ソ連崩壊から15年。この間ロシアでは急速な市場経済化とグローバル化が進んできた。私たちの訪れた樺太/サハリンでも、コカ・コーラなどの西側商品の流入、国際石油メジャーのエネルギー開発への関与などからその様子が伺えた。
だがその一方で、社会主義の表象は、人々の意識から都市の構造に至るまで、社会の様々な側面に色濃く埋め込まれている。特に、私たちが今回訪問した樺太/サハリンは、モスクワやサンクトペテルブルクなどからみると辺境であるから、保守的で、インフラ整備が遅れていることもあって、かつての社会主義の色はなお濃い。
人間の生活に欠かすことのできないトイレは、ひとつの文化的な消費様式である。用を足すのにどれほどの清潔さ、アメニティを要求するかは、その国の経済水準や生活水準と、それにかかわる意識によって大きく異なる。この点において、トイレは、社会関係のありかたが埋め込まれた文化装置としての役割を果たしているといって過言でない。
このコラムでは、このトイレをとりあげて、それと社会関係との結びつきを考察してみることにする。
社会主義時代のトイレ
基本構造は日本でいう「洋式便所」である。ほとんどの場合、掃除が行き届いており、水洗になっている。しかし、日本との大きな違いは便座がないことである。便座が本来あるべきであろう部分、つまり便器の淵に座ることは不可能ではないのだが、いかにも不衛生な感じがするので、ゼミ生は皆、立つとも座るとも言えない非常に微妙な体勢を取ることを強いられた。この微妙さは和式便所のそれを上回る。
ただし、便器の淵の部分に靴跡らしき汚れが多数あったことから推測するに、ロシア人は、一般的に、便器の淵の部分に靴ごと乗って、和式便所と同じスタイルで用を足すものと思われる。
それにしても、なぜ便座を設置しなかったのだろうか。設置すること自体には大した経費はかからないと思える。だが、便座が無くとも目的は十分に達成できるのも事実だ。それゆえ、社会主義時代、便座は無用な奢侈品だったのであろう。奢侈品だから、便座をつけると盗まれるという問題が生ずる。最も基本的な社会アメニティをあまねく人々に供給するという社会主義の理想からすれば、こういう奢侈品はいらないのだ。
いまさら便座をつけても、長年の習慣から座らずに結局便座の上に靴ごと乗ってしまう人が続出し、便座が割れるなどの危険性があることも、理由としては考えられうる。
私たちが使った中で、このタイプの代表例は豊原/ユジノサハリンスクのモネロンホテルのトイレ(上の写真)であった。モネロンホテルはソ連時代からの建物であり、現在は、外国人はほとんど利用しないようなランクの低いホテルである。これでもソ連時代は、駅前に立地する高級なホテルだったらしい。それゆえ、ここのトイレは、便座がなくとも高級なものと認知されていたのだろう。また、トイレの数も必要最小限であり、このホテルでも便器は1フロアに男女二つずつしかなかった。
次に、トイレットペーパーであるが、設置されているとしても、床に置かれているか転がっているかである。日本にあるようなペーパーのホルダーは当然設置されていない。これも、社会主義的効率性のなせるわざだ。日本でも近年、省資源・省スペースのために芯なしトイレットペーパーが流通しはじめている
樺太/サハリンのトイレでは、そもそも通す芯棒がないことから、芯なしトイレットペーパーが流通している。芯がいらない分だけ、木を切り倒す量が少なくて済む。そのかわりというか、紙は比較的分厚い。また排水パイプが細いためであろうか、用を足した後、紙を流すことができない。そのため、大抵は紙を捨てるためのゴミ箱が備え付けられている。紙まで下水に流すというのは、排水処理施設に余計な負荷を与えるだけだと考えれば、これも社会主義的に合理的なやりかたであるともいえる。
資本主義のトイレ
しかし、グローバル化に伴い、西欧や米国式のトイレ様式が、ロシアにも波及してきた。これは、日本にある、いわゆる洋式便所とほとんど同じである。もちろん便座もトイレットペーパーも備わっているし、ペーパーは便器に流せる。
ただし、一つ異なる点を挙げると、日本では便器後方にある水たまり面がロシア製のものでは前方にあったことである。後方には浅いくぼみがあり、そこに若干水がたまるので、この部分だけを見れば構造的には和式便所に近い。便器の汚れや臭気のことを考えると、やはり日本のものには若干劣るのではないかと思ったが、定期的な清掃でそれらはカバーされていた。
