ビシュケク 2003 09.03


ビシュケクについて

ビシュケクは現在キルギス共和国の首都である。海抜800mの高原に位置し、およそ80万人の人口がいる。1825年、コーカンド汗国はこの地にビシュペクと呼ばれる要塞を建設した。1862年にはロシアがここを占領し、陣地を築いて、周辺の谷にロシア人が入植した。ソ連となったのち、1926年、ソ連領中央アジアを征服した将軍の名にちなんでフルンゼと改称され、あたらしくできたキルギス社会主義共和国の首都となった。独立後、1991年ビシュケクに再改名された。

ビシュケクの都市構造

都市は、旧ソ連の都市によく見られる、碁盤状に張り巡らされた道路が特徴の計画都市である。街の中心部は、鉄道線路よりも少し北側にあり、Chuy Prospektisi.と呼ばれる道路を中心に、東西に伸びている。その街の中心部には官公庁、ソ連時代に設立された博物館やモニュメントなどがある。

街のインフラは、首都にしては、道路の舗装具合からして貧相である。特に、街の中心より更に北で、歩道の整備状況が特に悪い。道路補修は進められており、中心より北側にある場所でもそのような場面をよく見かけた。アルマティで見掛けたような旧ソ連時代に建てられたアパートの一階部分を使用して出された店舗や、旧国営商店をそのまま受け継いだ形で出している店も、所々に見られた。建築物は、古いものや既に廃業となり使われていないものがアルマティよりも多く見られ、土地の有効利用が行われていない。またアルマティよりもビルが少ない。これは、アルマティと比べ、外資などの資本が入ってきておらず、また国内の資本が育っていないためと思われる。

ホテルからJICAまで

起床した私達は、ミルクやソーセージやコーンフレークなど、ヨーロッパ的な食べ物の並ぶバイキング形式の朝食を取った。値段はリーズナブルだが、内装やサービスなどは、今まで巡検中に泊まったどのホテルよりもよい所であった。内装は日本のホテルのように整理され清潔感が漂い、暖炉なども設置されていて凝ってもいた。部屋のテレビからNHK放送が見ることができ、また英字新聞も無料と、サービスも十分であった。ロビーには洋楽が流れ、LGの電化製品が至る所にあった。国際電話の案内も、英国やドイツの国番号が書かれていた。ここは、ヨーロッパからの旅行者を主な対象にしたものであろう。

10時頃、ホテルを出発し、JICAの事務所に向けて出発した。

ホテルを抜けてしばらくの間、道路の舗装状態が悪く、ガタガタ揺られながら市の中心地に向かった。10時20分頃、第二次世界大戦後にソ連が造った戦勝記念碑を通過した.われわれは、キルギス通貨ソムを持っていなかったので、外貨交換所に向かった。ビシュケク内では外貨交換所が至る所に見られ、店の外に交換レートの看板が立っている。他の商業機能と一体化しているところもある。私達が行ったところも例外ではなく薬局や家具店と一緒であった。2003年9月3日時点のレートは、表の通りである。両替時100ドル、50ドル紙幣や新札で交換した方がレートは良いらしい。この国ではドルは貯蓄手段として重用されているからである。実際、われわれが交換した時、そのおかげでいいレートで交換出来たゼミ生もいた。その一方で、100ドル、50ドル紙幣や新札で交換しなかった為、1ドル=42.0ソム、1テンゲ=0.26ソムといった悪いレートでの交換を余儀なくされたゼミ生もいた。

       

1米ドル 42.7ソム
1ユーロ 46ソム
1ルーブル(ロシア) 1.37ソム
1テンゲ(カザフスタン 0.27ソム
1スム(ウズベキスタン 0.02ソム
1ポンド(英国 55ソム

  

交換所を出ると、JICAに向かうはずのバスは、なぜか更に北に向かい、私は内心焦りだした。未整備の住居や廃墟が建ち並ぶ街路の舗装状況は最悪で、ガタガタ揺られたあげく、舗装工事の通行止めにぶち当たった。そこを強行突破しようとして、悪いことに車は警官に捕まってしまった。ガイドと運転手がバスから降り、警官と話し始めた。もうJICAのアポに間に合わないと思っていると、先生が「そのままJICAに行きましょう、ここからだと歩いていけますから」と言った。われわれは、歩いてJICAに向かうことになった。

JICAにて

JICAの建物は古く、ソ連時代に建てられたようであった。建物の中にはいると、部屋の中は整備され、給湯室も完備されていたが、階段や廊下はコンクリートがむき出しなっていて、素っ気なかった。10分遅れで到着した私達は、JICAキルギス事務所のProject Foundation Advisorである山中美子さんに謝りつつ、すぐ話に入っていった。

