朝、NJPに着く
朝8時半すぎ、列車は終着駅ニュージャルパイグリ(NJP)に到着。カルカッタからの夜行「ダージリンメイル」の終着ともなっているということで、それなりに大きな駅だ。早朝で曇っていたためか、今までとは気温の違いが感じられた。Tシャツなどの半そででは少し肌寒い、久々の「気持ちの良い朝」だった。
ここまでの線路は、かつての植民地時代には、われわれが9月5日に渡った巨大なガンジス川鉄橋を経由する、東ベンガル鉄道という別のルートを用いており、NJPは通っていなかった。しかし、バングラデシュが独立した後、その鉄道は国境によって分断されたため、結果的にインドの鉄道ルートもそれを迂回するように造り直されることになり、この駅が新しく建設されたのである。昔は存在しなかった駅のため、駅周辺には小さな店の並びがあるだけであとはなにもなかった。当時使われていたジャルパイグリ駅は、もっと南部にあって、その辺りは今でもそこそこ発展した街らしい。またこのあたりの中心駅だったシリグリは、今でもネパールやブータン国境へのバスが発着している、かなり大きな街である。巡検終了後、メンバーの一人がここを経由して、ポスト巡検の自由旅行でネパールへと出発した。国際電話がかけられる店もあり、メンバーは家族に電話したりしていた。ただ後日巡検終了後に使おうとしたときは使うことはできなかった。故障だろうか? 電話番号が違ったのだろうか?
オープンカフェのようなつくりになっている小さな店でチャイを飲んだ。テーブルにはハエがたくさんとまっていたが、そこで食べたナンはおいしかった。軽く腹ごしらえしている頃、私たちの目の前を1頭の牛が通った。ここにもやはり牛がいるなあ、とのんきに見ていた私たちは、その牛のあまりに奇妙な行動に私たちは驚いた。なんと、店々をまわって物乞いをしているのである。私たちのいる店の隣でも何かをもらって、満足げに食べていた。牛は、ヒンズー教のインドで神聖な動物である。だから、人々も、牛には気持ちよく食べ物をめぐむ。
ジープで出発。周囲の様子は、というと
少しのんびりしてから、私たちはダージリンのガイドをしてくださるチベット系のワンチクさん(Himalayan Adventure)とともに、ジープでクルセオンKurseonに向かって出発した。彫りの深いバングラデシュやインド系の顔立ちの人々を見てきたわれわれの目に、彼は、一瞬日本人かと見まごうほど日本人らしい顔をしていた。ダージリンの辺りにはチベット人などが多いため、ここからそのように日本人に似た人々が増えてくる。予定では、クルセオンから列車にのり、ダージリン駅まで行くことになっている。駅から出ても、すぐのところには街らしい雰囲気は特になく、田園や小規模の住宅地があるくらいだった。ここはバングラデシュの国境から50km程度のところにあるらしい。道理で、雰囲気がなんとなくバングラデシュに似ている。
駅を出てすぐの道端には石油貯蔵庫があり、その近くにはシェル石油のロゴの看板があった。さらに私たちはグラミン・バンクの看板をも発見したのだが、これがあのムハマド・ユヌス教授のグラミン・バンクであるかどうかは定かではない。グラミンは「農村」の意味であるから、おそらく単なる地方銀行の名前であろう。
途中私たちは、シリグリの街をバイパスし、ネパールの国境の街カーカルビッタKakarbhittaへと向かう道を右折して、NJPからダージリンへと向かう線路と併走して走ることとなった。左右には茶畑が広がり、なんとなく今までのインドとは異質な感じがした。これが、イギリス人が植民地につくった ヒル・ステーションHill Station、ダージリンへの入り口なのだ。
道端に、ダージリンへ行く鉄道の駅舎があった。小さいが、イギリス風の建築物であった。ここでもイギリス建築はインドの町並みの一部分としてその姿を残している。ダージリンはこれから山を登った稜線に存在するのだが、そこからでは雲のために上のほうはよく見えない。
気候、植生は徐々にインドからイギリスへ
その後急なカーブを連続しながら山を徐々に登っていくと、だんだんと家もまばらになってきた。そしてそれにしたがって、植生景観が日本とそっくりな温帯のものに変わっていくのに気づいた。本国を離れ植民地で生活するイギリス人にとって、
ヒル・ステーションの環境は、涼しさが熱帯特有の炎暑や風土病から自らやその家族を守り、またその景観の共通性から故郷イギリスへの思慕の感情を癒すことができるという意味でも、必要不可欠だったのだ。イギリスとの景観の共通性は、植物園を造成するなどして、人工的にさらに強調された。
