8月27日
アレクサンドロフスク・サハリンスキー
ドゥエ、北緯50度線旧国境

麗しき大河の中の池塘
ソ連と日本の鉄道、その共通点と相違点
森を切りっぱなし、環境の持続性を考えないロシアの製材業
交通警察に入域許可証を要求される
欧州の香り漂う旧都、アレクサンドロフスク・サハリンスキー
ソ連への回帰、大切にされているロシア正教会
アグレッシブな中国人の経済活動
最古のロシア人集落ドゥエにみる、昔日の日本の資源権益
流刑植民地を再現したチェーホフ博物館を急いで見学
旧国境へ向かって
森の中に、静かに眠る旧国境線
日本の前線基地だった、気屯/スミルヌイフ

麗しきタイガの中の池塘

午前7時ごろ起床し、前日に買い込んだ朝食を食べ、ロビーに下りた。そこで、預けてあったパスポートを受け取る。皆が集まったところで車に乗り込んだ。
 少し行くと、ガス発電所が見えてきた。ここで車を降りて、ガス発電所を外から観察する。発電機が動いていて、その力強い音がうるさいほどであった。タービンのようなモニュメントがあり、そこには、この発電所が1999年11月18日に建設されたものであることが示されていた。見た目にも新しい発電所である。オハにもガス発電所があったが、両者ともに地元のガスを用いて、地元に電気を供給しているとのことである。

ガス発電所を後にし、ティム川にそって再び南下を始める。この川は大きく、ノグリキまで北に流れ、そこで海へ出るのである。
 樺太/サハリン島は南北にたいへん長いので、その植生は、南北方向に大きく異なる。
 オハなどの北部では、ハイマツなどの低い木が生い茂っており、ところどころに地塘がある。しかし、ノグリキ以南では、背の高い木が集まった、タイガの森林が出現してくる。これには、ティム川の影響で気候がより湿潤になっていることが影響していると思われる。
 南に行けばいくほど、生えている木は多くなっていき、同時に地塘の数が減っていく。さらに南部では、広葉樹も見かけるようになる。
 このことは、ノグリキより南で、木材業が成立するための条件が整っていることを示している。実際、南へ下っていくと、木材を切った後と思われる切り株や材木の集積場、材木を積んだトラックなどを見かけるようになっていった。

しばらくすると、山火事によって焼けてしまった木々が見受けられた。しかし、ほとんどは、いまだ手つかずと思われる原始林で、それがはてしなく広がっていた。ところどころに池塘が見える。
 途中、車を降りて、その池塘を観察した。森林の中に湿地があり、森と池の対比はなかなか美しい。日本ならば、重いザックを背負って登山しなければ楽しめない景観である。私は始めて見たので、その自然の調和に感動した。


ソ連と日本の鉄道、その共通点と相違点

池塘を後にした私たちは、再び鉄道に沿って南下した。
 ここの鉄道は、ソ連時代になって建設されたものである。しかし、日本の国鉄と同じ狭軌が採用された。線路の幅は同じであるが、橋脚の形が違うところなど、ソ連と日本の違いを感じさせるものもある。日本時代に作られた橋脚は、たとえば恵須取/ウグレゴルスクに行く途中で観察したように、楕円形に近い長方形で、上になるほど細くなる。しかし、ここの橋脚は、長方形のブロックをそのまま積んだような形であり、比べると安普請のように見える。

道は相変わらず未舗装で、砂だらけである。乗っている車は冷房がないが、砂埃のため窓も開けられない。そのため、時間がたつごとに不快感は増していく。ところどころ舗装されている部分もあるが、長くは続かない。
 何度も小さな川を渡った。かかっている橋の中には、古い橋の隣に新しく作られた橋も多く、そのたびに道が曲がりくねる。橋が古くなったからか、資源開発のために大型のトラックが通るために、以前の橋では対応できなかったからか、それともその両方か、理由は定かではないが、インフラ整備も進んでいることは感じられた。


森を切りっぱなし、環境の持続性を考えないロシアの製材業


 南下していくと、モロジューズノエというところへ来た。このあたりはもう、ノグリキ地区を離れ、ティモフスコエの地区に入っているようだ。そこから道をそれて少し東側の林の中へ入っていくと、貯木所が見えてきた。材木が積まれ、クレーンが見える。若干働いている人もいて、木材加工も少しではあるが行っているようである。
 積まれた材木は、太さがいろいろで、ゼミ生が年輪を数えてみると、もっとも太いもので樹齢およそ140年あった。50〜60年の細いものも結構あったようだ。
 ソ連統治下になっても樺太/サハリンに残った成様は、1950年代の終わりごろ、森林の監視員をしていたことがおありとのこと、そのときの経験を踏まえてお話しくださった。