まず、JICAの支援についての一般的な話から始まった。JICAでは、人材養成や援助を重視した活動を行う。その活動は、CDF(Comprehensive Development Framework,包括的開発枠組み)やPRSP(Poverty Reduction Strategy Paper,貧困削減戦略文書)を通じて、効果が期待される案件をいったん外務省に持ち上げから実行する要請ベースで行われる。その際、外務省、JBIC、現地大使館などが加わっで組織されるタスクフォース(特別作業班)内で、重点分野や資金援助方式について政策協議され、それを元に国別事業実施計画が作成される。

だが、キルギスJICAではこのような政策協議が行われていない為、重点分野が定まっておらず、プロジェクトがまだ絞れていないという。

2003年1月、キルギス駐在官事務所が、日本大使館に昇格した。日本人スタッフは4名いる。大使館に昇格した事で、キルギスへの支援は、JICAの中央アジアにおける拠点であるカザフスタンの大使館による事なく、実質独自に行えるようになった。

今後は、重点分野を明確に定め活動していく考えといわれ、重点分野として、民主化・市場経済化・貧困救済の3つを中山さんは挙げられた。特に重点を置かれているのは、市場経済化と呼ばれる経済発展である。

具体的には、民主化について、公務員の教育や公務員の制度改革などの“good governance”を目指した支援、市場経済化については産業政策の専門員の派遣による包括的な産業政策立案、IT産業・繊維産業・食品加工の振興、などがあった。農業については、GDPの40%を占め、世界各地のドナーや世界銀行などからの支援を受けており、2003年から、特に農産物の販売過程をスムーズにする目的の開発調査を行い、それを基に技術支援や情報共有を行っている、と話された。

貧困については、小児病院、小児・産婦人科への医療器材の提供を行っているという。しかし、1998年のIMUによる邦人拉致事件以降、外務省による制限のため、ビシュケクからイシククルの範囲にしか展開できず、オシュやバトケンといった南部の貧困区域には.事業展開どころか許可なしに調査すらいけないという状況を訴えられた。

キルギス政府が戦略に重視し発展を目指している産業部門として、山中さんは、観光とITを挙げられた。

市場経済化の中の地域開発プログラムとして、政府が観光の基幹産業化を目指しイシククル湖周辺の開発を進めていることに対し、JICAも支援したいと山中さんは話された。80年代に、旧ソ連の人々を対象とした、保養や娯楽施設を整えたリゾート開発として、ソ連によるイシククル周辺の総合開発計画が進められたが、財源不足に陥り中断された。しかし、独立後、政府は観光客増加を図るため、イシククル周辺を調査し、農業ともリンクさせながら、優先事項などを決定したマスタープラン(基本計画)を作成し、それを元に環境整備を行い、都市計画を進めている。これには農業もかかわっており、JICAは、JICAによる農業援助プランを通じて政府の地域開発プランを援助・補完していきたいという考えを示された。

 

IT産業は、アカ−エフ大統領(理系出身)が重点を置いている部門であり、輸送費がかかるという輸出条件の地理的な不利を補える産業として政府は重視している。ソ連時代からの教育の高さや月20〜30ドルという労働力の安さもIT産業に好条件と政府は考えているという。だが山中さんは、ITは最近グローバルな競争が厳しく、理系教育機関としてIT教育のレベルはあまり高くない国立の工業大学1校しかなく、カンボジアより遅くITを始めたキルギスが米国・日本やインドのレベルに到達する事は無理だという。一度契約したがクライエントが満足がいかず続かなかった例もあり、それらの国のITの下請レベルが妥当ではないか、とおっしゃられた。特に、旧ソ連圏にターゲットを絞っていくべきで、最近では携帯電話のモバイルカードで健闘を見せており、中国やロシアへの進出を図っているという。だが、問題点として、工業大学が国内に一校しかないなどが影響して教育レベルがそれほど高くなく、また、優秀な人材がいても海外に流出してしまうので国内層が薄くなり、しかも英語国でないため欧米企業とのコミュニケーションが行き届かない、などの事を挙げられた。そのため、JICAが技術教育で協力していく必要があると話された。

観光については、政府も重要な産業とみなしている。中でも重要な地域とされているのが、イシククル湖周辺である。イシククル湖の北側には、旧ソ連時代の官僚用の保養施設が存在し、現在のウズベキスタンカザフスタンに関係した施設もある。また、近年、外国人投資家がここに興味を持っていて、49年間の土地使用権を確保する動きがあるとも話された。しかし、イシククル湖は閉じた湖であり外国投資家によるペンションやアトラクションの乱開発によって汚染が進みやすい。その為、ゾーニング(用途地域指定を行い、乱開発による環境破壊の防止)を徹底する必要がある。これは、JICAが整えたものを国が法整備するという形でこれを徹底してゆきたい、と話された。

