・カナダ製のプレハブで生活する、ネフチゴルスクの被災者たち
・息を吹き返したモスカリボ港に、くず鉄の山
・ニブヒ族の村、ネクラソフカで
・南にUターン、石油採掘基地のあるチャイウォへ
・奥地に突如現れたテント群〜チャイウォ
・チャイウォから再びノグリキへ
・オイルマネーで潤う街の、真新しい教会とヨーロッパ風スーパー
午前6時半、オハのホテルで目覚めた。
窓から外を眺めると、左右、前方には同じような社会主義住宅が並んでいる。住宅のバルコニーを見ると、巨大な目のような印が2つならんでつけられていることに気づいた。鳥除けかと思ったが、ただの装飾かもしれない。1970年代になると、人々の社会主義体制に対する上満が表出してきたので、住民のアメニティ向上のため、社会主義住宅の外見にも気を使うようになったとのことである。そのための装飾だとすると、このあたりの社会主義住宅は、比較的建ってから新しいのであろう。
7時35分、ホテルのロビーに集合、出発した。
数分車を走らせると、ネフチゴルスクで被災した人々のためにロシア政府が購入した建物があった。これは、普通に見られる集団アパートではなく、カナダ製の一戸建て住宅である。社会主義住宅と違い、各住人に1階と2階が与えられる。これは、プレハブ式住居なため数ヶ月で組み立て可能であり、カナダと似た気候であるということもあって、政府は被災者の代替住居をカナダ式の住居に決定した。他にオーストラリア製の住居という選択肢もあったという。なお、これは、被災者用の仮設住宅ではなく、恒久住宅である。
ネフチゴルスクの災害で、たくさんの人が、豊原/ユジノサハリンスクをはじめ、オハ、ハバロフスクなどに移り住んだ。これらの新天地の選択は自由に決められたが、移住地を決めるに当たっては、就職の関係が大きかった。オハには、約250人が移り住み、多くの人々が石油関連事業の職に就いたのだそうだ。
カナダ式住居の中の一軒では、家の入り口で犬と猫を飼っており、その様子から被災してで移り住んだ人も、ペットを飼えるだけの余裕と安定があるのだと伺える。
樺太/サハリンでは、たくさんの人が車を持っている。しかし、住居の前にはほとんど車は止まっていない。家のそばに車は置けず、家から離れたところに駐車場があり、警備員が警備している。自宅に車を止めておくより、防犯効果が高いという。
オハの街を出て、私たちはモスカリボ港に向かった。
車窓からは、緑の中に時おり、窓ガラスは割れトタン屋根でできた工場の廃墟も見られた。その建物の向こうには、コンクリートの柱だけが残った建物も見えた。かつてソ連時代に繁栄していたころなど、もはや想像もできない。
だが、ノグリキとモスカリボとの間の道路は、サハリンプロジェクトの資材を運ぶトラックのために、ここ1〜2年、再び急ピッチでインフラ整備が進められている。この間の道路も、舗装はもちろんまだなされていないが、ローラー車が赤土を足したり踏みならしたりして、道路を平らにする作業を行っていた。
道中、ふと右側を見ると私たちの道に沿って電線がしかれている。それとは別に、昔使われていたであろう電線が面影を残し、電線をつけたまま倒れていたりする光景を何度も見た。これらの昔の電柱は一本造りで枝を無造作に切り、皮をはいだだけの簡素な造りだ。それに対して、今使われている電柱は鉄か何かの金属でできている。しかしそれも今はもうさびて赤褐色になっている。
8時半に、モスカリボ港に到着。
このモスカリボ港は、ソ連崩壊後しばらくのあいだ、廃港となって使用されておらず、5〜6年前に成様が来たときは、まさに死んだ港だったという。その後、改修が始まり、港としてよみがえったのはごく最近である。現在では、大泊/コルサコフ、真岡/ホルムスクとならぶ、樺太/サハリン島の重要な商業港湾として成長を始めた。
港からバイカル湾が見え、その向こうに対岸がうっすらと望めた。気温は出発したオハに比べて急激に下がり、Tシャツではもう寒い。15度前後だろうか。港に近くには、日本タンポポやハマナスが主に咲いていた。北海道と同じような?生もあることがわかる。