ちなみにウォシュレットが備わっているものはさすがになかった。だが、手洗い乾燥機がついているものはあった。
このタイプのトイレを観察したのは、豊原/ユジノサハリンスクのサヒンセンター、サハリン・サッポロホテル、ノグリキのホテル・ノグリキ、オハのホテル・サテリートなど、いずれも外国人が入ることの多い建物であった。
また、大泊/コルサコフ港で入国手続きを受けた建物にあったトイレ(写真)も、このタイプであった。男子トイレは清潔かつ正常に機能していたので良かったが、女子トイレは壊れていて、入ることができなかった。だが、女子のゼミテンの一人が写真だけでも撮っておこうと、ドアの取っ手を回した瞬間、中のねじなどが勢いよく飛び出した。飛び散ったねじなどを集め、再び注入したところ、元通りになったのでよかったが、ロシア入国直後である上、入国管理官が傍で見張っていたため、たいへん真面目な彼女は、入国管理官に怒られたりしないか心配でたまらなかったようである。
さらに、サハリン島を南北に結び、資源開発関係者もしばしば利用するサハリン鉄道の看板列車、夜行急行「サハリン号」車内のトイレにも、簡易的ではあるが、便座がついていた。ただし、タンク式ではなく、線路上に垂れ流しである。
豊原/ユジノサハリンスクのみちのく銀行ビルのトイレには、なんとTOTOの便器があった。ビル建設時に資材の一部として日本から持ち込まれたようで、日本の便器と全く違いはなかった。これは、私たちが経験した中でいうと、おそらく樺太/サハリン最高級レベルに属するトイレではないかと思う。
石油・ガス開発関係で出張に来た欧米系ビジネスマン達は、これらの建物でトイレの様子を確認して、グローバリズムの文化様式がこのようなロシアの辺境にも及んでいることを知り、さぞかし安心することだろう。
水洗ならぺーパーを流せるはずであるが、そうでないところもある。ホテル・ノグリキの1階のトイレには、使用済トイレットペーパーを捨てるためのゴミ箱があった。便器の見た目は綺麗なものであっても、パイプが細かったり、溶けないトイレットペーパーを使用したりしていれば、旧来の方法に従わざるをえないのである。あるいは、単に旧来の方法がなんとなく慣習として残っていて、ゴミ箱を置かないと気持ちが落ち着かないため、とりあえず置いてみたということなのかもしれない。
ことわっておけば、資本主義国のトイレも、昔は決して褒められたものではなかった。かつての日本では、汲み取り式、しゃがむ和式トイレがどの家庭でもごく普通だった。戦前の豊原/ユジノサハリンスクの家庭や事務所のトイレも、主流はこのタイプだっただろう。
だが、戦後の資本主義では、豊かな持ち家と健康で安全な労働環境をめざした戦後のフォーディズムの中で人々の生活水準が向上し、トイレのアメニティも飛躍的に改善された。たとえば、日本の列車内トイレの多くも、乗客の垂れ流した汚物が車外に飛び散り、それが窓から入って、客の食べている駅弁などにふりかかる危険があるという衛生上の問題から、タンク式に改良された。
これに対して、なぜ樺太/サハリンでは近年まで、トイレのアメニティが向上しなかったのだろうか。その一因は、ソ連という国家の予算配分にあろう。軍事とそれにつながる重工業が最優先され、公衆衛生に回ってくる金はわずかに余ったうちのほんの一部でしかなかった。そのためトイレのような施設は、できる限り節約しなければならず、アメニティの低いトイレが作られ続けた、というのは事実であろう。
だが、もう一つ大きな理由がある。それはこの樺太/サハリンが、ロシアの辺境だということである。辺境地では、やはり中央、大都市に比べてインフラ整備は貧弱なものだ。実際、水岡先生が数年前にモスクワを訪れた際は、古いトイレであっても大抵便座はついていたとのことである。
屋外のトイレと公共空間
ここまで述べてきたのは、あくまでも都市の建物内にあるトイレの話である。しかし、いくらそこのトイレがきれいでも、それを使いたいとき使えなくては意味が無い。人間は生物だから、いつ急にトイレが必要になるかわからない。