ソ連時代には、この辺りに木材コンビナートがあったそうだ。昔は目に見える場所すべてに木材が置かれていた、今ではその数はだいぶ減っているようである。ここではエゾマツやトドマツが主に扱われている。さらには、落葉樹も扱っているということで、そのことから幅広い範囲で伐採していることがうかがい知れる。
 環境に関する規制や制度は、ソ連時代も現在もかなり厳しいものがあるそうだ。例えば、伐採期間は80年から100年は空けなければならない、つまり幼い木は切ってはいけない。伐採後は植林をしなければならない。枝を切ったらすぐに焼く。といったものである。
 ソ連時代は、この規制がよく守られており、違反者には罰金が科せられていたそうだ。しかし、時代の変化は状況の変化をもたらしている。
 市場経済の導入によって、林業も民営化され、現在は民間会社が地域の行政府から一定エリアの伐採許可を得て、そこで木材を切り出すようになった。その契約は、ただ木材を切り出すだけだそうだ。伐採後の植林は行政府の管轄で、切り出した会社には植林義務がないという。つまり、民間会社は利益を最大にするために、後先考えず木材を切り出してしまう。そして、その後の植林は、行政府の資金不足、人不足で大幅に遅れているという。そのため、禿山が増え、森林資源の枯渇が進んでいるそうだ。市場経済の導入が、ロシアの林業を、環境の持続性を破壊する方向にむかわせている。
 輸送方法にも変化が訪れている。ソ連時代は、5月ごろ、木材をいかだに組んで、川を流送させていたそうだ。しかし現在では、木材の輸送は自動車か鉄道によって行われている。
 パイプラインやゴミ処理の問題と同様、環境に関わる規則は厳しいが、その施行はいい加減であることが、森林政策からも見て取ることができて、興味深かった。


交通警察に入域許可証を要求される

午前10時すぎに貯木所を後にし、さらに南下した。
 ティモフスコエの市街地に入る直前、交通警察に止められた。私たちには関係のないものではあったが、警察に止められるというのは、あまり気持ちの良いものではない。
 交通警察は、普通の警察とは独立しており、その権限は普通の警察に比べて小さく、交通に関することしか権限がないそうだ。例えば、私たち外国人のパスポートや入域許可証を見たりする権利はないという。そして、普通の警察のほうが優越なのだそうだ。両者は異なる組織ではあるが、その上位組織は同じなのだという。
 10分ほど止められたが、何の問題もなく解放された。

 ティモフスコエの市街地に入る。市街地はさすがに道路も舗装されていて、車の乗り心地も悪くない。ここは、北のノグリキと南の豊原/ユジノサハリンスクを結ぶ鉄道と、かつてのソ連領サハリンの首都だったアレクサンドロフスク・サハリンスキーとの中継地点として、この地域に中心的な役割を有した都市である。1992年の人口は約1万1千人であったが、2005年には8千人に減っている。決して多くはないが、街中には人を多く見かけ、それなりに活気があるように見えた。
 街中を南北に走る、主要道路のキロフスカヤ通りを南下する途中、一戸建ての古い木造建築物を多く見かけた。
 10時40分ごろ、ティモフスコエの街中を抜けると、川を渡った。ティム川である。少し行くと巨大な構築物が見えてきた。運転手によると、軍の通信アンテナだそうだ。
 途中、道路の脇に止まっている車を見つけた。どうやらパンクをしてしまったようだ。今日に限らず、ここ樺太/サハリン島では、車のタイヤがパンクして立ち往生しているところを見かける。私たちの車は頑丈のようだったが、少し不安になった。
 この辺りまで来ると、植生にさらに変化が見えてくる。広葉樹を見かけるようになるのである。オハなどの北部に比べると、だいぶ気候は暖かいようだ。