モスカリボ港の貨物の積荷の現場は立ち入り禁止で、その入り口のフェンス前には警備員がいる。私たちが車を降りフェンス前をうろうろしていたら、上審者と思われたらしく、それまで紐につながっていた犬が放された。危ないということで、いったん車に戻る。
成様が、見学させてもらえないか、交渉に行った。帰りを待つこと10分。やっと戻ってきた。車内から見学するならよいということで、許可を得た。内部を歩き回るには、ヘルメット・長靴を着用しなければならないようだ。
港の前には継ぎはぎしたような古い建物がある。ここでも、樺太/サハリンでは当たり前の老朽化した建物が並んでいた。働いている従業員の靴を見ると穴だらけである。
モスカリボ港内部に入るとまず見えるのが、数機の巨大な貨物積荷用クレーンである。その隣にあるくず鉄の山には圧倒された。ビル5階建てくらいの高さだろうか。樺太/サハリン島内の廃墟工場などで出たものを、ロシア本土などの製鉄工場に輸送するのであろう。そして、このクレーンから少し離れたところにあるのが、巨大なジャッキクレーンである。これも貨物積荷用である。
港には、香港の会社スワイヤのロゴをつけた貨物船が停まっていた。また、かつては港内にまで鉄道が延び、昔はオハからここまで汽車が来て、貨物を直接積み込んでいた跡が見られた。この鉄道は、樺太/サハリン島内で唯一のロシア本土と同じ軌間であったが、すでに廃線となり、レールもほとんどすべて撤去されている。
この港でも、樺太/サハリンの様々な工事現場で見られるように、日本製の工事車両がたくさんあった。KATOの重機や「神戸{営}1615」と書いた大型ダンプカーなどである。
モスカリボ港の視察を終えて、私たちはネクラソフカに向かった。
この道路に沿ってずっと何かのパイプラインが伸びている。何のパイプラインか成様に聞いたが上明であった。成様によると、輸湯用のパイプラインは判別しやすく、パイプの周りに断熱材が巻かれているものだという。このことから、このパイプラインは少なくとも輸湯用ではないとわかった。石油輸送用だろう。
9時20分、ネクラソフカに到着。ここの住民はほとんどがニブヒ族(かつて、「ギリヤーク」と呼ばれたこともある)である。私たちの目的は、ニブヒ族の方にインタビューすることだ。実は、ネクラソフカは「ニブヒ族の街」として世界的に有名で、前日も、日本の首都圏の某国立大学から、民俗学の研究者がこの街に調査に来ていたという。
私たちのために、グローバルな環境団体であるFriend of the Earthと連携する「サハリン環境ウォッチ」が、村会議員のザキロブナKravchuk Lyudmila Zakirovnaさんを紹介してくださっていた。
私たちは、木造の一戸建てが立ち並ぶ街角に、インタビューのアポを取っていた、ザキロブナさんを訪ねた。だが、今日の約束を忘れてきのこ取りに出かけ、帰ってくるのが夕方だという。ほのぼのとした村は、人の感覚もマイペースで流れているようだ。そのことに対し焦る日本人が、また、その光景に対照的に映り印象的だった。
路面が荒れた村の道で、野良犬が何匹もたわむれている。
<ソ連によって集団移住させられたニブヒの人たち>
ザキロブナさんに代り、午前9時55分、ニブヒ族の代理の方がインタビューに応じてくれることになった。ニブヒ族で出版している新聞『ニフジフ』の記者、フリューンAlexandra Khuryunさんである。
幸い好天であったので、私たちは、フリューンさんの案内で海辺まで移動し、樺太/サハリン島最北端に伸びる美しいシュミット半島を眺めながらインタビューすることになった。
このネクラソフカ周辺の海では、夏はサケ・マスがとれ、冬はコマイ・キュウリウオ(子ニシン)がとれる。ニブヒ族はもともと、漁撈や、トナカイなどの狩猟に基づく採集経済で生計をたてており、集落は分散していた。移動手段は犬ぞりで、一人一匹犬ぞり用の犬を持っていたものだったという。きもの・靴は魚の皮で作っていた。
