8月21日

宗谷/ラペルーズ海峡横断


小屋のような国際ターミナルからいざ出国
日露中間線を越えて、ロシア領海に進入
もっと多くの若い人たちに、樺太/サハリンのことを
「サハリンを愛するロシア人と樺太を愛する日本人のために」
3時間かかった、大泊/コルサコフでの入国手続き
3ヶ国語ぺらぺら、通訳・ガイドをしてくださる成点模様と落ち合う
外見はメルヘンチック、でも内装は・・・ホテル到着
警備員見張りつき、夜遅くまで営業で使いやすいATM

小屋のような国際ターミナルからいざ出国

巡検2日目。ゼミ生一同は、昨日から泊っていた民宿「おもて」で午前7時より朝食をとった。朝食のメニューは昨日の夕食に劣らず豪華で、蟹などのおいしい海産物をたらふく食べることが出来た。

本日の豊原/ユジノサハリンスク到着は夜遅くなる予定であり、夕食を到着先の豊原/ユジノサハリンスクで確保できるかどうか分からなかったので、皆、近くのコンビニ「セイコーマート」などへ、出国前最後の買出しに走った。
  同じ宿に泊まっていたご夫婦とお話ししていると、やはり今日から樺太/サハリンに行く予定だということがわかった。「おもて」は利尻・礼文島行きフェリー乗り場の目の前にあるので樺太/サハリンへ行く方々にお会いするとは思っていなかったが、稚内が近年は樺太/サハリン方面へ向かう国境都市としての機能を持ち始めていることがわかった。

午前8時半、「おもて」を出発。親切にも民宿の方々が車を用意してくださり、国際ターミナルまで荷物とゼミ生数名が積み込まれた。国際ターミナルは利尻・礼文行きターミナルと800mくらい離れており、そこまで重い荷物を引きずって歩いてゆくのは大変なので、車を用意してくださったのは本当にありがたかった。
  大泊/コルサコフゆき東日本海フェリーが出発する「稚内国際旅客ターミナル」 は、「国際」という名とは似ても似つかぬ、小屋のような簡易なつくりであった。建物の真正面にトイレの入り口が堂々とあるのが、笑いを誘ってしまう。


  将来は、利尻島・礼文島へ向かうフェリーターミナルと大泊/コルサコフへ向かうターミナルを今の国際ターミナルの場所に統合して、新しい立派な建物を作り、総合ターミナルとして一本化する計画があるとのことである。その日に期待しよう。

  私達がターミナルに到着した時、ターミナルは既に「平和友好の船」の関係で樺太/サハリンへ向かう日本人団体、ロシア人と思われる人々、その他多くの人々で溢れていた。
  ロシア人は、タイヤやCASIOの電子ピアノなど、大型で高価なものを多数抱えていた。それらの品々は「MAГAЗИH (マガジン)928」と書かれたカートに積まれている。
  「MAГAЗИH928」は、南稚内駅前にある、ロシア人を主なターゲットとしてロシア規格の電機製品、そして日本人がロシア人へ持ってゆく日本風のお土産などを販売している商店である。経営は日本人で、928という数字は、もともとこのお店が靴屋(928)だったことに由来する語呂合わせらしい。支払いは円またはドル、VISA CARD でも可能である。ここでも、稚内が国境経済の街としての性格を強めていることがわかる。
  私たちが国際ターミナルについてから数分後、昨日お話をお伺いした波間様、山品様がわざわざ見送りするために来てくださった。波間様は、阿幸/ヤスノモルスキーの現在の様子や、昔の本斗/ネベリスクの様子、列車などの写真を見せてくだった。これを見ながら、私たちはこれから向かう樺太/サハリンに想いを馳せた。山品様からは到着してからの注意すべきことなどを伺い、一同気を引き締めた。

