8月22日

豊原/ユジノサハリンスク

日本の都市構造にヨーロッパが接木された街

今日はあいにくの雨天である。私たちはまず、ホテルのある駅前周辺を巡検した。
 駅前には広場があり、たくさんの車が駐車・停車していた。駅前広場が市街の中心地となっていて、重要な施設や商店などが集中しているというのは、日本の都市の特徴である。それに対し、ヨーロッパの都市は、市街の中心に広場があり、重要な施設が広場に面して立ち並んでいる。駅は、市街の周縁部にあることが多い。駅舎はソ連時代に新装されたものであるが、その位置は、日本統治時代から変わっていない。
駅舎の脇には、日本の「デゴイチ」ことD51形蒸気機関車が静態保存されていた。この形式の機関車は戦前から戦中にかけて日本で大量に製造されたが、樺太/サハリンに渡ってきたのは戦後になってからである。樺太/サハリンには、957kmの一般用鉄道がある。その大半が日本統治時代に敷設されたため、線路幅は日本の国鉄と同じ1067mm(狭軌)である。このため、大陸を走る広軌の車両は使用できず、日本の機関車や客車を「賠償」などとして取得し、戦後にも使った。D51の車体の側面には「CCCP(SSSRソビエト連邦)」とかかれたロゴがつき、ナンバープレートが赤いなど、日本にある機関車と外見が少々異なる。機関車の保存状態はさほど悪くないが、機関車の周囲には、深夜に若者が飲んだと思われるビールの空き瓶が数個放置されていた。現在は、蒸気機関車にかわり、ソ連製のディーゼル機関車が活躍している。

機関車の周囲に限らず、市街地の道端にはごみが目立った。特に、駅前や私たちの宿舎であるモネロンホテルの周辺は、夜間は酒を片手にした人々のたまり場になっている。
 駅舎の隣には、レンガ造りの倉庫が並んでいた。この倉庫は日本統治時代に建設されたもので、鉄道貨物輸送に貢献してきた。

私たちは駅舎へ入った。豊原/ユジノサハリンスク駅は、日本統治時代から樺太/サハリンの鉄道交通の中心として栄えてきた駅である。ガラス張りで、外からの明かりが入り開放的である。天井はぼこぼこした模様の入った正方形のタイルが敷き詰められていること、全般的に直線を駆使した未来的なデザインであることは、ポストスターリン時代の社会主義建築にみられる特徴で、旧東独にも似たような感じの建物が多数ある。なお、軍事機密保護の関係からか、駅構内での撮影は禁じられていた。

駅舎内には、液晶テレビがあり、大きな樺太/サハリン島の地図と時刻表が掲示されていた。それによると、郊外列車は1日5.5往復、長距離列車は4往復設定されている。日本統治時代よりも列車本数は大幅に減少している。大泊/コルサコフゆき、真岡/ホルムスク行きの列車は、全面的に廃止された。駅を中心とした都市構造にもかかわらず、旅客鉄道の設定本数が少ない。都市機能として、駅を中心にする必然性はもはや存在しないにもかかわらず、鉄道駅が都市の中心に存在することは、現在の豊原/ユジノサハリンスクが戦前の日本の都市構造をひきついでいることの雄弁な証拠である。

プラットホームに出ると、そこには普通列車と思われるディーゼルカーと貨物列車が停車していた。ディーゼルカーは日本製で、銀色の無塗装の車体、地味な外観だ。ちなみにプラットホームといえども線路面とたった20cm程度の段差がついているにすぎない。ヨーロッパの駅では、このような低いホームがよくみられる。



所有権のない土地で大規模な都市改造

私たちは駅を出て、レーニン広場へ向かった。道路を歩いていると、ゴミは目に付くが、歩道に並木や花が植わっているので心休まる。
 札幌などの都市計画を思わせる碁盤の目状の道路は日本時代につくられたものだ。だが、日本統治時代は、主要街路は狭く、家は密集し、並木も歩道もなかった。ゼミで勉強した論文「日本がソ連になった時」(マリヤ・セヴェラ著、『歴史学研究』676号、1995年)によれば、こうした貧弱な都市計画に、戦勝直後に民政局長となったソ連のクリュコフ大佐は驚いたらしい。
 ソ連による実効支配が始まってから、ソ連はヨーロッパ的な都市計画のイメージにしたがって、道路幅を広げ、並木を植え、駅前にレーニン広場を作った。日本統治時代に建てられた建物も、その下の土地もすべて接収されており、所有権は存在しなかったから、家を取り壊せばすぐに道路の拡幅にも広場にも用地が確保できたのである。しかも、このレーニン広場から線路沿いに南に伸びる区画の300〜400戸は、1945年8月22日のソ連軍による空爆で、すべて灰燼に帰していた。日本時代の建物も焼け、用地買収の必要もなく、ソ連は容易にヨーロッパ風に都市改造をすすめることができた。

駅前に、日本の新幹線車両の絵が描かれた大きな看板があった。はじめ私たちは、宗谷/ラペルーズ海峡を越えて、北海道新幹線を樺太/サハリンまで延長するプロジェクトをPRしているのかと思ったが、よく見るとそうではなく、単に鉄道の安全性をうたい鉄道の利用を促進する内容であった。近代的な鉄道の象徴として日本の新幹線の絵が使われているようである。

駅の真正面には、ロシア革命を成功させソビエト連邦初代最高指導者となった偉人、レーニンの名前をつけた広場があり、その奥には、レーニンの巨大な像が建っている。ソ連が崩壊したとき、ヨーロッパの旧ソ連ではたくさんのレーニン像が引き倒された。だが、サハリン州の都市では、市街地中心部の広場にレーニン像が健在である。この他にも、軍人や市民を描いたモニュメントや、少数民族との連帯をうたうモニュメントなど、社会主義時代の思想を反映した造形物が取り壊されることなく現存している。

レーニン広場は、日本統治時代に一番の繁華街であった「神社通り」(共産主義者通り)ならびにそれに平行するカールマルクス通りと、それに垂直に交差する「大通り」(レーニン通り)の交差点に位置し、商店、新聞社、会議所があって中心業務地区をなしていた。   レーニン像の前は道路が広がっていて、自動車交通を遮断すれば大規模な官製の集会が開けるようになっている。レーニン広場を取り巻いて、ホテル、中央郵便局、市庁舎、鉄道局などがある。この地区はいまなお、都市中心としての機能を維持しているのだ。 

私たちは、朝食をとるため、日本統治時代は「大通り」と呼ばれた、レーニン通りに向かった。
 レーニン通りでいちばん目立つ建物は、5階建て程度の社会主義住宅である。その1階部分は商店になっているものが多い。社会主義時代はごく限られた場所にしか商店がなかったのだが、社会主義体制の崩壊後に、アパートの1階部分が商店に改装されたのである。ここに、ロシアの市場経済化の影響を見て取れる。

