続ヌクス ヒバ  2003 09.08


ヌクスでの朝

 目が覚めた。カーテンから差し込む暖かい光。今日も晴天だ。ホールに出ると既にゼミテンの何人かがくつろいでいる。このゲストハウスの子供たちは、朝から元気だ。こういう民宿のようなところに泊まるというのも、アットホームでいいものだ。軽めの朝食をとった後、出発である。民宿の建物の前でホームファミリーの方々と記念撮影をした。一期一会だ。

ヌクスの博物館より

 

今日、最初に訪問するのは、ヌクス博物館である。ゲストハウスがあった街の郊外から中心地に向かう。並木が立ち並ぶ道を進んでいくと博物館に到着だ。博物館の入場料、撮影料は共に2000スム(240円)だ。

博物館には、歴史的、文化的資料に加えて、グラフ、模型、動物の剥製、油絵なども多くあり、とても充実した展示であった。アラル海縮小問題、スターリンによる粛清などソ連統治時代の負の面の展示や、ティムールやロシア帝国統治前の生活などの油絵が独立後に描かれていることから、この博物館の展示が独立後に大きく変わったことがわかる。

博物館に入ると、まず大きなカラカルパクスタン共和国の地図があり、そこには特産物である黒い大理石、漢方薬としての植物、綿が並べてあった。ここから、カラカルパクスタンの自然地理についての展示が続いていく。

多くの動植物の剥製が並ぶ中で、衝撃的だったのは、前日訪問したアラル海の展示だった。まだ、アラル海が湖水をたたえていたころの、チョウザメ、ナマズなど多くの魚が泳いでいるありさまが展示してあった。アラル海には、確かに豊かな生態系が存在していたのだ。昨日見た、干上がったアラル海の光景が、これと二重写しになる。しばらく前に作られたこの展示では、2000年には現状よりもアラル海がさらに縮小するだろうと推測していた。この予測ほどではなかったにせよ、塩の浮き上がった土の展示は、ソ連時代、適切な環境保護政策はとられていなかったことを、静かに告発しているようだった。アラル海問題については勉強していたが、このように視覚で実感してみると、その重みがはるかに強く感じられた。これが、現地をじかに訪れることの大きな意味だろう。

地理の展示が終わると、次にヒヴァ汗国やロシア帝国に支配される民衆の様子が描かれた絵画、そしてソ連時代の紙幣などの歴史の展示が続く。

興味深かったのは、スターリン時代に行われた調査や粛清についての展示だ。1930年、カラカルパクスタンに、スターリンは「調査団」を派遣した。その目的は文化や建築物などの「科学的価値」を調査することだった。そして、「科学的価値」がないと判断された100のモスクと20のマドラサは、1934年に破壊され、イスラムの伝統は打ち壊されて、その資材でソ連スタイルの建築物が建設された。スターリン時代にカラカルパクスタン内で粛清の犠牲になった人数は、展示の資料によると、37年から38年の間に4万1千人が逮捕、7千人が処刑、さらに39年からスターリンが亡くなる53年までの間に10万人が逮捕、1万3千人が処刑されている。

このような「調査」、粛清は、もちろんソ連各地で行われた。しかしカザフスタンアルマティキルギスビシュケクの博物館では、スターリンの粛清を批判する展示は見られなかった。さらにアルマティの戦勝記念公園のモニュメントや、ビシュケクの博物館でのレーニンの展示、レーニン像移動に対する反対運動から考えるに、カザフスタンキルギスはソ連統治時代の評価において、肯定的ですらある。これに対し、ウズベキスタンは、ソ連時代の評価について否定的と言えるだろう。このような相違はどこからくるのだろうか。カザフスタンはセミパラチンスクでの核汚染などのソ連時代の負の遺産が残るものの、ロシアと長い国境を接して密接な関係があり、石油はロシア軽油でなければ今のところ輸出できず、国内に多数のロシア人を抱えていることから、積極的にソ連統治時代を否定しようということにはならないのだろう。キルギスは米国流の急速な市場経済化を謳いつつも、現実の経済はソ連統治時代の遺産に頼っている。更に独立後10年以上経っても経済状況が改善されないために、ソ連統治時代を懐かしむ気持ちもあるようである。このような点からソ連統治時代を肯定的に捉える傾向があるのだろう。一方で、ウズベキスタンは、カリモフ大統領の方向性から、強権的な国家建設を行い、さらには中央アジアの盟主としての地位を狙っている。そのためにも、かつてのソ連の権威を否定し、ソ連に支配されていた属領とでもいう地位から脱却を図っているようである。