9時頃、水岡先生がゼミ生全員分の往復チケットをカウンターで受け取ってくださり、行きと帰りのフェリーチケットを受け取った。このチケットは2等で片道で21,000円、往復だと31,000円かかる。代金は、予約時に銀行から船会社の東日本海フェリーに振り込んでおき、ファクスで確認書を受け取って、チケットの現物は出発時に港で受け取るシステムだ。稚内〜大泊/コルサコフ間程度の距離なら、国内移動の場合は1万円台で行くことができることを考えると、この運賃は随分高い。ちなみに帰りのチケットは、大泊/コルサコフから乗船するまで各自で保管せねばならない。なくすと大変なことになるので、樺太/サハリンでは、チケットをなくしていないか、確認する毎日であった。
  出国の前に船内に持ち込めない大型の荷物を預けてから、9時15分頃より出国審査が始まった。 私たちは、1列に10分ほど並んでパスポートおよびビザのチェックを受けた。チェックは一人15秒程度とあっという間に終わり、パスポートの「査証」欄には「出国」のスタンプが押された。
  パスポートチェックに並んでいる最中、掲示板に出国に関しての様々な表示が掲載されているのを見ることができた。例えば、「キャビアにご注意」の掲示。1998年4月1日からキャビアがワシントン条約の対象になった関係で、規制の対象外は250gまでになったというもの。しかし、後に樺太/サハリンのレストランでお会いした日本人旅行者の方々からお伺いした話では、樺太/サハリンでは本物のキャビアにお目にかかることはほとんどないとのことであった。

出国カウンターを通過すると、すぐ目の前に、稚内の時間を示す時計と、大泊/コルサコフ時間を示す時計が目に付いた。しかし、大泊/コルサコフ時間の時計は壊れていた。
 外にでると、進行方向に向かって右側には高い柵が張り巡らされていた。手続き上はもう「外国」である。柵は、密出入国を防止するためのものであろう。そして向かって左側には、おそらく我々と同じフェリーでこれから大泊/コルサコフへ向かうのであろう中古の大型トラックや重機が何台か並べられていた。これらのトラックは北海道を陸送された後、フェリーで運ばれてサハリンプロジェクトの関係でも使われるのではないかと思われた。

日露中間線を越えて、ロシア領海に進入

私たちが乗船したのは「アインス宗谷」という名前の、礼文島や利尻島へ行く国内線に使用されるものと全く同じ型の東日本海フェリーである。


 船の中には大泊/コルサコフの時刻を示す時計と稚内の時刻を示す時間の両方が掛けられ、案内は日本語・ロシア語・英語の3ヶ国語で表示されていた。船内にはテレビ・ポット・電子レンジが備えつけられており、また日本の電圧のコンセントもあり、いつでも自由に使うことができた。船室には1等室と2等室の2種類がある。そのうち我々が利用したのは2等室で、10人ほどをひとまとめにした一画にプラスチック製の枕と毛布のみが置かれている簡素な作りであった。1等船室は2等船室と完全に区別されていて、ドアが一部屋ごとに設けられている。和室と洋室の2種類があり、ロシア人の多くは洋室に入っていたようである。最近では経済の活発化により「勝ち組」となったロシア人が利用しているようだ。
  船は、定刻の10時に出帆した。甲板からは、稚内の街と宗谷岬を一望することができた。自衛隊基地のレーダーや、昨日上った開基百年記念塔、灯台、宗谷岬の風車などが次第に小さくなってゆくのが分かる。乗船してから10分ほどしてから利尻・礼文方面から帰ってくる船とすれ違い、これから北海道のさらに北の島に行くのだとしみじみと感じた。台風が近づきつつあるとのことであったが、大変天気が良く、波も穏やかで、航海には最適の日であった。私たちはめいめい甲板に出たり部屋の外のベンチに座って風にあたったり、船室でしばし雑魚寝をしたりと、一同「プチクルーズ気分」を満喫した。
  廊下の掲示板に、稚内から大泊まで戦前の稚泊連絡船がとった航路と、今の東日本フェリーがとる航路を比較対照した2枚の海図があった。それによると、稚内から大泊までの最短距離の途中に二丈岩/カーメンオパスノスチという岩礁があり、昔はその周辺で航路を間違って座礁する船が絶えなかったので、鉄道連絡船は二丈岩を遠く迂回する航路を取って、片道8〜9時間かかっていた。しかし現在は、レーダー技術の発展などにより最短距離を航海することが可能になったため、5時間半程で行くことができる。
  船の中には売店がある。200円のカップラーメンや、700円の缶入り東日本海フェリーオリジナルウクライナ風ボルシチ、1400円〜3500円まで様々のマトリョーシカ、チョコレートのダース、宗谷の塩などが販売されていた。レジでは1万円札をルーブルに両替してくれるサービスもあるのだが、途中でルーブルの在庫が切れてしまいゼミ生は数人しか両替できなかった。自動販売機のビールは免税価格の1缶100円で、ソフトドリンクよりも安い。20歳以上のゼミ生は、おいしそうに飲んでいた。

