■ フェルガナ 2003 9.13


金さん家 9.13

前夜は久しぶりに布団で眠ることができ、この日の目覚めは快適だった。前日我々の荷物を載せた中型バンが、峠の入り口にある検問所を通過できなかったため、ほとんどなにも持たないまま宿泊先である朝鮮族の金さん一家のお宅に到着し、荷物を案じて不安な夜をすごした。朝起きてみると、乗用車に積み替えて無事荷物は届いており一安心した。

われわれがフェルガナで2晩ホームステイでお世話になった金さんご一家は、スターリンがソ連を支配していた時代、この地に強制移住をさせられた朝鮮族の方々である。一夜明けて金さんのお宅をみると、野菜などが植えられた中庭を建物が取り囲み、面積は350平方メートルを超えると思われる、かなりの邸宅である。平屋の建物はだいぶ年期が入っているが、部屋の中はきれいにメンテナンスされていた。浴場の奥には、自家用のサウナまで設置されている。

中庭の畑に面したさわやかなバルコニーで、われわれはナン・サラミ・チーズ・チャイの簡単な朝食を済ませた。本日の最初の訪問先は、カブールフェルガナ社Kabool-Fergana Co.Ltdの紡績工場である。しかし、中型バンは以前到着しておらず、旅行社が現地でチャーターした車の使用となった。

Kabool-Fergana Co.Ltd

紡績工場に向かう途中、老朽化したソ連時代の工場群をいくつも通り過ぎ、かつてソ連時代に巨大な工業基地だったフェルガナ盆地の面影を垣間見た。既に創業を停止している工場もあるようだった。かつて労働者を運んで忙しく往復していたであろうトロリーバスが、今はもう廃止されて、壊れたままの架線を街路に空しくさらしている。

斜陽化した旧ソ連の工業都市のありさまを目のあたりにしつつ、紡績工場に20分ほどで到着した。

この会社は韓国資本の甲乙Kabool繊維とウズベキスタン資本の合弁紡績会社で、旧ソ連時代の国営工場を買収し、設備を更新して、現在も活発に操業している。なお、「カブル」とは、「甲乙」の韓国朝鮮語読みであり、アフガニスタンの首都とは何の関係もない。

われわれはまず、生産ラインを視察した。生産工程は主に、@原料の綿花を紡ぐ工程、A紡いだ綿糸を様々な製品に加工する工程、B完成した製品の品質を検査する工程、Cスチームを使って製品に付着したゴミを取り除く工程、D出荷用に梱包する工程、の五つに分かれている。

@の工程では、Trutzschler Dustex というドイツメーカーの紡績機が使われ、Aの工程では豊田製紡績機の他、韓国製の利化工業株式会社、Muratecという日本製の機械も使用されていた。綿糸の太さ・品質で分けられた12種類の製品を出荷しているとのことであり、恐らく製品別に紡績機を使い分けているのであろう。工場マネジャーの朴さんの話によると、60%が主として丸紅の仲介で購入した新品の機械、40%が韓国から持ってきた中古機械で、ソ連時代からの紡績機はすべて廃棄されたという。また、Bの工程では、スイスのUster、Zellweger、日本のシキボウの検査機器が使われていた。工場では毎年25,000トンの綿花を加工しており、一日の製品出荷量は5.5トンである。45.36キロのダンボールを1200箱出荷していることになる。工場は24時間フル稼働で、従業員の勤務時間は8時間の三つのシフトになっていた。生産ラインをすべてを見ることはできなかったが、全部で10万錘あるとのことである。工場内は機械音で大変うるさく、会話が成り立たないほどだったが、施設は清潔で、工場内の空気は換気が行き届いて粉塵もほとんどなく、生産ラインをはじめ備品に至るまできちんと整理されており、管理が行き届いている印象を受けた。