街に立ち並ぶ建物からは、全くといっていいほど日本の面影はうかがえない。日本統治時代の建物は多くが木造だったため、道路拡幅などのため早期に取り壊されたもの以外も老朽化して、そのほとんどが姿を消してしまった。しかし、石造りの旧拓銀豊原支店の建物は現存していて、現在は美術館として利用されている。

街を走る車のなかには日本車がしばしば見られた。なかには、「○○会社」「○○商店」などと日本語の会社名が入ったままの日本中古車も見られた。会社の住所を見ると、やはり北海道が多いようだ。

私たちが入った中央郵便局裏のカフェは、客が多く活気があった。だが、メニューの記述などはすべてロシア語で、英語の併記はない。店員もかろうじてごく簡単な英語がわかるのみで、注文だけでも一苦労である。ゼミ生はみな、前の人が受け取った品を指差して、前の人と同じ物を注文するので、おおかた似たようなメニューとなった。
 私が食べたのは、オムレツ35ルーブルとコーヒー12ルーブル。味はまずまずおいしいうえ、1ルーブルがおよそ4.3円というレートを考えると安い。手ごろな値段でまずまずな食事をとれるので重宝したが、市内にこのような手ごろな店は他に見当たらない。



同じ場所で入れ替わった精神的統合の象徴

朝食のあと、私たちは車で樺太神社跡へ向かった。
 樺太神社は、戦前、市街地のはずれ、駅前からのびている「神社通り」が丘陵地に突き当たるところに建っていた。
 樺太神社は、当時の日本の住民の精神的統合の象徴であった。だが、ソ連による実効支配が始まると神社は撤去され、かわりに、そのふもとに、巨大な軍人の像と、千島/クリル・樺太/サハリンにおける戦争で戦死した兵士の名前を刻んだ石碑からなる、戦勝記念碑が建てられた。南樺太/サハリンと千島/クリルを占領するため闘って命を落としたソ連軍兵士の、勇敢な祖国への犠牲をたたえ、強大な軍事力の重要性を訴えるモニュメントである。

統治体制が変われば、それにあわせて精神的統合の象徴も変わる。だが、神社があったのとほぼ同じ場所に、新たな支配者となったソ連の国民を精神的に統合すべきものの象徴が建てられたことは興味深い。支配者は変わり、国民統合の理念は変わっても、豊原/ユジノサハリンスクの都市構造のなかで、精神的統合のための施設を置く場所という相対的な位置関係は、変わらなかったのである。
 神社をただ壊して草原として放置し、そこに何も建設しないままでは、神社のもつ神秘的力がその地に残ってしまうとみなされるかもしれない。そこで、積極的にそれを打ち消すため、わざと神社の跡地の付近に記念碑を建てたと考えられる。

きれいに整備された戦勝記念碑とその前の広場は、祖国を守るため強大な軍事力が必要であることを訴えるモニュメントであり、戦死者の名簿が刻まれた大きな石碑には、造花が献花されていた。広場には永遠の灯をともす灯具が設けられていたが、火はなかった。
 戦勝記念碑にむかって右側には、戦争で軍功を上げた英雄の胸像が立ち並んでいた。これは、2005年につくられたものである。連合軍の一員としソ連が勝利した第2次大戦の記憶をいつまでも保存しようという意図があるとみえる。

日本が作った都市は、石造りの建物が少ないので建物として旧支配者のありさまは目に留まりにくい。だがよく観察すると、日本の造った都市建造環境は、いまの豊原/ユジノサハリンスクの都市空間のなかからはっきりと浮かび上がってくる。

神社の跡地までは、この広場から少々丘を登らなければならない。
 参道跡は、荒れてはいるというものの、今も杉並木が立ち並んでおり、かつての面影を感じさせる。だが、神社の名残といえるものはこの程度で、神社の鳥居も、建物も、ほとんど跡形もなく姿を消していた。
 参道を登ってゆく途中、☆形の石が目にとまった。霊を封じ込めるためのモニュメントなのだろうか。
 神社があった名残である石段を上り、樺太神社本殿跡に着いた。周囲にはうっそうと木が生い茂っているが、たしかに神社本殿の跡地の四角い敷地だけ、木が生えていない。




州政府経済委員会に聞く、サハリン州の経済政策

その後、私たちは、北海道サハリン事務所のご好意でアポイントメントを入れることができたサハリン州政府経済委員会に向かった。インタビューの会場は、サヒンセンターと呼ばれる建物の2階、対外経済委員会会議室である。

サヒンセンターは、もともとサハリン州政府庁舎として建てられたということだが、今は、サハリン州政府経済委員会だけでなく、たくさんの外資系企業が入っている。サヒンセンターは駅前からつづく大通りに面し、戦前はすぐ近くに樺太庁の庁舎があった。いまでは劇場やサハリン州行政府がある。戦前の行政中心だった場所が、いまでは、重要な施設が集まっているもう一つの都市の中心になっている。

出席された、政府経済委員会アレクセーンコSergey V. Alekseenko委員長、観光振興部シリシェバMarina E. Silischeva副部長らに、約2時間にわたり貴重なお話をうかがうことができた。



産業構造高度化が課題: 資源採取から加工、観光へ

まず、産業について、州の経済政策の方向性をお話をいただいた。
 東アジア諸国の多くは、製造業を中心にした経済発展を遂げているのに対し、樺太/サハリンは現在第1次産業が中心となっている。しかし今後は、資源をとるだけでなく、加工することが重要であると考えている。このように基本的立場を述べられたあと、2020年までの計画として、@燃料資源、A水産、B木材、C観光 の4つの主要産業部門に関し、それぞれ概要、ならびに日本との経済協力の可能性について説明してくださった。

石油・天然ガス
 燃料資源のうち、石油・天然ガスでは、いうまでもなくサハリンプロジェクトが最も重要である。これは、サハリン州の石油・天然ガス開発を行うプロジェクトで、T,U,V,…,\の鉱区に分けられている。そのうちサハリンプロジェクトT,Uが現在進行中である。
 サハリンプロジェクトTは、今のところロシア国内向けの生産にとどまっているが、サハリンプロジェクトTの一環として、サハリン南部から日本へパイプラインを建設する計画もある。また、サハリンプロジェクトのVからYは現在準備中である。サハリンVはロシアと中国の企業が、WからYはロシアの企業が手がけることになっている。なお、このプロジェクトで指定された9つの鉱区は、地質構造上石油や天然ガスが存在する可能性があるという地域であって、必ず石油・天然ガスを採掘できる保証があるわけではない。
 採掘だけでなく、原油・ガスの加工も行う。このため現在、大泊/コルサコフにガス液化工場を建設している。また、ガス化学・加工工場や原油加工工場の建設を、日本企業と交渉しているところである。
 このように、原油・ガス分野では、今後日本がロシア側と協力して樺太/サハリン産業を発展させる可能性を示唆しておられた。

