ヤルタにおける帝国主義的な密約によって保証されたソ連の対日参戦は、1945年の8月8日の、ソ連による日ソ中立条約の一方的な破棄と、日本への宣戦布告として現実のものとなった。
樺太/サハリンにおいては、陸路、海路からソ連軍が日本領へと侵攻した。それは軍の内部ではある程度予想できていたことらしいが、一般の住民は、日ソ中立条約があるのだから、ソ連軍の侵攻はありえない、と考えていた(注1)。その突然のソ連軍の侵攻に対し、多くの日本人が避難を試み、その中で様々な悲劇が生まれた。
そのなかで、象徴化されてもっとも多く語り継がれているのは、私たちが8月23日に訪問した真岡/ホルムスクで起こり、私たちが8月20日に稚内で参加した平和祈念祭で取り上げられた「九人の乙女」の悲劇である。
だが、それだけではなかった。8月24日に訪問した、北部の恵須取/ウグレゴルスクの一帯でも悲劇が起こっていた。それが、本コラムで取り上げる「悲劇の逃避行」である。
恵須取/ウグレゴルスクと塔路/シャフチョルスクを中心とした地区は、石炭産業で栄えた地区である。『国境の植民地・樺太』によると(注2)、もともと林業や製紙業が主体だった樺太/サハリンの産業において、1930年代からは石炭産業が中核を担いはじめた 。これは、1934年に当時の拓務省によって立案された「樺太拓殖計画」によるものであった。その中で、1930年代半ばからは西海岸北部の石炭産業の割合が激増した。しかしながら、炭鉱の開発ほどには鉄道や港の整備が進まなかった。それは、樺太拓殖計画の不備、戦争の激化による資金的な建設の困難によるものである。具体的には、恵須取/ウグレゴルスクには水陸連絡施設の完備した築港を建設し、計画中の北部鉄道を介して、塔路/シャフテルスク、北小沢/テリノフスキー、西柵丹/ボシニャコーボなどの地区から産出される石炭を鉄道輸送し、恵須取/ウグレゴルスクや、さらに北方の藻糸音/シャフチョルスクまで延長する計画があった。しかしこれらの計画は上記の理由で頓挫した(注3)。ゆえにこの地区は、石炭産業が栄えつつも交通の便の悪いアンバランスな発展を遂げることになった。『国境の植民地・樺太』の著者の三木理史氏は、この地域の交通の便の悪さ、特に鉄道の整備が遅れていたことが、今回取り上げる悲劇の原因の一つであると指摘している(※4)。この地区にも、8日の宣戦布告以来、ソ連軍による空襲が行われ、そして16日には、ソ連軍が塔路/シャフチョルスクの海岸から上陸した。こうした一連のソ連軍の侵攻の中で、この地区に住む人々は断続的に避難を開始した。
この避難は、徒歩でおこなわなければならなかった。なぜなら、この地区から南下する鉄道がまだ敷設されていなかったからである。樺太/サハリンの日本海側に面した鉄道は、南の内幌炭山/シャフタから久春内/イリンスキーまでを結んでいたが、さらに北の恵須取/ウグレゴルスクまでの鉄道計画線は未完成だった。恵須取/ウグレゴルスクは当時の南樺太/ユジヌイ・サハリンにおいて第二の都市で、資源基地としても重要であったので、平地の一部区間で鉄道建設は実際に進められていた。しかし、山間部の峠を貫く難工事の区間があり、戦争の激化によってその工事は手がつけられないままになっていたのだ。このときに鉄道が建設されていれば、避難民たちは鉄道を使って南下できたかもしれず、今回取り上げるような悲劇も起きなかったのかもしれない。