生産ラインを見学させていただいた後、韓国人マネジャーである総務部門の朴さんと輸出入部門の?さんに、直接お話を伺った。

この工場は、もともと、70年前に完成した「フェルガナ繊維コンビナート」というソ連の国営工場だった。その当時は全ソ連でも屈指の優秀な紡績工場だったそうだ。だが、老朽化が進み、1999年には工場全体の20%しか操業していなかった。この年に、丸紅日本国際協力銀行(JBIC)、韓国企業の甲乙繊維で話し合いがもたれ、2001年にこの工場を買収する形で進出が実現した。

この事業は、もともと日本の商社である丸紅がイニシアティヴをとったプロジェクトである。当初の予定では日本の繊維メーカーが進出する予定だったが、日本企業の海外進出に対する弱腰に遭った。その後、トルコ資本が進出を思案していたそうだが、その計画内容は工場の建設と設備設置にとどまり、工場経営そのものは計画に盛り込まれなかった。加工の高度化による産業活性化という目標を資本主義企業のノウハウですばやく実現することを狙うウズベキスタン政府は、そのようなトルコ資本の消極的姿勢を好まなかった。こうして、最終的に韓国企業である甲乙繊維の進出が決定された。それに対し、甲乙繊維は、工場の改修に留まらず積極的に市場にハンズオンする方針で、これがウズベキスタン政府の思惑と合致したものと考えられる。この工場は、BOT方式の運営で、今後10年から15年は甲乙社主導で経営が行われ、その後ウズベキスタン側に払い下げられることとなり、最終的にウズベキスタンの資産となる。

このような大規模な進出を実現させる原動力は、ひとえに、韓国企業の国際展開へと燃えるバイタリティだ。甲乙繊維グループの工場はフェルガナだけではなく、首都タシケントにも2箇所操業している。さらに、甲乙タジク社が、タジキスタン領フェルガナ盆地にあるホジャンKhojandに工場を設けている。その積極的な進出意欲には、目を見張るものがある。

日本の商社が新しい経済機会の開拓に熱心なのは当たり前といってしまえばそれまでだが、結局、いくら日本の商社が笛を吹いても、それにつれて踊る日本企業はない。日本企業は、未知の、もしくはあまり日本企業が進出していない海外立地に消極的となってしまっていて、韓国企業に事業を任せないと日本商社のプロジェクトが成り立たないというお粗末な状態になっているのである。

甲乙繊維のウズベキスタン進出に際し必要な118,084,285米ドルの投資のうち、71,799,285ドルを、その85%についてウズベク政府の信用保証のもとに日本国際協力銀行が融資した。日本国際協力銀行の融資利率は、当初2年据え置き、7年で4.5%である。また地元の金融機関は、1千万ドルのスム建て融資(利率は名目30%だが、国内インフレのため、実質利率は10%前後)を供与した。さらに、甲乙繊維のソウル本社と、その子会社である甲乙ウズベク社も、それぞれ2百万ドルの信用を供与した。さらに、ウズベク軽工業協会Uzbek Light Industry Association(前々日JETROで伺った、社会主義時代の政府軽工業省が姿を変えた組織)が、工場の建物や土地など1300万米ドル相当の現物出資を行っている。建物の外構はソ連時代のものを活用し、内装を作り直した。

甲乙フェルガナ工場の出資比率データはこちらから

今後、設備投資等が行われる際、同企業にとって海外金融機関からの低利融資が非常に重要になってくるだろう。タシケントの項で触れたように、ウズベキスタンの金融システムはツーステップファイナンスという形態をとっている。商業銀行は総じて信用が低く個人預金を集められないので、海外の銀行(欧州復興開発銀行世界銀行など)から借入金を受け、これを企業向けの貸出金に当てている。よって、地元の金融機関は、海外金融機関からの借入金よりも高い利率で貸出せざるをえない。それゆえ、企業金融にとっては、地元の金融機関の高い利率よりも、海外金融機関が直接提供する低利融資の方が魅力的なのだ。