石炭
また、石炭では、炭鉱がサハリン州に約70箇所あり、総埋蔵量は140億トン、生産量は年間400万トンである。現在、サハリン州の石炭は日本にも輸出されている。石炭産業も、日本との協力で発展の可能性が十分にある。

電気
さらに、電気エネルギーについては、石炭やガス燃料を利用した大出力の発電所を建設することを検討中で、電気エネルギーを日本に輸出する考えがある。現在、ロシアの電力会社(民営化されたが、株の多くを国が保有)と住友商事が検討しているそうだ。

水産
水産業は、古くから樺太/サハリンならびに千島/クリルで盛んに行われてきた産業で、これにも発展の可能性を見込んでおられた。
 現在サハリン州では孵化場が約25箇所しかなく、水産加工も遅れている。今後は水産資源をとるだけでなく、「ふやす→とる→加工する」という産業形態を確立するのが課題となっている。ソ連時代に建設された加工工場は操業しているが、加工技術が旧態依然のため、水産物を真空パックするなどの新しい技術を導入して製品の質を改善する必要がある。

木材
木材産業についてみると、生産額は、州経済全体の約3%を占めるにすぎない。木材の原料となる森林はまだ十分にあるが、今後は木材加工業を発展させることが課題である。具体的には、丸太から建材をつくる、また住宅を建設する、という課題があげられる。  また、日本統治時代に製紙工場が7つあったが、技術面などあらゆる面であまりに古いため現在の状況では使用することができず、全工場が廃棄されている。これら廃棄された工場とは別に新たに製紙工場を建設することを検討している。なお、廃棄された製紙工場のうち4工場は、発電所として使用中である。

観光
観光業については、以下の4段階の計画がたてられている。
(1)モニタリングを行う。
(2)サハリン州の地理と資源を考慮し、天然資源を利用した観光施設、たとえば湯治場のような施設をつくる。これは外国からの観光客だけでなくサハリン州の地元の人々にも重要なことである。
(3)サハリン州の歴史と民族に関する観光を発展させる。
(4)樺太/サハリン島の南にある海馬島/モネロン島や、旭ヶ丘/ゴールヌイ・ボースドフのスキー場など、自然を利用した観光を発展させる。

このような開発を、中央政府にしばられずサハリン州で自由に行うため、サハリン州を特別経済地域にし、経済的な自立性を高めようという意見がある。だが、まだ実現していないという。

特別経済地域になることで、観光開発の自由度が上がるほか、産業発展などで挙げた利益が中央政府に吸い取られる比率が下がり、中央政府に納める税金も少なくなるので、サハリン州の財政が改善するという利点がある。その結果、インフラの改良をはじめ多くの面で生活水準の向上が期待でき、サハリン州の発展につながると考えられるからである。
 ただ、もし経済的に中央政府から独立できたとしても、政治面においてロシアから独立することは不可能であるし、またそのように独立する意思もないということだ。

以上のお話から、石油・ガス産業だけが突出してさかんな産業となっているモノカルチャー経済を脱却し、安定した経済成長をはかるべく、加工業を発展させ製品の高付加価値化と産業の多角化を図ろうとする経済委員会の意欲が強く伝わってきた。また、日本との経済協力の可能性がたびたび示唆され、日本からの投資ををテコに、産業構造の高度化を図りたいという意欲を感じとれた。

参考までに、午後の北海道サハリン事務所でいただいた資料から、品目別の輸出入額のデータをあげておく。燃料エネルギー・食品および食品原料・木材という一次産品で、総輸出額の4分の3以上を占めていることがわかる。他方、輸入品には、二次産品が多い。戦前の日本時代ならびに社会主義時代の工場が閉鎖されたこともあって、原材料供給基地となっている樺太/サハリンの姿を見て取れる。




サハリン州への「ビザなし」観光!?

産業のサービス化に不可欠な観光業について、その振興に不可欠な、短期訪問するさい必要な渡航手続きの煩雑さの問題になった。

サハリン州へ外国人が渡航するには、ビザが必要であり、しかもその取得手続が煩雑であるという認識は、経済委員会の方も問題意識としてもっているようだ。しかし、サハリン州は国境地域に位置するため、少し前まではロシア本土の人ですらサハリン州に渡航するのが面倒であったし、日本人を含む外国人は、1980年代末までは自由な渡航が禁止されていた。

ソ連が解体してから、いったんそのような規制は緩和されたが、2003年に、ソ連時代はKGBが管理していた国境近辺地域が再び連邦保安局(FSB)に移管され、浜で釣りをするのさえ許可証が必要になるなど、規制が厳格化されている。ロシア外務大臣がサハリン州を訪問する際に、サハリン州への渡航手続きの簡略化について意見を伝えたい、と述べた。

手続きの煩雑さが影響してか、日本からサハリン州への観光客数は、年間約3000人と、近年横ばいである。これは、北方諸島へのビザなし交流による訪問者も含んでいる。これに対し、ウラジオストク方面へは約8000人が訪問する。担当者は、「観光客に関しては、EU域内とおなじように、『国境』をなくしてもいいのに…」と、個人的意見を述べられた。


インフラの抜本的整備をめざすロシア連邦政府の「クリル開発計画」

千島/クリルの話がでたところで、話題は、ロシア連邦政府が最近打ち出したクリル開発計画になった。
 この計画は、千島/クリル地域のインフラ(港・空港・道路・電気・学校・病院など)の整備を主とした開発計画で、2007年から2015年までに170億ルーブル(約750億円)という巨額の規模の公共投資を行って地域開発を行うプロジェクトである。これは、住民1人当たりで計算すると、ロシアの他のどの地域よりも多額の投資となる。外国からの民間投資は考えていないが、クリル開発計画の枠組みに入らないものの、千島/クリル地区に合弁会社の設立が可能であり、中国や韓国の会社がすでに参入しているという。

この計画が実現すれば、全天候型空港建設によりアクセシビリティは飛躍的に向上し、火山帯に位置することを利用し地熱発電所が建設されて電力供給は安定する。観光ホテルが建設され、港に放置されている廃船は撤去される。こうしたインフラ整備は、現地住民の生活水準向上をもたらし、外国人観光客を誘致するため必須である。

シリシェバ副部長は、 千島/クリルなら、日本人はビザなしで訪問できる協定があるはずだから、観光業の促進に渡航手続き面での支障はすくないはずだ、と述べた。
 サハリン州としては、日本からの「ビザなし訪問」者もロシアへの観光客の一部ととらえているから、この開発計画によって、「ビザなし訪問」客が飛躍的に増えることをもくろんでいるのであろう。私たちは、シリシェバ副部長に、この「ビザなし訪問」はきわめて制限的で、日本人なら誰でも参加できるようにはなっていない、と教えてあげた。


