昨夜、気屯/スミルヌイフで乗った夜行急行「サハリン」号は、午前7時05分、ほぼ定刻どおり豊原/ユジノサハリンスク駅に到着した。サハリン鉄道は、私たちの見る限り、数分程度の遅れしか発生しておらず、数百km単位で移動する列車であることを考えれば、かなり定時性が確保されていると言ってよい。ソ連崩壊直後の混乱期に比べて、鉄道の信頼性は大幅に向上してきたようだ。
列車の終点、かつ州都である豊原/ユジノサハリンスクの駅では、たくさんの乗客が下車した。線路はさらに南の大泊/コルサコフまで続いているのだが、現在そこは、貨物列車しか走っていない。旅客列車は、日本人観光客のため稀に臨時運行される観光列車(D51牽引のこともある)がたまに走るのみである。
もしここが現在でも日本領であったなら、この列車は、北海道に向かう客をたくさん乗せてさらに大泊/コルサコフへ向かい、大泊港駅で稚泊連絡船に接続していたであろう。戦前の日本領時代には、そのような輸送システムが存在していたのである。
ホームに降り立った私たちは足早に駅ビルを通り抜けて、駅前に出た。早朝にもかかわらず、道路では自動車が活発に往来している。
私たちがこの日乗る自動車がそこで待っていた。日本であれば路線バスにでも使われそうなくらいの大きなバスであった。われわれの荷物が大きいので、今回はこのバスが手配されている。これは韓国からの中古車であるらしく、緑と白のツートンカラーの塗装の上にハングルでなにやら書かれている。一方、バスの中は両側2列ずつシートが並んでおり、マイクロバスのような雰囲気である。私たちは持っていた荷物をそこに乗せ、さらに、豊原/ユジノサハリンスク滞在時に泊まっているモネロンホテルに預けていた荷物も引き取って、バスに載せた。
ついでに数人のゼミ生は、近くにある中央郵便局のATMでお金を下ろそうとした。だが、どうもATMの調子が良くない。このATMは、露・英・仏・独の四言語に対応しているのだが、画面の表示に従って英語モードにしようとすると、ロシア語が表示されてしまった。私は四言語のうちどれか一つを押せば必ず英語が表示されるだろうという期待を抱き、ロシア語モード、ドイツ語モードにも切り替えてみたが、やはり表示されない。最後の望みをかけてフランス語モードに切り替えた途端、画面は真っ暗になってしまい、焦った。幸いクレジットカードを取り出すことはできたのだが、著しく信頼性に欠けるので、ここでは諦めた。ロシアではこのようなシステムエラーは頻発しているのであろうか、周囲のロシア人は平然としていた。
この後、私たちは朝食をとるため、「サハリン・サッポロホテル」へ移動した。このホテルの一階には「カチューシャ」というレストランがある。8月22日に私たちはここで昼食をとった。
ここは朝食も提供しており、多少値が張るものの、樺太/サハリンではかなり珍しいビュッフェ形式で食べられるうえに、有料の無線LANでインターネットが使えるということで、水岡先生が以前から目をつけていた。これまでレストランに行ってもなかなか自由に注文することもままならなかった私たちは、まさかビュッフェ形式、俗にいうバイキング形式で食べ放題の食事に出会うとは、思っていなかったので、感激であった。
店内は空いており、高級であるため地元の客は全くいないようである。私たちの他に日本人客が一人おり、他の客もすべて東洋系の顔をしていた。メニューの中にはロシア風お粥とでも言おうか、白くてドロっとしたものもあった。珍しいので食べてみたが、あまり口には合わなかった。その他はパンや生野菜、ソーセージ・ハムなど日本と共通するものがほとんどであり、美味しくいただいた。ゼミ生はゆったりとコーヒーを飲みながら一服したり、持参していたノートパソコンを開いて久しぶりのメールチェックをしたりなど、これまでの1週間近いハードな日程をおえて、ほっと一息、思い思いに優雅なときを過ごした。
道路の向かい側にある、みちのく銀行支店にあるATMにお金を下ろしに行く者もいた。ここの機械は正常に動く上、中には日本人の方もいらっしゃるので、安心であった。
午前10時、にバスに乗りこんで豊原/ユジノサハリンスク中心部を出発し、大泊/コルサコフに向かった。市内の道路は渋滞しており、なかなか進まない。人口規模のわりに広い道路が縦横に走っている市内でこれだけの交通量があるのは、やはり公共交通機関の整備が不十分だからだろうか。
道路際には、政治家らしき男性の顔写真が大きく載った看板が立っている。成様によると、現在サハリン州から選出される国会議員は一人であり、最近の選挙では7人が立候補したらしい。この看板で微笑む男性は、元ホルムスク市長で、候補者の一人だそうだが、あまり有力ではないとのことである。
21日に大泊/コルサコフから来たときはすでに暗くなっていたので、日中の明るい今日、車窓をよく観察することにした。
少し郊外に出ると、大型ショッピングセンターの建設現場や、すでに完成したものが目に留まった。北海道サハリン事務所で伺った、豊原/ユジノサハリンスク市の郊外化がすすんでいることがわかる。道を行き交うトラックには、“Hyundai”と書かれたコンテナを積んだものがあり、貿易面で、韓国本国からの進出が認められた。
