巡検最終日の朝
いよいよ巡検は、今日で最後だ。晴れていたら本当なら朝4時に起きてカンチェンジュンガKanchenjungaという、世界で3番目に高い標高8598mの山を見に行くはずだったのだが、あいにくの天気で延期になってしまった。しかし、朝7時ごろ目を覚ますと、ホテルのバルコニーから巨大なカンチェンジュンガが望めるではないか。彼方に見える雪のヒマラヤ山脈は非常に美しく、私達はその雄大さにしばし感動していた。明日はもっと高いところからこのきれいな山脈が見えるのだろうか。楽しみである。結局普通どおりに巡検は再開された。
バザールの様子
この日の朝はまずジープで出発した。植民地時代お茶のプランテーションをしていた頃使われていたのであろうケーブルカーを見ながら、途中朝のバザールを見るために車を降り、裏道に入った。狭い路地に野菜や米、バターなどの店が密集していて活気があり、この周辺の山村の集散地的な役割を果たしている。もとはイギリス人の保養地として開発されたダージリンではあるが、彼らが生活するためにインド人を呼んだり、チベット人の労働者を雇ったりしているうちに、ここが彼らの交流、交易の場となり、集散地として発達したのである。ここにいる人たちはもとからその店を出すための土地を持っている人もいるが、勝手に空いている土地や自分の家の前に店を出している人もいるというような、インフォーマルな商業形態も見られた。少数民族の人々もここに市場を求めてやってくる。
通りには制服姿の生徒が多くいた。ダージリンからは、南アジアのいろいろな地域からたくさんの子供が来ているらしい。確かに人口のそんなに多くなさそうな割には学校がたくさんある。あとで紹介する聖ヨセフ学院もそうだが、このダージリンにはさまざまな国から勉学のために人々が集まってきており、インターナショナル・スクールのような雰囲気を持った学校が数多くある。
チベット難民の現状
ひととおり見た後再び車に戻り、今度はチベット難民センターに向かった。その途中ヒマラヤ登山学校を横目に通過した。ロッククライミングの練習をしたりする学校らしい。
チベット難民センターでは、ディレクターのJampa Tenzinさんからお話を伺った。チベットから来た人がすべてチベット難民というわけではなく、実は1959年以前にも、チベット人はインドに入ってきている。これらの人々は、チベット難民とは違って、インド市民権を与えられており、ブティア(BHUTIA)と呼ばれている。ここには200の家族が暮らし、伝統工芸としてのカーペットやクッションなどの毛織物手工業によって生計を立てている。このようなチベット難民に対してインドは今のところ寛容な姿勢をとっているようだが、人々はこの工場で働くしかないので、結果的に閉鎖的な社会にならざるを得ない。難民センターの中でチベット人はその閉鎖性ゆえに言語や文化など、彼らのアイデンティティを保っていると言えるだろう。難民たちのための学校もあるそうだ。ちなみにここは、 聖ヨセフ学院が土地を寄付してつくられた。実際聖ヨセフ学院に行っている生徒もいる。産業において、現在のチベットとは関係を持っておらず、オーストラリアや西インド諸島、ニュージーランドなどと貿易を行っているそうだ。
難民には国籍はないが、チベット亡命政府が認めた者に関しては、国連がパスポートを発行し、それにインド政府が裏書きしている。これによって難民たちは一応、不安定な身分ながらも外国に行くことはできるようだ。2階の私たちが見学した工房では、8人ほどのおばあさんが自転車の車輪で糸を紡いでいた。中には男性もいたが、比率としては圧倒的に女性のほうが多かった。顔立ちはインド人にはやはりあまり似ておらず、逆に私たち日本人にむしろそっくりであった。少し日本語がわかる人もいた。また壁にはダライラマとネルー、そしてここの創立者であるMrs. Gyalo Dhunondの肖像がかかっていた。
中国からの独立を目指して
かつては一方の「中国」として強い勢力を持っていた台湾も、かつては中国の一部としてチベットを扱っていたが、今は、同じ中国からの独立を要求する地域としてチベットに援助を申し出ている。しかしチベット側としてはどちらかにつくことで「二つの中国」の問題に巻き込まれることを恐れ、その申し出は断っている。ただ他にも、中国からの独立を求めている民族は多くいる。例えば新疆ウイグル自治区に住むウイグル人は、東トルキスタンとしての独立を望んでいて、そのような背景からもチベットが独立を目指し運動をするのは重要である、と部屋に置かれた地図を使いながら説明してくださった。チベット語で新聞も発行されており、様々な場面で民族運動が展開されている。新聞は表がチベット語、裏が英語で書かれてあったのだが、内容はダライラマの発言や、外国、特に中国やインドの対応などが書いてあった。日本政府のことも書いてあり、ダライラマが日本を訪問するときには日本政府はそれを歓迎すると述べた、と書いてあった。ただラサでは中国による民族浄化の政策が行われたことで民族運動が活発化し、それに対してチベット人が虐殺されたこともあったらしく、いまだ状況は、亡命チベット人たちにとって厳しいといえるだろう。
