昨日とは違い、今朝は明るく,よく晴れている。ゼミ生は朝食を、ホテル前の通りに点々と並ぶキオスクで調達するなどして各自で済ませた。キオスクは、かまぼこを半分にしたような形をした特徴的な建物で、行政がこのような建物をつくって商売をする人に貸し出し、テナント料を稼いでいるのだと思われる。
私にとっては、樺太/サハリン入りして初めて食べるピロシキだったが、ピロシキは油こくて肉臭く,朝食にあまり適さないと感じた。とはいっても色々なピロシキの種類があり、道端で温めて売られているものもあった。こちらのほうは好評だった。
ちなみに、ホテル前にあるキオスクは、今日はいつまで待っても開店しなかった。昨日はこの時間にあいていたのに、不規則でたよりにならない。
午前8時半、ホテルのロビーに全員集合し、巡検四日目が始まった。
この日の朝、水岡先生は、今回の巡検の旅行アレンジを依頼した、インツーリストサハリン社 に旅行代金の残額を支払いに行かねばならなかった。その間、ゼミ生は、王子製紙工場とその木造家屋の社宅群を自主的に視察することになった。
ホテルを出発した私たちは,途中、開店して間もない自由市場や、樺太/サハリンにしては立派なデパートなど、活気付いた朝の町の様子を感じながら、慌しく目的地へ向かった。雨上がりのため水溜りがいたるところにあり、水はけの悪さを再び目の当たりにした。
歩くこと約20分,ようやく街の北はずれ、ボマージナヤ通りなどの一帯に集まる旧王子製紙社宅群 についた。半ば崩れかけた木造の家が集まっていた。戦前の日本時代のものというだけあって、れんがでできた煙突は崩れかけ、屋根や壁に苔がむし,柵が倒れかけている。とても老朽化しており,日本の常識では人が住める状態とは思えなかったが,洗濯物が干してあることから人が今も住んでいることが窺えた。
社宅群の向こうには、旧王子製紙の工場が見えた。長い煙突が目立っている。廃墟となっても、工場がそのまま残っている姿は、迫力があった。しかし、樺太/サハリン島のパルプ・製紙工場は、2003年までにそのすべてが操業を停止している。
この地区では、おそらく、戦後にソ連の実効支配が始まってもかつての社宅群がそのまま利用できる状態にあったので、旧社宅がそのまま接収されて戦後も住宅として利用され、時とともに老朽化して現在に至ったのであろう。しかし、住宅のすぐ反対側では、多目的のオフィスビルの建設が始まっていた。老朽化した木造住宅であるから、取り壊して更地にするのは容易である。今後は、コンクリートの社会主義住宅が広がる市の中心部よりも、こちらのほうが新しい市場経済の都市空間として発展してゆく可能性があるようにも思われた。
目的のものを見られて安心したのもつかの間,サハリン石油ガス開発との約束時間が迫っていることに気付いた私たちは、会社事務所のあるサヒンセンターへと急いだ。
> 途中通った平和(ミーラ)通り附近では、激しく道路工事が行われていた。エクソンモービルの子会社で、サハリンTを手がけるエクソンネフテガス(ENL)本社となるはずのガラス張りの立派なビルもほぼ完成に近づいていた。まだまだこの町は開発途上なのであることを感じさせた。
サヒンセンター1階で水岡先生と合流すると、私たちはすぐに6階のサハリン石油ガス開発(SODECO)へと向かった。
昨日はサハリンU関連のインタビューだったが、今日お訪ねするのは、サハリンTに参画しているサハリン石油ガス開発株式会社(SODECO)サハリン事務所である。
若干遅刻したにもかかわらず、サハリン石油ガス開発の方は快く会議室へと案内してくださった。そこへ油本聡所長がいらして、インタビューを開始した。
油本様はまず、現在の樺太/サハリンの概要を簡単に説明してくださった。
今、樺太/サハリンでは人口が流出しているという。ピーク時の1992年には74万人たが、2006年には52万人程度である。人々は旧ソ連本土の故郷に戻り、かつて石炭で栄えた町は廃墟になり、日本時代のものを使いながらやってきたインフラは老朽化が進み、だめになりつつある。コストが合わないせいで、林業、製紙業、石炭業も衰退し、今行われているまともな産業は漁業のみであるという。
そうしたなかで、最近はまたインフラが若干整備されつつある。ユジノサハリンスク空港がその例だ。こうしたインフラ整備に向けた刺激をもたらしているのは、いうまでもなくサハリンプロジェクト である。お話は、こうして本題に入った。
サハリンプロジェクトはT〜]まであるが、その中で生産のめどがついているのはTとUだけだそうだ。ではなぜ]まであるのかというと、1ヶ所で石油が見つかると地域全体も石油があるように思われてしまうため、鉱区だけが一応設定されている。
石油開発は、まず政府が石油埋蔵の可能性を見出し、次いでその有無を調べ、石油の量を試算、そして、投資するのに見合う分だけ石油があれば初めて採掘を開始し、なければそのまま放置する。
