コラム 「サハリンプロジェクト」と、グローバルな国家資源戦略

開発の地図

樺太/サハリンの重要な経済基盤となっているのは、いうまでもなく2つの「サハリンプロジェクト」による石油・天然ガス開発である。

まず、これらの概要について、現地でのインタビュー、北海道サハリン事務所でまとめられた「サハリン州関連資料」(2006年8月)などに基づいて、ポイントをまとめておきたい 。
















サハリンTと、日本の開発権益放棄

事業主体:オペレーター(開発の意思決定権保有)として: 米国エクソンモービルの子会社である、エクソンネフテガス(ENL)(30%)その他 日本: サハリン石油ガス開発 (新SODECO) (30%)ロシア:: ロスネフチアストラ (8.5%)、サハリンモルネフテガス ・シェルフ(11・5%) インド: ONGC(20%)     
  *()内は出資比率。
総投資額: 120億米ドル以上
推定可採埋蔵量: 石油約3.07億トン、天然ガス 約4850億立方メートル
事業の歴史年表:
1972年 第5回日ソ経済合同委員会で、ソ連側が樺太/サハリン沖の石油開発を提案。
1974年 日本の石油開発公団が中心となって、サハリン石油開発協力株式会社(旧SODECO)設立。
1975年 日ソ共同による開発プロジェクト開始。
1977年 オドプト油田発見。
1979年 チャイウォ油田発見。
1991年 日本は、米国メジャーのエクソンをプロジェクトに引き入れる。
1995年 新SODECOをふくむ開発コンソーシアム成立。エクソンがコンソーシアムのオペレータとして、開発・販売などにかかわる意思決定を独占。
1995年、PSA(生産物分与契約)締結
2001年、プロジェクト商業化宣言発表
石油事業:2005年に生産開始。 樺太/サハリン島と間宮/タタール海峡を東西に横断し、大陸側に至るパイプラインで輸送。間宮/タタール海峡に面したデカストリ港より、日本海経由のタンカーで日本等へ輸出。
天然ガス事業:2005年にロシア向け供給開始。日本には、海底パイプラインで天然ガスを供給することとしていた。

歴史をひもとくと、日本はもともと、樺太/サハリンの石油に長くかかわってきた。樺太/サハリンでは19世紀終わりごろに陸で石油が発見されたが、本格的な生産は20世紀初頭からである。陸上油田には日本が1944年まで権益を持っていたが、戦争で混乱した状況の中、一応ソ連政府に売却したことになっているらしい。
 海に石油がある可能性は早くから分かっていた。というのは、石油は特定の地層の中にあるので,陸で石油が見つかり,その地層が海まで続いていることになれば、海にも石油があるのではないかと予想できるからである。
 しかし、ソ連にはそれを採掘する技術が十分になかったようだ。1960年代後半のソ連は、アメリカと冷戦状態にあったことから、日本と一緒に開発しないかという話が起こった。正式には1972年に日本の財界にソ連側からサハリンでの石油開発の提案があった。1974年に日本側がそれに乗ることを決定した。このとき、開発に米国資本は関与していなかった。
1975年1月、ソ連側と正式に共同探鉱生産に関する基本契約を締結し、オイルショックの後押しを受けて、翌76年に、事業を開始した。日本が、石油開発公団が中心となって2.77億米ドルの資金を融資、そしてソ連が人員・場所を提供、石油が見つかれば、現物により返済するという約束であった。その結果、1970年代後半に、オドプト、チャイウォなどで首尾よく石油が発見された。 しかし、海での作業には莫大な資金がかかった。だが80年代に入ると石油の値段が急激に落ちてしまい、日本は経済性がないことなどを理由にして、手を引いてしまった。
 2006年10月 エクソンモービル社が中国への供給を決定、日本企業が参画していながら、結局日本は天然ガスを得られないことになった
 日本には寝耳に水のまま、オペレータで販売先の決定権を持つエクソンモービルがその全量を中国に売り渡す意思決定を行った事実を、私たちは重大に受け止めなくてはならない。

石油・天然ガスは、今後、中国・インドなど大規模国の経済成長につれ需要増大が確実である一方、採掘が容易な場所では枯渇に向かい、ますます希少性が増す。しかも、埋蔵資源の分布は偏在し、領土・領海のもとに囲い込まれているから、世界中の誰もが自由にアクセスできるわけではない。こうした状況からすれば、エネルギー・資源が、外交において戦略的に使われることは、否定できない事実だ。 ロシアだけではない。中国は、アフリカでも、内戦続くアンゴラに、IMFが融資を渋る虚をついて20億ドルの借款を供与、その見返りに原油を確保。スーダン政府にも、軍事援助を与えるのと引き換えに石油開発の権利を確保、すでに40億米ドルの投資を行った。これは成功し、中国の原油輸入の1割はスーダン発となっている。米国も、中東の産油諸国も、そしてロシアも中国も、短期の市場的判断だけにとらわれず、資源確保のため、戦略的方向に動いているのだ。資源は、けっして市場で取引される単なる財ではない。やはり現実的に自国が資源の権益をもっていると、強いのである。