それがなぜ、このネクラソフカに集住するようになったのだろうか。
ソ連になってから、ニブヒ族の集落は「漁業コルホーズ」にまとめられた。1930年代には漁業が盛んで、オハの地域には、15〜6個のニブヒ族の漁業コルホーズが存在していた。
ところが、この漁業体制は1960年ころの政府の漁獲制限で変化した。1960年ころ、政府が、「水産資源の保護」などと理由をつけて漁獲制限を行ったため、採算の取れるコルホーズが減少し、コルホーズは合併され始めた。この漁獲制限に対してニブヒ族は抗議したものの、その努力もむなしく漁獲制限は施行された。
結果的に1970年には、この周辺のニブヒの人たちは、クラスノヤザレヤ(「赤い朝焼け」という意味)一つのコルホーズにまとまることを余儀なくされた。このころはまだ、コルホーズの労働者が住んでいるところはばらばらで、コルホーズがまとまっただけであったが、次第にその利便性ゆえ、このクラスノヤザレヤのある町、ネクラソフカにニブヒ族が集まるようになっていった。なお、他のニブヒ族の集住地として、南部に、敷香/ポロナイスクがある。
この一連の変化は、社会主義を進める当時のソ連政府が、民族主義を抑えて管理しやすくするために、裏で意図して、少数民族を移住・統合させたと見ることができるだろう。
クラスノザレヤに関わっているニブヒの人たちは人口が約600〜700人で、この数字は1970年くらいから横ばいである。
ソ連が崩壊すると、コルホーズは衰退し、代って家族経営の漁夫が増えた。
漁業条件は、敷香/ポロナイスクのほうがよい。ネクラソフカの2?近く魚が取れるという。ネクラソフカは、アムール川(黒龍江)の河口が近く、その川沿いにあるパルプ工場が海へ汚染物質を流し、それがネクラソフカにも流入して漁獲量を減少させているのではないか、とアレキサンドラさんは疑問を呈した。それだけでなく、アムール川では、それに流れ込む支流の松花江(スンガリ川)などの沿岸にある中国の工場が水質を汚染している可能性も考えられる。
<母語を忘れつつある人たちに、政府の新聞>
次に、このフリューンさんが記者を勤める『ニフジフ』という新聞についての話題となった。
この新聞は、ソ連末期の1990年1月1日から発行されている。サハリン全土に発行され、サハリン州政府は、「ニブヒ語を保護・浸透させ、ニブヒ族の文化を保護し次世代に広める」ことを名目に資金助成を行っている。つまり、これは政府の広告紙的な存在であり、独立紙ではない。記事はここネクラソフカでまとめるが、印刷設備が無いので、遠く豊原/ユジノサハリンスクの印刷工場に印刷をさせているそうだ。
新聞に用いる言語は、ロシア語とニブヒ語の比が1:1だ。というのも、実際、ニブヒ族の家の中での日常会話もロシア語が広まり、現在のニブヒ族の小学生はニブヒ語をあまり話せなくなっているからである。
ニブヒ語の文字は1930年ころ、ラテン文字に基づき作られた。ところが、これは上便だという理由で、1965年ころから、キリル文字に切り替えられた。ロシア政府がニブヒ語を禁止していた時期もある。これらは、ソ連の社会主義での「民族を焼き尽くせ」という民族主義の排斥、そしてニブヒ族のロシア化という政府の意向を反映していた。民族学校が閉鎖され、それとともにニブヒ語もどんどん衰退していった。民族の自尊が失われつつあったのだ。この新聞ももっと早くから発行されるべきだった、とフリューンさんは語る。
しかし、近年は、『ニフジフ』紙の発行や、学校でニブヒ語の普及が始まったことにより、ニブヒ族の自尊心も蘇りつつある、とおっしゃられた。そうだとすれば、たいへん喜ばしいことである。
<生活様式を変容させる、外部からの影響>
話題は、サハリンプロジェクトがニブヒ族の生活に与える影響になった。