Tenzinさんは8歳の時にここに来て以来20年。今はインドが受け入れてくれているからいいが、やはりチベットが独立したらチベットに帰りたい、と言っていた。かつて旧ソビエト連邦が崩壊する前後、今まで旧ソ連圏に組み込まれていたバルト三国や中央アジア諸国が独立を達成した。いずれ中国が真に民主化されれば、チベットもそのように独立することができるのではないか、と、具体的な独立までのプロセスも明確に意識していた。
1951年、中国の人民解放軍がチベットの首都、ラサに進駐して以来50年間、チベットは中国の支配下に置かれ、中国の「自治区」の一つとして中国人により統治されている。そして59年には反中国暴動がおこり、これを中国が弾圧してからダライラマはインドに亡命した。現在青海省となっているところももとはチベットの領土だったのだが、中国は「自治区」から切り離して自国の領土にしてしまった。こうしてインドを中心として世界中にチベットから難民が流入した。これがチベット難民問題である。 そもそもチベットはフランスの7倍もの広さの国土と600万人の人口を持った独立国であった。だが、金銀を含むその豊富な天然資源のために、中国に狙われたのである。第2次世界大戦後、インドからイギリスがほとんど手を引いてしまい、中国の動きを牽制できなくなった事もひとつの原因であろう。最近、中国がチベットのDo-me村に非チベット人を植民させる開発計画に世界銀行に融資を頼み、世銀も一度はそれを許可したこともあった。しかし、チベット自治区の民族構成に占めるチベット人を薄めるための政策であるとする国際世論の反対で、融資は結局取りやめになった。 このような中国の政策によって、チベット難民は現在、世界に15万人ほど存在する。政府は認めていないが、日本にもいるようだ。1989年には暴動に対して戒厳令がしかれるなど、民族運動の徹底的な弾圧も行われている。一方、亡命中のダライラマはチベット問題を世界的にアピールし、その貢献によりノーベル平和賞も受賞した。だが、戦前の日本の侵略をことあるごとに非難する中国は、自らがチベットを侵略した事実すら認めようとせず、いまだチベット独立を許していない。 |
カレッジ部門の雰囲気
次に訪れたのは、聖ヨセフ学院St. Joseph's Schoolという、日本では上智大学や広島学院などを運営するカトリックのイエズス会が1888年に創立した、イギリス植民地時代からの由緒ある学校である。ダージリンにはそもそもイギリス的な建築様式の建物が多い。やはりここもイギリス的な建築様式の学校で、建物を見ただけではあまり驚かなかった。
ここは、高校までの部門と大学部門とに分かれている。まず訪れた、聖ヨセフ学院の大学部門では、学生は私服で、友達と話しながら教室の中を歩いていた。芝生をしいた校庭があり、そこでは小さな学生のグループがいくつか休憩時間の会話を楽しんでいた。顔だちもさまざまであり、あらためてダージリンにはいろんな民族が来ているのだと感じた。年齢はほぼ私たちと同じくらいである。校舎の中の雰囲気は、大学よりも日本の高校に近い気がした。
イギリスがインドに残したもの
ここでは、イギリス時代の植民地の遺産と経済発展というテーマでの討論会が用意されていた。小さめの教室に、英語科の生徒が30人程度と、教授が5、6人入ってきた。チベット人とイギリス人のハーフの先生もいたが、ヨーロッパ人と現地人が結婚することはあまりなく、このような人は比較的珍しいらしい。
イギリス統治の遺産は、現在でもなおインド中に影響を与えている。それは特に英語や官僚機構、教育システムなどであり、なかでも、かつてイギリス人が中心の ヒル・ステーションであったダージリンは、特に強い影響を受けている。そもそもイギリス人が開発したヒル・ステーションには、英語のわかる労働力が必要だった。地元の人に英語を教える学校もあったが、イギリスの子供のための学校もできた。イギリス人たちはインドの同質化を避けたかったのである。ただ、ここは植民地時代の後期から徐々にイギリス人以外のインド人や中国人も学生として受け入れ始め、やがてインターナショナル・スクール的な雰囲気になっていった。なぜなら、交通機関の発達のためにイギリス人は容易に本国に帰ることができるようになり、子女を英本国の学校に入学させやすくなって、ダージリンの学校に対するイギリス人の需要が低下し、学生が足りなくなったためである。