観光のポテンシャルについて、山中さんは、その目標を旧ソ連諸国からの観光客の獲得に重点を置くか、欧米、日本といった世界からの観光客の獲得に重点を置くかで戦略は変わっていくので、キルギスに着任したシニアボランティアの方と相談しながら詰めていきたいと語られた。旧ソ連諸国をターゲットに薄利多売路線で展開すれば、現実にポテンシャルはあるという。現在でも、ホテルが取れない状況で、人気らしい。より広い世界から観光客を集めるため、政府は、ビザ面においても日本人にはビザなしで入国できるようにしている。しかし、72時間以上滞在する日本人旅行者はOVIRに外国人登録をしないとならない。ところが別の国に対しては、外国人登録なしで滞在できる措置がとられている。このように、規制緩和がチグハグである。さらに、中央アジアのスイスのようにして世界からの観光客の獲得を目ざすには、通訳・ガイドの未熟さと絶対数の不足、アクセスの悪さがネックになっている。これらを差し引いてなおキルギスに行きたいというインセンティブが乏しい為、厳しいという見方をされた。高い山々は確かにきれいだが、それだけでは、誰もが行きたいと思うわけではない。シルクロードの遺跡が転がっているわけでもない。ヨーロッパからのエコツーリズム的な観光が「中央アジアのスイス化」という目標において精一杯である、と話された。

他にポテンシャルをもつ産業として、山中さんは、鉱業を挙げられた。金産業は94年からカナダの企業 Camero との合弁を行うなどして、一時、GDP上昇に貢献したが、値段の上下が激しく、これを基幹産業にはできない。さらに、資金面の問題や、必ずしも鉱脈を掘り当てられないリスクがあり、どうしても主産業になりえないというのが実情であると話された。また、金、その他の鉱物について、環境破壊や人命に関する危険性もあるという。キルギス南部で隣国タジキスタンから侵入した武装勢力に拉致された日本人(2ヶ月の拘束ののち解放)は、三井金属関係者などであり、鉱物資源調査がらみであった。

農業については、ソ連からの独立ののち農地は自分のものとなったが、ソ連時代のコルホーズがそのままコミュニティを形成して集団農業を行っている。主力生産物としてフルーツ栽培を挙げられた。また、その農産物にジュースなど付加価値をつけて販売する為に、加工技術の向上を目指している。現在、ロシアやカザフスタンに加工品を輸出している企業があるという。他に、養蜂や酪農が行われており、ポテンシャルはある、特に有機栽培によるEUの有機食品市場への展開には期待できるかもしれない、という話であった。しかし、マーケティング能力や経営管理能力などの技術・ノウハウのなさという点、瓶詰めの瓶が開けにくいソ連時代の旧型をそのまま使っている問題、人材難などのソフト面や機械不足などのハード面における問題点、国内銀行の金利高騰による資金不足、各国との競争などが問題となっており、JICAも援助していきたいという話であった。

この金利の高騰については、国内銀行が世銀などからの融資を受け、それを又貸しする為に、企業や個人への貸し出し時の金利を引き上げざるを得ないという「二段階金利」がその原因となっている。民間金融機関もかかわりながら、中小企業にマイクロクレジットを供与する施策が重要だと語った。その中で、イシククル地域のマネージメントをしており、食品加工・観光・マイクロクレジットを3つの柱として活動しているEUのタシスという経済協力組織などの活動が注目されている。だが、マイクロクレジットは、15%〜20%と金利が高い。

こうした産業への全般的な政策として、政府は輸出や振興、また一方で外資の受け入れや観光客誘致を推し進めており、そのための政府の人材育成などにJICAも協力してゆきたいという。ただし、アカ−エフ大統領が最近権力を集中させようとする傾向にあって、官僚腐敗が進んでいるようだ。政府関係者の中には、観光関連28団体に対してライセンス制度を導入し、政府の首脳である自分が経営する観光会社を儲けさせるという、政府役人による自己権益独占の傾向があるという。山中さんは、政府経由でなく、草の根の個人がB&Bを開設したり、手工芸品生産や農産加工とタイアップして観光業で自発的に所得を高めてゆく方向を支援したいという期待をにじませた。

次に、キルギスの貧困についての話となった。キルギスは一人あたりGDPが年間300ドルに満たず、カザフスタンの10分の1という低所得である。地方では貧困が拡大し、ロシアでも起こっている貧困の二極化が進み問題であると話された。しかし、アフリカのような餓死者の出る貧困ではなく、日々の最低限の食事と住居は確保されている。インフラの老朽化は進んでいるが、水道・電気などの最低限のものは、国内の隅々にまでいきわたっている。このような旧ソ連の遺産によってアフリカ化は避けられているのだ、と話された。

インフラ面について、農村部のインフラは近年老朽化が進行しており、下水道についても未発達である。しかし、都市部のビシュケクにおいては、近年政府によるインフラ整備が行われ、ビシュケクからオシュまでの道路が、イスラム開発銀行の資金によって整備されているという話である。

    

観光については、世銀やイスラムのアガハン基金からなどの様々なマスタープランが作成されているが、これに対してのJICAからの資金の投資など、財政面の協力は苦しいという話である。