フリューンさんによると、サハリンプロジェクトは、ニブヒ族にとって悪影響しか与えていないという。そもそも、サハリンモルネフチガスは、最近では海から内陸へと石油生産の場を移動し、山林の破壊を急激に進めている。サハリンプロジェクトに関わっている企業は、ニブヒ族支援として新聞発行の資金援助を行っているそうであるが、それに対する感謝の言葉はなかった。懐柔を図っているとすれば、その対費用効果は乏しいようだ。
新しい石油産地ができると、石油会社はその場所の森林をすべて伐採するそうだ。これによって、ニブヒ族の伝統的な食料であるトナカイの数が15,000頭から4,000頭に減少した。また、大陸棚での海上石油開発では、魚が逃げていったり、石油やフェノールくさい魚が増えたりした。特に6月の氷が解け出す時期は、採った魚は臭くて食べられないという。サハリンエコロジーという環境団体がサハリン州政府に抗議をしてはいるが、何の効果もないという。
パイプライン建設について、フリューンさんは3つの悪影響をあげられた。一つは、自然破壊が進むこと。二つ目は、ニブヒ族の中でトナカイを家畜として飼っている人々のための放牧地がなくなること。3つ目が、パイプラインが地震で破壊される可能性があり、ニブヒ族に上安を与えることである。工事が終われば、確かに川の水もきれいになり環境への影響は減少するだろうが、上記の3つ目の心配は残る、と彼女は語る。
インタビューが終わったあと、私たちは車で、再びネクラソフカの集落に向かった。今では、ニブヒ族の伝統的な生活様式はなくなりつつある。ニブヒ族も社会主義住宅に住んでいる。集落内では、学校が目に入った。教育などの基本的な社会インフラは、整備されているようだ。
アレキサンドラさんのインタビューの後、『ニフジフ』の会社の前まで行き、見本紙をくださった。会社は、社会主義住宅のなかにある、小さなものだった。
<突然請求された、100米ドルのインタビュー料金>
そして、私たちは突如、インタビュー代として100米ドルを請求された。事前には、何も知らされておらず、最後になって帰るときに突然請求された。本来、インタビューは無償で行う利他的行為であろうが、このような金銭的対価を受け取る慣習がニブヒ族の間にできてしまっていることを知って、たいへん残念に感じた。
また、私たちがロシアに米ドルの現金を持ってきていることを、当然のように考えているようだ。聞くと、前日に来た日本の某国立大学の人類学教室の関係者も、謝礼として米ドルの現金を与えたらしい。こういうことが繰り返されて、インタビューを受ければ外国人にお金を要求するという習慣がニブヒ族の間にできてしまったようである。おなじ樺太/サハリンの住民でも、白人のロシア人は、こうした金銭要求はしない。私たちは、既にいただいたご好意を前に、どうすることもできず、緊急用に用意してあった米ドル現金のなかから要求された額を支払った。ニブヒ族の生活をかえているのは、どうやら、サハリンプロジェクトやアムール川ぞいの生産活動だけではないようだ。
その後、私たちは、再びオハに戻った。
当初は、オハの広場横にあるバーベキューで昼食をとる予定だった。前夜にもこのバーベキューのお店に立ち寄り、「次の日の昼は開いているか?」と尋ねたところ、営業しているときっぱり言っていた。ところが、実際に訪れてみると、閉店していた。
次に私たちは、オハにある郷土博物館を訪問することにした。ところが、博物館の前まで行くと、通常なら開館している時間に、やはり休館していた。実は、樺太/サハリンのお店や博物館の営業時間はかなり曖昧で、よく変更するらしい。この習慣は巡検中幾度も痛感する機会があった。
仕方がないので、街から出たところにあったお店でめいめい昼食を買って食べることとなった。博物館などではトイレを貸してもらえず、また、トイレ休憩の時間も取れないということで、トイレの機会を失ってしまった。
私たちは、日本のある列島で最北の都市をあとにし、今度は南に向かって、次なる目的地、チャイウォへと出発した。