しばらく走ると、道路の左側一面に牧場が広がった。ざっと見る限りでも100頭以上の牛がいる。この後も所々に牧場は見かけたが、ダーチャを中心とした個人農業が中心の樺太/サハリンでは、大規模な耕作地というのは見られない。
道路沿いには所々にバス停があった。ベンチの周りにコンクリート製の囲いと屋根がついた簡素なつくりで、すべて同規格だが、日本のように標識だけ立っている野ざらしのバス停よりはずっと快適にバスを待てそうだ。旅客列車が運行されていない豊原/ユジノサハリンスク・大泊/コルサコフ間では、バス(系統番号115)が人々の足となっている。平日の日中はほぼ30分に一本のペースで運行されており、所要時間はおよそ一時間である。一度このバスに乗ったことがある水岡先生によると、大きな荷物を持っていたため荷物代をとられたが、それを含めても95ルーブルであった。この区間をタクシーで移動すれば800ルーブル、ハイヤーでも700ルーブルかかることから考えれば、たいへんリーズナブルである。しかし、大泊/コルサコフのバスターミナルがフェリーターミナルから2km程度離れているため、タクシーで港まで移動しなければならず、これに100ルーブルくらいかかってしまうなど、手間と時間のかかるという難点があるようだ。
大泊/コルサコフに近づくと、右側に亜庭/アニワ湾が見えてきた。さらにその前方には樺太/ユジノカミショビ山脈の連なる半島があり、西能登呂/クリリオン岬までつながっている。こうやって遠くまでよく見えるのは、道路が丘の上を通っているからである。この付近は海岸段丘になっており、かつて日本時代は、幹線道路が零細な漁村をむすんで段丘の下を通っていた。現在、段丘上には所々に集落が存在している。海岸から段丘面へという、日本からソ連への移行に伴う都市建設の場所の変化は、道路にも当てはまるようだ。
10時45分頃、大泊/コルサコフ市内へ入った。
豊原/ユジノサハリンスクからの幹線道路から駅前/ヴァクザーリナヤ通りという線路沿いの道に入って、しばらくしてから車を停めた。線路を見ると、ここでも線路拡張工事が既になされているようで、三本のレールが延びている。線路といっても、現在は列車がやってくる頻度が低いので、線路付近の原っぱを子供たちが駆け回っていた。また、付近には「1980」という文字と人々の絵、ある将校らしき人物の似顔絵が書かれた、ソ連時代の歴史モニュメントが残っている。
道路の海側は港湾地区となっており、倉庫やクレーンが立ち並び、トラックが停まっている。その中には「サクラ」という名の店もあったが、見た感じでは特に日本と関係はなさそうである。また、「コルサコフ港…60周年」と書かれた派手な看板もあった。おそらく1945年の南樺太/ユジヌイ・サハリンをソ連が実効支配においてから60周年を記念するものだと思われる。ちなみにこの看板は港付近の至るところで目にした。他のところにあったものには、過去5年間での港の輸送量の急激な増加を示しているようなグラフが描かれていた。
本町大/ソビエツカヤ通りに入った。ここは大泊/コルサコフのメインストリートであり、日本統治時代には、当時の樺太/サハリンで唯一、路面電車が走っていた。現在ではその面影はないが、都市の商業中心としての役割においては変わっていない。道沿いには、人口4.4万人(2005年)のこの都市を支えるたくさんの小規模な商店が軒を連ねている。そして、それらの多くは、社会主義時代に建てられたアパートの一階にある。
その中に私たちは、“WESTERN UNION>”と書かれた看板を発見した。ウェスタン・ユニオンとは、もともと米国の電報会社であり、電報が衰退したいまは、海外電信送金を主要なビジネスとしている。昨年水岡ゼミが訪問した、マケドニアやボスニア・ヘルツェゴビナなど、外国人労働者を送り出している国々には、たくさんこの会社の営業所があった 。大泊/コルサコフには、サハリンプロジェクト関連事業や市内の建設事業に従事する外国人労働者が多いので、その仕送りのための送金需要があるのだと思われる。
このように、今では外国人の存在も見られる大泊/コルサコフであるが、ソ連時代は軍港があったため、外国人の立入は厳重に禁止されていた。さらに遡って日本時代には逆に、北海道の稚内から樺太へ入る玄関口として大いに賑っていた。ソ連崩壊後、約半世紀ぶりに稚内からの航路が開設されて以降、その役割を少しずつ取り戻しつつある。だが、宗谷海峡に厳然として存在する透過性の低い国境がその発展を妨げていることは、いうまでもない。
そのままナゴールナヤ通りを経て、11時、町の中心部を少し外れた丘の上にある寒天工場「アガロビイ」に到着した。戦前、この地には「樺太寒天」という日本の工場があったが、戦後ソ連に接収され、国営工場となった。
現在、建物は3階建てで、壁面が所々剥がれ落ちて、ガラスも一部が割れているが、まだまだ現役である。これまでに朽ち果てて現役を退いた工場はいくつか見ていたが、現在も稼働している工場は初めてである。私たちは、この工場の内部を視察する機会を得た。