草の根レベルで民間人の、観光業、ジェンダーや農業などに対する意識レベルを向上させ、それらの産業をリンクさせた複合的な開発援助、ビジネスの振興・人材育成などを行う、 ヘルベタスという、グローバルに活動しているスイスのNGOがある。スイスでは、政府が資金をNGOに流し、このような草の根からの政策実施を促しているのである。このようなNGOのノウハウの地元への貢献度は大きい。JICAにも「草の根技術協力」という類似のプログラムがあり、これを発動させたいという意欲を、山中さんは示された。しかし、NGOですら、日本ではまだあまり知られていない国であるキルギスを支援する組織はなく、青年海外協力隊やシニアボランティアの絶対数も少ない。ボランティアによる援助の分野も教育面に偏っている、と嘆いておられた。

JICAの今後の支援の方向性について、マーケティング、プロモーション面もやっているが、経営の包括的戦略の面での支援へとすすむ検討しているという。現在JICAのシニアボランティアとしてシステムエンジニアが来るが、政府レベルでのIT戦略とは現在のところ関わっていないので、こうした連関の強化も今後の課題だとのお話だった。

こうして、JICAでの大変有益で参考になるお話は終わった。

JICAでの話を聞いて、私は、キルギスの経済が全体的にかなり行き詰っていると感じた。キルギスは、国内産業にこれといって国際的な競争優位をもつ経済部門がなく、更に近年政治が腐敗しつつある。その原因として、カザフのように天然資源に恵まれていない点、中央アジアのスイス化を目指そうとしても観光地としてのサービスが不十分である点、海から遠く離れており製造業には不利な立地条件である点、インフラの整備が遅れている点、国内金融の二段階金利の設定による高金利化によってなかなか企業が借金できないなど金融システムがうまく機能していない点、大統領の独裁化とトップ官僚が利権に固執している点などが挙げられる。これでは、IMFによって導入されたネオリベラリズムと緊縮財政は、まったく意味をなしていないと思われる。そして、ラオス並みの1人当たり国民所得しかないキルギスの経済は、皮肉なことに、IMFが唱える市場主義・ネオリベラリズムと正反対の、ソ連時代のインフラや教育制度、農業協同組織など、社会主義時代の遺産と、JICA ヘルベタスなど、海外からの援助によって支えられている。

このような状況を打破するためにどうすればよいか。まず、考えられるのが、緊縮財政を解いて、インフラ整備などに政府が積極介入することである。具体的には、国内の主要ルートの道路整備、観光やIT産業や食品加工など国際的に競争力を持てると思われる有望な企業にたいしての政府の積極的な低金利での資金の貸し付けや、企業に対しての輸出入における優遇措置の付与などが挙げられる。

しかし、どのようにこれらの政策を実施していったらよいのだろうか。民主主義が浸透していないこの国において、その政府を健全に動かす為の公務員の教育や、企業との間での不正を防ぐ法整備を実施できるかどうか疑問が残る。その為、大統領などによる開発独裁という道も考えなければならないかもしれない。現に、中央アジアではウズベキスタンがこの道をとっているし、東南アジアにも開発独裁によって成長を見せている国がある。この点からすれば、大統領の独裁化というキルギスの動きは必ずしも否定できないということになる。しかし、この流れにも問題点は当然ある。それは、開発独裁によって、大統領の一族やそれに付き従う官僚によって利権を独占しようとする動きがうまれ、インドネシアやロシアなどのような利権まみれの腐敗政治に陥ってしまう恐れがある。

いずれにせよ、IMFのネオリベラリズムや緊縮財政をこれ以上続けることは、意味がない。今、キルギスで政治は独裁化に進もうとしている。国内に、経済を牽引できるような企業や産業がない以上、政府が積極的に介入し、積極的に経済発展を実現するイニシアティブをとることは仕方ない。そして、それが一部の特権官僚などの独裁や利権まみれの腐敗につながらないようにする為にするため、海外からの資金で運営されるNGOや援助団体の、草の根からの支援をつうじた民主主義達成への地道な努力が、同時に不可欠となるであろう。

JICAから商工会議所まで

12時30分を過ぎたあたりにJICAを出た私達は、ビシュケクをガイドしてくれる女の人と会った。先生を筆頭にガイドの人と挨拶と握手を交わしていったのだが、挨拶が終わったあと、男子ゼミ生は先生に「握手は女性から求められてからするものです。女性が握手の手を出さない場合は、軽い会釈にとどめる。これは国際的常識ですよ」と注意を受けた。国際的な礼儀作法は、そのような認識が定着していない日本国内にいてはなかなか身に付かない。国際社会においてはまだまだ私は子供だなと実感し、国際社会においての常識を勉強する必要を感じた。

 