海上での開発は、海に構造物を立てたり,石油を送るパイプラインを建設したり,さらに海が凍ってしまうため、モリックパックという可動式掘削装置を改造した、より頑丈な海上での掘削用プラットフォームの建設が必要なので、莫大なコスト、高度な技術が要求される、このような技術はソ連ないしロシアは持ち合わせていないので、海に石油があると分かっていても資金難や技術不足で開発は不可能だった。このため、海の部分の石油開発に、外国の会社を呼び込んだのだそうだ。
サハリンプロジェクトはT〜]の鉱区に分け、石油会社がその鉱区を買い上げて、探鉱調査を開始する。サハリン州政府は、その鉱区買い上げ資金を受け取る。
サハリンプロジェクトのうち、サハリンXは、石油埋蔵有無の試掘作業をした結果、去年石油があることを確認したが、その量まではまだ判らないらしい。しかも海の部分であるからかなりの規模でないと開発できないそうだ。サハリンVは今年そろそろ試掘作業をするという段階である。「悲観的に考えるとサハリンプロジェクトは今のTとUで終わってしまう可能性がある」と油本様はいわれた。
そのような前置きをした後,油元様はサハリンプロジェクトの歴史について詳しいお話をしてくださった。サハリンの石油開発にはずいぶん前から日本が関わっていたこと。だが80年代のオイルショックでコストがかかるという理由で手を引いてしまった経緯など、ざっと20世紀前後から1990年頃のサハリンTの成立まで時代を追って解説してくださった。
ここで私たちは、もし80年代に日本が手を引かなければ、日本がソ連と協力しつつ開発して、今の樺太/サハリンの石油の多くを確保できたのではないか、と思った。日本のタイムスパンが非常に短期的で、2〜3年で利益が回収できる見込みがなければリスクをとらないから、国際政治のパワーポリティクスの1つである資源獲得に、不利になっているのではないか? 10年20年先を見る、長期的な視野を持つメジャーに資源を取られてしまうのではないか? と油本様に疑問をぶつけてみた。それに対しては、つぎのようなお答えであった。
そもそも資源は、取り合いをしているわけではなく、単にビジネスとして開発をやるかやらないかの問題である。メジャーが一生懸命に多少無理してでも開発をするのは、石油を開発すること自体が仕事だからだ。基本的には、石油・ガスは単なる商品であるから、べつに、「何もしなくても良い」とのこと。日本に関していえば、石油・ガスがもういらないくらい余分にあり、ジャパンプレミアで世界中から買うことができるので、一生懸命自主開発させてもらう必要はない、とおっしゃった。
日本が手を引いた後、ソ連は単独で石油を見つけた(現在のサハリンUとなっている、ピルトン・アストフスコエとルンスコエ油田がそれである)。だが、ソ連経済は停滞し、やがて国自体が崩壊してしまった。この混乱の中、開発は中断されたが、せっかく見つけた石油を何とか開発できないかと考えた。ソ連が、終わりごろ合弁会社としての外資の投資を49%までという制限で認めたことから、海外と合弁会社でやるという話になった。
1991年、日本は、これに、米国のエクソンモービルを呼び込んだ。1995年、新SODECO、エクソン、ロスネフチ、サハリンモルネフチェガスの4 社で、国際コンソーシアムが結成された。日本は、旧SODECOの融資の見返りとして持っていた2.77億ドル分の石油債権を放棄、開発の権利は、米国のエクソンモービルをオペレータとするこの国際コンソーシアムに移った。
石油開発はリスクが大きいのでメジャーでも単独では開発を行わない。リスクを分散するため、他社とくんでやる。しかし、オペレータの権限、すなわち実際の作業ならびに意思決定は、しっかりメジャーが確保する。昨日、三井物産で、私たちは、オペレータとして事業にかかわる意思決定の力を持っているのはエクソンモービルだけだと教えられた。サハリンTは、エクソンモービルの子会社、エクソンネフテガス社をオペレータとするコンソーシアム(共同事業体)であり、出資比率はサハリン石油ガス開発が30%、エクソンネフテガスが30%、ロシアの企業が40%となっていたが、ロシアの企業は一部20%をインドの会社へ売却して今の比率になった。すると、エクソンモービルは、わずか30%の投資リスクをとるだけで、事業全体を進められるおいしい地位にいることになる。
油本様は、石油開発に使う高度な技術についても、市場の論理を強調された。それは、メジャーそのものが持っているのではなく、技術会社が持っているものを買うのであり,メジャーというものは莫大な資金力で世界中から技術を買えるというところにあるのだという。メジャーの強みとは、豊富な自己資金と、失敗しても再起できるという信用である。別に何もかも持っているわけでなく,パートナーを選び互いに不足しているものを補っているのだ、とおっしゃられた。
しかし、そのような技術会社を動員できるのも、信用力をもてるのも、やはり国家の資源戦略と結びついたメジャーの実績の力ではないだろうか、と私たちは思った。日本に自前の探鉱技術が無ければ、結局開発の主導権は欧米メジャーにさらわれてしまうのである。
次に、油本様は、サハリンI現状についてお話くださった。