工場で提供してくださった資料である表1を見るとわかるように、ウズベキスタンはここ数年で少しずつ綿花を加工して輸出するという構造にシフトしていることがわかる。1999年にたった10%だった綿花加工は、現在30%に伸びてきている。全体としては国内で300万トンの綿花生産があり、そのうち100万トンが綿繊維に加工されているそうだ。これは韓国企業を始めとする先進国の技術移転が進んでいる証拠と言えよう。工場内には、"We have to create a powerful and light textile industry. Just like other industrially developed countries to sell finished goods, not cotton"(我々は綿花ではなく加工された製品を供給するため、他の産業発展国同様、強力な繊維軽工業を創造しなければならない)というウズベキスタン大統領カリモフのスローガンがひときわ目に付いた。英語で表記されていたので、もしかしたら外国人視察団向けのプロパガンダかもしれないが、ここからも、ウズベキスタン政府が原材料の輸出ではなく、将来的に加工綿製品をもって国際市場で競争していくという明確な方針がわかる。現在のところGDPに占める原材料生産産業は50%〜60%、加工産業は30%〜40%となっており、これを発展国並に反転させることがウズベキスタンの今後の課題といえるであろう。中央アジア諸国の産業構造を詳細に記した表を頂いたので、是非こちらから参照していただきたい。

表1 1999 2000
綿花 90% 70%
加工綿糸 10% 30%

この工場で生産した綿製品の輸出先は、95%がヨーロッパ(特にベルギーとスペイン)、5%が韓国向けである。経済成長が進む近隣の大市場として中国が考えられるが、不思議なことに中国には全く輸出していない。これは、中国国内において既に綿花生産量が大きく、また中国国内で加工産業が確立しており、ウズベキスタン製の綿製品には参入の余地がないことが予想される。同様にインドも市場として大規模だが、そこでもやはり綿花加工が国内産業として確立している上、製品の輸送ルートが不安定なことも輸出先として挙げられていない理由だろう。

ウズベキスタンは、二重の内陸国と呼ばれるが、フェルガナ盆地に大規模な工場が配置されたソ連時代に鉄道輸送インフラが整備されていたので、ヨーロッパ方面への輸送条件は、考えられているほど悪くない。主な輸送ルートとしては、@サンクトペテルブルク港まで鉄道、その後バルト海を経由する、Aトラック輸送・海上輸送を両方用いるロシアの黒海に面するノボロシースクNovorossiysk港経由、がある。@ルートが輸送量の80%を占め、主要陸揚げ地のアントワープへは、7日で輸送が可能だという。今後、加工輸出が盛んになる上で、ヨーロッパ市場向けのいっそう高速で大容量の輸送ルート確保が重要課題となってくるであろう。この意味で、ウズベキスタンは、EU経済の最外縁に位置するともいえる。

甲乙繊維がウズベキスタンに進出した立地要因として?さんが挙げたのは、ウズベキスタン政府の強力な後押しと、豊富な地元産の綿花という原料の存在であった。税関を通過するのに、通常ならば3日かかるが、税関吏の知り合いの関係で手続きし、2時間で済む便宜が図られているそうだ。だがそれ以外に、この工場立地を契機に、欧州市場に進出をめざそうとする戦略も読みとれる。ただし、近隣中央アジア諸国での市場創造とシェア確保も、今後の目標として提起されるべきであろう。

現在の経営状態は、損益分岐点あたりということで、決して目覚しく儲かっているわけではないようだ。だが、甲乙繊維系の工場では、ウズベキスタン全体で、33人の韓国人(13人がフェルガナ、20人がタシケント)が管理職として勤務しており、その他の労働者は現地人である。フェルガナ工場では2400人の従業員が雇用され、家族等を含めれば20,000人以上がこの工場に関与しているということだった。この規模を考えると、如何にこの工場が、旧国営工場の操業規模縮小で衰退する地元経済の復興に貢献しているかがわかる。