バスに乗ったわれわれは、朝に通った戦勝記念碑のある公園に着いた。付近には国際観光客向けの国営ホテル「ドスティク」やサーカス場などがあり、街の文化的中心部的な区域のうちの一つとなっていた。記念碑はユルトをかたどったドーム型の骨格をしていて、中に入り見上げると中心部にソ連の象徴の☆のマークがあり、このモニュメントがソ連時代に建てられたことを示している。月桂冠のデザインの外枠とキルギスの国旗のデザインが描かれ、エスニックな感じを出していた。他にもソ連的な建築物が多々残っており、キルギスが、必ずしもソ連と敵対し過去の歴史を断ち切ろうとしているわけではなく、むしろソ連の遺産に感謝の念を抱き、連続性の上に自国の歴史を捉えている事が読み取れた。

 

記念碑を後にし、バスはソ連の将軍フルンゼの博物館の前を通過した。フルンゼは、中央アジアをソ連の支配下に置いた将軍である。時間がなかったのでわれわれは見学しなかったのだが、私は今になって、ここに行きたかったと後悔している。その後、われわれは国立歴史博物館に向かった。しかし、着いたのはよかったが博物館は昼休みを取っていたため中に入れなかった。博物館の前には、勝利のモニュメントがあった。ここにはもともとレーニン像があったのだが、2003年8月30日の独立記念日に際して、国立歴史博物館の前にこれを除去し、新たに勝利のモニュメントを建立したのである。もともとあったレーニン像は、博物館の後に移動されてしまった。そして、9月3日にこの事が新聞に取り上げられたり、裁判沙汰になったりと、物議をかもしている。

勝利のモニュメントをあとにして、昔のキルギス共産党中央委員会の古めかしい建物の前を通った。その建物は、色とりどりの花々で飾られた「自由通り」に面し、今では米国が投資して米国流の教育を施す大学になっていた。後日オシュで聞いた話では、その大学は、ヘッジファンドのソロスによって設立されたと言う。

そのあと、15人の人物の英雄にかたどられたモニュメントにたどり着いた。ちなみに、この15という数字はソ連の共和国の数を表している。そして、重厚な囲いの施された、白い、キルギスの国会とNGOの事務所が一緒にあるという建物の傍をとおり、シェークスピアなどの劇を上映している国立アカデミー演劇場の建物に着いた。壁には、15人のモニュメントと同様に社会主義リアリズムの表れた壁画が描かれ、黒っぽい色の重厚なつくりで、威厳を感じさせた。裏手には、博物館の前から撤去され、現在は移動工事中のレーニン像が置かれていた。そばの彫刻公園には、マルクスとエンゲルスの像があった。とにかくこの辺りは、今でも、ソ連時代のモニュメントであふれかえっている。この都心部の視察中に見た景観にも、現在のキルギスの市場主義化の方向とソ連時代の社会主義の遺産に頼っている現状が象徴化されているようだった。

商工会議所にて

市内をあちこち視察して回ったため昼食をとらないうち商工会議所のアポイントの時間となってしまった。われわれはそのまま、2時頃に商工会議所に着いた。商工会議所は、ソ連時代に建てられたようなビルの中にある。外観は古い。しかし、内装は会社のオフィスのように整頓されていて、きれいだった。

 

2時10分、キルギス商業会議所会頭Boris V. Perfilievさんのお話が始まった。会頭は、ソ連時代、金型製作工場で20年以上働いた後、キルギス共産党の産業部長となり、その後、ソ連キルギス共和国政府の運輸通信産業部に勤めた経歴をお持ちである。独立後、会頭に就任された。

ソ連時代のキルギス共和国の主産業は、エネルギー・農業・農業機器や工具の生産・鉱業で、いずれも国営企業だった。しかし今では、私企業に重点が置かれている。とはいえ、民営化の傾向は部門ごとに異なり、軍需産業や電気、水道などのエネルギーなどはいぜん国営である。全体としては、もちろん、私企業のほうが国営企業よりも多くなっている。

各産業別に、その現状とその将来性を会頭は話された。

観光はまだ規模が大きくはなく、2〜3年で急速に成長するものでもないが、将来性はあるという。基幹産業とするためには、インフラ整備・ファイナンス面などの強化が必要であるそうだ。今は資金が不足している為、なかなか整備できないという。だがポテンシャルは高く、よりハイエンドな観光市場を志向して、近いうちに主産業になると話していた。

農業はほとんどが個人経営であり、私企業の投資や内発的な開発によって成長しているが、今後、国による適切に誘導が成長において必要である、と指摘された。

ITについて、ソ連崩壊後10年で工場は古くなり、エンジニアなどの人材も不足するという事態に陥っている。このため、政府は国立大学でIT教育を行うなど、IT関連の人材育成が、現在、10〜15年がかりのプログラムで始まり、軌道に乗りつつあるという話だった。

エネルギー資源について、発電量はソ連時代には水力発電が全発電量の43%を占めていたが、現在は20%に落ち込んでいる。山岳地帯を抱えているので水力発電のエネルギーは豊富であり、現在140億kw発電しているが、将来的には約10倍の1460億kwに増やし、電力を輸出産業に発展させることをめざしている。