サハリンTの特徴は、陸から海に向けて海底に最長11kmのパイプを通していることである。そして、海上にプラットホームの建設をそろそろ始めるそうだ。パイプラインは大陸のハバロフスクまで完成し,新日鉄が建設を担当した。1942年に作られたロシアの既存のパイプラインや、大陸にある戦時中の軍需工場も生かして製油場を作るという。
今年の作業として、これから出荷・輸出をするため、パイプラインのテストを行う。今後1〜2年で始まるかもしれず、地理的に近いため主に日本に入るかもしれないそうだ。
工事をするときは環境アセスメントが伴う。環境対策としては、クジラを発見したら保護する・オオワシの巣を発見したら周囲50mを囲うなどの条件をまもり、パイプラインは鮭が生息する川の下にトンネルを掘ってパイプを通し,工事が終わったら草を植えてもとどおりにするなどの事をしているという。
ロシアの環境法はとても厳しく、これをクリアするのは実際難しかったという。ロシアの企業はこの環境法をあまり守らないが、外国企業に対しては厳しく適用する。そのために割く人員は相当数なもので、調査も大変らしい。工事申請のときの書類は4万ページにも及ぶのだがそのうち半分は環境関連なのだそうだ。
次に、油本様はサハリンUについてもふれ、その環境保護に関わる問題点をいくつか挙げられた。サハリンUのパイプラインはサハリン島を縦断しているため、サハリンにある約1100もの川のほとんどすべてを横断している。この横断地点で泥流が起こり、そこにある貴重な漁業資源が壊されている。このように「サハリンUは環境面でいろいろと苦労しているようだ」とおっしゃり、サハリンTの優位をそれとなく私たちに伝えられた。
サハリンIのプロジェクトは、生産物分与協定(PSA)にのっとって行われている。当事者として、連邦政府、サハリン州,事業体という形で契約する。中央政府の権限は強く、収益の大部分が連邦政府にいくそうだ(連邦政府95%、サハリン州5%)。
このPSAの特徴は、民間事業体が政府と契約を結んでいることである。それが必要なのは,新しい法律ができても適用されないなどを決めることによって、プロジェクトの長期的見通しがつけられるようにし、普遍性を確保しなくてはならないからである、とおっしゃられた。リスクが大きいほど多くの資金が必要で、それらは全て石油で回収しなくてはならない。
治外法権のようなものを作って自分たちに有利にしようとしているのではないか、と質問してみたところ,お互いに利益があるから協定を結んでいるだけだ、とあっさり反論されてしまった。
今の大きな問題は、サハリンT,Uの工事が終わったあとの地域経済衰退だ、と油本様は指摘された。それは、「2008年問題」とよばれる。このころ、一番大規模なサハリンUの工事が終わるのだ。
ただでさえ樺太/サハリンは地域経済が衰退し、漁業以外に産業がほとんどない状態なのに、今、地元経済を元気にしている石油・ガス関連の主な工事が終わってしまうと、雇用機会が急激に落ちてしまう。
このような状態で突然思いついたのが、観光なのだそうだ。
観光客を誘致のため、昨日サハリン州政府で私たちが伺ったように、日本との間に橋やトンネルを建設するという考えも、たしかにあるそうだ。しかし「費用は莫大であり、まず日本との前に本土とつなげるべきだと思う。本土と比べるとだいぶ物価が高いなどの問題もあるので,それを何とかすべきでは」と油本様はおっしゃった。
観光に関して、日本人を呼び込むため、北緯50度線の陸の国境など、日本にかかわる歴史的な記念碑を再建整備し、「サハリンを樺太化する」という提案が日本の関係者から出されているらしい。
また、物価が高いことも問題だとされた。その原因としては、ロシア本土から離れているため輸送費がかかることが当然あるが、それに乗じて値上げしている面もある。そして、高給取りが多く、消費財への支払い能力が高いこともこれに影響を与えているようだ。
次いで、ゼミ生からいくつか質問が出た。
まず、パイプラインのメンテナンスについて。これは、エクソンモービルの専門チームが行っている。また当事者同士で出資しあってエコシェフという会社を作り、万が一の事態のための設備などを備えている、という。
次に、北方民族について。北方民族への対策は行政の仕事だそうで,石油会社として資金提供を行い,相当な援助をしているようだが難しく、行政に任せるべきとの意見であった。
油本様は元々樺太/サハリン出身で、ソ連が支配するようになってからも当地でしばらく生活しておられた。現在、樺太/サハリンで働いている人の中には,結構そういう人がいるそうだ。残念ながら、そのことに関してのお話は、時間の関係で伺うことができなかった。
最後に私たちに石油関連の仕事、そして樺太/サハリンで働くことを勧めてくださった。一同インタビューを受けてくださった油本様に感謝し,インタビューを終えた。
事務所を出ると、午前11時40分であった。私たちは昼食をとるためにエレベーターに乗ろうとしたが、込んでいて全員乗ることができなかった。そこで、残った約半数のゼミ生たちは、先に行った人たちが乗って戻ってきたエレベーターに乗りこんだ。