東京発ベルリン行き列車が走る?
 シベリア〜樺太/サハリン〜北海道連絡鉄道計画

インフラ整備として、サハリン州の計画にのぼっているなかで最も大規模なものは、なんといってもプーチン大統領が2001年に提唱した、シベリア〜樺太/サハリン〜北海道を結ぶ連絡鉄道建設のメガプロジェクトであろう。ロシアの鉄道網を「稚泊海底トンネル」経由で北海道と結べば、青函海底トンネルを経由して、日本の鉄道網全体がヨーロッパと結ばれ、東京発ベルリン行き、といった国際列車が走ることも可能になる。日本人としても胸が躍る構想であり、サハリン州政府サイドで、このプロジェクトをどうとらえているのか、聞いてみた。

現状では計画はまだ白紙状態だが、そのような鉄道は将来的に必要であるとサハリン州政府経済委員会は考える、との答えだ。サハリン州政府側はすくなくとも、大真面目にこのプロジェクトを検討の対象としているのだ。

ロシア本土〜樺太/サハリン連結鉄道については、かつてソ連時代に、スターリンの指揮のもと囚人を強制労働させて、間宮/タタール海峡の最狭部に海底トンネルを掘る計画を立て、入口部分はすでに着工していた。だが、スターリンの死去とともに工事は中止された。プーチン大統領が打ち上げた計画は、これを復活させるという意味合いももつものだ。

ロシア本土のワニノ〜真岡/ホルムスクに、船内に線路が引かれて貨車を航送することができるフェリーは就航しているが、これはあまり効率的でない。この連絡鉄道をつくることにより、シベリア鉄道の改良とあわせて、ロシア極東地域や日本とヨーロッパ方面の鉄道輸送の迅速化・活発化などが期待できる。そして、工事費は150億米ドルにものぼる,ここに日本の援助が必要となる、と日本への期待感をにじませておられた。

インタビューのあと、この興味深いメガプロジェクトに関して、ゼミでいろいろな意見が出た。

宗谷/ラベルーズ海峡は津軽海峡よりも幅が広いが、水深はおよそ半分しかないので、「稚泊海底トンネル」は、すでに完成した青函海底トンネルとくらべ、技術的難易度は低そうだ。だが、建設には莫大な費用がかかるのに対して、果たしてどれだけの効果が得られるのか疑問である。日本人にとってはこの構想は夢物語としか思えない。日本側ではこのような計画をとりあげても一笑に付されるだけであろう、という意見もあった。
 そもそも、この計画を実行するとなれば、北海道での鉄道接続をどうするのだろうか。 札幌どまりの北海道新幹線を、旭川を経て稚内まで延長するのか? 日本政府レベルでも北海道庁レベルでも、こうしたことが真面目に検討されたという話は聞かない。

また、「連絡鉄道ができると日本とヨーロッパ間の物流がロシアに握られ、安全保障上の問題が出るのではないか」といった地政学的な見かた、そして「稚泊海底トンネルの建設を日本が援助するのと引き換えに、北方領土を返還してもらえないだろうか」という面白い意見も出た。考え方をかえれば、日本が日米安保体制を離脱してロシアと持続的な集団安全保障体制をとりむすぶという日本の外交政策の抜本的転換をまってはじめて、このメガプロジェクトは実現性を帯びるということなのかもしれない。

メガプロジェクトはさておき、樺太/サハリン島の鉄道の規格をロシア本土の鉄道の規格に合わせる工事は、既に始まっている。5年がかりの計画で、日本時代の狭軌で60年以上運用してきた樺太/サハリン島内の鉄道を広軌に改造する工事が行われている。左の写真は、後日訪れた大泊/コルサコフ近郊の、狭軌と広軌両方の線路が敷かれている様子の写真である。

現在は、ロシア本土から連絡船でくる貨車は、樺太/サハリンに上陸するさいに、台車を付け替えなくてはならない。しかし改軌工事が完成すれば、台車の付け替え作業を省略できるので、時間・費用を軽減できるほか安全性が向上し、物流の活発化が期待できる。

また、いまは久春内/イリンスキーどまりになっている鉄道を恵須取/ウグレゴルスクまで延伸する計画もあるという。この計画は日本統治時代からあり、日本統治時代に路盤などの工事が一部行われていたが、戦後ソ連統治下になって中断され、現在まで手付かずのままであった。この鉄道ルートは、石炭の輸送ルートとして利用する計画である。
 なお、ノグリキ〜オハ間には現在貨物扱いのみの軽便鉄道があるが、広軌化するなどの計画はない、ということだ。

いずれにせよ、鉄道が今後も樺太/サハリンの主要な交通手段の1つであることは間違いなく、鉄道を全面的に廃止して自動車交通にゆだねる計画は無いと担当者は言い切っていた。


環境問題と停電

私たちは、出発前に、現地のNGO団体である「サハリン環境ウオッチ」が作成した、プレゼン資料をつかって、サハリンプロジェクトのパイプライン建設がもたしている、河流汚染の問題について学んだ。この団体は、サハリンプロジェクトが自然環境やニブヒ族の生活に多大な悪影響を与えるとして、実態調査を行い、反対運動をしている。これをふまえ、ゼミ生が、州政府の環境保護政策について質問をした。それに対し、次のような答えがあった。
 環境問題に対処する組織として、自然環境保護委員会がある。この委員会は、工事を監視したり、井戸・ゴミ捨て場を建設したり、川の清掃をしたりしている。石油パイプラインからの液漏れなどによる環境破壊の対策として、海中パイプラインは二重にするようにしている、ということだ。しかし、このときは、州政府側から、特に、サハリンプロジェクトのパイプライン建設について、それが引き起こした環境破壊を厳しく問題視するような発言は、聞くことができなかった。

ところで、インタビュー中に停電が起こった。数分とたたないうちに復旧したので、インタビューには特に支障はなかった。インタビュー中であったサハリン州政府の方々は特に驚いた様子もなく、むしろ「あ、まただ」といった表情であった気がする。私たちは後日また停電に遭遇したので、停電はそれほどめずらしくはないようである。インタビュー会場のサヒンセンターは、比較的新しい建物であるため、建物の老朽化に原因があったとは考えにくい。電力供給そのものに問題があるのだろうか。


北海道サハリン事務所で聞く、樺太/サハリンの現状

12時ごろにインタビューを終了し、私たちはサヒンセンターを出て、車で、レーニン通りにある「みちのく銀行」ビル内にある北海道サハリン事務所に向かった。

日本国総領事館、そして商事会社の支店など、日本関係の機関が、この「みちのく銀行」ビルに拠点を構えている。また、レーニン通りの反対側には日本風のつくりをもつサハリンサッポロホテルが建ち、さらに近辺には稚内市の事務所や日本料理店があって、小規模ながら豊原/ユジノサハリンスクにおける「日本地区」の観を呈している。