 

現在、これまでに語った以外の国内産業としては金属鉱石、採掘、車産業、農業機械、医療機器がある。独立以来落ち込んだ生産は回復しつつあるが、多くの技術者が去り、ソ連時代の水準になるまでには至っていない。これらは、注文生産ベースである。キルギス政府の政策として、武器の国際取引は行わないこととしているので、ソ連時代の軍需工場は、現在、民生向け平和産業に転換中である、という。

工業生産物の輸出市場については、現在のところ、ソ連時代に国営企業が旧ソ連の他の共和国に供給していた産業連関を基盤として、ロシア始め旧ソ連諸国からキルギスの工場にいまでも農業機械などの注文が来るので、それに応じてキルギス産品を輸出し、外貨を獲得しているという。旧ソ連以外の諸国へは、ドイツや日本などの産品が既に市場を確立していて、これらの競争が厳しいので輸出が困難である。そして、十分資金を蓄積してから、次に輸出産業を本格的に起こしていきたいとしている。会頭は、今のキルギスの状況を、「人が鳥を一羽自分の手に持っていて、別の鳥が飛んでいるのが一番よい」というロシアの諺を引用して、手に持っているのは、鉱業はじめソ連時代からの産業基盤で、飛んでいる鳥が観光など今から興す産業であると説明された。

とはいえ、何がキルギスで最も輸出競争力ある産業か、とわれわれが質問すると、会頭の声は、急に重くなった。会頭が挙げられたのは、繊維産業と、最終生産物としての鉱業、綿花栽培、ビート栽培などの農業や、伝統的ではあるが羊、山羊、牛などの牧畜業、そして食品加工である、とされた。ITも、付け加えられていた。

次にわれわれは、中国との関係について、中国とは国境を接しており、特に繊維産業などで中国と市場競争しなければならない場合が生じうるがどう考えるか、尋ねてみた。会頭の答えは、中国はキルギスと同様WTO加盟国であるから、キルギスと同じ市場で競争しなければならない。これが競争のルールだと認め、中国は大国であり、また低価格で勝負をしている。中国製の安い製品が国内市場に流入した場合、中国製品は脅威だと懸念したうえで、会頭は、キルギスでは繊維、製紙産業、食品の有機栽培、良質なウール、エレクトロニクス使用の精機などにおいて高品質を追求し、品質で勝負をしているし、農産加工品については、清浄な環境が、ひとつの競争優位となる。キルギスを含めた旧ソ連の人々が中国よりも高い水準の教育を受けているから、キルギスは低価格よりも高品質で市場で勝負でき、中国企業と競争して優位に立てると自信を示した。

世界市場を確保する戦略については、ドイツ、日本などとの競争は避け、それ以外のところで競争すると話していた。中央アジア諸国は、海から遠い・巨大な世界市場から遠い・交通の便が悪い。その為、キルギスが高品質な製品で市場を開拓していくことが、キルギスだけでなく、中央アジア全体の利益につながると強調された。

2003年3月に発表された、総工費12〜15億米ドルで、カシュガルから山岳地帯を貫き、トルガルト峠を越えて、キルギスのジャララバードに至る連絡鉄道を建設し、新しい「グレートシルクウエイ」鉄道とする計画を念頭に置きつつ、このような新しい欧亜連絡ルートがキルギスに及ぼす影響について、たずねてみた。会頭は、この新しいルートは、キルギスだけでなく全中央アジアに大きな可能性をもたらすもので、キルギスが国際市場に到達することを容易にしてくれると期待をこめた。だが現在、キルギスと他の旧ソ連中央アジア諸国との関係は、必ずしもうまくいっていないという。ウズベキスタンカザフスタンがWTOに加盟しておらず、両国がキルギス製品に関税を課し、物流の障壁を作っているのだ。キルギスウズベキスタンカザフスタンの間の行き違いが解消し、隣接する両国もWTOに加盟することが重要だ、と語った。

航空輸送については、ビシュケク空港は全ての航空機を受け入れられるだけの空港として、国際水準に整備がなされているが、タシケントとの競争に勝てず、ハブとしては機能していない。いずれハブ空港化が課題だと語られた。

最後に会頭は、ソ連時代には競争が全くなかったが、今は競争の時代になった、と述べ、キルギスの取るべき方向と競争優位を改めて整理された。今後のキルギスにとって重要な課題は、WTOが求める市場の全面的開放にも耐え、安い中国産品などに対して競争力を持てる産業を育てることである。そのための人材育成は進んでいるし、海外にも有能なキルギス人エリート技術者が働いている。資源の面では、水力発電もまだ10%しか開発されておらず、未開発の鉱山もあってポテンシャルは大きい。また、標高の高い清浄は大気は電子部品生産に好適であり、電子部品に使う単結晶も生産もできる。さらに、繊維・食品加工・観光業など競争優位のポテンシャルを持つ伝統的部門があり、先端的なエネルギー源として太陽発電開発も目指している。キルギスでは、このような伝統産業と先端産業との共存がなされている。そして、こうしたキルギスもちまえの競争優位の実現には、海外からの投資と企業家の進出がキルギスに大変重要だ、と強調され、海外直接投資に関しての新しい法律の制定の必要を述べて、話を結ばれた。

