車中で仮眠を取り、深夜1時ごろに、下車駅の、ウズベキスタン・カラカルパクスタン共和国のクングラートQongiratに到着した。ここから1週間に渡るウズベキスタン巡検が始まるのだ。真っ暗な小さな駅には跨線橋が無く、線路を渡って改札ゲートに向かった。ここでも乗車券はチェックされなかった。駅自体はそこそこの規模だったが、電灯が少なくて辺りは薄暗く、初めてのウズベキスタンの地に多少不安を覚えた。だが、駅前では、深夜というのに物売りやタクシーが大勢待ち構えており、そこでは熾烈な客引き競争が展開されていた。
車中で水を飲み干してしまい、丁度飲み物が欲しいと思っていたところだったので、ゼミテンの何人かがそこで蛍光オレンジ色の怪しげな炭酸飲料を買って車に乗り込んだ。両替所はなく、ウズベキスタンの通貨は誰も持っていなかったが、カザフスタン通貨のテンゲを使うことができた。この列車の沿線は、どこの停車駅でも物売りに活気がある。
ウズベキスタンの旅行社Dolores Toursのガイドと無事落ち合い、窮屈なバンに乗り込んだ。駅を出ると、車は砂漠の中を2時間疾走し、かつてのアラル海の湖畔に位置していた漁村、モイナクMoynaqに到着した。われわれは駐車場に停めた車内で仮眠し、夜明けを待った。
アラル海は、綿花栽培のための灌漑用水が原因で、アムダリア川Amu Darya およびシルダリア川Syr Daryaから注ぐ水量が減少し、現在湖面積が急激に縮小している。空が白み始め、われわれは車を降りて、切り立った崖の上へと向かって歩いた。そこは、かつての湖畔であったが、今では湖面は200キロ先にまで後退してしまった。崖の畔には第二次世界大戦の勝利を記念した大きなヨットのようなモニュメントが建っている。崖のそばの急斜面を30メートル程降りると、かつてアラル海の湖底だったところを歩くことができた。白く美しい貝殻が散在しており、そこがかつて湖底であったことは疑いようもない事実なのだが、現実に目の前にしている光景は、荒廃した砂漠だった。「アラル海」ならぬ「アラル砂漠」には、表皮が硬く白い、いかにも砂漠に生えていそうな植物が至る所に根を下ろし、植生も完全に砂漠と成り果てている。降り立った場所から数百メートル離れたところにはなぜか電信柱が建ち電線が走っており、このような場所にまで社会的インフラをきちんと整備する旧ソ連の社会主義政策の律儀さに、妙に感心させられた。
やがて、日本では滅多に見ることのできない地平線の彼方から、朝日がゆっくりと昇ってきた。太古からほんの30年前まで、この同じ場所からの朝日は、広大な湖の水平線のかなたから昇っていたはずだ。われわれは、日の出を拝み、モイナク中心地に向かった。
モイナクの中心地で見たものは、砂漠に転がる無数の廃船だった。かつてアラル海が十分に大きかった時代、モイナクは漁村として生計を立てていたが、現在では、アムダリア川の河口から僅かに流れてくる水が溜まった小さな池が周辺に幾つかあるだけで、かつて本当に魚がここで泳いでいたとは信じられない。なんとか後退しつつある湖面に到達しようとして掘った運河の跡があったが、それすら完全に干上がっており、現在では、とても漁業ができるとは思えない。アラル海の後退によって漁業が深刻な影響を受けていることは認識していたが、このような惨状を目の当たりにし、ゼミテン一同衝撃を受けた。われわれを案内してくれたガイドも、「ここはもう死んだ町だ」と諦観をにじませていた。生計を立てるのに必要な産業が消滅した街の未来は明るくないだろう。モイナクでは牛や羊を追う住民が数多く見られ、現在は牧畜を中心として生計を立てていると考えられる。だが果たして生計を立てるのにそれで十分なのか疑問であり、また将来にわたる飛躍的な経済的発展は望めないだろう。周辺に大きな工場も見あたらなければ、大きな都市もない。主たる産業が存在しないと遠方に出稼ぎに行かざるを得なくなり、いずれこの村は消滅してしまうだろう。