インド側の学生たちはまず、今のインドに様々な近代的なシステムを導入し、法システムを整備し、教育制度を洗練したのはイギリスの功績であり、そのおかげでかつてはアジア随一の大都市として発展を享受していたのだ、と発言た。また現在世界中でインド人のIT技術者が活躍できるのも、イギリス統治によって英語教育が普及したからだ、とも言った。さらにインド側の学生たちの間から、日本人は英語が下手だが、経済が発展しているのはなぜか、という質問があった。英語のできるインドが経済発展できないのは不条理だ、といわんばかりのニュアンスであった。
植民地支配と経済発展
確かに今日、特にコンピュータ産業などにおいて、英語は必須とも言える条件であることは、まちがいない。だが、ディスカッションが進むにつれ、私たちは、インド側の学生や教師の間にイギリス信仰のようなものがあると感じはじめた。当初のイメージでは、インドがイギリスに植民地支配され、搾取されていたことに対して、学生たちの間には憎悪こそあれ、そのような、感謝でもするような感情があるとはまったくもって予想していなかった。もっとも、学生たちの言うことが間違っているというのではない。確かにインドのかつての経済発展は、イギリスの世界的な経済圏の一翼を担ったからである、ということに間違いはない。むしろ日本人によくありがちな「外国による植民地統治は悪」というような一方的な認識こそ一面的なだとも言えるだろう。
ただし、イギリスはインドに多くのものを与えたことは確かだが、多くの富を奪っていったこともまた確かである。このことはインドの今の状況を見れば明らかだろう。インドの人々はそのことにはどれだけ気づいているのだろうか。また、インド人は英語がよくできるために、インドでは現在経済発展とは逆の現象が起きていることも忘れてはならない。すなわち今日のインドの貧困の一因は、エリート階層が、英語ができるだけに、よりグローバルな空間で職を求めることが可能となり、頭脳流出が起って、有能なインド人がインドという領域内のマクロ経済の発展に貢献しないためである。そして、インド人は英語ができるとは言っても、それはいくらかの上流階層の人間だけで、他のインド人には教育すら受けていない人が大勢いるという格差は、植民地時代のままなのだ。
19世紀は今の逆で、インドは発展していたが、日本はそうではなかった。それは、インドがイギリスのイニシアチブで急速に経済成長したからである。日本の場合は、開国が遅かったためスタートが遅れたのだ。タイも同時期に開国し、欧米の植民地とはならず政治的独立は維持できたものだが、独自の産業政策がなく、華僑を招き入れて、欧米列強の自由貿易に自らの経済をゆだねただけだった。これと異なり、日本は、外国による干渉をできるかぎり抑えて、日本自身のイニシアチブで産業発展した。
横浜生糸荷預所事件
日本が外国による干渉を(良くも悪くも)最小限に抑えようとした例に、明治期の「横浜生糸荷預所事件」というものがあった。当時日本では、外国人の居住範囲が制限されており、外商たちが自由に日本国内に入り込んで、農民と直接取引きすることは禁じられていたため、香港のスコットランド人が経営しているジャーディン・マセソン商会を中心に、欧米人は横浜の一等地に商館を造って日本人をそこに呼び、直接商売をしていたことがあった。だが、それによって仲介料や流通過程における地位を失うことを恐れた日本の巨大売込商は、明治14年、横浜に生糸荷預所を設けてこれに対抗したのである。
この荷預所は具体的にはふたつの役目を持っており、ひとつは外商へ売るためのすべての生糸の保管、検査をする共同倉庫としての役目。もうひとつは現金を受け取った後、現物引渡所として用いる共同市場としての役目である。当然のことながら外商たちは、これをギルド的な専売組織であり自由な交易を阻害するとして批判、生糸取引停止という制裁に出た。結局荷預所は2ヶ月後に廃止されるのであるが、外商が「自由貿易」という名のもとに求めた国内直接取引は、従来どおり禁止されたままとなった。この例を見ても、当時の日本人の、外国人による自由貿易に対する否定的姿勢というものがよくわかる。つまるところ、日本は外国の技術・企業経営の理念・文化などを輸入しつつ結局自らの力で経済発展した。
それに対して、インドはイギリスによって、タイは華僑によって経済発展した。自分の国に対するイニシアチブが取れるか否かで、その後に大きな違いが出た、ということだ。
日本は英語が話せないからこそ発展した!
