サマルカンドSamarkandは、「マラカンダ」という名で、紀元前6世紀ごろからソグド人のオアシス都市として栄えていたといわれている。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王が、紀元7世紀には玄奘三蔵法師が、シルクロードの要所として発展していたこの街を訪れ、街の美しさを讃えている。だが1220年、チンギス汗によって街は徹底的に破壊されてしまった。この街は、現在のアフラシャブの丘にあたる。
それから約150年後の14世紀後半、この破壊された街の西南に、ティムールが現在のサマルカンドを造り、ティムール帝国の首都とした。現在見られる建築物はそれから現在にいたるおよそ600年の間につくられたものである。ティムール帝国がヒヴァ、ブハラ、コーカンドの三つの汗国に分裂後、サマルカンドはコーカンドの版図の一部になり、19世紀後半になって、コーカンドはロシア帝国に征服された。(コーカンドの欄を参照)
現在のサマルカンドは、大きく2つの部分に分かれている。サマルカンドで歴史的遺産が残っている部分は、ティムールが建設した旧市街である。そして、ロシア帝国時代に、西南に隣接して都市計画がなされ、新市街が建設された。新市街は、もとレーニン像が建ち、現在はティムール像になった場所を中心に、半円に放射状の構造をもつ計画都市となっている。
旧市街にあるわれわれが泊まった宿、Timur The Greatから歩いて約10分、この街でもっとも有名なレギスタン広場がある。
レギスタン広場は三つのマドラサ(神学校)から成り、広場の入り口から見て左から順に、Ulughbek Medressa(1420年)、Tilla-Kari Medressa(1660年),Sher Dor Medressa(1636年)である。入場料2400スム(約288円)を払ってレギスタン広場の中へ。
朝9時だからかあまり人はいなかった。だが、ここまでくるとさすが、まっ先に日本人観光客の群れに出会った。また、キルギスでよく見かけた黒白のフェルト帽子をかぶったキルギスの長老5〜6人の集団がいた。
マドラサの中に入ると、予想通り、中には土産物を売っている人たちがたくさんいた。マドラサの部屋の中が見たいと思っても、そこでは土産売りが待ち構えているのでなかなか入れない。ちょっとからまれる覚悟を決めて入ってみると、少し頭をかがめないと入れないほどに小さい入り口に比べ、天井がとても高い。色は白で、けっこうきれいである。中はかなり涼しく、ひんやりとしていた。冷房いらずだ。
その後、広場の中をうろうろと歩いていると、ひまそうな警官に英語で話しかけられた。初めは「一人で来たのか」とか「今までにどこを観光したか」とかいう話だったが、そのうち「ミナレットに登れるけど、登ってみないか?」と言われた。水岡先生や他のゼミテンもやはり広場内をあるいていると警官に同じことを言われたという。私はことわったが、先生は3000スム(約360円)を1500スム(約180円)にまけさせて登った。
ミナレットへの入り口は、土産物屋に売り物のようにかけてあるカーペットをめくるとあった。中は暗いが、用意のいいことに、警官がちゃんと懐中電灯を持っている。山のガレ場のように崩れた階段には鉄ばしごがかけてあり、それを登っていくと頂上に着く。頂上には柵が無く、風が吹くと揺れて振り落とされる感じがして、立ち上がるのが怖かった。この警官は、警官の正規の収入だけでは生活に不十分なので、この場所を管理しているという立場を利用して、普通は入れない場所に観光客を入れてポケットマネーを得、家計の足しにしているのであろう。
広場をでてタシケント通りを北進していくと、途中でガイド志望という男の人に話しかけられた。サマルカンド外語大ガイド学科で現在日本語ガイドの勉強中だという。「ガイドをさせてください」と言われ。最初は無視していたが、案内してもらうのも悪くはないかと思い直し、「眠り薬とか怖いからな…一緒に食べには行かんぞ」と心に決めつつ、ガイドしてもらうことにした。名はアルフ。日本語を勉強し始めてまだ半年というが、ずいぶん日本語が堪能だ。また英語も堪能であった。ガイドの仕事がしたいが、サマルカンドには日本語ガイドがたくさんいて、このくらいじゃまだ雇ってもらえないという。だがアルフは、他のところなら十分ガイドになれるレベルである。そう思って歩きながら、周りを歩いている日本語ガイドを見ていると、たしかにサマルカンドのガイドのレベルはかなり高い。どの人も言葉につまることがなく、文法もほぼ正確で、たまに悩む時でも「えーっと‥」「うーんと」などと言い、日本人観光客とガイドが日本人同士で話すように話している。サマルカンドには日本人観光客も相当多いが、ガイドも相当多く、この国では珍しくきびしい競争になっているようだ。