キルギスの商工会議所では、いろいろな展望があることを確かに伺った。だが、個々の展望には具体性が乏しかった。

観光について、会頭は、インフラ整備のための資金がないと語られた。また、どのようなマーケットを対象とした観光戦略をとるのか、資金援助もしくは投資を具体的にどうするのか、観光を農業・環境問題をどうリンクさせるか、観光地としてどのような戦略的差別化を図るか、など、観光をビジネスとして行う場合の地に足のついた認識が十分でないように思われた。ITについて、会頭は、技術者育成や技術開発は順調だと話された。しかし、具体的にどれだけの技術者がどのように育ってきているのか、どのようなレベルのIT産業をめざすのか、などについてみると、話はあいまいであった。

    

産業にせよ、シルクロードの鉄道にせよ、いったいだれが投資するのだろうか。

このように、楽観的な会頭の言葉の裏に見え隠れするキルギス経済の将来展望は、暗いように思えた。産業自体が行き詰まっていて、なかなか具体案を見いだせないというのが正直なところではないだろうか。

話の中で、具体的に期待できる面もあった。ソ連時代のパイプを生かし、それを足がかりとしつつ産業を興していこうというものである。結局、最後には旧ソ連のネットワーク頼みということなのだろうか。キルギス経済への米国流の市場主義導入という企てが、何かむなしく響いた。

話が終わり、ドアの外に出ると、ドイツ語とロシア語で書かれた、旧東ドイツにある西南ザクセン商工会議所との提携についての掲示物が目に入った。かつての社会主義国同士の親近感のなかで、社会主義から市場経済への移行のノウハウをまなぼうということのようで、商工会議所職員をドイツでトレーニングする、見本市開催へのアドバイス、ドイツ・キルギス経済フォーラム開催、などのプログラムが書かれていた。

商工会議所から国立博物館まで

3時10分に話は終了し、その後同じ建物の2階にある地図屋(Goscartographiya, 107 Kiyevskaya Ul. Bishkek 720001, Kyrgyz Republic)でキルギスの地図を買った。そこには、観光用ガイド地図のようなものから、地形図まであった。販売されている地形図は20万分の1の詳しい官製である。旧社会主義国で、これだけの官製地図が市販されているのは珍しい。ただし、中国国境地帯の地形図は、機密地区ということで販売されていなかった。3階には、International NGO Training & Research Centreの事務所になっており、キルギスにおけるNGO活動の活発さを改めて認識させられた。しかし、日本のNGOは全くかかわっていないのであろう。

3時50分頃に商工会議所を後にした。もと国営商店でサンドウィッチを買ってバスの中で食べながら、次の目的地の国立博物館に向かった。その途中に叙事詩に登場する、キルギスの英雄的存在であるマナスの像を見た。

国立博物館にて

国立歴史博物館は、大きく二つのフロアに分かれている。一階はロビー、二階はロシア革命・ソ連成立史の展示であり、三階はロシア革命前のキルギスの歴史・文化が有史前にまでさかのぼって時系列に展示されている。まず驚いたのは、ソ連崩壊後、モスクワも含め、旧ソ連各地でソ連時代の像・モニュメント・博物館の展示などが取り払われているにもかかわらず、ここでは二階にソビエト関連の展示がほとんど無傷で残っているという点である。キルギスにとってソ連というものは、必ずしも諸悪の根源ではなく、キルギス国内のインフラ、教育制度、産業面において多大な遺産を残した存在として、また、今日でも産業連関が強い重要な市場として、肯定的にとらえられていることが読み取れる。また、旧社会主義国の展示によく見られる、社会主義リアリズム様式がいたるところで見られた。三階で展示されているものはキルギスの歴史、文化であるが、天井には、共産主義・反米などの旧ソ連の象徴となる絵が、そのまま残っていた。

 

このような、旧ソ連では貴重な存在となった博物館の二階を、まずわれわれは訪れた。

二階には、随所に社会主義リアリズム様式の群像やレリーフが見られた。部屋の色は、鉄の錆びたような焦げ茶色で、建設された旧ソ連当時、ソ連の建国以来の歴史を重重しく見せようとしたのではないかと考えられる。アクティブイアー〜ピオニール〜コムソモールと進んでいき、青年を社会主義体制に組み込んだ教育制度についてのものや、革命前後の共産党発行の新聞、共産党員の手記などの、初期の共産主義運動に関する遺物が展示されていた。日本共産党員の片山潜の写真などの各国からの共産党大会出席者の写真も数多く見られた。だが、レーニンやマルクスを描いたものはあっても、不思議とスターリン、トロツキーに関するものは一切なかった。