ウズベキスタンの甲乙繊維系三工場の合計売上は1億ドル、その20%を加工綿製品、60%を原材料としての綿糸が占め、その三工場の生産高は、ウズベキスタン国内の二次産業の25〜30%を占めている、と?さんは豪語された。今後、売上を伸ばし、加工の高度化というウズベキスタン経済の目標に貢献するための戦略としては、利益率の低い綿糸中心の生産から、利益率の高い染色綿糸や綿製衣類中心の生産へとシフトすることが考えられる。衣類は綿糸の約3倍の価格で売れる、と?さんは強調された。しかし現実的な問題として、すでに綿花栽培の灌漑に大量の水利を充ててきたウズベキスタンでは、アラル海の縮小にも現れているようにいまや水不足が問題であり、染色に多くの水を使用できない。また、廉価な輸入衣類などの存在が壁となっている。このため、実現はなかなか厳しいとの認識が工場側にはあるようだ。

もう一つの、この韓国企業の立地要因として、低い労働費を挙げるべきであろう。従業員の平均月給はおよそ25,000スムである。名目は60ドルだが、30ドルが社会保障費や税金の支払いに回され、手取りは30ドル程度となる。しかも、社会主義時代の正の遺産として、労働者の教育水準は高い。残念ながら工場労働者に直接労働条件等を聞く機会はなかったが、全体を見る限り労働環境は清潔で、われわれが工場を後にするときには芝生で昼食をとる労働者も見え、シフトも守られているようだった。いわゆる苦汗工場の類の問題は起こっているように思えず、この甲乙繊維の進出は、今後の海外企業のウズベキスタン参入に対しても、大きな示唆を与えるものだと感じた。

甲乙繊維のみならず、大宇やLGの進出も、旧ソ連領中央アジア共和国では大変目覚しく、韓国企業の海外進出への積極性は、特筆すべきと感じざるをえない。韓国企業がウズベキスタンの経済発展と人々の生活向上に一役担っていることは、疑いのない事実である。

博物館と市内の様子

工場見学後、市内を移動し、韓国料理を食べさせてくれるというテラスのようになった野外レストランで、ゆっくり昼食をとった。そこでは、そば、ピラフ、ボルシチを食べることができた。そばは、日本のように麺になっているのではなく、細かい粒状に刻まれていた。明らかに韓国料理ではなかったものの、大変おいしかった。

その後、フェルガナ博物館を視察した。フェルガナは、古くは漢代に張騫が汗血馬を求めて派遣された地として知られ、19世紀後半までコーカンド汗国の版図であった。1876年、グレートゲームの過程でコーカンド汗国がロシア帝国によって征服されると、ロシア帝国はこの地に、計画的に都市構造が整備された植民都市を築いた。当時は、フェルガナ盆地を支配するロシア帝国の砦として機能を持っていた。博物館には、19世紀後半から20世紀前半の様子が収められた写真が数多く展示されており、今では見ることのできない、コーカンドのイスラム風の街並みを確認できた。また、朝鮮に関する展示が行われており、フェルガナにおける朝鮮系住民の経済貢献に対する感謝と親しさがにじんでいた。

その後、やっと検問所を越えてフェルガナ盆地にたどり着いたわれわれのバンに乗り込み、市内を視察した。フェルガナの都市構造は、サマルカンドやタシケントと同様、都心を軸とした放射状街路になっている。扇の要に当たる部分には、ロシア帝国時代には砦があり、その壁が、一部分今でも残っている。高さは約3メートルくらいだった。脇が崩れかかっていたが、しっかりとした土作りになっており、上まで登ることができた。