レギスタン広場を出て約10分、きれいな並木の遊歩道として整備されたタシケント通りを歩いて、Bibi-Khanym Mosqueに到着。私は入場料を1900スム(約228円)払って中に入る。ちなみにサマルカンド住人は200スム(約24円)、地元ガイドは無料であった。Bibi-Khanymとは、ティムールの奥さんの名前である。1897年の地震のあと、建物の内部はあまり修復されなかったらしく、外見は修復してあったが中は手つかずの状態で、タイルはほとんどはげていた。また壁にヒビが入っていて崩れかけていたり、大きなクモの巣があったり、カラスの巣があったりした。モスクの中心には、コーランを置く小さな机を大きく、石でかたどったものがあった。アルフ曰く「夢のことを考えながら三回周りを回ったら、その夢がかなうといわれている」そうだ。これは、この後オシュでも見られたように、イスラム以前のシャーマニズムの影響であろう。
その後となりのバザールへ。タシケント通りの西側は主に食品、東側は主に石鹸や文具などの生活雑貨と服・靴・布を扱っていた。女性の着ているゆったりとしたワンピースはほとんどが自分で布を買ってきてつくったものであり、既製品はほとんど売っていない。既製服は西洋風のいわゆる「洋服」のみである。こんなに観光地のどまんなかにあるにもかかわらず、東側に日本人観光客はほとんどいなかった。西側にはまばらにいたものの、それでもやはり遺跡などで見かけた観光客の数を考えると、かなり少なかったといえる。アルフは、「日本人はほとんどツアーでくるが、ツアーではあまりバザールには来ない。みんなもっと高い店で食事をして高い土産屋に連れて行かれて高い土産を買って帰る」と言う。バザールは、地元の人でごったがえしていた。値段も、観光地用ではなくふつうの地元民用で、特に東側ではバザールの店主たちが英語も日本語もひとことも話せないことが多く、意外であった。わたしは布屋のおばちゃんに、「キルギス人か?」と言われた。私はここで寝るときに床に敷く、横の長さ約140cmの布(じゅうたんではない)を購入。1m当り1500スム(約180円)と1000スム(約120円)であった。
その後、少し歩いてShahr−i−Zindahへ行った。墓地のなかにあった。はじめに長い階段があって、そこを登りきると細めの一本道が奥に続き、そのまわりに小さな廟があり、廟の中には長方形を二つ重ねたような白いコンクリート製の墓がいくつかある、という構造になっている。アルフは、「行きと帰りで階段の数を数えて、同じだったら夢が叶う」という言い伝えがある、と言った。入場料は、1900スム(約228円)。やはり地元住民は200スム(約24円)、地元ガイドは無料である。日本人、また欧米人観光客が非常に多かったが、お祈りをしているウズベク人の姿もかなり見られた。祈りを唱えていたのはどこも男の人だった。誰かが祈りを唱え始めると、周りの人たちは、男も女も、手で水をすくうような形にして胸の前へ持ってきて祈っていた。これは、ゼミテンの一人・バングラデシュ人のカマルさんに、後日日本で聞いたところによると、一日五回のお祈りのそれぞれ後に行う、モナザという祈りだそうだ。また、廟の内部の壁が修復中であるものが多かった。真っ白な壁に黒でデザインが描いてある姿は、修復されたものとも手付かずのものとも違う美しさであった。ちなみにモザイクには3種類あり、@前に記した修復中の壁のように壁に直接文様が描かれているタイプ、A文様が描かれたタイルを壁にはめているタイプ、B各々単色のタイルを壁にはめこんで文様を描いているタイプ、であった。
その後アルフにお礼を言って、軽くチップを渡し、ゼミの集合場所に戻った。チップを渡そうとしたら「チップはいらないです」と言われたが、チップを渡すだけの価値はあったと思った。日本に帰って色々調べてみると、サマルカンドで私と同様声をかけられてガイドをしてもらったという話がかなり見つかった。サマルカンドでは、ガイドや通訳を本職としたい人は、最初は街のガイドをして語学の練習をし、能力を高める、というのは珍しいことではないようだ。外国人観光客の多さと、それ以上のガイド・通訳志望の人の多さによる競争の激しさからなせることである。