 11時25分ごろ、アルコヴォという山の中の集落まで来た。集落といってもほとんど何もない。ただ、とても古いように見える、一戸建ての木造建築物がいくつかあるだけだった。アルコヴォ川のほとりにあって、ここで道路が分岐している。まっすぐ行けば、ムガチという海岸沿いの炭鉱町へ行く。左折すると、めざすアレクサンドロフスク・サハリンスキーだ。
 チェーホフの著書『サハリン島』によれば、この地周辺は「アルコヴォ哨兵線」と呼ばれ、三つの小さな集落があり、兵士が住んでいた。そして、監獄であるアレクサンドロフスク・サハリンスキーから囚人が脱走してくるのに備えていたそうである。
 アルコヴォで、再び交通警察の検査を受けた。ここには派出所のような小さな建物があり、そこにいる交通警察にとめられたのである。この建物は、小さなコンクリート製であった。今度は、私たちの入域許可証の提示を要求された。
 ロシアの辺境地域を旅行するには、ビザだけでなく、入域許可証(propsk)というものが不可欠である。これには、訪問する都市名が具体的に列挙され、そこ以外は訪問できない。提示を求められたとき、この許可証が無いと、大きなトラブルに巻き込まれる。
 しかし、私たちが今回の巡検で受けた許可証は「サハリン島」とだけ書いてあるので、全島どこにでも有効である。今回私たちがアレンジを依頼した旅行社「インツーリスト・サハリン」の経営者は、かつてソ連サハリン州の共産党幹部だったとのこと、その人脈もはたらいて、このような強力な入域許可証を入手できたようだ。許可証を見せると、問題なく解放された。


欧州の香り漂う旧都、アレクサンドロフスク・サハリンスキー

アルコヴォを発った私たちは、約10分後、アレクサンドロフスク・サハリンスキー(亜港)市街地に入った。この街は、第二次大戦前、樺太/サハリン島が南北に分かれていた時代、ソ連側の首都だった主要都市である。2005年の人口は約1万8千人。ロシア帝国時代は流刑地であった。
 市内をアレクサンドロフスク川がほぼ東西に流れている。その北側に、その支流である小アレクサンドロフスク川が流れる。アレクサンドロフスク川の北側、小アレクサンドロフスク川の東側にあたる高台に、都市の中心がある。都市内、特に中心部周辺は道路が整然と整備され、街路樹が植えられ、広場が設けられていた。そしてその近くに行政府や教会がある。さすが、ロシア帝国以来の主要都市だけあって、こぢんまりとしたなかにヨーロッパの面影を色濃くもつ、趣のある都市である。
 チェーホフの著書『サハリン島』によれば、1890年ごろ、都市の中心には広場、教会、行政のさまざまな機能、病院、兵舎、監獄などがあったそうだ。その位置の描写は漠然としていて、はっきりとした場所はわからないが、現在の都市の中心と一致している可能性は高い。『サハリン島』の記述の中には、アレクサンドロフスクの街が拡大し、北にあった自由村にくっついた、とある。その自由村は、小アレクサンドロフスク川の両岸にあった。また、南にも拡大しているようで、アレクサンドロフスク川の川上にある、コルサコフ村とも近くなっている、という記述がある。これらから考えるに、都市の中心は、昔も今も変わらない場所にあるのであろう。

上図 日本が戦前作った、アレクサンドロフスク・サハリンスキーの2万5千分の1の地図

私たちは、アレクサンドロフスク・サハリンスキーの北部から入った。メインストリートに準ずるジェルジンスキー通りに右折し、そのまま南へ下って広場に着いた。ここが都市の中心である。
 広場には、偉大なるレーニンの像が置かれていた。なかなか良い出来だ。レーニン像はいたるところで作られ、設置されたために、出来不出来にばらつきがある。ちなみに、大泊/コルサコフの広場に立つレーニン像は、顔と身体がアンバランスで、笑えるほど不出来だ。

 写真左上 アレクサンドロフスク・サハリンスキーのレーニン像
 同 右上 大泊/コルサコフのレーニン像

広場には1925年5月12日の集会を記念した石碑がある。これは、シベリア出兵によって日本が占領していた北樺太/セーベルヌイ・サハリンが、ソ連側の手に戻ったときを記念して行われた集会を記念したものである。
 通りの反対側の敷地には、かの有名なチェーホフの像がある。その奥にはサハリン銀行が見える。