船内にて、私たちは配布された「出入国カード」を記入した。この紙はパスポートサイズの小さな薄い紙なので、風が強い日にパスポートを見せなければいけなかったときには、その紙が飛ばされてどこかにいってしまうのではないかと心配だったが、幸い誰もそのような目に遭うことはなかった。

 

出港時は船尾に日本の旗が掲揚されていただけだったが、11時15分、船がロシアの領海に入ると同時に、ロシアの国旗がマストにするすると揚がった。この線が、日本とロシアとの中間線である。とはいえ、日本は、宗谷海峡の領海部分を3海里に限っているため、ここまで日本の領海が続いているわけではない。宗谷岬の少し先からここまで、われわれは公海を航海してきたわけである。ところがロシアは、北海道とのあいだの中間線まできっちりと自国の領海に取り込んでいるので、これ以降われわれはロシア領内にいることになる。私たちは時差のため時計を2時間進めた。だが、電波に国境はなく、甲板にいたauの私の携帯は、日本時間で11時49分まで電波が届き続けた。また、途中「イルカの群れが見えます」との船内アナウンスがあり、イルカは暖かい海にしかいないと思い込んでいたため驚いた。


  相手国の領海に入ったときにその国の旗を掲揚することについて一点述べておく。相手国の領海に入った際、その国の旗を掲げることは、その海域を主権下におく相手国への敬意を意味するものである。この国際慣習によるロシア国旗の掲揚は、ビザなし訪問団が「北方領土」に行く際の船においても行われている。「北方領土」は日本領であると日本国側は主張し続けているが、千島/クリル訪問の際にロシア国旗を掲揚することは、その地がロシアの主権下にあることを事実上日本が認めていることになるのではないか、と疑問がわいた。

お昼になると、お弁当と缶のお茶の船内食が乗船客全員に配られた。メニューはエビフライ・スパゲッティ・煮魚・ご飯・おしんこなどで、日本の幕の内の駅弁と同じようなおかずである。

もっと多くの若い人たちに、樺太/サハリンのことを

お昼ご飯をいただいた後、同乗していらっしゃる、水岡ゼミ全員に御著書『星空の美しい樺太』を提供してくださった山口(旧姓奥山)真様にインタビューさせていただくことができた。山口様は、御尊父が樺太師範学校で教師をされていた関係で、少女時代の一時期を樺太/サハリンで過ごされた。戦後は、ユネスコにお勤めになるなど国際的に幅広く活躍されてきた。2時間近くに及ぶ船中のインタビューの中で、多岐に渡るお話しを伺うことができた。

今回山口様は、樺太/サハリンを中心とした戦争と民族の地域的な移動について調べ、また、日本から樺太/サハリンへ渡った人々の職業の変遷について現地で調べられる計画だという。
  資料として『小樽新聞』より、日本から樺太/サハリンへ行った人の乗船名簿を手に入れることができた。また、当時ソ連によって接収された、豊原/ユジノサハリンスクと落合/ドリンスクの戸籍簿が、管理していたハバロフスクのKGBから返され、これが豊原/ユジノサハリンスクの公文書館で見つかったので、それを手がかりとして調査をしていきたいとのことであった。

また、戦前の『樺太日日新聞』がソ連占領下で廃刊となったあと、ソ連政府の指令下、その記者たちの手で発行された新聞『新生命』のマイクロフィルムが米国にあるので、それも読みたいとのことだった。樺太師範学校の同窓会名簿や戸籍については、見たい人はたくさんいるので、外務省のアジア太平洋局外地整理課の後押しも受け、1万2千人〜2万人分をスキャンしてパソコンに保存される予定だとのことであった。
  お話しを伺いながら思ったことだが、日本政府が、戦前の樺太/サハリン在住日本人の戸籍簿について、ロシア政府に返還要求をしないことはいわずもがな、その全部の公式の複写すらいまだに保有していないとは、一体どういうことであろうか。
  これらの人々が戸籍を請求すると、「元樺太戸籍について ××殿に係る下記の旧樺太の戸籍・除籍謄本を交付してほしい旨の請求がありましたが、同戸(除)籍謄本は、旧樺太から持ち帰られておりませんので、交付できませんから了承下さい。なお、現在、当方で保管している旧樺太の戸籍簿等は極く少数で…」という、外務省発行の「保管がないことの証明書」しか手に入れることができない。政府みずからが始めた侵略戦争の帰結として戸籍を失うことになった日本人一人一人の権利をきちんと守るという真摯な意思がない日本政府の無責任さに、あらためて驚きを禁じえなかった。