寒天を日本で生産している伊那食品工業株式会社のHPによると、「第二次世界大戦前、寒天は我が国特有の重要な輸出水産物であって、その用途に細菌培地があることから、戦中寒天の輸出が戦略的意味合いから禁止された。困った諸外国は自力による寒天の製造を試み、気象条件の異なる諸外国は天然の寒さに頼らない工業的製法の粉末寒天の製法を編み出した」とある。
つまり、日本の特産品であった寒天製造技術が、樺太/サハリンを占領したソ連に強制的に移転されたということである。その技術で生産された寒天が、戦後は「細菌培地」として使われ、細菌兵器が作られて、ソ連軍の軍備増強に貢献してきたのだろうか? そう考えてみると、「みつ豆」など連想しがちな寒天も、まったくあなどれない。ちなみにソ連崩壊後、この工場は、民営化されている。
私たちは、早速女性技術者の方に、工場内に招き入れられた。
まず2階に案内された。とにかく臭いがきつい。昆布を茹でているときのような臭いである。薄暗い廊下が続いており、そこの壁には工場の全体図が貼ってあった。廊下を抜けたところで、機械を見ながら技術者の方による工程の説明が始まった。工場内の写真撮影は禁止された。
まず、原料を柔らかくして洗い、煮る。それに韓国製の“New Cell”という粉を加え、大釜のような容器で、後に寒天になる液体部分と藻のカスに分ける。液体部分は、カスをきれいに除去するために洗浄される。その後、それが冷却され、管からソーセージ状の固体になって出てくる。その固体はさらに洗浄される。そこではなにやら黄色い成分が出てきているようである。
1階に下りて、その続きの工程を聞いた。
固体は大きなタンクに入れられ、水分が絞られて最後には板状になる。これには16時間かかる。そして板状になったものは120度の高温で乾燥させられて、粉状になる。この粉が製品である。技術者の方はその白い粉を手に乗せて私たちに示してくれた。全工程には7日間かかるそうである。
出来上がった製品はロシア全土に輸送され、お菓子作りや製薬に使われている。日本や韓国にも少量が輸出されている。この工場では、良いときは月に8トン、平均で4〜5トンの寒天が生産されているという。
工場内のほとんどの工程が機械化されていたが、現在置かれている機械は社会主義時代末期の1990年に、日本から輸入したものであるそうだ。確かに機械の中には“Kurita OSAKA JAPAN”と書かれているものがあった。4〜5年前から、現在のようなシステムで生産している。また機械の老朽化が進んでいるため、時々設備の更新はしているらしく、最近、日本からフィルターなどを購入したとのこと。購入費に関してはサハリン州政府からの援助も受けており、将来は日本との技術協力も視野に入れているらしい。
原料は、以前は別の会社から購入していたが、それは質が悪く、完成品の割合が少なくなってしまっていたため、現在は自社で調達している。また、元々は大泊/コルサコフの東にある遠淵/ブッセ湖から調達していたのだが、現在は、国後/クナシル島からの分がそれを上回っている。以前は産地で干してから工場に運搬していたそうだが、現在では漁船を所有し、湿った状態のまま運搬しているそうだ。
この工場で使われている寒天の原料は、イタニグサという藻である。帰国後に調べたところによると、日本では現在、寒天は主にテングサから作られている。伊那食品工業のHPによると、
「戦前、イタニグサから得られた寒天が、溶解性が良いことと、ゼリーの離水が極めて少ないことを特徴として生菓子やゼリー菓子に需要が多かったようである。現在では、当社のみが特殊用途向けに限定生産を行っている。」
とのことである。つまり、日本では戦後、寒天の原料が変ってしまったが、戦前の工場をソ連が接収したこの工場では、原料が日本時代のまま、今日まで一貫して変わっていないということだ。もっとも、この工場で作られていたのは粉寒天であったから、製品の形態は日本時代から変化したことになる。
民営化後は、技術の更新が進む一方で、人件費削減の必要に迫られて従業員は減少し、現在は約100人となっている。近年も経営状態はあまり良くないので、原料費や人件費の削減、製品の質・量の向上に努めている。そのおかげか、2年前まで赤字だったのが、ようやく現在は赤字がなくなり、これから黒字化したいと考えているそうだ。
従業員のほとんどを女性が占めており、最近就いた工場長も女性である。だが、ゼミ生の一人は、この工場内で従業員が休憩中に喫煙する姿を目撃した、まだ、従業員の教育が不十分なところもあるようである。
工場を出ると、前には“SASCO”と書かれたコンテナを積んだトラックが停まっており、ちょうど製品が積み込まれるところであった。また原料を大量に乗せたクレーン付トラックが別のところに停まっている。
見学の最後に、水岡先生が我々の大学のパンフレットとペンを案内してくれた技術者にプレゼントすると、彼女からは、「何年か経てば工場も変わっていると思うので、またいらしてください。」という言葉が返ってきた。私たちはお礼を言い、バスに乗り込んだ。