広場に降り立った私たちの何人かは、広場に面した文化センターの裏側にある公衆トイレへ行った。今回の巡検中、おそらくもっともひどいトイレの一つであった。
 広場から少し北東方面に歩くと、大きな看板があった。そこには、ロシア人から見た樺太/サハリン島の歴史が、イラスト入りで詳しく説明されていた。
 それによれば、1640年にモスキーチンという人が上陸したことが最初らしい。その後、1644年末にはコヤルコフが資源を調べに来た。このあたりが歴史の黎明期である。1805年にクルゼンシュテルンという人が島の海岸を詳しく調べた。
 1878年に監視所がドゥエから移ってきて、1881-1906年には、アレクサンドルフスク・サハリンスキーが流刑者の監獄となった。そのさなかの1890年にチェーホフがきて、『サハリン島』を著し、監獄の生活などをロシア帝国じゅうに紹介した。
 このあたりでは、石炭が多く採掘される。1916年、革命直前の石炭生産は4,2万トンであった。そして1920-25年の日本によって占領されたときの経済的な損失は、当時の価値で5000万ルーブルだったそうだ。
 1941-1945年は、戦争の時代である。そのときの樺太/サハリン、千島/クリルの戦闘で、2000人が戦死、14人が英雄章を受賞したという。


ソ連への回帰、大切にされているロシア正教会

 看板を見終わったあと、通りを南下した。道には露天商がいて、花などが売られていた。干した魚を売っている人もいて、その魚にハエがたかっていた。
 さらに南下すると。ソ連の勝利を訴える看板があった。現在のロシアはソ連時代への揺り戻しがさまざまなところで起こっている。この看板は、その流れの一つかもしれない。
 やがて、目の前につり橋が見えてきた。しかしそこは渡らず、その手前を右折して、ソビエツカヤ通りに入る。すぐ左手には、青く塗られた行政府の建物が見えてきた。この行政府に少し違和感を覚えるのは、広場に面していないことである。
 この行政府の建物の前には、ロシアの国章である双頭の鷲が描かれた紋章を大きく掲げた看板があった。この紋章は、ロシア帝国時代のものと同じである。東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪を、モスクワ大公イヴァン3世が娶り、そのとき一緒にこの紋章を受け継いだそうだ。このため、モスクワは第三のローマとも呼ばれるそうだ。
 この行政府は、もちろんソ連時代からの建物であり、上のほうを見ると、いまだにソ連の国章であった鎌とハンマーをかたどった紋章が残されていた。「ソ連」をここでも感じることができた。

行政府と通りをはさんで反対に、戦死者の慰霊碑があった。なかなか立派な慰霊碑であるが、周りの建物や、並木の関係で、あまり目立っていないのがやや不思議である。戦死者の慰霊碑ならば、もっと目立つように建てられていてもよいと思った。
 そして行政府の隣、西側にはロシア正教の教会が堂々と建っている。この木造の教会は、見た目にも新しく、ソ連崩壊後に立てられたものだ。ロシア帝国時代に教会がどこにあったかはわからないが、都市の中心にあったことはチェーホフの著書『サハリン島』に書いてある。
 決して大きくはないが、周りの花壇に花があふれ、大切に手入れされている感じを受ける。教会は、新しいロシアの国を精神的にまとめる役割があるのであろう。どの都市でも大切にされているのがわかる。
 中には人がいなかったが、扉が開いていたのでお構いなしで中に入った。内部は、典型的な正教のつくりになっていた。聖像がたくさんかけられて、イコノスタシスになっている。しかし、聖像は、残念ながら見るからに安っぽい複製品ばかりだった。
 教会の敷地から見る景色はとてもよい。眼下にはアレクサンドロフスク川が流れ、その先は海につながっている。この海が、かの有名な間宮/タタール海峡だ。天気もよく、大変に美しかった。
 河口には港があって、クレーンが二台見える。あまり活気があるようではなかったが、1992年ごろは、港湾都市であり、また水産加工業も発達していたようである。