当初の計画では、間宮/タタール海峡の最狭部にあるパギビという集落を訪問する予定であったが、自動車が通れる道が全く無いという情報を得たので断念し、昨日の午後に来たのと同じ、洗濯板のように波打った未舗装の道を戻ることにした。
街を出るところに、「ユジノサハリンスク 847km」という道路標識を目にした。私たちは、これだけの距離をここまで移動し、またこれだけの距離を戻るのだ。
しばらく舗装が続いたが、オハ郊外の最後の集落を過ぎると、砂利道になった。
今日の天候は晴れ。整備されていない道路を埃を巻き上げて走行するため、ドライバーから窓を開けることは堅く禁じられていた。無論、車のクーラーも効かない。車内の気温は上がり続け、ここが北海道よりも北の樺太/サハリン島の、これまた最北端の場所にいることは忘れさせるような、うだる暑さ。
高木のない赤土が多く露出した大地とこの暑さは、北国というよりは、熱帯のサバンナ(ケッペンの記号ではAw)のあたりを連想させた。しかし、ここは冷帯である。ケッペンの気候区分では、樺太/サハリン全島が降水量の十分なDfcとされているようだが、この乾燥した?生景観からすれば、シベリア東部に広がるDwのほうがふさわしいようにも思えてくる。
冷帯では、?物の遺骸が上完全にしか腐らないので、泥炭となって堆積して湿地帯となり、そのところどころに池塘と呼ばれる池が点在する。
これは、日本では,尾瀬ヶ原などで有名な高層湿原の自然景観であり、関東地方ならば、標高1000mをこえないと現れない。それがここ樺太/サハリンの北部では、標高がほとんどない海岸沿いで見られる。地理の授業で学んだ、?生の水平分布と垂直分布の共通性を、肌で感じとることができた。
午後2時45分に、ガソリンを入れるため、10分くらい休憩した。といっても、ガソリンスタンドがあるわけではない。道の途中で停まっているトラックから、横流し形式でガソリンを分けてもらうのだ。このガソリンは、政府から自分の会社に割り当てられたガソリンで、それを安く横流ししている、ヤミ給油であり、道路を通過するときには、精通していなければ、それがガソリンを売っているトラックだとはわからない。
車が停まった時に、辺りを見回すと、高木はまったくないが、潅木が生い茂っていた。すぐそばに、狭軌の軽便鉄道の線路が走っている。
道の反対側の潅木林の奥には草原があって、池塘がのぞいていた。そこから小川が流れ出しており、泥炭の成分が含まれているのか、水は茶色く汚れていた。しばらく待ったが、ガソリンを分けてもらえないことがわかり、むなしく出発した。
2回目の停車したところでやっと給油してもらえることになった。給油は運転手自身が、そのヤミ給油の男と数分間交渉しに行った。その後、私たちの乗ったデリカの後ろの荷台から給油缶とパイプを取り出し始めた。どうやら、無事ガソリンを売ってもらえることになったのだろう。車に乗せてあったパイプを使って給油缶に自分でガソリンを詰めるだ。運転手さんは、手が真っ黒になっていた。
樺太/サハリンの、特に北部を運転するドライバーは、激しいでこぼこ道に対応できる高い運転能力だけでなく、
道の状況、車の整備、食料調達、給油方法、クーラーの効かない車内で何時間も運転し続ける体力と忍耐力など、様々なことに対応できる能力が必要とされる。これだけの能力を持つ人が、日本から中古車を何台か買って、運転手つきレンタカー会社を起業し、旅行会社と契約して、われわれにサービスを提供しているというわけだ。オハのホテルといい、このレンタカー会社といい、市場経済のロシアには、能力と才覚、そして多少の資金があれば、結構ビジネスチャンスがころがっているのかもしれない。
ノグリキに行く道を左に折れて約15分くらい進み、午後3時45分にチャイウォ付近に到着した。ここは、エクソンモービルがオペレータとなって全面的な開発の主導権を握り海上ですすめている「サハリン1」の、地上基地である。