空白の展示スペースがあったのでその天井を見上げてみると、‘NO MORE HIROSHIMA`というスローガンやハトの絵のプラカード掲げたデモ隊と、星条旗を描いたTシャツを着てミサイルにまたがるカウボーイ姿のどくろが描かれていた。ブッシュ大統領のことかと思われたが、これが描かれたのは15年以上前である。以前このスペースには。反米的な展示があったのかもしれない。

三階部分は二階の重重しさはないものの、人類誕生から始まって、時系列に展示され最後にロシア帝国の崩壊近くにまで及んでいるという、旧ソ連のいたるところで見られる形式を踏襲していた。この展示方法は、ソ連内の青少年に、ソ連の統治に都合のよい思想を植え付け、それらをすべて動かしがたい事実として捉えさせる目的があるように思えた。

展示を見終わった後、博物館の土産物屋でゼミ生は土産物を買った。そこには、遊牧民族の持ち物のレプリカやキルギスの風景や郷土品を取り扱っていた。また、私達が買い物をしている時に、アカーエフ大統領夫人が博物館の非公式の視察に来ていた。この博物館が国の機関として重要な位置にあることがうかがえる。

バザールにて

博物館を出て、今度は地元の住民の利用するバザールに向かった。沿道には「ビシュケク2200」という旗が至る所で見られた。ガイドに話を聞いてみると、これは今から2200年前にビシュケクで初の指導者が登場したという意味だ、と話してくれた。あとから聞いた話では、この種のキャンペーンは毎年行われているそうである。観光客に対して、ビシュケクは古い歴史を持つ国であり魅力的であるとアピールし、国内の民族に対しては、キルギス国民であるというアイデンティティを植え付けようとしている意図を感じた。

 

バザールに着いた。このバザールは。生鮮食品を売っているテントとその他の3エリアに分かれている。バザールの入り口は雑貨用品を売っているエリアであり、乱雑な印象を受けた。人々がごった返し、今日訪れたどの区域よりもにぎやかだった。

入口から、カーブしている道を100mぐらい歩いていると、日用雑貨品からカセットテープまで、ありとあらゆるものを売っていることが分かった。その中には、後ろにトルコ語で書かれた地図があり、トルコ製と思われるノートがあった。これは、キルギスとトルコの経済的結びつきを象徴していよう。あるいは、これらの商品は、バザールの状態からみて国の貿易統計に計上されない品かもしれない。もしそうだとするなら、いくら資料を見ても分からないことであり、実際現地で経済の実態を調べる重要性を感じた。

 

なお歩くと、大きな屋根の下に瓜やブドウなどの果物、パクチーなどの香辛料や野菜など多様な種類のものが立ち並ぶ食料品店の集まったテントに出た。ここは、他のエリアと比べるとかなり整備されていた。その建物を突っ切ると、先はまた雑貨品が並んでいた。テントを出て、先ほど来た道をそのまま進んでいくと、川魚や肉が売られていた。衛生状態は十分とは言えず、ハエがたかっていたりした。中国では、ハエ対策として商品に布をかけるなどの工夫がなされていたが、ここには何もなかった。

歩いているうちのどが渇いてきた。飲み物を買い、外で待っていると、隣に怪しい人の気を感じた。まわりに逃げるスペースがなかったのでその人と自分の間に肘を立てて距離を取ろうとした。すると、それが逆効果になってしまい、その怪しい男にけんかを売られた。始めは言葉が分からず、けんかを売られたと気づかなかったのだが、次第に状況が分かってきてやばいと思ったところ、別の男が現れ、そのけんかを売ってきた男を連れてそのまま消えていった。不用意な行動を慎むべきであるとこの時、肝に銘じた。

こうして、われわれはバザールを出た。このバザールにはかなりの集客力があるので、ここでバザールのよりきちんと整備し、店同士で競い合える環境を作れば、商業中心として更に魅力的なものになれるのではないか、と思った。バザール全体が整備されていない点、商品がパッケージされておらず不衛生、商品がどこから来たか分からない、などは改善の余地がある。その点を競争材料にするだけでも、より活気のあるバザールになるであろう。

それにしても、このバザールの巨大な集客力から、キルギスの実体経済の基盤が、キルギスが目指しているアメリカ型の市場主義的はなく、それと乖離しているバザールのような伝統経済であることが、一目瞭然で分かった。

最後に

こうして、盛りだくさんのスケジュールが詰まったビシュケクの一日を終了した。時間は午後7時過ぎである。このあとホテルで、魚のムニエルやポテトフライなどドイツ風の夕食を取りつつ、ゼミを行い議論した。そして、11時半頃にゼミも終わり各自部屋に帰った。ハードだなと気をはる一方で、自分の知らなかった未知の世界を体感している喜びを感じながら、その日は眠っていった。

(遠藤 徹)

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