以上の展示の他にも、民族衣装や宝飾品、楽器など多くの文化的資料が展示してあった。カリモフ大統領の写真も飾ってあった。またカラカルパクスタン共和国の国旗や国章も見ることができた。それらはウズベキスタンのそれを基にして作られていた。

この博物館は、2階が美術館になっている。Lonely Planetによれば、この博物館はヌクスという地理的に中央の目が届きにくいという条件を利用して、非社会主義的な美術品を守り、その収集に努めてきたという。

ベルーニBeruniで道を曲がり、アムダリア川に近づくにつれて、再び灌漑農地が広がり始めた。アムダリア川に着くと、そこにあったのは浮き橋で、これを歩いて渡ることになった。もっとも、浮き橋といっても鉄でできたしっかりしたもので、車も楽に通れる。浮き橋になっているのは、本格的な橋を架ける資金が不足しているためである。アムダリア川の川幅はそうとう広く、200mはあるだろうか。前日、ムイナクからヌクスに向かう途中に見たアムダリア川と比べると、上流のほうが川幅が広くなっているのがわかる。通常、河川は下流に行けば行くほど支流からの流入が加わり幅も広くなるものだから、いかに灌漑用水としてアムダリア川から大量の水が取水されているかがわかる。

水資源の灌漑利用自体は悪いことではないが、「自然大改造計画」と称する、万能の技術をもって社会がその都合の良いように自然を支配できるはずだという、ソ連時代の傲慢な考えが、現在の問題を引き起こしたのだ。カスピ海からアラル海に水を引くとか、シベリアからアラル海に水を持ってくるという考えもあるようだが、それがまた次なるアラル海問題を引き起こすのではないだろうか。

アムダリア川を渡ると、ホラズムKhorezm州に入った。ホラズム州の主な産物は米とフルーツだ。州都は人口は30万人のウルゲンチUrgenchである。州民は主にウズベク系だが、言語的にはトルコ系もいるという話だった。

 

ウルゲンチから、ソ連時代に使われた長大なトロリーバスの架線がかけられた道路を直進するうち、遠くにクリーム色の大きな城壁が見えてきた。

ヒバの歴史

1時45分、ヒヴァに到着した。ヒヴァ汗国は、1512年、ウズベク国家としてアムダリア川下流域に成立した。周辺部族との争いが絶えなかったが、一方では商業の中継都市として栄え、特に奴隷市場として有名だった。19世紀以降、この地域はイギリスとロシア帝国とのいわゆる「グレート・ゲーム」の舞台となっていく。ロシア帝国はイギリスの出方を伺いながらも、1840年頃からヒヴァ汗国に攻勢をかけはじめた。イギリスもロシア帝国も、自国がすでに獲得した植民地はしっかりおさえておきたいと考え、お互いに直接対決は避けたかった。特にイギリスが恐れたのは、ロシアが当時の英領インドに侵攻してくるリスクだった。これを防ぐため、緩衝国として中央アジア南部に「アフガニスタン」を設置することと、その国境画定が重要となった。ロシア帝国は譲歩して、現在アフガニスタン領となっている部分への勢力拡張の意図を放棄した。こうして1860年代にアフガニスタンの国境がおおまかに決定すると、イギリスが勢力圏を北側に向けて侵攻してくるという可能性が低くなった。こうして、1840年代に征服に失敗していたロシア帝国は、1973年にヒヴァ汗国を再度攻撃し、保護国としてロシアの支配下に置くことに成功した。完全に征服しなかった一つの理由は、イギリスへの配慮であろう。だが、1917年に10月革命が勃発すると、ソ連はヒヴァ汗国の版図の直接支配を図り、1920年にフルンゼ将軍が率いる革命軍によって打倒された。この時の攻撃で、今ではすっかり修復され、観光客の入り口となっている西門が破壊された。このように、ヒヴァは、古い遺跡ではなく、依然として中央アジアの熱い近代史を物語る場所である。

ヒバにて

ヒヴァの城壁は内壁と外壁の二重になっており、一般的にヒヴァと言った場合は、王宮のある内壁の内側をさす。これをイチャン・カラと言う。イチャン・カラは1990年に世界遺産に指定されている。

西門で入場券を買う。入場券が5000スム(600円)、カメラ使用料が1400スム(168円)だった。結構高いと思っていたら、実はこの入場料金には、イチャン・カラ内の遺跡、博物館の入場料金も含まれていて、そこに入りたいときにこの入場券を見せるというシステムになっているのだ。それを知ったのはイチャン・カラの見学を一通り終えた後であったが。受付のおばさんに、スムが足りなかったのでドルは使用できないかと言うと、少し渋った後、1ドル=1000スムのレートで交換してくれた。結構、できるものだ。