12時前に寒天工場を発った私たちの車は、大泊/コルサコフから郊外に向かった。個人住宅や倉庫、工場が雑然と立ち並んでいるが、どれも古びており、崩れそうなものもある。また道路は舗装されているものの、アスファルトの上にたくさん砂が乗っていて、あまり管理が行き届いていない。ただ、比較的きれいな建物が並ぶところもあり、その付近には赤い瓦屋根のかわいらしいバス停もあった。
海岸段丘が迫っている地区では、段丘面上に社会主義住宅、段丘の下には一戸建ての簡素なつくりの家が建っていることが多いようである。これは、24日に視察した、日本海側の泊居/トマリにも共通することである。
ちなみに、私たちが走っている道は戦後造られたものであり、日本統治時代の地図には描かれていない。ここでも、女麗/プリゴロドノエ方面へ向かう主要道路は、漁村を結んで海岸沿いに通っていた。
さらに中心部から離れると、草原が広がり、そのうちに砂利道になって殺風景になってきた。また、私たちの向かっているLNGプラントへ向かうらしいダンプカーも走っている。
小さな峠を越えると海岸に出た。峠を越えたあとは、戦前と同じ海岸沿いのコースを辿った。延々と砂浜が続いており、その先にはLNGプラントの巨大な敷地と小さな湖が見えてきた。これは日本統治時代には女麗湖と呼ばれていたものである。私たちはそれらを一望できる丘の上で車を降りた。
この女麗/プリゴロドノエは、日露戦争時に日本軍が樺太/サハリンに初めて上陸した地である。その際、日本軍上陸の記念碑が建てられた。しかし1945年に樺太/サハリンがソ連に占領された後に倒され、今は碑の土台部分だけが立ち、「遠征軍上陸記念碑」と彫られた上部は横に倒されている。また、その傍には同様に「忠霊塔 陸軍中将 鯉登行一 謹書」と彫られた石が倒れている。これは、日露戦争の樺太/サハリン上陸作戦で殉死した軍人を弔うために建てられた塔の上部である、その土台は、現在も立っている。
ここに日露戦争の記念碑があることは、戦後、鉄のカーテンのかなたで、長い間日本人に忘れ去られていた。これを再発見したのは、サハリン郷土博物館のサマーリン部長であるという。ソ連が崩壊してから、かつての日本時代の遺跡を調査・研究することが「日本の軍国主義を肯定する試み」などと非難されることはなくなり、ロシア人が日本時代の遺物を学問として研究することに、今ではまったく制約が無いということである。
日露戦争の当時、日本は、朝鮮半島・満州などの大陸でのフロンティア拡張を重視し、樺太/サハリンへフロンティアを拡大する優先順位は低かった。しかし、米国にはロシアを抑えたいという意図があった。日本はそれを受けて、ここから樺太/サハリンに軍を上陸させ、千島樺太交換条約で失った主権を回復することになる。そして、米国の仲介で、はるかかなたの米東海岸、ニューハンプシャー州ポーツマスにおいて、日本とロシアの講和が締結された。そして、それから約40年後、米国は、この地を再びソ連に引き渡すことをスターリンに約束した。
現在、女麗/プリゴロドノエといえば、なんといってもLNG(液化天然ガス)プラントで有名である。おかげで、この地名が日本の新聞に載るまでになった。
LNGプラントとは天然ガスを液化する工場であり、生産能力は、年間960万トン。将来、樺太/サハリン北東沖のガス掘削地からパイプラインを通ってきたガスを液化して、プラント沖の桟橋から海外に輸出することになっている。
日本が主要な輸出先であり、東京電力をはじめ電力4社、東京ガスはじめガス5社が、年間計472万トン以上のLNGを購入することになっている。さらに日本以外でも、アメリカのシェルイースタントレーディングが北米向けに年間180万トン、韓国ガス公社が150万トンのLNG購入を決めている。またあまり注目されないことではあるが、ガスはサハリン島内にもパイプラインを伝って供給される。
現在、日本の東洋エンジニアリングなど2社がロシア企業と一緒になって工事を進めており、プラントが完成するのは、2008年の予定である。
LNGプラントの内部に入ることは残念ながらできなかったので、丘の上から観察した。
まず、中心には二つの巨大なタンクがあるのが見える。このタンクには一基あたり10万立方メートルものLNGを貯蔵できるらしい。そしてその周りには、倉庫のような建物、煙突の付いた建物もあり、パイプが複雑に組まれているのが見える。これらは一連の液化装置であり、タンク毎に2系列に分かれている。1系列あたり最大で年間480万トンできるとのことで、これは、LNGプラントとしては世界最大規模である。さらにそれらの間にはパイプなどの建設資材やコンテナ、そして大小さまざまなクレーンが大量に置かれていた。
敷地からは、LNG輸出用の桟橋が、かなりの長さで突き出している。亜庭/アニワ湾内は流氷の心配はなく、この桟橋は年中使用可能だそうだ。流氷は樺太/サハリン東南に突き出す中知床/アニワ岬にせき止められて、湾内に入ることができないからである。LNGの輸出がわざわざ採掘地から数100km離れた場所で行われることになったのは、このためであろう。なお、建設中、資材や物資の搬入はその横にあるコンクリートの仮桟橋から行われたが、現在は本桟橋が完成したので、それは終了しているという。