山口さんの御尊父は、日本初の男女共学の師範学校である樺太師範学校の先進的だった教育方針に共鳴し、その教師として樺太/サハリンに渡られた。敗戦後は2年間抑留され、真岡/ホルムスクの南でニシン関連の仕事をさせられていたそうだ。戦後は、抑留されていた頃のことを山口様がいくら聞いても、お父様は「言うな、言うな」といって教えてもらえなかった。そのため、山口様の胸中にはずっと御尊父が暮らしていたころの樺太/サハリンについて知りたいとの思いがあるとのことであった。
 当時の樺太/サハリンは、開明的・進歩的な土地柄であった。先進的な機運の中で育っていたため、当時樺太/サハリンで生活していた女性には、現在でも自立した方が多いとのことである。
  樺太/サハリンで働く人々は経済的にも優遇されていた。例えば、月給は、内地の2倍もらうことができたという。さらに山口さんのお父様は「高等教育を受けた女性は社会に出て働くべきである」との先進的なお考えをお持ちで、夫婦共働きであったため、経済的にはかなり恵まれていたらしい。

山口さんが一時期通われていた豊原高等女学校は、樺太/サハリン全島から優秀な女子学生が集まってくるほど有名な女学校で、近くには寄宿舎があったという。学校では、他の女学校同様、教育勅語の暗記など典型的な軍国教育が行われていたが、剣道や弓・なぎなた・太刀・スキー・モールス信号・手旗信号なども幅広く習い、冬には旭ヶ丘/ゴールヌイ・ボースドフのスキー場でスキーも練習したという。ただ、音楽の授業では敵国英米の歌は禁止され、専らドイツの歌と絶対音階を勉強した、とお伺いした。

樺太/サハリンでは10月に初雪が降り、3月の終わりまで雪が残る。冬が長く寒い、との印象が強いかもしれないが、1年のうち5〜10月の半年は快適に過ごせるし、かつ冬もペチカが天井まであり2重窓なので防寒対策は整っており、それなりに快適に過ごせた。ただ、冬は3LDKほどの家でも1〜2tは石炭を使うことになるため、煙突掃除が大変だったとのことである。小さな町なので自転車などは使わず徒歩でも十分移動できたが、雪がない間は馬車がタクシーの代わりに利用され、雪が積もってくるとそりが多く使われていたという。

「サハリンを愛するロシア人と樺太を愛する日本人のために」

次に山口様は、現在の樺太/サハリンについてお話しくださった。
  豊原/ユジノサハリンスクは、日本が支配していた頃よりも町の規模が大きくなっている。敗戦前は駅前に町の機能の多くが集中していた。もし日本の支配がもっと続いていればさらに開発が進んだのかもしれないが、現在のロシアの実効支配下で、樺太/サハリンの位置付けは、遠いモスクワのいわば田舎・辺境であり、主な通りの名前はいまも「共産主義者通り」や「レーニン通り」などとなっている。このことからも、樺太/サハリンが、ロシアの中でも保守的な地域であることが分かる。

しかし、日露の文化的な相互理解は、徐々にではあれ進んできている、と山口様は希望を示された。
  10年前まではサハリン州立郷土博物館に展示されているものといえばチェーホフ一色だったが、現在は日本の展示も行われているという。
  また、最近は、樺太/サハリンの大学では「サハリン史」を教えるなど、「サハリン人」としてのアイデンティティを強めようとする動きもあるという。そのなかで、かつて樺太/サハリンを統治していた日本への関心も高まっているのであろう。山口さんが出席されたある平和・友好イベントでは「サハリンを愛するロシア人と樺太を愛する日本人のために乾杯!」と音頭がとられたという。
  とはいえ、2006年2月に「ロシア人の目で見た樺太・日本人の目で見た樺太」という3日間のシンポジウムがあったとき、日本側の研究者は植民地時代の研究が中心で、現代についての研究があまりなされておらず、他方、ロシア人が戦前の樺太/サハリンを研究するには言葉の壁がある、と痛感したという。
  現在、日本の青少年の間で、樺太/サハリンについて知る人は少ない。そのため、日本の高校で使える副教材のようなものを作り、若い人たちにもっと多くを知ってもらいたいとお考えだそうだ。一般の日本人は、必ずしもロシアについて良いイメージを持っている人ばかりではないが、交流をすることこそが重要だと感じている、と山口様はおっしゃられた。
  また、山口さんは捕虜の問題にもご関心があるとのことで、日露戦争の際に、樺太/サハリンから5,000人のロシア人が捕虜として青森や山形、千葉県の習志野まで連れてこられた、ということを付け加えられた。
  お話をうかがい、「サハリンを愛するロシア人と樺太を愛する日本人のために乾杯」というフレーズが大変印象に残った。日露政府間の関係が一向に好転しない中で、市民である私たちができることといえば草の根の文化交流が第一歩になると思う。このフレーズに代表されている考えが、日露両国の間で広まることが交流への第一歩となるのではないかと考えた。