ところが、このエレベーターは、途中まで普通に動いたのに、違和感のある揺れ方を覚えた直後、ガクッと落ちる感覚がした。明らかに異常事態であり、ドアが開かない。私たちはエレベーターに閉じ込められてしまった。呼び出しボタンを押すと当然ロシア語で応答され、私たちは、事情もわからず不安をかかえながら待機する他なかった。
ほどなくして天井から人の声が聞え、ようやくドアが開き、外へ脱出できた。地下一階から少し下にずれていただけだった。声がしたのに外へ出ても人がいなかったのが不思議であった。
こうして再び一階で全員合流でき、気を取り直して「パシフィックカフェー」という名のカフェテリアに入った。この店は英語が少し通じ、メニューも英語で書いてあってありがたかった。客の中には、樺太/サハリンでは珍しく、黒人のビジネスマンもいた。米国人であろうか。サヒンセンターが外資系企業オフィスの集積地として機能していることを実感した。
私たちは、全員でビジネスランチを注文した。これはサラダ、スープ、メイン、付け合せをそれぞれ二つの選択肢から選ぶというもので、めいめい違った組み合わせの昼食を楽しめた。パンが自由に取り放題というのも嬉しく、味も満足できた。しかしこのときは、この後まる2日間、これ以上まともな食事ができないことなど考えもしなかった。
食べ終わるとそれぞれ自由に過ごし、中には追加でドーナッツとコーヒーを注文する者、センター内の売店でアイスクリーム、今日の夕飯を購入する者もいた。
再びレストラン前で集合し、サヒンセンター前の通りに出ると、プーチン大統領の大きな看板が目に入った。この看板は、一昨日豊原/ユジノサハリンスク入りしてからちょくちょく目にしていたものだが、あらためてみなでじっくりと見た。プーチン大統領はまるで「開発しろ」とでも言っているようなポーズをとり、演説の一句が引用されている。ソ連時代の個人崇拝が戻りつつあることを示しているかのようだった。ただし背景が赤でなく青であることが、社会主義時代とは異なる。
私たちは、共産主義者通りをホテルに向かって歩きながら街の様子を観察した。
まずは、かつての樺太庁の建物。これは、貝塚良雄という横浜出身の建築家が設計したもので、優秀な建築技術で作られた石造りであった。このため、いまでも大切に維持されている。しかし、軍事裁判所として使われているため、立ち入ることは一切できない。軍のジープが止まっていて、軍服を着た人がこちらを見て立っており、どことなく物々しい感じがした。はす向かいには、かつての豊原市役所が建っている。現在は、第2の豊原/ユジノサハリンスクの都市中心であるこのサヒンセンターならびにチェーホフ劇場周辺は、日本統治時代には、行政の中心地区をなしていたのである。
ホテルの近くまで来ると、「日本」と漢字で大きく書かれたTシャツを着たロシア人のおじさんがいた。日本人である私たちはとても興味深く彼を眺め、写真まで取らせてもらった。どういう意図があったのかは、わからない。親日家なのであろうか。
ホテルにつくと、私たちはすぐに、動きやすい服装に着替えて集合した。
外に出ると、もう旅行社の用意した車が止まっており、所用でこられない成さんに代わってロシア人のガイド、プルスクリン・パーベルさんも来ていた。このガイドさんは、当地で日本語を勉強している大学生のアルバイトで、片言の日本語が話せるようだった。
ホテルから郷土博物館へは数分でついた。博物館の前で車を降りると、“Do you remember me?”と話しかけられた。なんと稚内からのフェリーに同乗していたポーランドの調査隊の人であった。
博物館の建物は、1937年に日本が樺太庁博物館として建てたもので、外見は、日本のお城のようになっている。しかし、これが現在では豊原/ユジノサハリンスクのランドマークになっている。土産品として売られていたチョコレートの化粧箱にも、この博物館が堂々と描かれていた。瓦屋根で石づくりの立派な、樺太/サハリンで見た建物の中ではなかなか凝った豪華なものだ。日本統治時代の露骨に日本風な建物が、今はロシアが実効支配する都市のシンボルとは、興味深いものである。
庭には、ドンと置かれた大砲がいかめしい空気を醸し出しているかと思えば、中心の整備された人工池の周りにかわいらしい花が植え込まれていたり、端っこにある池にはかわいいおもちゃの小鳥が浮かんでいたりなど、ちぐはぐで不思議な感じであった。しかし、これまで訪れた中では一番観光地として整備された施設であることは間違いない。博物館の玄関前脇には、日本時代の過去を象徴するように、神社にあった狛犬が移され置いてあった。
玄関の扉は、鉄製で重厚な感じである。昨日閉じていた入り口の扉は開いており、やっと中に入ることができた。博物館の入館料は70ルーブル、写真を撮影する場合はさらに40ルーブル払わねばならない。構成は、一階が自然遺産関係、二階が歴史遺産関係で、特に二階で多くの貴重な資料が見られた。三階建てなので、二階から上へと続く階段を登ってみると、開かない扉があった。三階はどうやら立ち入り禁止のようだ。