恵須取/ウグレゴルスク地区から避難する時、考えられるルートは二つあった。一つは、まず上恵須取/クラスノポリエまで南下し、そこから「内恵道路」を通って北東方向へ進み、オホーツク海側の内路/ガステロへと抜けるルートである。長さはおよそ76km、その中間に標高およそ600mという高い峠がある。もう一つは、同じく上恵須取/クラスノポリエまで南下したらそのまま「珍恵道路」を南下し、珍内/クラスノゴルスクを通過して、久春内/イリンスキーまで至るという、鉄道予定線に沿ったルートである。こちらは長さおよそ96kmで、同様に途中に峠のある山道だ。恵須取/ウグレゴルスクから南方の珍内/クラスノゴルスクへと至る道として、他に海岸線を走る道も存在したのであるが、こちらはソ連軍の砲撃やその上陸の危険性から、避難道としては避けられた。
内路/ガステロまたは久春内/イリンスキーに着けば、鉄道が通っているから、避難民たちは鉄道を使ってさらに南下、豊原/ユジノサハリンスクに到達し、そこから北海道へ渡ることができる。「少しでも、ソ連軍から遠ざかりたい」という思いもあっただろう。住民たちは、これらいずれかのルートを使って避難を試みた。
これら二つの道路を使って避難を試みた住民たちの逃避行は、大変厳しいものだった。前述のように、この険しい山道を徒歩で進まねばならず、しかも進む人々には容赦なくソ連機による機銃掃射が加えられた。さらに、恵須取/ウグレゴルスク方面から陸路でソ連軍が追ってくるのでは、という恐怖もあった。このため人々は、満足に眠ることもできずに、歩き続けた。その避難の途中、炎天下と時折の降雨に見舞われた。所々で炊き出しが行われており、にぎりめしなどの食料にありつくことはできたが、それも満足ではなく、人々の体力は徐々に奪われていった。
人々は、当初食料やふとん、着替えやその他の大切なものを携帯して避難していたが、少しでも荷物を軽くするため、ふとん、食料、着替え、そして大切な位牌などをも道ばたに投棄して逃避行を続けた。内恵道路、珍恵道路ともに、そうした生活物資が延々と連なって打ち捨てられていった。
さらに、家族を連れて逃避行をした人々には、徐々に子供やお年寄りの存在が、足手まといに感じられるほどになってきた。道ばたには、そのような絶望的な状況から、置き去りにされてしまったお年寄りや子供が、どうすることもできずにただ泣き、悲観に暮れているという光景が何度も見られた。自力で移動できないお年寄りや乳幼児は、なすすべを持たずに死に至るしかなく、かれらの死体が、道ばたに遺棄されていた。また、大人からはぐれてしまい、子供だけで避難する場合はもっと悲惨で、足手まとい扱いする大人たちから疎外され、ただ避難する以上に辛い逃避行となった。『樺太1945年夏』には、この逃避行を経験された方の手記が掲載されており、そこからは、その悲惨さが伝わってくる。
「『これをやるから、誰か連れていってくれ』老人が札束をにぎって雨の中で泣き叫んでいても、誰一人見向きもしない。この老人はやがて、札束をにぎったまま、うつ伏して路傍に死んでいた。」(『樺太1945年夏』p210)
「声をふりしぼって泣いている孫のそばで『孫と二人、足手まといになるって捨てられた』と弱々しく泣いている年寄り。疲れると、まずかついできたふとんから綿を捨てたというが、この孫とおばあちゃんは、綿にくるまって泣いていた。」(p213)
「草むらで赤ん坊の弱々しい泣き声がする。『ああ、また子供が捨ててある』と人びとはいって通り抜けた。何度そのような、捨て子の声を聞いたことだろう。草むらをのぞくと、手も出せない赤ん坊のそばに、決まってミルクびんが置いてあった。/ギラギラとした夏の太陽の元に放り出された赤ん坊はおそらくみんな死んでしまったことだろう。捨てれば死ぬことを知りながら、ミルクを置いていくなんて無意味だと人はいうかもしれない。しかし、子供と一緒では共に死んでしまうと思いつめた母が、泣きながら最後にしてやれることはそれしかないにちがいない。」(p220)