これらの施設の内陸側には、青い屋根を付けた1.2階建て程度と思われる建物が数え切れないほどに並んでいる。それらは建設労働者及びその家族用の宿舎であり、5,350人を収容することができる。現在この工事には30ヶカ国もの外国企業が参加している。2005年4月のデータによると、約6,800人いる建設労働者のうち、地元樺太/サハリンの出身者は約半数の47%にすぎない。他のロシア人として、ロシア極東地域外の出身者が27%、ロシア極東地域出身者が8%いる。18%は外国人である。これには日本人も200〜300人含まれる。
これだけの従事者が施設内に寝泊りしているので、プラント内には公共施設だけでなく商業施設などあらゆるものが揃い、一つの都市と化している。教育、医療などだけでなく、買い物や娯楽までその中で済ませられる。
これは、労働者らにとっては非常に便利であろう。しかしこれでは、せっかく旺盛な消費需要があっても、経済効果が施設の外側にほとんど及ばない。生産財に関しても、地元の骨材業者に、若干の発注がある程度らしい。このような「閉鎖都市」は、同じ樺太/サハリン内で考えると、サハリンTの掘削陸上基地がある北東部のチャイウォにもあるが、ここは周辺に都市がないからやむをえない面がある。一方で、ここ女麗/プリゴロドノエには近く大泊/コルサコフという都市が存在する。ここが「閉鎖都市」である必然性は一体どこにあるのだろうか。
ここで、沖縄の米軍基地を参考に考えてみる。米軍基地内には、同様に一定の公共施設、商業施設が整っている。だが、米軍兵士はしばしば基地外に出て、財やサービスを消費する。そのために基地周辺では米軍兵士向けの風俗店や衣料品店や中古車店などが軒を連ねている地区がある。ベトナム戦争時に、これらは多いに賑いを見せたようだ。つまりここでは一定程度閉鎖された空間ではありながらも、その外側へ経済効果を及ぼしている。
だが、ここでそのような現象がほとんど起きないのはなぜか。様々な要因があるだろうが、一番大きいのはやはり大泊/コルサコフの地元商業や生産活動が頼りにならないことであろう。つまり、すべてを船舶で西側諸国から搬入してしまうほうが、リスクが低いのである。この点に、樺太/サハリン経済の貧弱さが見えてくる。
だが、一方で、外資による開発事業というのは、やはり、地元経済への波及効果が小さく、現地住民にとってはあまりメリットはないのではなかろうか。
ちなみにここには戦前、女麗(めれい)というれっきとした集落が存在し、旧深海村の役場が置かれたほどであった。しかし、ソ連占領後、漁業は社会主義的に集団化され、小規模の自営沿岸漁業は行われなくなった。このため、この付近の漁村はすべて廃村になって、この集落の建物も全て取り壊された。そして、海岸沿いをむすぶ道路も必要なくなった。成様いわく、つい3年前まで草原が広がっていただけだったとのことである。
生産様式の変化は、空間編成を大きく変える。この女麗/プリゴロドノエの空間もまた、日露戦争、ソ連型社会主義という苦難の歴史を潜り抜け、いま新たな局面に入りつつある。
私たちは、午後1時頃、女麗/プリゴロドノエの丘を出発した。周囲の浜辺では幾人かのロシア人が海水浴を楽しんでいる。おそらく気温は25度程度しかないので、私たちの感覚では寒すぎるように思うのだが、やはりロシア人にとってはこれでも夏真っ盛りなのであろう。街中でも肌の露出度の高い服を着ている人が多い。
大泊/コルサコフ中心部への道すがら、野原の中にゴミの山を見つけた。豊原/ユジノサハリンスク郊外でも、23日に同じような場所を見た。他方、LNG工場桟橋の建設時には、クレーンを用いてかなり深く海底を掘り、掘った土を船で運び出すという作業が続けられたが、付近に魚が集まる時期は掘削工事ができなかったという。ロシア政府が外国企業に対して環境基準の厳格な遵守を要求している一例であろう。だが、その差は大きすぎる。それを見る限り、ロシアという国が実際に環境問題解決のため真摯に取り組んでいるとは到底思われない。
10数分走ると、大泊/コルサコフ港に近い広場に到着した。この広場は、車が適当に停めてあり、駐車場のような雰囲気である。周囲にはいくつか社会主義時代に建てられた5階建て前後のビルがあり、そのうちの一棟は港湾事務所のビルである。一階部分が広場側へ張り出すように増築されている部分には、レストランが入っていた。港湾事務所が土地もしくは建物を貸しているようである。公的施設が民間的なことをするのは。市場経済化後の新しい現象であろう。私たちはそこで昼食をとることになった。
内装はそれほど豪華ではないが、清潔感がある。前には舞台があり、夜になるとそこで音楽が演奏されるのだろう。YAMAHAと書かれたキーボードやオーディオ機器はどれも真新しく、最近日本から輸入されたものであるようだ。さらにメニューには英語の表記もあり、デザイン的にも大変見やすかった。港の出口すぐのところにあるので、おそらく、外国人船員なども立ち寄るのではないかと思われる。