内部は質素であるが、階段の様子やデザインが、ロマネスク様式の、我らが一橋大学の戦前にできた建物と似ている。建てられた時期が10年ほどしか違わないのだから、当然といえば当然かもしれない。
内部は、樺太/サハリンに関する豊富な資料が、時代順に展示してあった。
入植時代のロシア人が使っていた家具や、家のミニチュア模型。アイヌ人の写真具など。アイヌ関連で気がついたのは、日本人と類似した民族のように展示してあったことである。ロシア人から見れば他民族ということでひとくくりにされているのであろうか。
続いて日本統治時代の展示があった。工場等の写真、日独伊三国同盟締結、昭和天皇の前を行進する様子の写真などがあった。日本の軍国主義を強調して、ソ連の南樺太/サハリン及び千島/クリル侵攻を正当化しているかのようだった。最も顕著な例として、日本の侵略戦争の様子を示した地図があった。
こうした日本の動きと対比するように、上のほう壁いっぱいに、ソ連の兵士たちが勇敢に戦うところを描いた大きな絵、ソ連軍の南樺太/サハリンおよび千島/クリル侵攻の様子を示した地図、ソ連の軍人たちの肖像写真や勲章などが展示されていた。ソ連軍の真岡/ホルムスク攻撃や、日本人が白旗を掲げる写真など、生生しい戦争の記録写真も目に留まった。
そしてついに、この博物館最大の目玉である、昔の北緯50度線においてあった国境標石の実物を目にすることができた。日本側とロシア側の両方が置いてあった。稚内にあったレプリカとさして変わらないが、やはり現地で実物を見ると、日本の陸の国境というかつての現実が、身に迫ってくる。
戦後のコーナーでは、日本の「豊原」という街が今の「ユジノサハリンスク」になっていく過程が示されていた。日本時代の建物がならぶ街路にヨーロッパ風の街燈が立てられたり、建物は日本の学校なのに前に立っている生徒はソ連の白人だったりなど、ちぐはぐで不思議な写真が多くあった。またアパートを建て、社会主義的な都市建設が進んでゆく様子や、広場で群衆の前で演説する人の写真もあり、アジアの資本主義都市がすっかりヨーロッパの社会主義都市になってしまうまでの変容過程が、貴重な写真でよくわかるように映し出されていた。
隣の部屋には、韓国の友好都市である安山市が寄付した部屋があった。赤を基調とした独特の雰囲気がある部屋で、民族衣装や、日本統治時代の朝鮮半島出身者が小学校で学んでいた頃の通信簿、移住のルートを示した地図などが所狭しと展示してあった。このような部屋があるのは、やはり在樺朝鮮半島出身者の存在が大きいからであろう。
一時間ほど博物館に滞在した後、再び車に乗り、私たちは真岡/ホルムスク方面へとむかった。
市街を出て建物がほとんど見当たらなくなると、突然、道路沿いに巨大なゴミ処理場が見えてきた。私たちは急いで近くまで行った。
ゴミ処理場といっても、別に日本のような大型の焼却施設があるわけではない。フェンスのようなもので囲まれたこのような郊外の空き地に、焼却処理もせずにそのまま捨て、それが一杯になるとちょっと土をかぶせて何事もなかったかのようにするのである。
頻繁にごみをいっぱい載せたダンプカーが入り、空車が出ていた。歩いてごみを捨てに来ている人、もしくは何かつかえるものを探しに来ている人もいた。昨日北海道サハリン事務所で聞いたとおり、豊原/ユジノサハリンスクのごみ処理のやり方はひどいものだ。毎日回収されるのだが、夏になると自然発火し煙が上がることもあるという。
このようなゴミ処理場を目の当たりにすると、ロシア政府が、「サハリンU」で環境保護を理由に工事差し止めを求めたことが、いよいよ疑問になってくる
車は再び走り出し、何度も川を横切って快調に飛ばした。ソ連崩壊後改良されたという道はずっと舗装されており、片側一車線で、すれちがいも問題なくスムーズであった。
このあたりの平野には、日本時代にも同じような農場があった。ソ連時代にはコルホーズになっていたようだ。時々牛が数頭いるのを見かけたから、いまでは粗放的に経営されているのであろう。留多加(るうたか)/リュートガ川の前まで野菜(スイカが多い)等を売る露店商が結構いた。ダーチャ(ロシアの別荘付き畑)で収穫してあまったものを売っているのだろうか。
道は次第に山がちになり、留多加/リュートガ川沿いの谷を走るようになった。谷といっても、耕作可能なくらいの低地がある。この辺には戦前、日本の開拓民の集落がならんでおり、持って来た戦前の五万分の一地形図をみると、「瑞穂」「豊栄」など開拓地らしい地名が認められた。
後日、ガイドの成様から伺ったところによると、ソ連の実効支配が始まり、日本人がほとんどすべて退去したあと、朝鮮半島出身の人々が開拓村落に入り込んで農業を行い、収穫物をよい値段で売ったそうだ。しかしその後、これらの朝鮮半島出身者が市場経済で個人的に儲けていると政府に非難され、開拓村落から追い出されて、別の場所にあるコルホーズ1ヶ所にまとめられてしまったという。