ここで私たちが思い起こしたのは、日本が、樺太/サハリンの資源開発でソ連と協力するという独自の戦略的プロジェクトに動きはじめたのが、田中角栄首相の時代だったということだ。田中首相は、日中国交回復、ブラジルの大平原セラドに日系人の力で日本むけ食糧基地建設、中東外交でイスラエルではなくアラブ側を支持、など、米国から相対的に自立する外交・資源戦略を次々と打ち出した。 だが、田中角栄首相が、米国の手によると思われるロッキード事件の暴露で失脚したあと、日本はこのサハリンプロジェクトに自ら米国資本を招き入れ、開発の主導権を放棄してしまった。日ソ協力による戦略的資源開発というのは、米国の嫌うところだったのだろうか。2004年に巡検したブラジルのセラド開発でも、日本の政府資金と日系人の汗で開発した農地が米国の穀物メジャーに渡った ことと、符合を感ずる。

そして最近は、イランのアザデガン油田の権益まで、米国の圧力で、事実上放棄させられた。日本が、このように米国の顔色ばかりうかがうままでは、資源獲得競争に遅れをとってゆくだけではないか。日本は、いつになったら、欧米メジャーや米国の資源戦略から自立できるのだろうか。



サハリンUと、ロシアの資源戦略

事業主体…サハリンエナジー社(SE)。同社への出資企業は、ロイヤル・ダッチ・シェル社(イギリス・オランダ、55%)、三井物産(25%)、三菱商事(20%)、
総投資額: 200億米ドル前後
推定可採埋蔵量: 石油等 約1.43億トン、天然ガス約4500億立方メートル
事業の歴史:
1984年 ソ連が単独で、ルンスコエ油田発見。
1986 年 ピルトン・アストフ油ガス田とルン・ガス田を対象に、三井物産ならびに米国の海底油田開発専門技術会社マクダモット(McDermott)が共同作業開始。
1989年 ソ連が単独で、アクトンダギ油田発見。
1992年 上記の油田を含む鉱区の開発に、三井物産、マクダモット、米国マラソン石油のコンソーシアムが落札。シェルと三菱商事がプロジェクトに参入。
1994年 サハリンエナジー社設立。PSA(生産物分与契約)締結。
1997年 マクダモットが退出。
1999年 第1期生産開始(海が氷結しない夏季に限り石油生産)
2000年 マラソン石油が退出。これにより、英蘭シェルが中心のプロジェクトとなる。
2004年 樺太/サハリンを南北に貫く石油・天然ガスのパイプラインが本格着工、女麗/プリゴロドノエの天然ガス液化工場建設開始。
2006年 (9月18日) ロシア天然資源省が、サハリンUに与えた開発認可を取り消す決定
2007〜08年ごろ 当初予定によれば、パイプライン完成。

サハリンUはロシア系企業が出資していないため、これまでもサハリン州内で風当たりが強かった。
私たちが帰国した後の、ロシアによる開発認可取り消しは、事実上の事業中止命令であり、2008年ごろをめざしていた天然ガスの生産・輸出に大幅な遅れが出る可能性が出てきたという。認可取り消しの理由は環境保全となっているが、サハリンUはロシア以外の国の資本で進められているものであり、ロシア側が自国の権益の拡大のため揺さぶりをかけているのではないかという見方もある。(朝日新聞・日本経済新聞 2006年9月19日朝刊)

私たちは、三井物産の成瀬様から、以前からロシアが西側企業に対して厳しい環境対策を求めていたということを伺った。また、環境破壊という過ちを修正せねばならないと、真摯な態度を見せていた。だが現実には、違反になるような環境破壊を行ってしまっても罰金を払えばいい、という程度の認識だったのではないだろうか。インタビューのとき、三井物産の成瀬様は、ロシアがサハリンUの環境問題について、生産分与契約が破棄されて資源が再国有化されることに懸念を抱いている様子はあまりなかった。

しかし、資源を国際戦略の一部として明確に位置付けていない日本の資源開発関係者の認識の甘さが、サハリンU事業停止命令によって証明されたといっていいだろう。これにより、サハリンUの生産物分与契約(PSA)も、破棄の瀬戸際に立たされている。プーチン政権下のロシアは、エリツィン政権時代よりも着実に権力が集中され、明確な国家戦略として石油・ガス資源を位置づけているのだ。

このように、資源国が国家管理を強める中で日本はエネルギー資源獲得競争に遅れをとっている。 経済産業省幹部の言葉にあるように「資源獲得はカネだけでは解決できない」のである。 (日本経済新聞 2006年12月22日朝刊)

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