日本国総領事館は、まだ南樺太/サハリンの国際法上の帰属は未定のはずなのに、ロシア連邦への公式外交使節として日本政府が2001年に設置してしまったものだ。

みちのく銀行は青森に本店をおく地方銀行だが、モスクワに現地法人をつくり、ここ豊原/ユジノサハリンスクにその支店を設けている。外国では、自国外でリテール業務を行っている銀行はよくある。リテールとは、個人向けに預金を受け入れたり融資したりする業務のことで、たとえば現地の顧客が住宅や自動車を購入するためのローンも供与する。ところが、邦銀は、海外に営業拠点を設けてもリテール業務をする例は極めて少ない。そのなかで、みちのく銀行は、国外でリテールの業績をあげている数少ない日本の銀行である。

「みちのく銀行ビル」は、トイレがTOTOの便器であったり、蛍光灯が多くて明るかったりなど、日本の建物らしい仕様であった。日本語の観光パンフレットもおいてあった。

午後12時半より、北海道サハリン事務所にて、松村英二所長らにインタビューをさせていただいた。


古い水道管と郊外化

豊原/ユジノサハリンスク市街の道路は、舗装こそされているものの排水設備が整っておらず、雨がひとたび降ると随所に水溜りができる。特に、傾斜のある道路では、水が路面の一部を浸食しながら流れ下るため、路面がえぐれてしまう。

水道管は、戦前に日本が敷設したものがいまだ使われており、さびなどの老朽化が問題になっている。上下水道が混ざっているところがあるのではないかという噂もあるそうだ。  

しかし、最近はオイルマネーで徐々にインフラ整備が進んでいる。近々「石油サミット」が樺太/サハリンで開催されるのに伴い、共産主義者通りに面した建物の改修が急ピッチで進んでおり、また歩道には随所にゴミ箱が設置された。

最近は、サハリンプロジェクトによるホテル需要をにらんで、ホテルの建設ラッシュが起こっている。特に、最近建設された韓国系のホテル「メガパレス」は、ロシア極東地域で最高級のホテルである。内装設備の大部分は、韓国から輸入して作ったらしい。

豊原/ユジノサハリンスクは中心部にいろいろな施設がまとまっているが、サハリンプロジェクトが地元に落とす需要に刺激されて、郊外化の兆しもみえている。メガパレスやサンタリゾートなど高級ホテルは、市の外縁部に立地している。これらのホテルは、サハリンプロジェクト関係の企業がおさえていて満室のことがある。また、現在、中心部からやや離れた空港付近に、ショッピングや娯楽施設をふくんだ郊外型の大型複合施設が建設されており、2007年末に完成予定である。このほか、ゴルフ場やスキー場の建設計画もある。

豊原/ユジノサハリンスクは車の運転がやや荒く、交通事故が多い。貧富の格差が大きいことが影響してか、治安もロシア国内では悪いほうである。


北海道と樺太/サハリンは観光のライバル?

次に、午前中のサハリン州政府でも伺った観光開発についてお話をいただいた。

北海道と樺太/サハリン相互の観光客数は少ない。その要因として、まず飛行機代が高いことが挙げられる。函館または新千歳から豊原/ユジノサハリンスクまで、サハリン航空の航路が設定されているが、航空券は片道4万円以上する。その他各経費も高くつく。ロシアをよく知っている日本の旅行会社は少ないし、お互い観光スポット・コースの提案が十分に練られていない。

樺太/サハリンは自然が多く残っているのが特徴だが、北海道と樺太/サハリンは自然が似通っているため、樺太/サハリン独特の観光資源とは言いがたい、という。樺太/サハリンの自然・景色を生かしパラグライダーやエゾジカを観光利用しようとしたこともあったが、断念してしまったそうだ。

樺太/サハリンの、自然以外のみどころとしては、豊真線ループの廃線跡に代表される鉄道遺産や釣りが挙げられる。だが、これらに興味をもつのは鉄道や釣りを趣味としている人に限られてしまう。多くの観光客にウケるようにするために何を打ち出すかが課題になっている、という。

なお、北海道側の観光スポットのウリには、ゴルフなど西側的なアメニティがある。樺太/サハリンには石油開発に携わっている欧米出身の社員がいるので、これらの人々にとっては、北海道のそのような観光スポットは興味深いはずだ、と自信を示された。

シベリア〜樺太/サハリン〜北海道連絡鉄道については、発想としては面白いが、実際のところどのような経済効果があるのだろうか、とやはり計画について難色を示すコメントを頂いた。先ほどのサハリン州政府とまるで違った反応だ。サハリン州から北海道を見る目は熱いが、北海道からサハリン州を見る目はさめている。その極端な温度差を感じる。

以上のお考えのなかには、北海道に樺太/サハリンから観光客が来てくれるのなら歓迎だが、逆方向への流出はあまり起こってほしくない、という考えが垣間見えた。樺太/サハリンを、域外からの観光客誘致にとって北海道のライバルととらえているのだろうか。しかし、北海道でも、樺太/サハリンと近い宗谷地方や根室地方は、地域経済の衰退で苦しんでいる。これらの地区を、サハリン州と連携した観光拠点と位置づけて、連絡鉄道がすぐには無理でも、交通路を整備し、運賃を下げ、ノービザ訪問の拡充などで回遊性を強化すれば、域外の観光客にとっての魅力が高まり、ウィン・ウィンで観光業が発展する方向性もおおいにあるのではないか、と感じた。


樺太/サハリンへの投資にしり込みする北海道企業

ロシアの法律の関係で、外国企業は、単独で樺太/サハリンに進出するのが困難であるという。ロシアの法律「ロシア連邦における外国人投資について」(1999年)によると、100%外資の子会社または合弁会社なら設立することが出来る。ただしその際、金融業や銀行業などの特殊業務を扱っている企業は、他企業よりも厳しい制約がかけられている。

北海道の中小企業のごく一部の企業は樺太/サハリン進出に成功したが、北海道は足腰が弱い中小企業が多いので、樺太/サハリン進出に失敗した場合倒産に追い込まれるリスクがある。このため、樺太/サハリン進出に尻込みしがちである。 サハリンTおよびUにも、北海道の中小企業はあまり関わっておらず、関わるとしてもだいたいは下請けであるという。

もっとも、投資機会が無いわけではない。サハリンプロジェクトが終了しても、今後木材・水産物加工業などに参入する企業があらわれる可能性がある。現在すでに木材・水産物加工業などへの参入を模索している企業もある。日露共同開発で、樺太/サハリン産昆布を加工した「サハリン昆布」(1パック300gで220ルーブル)が現在試験的に樺太/サハリン内のごく限られた場所で販売されているのは、その一つの試みのようだ。