ちなみに、後日、成様からお聞きした話によると、樺太/サハリンに外国人の立ち入りが許されるようになったのは80年代だ。しかし、この時期はまだ、上陸するのには特別の許可が必要で、外国人訪問者も団体行動だった。ソ連政府は、外国人来島者と地元ソ連人との接触に対しては、警戒していた。
その時期に、成様の留多加/アニワ時代の友達が札幌から樺太/サハリンに遊びに来たことがあった。そのときに彼からもらった炊飯器を昼休みの短い時間に家まで急いで運ぶために、近道の裏道を走って通った。誰がそれを見ていたのかはわからないが、後にこの行動が怪しまれ、誤解されて、KGBに呼ばれて「何を運んでいたのか?」と尋問されたことがあったという。
車の中から、すでに廃線となった豊真線の鉄橋が見えてきた。豊真線は、樺太/>サハリンの東西を結ぶ重要な交通路であったが、戦前でも、一日に三往復しか旅客列車が走らなかった。というのは、1km進んで40mもの高さを上る急勾配区間もある山岳鉄道で、運行が難しいのである。しかもしょっちゅう雪崩がおこるので、戦後ソ連は扱いに困った。ソ連崩壊直後、ついに、老朽化のため落盤事故が起こってトンネルに入れなくなった。そこで、その機会に本土の広軌用の列車が通れるようにトンネルの拡張工事を試みたが、財政難であえなく中断、けっきょく廃線となって現在にいたっている。
この豊真線沿線で、山の中にあった最大の集落が、逢坂/ピャチレチェである。私たちは、この集落に立ちよった。ここにはかつて、人々はここを通って真岡/ホルムスクと豊原/ユジノサハリンスクを行き来した主要街道であった豊真山道も通っている。真岡/ホルムスクがソ連に攻撃されたとき、多くの市民は、着の身着のまま、この山道を通って今は、この豊真山道の逢坂/ピャチレチェより東の部分は放棄され、豊原/ユジノサハリンスクと真岡/ホルムスクの間の交通は、私たちが通ってきた、留多加/リュートガ川ぞいの南回りにルートが変更されている。
線路は完全に剥がされ、狭い農道のようになっていたが、わずかに埋まっている枕木を発見できた。線路あとの道路を歩いてゆくと、12年前に廃止された駅の残骸を見ることができた。ほとんど瓦礫の山という状態になっていた。
鉄道を失った今の逢坂/ピャチレチェは、寂しい場所だ。家はぽつぽつとたっているがどれも古く人気も少ない。戦前には駅前には集落があり、集落には製材所など産業活動もあったそうだが、今その駅前にある家は、ダーチャになっているようだ。日本時代の山間にあった中心地が、今はダーチャ地帯となって生き延びている。途中でヤギを数頭見たから、家畜も飼っているのだろう。子供が井戸から水汲みをしていたことから、水道が通ってないことが推測できた。
「ダーチャ」とは、都市住民が郊外に所有する、余暇活動もかねた農場である。そこで自家用農作物を自分で生産し、消費し残した農産物は都市の市場に販売して、現金収入を得るのである。北海道サハリン事務所でいただいた資料によると、2005年には、樺太/サハリンの農産物供給全体のうち60%、ジャガイモではなんと74%がダーチャから来たものだった。そのことを知らなければ、山中の静かなのどかな田舎といった印象しか持たなかっただろう。
再び出発して、少し坂を上ると、この道路の最高地点、熊笹/ホルムスク峠に着いた。
道路際で車を降りて、階段を登り、戦勝記念碑に寄った。ソ連軍が日本の侵略者たちから南樺太と千島を解放したということが記載されたモニュメントで、とても大きく立派なものだった。空に向かって高く作られた台座の上に戦車が載っており、その銃口は日本の方向を向いていた。碑の台座には、この附近の戦闘で戦死したと思われるソ連軍兵士の名が黒い石に刻まれ、まだ新しい花束が捧げられていた。
荒れ果てた日本軍のトーチカ(コンクリート製の小型防御陣地)が碑のすぐそばにあった。ソ連軍が真岡/ホルムスクに侵攻したあと、日本軍は、市民をソ連軍に翻弄されるまま置き去りにしてこの峠まで退却し、そこでソ連軍と一戦を交えたのである。
天気に恵まれていたおかげでその場所からは、真岡/ホルムスクの町並みと、その先に午後の太陽に輝く日本海をよく望むことができた。
熊笹/ホルムスク峠を出発して車は坂道を下り、ほどなくして人口4万8千人、樺太/サハリンで2番目に大きな都市、真岡/ホルムスク市内に入った。
時計はすでに午後5時を指しており、西日がまぶしい。
私たちはミール(平和)広場付近で車を降り、市内視察を開始した。
ミール広場から、港を眺めた。向こうのほうに海水浴場が見えた。この港は日本時代に埋め立てて作られたものを拡張したものだそうだ。巨大なクレーンが動き、大きな船が停泊していた。ここは、樺太/サハリンの、ロシア本土へにむけた玄関口であり、港は活気が感じられた。
広場では子供たちがローラーブレードで遊んでいた。日本では数年前に流行したものが一歩遅れてここでは今流行しているのだろうか。