アグレッシブな中国人の経済活動

お腹がすいてきたので、昼食をとることになった。
 たまたまバーベキューをやっていたので、豊原/ユジノサハリンスクの豊原/ガガーリン公園でも、そしてオハでもできなかったバーベキューのランチを、ここで食べることになった。ひとり100ルーブルで、肉と、タマネギを中心とした少しの野菜、そしてパンがついてきた。なかなかのお味と量で、十分満足できた。
 飲み物は、ここでは提供されておらず、近くのお店でおのおのが好きなものを購入した。その店は、その売り手と買い手の間に、金属製の柵があり、一見すると牢屋のようである。少しだけ商品とお金をやり取りするところがあり、そこだけは隙間が開いている。防犯上のためであろう。
 近くでは、中国人と思われる人々が、中国製の衣類やバック、帽子、雑貨等を売っていた。
 成様によれば、ハバロフスクやウラジオストクなどを中心に、中国人の流入が大きな問題になっているそうだ。かなりの中国人たちは不法滞在なのだが、ロシア政府は、不法滞在の中国人を見つけても罰金を課すだけで釈放し、強制送還はしないという。経済的なメリットがロシア側にあって、黙認されているようである。つまり、中国人たちは、労働力を提供し、安くてそれなりの質の商品を売るなど、経済からみれば必ずしも悪いことばかりではないのだ。
 中国の米も安くてそれなりの味であるために、樺太/サハリンでは重宝されているそうである。カリフォルニア産のものもあるが、高いそうで、日本産や韓国産はさらに高いそうである。レストランなどで出てくる米のほとんどは中国産なのだそうだ。


最古のロシア人集落ドゥエにみる、昔日の日本の資源権益

食事を終えた私たちは、車に乗り込み、ドゥエへ向かうことになった。
 ドゥエはアレクサンドロフスク・サハリンスキーから決して遠くはないが、私たちの乗っている車は道に迷ってしまい、なかなかドゥエへの道をみつけることができなかった。
 しかし、そのおかげで、アレクサンドロフスク・サハリンスキーの郊外を見ることができた。
 木造一戸建てのしっかりした建築物が立ち並んでいる。いつ建てられたのだろうか。建物の外壁には、模様が描かれており、合理性を重んじる社会主義には似つかわしくない。しかし、豊原/ユジノサハリンスクにあった、旧王子製紙の木造建物の朽ち果て具合と比較してみれば、いくら古い建物であるとはいえ、100年近く前のロシア帝国時代からそこに立っているとも思えない。
 仮にそれがソ連時代に作られたものであるならば、1970年代以降の、社会主義経済の建て直し時にできたものである可能性が高い。というのも、この時代、ソ連・東欧の社会主義国では市民からの一般的な不満が膨らみ始めており、ソ連政府は、住宅難の不満を解消するため、土地を提供し、一戸建ての住居の建設を認めるようになっていたからである。もちろん、費用はかかるが、家は手に入る。そのときのものかもしれない。

 さまよっているうちに、ようやくドゥエまでの道をみつけ、車は進んだ。細い山道を通って間宮/タタール海峡の海岸に出て、午後2時40分ごろようやく到着した。そこは、海に注ぎ込む小さな川の谷間のようになった、狭い土地だった。
 ドゥエ(土威)は、1856年にロシア人がはじめて入植した歴史的な場所である。ここが、流刑植民地として、監獄ができた最初の土地である。しかし、ここが手狭になり、後にアレクサンドロフスク・サハリンスキーにその機能が移ったのである。
 かつてここには炭鉱があり、日本の北樺太鉱業という会社が権益を持っていて、日本人200人、ロシア人750人、中国人200人など大量の炭鉱労働者をあつめ、石炭を生産していた。だが、その権益は1944年に放棄された。その四角い事務所あとは、廃墟となっていたものの、しっかりと残っていた。

 石炭採掘施設の廃墟と思われるものも、たくさん残っていた。それは、いたるところにあった。建物はコンクリート製で、ぼろぼろである。しかし、内部には、壊れた設備らしきものも認められた。

高台には、若干の家があった。その家の一つに、とても奇妙な屋根の形をした家があった。とんがり帽子のような形をしていて、金属性である。ウクライナ人が作ったらしい。北樺太鉱業関係の家に、屋根だけ付け足したのだろうか。
 現在、炭鉱は閉山し、ドゥエはすっかり静かな、時間から取り残された村となっている。10世帯ほどが住んでいて、農業で生活しているそうだ。子供たちの学校はアレクサンドロフスク・サハリンスキーにあり、路線バスで通っているそうだ。道路は冬でも除雪して通れるという。
 この地には木の実やきのこ、山菜がたくさんある。その中にフレップと呼ばれるものもある。戦前の日本人が樺太/サハリンのシンボルとして大切にしていた木の実の一種で、フレップには赤色と青色があり、前者は赤フレップ、後者がマスフレップと呼ばれるそうだ。これでジャムなどを作るのだという。