スープは60ルーブル前後、冷製スープ、ボルシチ、そして日本では見られない赤いビートのスープの三種類があった。この昼に出された料理は、サラダとパン、スープ、さらに魚料理であった。気が利いていて、値段がそれほど高くないのもよい。ちなみに、暖かいスープには大抵入っているサワークリームは、「スメターナ」と呼ばれている。私たちの大学の近所には、その名をとったロシア料理店がある。
料理はおいしかったが、この日は、朝から何人ものゼミ生が次々と腹痛や発熱といった体調不良を訴え出していた。この人たちは、食事がのどを通らなかったようである。
午後2時45分頃、食事を終えた私たちは、大泊/コルサコフ市街地を歩き、日本時代の建物をいくつか観察した。
北海道拓殖銀行大泊支店跡は、この都市で日本時代の建造物が残る数少ない例である。古典的デザインの重厚な石造り二階建てである。ドアの上の壁には不自然にコンクリートで固められた跡がある。ここには、かつて拓銀支店であることを示す文字が書かれていたものと思われる。だが、拓銀のロゴである星印と外壁から飛び出した羊の顔は健在であり、昔の面影を残している。ちなみに、羊は北海道をイメージしたものだそうだ。
石造りの部分の裏にモルタル作りの部分があり、これは、増築されたものだと思われる。表から見る範囲では、ソ連時代に建てられた周囲の単純な造りの建物に囲まれて、ひときわデザインの細やかさが目立ち、歴史を感じさせる。だが、壁にはひびが入り、窓ガラスが割れているなど、建物の保存状態が悪い。
ソ連時代は国立銀行の支店として利用されていたようだが、現在は何にも使われていない。それでも建っているのは、大泊/コルサコフの都市経済が十分成長せず、ここに土地の需要がないからである。いわば「消極的保存」という状態になっている。
この前の通りは、メインストリートである本町/ソビエツカヤ通りである。道沿いに、もう少し奥に進むと、「アルビータ」というチェーンの家電販売店もある。ソ連占領後は、車道の両側に街路樹が植えられ、歩道が造られたようだが、現在歩道のタイルはぼこぼこで、所々でタイルが剥がれており、あまりきれいだとは言えない。
次に私たちが訪れたのは、大泊町立栄町中学校跡である。校舎はソ連時代にそれまでの木造からコンクリート造りに建て替えられたようだが、現在も学校であることには変わりない。現存する奉安殿が、日本時代の面影をとどめている。奉安殿とは御真影(天皇・皇后の肖像)と教育勅語が置かれる建物のことであり、戦前は日本の学校ならどこにでもあった。しかし、戦後は、天皇制支配の解体を目指すGHQの命令によってほとんど全て取り壊された。だが、樺太/サハリンではGHQの影響力が及ばなかったために、逆に奉安殿が取り壊しを免れ、今日まで残っているのである。戦前の奉安澱の実物を見たければ、樺太/サハリンまで来なければならないとは、皮肉な話だ。
奉安殿はれんがで丈夫に作られており、一時は倉庫として使われていた様子であるが、今は何にも使われず、放置されているだけだ。壁面には落書きがされている。
このときは夏休みだったので、校内は閑散としていた。また、バスケットボール用のコートがあったが、なぜかそこには自動車が二台あり、コンクリートの板を置いて人工的な坂が作られている。校舎の外壁の看板を見ると、自動車教習所を臨時に開設しているようだ。普通の学校の中になぜこのような施設が存在するのかは、疑問である。校庭が使われない夏休みに、それを利用して学校が小さなビジネスをしているのだろうか。
最後に、海岸近くの倉庫群を訪れた。そして、これらの倉庫のうち、頑丈なレンガ造りのものの一部は現存している。入り口がアーチ型になっており、北海道の小樽で今や観光地となっているレンガ倉庫と造りが似ている。同時代に建造されたものと思われる。また日本時代から残る石造りの船の修理工場も見られた。
ただ、建物のないところでは道路の穴や開いたマンホールなど、ありとあらゆる穴に大量のゴミが捨てられており、汚らしい印象を受けた。
午後3時半頃、時間が来たので、再び大泊/コルサコフ港前の広場に戻った。巡検に同行していた韓国ご出身の徐鳳晩先生は、29日に、現地の韓人協会でインタビュー調査をしたあと、30日の稚内行きフェリーで日本に帰ることになっている。このため徐先生は、バスで、豊原/ユジノサハリンスクのモネロンホテルに戻った。私たちは、大きなバスに一人乗って去っていく徐先生の姿を見送った。
私たちは、歩いてすぐのところにあるフェリー乗り場へと向かった。なにやら大きな荷物を抱えたロシア人がたくさん集まっている場所を見つけたので、行ってみると、そこは1週間前に私たちが稚内から到着した際に入国審査を受けたフェリーターミナルの建物である。これから私たちが向かう国後/クナシル島は、ロシア側では国内と認識されている地域であり、出入国審査などは要らないはずだったので、場所を間違ったのかと思ったのだが、これでいいらしい。どうやら大泊/コルサコフ港からフェリーに乗る場合は、国内航路・国際航路の関係なしに、すべてこのフェリーターミナルで乗船手続きを行う仕組みになっているようだ。