なんとなく霧がかってくる状況も、今までいたバングラデシュやカルカッタとは大きく違っていた。しばらくは鬱蒼とした森の中の道路を進んでいる、という感じだったが、やがて数十分後、家が点点とあらわれ始めた。沿道に交通安全の標識が英語でかかれていた。インドなのにベンガル語ではなく英語で書いてあるのはなぜだろうか。私たちはその理由として、ダージリンはイギリス人のために建設されたこと、またこのあたりはインド人のみならずチベット人やネパール人もいるため、英語のほうが共通性が高いこと、などを考えた。
しばらく進んで最初に通ったのは標高1000mのところにあるピンダラPhimdaraという村で、紅茶農場労働者の集落らしい。その後狭い道を通りながら、途中日本のマツダとインド会社の合弁会社であるスワラージ・マツダ社の車と何台もすれ違った。かつてインドでは、自動車は完全に国産であったが、次第に合弁を条件に外資の導入をはじめた。マツダは、日本の車会社の中でもっともインド会社との合弁に乗り気であったらしく、インドから日本にミッションがきたとき、他社は部長しか対応しなかったのに、マツダでは社長がじきじき応対し、インドはこれに感激してマツダとの合弁を決意したという。
ヒマラヤ山脈の裾野の、急峻な崖をけずってつけられた狭い道を、車はバスとのすれ違いに苦戦しながら進む。集落は急な斜面の山肌にへばりつくように固まっている。Sizcail、Tanihh、Jogrescaの順に通り過ぎた。このあたりの人は、茶園で働いて生計を立てている人が多いようだ。そもそもダージリンは、1852年に最初のティーガーデンができて以来、紅茶の栽培地域として現在まで有名である。ちなみにダージリン・ティーはこのあたりからさらに高いところで栽培されているお茶のことで、下のほうで栽培されているのはアッサム・ティーというらしい。
その次のティンダリアTindariaという村はネパール人が主に住んでいて、人口は1万8千人くらいである。店や学校もあり、奨学金やコンピュータ・スクールの広告が数多くあった。ところどころにオーガニック・ティーという看板の立ったところが何ヶ所かあり、農園が有機栽培に対する関心を高めていることをうかがわせた。
中継地、クルセオンに到着。しかし・・・
ようやく、クルセオンに着いた。この街は、ダージリンとNJPの中継地的な街で、これ自体、ひとつの小さな
ヒル・ステーションであり、サナトリウムなどがある。前述したとおり、私たちはここで列車に乗り換え、ダージリンへ向かうことになっていたのであるが、下車して駅に行ってみると、どうやらこの先で線路が壊れてしまっており、列車は走っていないらしい。駅長に確かめると、確かに列車は運休で、明日になっても走るかは微妙だということだった。どうやら先日の土砂崩れで鉄道の橋の一部が崩れてしまったらしい。確かに、これまで移動してきた急な道路も、一部崩れていたところがあった。それと同様に土砂崩れの被害なのだろうか。仕方なく私たちは列車をあきらめ、車でダージリンまで行ってしまうことにした。
とりあえず車が止まっているところまでを歩きながら、私たちはこの街の様子を観察した。このあたりにはチベット系の人々が多く住んでおり、私たち日本人に比較的近い顔をしていた。道端には多くのセーターやお菓子の店があり、にぎわいを見せていた。結構な量の商品が並べてあったが、これはやはり他の平地の都市から運んでくるのだろうか。私たちは軽く買い食いなどをして歩いたのだが、食堂には、やはりと言おうか、カレーがあった。食文化はここでもあまり変わらないらしい。日本でも見覚えあるものとしては、スイスの食品多国籍企業ネスレのKit Katを売っていた。クッキーがひとつ3ルピーなのに、Kit Katは20ルピー近くして非常に高く、むしろ奢侈財に近い。これをディスカウントして、6ルピーで買っているメンバーもいた。賞味期限切れだったのだろうか? これは輸入ではなく、インド国内の工場で生産している。どうやら、欧米系の食品の多国籍企業が、インドにも多く進出してきているようだ。日本の食品企業の進出は、全く見られない。あとは、Nic Nacという、Kit Katによく似た製品もあった。ただ、買ってみたわけではないので、味や中身まで似ているかどうかはわからない。
線路と平行して坂道を登りながら、列車が走っていないことが改めて残念に思われた。だが、まだチャンスは明後日、巡検終了後に残されている。ここにも、普通の学校のみならずコンピュータ・スクールやそれに対する奨学金の看板があった。途中、制服を着た生徒ともすれ違った。今までにバングラデシュやインドで見たような、汚れた学校制服をラフに着ている生徒たちとは明らかに違い、ヨーロッパで見るような制服を、清潔にきちんと着こなしていたのだった。ダージリンは植民地時代からインドで働くイギリス人の家族や子供が住む ヒル・ステーションとして開発されてきたため、イギリスにおける パブリック・スクール的な名門校も数多くある。この学生達ももしかしたらそのような学校に通う生徒なのかもしれない。