みんな、お金が足りないと言うことで、西門から入ってすぐ右にあるホテルで両替をすることとなる。前日、モイナクからヌクスへの道で換えた札束は、どこへ行ってしまったのだろう。このホテルでの公式レートは、以下のようであった。

1USドル 974スム
1ユーロ 1020スム
1ポンド 1500スム
1円 8.1円

ここで50ドルを両替したら、なんと500スム少なかった! でも、窓口を離れた後に気づいたから、後の祭りだ。くそ〜。その手口はこうである。50ドルを渡すと、電卓で48700と打って見せてくれる。それでオーケーと言うと、500スムが100枚ある札束を取り出し、サッと4枚抜き取り、200スム足して何食わぬ顔で48200スムを渡すというものだ。両替したときは、窓口の目の前できちんと確認したほうがいい。

この後、ちょうどイチャン・カラの中央にあるカフェで昼食をとる。ケバブとサラダなどを軽めにとり、その後は各自、5時まで自由行動によりヒヴァを視察することとなった。

イチャン・カラは約800m×450mの城壁で囲まれている。東西南北にそれぞれ門があり、西門のすぐ横にクフナークKukhana Arkという王宮があることから、西門が中心的な門であったと思われる。王宮のすぐ横には、Zindonという刑務所が存在している。西門から東門への道がメインストリートであり、モスクやマドラサなど諸機関はすべて、この道の両側に配置してある。11のマドラサに、3つのミナレット、2つのモスク、2つの霊廟がある。

私はまず、カフェからまっすぐ東門まで歩いてみた。おばさんがせっせと道をほうきで掃いている。とりあえず東門まで歩いてみた。歩いてみて、結構狭いことがわかる。東門は誰でも自由に通ることができ、現地の人々の入り口として機能しているようだった。

まず、都市の構造を知るために、ヒヴァで一番高いと言うIslom Huja Minaretに行くことに決めた。これは、高さ45mもあるらしい。ミナレットに着くと、横でお土産を売っていたおばさんが、登りたいのかというようなことを言ってきた。料金は1000スム(120円)だそうだ。うん、まあ妥当だろう。ミナレットの中は薄暗く、階段も急で、なかなかスリリングだ。それに結構、足に来る。頂上では、ヒヴァを一望するすばらしい景色を見ることができた。イチャン・カラ周辺は、土壁でできた住宅が密集しており、そのすぐ遠方には緑の畑が見える。イチャン・カラの中は土壁のクリーム色の中にドームの水色が映えてとてもきれいだった。これを建設するのは、とても大変だったと思われた。



ミナレットを出た後、目の前のIslom Huja Medressaを訪れた。入場料は1000スム(120円)だった。だいたいどこも、1000スム(120円)なのだろうか。ここは、ロシア帝国の保護国時代に、ヒヴァの近代化の重要な役割を果たしたマドラサである。建物は中庭を取り囲むようにほぼ正方形をしていて、正面から入って右へ行くと、まずモスクと思われる部屋があり、あとは小さな部屋がいくつも続いていた。現在では、建物全体が博物館になっている。モスクは青色のタイルで装飾され、とても厳かな感じである。他の部屋には民族衣装や、レリーフ、当時使われていたと思われるコーランなどが展示してあった。ただ、解説がウズベク語表記であったため、詳しい内容を知ることはできなかったのが残念であった。中庭には井戸があったので、とりあえず覗き込んで見る。水もあり、バケツのようなものもあったので、現在も使われているのかもしれない。ぶらぶらしていると、おばさんが二人ほどやってきて、こっちへ来いと言う。何だろうと思って、その部屋を覗いてみると、高そうな装飾品のお店だった。あまり興味がなかったので、帰ろうとしたとき、なんか2階に上る階段を発見した。受付のおばさんに言ってもいいかとジェスチャーで聞くと、オッケーとのこと。さっそく登ってみる。2階は屋上のようになっていて、これといったものはなかったが、土壁作りの建物の屋根に登る体験もあんまりできないことなので面白かった。特に、土壁から出っ張っている木が雨水の排水のためであることがわかっただけでもよかった。さて出ようとすると、受付のおばさんがしきりに隣に座れとジェスチャーをしてくる。面白そうなので座り、日本人かなどと片言の英語で聞かれたが、それ以上片言の英語では話も膨らまず、ニッコリ笑ってそこを後にした。

ヒヴァはもとより、ブハラサマルカンドでも、ウズベキスタンでは、イスラム神学校であったはずのマドラサが土産物屋として使われているところが多い。その根本的な理由は、ソ連以来の、政府の反イスラム政策である。独立して、ウズベキスタンにはイスラム教の影響力が強まったが、政府は、国内にイスラム原理主義が広まるのを恐れている。そのため、イスラム神学校であるマドラサがその機能を再開することを禁止し、その空いた場所が、土産物屋になっているのである.