資本主義は、都市の空間を排他的に私有化する。この考え方に沿えば、トイレという施設も私有化される。例えば、市場経済の色の特に濃いアメリカ合衆国では、トイレが私的空間に取り込まれ、公共空間からトイレがなくなっていることが多い。急に用を足したくなって手近のビルに飛び込んでも、トイレには鍵がかかっていて、そこの従業員でなければ使えない。
日本でも、このような傾向が見られる。その典型例は、駅のトイレである。かつては駅外にあったためにあらゆる人が利用できたが、近年は駅の改札口の内側に作られることが多くなり、切符を買った鉄道利用者以外は利用できなくなされている。
しかし、社会主義体制下にあった樺太/サハリンでは、少なくとも小都市の街中においては、公衆トイレという形で、汚いながらも確実に用を足す場所が確保されていた。
公衆トイレという存在はまさに、社会主義における空間の公共性の象徴であった。人間の生活に関係するすべての空間を公共空間と私的空間の二つに分類したとき、市場原理が強まれば強まるほど私的空間が増加する。一方で、社会主義経済においては、ほとんどすべてが公共空間であった。それゆえ、小さな町や農村には、公衆トイレが用意されてあった。
その中でも特に印象深い、久春内/イリンスキー駅前にあったものについて言及する(写真)。
外見は古びた木造の小屋であるが、中に壁があり、男女一人ずつ入れるようになっている。駅前であり、簡素ながらバスの発着場もあるため、列車との乗り継ぎをする人々が、その合間に男女別でトイレに並んでいた。近所の住民は自宅で用を足せばよいので、並んではいないようである。
中に入ってみたが、ドアを閉めてしまうと、電気が通じていないためか、中が真っ暗になってしまい、少し怖い。床には、板が張られていた。そしてその真ん中には穴が掘られており、利用者はその穴にまたがるのである。非常にシンプルかつ原始的な「ぼっとん便所」であった。また、穴の中には便だけでなくペットボトルや缶までも捨てられてあった。それらは、なかなかの臭いを発しており、周りにはハエがたかっている。しかし、使用頻度は高いので、汲み取りなどの管理はある程度行われているようであった。
アレクサンドロフスクサハリンスキーの広場の裏にも、同じタイプのトイレがあった。だが、ここはこの上なく臭いがひどく、汚かった。さらに、何度試してみても構造上の問題で、扉が閉まらない。私たちが樺太/サハリンで経験した中で、最悪のトイレである。私たち以外に利用する人を見かけなかったので、トイレとしては放棄されているようであり、汲み取りなどの管理も行われていない。
このことに関連して、成様がソ連時代のハバロフスク空港のトイレにまつわる、興味深いエピソードを教えてくださった。
計画経済においては、あらゆる仕事は政府によって国民に割り当てられる。当然トイレの清掃係も割り当てられるものであった。だが、ハバロフスク空港のトイレの清掃には、なぜか割り当てがなかった。その結果として、トイレは放置されて汲み取りがなされず、ついにはトイレの内容物があふれ出し、空港内には猛烈な異臭が漂うようになった。
だが、トイレ清掃の割り当てがなされない限り、誰もそれを処理しようとしなかった。
この話は、まさに計画経済下における分業の硬直化を示す、一例と言えるだろう。
現在は、グローバル化の影響によって、ハバロフスク空港のトイレはすっかり綺麗になっているにちがいない。だが、樺太/サハリンの小さな町や村では、誰も処理しない旧式の公衆トイレがまだまだたくさん残っている。
トイレと社会関係
ロシアとなった現在、徐々にではあるが、便座のある清潔なトイレが整備されつつある。これは、市場経済化に伴うグローバルな生活様式の流入の表れであろう。グローバル化によって、新しい生活水準に基づくアメニティが採用されるようになってきているのだ。日本において、和式便所が洋式便所に取り替えられていくことともこの点においては共通しているのだろうか。
このように、社会関係というものが、トイレの様式に少なからず影響を与えたことは否めない。これから経済発展が進むにつれて、便座のないトイレや、汚い公衆トイレは次第に便座のついた清潔なトイレに取って代わられることだろう。しかし、それと同時に、その清潔なトイレは、ますます私的空間の中に囲い込まれていくだろう。
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