その後、帝政ロシア時代から残る建造物を求めて、市内中心部に位置する公園を視察した。劇場などいくつかあったが、そばまで行くと、幸運にもそこに隣接する競技場で、サッカーの試合が開始されようとしている。警備員のご好意により、数分間だけ試合前の様子を見ることができた。ウズベキスタンではサッカーのプロリーグがあり、我々が居合わせた試合は前年度の1位と2位の対戦だということだった。観客は試合前というのに大変熱狂的で、ウズベキスタンでのサッカー人気をうかがわせた。プロリーグがあるという事実に大変驚いたので、ガイドに聞いてみたところ、かつては職業ごとのアマチュアチームが試合をしていたものが、近年プロリーグとして組織されたのだそうだ。トップリーグの下には二部リーグも存在し、サッカー先進国並みの組織形態がとられている。大衆娯楽としてのプロスポーツが根付きつつあるウズベキスタンの現状に、改めて驚かされた。公園には、自由商業なのであろう、立ち売りの屋台がたくさんならんでおり、アイスクリームから学校の教科書まで売っている。勉強意欲に燃えるゼミテンの何人かは、ロシア語やウズベク地理の教科書を入手した。アイスクリームはわずか100ソムで、大変に美味だった。

夕食

この日の夕食は、ホストファミリーのご好意により、ウズベク郷土料理のプロフと朝鮮料理を食べさせていただけることとなった。久しぶりに、暖かいご飯と味噌汁を食べることができて懐かしかった。お二人とも60歳を越え、ソ連、そしてウズベキスタンでの生活が長いため、母国語の朝鮮語のほか、ロシア語・ウズベク語を操っていた。

食事をしながら、金さんは、旧ソ連時代に行われた強制移住の経験についてについて語ってくださった。

旧ソ連時代、スターリン政権の下で、当時の日本とドイツにかかわった敵性民族を内陸部に強制移住させる民族抑圧政策が大規模に行われた。ヴォルガ地域に生活していたドイツ人、あるいはソ連極東地区で生活していた朝鮮人は強制移住の対象となって、敵国と通じにくいと考えられた内陸の中央アジアへと追いやられた。その被害者が、金さん夫婦なのである。

金さんの父母は朝鮮半島北部で生まれたが、日本が韓国を併合した1910年、農村の飢饉から逃れ、家族の生計を支えるため、職を求めて、ロシア帝国のハバロフスクへ移住し、そこで金さん(旦那さんの方)が生まれた。家族の別の一部は中国へ、また他の一部は朝鮮半島南部へと、散り散りに移民したのだという。

1937年、当時のソ連と日本の植民地であった朝鮮との間の移動に障壁が設けられ、それと同じ年に、金さんご夫婦は、スターリンが支配するソ連政府の命令により、ハバロフスクを発って、ソ連ウズベク共和国に移住させられた。

奥さんの父母は朝鮮半島からロシア帝国の沿海州に移民し、奥さんは沿海州で生まれ、同じころに中央アジアに強制移住させられた。両人とも朝鮮半島生まれではないのに驚いた。

奥さんは、戦後、南樺太をソ連が支配するようになると、敗戦時に日本が南樺太に置き去りにした朝鮮半島出身者のための学校教師として、1951年に野田(Чехов, Chjekhov チェーホフ)に派遣された。だがその後、多くの朝鮮人が北朝鮮に帰還し、65年に朝鮮学校が閉鎖されると、ウズベク共和国に戻ってきた。

ウズベキスタンツーリズムの将来

金さんご夫妻が居間に戻った後、ウズベキスタンでずっとお世話になったガイドに、これからのウズベキスタン観光産業の発展戦略について、彼自身の見解を聞いてみた。彼は、政府は他の産業と同様観光産業にも大きな関心を払い、観光地としてのウズベキスタンを整備するために、ヴィザの規制を緩和すべきであること、観光のインフラを整備すべきであること、そして、開発に際して投資される海外資本が首都タシケントや一部の著名観光地に集中している現状を改善し投資を国内にバランスよく分散する必要があること、などを指摘した。ウズベキスタンは、大衆向けの「いわゆる観光地」を目指すのではなく、エコツーリスト・マスツーリストどちらも効用を得られるような、バランスのよい観光開発を目指さなければならない、ということである。海外からのツーリズム投資が効率よく国内に分散されるためにも、人々の意識を変え、各地域で積極的な誘致政策を実施することが必要となるものと思われる。

(渡辺 大介)

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