次の目的地を、目の前にあるPahlavon Mohammed Mausoleumへと決めたものの、目の前に水色のドームにどこから入ったらよいのかわからない。うろうろしているうちに、よくわからないところに来てしまった。現地の子供たちが何かを一生懸命作っている。工芸品だろうか。なんとかメインストリートへ抜け、気を取り直して、旧王宮であるクフナークに向かうことにした。クフナークの前にはインフォメーションセンターがあり、そこには日本語での案内もあった。

クフナークの入場料も1000スム(120円)だ。王宮の中は結構広く複雑なうえ、順路のようなものも示されていない。とりあえず、そばにいたおばさんにジェスチャーで聞き、手当たり次第に突き進んでいくことにした。中には、玉座、造幣所、ハーレム、モスクらしき装飾された場所、大きな広場などがあった。壊れたままの部分が多すぎ、昔のきらびやかな王室の栄華をしのぶには程遠く、出発前に「世界遺産」に対し抱いていた、観光客御用達のような場所というイメージとはかなりのギャップを感じてしまう。予算が無く、ソ連軍による1920年の破壊をなお修復できないのだろうか。それとも、原爆ドームのように、ヒヴァ汗国が征服され滅亡したという証拠を、いつまでも目に見えるよう晒しておきたいのだろうか。とりあえず、場所がわからないので、やぐらのような高いところへ登ることにする。登るのに再び1000スム(120円)が必要だった。やぐらから見ると、クフナークが厳重に塀によって護られているのがわかる。そしてイチャン・カラの様子がよく見えた。その後、Zindonに行った。Zindonでは、入場券を見せて中に入った。中には、収容されていた人々の様子を再現したものや、処刑や拷問の様子を描いた絵画、レリーフが展示されており、なかなかすさまじいものだった。Islom Huja Minaretからも多くの人が突き落とされて処刑されたそうだ。

その後、再び、西門から東門の方へゆっくり歩きながら、その両サイドにある建物を見て回った。東門にたどり着いたので、今度はイチャン・カラ内の住宅地の方へ行ってみることにした。住宅地は、現地の人々の生活の様子がよくわかった。絨毯を干していたり、土壁の家を作っている現場を見られたりと、とても面白かった。学校帰りと思われる子供たちが寄ってきて、しきりに私の足を指さすので、何かと思っていると、どうやら私のズボンに穴が開いているのが気になるようだった。北門の近くから城壁に登れそうだったので、登ってみた。城壁の上には2mくらいの道があり、ヒヴァ・ハン国の時代はおそらくここにもたくさんの見張りがいて、この国を護っていたのだろう。しかし非常に頑強であるこの城壁も、ロシア帝国、あるいはソ連の武力の前ではかすんでしまったのかもしれない。

そろそろ時間になったので、集合場所の西門の方へ歩いていった。途中でゼミ生と会い、Sayid Alauddin Mausoleumの音楽博物館が面白いという話を聞き、行ってみることにした。さらに、話によると、入場料を値切れるとのことである。私は入場料を値切るという考えはぜんぜん思いつかなかったので、「マジかよ」と内心思ったし、1000スム(120円)は妥当とも思っていたので、これを聞いたときは正直、びっくりした。値切ってみるというのが、文化なのかもしれない。行って見ると、さらに驚いたことに日本人かと聞かれ、そうだといったら無料で入ることができた。楽器を弾いている人の様子を、音楽つきで見ることができた。ヒヴァの土産物屋では、ウールで編んだ靴下が多く売られていた。5時になったので、西門に集合し、次なる目的地、470km先のブハラを目指した。





ヒバからブハラにて

農地であった外の風景も、ベルーニから曲がって午前中の道を少し進んで行くとがらりと変わって、草がまばらに生える荒地のようになった。突然、夕霞の中から、右手の砂漠のかなたに、アムダリア川が浮かび上がった。砂漠をの中を流れるアムダリアの川幅は、対岸がかすんで見えないほど巨大になっていた。日が沈んで、あたりが暗くなった頃に、チャイハナを見つけて、そこで夕食を取った。

ようやくブハラに着いたのは、真夜中に近かった。今晩宿泊する、Rabi Hauz B&Bはなかなか面白いつくりで、中庭のようなホールの周りにわれわれの部屋があった。



(小池 倫太郎)

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