ミール広場から、戦前は、南浜町〜本町と呼ばれた通りを少し歩いた。このあたりは、段丘崖が、ロシアが今はソビエツカヤ通りと呼ぶ街路に面する、ソ連時代に建設された建物のすぐ裏手まで迫っている。ロシアにしては、土地利用が日本のようにせせこましい。ほどなく、旧真岡郵便局跡に着いた。これは、8月20日に参加した平和祈念祭の、あの九人の乙女の悲劇がおこった場所である。だが、着いてみると現在はコンクリート造りの銀行になっており、何の名残もない。もちろん、慰霊碑やプレートのようなものも設置されていない。目の前の建物は、ごく普通の社会主義建築である。事前に地図で調べておかなければ、ここがその悲劇の場所だったとは全くわからない。
私たちは、この銀行わきの壁にお供えものをし、九人の乙女と、ソ連軍の攻撃を受けて犠牲になった当時の市民の方々に、しばらく黙祷をささげた。
その後、ソビエツカヤ通りを歩き、フェリーターミナルに立ち寄った。ここから、大陸側の沿海州ワニノへ行く船が出ており、広場は少し込み合っていた。ターミナル内にトイレがあったが、有料で、7ルーブル取られ、壁が低くキレイではなかったらしい。
このフェリーターミナルのあったあたりが、戦前の真岡/ホルムスクの中心街であった。このターミナルの前にキオスクがあり、ここでロシア人に人気の飲料、クバスを何人かのゼミ生が購入した。ロシアやウクライナ独特の飲料で、味は少しコーラに似ている。慣れれば美味しいのだそうだが、買ったゼミ生たちの評価はなぜか芳しくなく、大量に買ってしまったこと(約1リットル入りのペットボトルしかなかった)を後悔する者もいた。もっとも最近は、コーラに押されてしまっているそうだ。米国の影響は、こんなところにまできているのか…
再び歩き続け、すこし道を海のほうに折れて、樺太/サハリンとロシア本土とを結ぶ連絡船のターミナルと軌間交換所を見学した。
昨日もふれたが、樺太/サハリンの線路の幅とロシア本土の線路の幅は違う。サハリンの鉄道は日本時代に敷設された1067mmがそのまま使われていて、本土より狭いのである。
ちょうど連絡船が停泊していた。その大きな船体の中には、貨車を入れるため線路が敷かれ、そのまま陸上につながっている。私たちの目の前には、ロシア本土の1520mmの幅の線路があった。この幅の線路が、遠くヨーロッパのフィンランドやルーマニア、ハンガリーとの国境まで続いているのだ。
幸運にも私たちは、連絡船からの線路を走って大陸ロシアからきた貨物列車が交換所の中に入りこんでいくのを見ることができた。その中で車両がジャッキで持ち上げられて台車が替えられるのである。だが、それは工場のような建物の中にあって、外からは眺められない。しかし、このあと車で走っているときに貨物列車に交換用の台車がたくさん積まれているのを見た。
台車交換所のある場所から階段を登って、少し高いところにある道路から街を眺めた。ここから、昔の樺太工業が経営していた製紙工場の跡を見ることができた。今朝みたもののように、やはり大きくて存在感がある。豊原/ユジノサハリンスクもそうだが,このような工場以外にも、街中にかなり大きな建築物の廃墟があった。その一方、道路工事が行われ、道路が改良されているのも頻繁に見かけた。これは、サハリンプロジェクトの資金が流れ込んでいるのかもしれない。
真岡/ホルムスクは、稚内と同じように海岸段丘に立地した町である。
現在の市街地の中心である広場は、段丘面上に作られている。この街のレーニン広場も訪れると、付近には市役所があり、このようにシンボル的な広場に面して行政の中心がおかれる、ヨーロッパ的な都市構造がみてとれた。
ちなみにこの広場のあるあたりは、戦前は都市の中心ではなく、この広場は、波間様の出身校である真岡中学校の敷地を取り潰して作られた。古い都市構造をうまく利用している。
戦前の市街は、段丘外の下の海べりに細長く伸び、さきほど訪れたフェリーターミナル前が中心であった。ソ連が占領したあと、ひとまず戦前の真岡/ホルムスクの都市構造を踏襲したが、やはりヨーロッパの都市の中心は広場なので、段丘崖が迫ってせせこましいターミナル前は徐々に中心でなくなっていったのだろう。
サハリン州の他の都市でもよく見られることだが、丘の上にソ連時代の建物、特に住宅が並んでいることが多い。津波の影響を防ぐ、日本時代の建物をそのまま活かした結果、土地の余っている丘のほうに新たな建物を建てるしかなかった、などの理由が考えられる。
ここで車に乗り、私たちは、樺太/サハリン最大の日本時代の遺構であり、1945年8月に激しい戦場ともなった、宝台/カムイシェボループ線の視察へと出発した。
車は細くて車道ではない小道に入り、今まで以上にゆれた。ここで問題が発生した。旧豊真線ループのある場所までは車でいけないのだ。とにかくできるだけ近くまで行く道を選び、車はタイヤがいつ取れてもおかしくないほど激しく上下左右に揺れながら、手井/タイノエ貯水池のダムのほとりまで進んだ。この貯水池は、日本統治時代に樺太工業がつくったもので、工業用水道水源として使用されていたものだったが、ここで泳いでいる人が何人もいた。レジャー施設が少ない樺太/サハリンではこのような貯水池もレジャーに活用されているようだ。しかし、貯水池は深いので、水泳は危険ではないのだろうか。他には釣りをする人や、キャンプ用と思われるテントもあった。