私は「戦前の樺太/サハリンはひなびた、誰も重視していなかった土地だ」という先入観を持っていた。しかし、父親が樺太庁立博物館の館長であった寒川幸太郎が「密猟者」という作品で芥川賞をとったり、樺太/サハリンへの観光団の募集や、歌・エッセイや詩を書くことを通じ、詩人の北原白秋が樺太/サハリンへの足跡を残していた、などと知る中で、そのような先入観は少しずつ打破され、これから私たちが訪問する地への親しみが増していった。

山口さんへのインタビューを終えてから、ゼミ生は再び甲板に出たり、部屋でゆっくり休んだり、思い思いの時間を過ごした。船は、亜庭/アニワ湾へと深く進んでいる。地図によるとフェリーから能登呂半島/ユジノカミショビ山脈が見えるはずだったが、この日は霧が濃く何も見えなかった。

3時間かかった、大泊/コルサコフでの入国手続き

現地時間で午後5時20分頃、私たちの船は大泊/コルサコフ港へ到着した。

船の窓から、海岸段丘が岸近くまで迫り、その山々の土が生々しくむき出しになっている様子が見えた。港には材木が山積みになっており、その横ではクレーンが鉄くずを引き上げていた。この鉄くずは貿易で海外に輸出されるか、ロシア国内に移送されるのであろう。

この、千歳/ロソセイ湾に突き出た埠頭は、戦前に日本が建設し、国鉄稚泊連絡船が使用していたものである。クレーンの立つあたりに、昔は「大泊港」という駅があり、連絡船から列車にスムースに乗り継いで、そのまま直通で、豊原/ユジノサハリンスクや、当時の日本最北の都市であった敷香(しすか)/ポロナイスクまで行くことができた。

 降りるとき、船の中で係官が船の書類の検査を行っていた。写真撮影は拒否されたので、写真がないのが残念である。
 午後5時40分上陸。私たちは、フェリーの乗船客の中で最後尾になってしまった。出入国管理所行きのバスは、一回に係官の処理が可能な人数しか運んでゆかない。このため、船内の車両甲板で、延々70分ほど待たされた。車両甲板には、大型のトラックや、ポーランドから日本に陸路車で来て、またシベリアを経由し車で帰るという、遠征隊の機材を積んだ自動車などが見受けられた。

漸く私たちの順番が来た。大きな荷物をもと宗谷バスだった中古車の腹の部分に詰められるだけ詰めて、入らない分はバスの中に持ち込み、3分ほど埠頭を揺られて入国審査の建物へと向かった。埠頭には、戦前に敷かれた鉄道線路が平行している。もちろん、いまは貨物列車しか走らない。しかし、稚内の北防波堤ドームでは、線路自体が撤去されてしまったことを考えると、こちらのほうが昔の姿をよくとどめているといえるのかもしれない。
  バスの中にはロシア語のラジオが流れ、いよいよ異国の地に来たのだと実感させられた。ロシア人は船の中で酒を大量に飲んでいたらしく、車内は酒臭い空気と人間の臭いで包まれた。車窓から、4〜5階建ての古アパートとおぼしき建物をたくさん見ることができたが、新しい建物は見かけることがなかった。また、車体に漢字の記入されているトラックも見かけた。

入国審査をするターミナルに着いた。建物は古く、中は薄暗かった。入ってすぐ、預けていた大きなスーツケースやリュックなどをトラックから受け取った後、パスポートチェックの列へと再度並んだ。こちらの部屋でも私たちは最後尾で、審査官は2人しかおらず、2列に並んで30分ほど待たされた。コストパフォーマンスの問題もあるだろうが、こういった面での効率の悪さは万国共通なのかもしれない。