車に戻った後、さらに私たちはEdenvale、Parlor、Dicaと村を通り過ぎていった。村の名称自体が、英語風になってきている。Balsanという村の近くには「ダージリンまで14km」という看板があった。このあたりに生えている木も針葉樹が主流になってきて、いよいよ高いところにきたことがうかがえる。線路と平行して道路は蛇行した道を上がっていき、急角度で曲がるグームループの近くも通った。グームのあたりから、道がすこし下り勾配となる。
そろそろダージリンというあたりで、山沿いにストゥーパ(仏塔)が見えた。このあたりはヒンドゥー教、仏教、キリスト教、あるいはイスラム教などさまざまな宗教が混在している。
結局当初の予定では列車で6時間揺られながら行くはずが、車では2時間半ほど、昼過ぎには到着してしまった。
インドにおけるイギリス人の「クラブ」
ダージリンは、シムラと並ぶインドでもっとも大きな
ヒル・ステーションである。山の稜線にあって、標高は2000mを超えている。車を降りると外の気温は22℃。ほんの数日前の汗だくの日々はどこへやら、という感じである。
私たちの泊まったホテルは「ダージリン・クラブ」もしくは「プランターズ・クラブ」という名の、植民地時代の名残であった。名前のとおり、植民地時代には、イギリス人の紅茶農園主(プランター)を中心に結成されたクラブ、すなわち社交場として使われており、インド人や非会員は入ることが禁止されていた。隣には、彼らプランターなどイギリス人が利用したと思われる病院もあり、植民地支配者の健康維持という、 ヒル・ステーションの一つの目的を物語っていた。ただ、インド独立の頃からカルカッタなどに住む一部のインド人富裕階層もこのクラブを使用するようになり、ホテル内に飾ってあった歴代会長名も、当初はヨーロッパ的な名ばかりであったのが、徐々にインド人らしき名前に変わっていた。このようなクラブは、インドのみならず同じくイギリスの植民地であった世界各地にある。「イギリス人しか入れない排他的空間」としてのクラブが、植民地の社会にどんなに大きな影響を及ぼしたかは、想像に難くない。
ダージリンの街を睥睨する高台に建つこのホテルは、今でもクラブとして使われていて、われわれはそこにビジターとして泊めてもらう形になっている。建物の中は、おそらく当時の状況が保存してあるのだろう、内装はいかにもヨーロッパ的だった。すぐ入り口のところには大砲のようなものが置いてあった。街のほうを向いているのがいかにも威圧的である。庭のベンチには、大きく「MEMBERS ONLY」と書かれている。当時のイギリス支配のなごりを示すものだ。ホテルについているレストランで、制服を着た高校生が食事をしていた。この高校生の家庭はどのようなものであるか、想像には難くない。後日ここで巡検終了の打ち上げをしたのだが、西洋料理、中華料理やチベット料理など、さまざまな料理が注文できた。ここは、インド人居住区とは違った、インターナショナルな場所であったことがうかがえる。部屋には暖炉とストーブが置いてあり、カルカッタ等とは明らかな気候の違いを感じさせる。事実ストーブはその夜しっかりと使わせてもらった。
写真屋
結果的に時間が余ってしまうことになった私たちは、われわれの世話になったオーストラリアの旅行社経営者の兄弟で、プラダハンさんというおじさんが経営している、Das Stadioという写真屋に行くことになった。ここは一階が写真屋、二階は写真置き場のようになっており、私たちは二階のの一室に案内された。プラダハンさんは翌日私たちが訪れた聖ヨセフ学院の卒業生であり、ダージリンの歴史について数多くの写真とともに説明してくださった。
もともとはネパールの土地であったが、1815年イギリスにネパールが負けると、ネパールの土地の多くはイギリス領土に編入され、ダージリンも当時親英派であったシッキム王国の土地になった。その後1835年、ロイド大尉が東インド会社の代理としてシッキムに交渉し、地代を払う代わりにヒル・ステーションとしての利用を始めた。さらに15年後の1850年には英国人を「不法に」逮捕したシッキムに対する制裁としてダージリンとその周辺をイギリス領土に編入した。 1869年にシリグリからの道路を完成させたことを契機にダージリンでは空間統合が進み、1915年には当時世界で10指に入るハーディング・ブリッジをガンジス川にかけた。ちなみにここは現在バングラデシュ領となっている。1868年には私達が泊まったダージリン・クラブが建てられ、1883年にはサナトリウムができた。私達の訪問した聖ヨセフ学校は1888年に創立された。 こうして発展していったダージリンであるが、第一次世界大戦以降、帝都がニュー・デリーに移ったこともあって、イギリス人のダージリンに対する土地需要が徐々に減っていき、徴税請負人(ザミンダール)達がその土地や物件を所有するようになった。