午後は、市街地中心部から離れた場所を、ゼミテン皆で見学した。まず、車に乗って、Shakhi Zinda Ensembleへ向かった。やはり入場料1900スム(約228円)。地元ガイド以外はガイドでも入場料をいくらか払わないといけないらしく、タシケント在住の我々のガイドは中に入らなかった。構造は上のShahr-i-Zindahと同じであった。一番は奥の廟は、モハメッドのいとこの墓ということだったが、長方形の白い標準的な墓であった。前のところよりは少なかったが、やはりここでもお祈りをしている人たちがいた。
その後、ティムールの墓のあるGur Emir Mausoleumへ向かった。門をくぐると庭園があり、バラがたくさん植えてある。ミナレットの柄が文字みたいに見えた。庭園までは無料だが、建物の中に入るには、入場料が1900スム(約228円)必要となる。外観はこれまで見てきたものに比べるときれいな修復がされておらず、地味な色合いだったが、中に入ると、赤いじゅうたんが敷いてあり、重厚な雰囲気である。ティムールとその息子たちの墓(全部で9墓)は、一番奥の部屋にあった。ちなみに、ティムールの墓が一番大きいわけではなかった。天井には豪華なシャンデリアがあり、壁の模様も色合いも修復具合も、これまでに見たなかでいちばん豪華であった。その保存状態は、ウズベキスタンが、ティムールという人物にどのような位置を与えているか、示唆しているようにも思われた。
そこから5分くらい歩いて、ティムール像を見に行った。像は、ロシア帝国時代に計画的に建設された新市街部分のかなめに建っている。像のある場所からまっすぐ、中央分離帯が細長い緑の公園状の幅広い「大学通りUniversiteti」が南西に向かい、他の主要街路は、この広場を中心に放射状に広がっていた。とっても大きなティムールは、足に肘をたてて座っていて、遠くを見ているようだが、どこか優しそうな顔つきであった。
ここには、ソ連時代にレーニン像が建っていたという。独立後、レーニン像からティムール像に換えられたのだ。同様の例はタシケントでも見られたが、ウズベキスタン・カリモフ大統領が、国の英雄であり、アイデンティティの象徴として、ティムールを讃えているようであった。ティムールの覇権主義が、カリモフ大統領の思想、そして行動に合致するのだろう。自分自身をティムールに見立てることによって、その独裁体制を正当化かつ強化しようとしているのであろうか……だが、皮肉にもティムールは外国人で、彼の帝国を滅ぼしたのはウズベク人である。
われわれが像を見ていると、リボンでラッピングされた車がやってきて、そこから白いウエディングドレスを着た花嫁と黒のスーツを着た花婿が登場、タクシーに乗った親族や友達も入り、われわれに「どけ!」といわんばかりに、ティムール像の前で記念写真を撮り始めた。『地球の歩き方』によると、結婚式のときには花婿と花嫁の思い出の場所で写真を撮るのだそうだ。またこの日、ティムール像の正面から見て道路の左の建物にマレーシア国王が来ていたらしく、黒いスーツを着た人の人だかりができていた。ブハラでもマレーシア国王を見かけたが、どうやらわれわれと彼は縁があるらしい(笑)
その後また車に乗って高台を登り、Ulughbek 天文台へ行った。Ulughbekは、ティムールの孫で、統治者と同時に天文学者として名の知れた人である。この時代のイスラムの学問は、数学や天文学など自然科学の分野で、特に西洋より進んでいた。Ulughbekは、とりわけそれに貢献した人物である。入場料1900スム(約228円)払って中へ。ここには、月の光を使って一年の長さをはかる装置があった。(もとの装置の一部のみ修復されていてそこだけ見ることができる。)この装置を使って計測された一年の長さは、365日6時間10分で、現在の計算と1分以内の誤差しかない。また小さな博物館があり、中世の絵や古代地球儀・物理学のための機械などが展示してあった。月は夜にしか見えないので実際どんな感じで測るのかわからないのが残念だが、よく修復されているので、理論を学ぶ上では今でも使えそうなほどだと感じた。
サマルカンドでは、レギスタン広場のような、著名観光施設以外で観光客をみることが少なかった。これは、サマルカンドにツアーで訪れる人が多いからだと考えられる。サマルカンドで出会った主な観光客には、日本人の中高年とヨーロッパ人の中高年がいたが、いずれもツアー客が多かった。日本人、ヨーロッパ人のバックパッカーもいるが、ツアー客に比べると、少数である。前述したとおり、ツアー客は、バザールには行かず、みんなもっと高い店で食事をし、高い土産を買って帰るということだ。