以下の図は、そのときの部屋の様子を再現したものである。

国境警備隊の方が、建物の入口に常に2人ずつくらい、内部にも3人程度がいて、見張っていた。彼らは、濃い緑色の帽子に同じ緑色のネクタイ、それにカーキ色のズボンと黒の靴を履いた制服姿で、凛々しく感じた。だが、日本でこの様な格好の人々がうろうろしていることはなく、中学生が先生に監視されているようで何か落ち着かなかった。多少騒いでも何もいわれることはなかったが、女子トイレのネジが飛んだときは何かとがめられるのではないかとハラハラした。

建物の中の掲示物は、殆どがロシア語で書かれていた。英語では「Information」と大きく書かれた札が掲示板にあり、さらには日本語でも「海外ルーブルを個人で輸出入することについての規制」が書かれていたA4程の大きさの紙が掲示されていた。また、税関の「Goods to Declare」と「Nothing to Declare」はロシア語と英語での併記であった。
  椅子は例外なく全て真っ赤で、クッションも何もない硬いプラスチック製のものであった。私たちはずっと税関のための列に並んでいたので、殆ど坐ることはなかった。
  また、稚内出国時にたくさん見かけた「MAГAЗИH 928」のカートは、図の「カートがたくさんあった場所」にも14個ほど置かれていた。カートは荷物の移動などに使いやすいので、恐らく予備として置かれているのであろう。トラックの中に荷物を入れる際にも使われているのかもしれない。

ようやく、私たちの入国審査の番が来た。私のあごの高さくらいの位置のところにパスポートをおき、そこから係員がパスポートを受け取り、コンピューターで照合していた。こちらからは、中で係員がどんなことをしているのかよく見えない仕組みになっている。写真と照合していたのか、2度ほど顔を見られ、スタンプを押された後、返却された。頭上に鏡があったのは、すり抜け防止のためらしい。かなり審査に時間をかけている。


  その後「Goods to Declare」(税関申告あり)と「Nothing to Declare」(税関申告なし)の列に分かれて進んだ。ゼミ生の一人が、ロシア人との交歓演奏のためイタリア製の高価なバイオリンを持ってきていたため、ラベルなどの、チェックした際に確認できるものを税関申告の紙に書かされることになった。その際、係員から「このバイオリンを売るな、他のものと交換するな」と言われたという。紛失すると、大きな問題になるそうだ。日本語のできる係員が通訳として入ってくれて、多少時間がかかったが、帰国の際に必要になる申請用紙もこの時一緒に書かされていたため、帰国時は問題なくスムーズに進んだ。
  他に高価なものとして、デジカメやパソコンを持ってきているゼミ生が多数いたが、こちらのほうは全く申告の対象とならず、フリーで通過できた。税関申告書の提出も、要求されなかった。昔は、この税関はとても厳しく、入国時に申告していたよりも多くの所持金を帰国時に持っていた場合、申告より多い分だけ没収されることもあったという。市場経済が浸透し、経済的な国境の透過性は高くなってきていることを実感した。
  何も税関申告するものがなかったゼミ生は、パスポートチェックを受けた後、出入国カードを係員に渡し、その裏に「コルサコフ」と書かれたスタンプを押された。だが、私のものは何故か上手く押せなかったらしく4回も押され、あっという間にカードがスタンプだらけになってしまった。この出入国カードのときも、係員がどのような場所を見ているのかがよくわからないような作りになっていた。
  次に、FISCANと書かれた中国製のX線検査機械に手荷物を含めた全ての荷物を通した。私はキャリーケースの荷物があまりに重かったのでなかなか載せられず、踏ん張っていたら係員の方が載せてくれて助かった。入国審査はこれで全部である。FISCANの代替機械しか置いていない部屋を通り抜けて、待ち合わせ場所のような部屋に出た。

3ヶ国語ぺらぺら、通訳・ガイドをしてくださる成点模様と落ち合う

待ち合わせ場所で今回私たちの通訳とガイドをしてくださる、在樺韓国人の成点模(ソンデュンモ)様にお会いすることができた。
  成様は、日本が朝鮮半島を植民地統治していた時代、お父様とともに、同じ日本領だった樺太/サハリンへ渡った。小学校時代は日本語で教育を受け、日本が樺太/サハリンの実効支配を失ってからも、そのまま樺太/サハリンでジャーナリストや通訳として活躍してこられた方である。韓国/朝鮮語・ロシア語・日本語の3ヶ国語を自由に操ることができる。成様は、各所において案内し、詳しく解説を加えてくださった。成様なしでは、この巡検がこれほど実りあるものにはならなかったことは間違いない。
  待ち合わせ場所にもトイレがあった。こちらのものは非常にアンモニア臭が強く、きれいとは程遠かったが、電子乾燥機は備えられていた。また、待ち合わせ場所の部屋の窓は、一部壊れていた。そして、日本語でかかれた稚内の観光宣伝ポスターが1枚掲示されていた。