建物内に入ると、隣の部屋との間のドアのあたりに10人ほどのロシア人が群がっていた。その前で乗船券の確認が行われているらしく、それを待っているのである。
それにしてもこのロシア人たちのの荷物の量がすさまじい。我々も水岡先生をはじめ、かなりの大荷物を抱えている気でいたが、到底かなわない。ロシア人たちは、単なるカバンのみならず、樺太/サハリンで買いこんできたと思われるシャープのテレビなど家電製品をいくつか持っている。また、大人ばかりの集団であったが、かわいらしいミッキーマウスの絵の描かれたカバンもあった。海賊版かもしれないが、ディズニーの文化がロシアの辺境にまで進出しているというのは、米国主導のグローバル化の象徴ともいえようか。
しばらくすると私たちは、成様から乗船券を受け取り、券の確認所を順に通過した。券は緑色の薄い紙で頼りない感じではあったが、キリル文字で「Южно Курильск」(ユジノクリリスク/古釜布)と行き先がはっきり書かれているのを見て、感動を覚えた。運賃は片道2,900ルーブルであり、別途シーツ代として船内で90ルーブル徴収される。稚内から到着した際にこの辺りに置かれていた荷物チェックの機器は、隅へ退けられていた。
稚内から到着した際にパスポートチェックのために並んだ部屋で、椅子にしばらく座って待っていると、16時半頃、乗り場へのバスが現れた。バスに乗らなければならないのは、大泊/コルサコフ港には長い桟橋があり、乗船手続きを行う陸上と船の停泊している桟橋が若干遠いからである。また、人々が港を勝手に歩き回らないようにするという保安上の理由もあるのであろう。
まず、バスの下部のトランクに荷物を詰めた。ロシア人たちの荷物が多すぎたのか、全員分の荷物を入れることができない。そこで私は、キャリーケースを上部の客席に乗せた。ちなみにバスは1週間前に乗ったのと同じ、北海道の宗谷バスの中古であった。バスの中には、かつて日本で使われていたときの名残で、「化粧室」という札がついていた。もちろん、今は使えない。また後部の非常口横の座席は取り外され、ここからも乗り降りできるようになっていた。
窓の外に目を向けると、港には中型貨物船が何隻も停泊していた。どれもあまり綺麗な感じではない。
乗り場に到着してバスを降りると、早速乗船である。船は、稚内からのフェリーよりも断然大きい。船の下部は青、上部は白に塗装されており、その白い部分には、キリル文字で「イゴール・ファルフトディノフ」と書かれている。この船名は、カムチャツカ半島上空の飛行機事故で無念の死を遂げた、前サハリン州知事の名前から記念に採られたものである。前知事は、大変に人気のある政治家だったようた。
乗船時は、船から降ろされたはしごのような階段を登る。だが、これが怖い。傾斜がゆるすぎて、ステップにうまく足を乗せられない。下が見えるうえ、手すりも頼りなく、重い荷物を持っているにも関わらず非力な私はよろめいた。
階段を上りきったところでパスポートと乗船券をチェックされ、そのまま預けた。パスポートを持っているのは日本人である私たちだけだと思っていたのだが、ロシア人も全員パスポートを持っていた。千島/クリルは国境地帯であるから、当局が外国人を警戒するというのは理解できる。しかし、単なる国内移動をするだけのロシア人までもが、パスポートを携帯しなければならないというのは、日本の感覚では考えられないことである。
ようやく全員無事、船に乗り込むことができた。だが、受付前の狭いロビーのような場所に大勢の人が溜まっていて、なんとなく窮屈である。低い天井と薄暗い照明のおかげで余計に息苦しい感じがする。しばらくすると受付窓口で、部屋の鍵が各々に渡されて、それを受け取った私たちは指定された部屋へ向かって移動を始めた。
まずは細長い廊下をまっすぐに歩く。床はえんじ色、壁は板張りで、やはり薄暗い。さらに階段を下りてすぐのところにあった3部屋が私たちの部屋である。部屋の中は窓が丸くて小さいこともあって、これまた薄暗い。潜水艦に乗っているような気分になる。それなりに大きな二段ベッドが左右に一つずつ置かれている。二段ベッドの上の段は収納式になっており、下の段はソファにもできるようになっている。さらに部屋によっては机と椅子が一組置かれており、コンセントも備わっていた。
このように、設備はいささか薄汚くはあったが、生活するには十分であった。ただ、大きな問題は換気がほとんどできないことでる。部屋が船底に近いので当然窓は開けられない。天井にある換気用の送風口のようなものがあるのだが、その口が狭すぎてほとんど役に立っていない。そのため乗船時は非常に蒸し暑く、息苦しかった。乗客は皆こう思うのだろうか、少しでも外気を取り込むために、送風口が何度も捻じ曲げられているようだった。私と同じ部屋にいた成様も暑さに耐えかね、力いっぱい送風口を捻じ曲げた。
荷物を置いて落ち着いた私たちは、部屋を出て甲板へ移動し、船全体の簡単な構造を把握した。この船は3〜6階が客室になっており、そのうち、3・4階が3等客室に、2等客室はなぜか存在せず、5階が1等客室、6階が特等客室になっている。そしてそのさらに上部に操縦室がある。また4階の一部は甲板になっており、そこにはいくつもコンテナが積まれている。この船は、民間の旅客と貨物を一括して取り扱う、千島/クリルの人々にとっての生命線なのである。
