われるそうだ。ガイドの顔つきは東洋人そのものだったが、英語がとてもうまく、その特技をいかしてガイドのアルバイトをやっているのだろう。

キルギスの主産業は農業と鉱業だ、というあたりからガイド氏は話を始めた。農業はGDPの中で38%という大きな割合を占めている。中でも牧畜が盛んであるが、現在は家畜が増えすぎて、飼料不足が起こっているという。鉱業では、自力で採掘する技術がないので、カナダに採掘権を売っている。観光産業では、イシク・クル湖にふれ、自然の景観を残すべきだと言っていた。ガイドの意見としては、将来の有望な産業として、観光業、そして羊毛や絹産業をあげていた。

キルギスは中央アジア諸国の中で、制度的には一番市場経済化が進み、西側を向いている優等生だと、ガイド氏は胸を張った。だが現実はどうなのであろうか。キルギスでは国営企業の3分の2が民営化している。しかしその民営化のプロセスに問題があるようだ。政府は国営企業をボンドという一種の証券にして、国民に無償で配ったのだが、一部の金持ちがそれを買い集め、国営企業を所有することになり、結果的に一部の人が利益を得るという状況が起こったそうだ。また、投資の面でも、20%という税金、そして減税・免税措置が無いということが海外からの投資のネックとなっているという。さらに、国民の意識の中に起業家精神が育っていないのが問題だという。バザールでは、人々は利潤を極大化しようとするのではなく、必要なだけのお金が得られたらすぐに店をたたんでしまうとガイド氏は悔しそうに語った。

ウズベキスタンとの関係についても話を伺った。オシュはウズベク族の割合が大きく、キルギス独立直後には、キルギスからの分離運動が起こった。さらに、水利用権やガス供給においても対立が存在しているという。ガイドがウズベキスタンのカリモフ大統領を「独裁者」と鋭く批判していたのが印象的だった。ソ連解体以前は1つの国だった旧ソ連共和国であるが、今では互いに外国となり、国ごとの対抗意識が生まれている。

さらに、独立後は国境管理はいっそう厳しくなって、旅行にはパスポートとビザが要る。キルギス人は、カザフスタンおよびアゼルバイジャンについてはビザが不要であるが、隣国ウズベキスタンならびにロシアに行く時は、ビザが必要ということだ。EUのように国家統合が進む地域もある一方で、旧ソ連のように、独立した国々が、国家の空間的な主権をますます強く主張するようになっている地域もある。この国境をめぐる複雑なありさまを知ることができた。

(小池 倫太郎)

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