インド側学生から、日本人は英語ができないから国内に投資することになり、結果として成長しているのではないか? という、さらに皮肉な意見が出た。それはもしかしたら一理ある指摘かもしれない。確かに今の私たちは日本から出なくてもなんとかなるし、日本にいれば英語を使う必要もない。ただ、さきに述べたように、英語ができるから直ちにその国民経済に経済発展が訪れるわけではない。事実そこにいたインド人にもアメリカやヨーロッパで働きたいという学生はいた。だが、それがかえって頭脳流出を引き起こし、結局インドの発展を妨げてしまうことにはどれほど気づいているのだろうか。言ってみれば、インド経済から見れば、インド人の能力はアメリカやヨーロッパによって搾取されている、と考えることもできる。最後に発言した学生は、半分冗談めかして「これからインドはイギリスのように成長していくだろう」と言っていたが、そのイギリスの発展は、実はインドに対する搾取の上に成り立っていたことに、どれだけ学生たちは気づいていただろうか。
スクール部門の雰囲気
そのようなことを感じながらも、英語が事実不得意な私たちは、様々な感情を胸に大学部門をあとにした。次に向かったのは、聖ヨセフ学院の学校部門の方である。日本では小学校から高等学校にあたる。ここはイギリスの
パブリック・スクールの理念を厳格に守る名門校である。建物はいかにもイギリスの学校で、紺のブレザーにグレーのズボンの制服を着た生徒たちが、スポーツをしていた。
スクール部門の現状
生徒は、カルカッタはもちろん、旧イギリス領であったインドやビルマ、あるいは他にもネパール、タイ、中国など海外から多くの生徒が来ている。また教師も、ヨーロッパ人やインド人、ネパール人など国籍は様々である。、かつては日本人も留学していたインターナショナルな学校で、卒業生は世界中で活躍している。そして毎年イギリスで同窓会が行われているという。ただ、1963年以降はチベットとの国境に近く危険であるという理由から一時期外国人を受け入れることは禁止された。1990年から受け入れが再び可能となったが、いったん途切れたそのインターナショナルな伝統を回復することは難しい、と教頭は嘆いていた。学校経営は大変のようだ。
スクールの規則
ベルギー人の教頭(プリーフェクト)は私たちに校舎を案内しながら、ここはいまだに極めて厳格な男子校で、最近ではここまでの学校はイギリスにも少ない、ということを私たちに強調した。学校には寮がついていて、広くかつ非常にきれいに清掃が行き届き、更衣室やロッカーもあった。洗面用具や着替えの類は、きちんと整頓されていた。彼らは朝5時に起床し、夜は9時半に就寝する。寮の窓からカンチェンジュンガが見えるらしいのだが、その日は曇っていたのでよく見えなかった。暖房設備もなく、冬の12月から2月までの寒い時期は学校が休みになるそうだ。プールは温水プールであった。確かにこんな寒いところではいくらなんでも水では泳げないだろう。他にも厳しい校則はある。例えば髪の毛が規定の長さを超えているとその場で切られるらしい。実際ごみ箱の中に捨ててある髪の毛を私たちは発見した。ネクタイを緩めて制服を着崩したりしているような生徒は、全くいなかった。これら規則に従うことで自己責任の能力を上げていくことが重要である、と教頭は言っていた。この厳しさは彼らのため、なのである。だからこの学校には、「いじめ」や「不登校」のようなことは一切ない、と教頭は自慢げであった。
私達が着いた時には昼休みだったので、生徒達は外でスポーツなどをして遊んでいた。だが後で校庭を見たときには授業が再開されていて、誰もいなかった。構内にはカトリックの礼拝所があり、クリスチャンの生徒もそうでない生徒も礼拝に参加する。礼拝堂は、ステンドグラスの清楚できれいなところだった。イエズス会設立の学校であるが、ほとんどの生徒はキリスト教徒ではなく、また学校側も入信を強制してはいないという。他には自習室もあり、華人の男子生徒がひとり自習をしていた。