戦後は、マカーロフカという村がもう少し内陸にできて、150人ほどが住んでいるそうだ。ほとんどが年金生活者で、農業を営んでいるとのこと。
 近くをたまたま通りかかった男性の、ウラジミール・コチェンコさんに話をうかがうことができた。57歳とおっしゃったが、だいぶ老けているように見え、本当に57歳か若干怪しいと思いつつお話を伺った。彼が生まれたころには、日本の建物が残っていたそうだ。
 農業は好き勝手できるそうだ。国の土地だが、無許可でただで、いくらでもできるのだという。鶏や羊を飼い、きのこや山菜をとるのだという。また、永住権をもらえば誰でも住むことができると言っていた。
 この辺りは、緯度の割には温暖である。暖流である対馬海流が、間宮/タタール海峡に流れ込んでいるからである。意外と住みやすいかもしれない、と私は感じた。
 マカーロフカという村にも行きたかったが、時間の関係で引き返すことになった。
 海岸に来ると、浜がある。そこで海水浴をしている人も少しいた。また、北側にはアレキサンドル岬の灯台が見えた。


流刑植民地を再現したチェーホフ博物館を急いで見学

私たちは再びアレクサンドロフスク・サハリンスキーにもどり、チェーホフ博物館を訪れることにした。
 チェーホフ博物館は、チェーホフ通りにある。市の中心部からは西側の、少し低い場所だ。チェーホフの『サハリン島』によれば、自由村のあったところであろうか。
 だが、正規の館員は居らず、清掃員と思しき留守番の人に、一人200ルーブル要求された。これは法外なので無視し、ササッと館内を一回り見ただけで帰ることになった。中には、流刑植民時代の写真や、刑務所の模型などがあり、囚人の拘束用具もあった。当時の生活を想像させるものである。また、チェーホフに関する資料等が展示されていた。そのなかには『サハリン島』の初版本や、チェーホフの手紙などがあった。
 どうやら、この清掃員は、小金を稼ぐために私たちにだいぶ吹っかけたようである。ロシアでは、こうした小金稼ぎの副業というものが結構あるようだ。

外に出ると、背広の胸に勲章をたくさんぶら下げた老人に出会った。話を伺ってみると、対日戦争で戦ったもと将校なのだそうだ。その勲章の中にはスターリン勲章があり、また戦勝60周年の記念メダルもあった。相当の軍功をあげたのであろう。昔は銃でいがみ合っていたが、今は日本と仲良くしたい、とおっしゃり、水岡先生と握手を交わしていた。


旧国境へ向かって

私たちはいよいよ、北緯50度線の旧国境にむけて、アレクサンドロフスク・サハリンスキーを後にした。
 まず、来た道をティモフスクコエへ戻る。途中、来たときは通れた橋が、工事中になっており、横の仮設の橋を渡らなければならなかった。私たちが乗っている二台の車のうちの一台がはまってしまい、抜けるのに時間がかかった。
 ティモフスクコエから、私たちは再び鉄道路線に沿って南下を始めた。

道は相変わらずの未舗装である。しかし、集落周辺だけはきれいに舗装されており、そのときだけは、窓も開けることができた。しかし、そのような場所はほんの一部のみ、あとはひたすら悪路が続く。
 午後6時ごろ、パレボという名の集落を越えた後、踏み切りを渡った。そこの線路は、三線になっていた。いま、サハリン島の鉄道網の軌間を、ロシア本土と同じに拡幅する工事が樺太/サハリン全土で進んでいる。これは、二本のレールの外側に1520mm幅の広軌線をもう一本敷設し、全土で工事が終了したら、内側の狭軌のレールを抜くのである。気の遠くなるようなプロジェクトだが、ちょうどこの場所では、工事が終了したところのようだ。遠くまでまっすぐ伸びる真新しい三本の線路というのは、なかなか圧巻であった。

午後7時前に、戦前のソ連領樺太/サハリンの最南端の町、オノルに入った。ここで手洗いを済ませる。いよいよ、旧国境北緯50度線はまぢかである。
 旧国境跡を示すモニュメントは大きなものではなく、見過ごしやすいとのことであったので、私たちは、見逃さないように注意深く目を凝らした。
 まず見つけたそれらしきものは、ソ連の戦勝記念碑だった。そのモニュメントの前には、どこから持ってきたかは不明だが、旧日本軍のトーチカらしきものが、ほとんど埋められた状態で置かれていた。
 道路の左右は深い、ほとんど手付かずの森林が生い茂っている。