ではいったい、これらの観光客は何を見てサマルカンドから帰っていくのであろうか。遺跡と観光客めあての店だけだろうか。それで観光客たちは、どんな印象を抱いて帰っていくのであろうか。また、地元住民を見ずに「文化」といわれるものだけを見て帰る、それで観光客と地元住民の間に微妙な誤解は生じないのであろうか。また、バックパッカーであっても、ちょっとだけ地元民の住宅地区に行って、地元民の「観光客を見るまなざし」に気づかず、ただ「地元の人たちは私に明るく声をかけてきて私を受け入れてくれた。とても陽気ないい人たちだ!」といった感想を抱いて帰るのも、地元民と観光客の間に誤解が生じているといえるのではないだろうか。もっとも、観光客があまり住民の生活に入りこんでいないため、このような誤解が、地元の人々からの反感をかうような接触に展開してゆくことは少ない。
一方、経済的には、外国語を学んでガイドをするなどで所得を手にする地元民も多く、土産物店や民宿、観光客用レストランなども目立ち、地元経済もかなり観光によって潤っている。
また、街中のイルミネーションや遺跡の前にある駐車場など、観光インフラも整備されていた。政府もサマルカンドの観光事業に相当力を入れているようだ。遺跡のあるこの都市には、観光客だけでなく地元住民もいて、遺跡のもつ歴史や美しさを共有している。
結果としては、遺跡を媒介として、住民と観光客との双方に気持ちのよい相互依存ができていると感じた。だからこそ、サマルカンドの人々は観光客に親切なのであろう。
こう考えると、サマルカンドは、観光都市としてかなり成熟しているといえるだろう。
われわれは、サマルカンドを出てタシケントへと向かった。途中、道の両側がまるで森のように深く植林されて、まわりの景色が見えないところが続いた。片側につき木が6列くらい植林されている。その奥はどうも畑や放牧地のようであったが、この植林は何だったのだろうか? 可能性としては、@防砂林 A国として見せたくないものが奥にある が考えられる。ソ連時代のAの名残なのかもしれない。先生の話によると、モスクワの近くでも、こういったことがあったという。鉄道沿線に木が森のように分厚く植えてあり、車内から周りの景色が全然見えなかったのだそうだ。
しばらくいくと、分岐点らしきものがあった。道路の真正面にコンクリートブロックが積み重ねてあって、直進方向が通行止めとなり、右の道にしか進めないようになっている。
サマルカンドとタシケントはもともと直線の片側2車線の幹線道路で結ばれていたが、ソ連が崩壊して各国が独立してからは、道の一部が、楔のように食い込むカザフスタン領であることが大きな障害となってしまったのだ。カザフスタン政府は、ウズベキスタンの国内交通が、その領土の一部を通過することを認めない。そのため、ウズベキスタン政府は、ウズベキスタン領内だけを通って行けるように、以前のわき道を使って、タシケント方面への幹線交通を迂回させるようにルートを変更せざるを得なくなった。この分岐点は、このわき道の分岐点なのである。ブロックが積み重ねてあるほうがもとのカザフスタンを横切る道であり、今は通れなくなっている。
またしばらくいくと、今度は大きな、われわれからすると合流点にさしかかった。これも、このわき道とソ連時代の幹線道路の分岐点である。見ていると、カザフスタン領側へ行く車は少なく、たいがいはウズベキスタン側へ行く。ちなみにわれわれがカザフ領を通ってタシケントへ行こうとした場合、ヴィザが必要となる。このように、複雑に込み入ったソ連共和国の境界線をそのままにして各共和国が独立したことは、交通の障害という新たな問題を作り出した。このような状況は他の場所にも多数ある。独立の負の側面と言えるであろう。
またしばらく行くと、車はシルダリア川を越えた。シルダリア川はアムダリア川に次いで中央アジアで2番目に大きい川だが、ここはあまり川幅が広くなく、大きな川には見えなかった。
こうして、サマルカンドから約350km、われわれは、中央アジア随一の人口をかかえる大都市、タシケントに到着した。
われわれが2晩滞在することになるオルズホテルは、社会主義時代に住宅地区として発展し、住宅団地が立ち並ぶ一角にあった。アルマティと同様、表通りの住宅は1階が商店になっており、テラス式のレストランや、インターネットカフェが並んでいる。しばらく中央アジアの砂漠と遺跡を旅してきたわれわれは、久方ぶりの大都市の喧騒に、なにかもう巡検の終着地に着いたような錯覚にとらわれがちであった。ここで、久方ぶりにインターネットカフェで電子メールの受信を試みたゼミ生もいた。