入口は、モンゴルのパオの屋根部分を、モスクのような形にしたテントのような、建物が立ち、その横には石油をためるのであろう銀色の巨大タンクが、何基もあり、まるで、秘境に現れた秘密工場のようだった。私たちには見えなかったが、その向こうにはたくさんの建物があり、生活物資から住宅、娯楽施設まであり、一つの街を形成しているという。
周りの環境からは完全に隔絶され、施設内の見学もできず、写真も門の前の車が立ち入るところからしか撮影が許されなかった。NHKのカメラが入ったことはあるそうだが、ロシア語の通訳は立ち入りを許されなかったという。内部はエクソンモービルが取り仕切っているので、すべて英語で用が足りるという理由だ。
工場の周りの森林は、なぜか広範囲で山火事のために枯れていた。あまりにも、工場の周りでうまく山火事が起こった様子を見て、伐採の手間を省くための故意の野焼きではないかと疑うゼミテンもいた。
ここで採取された石油が日本へ輸送される際は、いったん間宮/タタール海峡経由のパイプラインでロシア大陸に渡り、そこのデカストリ港から日本向けタンカーに積み替えられる。だが、天然ガスは、全量が中国に送られることが、私たちの帰国後に決まった。
チャイウォを出て、しばらく行くと車窓から、かなり遠目に石油採掘現場のしるしである炎が見えてきた。はるかかなたの、海上油田であろう。石油採取時に出る排ガスを燃やしているのである。
午後5時、サハリンモルネフチガスが陸上で同じように排ガスを燃やしている現場を見学した。この近くに、ニブヒ族の人が言った陸上の石油採掘現場があるのかもしれない。
このあたりはなお、ところどころに地塘があり、海岸沿いに高山地形が広がっている。
午後5時40分、私たちは長い長い車のたびを終えて、ノグリキに再び戻ってきた。オハも、ノグリキもオイルマネーに潤う街。豊原/ユジノサハリンスクに比べて、走っている車も新車が多い。
私たちがノグリキで泊まったホテルはこの街で一軒しかなく、外見も老朽化しているものの、部屋は改装されていてきれいだった。
ホテルには、オフィススペースも併設されており、外資系企業やロシアのIT企業などが入っていた。
このホテルは外国人もよく泊まることだろう。ほとんどロシア人しか泊まらないモネロンホテルの設備とは大違いである。
ノグリキのような小規模な都市では、外国人を迎えられるような高級ホテルを新築できるほどの需要はないが、既存のものを国際水準に改装(特に内装)できるほどの需要はあるのだ。
ホテルの向かいには、サハリンエナジー社の援助でできた映画館があった。CSRに気を使っているようだ。
午後6時35分、市内の視察のため、私たちはホテルを出発した。
ノグリキの街は、ソビエツカヤ通りとフィスクリトールナヤ通りを中心として広がる街で、教会や行政府、ホテルなどが街の中心をなしている。しかし、それらの前には、あるべき広場がなく、代わりに木が生えた公園が教会の向かいにあった。
フィスクリトールナヤ通りと平行して、通りの北側を流れるティム川は、かつて、ノグリキにとって重要な水上交通路であった。昔のノグリキは、この川をいかだで流した木材の集散地として重要な都市だったのだ。しかしその後石油が出て、石油生産の拠点としての役割を新たに持つようになった。
ホテルを出て、ソビエツカヤ通りを挟んで左手すぐ、行政府のすぐ横にある、ロシア正教会を訪ねた。この教会が都市の中心に立地しているということは、ロシア正教が社会主義に代わって、ロシア国内で権威ならびに国民統合の象徴としての地位を得つつあるということのあらわれである。この教会は、入り口の看板によれば、2002年にできたばかりだ。
教会内ではちょうど礼拝が行われていた。その教会の前で、子供たちが遊んでいた。日本人などもの珍しいのか、発見するなり、少し、はにかみながら女の子が話しかけてくれた。よそ者に対しての抵抗感はこの街ではあまり感じられなかった。これも、ノグリキではサハリンプロジェクトでたくさんのヨーロッパ人が来島していることも影響しているからだろう。