授業料は寮費と食事代を含めて1年に5万6000ルピー(約14万円)であり、受けられる教育サービスを考えると、われわれの感覚からすれば極めて安い。奨学金制度もあって現在は25人の生徒が奨学金を受けている。生徒には、タイ人や華僑の家柄の生徒などもおり、われわれのメンバーの一人が、生徒と中国語で会話をして、うまく通じた。日本人生徒は現在いないが、応募があれば受け入れる用意はある、と教頭は語っていた。授業はすべて英語で行われている。あらためてインターナショナルな学校の伝統を感じた。
カリキュラムには当然英語とコンピュータが
各教室では学年ごとに様々な授業が行われていた。内容は、経理や政治経済、数学などであった。政治経済の授業では、広島の原爆について聞かれたメンバーもいた。私達が教頭とともに教室に入っていくと彼らは全員立ち上がり、教頭と私たちにしっかり挨拶した。厳格な規律がしかれていることはこのことからもよくわかる。専用の教室でコンピューター教育も行っていた。ここで将来、コンピューターなどの分野において優秀な労働者たちが生まれていくのだろう。日本においてもインド人などをソフトウェア部門に招く考えがあることが新聞などで報じられている。ただ、先の大学部門の印象がいまだに残っていた私は、彼らがいずれ故国を去って働きに行き、結局インドが貧困から脱却しきれない未来が少なからず感じられ、どうにも微妙な感じがした。コンピューターなど最新の設備は一応あったが、学内の他の施設は非常に老朽化しており、予算が厳しいことを感じさせた。
その他、目に付いたもの
いくつかの教室を回った後、私達は1階に降り、食堂を覗いたり地図を見たりした。職員室の近くの地図はインドが中心になったアジアの地図であった。日本はもちろん東の端に位置しているわけだが、確かにこれを見ているとどうしてこんな東の端に位置しながら日本は発展できたのだろうか? と生徒が疑問に感ずるのもわかる気がした。他の部屋には筋肉質の男性のポスターが何枚も飾られている部屋もあり、スポーツや体力に対して学校側は価値を与えていることがわかる。
少しばかり時間に押されながら、私達は学校を後にした。中庭から、学校の外側に飾ってある聖マリアの像がわれわれを見送ってくれた。
その後再び車に揺られながら私たちが行ったのは、エベレスト博物館だった。初めて登った人や日本人登頂者、田部井淳子さんについても展示があった。ここは政府公認の博物館らしかったのだが、いかんせん山の上にあったため、運動不足の一部ゼミテンは必死で息を切らしながら上がった。
茶園の様子
ここの頂上でネパール人のおばさんがやっている小さな店に入り、パンで腹ごしらえすると、私たちは次の目的地であるハッピーバレーHappy Valley紅茶園という、お茶の栽培・加工場に向かった。細くて舗装もされていない急斜面のがたがた道を、私たちはジープでゆっくりと下った。紅茶園の人たちはこの道を使ってお茶を毎日運んでいるのだろうか? だとしたら、なかなかハードな仕事である。急斜面に生えたお茶の葉をネパール人の女性が手で一つ一つ摘み取っていた。従業員は2000人だが、この日は休日であまり人がいなかった。
