世界中に植民地を持っていた大英帝国にとって、そこを支配するためにはイギリス人の総督を置き、役人を派遣することが必要不可欠だったのは言うまでもない。しかしヨーロッパのやや北部に位置し、自然豊かな気候の下に育ったイギリス人にとって、それは非常に大変なことだった。年中暑い地域や植物のほとんど生えないような荒地などは、およそ彼らには耐えられない環境だったのである。実際インドで総督などの役人になったイギリス人のなかには、病気などのために40代程度で亡くなっている者もいる。もっとも、過酷な仕事だけに給料は高く、イギリスでは比較的低い階層にいたスコットランド人などが植民地の役人になり、見事任期を勤めきったものは、高額な退職金をもらい本国の田園地帯に豪邸を建てて、余生を過ごした。
そこで、植民地在任中は、英本国と同じような気候・風土のもとで、精神的ストレスや病気を治療し、何十年も帰ることのできない本国から切り離されて生ずるホームシックを癒すことのできるような場所が必要とされた。さらに、子女の教育も問題だった。イギリス人たちはたいていインド人のメイドを雇っていたので、自分たちの子供が家の中でインド人に慣れ親しんで、イギリス人精神や、上流イギリス人の証である正統派クイーンズ・イングリッシュのアクセントがインド人風に訛ってしまう恐れもあった。
このような状況で求められたのが、ヒル・ステーションという「植民地での擬似的なイギリス」だった。したがって、ヒル・ステーションという都市空間は、イギリス人が、植民地の厳しい自然環境と大きな文化的差異を避け、英本国と似通うった気候や植生を持つ高地に土地を得て造られた。
はじめは、サナトリウムが設置され、単に休暇時の保養地であったが、しだいに、夏季の首都として実際に植民地統治機能をもったヒル・ステーションも多くなった。ダージリンやシムラはその例である。イギリス人を中心に限られた人々しか加入できない排他的な「クラブ」が作られ、これが植民地支配層の社交場となった。また、英国パブリックスクールの教育方式をそのまま取り入れた、寄宿制の私立学校が創立され、英国人子女はここで学んだ。
それゆえ当然ながら、ヒル・ステーションは白人のみの社会として存在するべきなのであるが、ヒル・ステーションにはやがてインド人がはいりこんでくるようになった。
その原因のひとつは、イギリス人たちの生活に、インド人を中心とする苦力などの地元労働力が不可欠だったということである。これに対してイギリス人は、ひとつの都市を階級によって厳密に空間的に隔てることで、イギリス人社会をインドにおいて実現した。
しかし、もう一つの原因は、もっと厄介だった。それは、間接統治の際に支配者層として位置付けられた買弁的インド上流階級の存在である。インドのように本国から遠く、かつ自然環境のまったく違う植民地において、間接統治と分割支配という植民地統治原理が現れてくるのはまったく自然なことであった。イギリス人たちは、民族的な差異を強調して地元民の結束を弱め、そのうちの一方を優遇して他方を統治させた。優遇された階層のインド人たちは、イギリス人と同じ行動様式を求めてヒル・ステーションにやってきた。ザミンダール達はその土地や物件を所有するようになり、子供をヒル・ステーションにあるイギリス式の学校に入れたがった。やがて低級官僚が現地人化し、イギリス人官僚が減少したために、これらの学校では、白人応募者だけで定員を満たすのが難しくなり、インド人生徒を受け入れるようになった。さらには、英本国からの船賃が値下がりの傾向を示したため、英国人が保養のためわざわざヒル・ステーションに来る必然性が薄れていった。どんなに頑張っても、ヒル・ステーションは、結局「まがい物のヨーロッパ」であり、英本国のほうが良かったのである。この空隙を縫って、一層多くのインド人がヒル・ステーションに入り込んできた。
さらにインド化の原因は、ヒル・ステーションとなったところの周囲に集落を形成して住んでいた現地の人々にももとめられる。これらの人々は、交易のための市場としてヒル・ステーションに眼をつけ、ヒル・ステーションはやがて地元民の物資集散地として発展しはじめた。ダージリンはカルカッタのヒル・ステーションであるが、この他にインドにはニュー・デリーのヒル・ステーションとしてシムラが有名である。インドばかりでなく、フランス領ベトナムのサパなど、かつて植民地であったところにはどこにでもそのようなヒル・ステーションが存在した。日本の軽井沢も、信越本線開通後、このような文脈で、欧米人が中心になって、一種のヒル・ステーションとして開発されたのである。