森の中に、静かに眠る旧国境線

 午後7時25分、森の中にとうとう旧国境線の標識をみつけた。それは、ソ連が作ったモニュメントで。南樺太/ユジヌイ・サハリン解放戦をここから始めた、と書かれており、鉄兜をかぶった兵士と南側を指し示す矢印があわさったようなモニュメントであった。
 戦前、ここは厳しく管理され封鎖された国境線であった。日ソ間の郵便物だけが交換され、一般の人がここを通って日ソ間を往来することは出来なかった。だが、厳寒の1938年1月、女優の岡田嘉子、そして彼女と恋愛関係にあったプロレタリア演出家で日本共産党員の杉本良吉の2人が、社会主義ソ連に理想を求めて、ここの国境線を破り、ソ連へ亡命した。岡田嘉子は、10年間強制収容所生活を送ったあとモスクワに住むことになったが、杉本が指導を求めたソ連の演出家メイエルホリドはスターリンによる粛清の犠牲になり、杉本自身も、拷問でスパイの自白をさせられて銃殺刑に処されている。
 私たちは、旧国境の標石跡を見るため、森のほうへ入ってみることにした。戦前は、国境の部分の森は切り開かれていたというが、いまはすっかり木が生い茂り、原始の姿に戻っている。森の入口は一応テープで封鎖されていたが、日本人観光客がときどき来るのだろう、その標石までの道には踏み跡があった。それより先は、草が生い茂って、人が入った形跡はなかった。
 決して保存状態がよいわけではないが、国境標石の崩れかけた台座がそこにあった。サハリン郷土博物館で見た標石が、かつてはこの台座の上にすわっていたわけだ。やはり、実際にあった場所でそれを見るのは、格別の思いがする。日本が統治していた時代の樺太/サハリンに思いをはせつつ、皆で記念写真を撮った。


もし、戦後も国境腺がここにあったら、どうなっていただろうか。
 これは、決して空虚な夢想ではない。日本が第二次大戦に勝つ見込みのなくなった時点で、「国体護持」にこだわることなく、さっさと敗戦を認め、ヤルタ会談が行われる前、つまり1945年1月ごろまでに連合国に対し無条件降伏していたら、スターリンには、領土要求をする機会も日ソ中立条約を破棄するいとまもなく、この線より南は、間違いなく今日まで日本領であっただろう。そしてもちろん、真岡/ホルムスク、恵須取/ウグレゴルスクはじめ各地での悲惨な民間人の死もなかったのである。
 とはいえ、相手はソ連である。冷戦時代には、戦前と同じ、透過性のない、朝鮮半島の38度線のような国境になっていたことであろう。しかし、ソ連が崩壊し、市場経済化の進むロシアとなれば、日露間の経済関係が緊密化し、ここで国境経済も成立したであろう。この原生林を切り開いて都市が成長し、国境を越える貿易だけでなく、ロシアでは買えない西側の財や、スキー、ゴルフなどのアメニティを求めて、サハリンプロジェクトに携わる人々などが、この国境を日本側へとしばしば越えたかもしれない。
 しかし一方で、この国境までが日米安保条約適用区域となり、この線のすぐ南には、おおくの米軍や自衛隊の基地が設置されていたとも予想される。考え始めたらきりがないが、無数の可能性があったであろう。
 一体どうなっていたか、夕暮れの光に鈍く沈む苔むした国境標石の台座は、黙して語らない。しかし、その台座は、日本人にとって、今日でも決して国際法上の意味を失ったわけではない。この標石より北は、正統的にソ連ないしロシアの領土であるが、南は、サンフランシスコ講和条約により日本が主権を放棄しながらも、その帰属は国際法上未定であって、ロシアが60年間占領し実効支配しているに過ぎない地域である。中学・高校地理の地図帳の、ロシア色で塗ってある部分と白地の部分の境界が、ここを走っているのだ。