現地時間午後8時15分、私たちは、裏口のようなゲートからようやく外に出ることが出来た。「Intourist」とかかれた専用バスが止まっていた。ナンバープレートを見ると、日本のような形ではなく、細長いヨーロッパ型である。多くの国が国境を接し陸上を自動車で往来することが多いヨーロッパらしく、ナンバープレートには、ロシア国旗と、RUSという国名略号が表示されている。はるか極東でこれはほとんど意味をなさないのだが、ここはヨーロッパ文化圏の一部なのだ。


  バスが動きはじめてまず気づいたのは、北海道と比べた、樺太/サハリンの道路状況の悪さである。腰の弱い方が車で旅行することはとても勧められない。最もよく整備されているはずの、大泊/コルサコフから豊原/ユジノサハリンスクという、樺太/サハリンで言えば「大都市」を結ぶ幹線道路ですら、随所にアスファルトの激しい起伏や石がある。時間が遅くなり、車は猛スピードで飛ばしたので、私たちは何度も座席から飛び上がりそうになった。初めは驚いたが、後にこの道路は、樺太/サハリンの中では一番良い道路の一つであったことに気づく。
  あたりはもう暗くなりかけ、遠くまで見渡すことができなかったが、ところどころにバス停があり、プレハブの建物や、木で打ちつけられていた窓も見受けられた。さらに作りかけて放置されたと見受けられる建物もところどころで目にした。対向車の数は多くはなかったが、日本の中古車から最新のLexusまで様々な車種を見ることができた。
  信号機は、全て縦に作られていた。植生は、針葉樹が圧倒的に多かった。
  外灯の少ないことも印象的だった。これでは夜中に歩いていてひったくりなどにあったとしても、とても相手の顔を確認することなどできないであろう。

午後8時27分頃、車窓から亜庭/アニワ湾を見ることができた。
  日本統治時代には、道路が海岸沿いの段丘崖の下を走っていた。現在の道路は、ソ連時代に、海岸段丘面に新しく建設されたものである。成様が、平地では農業も行っているところもあるが放棄されたままになっているものも少なくないとお話しされた。
  午後8時47分、豊原/ユジノサハリンスク市内に入った。市内に入るやいなや、歩行者を多く目にして驚いた。市内には立派な家も見られ、外灯も郊外を走っていたときに比べると数多くあり、ガソリンスタンドや病院なども車窓から見ることができる。人口は約18万人、サハリン州全人口53万人のおよそ35%が住む首都に来たのだと、心が躍った。
  住宅は、同じ形をした集合住宅が圧倒的に多く立ち並んでいる。そのほとんど全てソ連時代に作られた社会主義住宅である。急いで大量に建設されたためか、プレハブの板のようなものをはりあわせて外壁にしたような建物も見られた。成様の話では、耐震工事などはあまり行われていないとのことであるから、地震が来たら、ひとたまりもないだろう。

外見はメルヘンチック、でも内装は・・・ホテル到着

午後9時5分、豊原/ユジノサハリンスク駅前にある私たちの宿舎、モネロンホテルに到着した。駅前には戦前も旅館が並んでいたが、このホテルはもちろんソ連時代になって作られたもので、戦前は「神社通り」と呼んだ目抜き通りである共産主義者通りとレーニン像のある公園に面している。
  モネロンホテルの外観は非常に美しく、メルヘンチックである。よく宣伝文句として使われる「日本に一番近いヨーロッパ」をまさに体現している建物のように見えて、期待がふくらんだ。


  しかし一歩中に入ってみると、4階建てであるのにエレベーターはなく、また、ホテルの反対側の壁面は、メルヘンチックな手入れが全くされていなかった。 客はロシア人が大部分、外国人客はほとんど泊っていないようで、ホテル内でもロシア語しか通じない。