ただし、日本では国内産業を保護するため輸入割り当て制度が設定されている場合があり、例えば昆布はロシアからは100tまでしか輸入できない、など制限が課されているので、この「サハリン昆布」を日本で大々的に販売することはできない。ただし、実態としては、統計上にでていない密漁などがあり、統計上よりもロシアから日本への海産物の流入は多いようである。

なお、樺太/サハリンから帰国する日、稚内行きフェリーの売店でも、インタビューで紹介された「サハリン昆布」が販売されていた。ゼミテンの記憶によると1パック1900円ぐらいで売っていたとのことだ。船内でお土産を買う日本人客を見込んでこんな高値をつけているのだろうか。

インタビューは午後2時ごろ終了した。これからの巡検の役にたちそうな樺太/サハリンの基礎知識を、資料をまじえて幅広く説明いただけたのが有意義だった。お土産に、このサハリン昆布を頂戴した。ちなみに、インタビューのとき頂いたサハリン昆布は、帰国後、ゼミ懇親会の鍋料理のダシに使用した。どうも有り難うございました。サハリン昆布のだしは、市販の昆布に比べて大変風味豊かで美味であり、ゼミ生一同大絶賛であった。その風味のあまり、鍋の中に入れていた昆布を丸かじりするゼミ生も現れた。大変大きくて、噛み切れないほど分厚くしっかりした昆布で、少しかむだけで豊な風味が口じゅうに広がる。その味にゼミ生一同、巡検に思いを馳せた。

北海道事務所でのインタビューを先ほどのサハリン州政府経済委員会のインタビューと比べてみると、双方で視点や問題意識に差があったことが興味深かった。

サハリン州政府経済委員会はサハリン行政のまさに現場であるものの、サハリン経済の現実を赤裸々に紹介してくれるという感はそれほどなかった。むしろ、われわれ日本からの「お客さん」に、樺太/サハリン発展のための政策の積極面を紹介し、日本企業との協力の可能性があることを前向きにアピールして、樺太/サハリンへの投資を促したい、という意欲を感じた。

それに対し、北海道サハリン事務所のインタビューは、現実的でさめた話の内容で、ある方向に誘導しようという意図はなかったと思う。

とはいっても、経済委員会のかたの話が現実的でないというわけではない。サハリン州では、現在の平均賃金は日本円に直して約7万円。この5年間で、4倍近く高くなった。サハリン州の各都市の平均賃金の推移を表している右のグラフ(インタビューで頂いた資料より引用)を見ると、経済の右肩上がりのパフォーマンスは一目瞭然である。経済委員会の方が説明してくださった経済政策が今後実現し、将来、樺太/サハリンが大きく様変わりするという可能性もあるのかもしれない。
そのような期待を抱きつつ、私たちは、道路の反対側にあるサハリンサッポロホテルへ昼食をとりに出かけた。


高級ホテルで優雅な昼食

サハリンサッポロホテルは、ソ連時代にサハリンホテルとして登場した。ソ連崩壊後に日本との合弁経営となり、内装は日本からの輸入品を使用し、日本人客の好みに合うよう改装されて「サハリンサッポロホテル」と名を変えた。だがその後、日本は経営から手を引かざるを得ない状況となり、今では再びロシア人による経営となっている。

高級なホテルであるが、建物の外観はブロックを積み上げてつくった直方体に白いペンキを塗っただけで、なんの趣きもない。しかし、内装はとてもきれいだ。外観はメルヘンチックなモネロンホテルの中と外を入れ替えれば、つりあいの取れたホテルになるだろう。 

ロシア人以外にも、石油開発関係などの外国人が訪れることを考慮しているようで、英語の案内も見受けられた。1階の公共スペースには無線LANも設備されている。観葉植物が置かれて、欧米のホテルと雰囲気が似ている。

レストランは、この街にしては高級な部類に入るレストランのようで、メニューに英語案内があるうえ、落ち着いてきれいなインテリアであった。店員の対応もよく、英語もやりとりに不自由しないくらい通じた。だが、客はほとんど入っていない。

私たちは、392ルーブルの「ビジネスランチ」を頼もうとした。だが、スープが品切れであるうえ、メインディッシュとサラダはどちらも2種類から選べるはずが、1種類は品切れのため選択の余地がなかった。巡検中、このような事態に何度も出くわした。どうやら樺太/サハリンのレストランは、あまり大量に食料を在庫させていないようだ。料理はマカロニとサーモンらしき物が出た。イタリア料理のような見た目と味だ。量は少なめだが、味は上々だった。


日本企業は脇役?: サハリンプロジェクトU

午後3時から、三井物産サハリン開発部サハリンUプロジェクト事務所で、三井物産ユジノサハリンスク事務所所長の成瀬正美様にインタビューをした。

サハリンUは、天然ガス主体のプロジェクトである。北海道サハリン事務所の資料によれば、樺太/サハリン島および近海にはおよそ5.55兆立方メートルにおよぶ天然ガスが埋蔵量されており、これは世界の約3.5%に相当するという。

成瀬様のお仕事は、サハリンプロジェクトの業務で樺太/サハリンへ出張に来た人へのサービス供与や情報収集である。この事務所の役割は、プロジェクトの動向を見守ること、そして、三井物産が25%出資するサハリン・エナジー社への対応である。とおっしゃられた。

経験が豊富で、より高度な探鉱技術を保有する英蘭シェルが主体となったサハリン・エナジー社がこのプロジェクトのオペレータ(幹事役)をつとめている。それだから、事務所を見渡す限り、なにか時間にゆとりがありそうで、資源開発プロジェクトを物産が主導して猛烈に進めているという緊迫感は、私たちに伝わってこなかった。もっとも、サハリンTと異なり、オペレータ(幹事役)ではない三井物産にも発言権があるように組織がつくられているのが成瀬様の自慢のようだ。

なお、三井物産は現在、サハリンUに出資するほか、プロジェクト資材の納入や石炭業を手がけている。水産物は、マフィアの関与があるなどの事情のためか手がけていない。また、この事務所では、サハリンU以外の業務は扱っていないそうだ。

ソ連時代に地質調査が行われ、原油・ガスの存在は確認されていた。海上にモリックパック(プラットホーム)を改造した海底掘削設備を設けて原油を生産し、その脇の原油貯蔵タンカーで保存して、タンカーで大半は日本向けに輸出する、という生産活動を1999年以来行ってきた。掘削設備は冬季の流氷にも耐えられるつくりになっているが、海面が流氷で覆われる冬季にタンカーを走らせることができないので、生産は夏季に限られている。

そこで、大泊/コルサコフ近郊、女麗/プリゴロドノイエの沿岸に、300haにおよぶLNGプラントを建設し、天然ガスをパイプラインで運び、ここから輸出する計画にした。プラント構内にはサケが遡上する川が流れ、環境保護のため川の脇50mは手をつけていない。