自然環境決定論を克服すると主張してなされたソ連時代の無理な自然改造。それにより引き起こされた負の遺産を、われわれは実感した。モイナクの町を出るところの道端に、街のシンボルが建てられていた。そこに描かれた、アラル海の水面を元気に飛び跳ねる魚の絵がむなしかった。
暫く移動したところにあるチャイハナで、われわれは遅い朝食をとった。チャイ(お茶)で乾いた喉を潤し、ナン・ボルシチ・トマトサラダ・ヨーグルトで空腹を満たした。これらにシシケバブを加えたメニューがウズベキスタン(中央アジア)のスタンダードな食事である。この後一週間あまり、このメニューにお世話になった。しかし、このシシケバブが、後日恐ろしい事態をわれわれに引き起こすとは、このときはまだ夢にも想像していなかった。
食事を終え勘定する。だが、まだ両替もしておらず、われわれの誰ひとりとしてウズベキスタン通貨・COM(以下「ソム」と表記)をもっていなかった。一体どうしようかと案じたが、生むが易しで、カザフスタンのテンゲを受け取ってもらえた。国境近くの地域では、隣国の通貨が使用できることがあるのだ。さらに、このチャイハナは、余ったテンゲを、ウズベキスタンのソムに両替してくれた。緑色の200ソムの札束をうけとり、財布がはちきれそうになった。
ここで、外貨両替について重要なポイントが2つある。まず第一に、カザフスタンのテンゲは、ウズベキスタン国内では、ここカラカルパクスタン共和国内でしか受け取ってもらえないし、ソムへの両替もしてもらえない.。つまり、カザフスタンのテンゲを保持してウズベキスタンに入国し、カザフスタンに再入国する予定のないツーリストは、カラカルパク自治共和国にいる間にすべてテンゲを両替してしまわなければならない。もし大量にテンゲを保持し、いずれ両替しようとなどと考えて旅行を続けていたら、両替のチャンスを逃してしまうかもしれないので、注意が必要である(紙幣をお土産にするのなら話は別だが)。第二に、ウズベキスタン国内全体として、外貨とソムの両替が大々的に行われていない点である。後述タシケントの項で詳しく触れるが、ウズベキスタンは自国通貨の減価を防ぐため管理通貨政策をとっており、個人・法人に対し両替規制をかけている。よって国民のみならず、我々のようなツーリストも、両替に関し少々面倒な問題を抱えることとなるのだ。カザフスタンおよびキルギスと違い、ウズベキスタンでは両替レートを記した目立つ看板を見る機会は皆無であり、もともと数が少ない正規の両替所を探すのは大変な苦労が要る。手持ちの現金が切れたらそれこそ一大事である。正規の両替所を見つけたら、そこでまとまった両替を済ませておくしかないのだ。正規ではない両替所、いわゆる闇両替所は至る所に存在するが、なんらかのトラブルに巻き込まれる可能性は否定できない。そのため、両替に際してはなんとか正規両替所を見つけ、使うと予想している額よりも多めに両替することを薦める。
その後われわれは、カラカルパクスタン共和国の首都ヌクスに向かった。
途中、1960年代に建設されたという灌漑水路の橋のたもとで下車し、視察しながら現地討議を行った。アムダリア川からの水が流れているその水路は主に綿花・小麦栽培に使われるということだった。灌漑用水路の遠景には、国営の小麦加工工場があった。見た目にもかなり老朽化しており、生産効率はあまり高くないと予想できる。
ウズベキスタンは、旧ソ連時代、計画経済のもとで、モスクワ中央政府からの命令によって、綿花を中心に栽培し、連邦内に供給していた。このため、旧ソ連領中央アジア諸国の中でも、農業が最も盛んな国である。この地域における綿花栽培の歴史は、1860年代にさかのぼる。アメリカで南北戦争が勃発したことにより、当時大綿花供給地であった北米から、産業革命を成功させ大綿花需要地であった西欧への綿花供給が減少した。これをきっかけに、ロシア帝国の西欧向け輸出政策として、この地で綿花栽培が開始された。ウズベキスタンが独立した現在でも、綿花・小麦・米の生産はいぜん政府のコントロール下にあり、市場価格に比べ政府価格のほうが低く抑えられている。政府の買い上げる農作物量は市場流通量よりも大きいので、実質的に農作物価格は政府の統制下にあることになる。