  私たちはまずホテルに入ってすぐフロントにパスポートを預け、各部屋の鍵を受け取り、荷物を部屋まで引きずっていった。部屋は2人一部屋であった。鍵を開けるコツが非常に難しく、何度もぐるぐる回して押しても押しても開かず途方にくれていたところ、たまたま隣の部屋に入ろうとしているロシア人の方が一瞬で空けてくれた。本当は左側に半回転するとすぐ開くのであった。この後、私達は他のホテルでも何度か鍵の開け閉めには苦労しており、樺太/サハリンの建物は全般的に立て付けがよくないのであろうとの結論に達した。
  部屋に入るとまず、目の前に二つのベッドが並べられているのが目に付いた。ベッドカバーの中には豹柄のものもあった。その他の室内設備としては、冷蔵庫と洗面台、そしてベッドと同じくらいの高さの机しかない。
  トイレは各階に1つを共同で使う。トイレは便座も手の乾燥機もないという質素なものであった。便器には便座がない。そのまま坐ることには非常に抵抗があったので、多くのゼミ生が「高床式和式トイレ」として使っていたようである。ちなみに、トイレットペーパーの紙質はそれほど悪くなかった。
  シャワーは地下1階にあって、全ホテル宿泊者に対して男女各1つずつしかなかった。トイレの使用は無料だが、シャワーに関しては1人使う毎に70ルーブルかかる。3階にジェジュールナヤ(フロア係、世話役)のおばさんがいらっしゃり、その方にお金を渡し、その場に鍵があれば鍵をもらえる。だが、他の宿泊客が使用中の場合は指定された時間に再びおばさんのところへ伺うことになる。このように書くと、読者の方々は、ホテルに泊っている全員がシャワーを浴び終わるのは朝方になってしまうのではないかと心配されるかもしれない。だが、成様がロシア人は1週間に1回くらいしかシャワーは浴びないとおっしゃっていた通り、シャワーはいつもすいていて、そこまで待たされたことはなかった。
  2階には売店があって、洗面用具、お菓子、飲み物、カップ麺などが売られていた。
  鍵は一部屋に1つしかないので、例えば1人がトイレやシャワーに行き、鍵を持ち出し外側から掛けると、部屋の中にいる人はトイレから戻ってくるまで外へは一歩も出られない仕組みだ。最初のうちは、戸惑った。

警備員見張りつき、夜遅くまで営業で使いやすいATM

荷物を部屋に置いてから、ロシアの通貨を入手するため、ホテルから歩いて1分ほどのところにある郵便局に向かった。日本の銀行ではロシアの通貨であるルーブルへの両替を扱っているところはないので、フェリーの売店で両替ができた何人かのゼミ生以外は、まだルーブルを持っていなかった。
  ここは、戦前も豊原中央郵便局だった建物で、ソ連が統治するようになってから、より大きく改装されている。統治者が変わっても、都市機能が変わらない一つの例である。モスクワ銀行のATMが、この郵便局内に設置されていた。

ATMは夜10時まで営業しており、郵便局に入ってすぐ右に1台、そして入ってまっすぐ行った扉 を開けたところにもう2台あった。防犯カメラは目に付かなかったが、入り口を入ってすぐ左に警備員の方が見張っていらっしゃったので、安心してお金を引き出すことができた。
  ATMの操作は英語とロシア語対応で、「Cirrus」または「Visa」と書かれたカードが対応している。ルーブルでも米ドルでも引き出すことができ、操作も簡単なので重宝した。また、郵便局内には有人のカウンターがあり、そこで国際電話にも使える200ルーブルのテレフォンカードを買うことができた。また、国際電話が使える公衆電話も何台かあった。
  ちなみに郵便局に置かれているのと同じ様な公衆電話がホテルの地下一階にあり、後日東京に電話をしてみたが、回線の状態はあまりよくない。途中で音がプツプツ切れてしまい、一言伝えるにもひどく時間がかかった。
  その後、出国前に十分買い物をできなかったゼミ生は、まだ営業していたホテル前の売店で、14ルーブル〜25ルーブル程の水や、23ルーブル程のビール、そして電子レンジで温めてくれる15〜40ルーブル程のピロシキなどをめいめい購入して夕食にした。もう夜遅かったことと、ホテルの位置する駅前地区は治安が悪いことから、周囲には出歩かず、そのまま午後11時頃に就寝した。

(長束裕子)

前日へ | 2006巡検トップに戻る | 翌日へ

All Copyrights reserved @ Mizusemi2006