ここで私たちは紅茶を作る過程を見学した。取ってきた葉はまず発酵させ、乾燥させ、蒸し、いくつか工程を設けて細かく砕き、5層のふるいで選別する。こうすると細かい葉ほど下へ行くわけであるが、2番目と3番目が有名なSupremeとOrange Picoである。こうして、かの有名なダージリン・ティーが作られるのである。これらは箱詰めしてシリグリ経由でカルカッタへと送られる。イギリス時代には鉄道で運んでいたが、今はトラックが主流である。ちなみにその箱は2年持つらしい。日本にも輸出されており、高級な紅茶として量り売りされているという。そこの紅茶園では1箱80ルピーであった。私達は少なからず試飲に対する期待をもっていたのだが、そこではそのようなサービスは行っておらず、代わりに、売店では、有料で同社製の紅茶を販売していた。ただ訪問者には記帳できるようにノートが用意されており、せっかくなので記帳しておいた。日本の工場見学などとは感覚が違うので戸惑う。
ところでこの紅茶園の近くでがけ崩れがおこっていた。どうやらお茶を植えるために木を切ったことで地盤が弱くなったらしい。昨日乗るはずだった鉄道も土砂崩れで動かなかったわけだが、この辺は斜面が急なこともあり、結構地盤がずれることは多いのではないか。
最後の晩餐
夜は、巡検全体の道中の無事と成功を祝して、ホテルのレストランで食事をした。豪華にタンドリーチキンや、中華料理を食べ、ビールを味わった、というか飲んだ。中華は本当にどこの国に行っても食べられる。それだけ華僑が多いということだろうか。
明日の朝こそは、タイガーヒルTiger Hillでヒマラヤが望めるだろうか。
巡検最終日。晴れていれば、もしくは晴れてヒマラヤと美しい日の出が見られる可能性があれば、4時半起床ということになっていた。朝、部屋のブザーが鳴って私は目を覚ました。外は暗い。ただどうやら曇っているようだ。カルカッタ等ではありえなかったほどの厚着をして出発した。標高2000メートルのダージリンの朝は寒い。
車ではさすがに早朝出発なだけあり、大体のメンバーは眠っていた。私は揺れる車では眠れない性質なので起きていたのだが、霧であたりはなにも見えなかった。途中他の車とのすれ違いで少しばかりびっくりさせられるような場面もあったが、おそらくほとんどのメンバーは知らないであろう。
タイガーヒルには、すでに結構な観光客が集まっていた。チベット仏教の旗が飾ってあった。額に赤い印をつけることでお布施をもらう、ということをやっている人々もこのHillの近くにはおり、それらから考えると、タイガーヒルはチベット仏教において宗教的に重要な土地なのかもしれない。インド国内の旅行者が多いが、中には白人のバックパッカー風の人たちもいた。とにかく寒い。そしてあたりは依然として濃い霧に覆われていた。日はまだ出ておらず、日が出れば少しは違うだろう、ということだった。チベット系ないしはネパール系の女性たちがホットコーヒーを売っている。一杯5ルピーだった。少し高いが、寒いし、売り手の熱意に負けて買ってしまった。
やがて太陽が昇り始めると同時に、霧が晴れてきた。ほんの数分だったが、美しいカンチェンジュンガが顔を出す。個人的には左手に広がる雲海もきれいだったのだが、やはり山の最高峰が見えるというのは良い。この頃には多くの旅行者は帰ってしまっていたのだが、最後まで待った甲斐があったというものだ。ただあとでよく考えてみると、ホテルから前日にチベット難民センターに行くときに見えたものと光景はあまり変わらなかったかもしれない。ただ苦労して待っていた成果であった分、喜びは一段と大きかった。
ホテルに帰り、それぞれカルカッタ、ダッカを経由して日本に帰国する人、そのままダージリンからトレッキングに向かう人、ネパールに向かう人、再びダッカに向かう人、バンコク旅行をする人とそれぞれ別れることになった。
一瞬、再びカンチェンジュンガが雲の中からあらわれた。ガイドさんの「The Mountain said good bye to you!」という言葉とともに、われわれの巡検は終わりを告げた。