「敵機四機が林の上にあった。私はとっさに敏和を抱いて小屋に駆け込んだが、母と弟たちは川ぶちのドロ柳の繁みに逃げ込んで『弘子、危ないからこっちにおいで』と叫んだ。あわてて飛び出すと、母の方へ駆け出したが、そのときには先頭の一機がもう、のしかかるように迫っていた。……四機目、その一弾が母たちの命を奪った。……『かあさん』思わず肩に手をかけて呼んだがこたえはなかった。うつ伏せたからだを起こすと乳の下から血がゴボゴボと音を立てて吹き出していた。破片が肩から胸に抜けたのである。母はそのまま死んだ。……私は泣かなかった。しだいに白蝋色に変わっていく顔をゆがめて『痛い。おねえちゃん痛いよ』と泣く敏和や昭、喜美子 を連れて、とにかくみんなのあとを追って太平に帰らねばならない、ということがとっさに頭にきたからだ。……やっと追いついたおとなたちは『足手まといがふえた』と露骨にいやな表情をした。避難のときとちがって、私たちが追いついた集団には近所の人たちは見当たらなかった。遠くに爆音が聞こえただけで『おまえたちがのろいために敵機に見付かったら、ほかのみんなも巻き添えを食うんだ』と、どなりちらす女の人たちもいた。その目にぞっとするような敵意に似た光があった。」(p223)
こうして避難していった人々は、どうなったのだろうか。ソ連が内路/ガステロや久春内/イリンスキーの鉄道を制圧してしまう前にたどり着き、鉄道を使って南下し、大泊/コルサコフから引き揚げ船に乗って本土へと帰ることができた人たちもいた。しかし、内路/ガステロや久春内/イリンスキーにたどり着いてみるとソ連がその都市を抑えてしまっていて、豊原/ユジノサハリンスク方面に向かう鉄道はもはや利用できず、やむなく引き返さざるをえなかった人たちもいた。その絶望的な状況から、集団自殺を図った家族もいた(注5)。引き返した人たちは、ひとまず住んでいた街に戻り、ソ連軍の指示に従うしかなかった。そこで対岸の大陸ソ連に強制連行された人もいたし、その後の引き揚げ船で日本へと戻れた人もいたし、中にはそのまま樺太/サハリンに永住した日本人もいた。
こうした数々の悲劇が生み出された内恵道路は、現在は打ち棄てられ、荒れ果てて、自動車の通行すら困難になっている。私たちが8月24日に恵須取/ウグレゴルスクの視察を終えた後、オホーツク海側の鉄道を利用するためには、白浦/ウズモーリエまで往路を戻らなければならなかったのは、このためである。
極東部で領土拡張を図ったソ連と、自国兵の損害を減らそうとソ連の参戦を促したアメリカが一体となった、日本領南樺太への帝国主義的侵攻。そして「日ソ中立条約」の形式的な有効性をあてにして降伏を先延ばしにした日本政府の無定見と無責任さ。これらにより、恵須取/ウグレゴルスク地区でこのような民間人の悲劇が起こった。この逃避行の犠牲を、過去の戦争について考える上で、私たちは忘れてはならない。
注
(1)『樺太1945年夏』pp26-29
(2)『国境の植民地・樺太』pp124-143
(3)『ワールドガイド・サハリン』p52,pp122-129
(4)『国境の植民地・樺太』p151
(5)『樺太1945年夏』p215
参考文献
金子俊男『樺太1945年夏』講談社、1972年
三木理史『国境の植民地・樺太』塙書房、2006年
徳田耕一『ワールドガイドサハリン』JTB、2002年
『北海道新聞 戦後60年 戦渦の記憶 《第8部》引揚げ(13)』
『asahi.comマイタウン北海道 企画特集2 第4部 樺太からの脱出(1)』
(長江淳介)
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