また、農作物の個人輸出は事実上不可能である。禁止されているわけではないが、輸出に関する手続きが大変煩雑なため、事実上不可能だという。外国資本は、合弁企業という形態で認められているものの、株式の51%以上を政府が保有する。。ソ連から独立し、ある程度の市場経済化が進んだといえども、ウズベキスタンでは、政府が経済活動に果たす役割は依然大きく、統制も広範囲に渡っているという印象を受けた。移行経済期に産業に対して果たす政府の役割は、規制による国民の生活の安定・経済発展の支援などが考えられるが、果たしてこれらの規制は、どのような効果を及ぼしているのだろうか。農業部門において、旧ソ連時代の遺産に頼り続けているウズベキスタンの国家政策の一端を垣間見る思いがした。
ヌクスに着く手前で、アムダリア川の橋を渡った。大河にしては、思いのほか川幅は狭く、水量は少ない。
ヌクスは人口約15万人、ウズベキスタン国内の自治共和国、カラカルパクスタン共和国の首都である。カラカルパクスタン共和国という名前自体日本ではなじみがなく、ましてヌクスを知っている人は多くないだろう。カラカルパクスタン共和国には、立法権・外交権はなく、法律はすべてウズベキスタン憲法に従って作られている。民族的には、カザフ系に近いカラカルパク人が多数を占めるのにもかかわらず、ウズベキスタンからの独立を求める声は大きくない。
ヌクスには、いわゆる観光をするような場所は存在しない。直線状の街路から構成された計画都市の町並みは、観光地としての雰囲気をまったく感じさせない。市街地の随所には、直方体の住宅団地が立ち並んでいる。建物の外壁に民族のモティーフをかたどった大きな装飾が施されているものもある。これらは比較的新しく、1980年代の建設らしい。ソ連が次第に民族的なものに歩み寄り、ソ連全体としての社会統合を果たそうとしたありさまを見て取れる。
最初に中央劇場のかいわいを視察した。ここには旧ソ連時代Red Squareと呼ばれており、恐らくは共産党のパレードあるいは民衆のデモなどの各種運動の場として使われていたことが予想された。その当時ここにレーニン像が立っていたのか否かは定かではないが、現在は、ベルダークBerdakhというカラカルパクスタンの民族的詩人の像が立っており、民族意識の現われが感じられた。ちょうどわれわれが視察をしていた時、カラカルパク人の結婚式がこの広場で行われていた。民族的な衣装をまとった花嫁が印象的であった。
その後自治共和国の議事堂広場を訪問した。ここにはカラカルパクスタン共和国のスローガンが大々的に掲げられていた。ウズベク語で読むことができなかったのだが、ガイドに英語に訳してもらい、"Our children should be wiser than us"(我々の子孫は我々よりも聡明でなければならない)という意味だとわかった。これは、旧ソ連時代の著名な作家からの引用であり、ソ連時代の思想が今も息づいていることがうかがえた。議事堂の正面には、カラカルパクスタンの国章(星5個)、ウズベキスタンの国章(星14個)が並んでいた。
われわれがヌクスで宿泊したのは、郊外に開発された比較的新しい住宅地区の一角に建つ、旧共産党幹部の邸宅を、外国人向けのゲストハウスとして開放しているところだった。建築様式はヨーロッパ風で、玄関を入るとまず巨大な大広間があり、天井にはシャンデリア、正面には二階へと続く大きな階段があった。一階には大きなリビング・ダイニングキッチン・洗面所。二階には寝室が8部屋もある。旧共産党幹部の特権的な暮らしぶりが、容易に想像できた。現在、この旧共産党幹部とその家族は他の町で生活しており、使用人にゲストの世話と邸宅の管理を任せ、ゲストハウスとして営業しているという。しかしいくつかの寝室には生活の跡が残っており、子供の教科書・ルーブル硬貨・家族の写真が無造作に机の上に並べられていた。われわれが来る前はフランス人ツーリストが宿泊していたとのことで、宿泊客は主にヨーロッパ人だそうだ。恐らく、われわれがここに泊まった最初の日本人だろう。