このプロジェクトには、サハリン州民をはじめ極東・その他ロシア人、アジア系外国人など多彩な国籍の人々が働いている。エンジニアをリクルートするために、地元紙で求人を出すが、優秀な人材はロシア本土へ出てしまって集まらない。ヨーロッパ方面からエンジニアを呼ぼうとしても、樺太/サハリンは辺境地のためなかなか来てくれない、と悩みを漏らされた。


生産物分与(PSA)協定の危うさと環境問題

サハリンUの運営主体であるサハリン・エナジー社は、ソ連崩壊直後の混乱期である1994年に、生産物分与契約(PSA)をロシア政府と結んでいる。三井物産株式会社ホームページによれば、このPSAは、「原油や天然ガス等埋蔵物の所有権を持つロシアに対し、開発の為の必要資機材・費用をサハリン・エナジー社が総て負担し、生産開始に伴い一定のロイヤルティーを支払った後、開発に要した費用を回収し、利潤を一定の割合でロシアとサハリン・エナジー社で分配する方式」である。
 つまり、サハリン・エナジー社が生産設備をつくるかわりに、石油・ガスの生産による利益をロシア政府は企業から分配してもらえるというわけである。

協定は、ロシア政府が今後法律を改正しても、その改正はPSA協定に影響を及ぼさないようになっていて、ロシア政府の立法権がおよびにくい、一種の治外法権のような様相をもっている。また、利潤を分配するというが、生産高や利潤については、情報の非対称性があり、ロシア連邦政府側が多国籍私企業を全面的に監視することは難しいから、政府は利益の一部を逸失するリスクがある。

このように、ソ連崩壊直後の混乱期に締結されたこの契約は、開発者側すなわち主に西側諸国の企業にとって有利、一方の資源保有国であるロシア側にとっては不利な内容となっている。それゆえ、PSA協定は、以前から石油資源が大量に採掘され、資源を経済基盤として明確に位置づけている中東諸国では、どこでも結ばれていない。

今のロシアにとっても、このPSA協定は、できることなら破棄してしまいたくなるような契約であろう。こうした政府の行動により、資源開発が国の管理下に再び回収されてしまうリスクがPSA協定には存在する。しかし、成瀬さんは、サハリンUは世界的に話題になっているプロジェクトだから、もし国が生産物分与協定を破棄するという暴挙に出ると、各国企業からの評価を著しく下げることになる。このような観点から、生産物分与協定の破棄による資源再国有化へのリスクは感じない、という趣旨のお考えを示された。

だが、われわれが樺太/サハリンを去った直後、サハリンプロジェクトUの事業自体が停止の危機に立たされる事態が勃発した(朝日新聞・日本経済新聞2006年9月19日朝刊)。
 ロシア政府が事業にストップをかけた直接の理由は、環境問題であったが、その背景に、PSA協定の見直し、さらにはロシア資本の参入を迫る意図があることは想像に難くない。

サハリンUにおける環境問題について、成瀬様は次のように説明してくださった。

サハリンUで石油・ガス開発を行うにあたっては、森林を伐採するなどして環境に影響を及ぼさざるを得ないので、環境への影響を少なくする対応をしなくてはならない。その一環として、サハリン・エナジー社は2002年「環境影響評価」を作成している。これは、学者からのコメントやロシア連邦の審査・承認を受けるものである。

成瀬様は、ロシアは環境対策に甘いという認識を日本人は持ちがちで、たしかにロシア企業に対しては甘いが、西側企業に対しては厳しい、という認識を持っておられた。そのため、ロシアの法を遵守するだけでなく、石油・ガス業界で常識と思われている環境対策を自主的にすすめている。日本よりも厳しい水準の環境対策をとることもあるという。

このように、厳しい規制のもとで工事をしていても、不手際により土砂が川に流入してしまうなどの過ちを犯すこともあり、苦情が来ることもある。過ちを犯すことがあるということは認めるが、その過ちを速やかに修正することが、三井物産など工事関係サイドのやるべきことだと認識している。また、パイプライン建設による環境破壊の影響を受ける、ニブヒ族など少数民族への援助・補償を行うことを約束している、と述べられた。

私たちは、出発前に「サハリン環境ウオッチ」がつくった、サハリンプロジェクトにともなう環境破壊を告発するパワーポイント資料を学習していた。この資料に紹介されていた内容は事実であろう。だが、工事によって環境が一時的に改変されるのは致し方ないのかもしれない。しかし、どの程度までの環境破壊がゆるされるのか、数年で復旧可能な環境破壊ならいいのか、そのような場合でも一切破壊してはいけないのか、環境容量との関係で、許容範囲を自然科学的に見極めて対処すべきだ、と私たちは思った。


上級者向けスキー場のある丘陵地から市街を一望

インタビュー終了後、私たちは、市街の東縁に広がる、旭ヶ丘/ゴールヌイ・ボーズドフとよばれる丘陵地へ向かった。車で山道を少し登ったところの山肌に、日本統治時代に作られた樺太/サハリン唯一のスキー場があり、そこから市街を一望できるのである。

あいにくの悪天候で霞がかかっていたが、市街はなんとか一望できた。社会主義住宅がたくさん立ち並んでいること、札幌と同じように、碁盤の目状に道路が区画された都市計画がなされていることがよく確認できる。高所からこうして眺めてみると、並木などの緑も目立って美しい。

一方、改装中であるというスキー場は、リフトも設置され、雪さえ降れば滑ることができそうだった。だが,見上げると、どれも傾斜30度以上と思われる厳しい急斜面ばかりだ。むかし日本では上級者向けのスキー場が多かったと聞くが、まったくそのとおりの、上級者限定ゲレンデである。すぐ南の北海道にも多数ある、長距離の緩〜中斜面をクルージングして初級者でも楽しめる戦後の日本のスキー場とは、コンセプトが全く異なる。

日本の、大規模な緩斜面スキー場という設計思想は、スキー場ビジネスの市場を拡大し、大量の客を呼び込んでその経営を効率化するため不可欠のイノベーションであった。それによりスキーというスポーツが、日本の市民一般に広く定着した。しかし、社会主義のソ連では、こうしたスポーツにおける新たなイノベーションは起こらなかった。北海道と樺太/サハリンとのあいだにあるスキー場の違いは、社会体制の違いが、市民のスポーツにどのような影響を与えるか、興味深い示唆をもたらしている。

なお、樺太/サハリンには石油・ガス開発事業などの関係で欧米人も在住しているので、冬には、ロシア人のほか、欧米人も来てここでスキーをするそうだ。コースのすぐ近くに、スノーボーダーが写る、大きな広告看板が立っていた。

日本統治時代に、スキー場のとなりに「旭ヶ丘ヒュッテ」というスキーセンターが作られていたのだが、後に火事に遭い、長いあいだ廃屋として放置されていた。しかし、現在はその建物がちょうど改装工事中で、以前よりもやや大きな新しい建物になるようである。