教会内に入ると、正面には幾層にも並べられたイコンノスタシスが神々しく飾られ、聖歌隊が歌いながら、礼拝は進行していく。礼拝では、女性はスカーフを頭にまとっているのが礼儀なので、私たちもそれにならい、スカーフをまといながら、礼拝に参加・見学し、ロシア正教会の雰囲気を感じた。
一行は、教会を出た後、フィスクリトールナヤ通りを通り、銀行に立ち寄って何人かの人がカードでルーブルをおろした。この銀行は石造りで、たいそう重鎮なつくりだった。
この通りを右に曲がると見えてきたのが、社会主義住宅群。社会主義住宅の前には、ここでも子供の遊具があった。
工事中の建物や真新しい商店が多数見受けられる。ソビエツカヤ通りには、クレジットカードで購入できる真新しいパソコンショップも目についた。
午後7時半、私たちはスーパーマーケットに入った。
ロシアでは、商店をマガジンと呼ぶ。フランス語の「マガザン」から来た外来語のようだが、店の構造は少しもフランス風でなく、売り手と買い手がカウンターで完全に分けられており、買い手は、自由に商品を手にとることができない。ソ連時代は、供給される商品が少なく、商品を得るため並ばなければならなかった。商品は貴重品なので、万引きされては大変である。マガジンの構造は、それに対応したソ連時代の名残なのかもしれない。
しかし、このスーパーマーケットは、欧米仕様のお店であった。日本のスーパーと同様、買い手が自由に商品を手にとってカゴにいれ、最後にまとめてレジで精算する。しかも、樺太/サハリンに来てから見た中では、一番の品揃えだった。まず、スーパーの入り口には屈強な男の警備員が二人警備していて、来店者は荷物をすべてロッカーに預ける。その後、ゲートを抜け、商品の並んであるスペースに入ることができる。
最初にドリンク類、果物類が陳列さていて、その後、乳製品、パン、肉、惣菜、乾物、酒といった感じで陳列されている。
くだものは量り売りでその場で袋に包んで、測ってバーコードをつけてもらって、チェックアウトのときレジで精算するという方式だった。ヨーグルトのトッピングとして、チョコとオレンジ、ミントなど、日本では見られないものもあった。売っている果物は、樺太/サハリンで作られていないものが多く遠くから輸送されてくるのか、それともこちらの消費者はあまり気にしないのか、少々痛んでいるものも少なくなかった。果物ののうち、オレンジは、なんとアルゼンチン産だった。南米のアルゼンチンから北のノグリキまで、どこをはるばる輸送されてきたのだろうか。
パンは一斤ごとに売られており、朝食用にちょっと買いたいだけの私たちにとっては大きすぎて上便だった。これらは、ただサランラップを巻いただけで、いかにも手作りの感じがした。しかし、「7 Days」というブランドの、ヨーロッパロシア製と思われる大量生産され袋詰めされたクロワッサンも売っていた。このブランドは、樺太/サハリンのいたるところで発見できた。カップラーメンも10種類以上売られており、ロシア製のものと韓国製のものがあった。「CCCP」と書かれた赤いパッケージの、ソ連時代を思い出させるアイスクリームも売っていた。パロディであろうか、それともそれなりに真面目にソ連への回帰を主張しているのであろうか。リプトンやトワイニングなどの、輸入紅茶パックもあった。
さらに興味深いのは、間宮林蔵の肖像画をラベルに描いた「林蔵ビール」だった。これは、豊原/ユジノサハリンスクのビール会社が生産しているロシア製だが、日本製に似せたデザインで、稚内空港の売店でも売られているという。
その後、私たちは、結婚式のあとを取り片付けたばかりのホテルのレストランで、夕食を食べた。鮭をチーズやたまねぎとともにグリルしたもの、ボルシチや、ピーマンとトマトきゅうりのサラダなどを、バルティカ7を飲みながら、食した。久しぶりのきちんとした、ゆっくり椅子に座って食べられる食事に、非常に安堵感を覚えた。夕食後、ゼミ生たちで、12時過ぎまで歓談した。
歓談を終え、ベッドに入ると、長かった一日に思いをはせるまもなく、ゼミテンはすぐに夢の中へと再び旅立って行った。
(枡田恵子)