日本のフェリーでよく見かけるロビーはなかったが、一般客がくつろげる場所として、代わりにバーがあった。受付窓口では、湯がもらえるし、船内で読む本も貸してくれる。
トイレと洗面所とシャワーについては、この3つの機能が一つの空間にまとめられている。女性はシャワーが一日中利用できたが、男性は夜に時間が設定されており、それ以外の時間はシャワー室にカギがかけられてしまっていた。シャワーは温度調節のようなものは無い簡素なつくりだったが、それでも毎日無料できちんとシャワーを浴びられるのは助かった。トイレは、お馴染みの便座が無いタイプで、紙は備え付けてあった。
ちなみにこの航路にイゴール・ファルフトディノフ号(ポーランド製)が就航したのは2年前のことであり、それ以前は「マリーナ・ツベタエワ号」という船が使われていた。(注)2001年にロシア・ビザを取得して、大泊/コルサコフ経由で国後島を訪問した人のHPの情報によると、マリーナ・ツベタエワ号の時代には運航の遅れが数日単位であったようで、現在のイゴール・ファルフトディノフ号は遅れても数時間程度であるから、信頼性は大幅に向上したといえる。また、さらに昔の航路は、ウラジオストクを出航し、樺太/サハリンに寄り、北方領土を回り、またウラジオストクに戻るというものであったため、寄港する頻度は著しく少なかった。もちろん、現在これは廃止されている。
午後6時20分頃、ようやく出帆の準備が整ったらしく、船の煙突から黒煙が上がった。その10分後、船がゆっくりと埠頭を離れた。時刻表と、30分くらいしか違わない。この「イゴール・ファルフトディノフ号」によって、千島/クリルへの輸送路がいかに改善され、千島/クリルがしっかりとサハリン州に空間統合されることなったか、わかるというものである。
ここから択捉/イトゥルップ島、色丹/シコタン島を経由して国後/クナシル島の古釜布/ユジノクリリスクまで、予定では46時間のオホーツク海のクルーズである。私にとっては気の遠くなるような長さの船旅であったが、疲れなどで体調を崩したゼミ生にとっては回復のための絶好のチャンスであった。
出港してすぐ、勇ましい音楽が大音量で流れ出し、船内はまるで、これから千島/クリルめがけて戦争に行くかのような雰囲気に包まれた。ソ連かロシアの軍歌であろうが、もちろんこの曲を聴いたのは初めてである。ゼミ生の中にはクラシック音楽に詳しい者もいたが、曲名はよくわからないようである。
その後、しばらくして甲板にでてみると、10歳前後と思われるロシア人の子供3人が駆け回り出した。華奢な男の子が体格のしっかりした女の子に蹴られているではないか。私は自分がこのくらいの年だった頃のことをとっさに頭の中でオーバーラップさせた。この年頃では女子の方が男子より成長が早いというのはよく聞く話であるが、このような光景も万国共通なのだろうか。
その後部屋に戻った私たちは、19時頃からミーティングを行った。国後/クナシル島でのスケジュールについて水岡先生から注意があった。島内での活動は国境警備隊の監視が常について来るであろうということである。しかし、過度にそれを恐れる必要はないという成様の言葉もあった。
それに続いて、成様から船内での生活に関する説明があった。これより前に船内放送で流れていた情報を、日本語にして要約したものだった。それによると、食事はチケット制であり、メニューの選択はできない、つまり学校給食のようなシステムとのことだった。だが、朝食は40ルーブル、昼食は70ルーブル、夕食は50ルーブルであり、非常に安価なのはよい。また、治安面で、貴重品を自己管理すること、薄暗くなったら甲板には出ないようにとの注意があった。過去にこの船で、乗客が他の乗客に甲板から海に突き落とされた事件があったらしい。
その後、私たちは、夕食の食券を買いそびれていることに気づいた。だが、成様の交渉により、現金払いで夕食をとれることになった。
食堂は、窓が4つほどあって電灯も多く取り付けられており、明るい印象である。テーブルは全部で7つあり、一度に36人ほど利用できる。壁には絵が飾ってあったりするが全体として簡素なイメージだ。それでも、清潔感があり好感が持てる。
この日のメニューはパンとホールトマト、ソーセージ、蕎麦のお粥という比較的質素なものであったが、腹はそれなりに膨れたし、味もそれなりであった。値段を考えると、なかなかリーズナブルと言えるだろう。また、マリーナ・ツベタエワ号の時代には、船内の食事は日に一回で、しかも冷たいものばかりだったらしく、そのことを考えれば、随分改善したといえる。
薄暗い船内や安価で質素な食事。このイゴール・ファルフトディノフ号はソ連色が濃厚に出ている。とりあえず船に乗っている二日間は非常に美味しいものは食べることはできないが、一日三食が確実に提供されることに多少の安心感を得て、この日は眠りについた。
(渡邊 康太)