おごそかな聖歌流れる、新築のロシア正教会

旭ヶ丘/ゴールヌイ・ボーズドフから下り、私たちはロシア正教の教会を見学した。教会は今朝行った戦勝記念碑の近く、豊原/ガガーリン公園のそばに位置している。市民の精神のよりどころである教会が、樺太神社や戦勝記念碑の近くに立地していることは興味深い。

ソ連時代は宗教が弾圧されていたため、ソ連が豊原/ユジノサハリンスクを占領したとき、市街に教会は建設されなかった。ソ連が崩壊すると、ロシア人のアイデンティティとして宗教が重んじられるようになった。こうして、この教会が1990年代半ばに建設された、豊原/ユジノサハリンスクではじめての、真新しいロシア正教会である。

白い壁を基調に、屋根に水色と金色を配した美しい外観である。教会の再建には、慈善の援助が、サハリンプロジェクト関連のロシア企業から出されている。敷地の入り口には物乞いがおり、またちょうどこのとき結婚式で新郎新婦とその関係者が教会に訪れていた。私たちは恐縮しながら教会の中に入った。

教会の中はろうそくが灯り、止まることなく聖歌が歌われて荘厳な雰囲気である。聖歌隊はよく訓練されており、とても上手だ。

気づいたのは、カトリックやプロテスタントの教会と異なり、中に椅子がないことである。礼拝をする人はみな立っている。また、白い壁には、掲げる高さをそろえて列をなし、整然と聖人の画が飾られている。このように、水平方向に平行に層をなして聖画が配置されている壁のことをイコノスタシスという。

新郎新婦が教会に詣でるのはわかるが、私たち日本人にとって奇妙であったのは、教会に来る前、戦勝記念碑にお参りをしていたことだった。1996年、ゼミの巡検グループが、古いドイツの都市で現在はロシア領となっているケーニヒスベルクを訪問した際も、新郎新婦が、戦勝記念の永遠の炎に詣でていた。ロシアでは、結婚の際に、この戦勝記念碑を詣でるのがしきたりになっているようだ。祖国の領土を武力で拡張した英雄が、ソ連時代には宗教的意味を帯びて信仰されていたということであろう。この光景から、軍事力というものへの考え方が、日本人とロシア人で明確に違うことを、改めて認識させられた。


ソ連時代にできた新しい都市中心

教会を出て、市場・デパート、チェーホフ劇場、サヒンセンターなどが集積し、新しい都市中心となっている地区に向かった。戦前は樺太庁などの役所があったこの地区は、ソ連時代になって、日本時代に形成された駅周辺とならぶ新しい都市中心として、ソ連の手により形成された。駅とは関係なく、都市の中心あたりにこのような中心業務地区を建設するという都市計画の発想は、やはりヨーロッパ的である。

デパートには、服や靴、かばんなどを売っているお店から、宝石やマグカップを売っているお店、絵葉書や人形など土産になりそうなものを売っているお店、お菓子や飲み物などを売っているお店、韓国製品を扱う店、日本製品を扱う店など、多様なお店があった。

ただし、日本にあるような大規模なものではなく、地上2階建て、1店あたりの規模も小さい。日本人の感覚ではスーパーマーケットとしか呼べない程度の売場面積である。また、日本のスーパーマーケットや、デパートの地下1階にあるような大規模な食料品売り場はない。日本の食料品売り場にありそうな野菜、果物などの商品は隣の市場で買うようだ。

デパートの商品の中には、カップヌードル、しょうゆ、ダイソー製品など、ちらほらと日本の食料品や日用品を見かけることができた。ただし、日本製のものは、日本で買うのに比べ約4倍もの値段がついている。日本人としては、これだけの高値だと買う気が起きない。街の随所にある売店では日本の食料品は売っておらず、日本の食料品はあまり大衆に出回っていない高級品のような感じがする。日本製品はロシア製品に比べて、品質のわりに高い値段が設定されていて、愛国心の強い人はロシア製品を買うのだ、と成さんはおっしゃっていた。

デパートに隣接した市場のほうに行ってみると、こちらは何棟もの平屋建ての小屋がならんでいて、そのなかに活気のある店がいろいろ入っている。果物や野菜、肉を売っている店、海賊版と思われるDVDやCD(ゲームソフトも含む)を扱う店があった。CD店をのぞいてみると、1枚のCDにMP3形式のロシアンポップが約200曲入って150ルーブルという破格商品もあった。また、韓国系の人の需要をみたすキムチを扱う店もあった。イカを入りという、北の海の原料を生かした珍しいキムチも売っていたので、買ってみた。 

市場の光景はヨーロッパ的だ。果物や野菜、肉は1kgあたりいくらというふうに量り売りをしている。

また、日本人にとっては別段高級品ではない殺虫剤や紙おむつもこの地では高級品のようで、街中の売店ではなく、市場の建物の中にうやうやしく陳列されて売られている。

そのほか、P&Gのシャンプーなど、欧米多国籍企業のメーカー製の商品も、市場の店頭に並んでいた。日本製のカップヌードルやしょうゆはロシア語表記がなく、日本で見る製品とそっくりであったが、こちらはロシア語の表記がちゃんとついている。モスクワなどヨーロッパ・ロシアで生産されたものが、移入されている。ポケットティシューを買ったところ、それはポーランド製だった。

全体として、樺太/サハリンの日常的消費財の流通圏は、旧ソ連・東欧諸国という社会主義時代からの圏域と基本的に変わっておらず、至近距離の日本との物流は、顕示的消費の対象となる特別な財に限られていると見受けられた。


不気味なムードのレストランで夕食しながら議論

デパートと市場をひとしきり見た後、チェーホフ劇場のそばの美しい広場を歩いてホテルの近辺に戻り、夕食をとることにした。

豊原/ユジノサハリンスク市内には、マクドナルドやケンタッキーといった米国系のファーストフードチェーン店が一切ない。ようやく見つけて私たちが入ったレストランは、暗い室内にカラーの電灯がともっていてムードをかもし出しているというお洒落、いや率直には少々不気味なレストランだった。しかも、お洒落?な演出に価値があるのか、料理は質の割に高かった。

頼んだメニューはカムチャツカ風サラダとウクライナ風スープ、それにアプリコットジュース。20人少々しか入れなそうな店に11人もの私たち珍客が訪れたとあって、全員分同じ料理を作るだけの在庫がないそうなので、ありあわせのものでメインディッシュを作ってもらった。突如大人数で押し寄せてムードをぶち壊しにした私たちを煙たがってそそくさと店を出て行ったカップルに少し申し訳なく感じつつ、私たちは夕食をとりながら今日のインタビューと巡検について議論を交わした。

(栗野 令人)

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