日本の前線基地だった、気屯/スミルヌイフ

ロシアが実効支配している地域へと入った私たちは、再び車に乗って南下を始めた。
 すぐに、半田沢/ハンダサというところに来た。ここに旧日本軍のトーチカあとがあるので、車を降りて視察することになった。
 公園と言ったら大げさであるが、それなりに整備されていて、ちょっとした史跡といった雰囲気である。トーチカは二つ残っていた。円形で、南側に細長い通路のついた形をしている。円の部分は直径5m、高さ2mほどで、銃眼が5つついている。コンクリートの暑さは、最も暑いところで70cmほどである。
 内部は、湿っていた。このトーチカの中で、侵攻するソ連兵と戦った日本兵の姿を思い起こすことができた。

 さらに進み、古屯/ポべジノの市街地に入る直前、日本ともソ連とも書いていない、「樺太・千島戦没者慰霊碑」とだけ書かれた看板を見つけた。日本語でかかれてあったので、日本人に関するものかと思い、行ってみると、ソ連兵の戦没者の墓が目に飛び込んできた。中心には花も添えられていた。入り口付近の看板に、日本語でかかれてあったので、ロシア語のわからない日本人観光客が来たら、勘違いしてしまうかもしれない。

 午後8時40分ごろ、気屯/スミルヌイフ着。地図で見ると比較的街の中心に駅があり、その西側に行政府などがある。2005年の人口は7千人、あまりぱっとしない雰囲気の街であったが、成様によれば、10年前に比べると別世界のように発展したとのことだ。そのころはまず食事をするところがなかったし、商店すらなかったそうだ。いまは、食べるところはあるし、店もある。
 私たちは、駅の西側の、街の中心地で食べるところを見つけようとしたが、見つからなかった。そのため、駅から少し戻って、街の北側の主要通りであるチュントラルヤナ通りに面した、高級そうなレストランで食事を取ることになった。
 ここで、25日から3日間御世話になった車とお別れした。車は、ここからはるばる砂利道をノグリキまで帰るのである。帰着は、真夜中をまわるであろう。

このレストランは、欧米式のスーパーマーケットも併設されていて、街がそれなりに栄えている。ロシアの新しい市場経済の景観が、ここにもある。朝鮮半島出身の人が経営しており、成様の知り合いであった。
 入り口で手荷物を預けて、中へ入る。店は冷房が効いていて涼しく、清潔であるが、薄暗く、大型テレビがあって、バーのような雰囲気であった。楽器がたくさん置いてある舞台があり、その前にはダンスをするスペースまであった。現在の樺太/サハリンで人気がありそうな、典型的なレストランの形式である。

 食事は、十分満足できるものであった。バルティカ3、7という二種類のビール、お酒を飲まない人はジュースも何種類か選ぶことができた。イクラやイカをあえた海鮮サラダ、もちろんパンもあった。
 食後にコーヒーか紅茶もついてきた。樺太/サハリンでは、コーヒーのほうが高級品で、2倍ほどの金額の差がある。ここでは紅茶は20ルーブル、コーヒーは40ルーブルであった。
 ゼミ生の中には、生演奏に合わせてロシア人の軍人と思しき人とダンスをするなど、この西洋風のレストランの雰囲気を十分楽しんだ。
 あわせて500ルーブルほどのリッチな食事を満喫し、このカフェのおしゃれな雰囲気も十分堪能した。しかし、どうやら食材に古いものが使われていたらしい。後に、このときの食事がさまざまな悲劇をもたらすことになるとは、このとき誰も予想できなかった。

車は行ってしまったので、食事を終えた私たちは、暗い道を荷物を担いで駅まで歩いた。すでに遅くなり、通行量が減ったチュントラルヤナ通りを南下する。20分ほど歩いて駅に到着した。列車が来るまで多少時間があったので、待合室で待つことにした。入ると、すぐ左側に切符を売るスペースがあった。中は意外と人がいて、個人的には結構驚いた。  
 列車発車の15分ほど前にホームへ向かう。ホームといっても日本のものとは違って、ほとんど高さのないものである。蛍光灯などもほとんどなく、暗い。
 そうこうしているうち、時刻どおりに列車がホームに入ってきた。かなり長い編成である。午後11時03分発の、上り夜行寝台急行「サハリン」号に乗り込む。ノグリキにいったときに使った列車に比べると、幾分質は落ちるものの、十分きれいで満足できる客車であった。疲れた体を癒すため、さっさと眠りについた。

(井野 俊介)

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