低級官僚に現地人が就きはじめ、イギリス人官僚が減少したことも原因のひとつであろう。 さらには本国イギリスからの船賃がさがったため、わざわざヒル・ステーションに来る必要性が薄れていったことも忘れてはならない。かくしてヒル・ステーションとしての役割をダージリンは徐々に終えることになったのであるが、ここで勘違いしてはいけないのは、それは決してダージリンという都市そのものの終わりを意味しているわけではない、ということだ。むしろ使用人として住み着いたインド人や市場を求めて集まってきていたチベット人、あるいはイギリス人の残した伝統ある パブリック・スクールなどを中心として、インターナショナルな都市としておおいに発展したのである。 |
オブザベートリー・ヒルObservatory Hill と仏塔
その後私たちはヒンドゥー教と仏教の共存した仏塔をObservatory Hillに見に行った。イギリス人が来るまではチベットの僧院があり、イギリス人が入ってきてからはイギリス軍の軍事施設であったところだ。イギリス人が高いところに住み、インド人やチベット人には低いところに住まわせることで、各民族の厳密な階層分けを行い、支配をしやすくしようというイギリスの意図である。実際その途中大きな広場を通ったのだが、現在こそ誰でも行けるものの、昔はそこまでインド人が来ることは許されていなかった。今は地元の人が乗馬を勧めてきたりネパール人が店を出したり、あるいはバックパッカー風の白人が歩いていたりした。仏塔は当時のイギリス人地区よりもさらに高いところにある。イギリス支配当時はイギリス人居住区の上にインド人やチベット人が建物を建てられるはずないのでは、とあるメンバーが質問したところ、確かに、この仏塔は、独立後に軍事施設を壊して建て直したのであった。ダージリンは、行政や保養はもちろん、軍事の拠点でもあった。それは北の国境に近いこと、
ヒル・ステーションとして多くの官僚や有力者もここを利用したことから容易に想像できることである。仏塔の近くには何匹か猿がいた。出発前に映画『インドへの道』を見たとき、そこでインド人の隠喩として猿がでてきており、なんとなくそれを思い出した。
坂道を降りてゆくと、途中にホテルがあった。これは、イギリスの雰囲気をいまも厳格に守って運営されているホテルで、ダージリンにノスタルジーを求めてやってくる、イギリスをはじめとする白人観光客でにぎわっているという。その下にはテニスコートがあり、ここにも「Members Only」と入り口に書かれていた。道の反対側にある、クラブ専用のコートである。
聖アンドリュー(St.Andrew's)教会
坂を降りた所に、イギリス国教会のSt. Andrew's教会があった。ここは、本来なら翌日に行く予定であった場所であるが、時間に余裕があったので、本日訪問することにした。結局翌日は時間の都合上断念せざるを得ない訪問地がいくつかでてきたため、結果的には列車に乗れなかったことは幸運な誤算と言えるのかもしれない。ここの壁には数人のイギリス人の生没年が書かれたプレートがあった。ここの教会を1843年に建設したイギリス人官僚や、友人の依頼によって作られた人のもので、だいたいが30〜40代での早逝であった。インドの気候の厳しさが切実にうかがわれる。その下にはロレッタ・スクールという、植民地時代からの伝統をもつ女子高があった。ここはカトリックのシスターが運営する学校であり、この種の学校ではダージリンでもっとも古いものである。
住み分けの名残
ここでいったん解散となったので、私たちはダージリンの街を散策することにした。そこで私たちが発見したのは、街を徐々に下っていくと突然街の雰囲気や歩いている人がガラッと変わることである。つまり今までまるでイギリスにいるかのような感覚で歩いていたのが、ほんの一歩で突如としてインドに戻るわけである。例えば、観光客用の店が、地元の人が使うような仕立屋に変わり、家の建築様式がイギリス的なものからインド的なものに明らかに変化していた。暗くなってきたこともあるのだろうが、旅行者はほとんど歩いていないようで、昔から相当厳格な住み分けがなされていたことがうかがわれる。このときメンバーの一人は巡検後ネパールに行くため、その夜行バスのチケットを買いに行っていた。しかしダージリンは山の稜線上にあるために曲がり道が多く、彼はチケット売り場まで行くはずがさらに下のダージリン駅まで行ってしまって、大変困ったと言っていた。
その後私たちはホテル近くのチベット料理屋で夕食を取って、この日、今回の巡検で初めて(?)3人の日本人旅行客に会ったのである。旅行者用ガイドブックなどに載っているような、有名な店だったのだろうか。
明日はとうとう、巡検最終日である。