ここからはもう歩いていくしかない。この時点で時間はもう午後6時半を過ぎていた。今日の車の契約は午後10時までで、ここから豊原/ユジノサハリンスクまでは約2時間の時間が必要である。つまり契約を守るためにはあと1時間半でここを出発しないといけないことになる。この時点で、当初の予定にあった、本斗/ネベリスク訪問はあきらめざるを得なくなった。
半ば困惑した様子のガイドさんと運転手さんと車を残し、私たちは目的地へと出発した。
私たちは、ひたすら線路の上を歩き続けた。逢坂/ピヤチレチェのあたりと違って、ここの線路は、いつでも列車が走れる状態に保たれている。ときどき、日本人客を乗せた臨時の観光列車が入線するらしい。
はじめは新鮮だったが、だんだん枕木の間隔に歩幅をあわせなければならず、歩きづらいことに気付いた。前を見ると、どこまでもどこまでも淡々と日本と同じ幅の線路が続き、先が見えず、気が遠くなった。周りは山に囲まれ、私たちゼミ生以外誰もいなかったため、なんだか異国の地にいる感じがしなかった。先頭と最後尾の人の間隔はひどく開き、線路が曲がっていたせいもあるが、ついには最後尾から先頭の人は見えなくなってしまった。途中、池ノ端/ニコライチュク駅のホームであるコンクリートの細長い台や、何かの記念碑を見た。記念碑には、花輪などが供えられていた。景色は湖のような広い貯水池がいつの間にか見えなくなり、かわりにダーチャのような集落が見えた。
だいぶ日が傾き、夕焼けが終わりかけて空が深い紺色になるころ、ようやく先頭を歩いていた人が手を振っているのが見えた。目の前の山の高いところに、巨大な鉄橋が架かっている。1921年から8年にわたる難工事の末完成した、宝台/カムイシェボループ線に着いたのだ。ふさがってしまった不気味なトンネルの横にある、急なはしごのような階段を最後に登り、貯水池から出発して約1時間半後、ようやくたどりついた。
鉄橋の入り口付近で私たちはようやく腰を下ろした。鉄橋から豊原/ユジノサハリンスク方面に向かう線路は、すでに草に埋もれ、荒れ果てていた。鉄橋の枕木の間からは下の線路が見え、危なっかしかった。老朽化しているので、私たちは鉄橋には足を踏み入れないことにした。さきほどのトンネルに入っていった線路がグルッと山を登って、約36mの標高差を稼ぎ、この鉄橋に続いているのである。私たちはこのようにループした線路が重なっている様子を観察した。
また、鉄橋の入り口付近には、ソ連が建設したトーチカがあった。このループ線は、真岡/ホルムスクから豊原/ユジノサハリンスクに向かう鉄道の要衝であり、1945年8月21〜22日には、ソ連軍と日本軍との間で、このループ線の攻防をめぐり激しい戦闘が繰り広げられた。ソ連占領後は、このトーチカで、ソ連兵が日夜鉄橋を防衛していたのだ。このループ線の鉄橋が、軍事的にいかに重要であったか、示されていた。
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30分ほど写真撮影や休憩した後、来た道を再び1時間半かけて引き返した。歩いているうちに夜がきてしまい、辺りは暗くなって、足元の枕木がほとんど見えなくなってしまった。最後の30分くらいはゼミ生が持っていたライトの光に頼るほどだった。
上を見上げると、東京では決して見ることのできない満天の星空で、星の光が池に反射していた。とても見事で、立ち止まって空を眺めていたかったが、そうする余裕もなく、とにかくひたすら歩き続けなければならないのが惜しかった。また、お昼から、昨日市場で大量に買ったクッキー以外ほとんど何も口にしていなかったため、空腹をこらえながら、歩いた。このまま本当に帰れるのだろうかと、不安になるほどであった。
疲労困憊しきり、ようやく車にたどりついたときは、午後10時を少しまわっていた。契約時間をもう過ぎてしまというのに、運転手さんとガイドさんはよく3時間以上も待っていてくれたと思う。とてもしみじみとありがたく感じた。彼らがいなければ私たちは帰れなかったのだ。
こうして私たちはかろうじて無事に車に乗り込み、豊原/ユジノサハリンスクへの帰路に着いた。車の中では数人がぐっすり眠り込んでいた。もう真っ暗なため窓の外の様子を見ることは不可能であった。モネロンホテル前に着いたのは、午後11時50分。ガイドさんは明日の車は午前7時半に来ることをつげ、運転手さんも共に帰っていった。運転手さんはこんな遅くまで仕事をし、さらに明日も早いのだ、と気の毒に思った。
車から降りると、夕食をまだとっていないためホテル前のキオスクで食料調達する者もいたが、疲れきってすぐに部屋に戻ろうとするものもいた。明日の朝も早く、明日出発したら28日までこのホテルに戻ってこないので荷物整理もしなければならないのだ。そんな様子で日付が変わるころ解散となって、長かった第四日目の巡検は終わった。
(佐藤 香里)