カルカッタにおける英植民地時代の建造物 | |
カルカッタのスラム地区 | |
まとめ |
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カルカッタ概要
カルカッタはインドの東部に位置し、植民地時代にイギリスに影響を多大に受けた都市のひとつである。それは、インド亜大陸東部に現バングラデシュ(=「ベンガルの国」)も含んで広がっていたベンガル地方の中心であり、そして大英帝国の植民地インドの首都であった。それを誇示するかのように、イギリスにより建てられた建造物がいくつもみられ、それと調和してイギリス風2階バスが走っている。その建造環境から、イギリスのインド支配の面影を垣間見ることができる。
チャクラボーティさんと
案内をしていただいたのは、ARCH (Action Research in Conservation of Heritage)を主宰し、カルカッタの景観保全運動に関わっている建築家、マニシュ・チャクラボーティManish Chakraborti博士である。とても親切で、また非常に情熱的な人であった。
我々は朝食をとりながら、インドを支配するために植民地時代にイギリス人が建てた建物をいまだにインド人が残しているのはなぜか?と質問をした。われわれがこの質問をした理由は、ゼミの夏休みの課題で、吉岡昭彦著『インドとイギリス』(岩波新書)を読んで感想文を書いたとき、その中でゼミテンの1人が、「近年隣国の韓国が、かつて日本が朝鮮を植民地にしたときに建てた朝鮮総督府の建物を壊したことと比べると、英植民地時代の建造物がインドにほとんど手付かずで残っているのはなぜなのだろうか」という趣旨の疑問を提起したからである。インド人も、イギリスの植民地支配と激しく闘って、独立を勝ち取った。だから、インド人がイギリスの建造環境をそのままカルカッタに残しているのは、日本人の感覚からすると理解できないところがあるのだ。
これに対し建築家チャクラボーティ博士は、建築家の立場から見て、建築には普遍的なの美がはらまれており、「美しいものは美しい」のだ、だからこれらの建物はインド人にとっても美しいと感じられるし、使いやすい、と答えた。しかも、イギリス人はローマやギリシアの建築様式を受け継いだだけで、その様式はイギリス独自のものではないのだから、だからこれらの建物を、イギリス植民地主義の表明と単純にとらえる必要はないのだ。そもそも、これらの建物はイギリス人自らがつくったわけではなく、イギリス人は設計をしただけ、実際に建てたのはインド人労働者である。今、インドには、これらを壊してよりよいものを建て直す費用がない。この建物よりも優れたものをインド人自身がつくることができないのであれば、むしろそれを残して使うべきである。それに、仮にこれらの建物を壊したからといって、英国によるインド植民地支配という歴史が消えてなくなるわけではない。むしろ、つくられた建物を現代の経済・社会に対する資源と見なすべきだ、ともいった。この考え方はインドの建造物が残るスリランカやパキスタンも同じだという。
博士は、このことをかんで含めるようにわれわれに話してくださったが、この回答は、やはり我々にとっては少し意外に思えた。というのは、それらの建物はいかに便利で美しいとはいえ、それにはやはりイギリスの過去の支配が孕まれており、植民地支配を思い出させるものであって、むしろ我々の感覚からすれば壊してしまいたくもなるのではないか、と思ったからだ。あるいはそれほどイギリス支配がインド人の心には染み込んでいる、ということなのだろうか。
グレートイースタンホテル
視察は、我々が泊まっているグレートイースタンホテルGreat Eastern Hotelの内部から始まった。このホテルは以前、インド総督の名前をとって、オークランド・ホテルAuckland Hotelという名前であった。1840年、植民地時代にイギリス人たちが宿泊をする場所としてつくられ、インド人たちは宿泊できなかった。このホテルのフロントやレストランのあるメインの建物と、宿泊する部屋のある建物をつなぐ通路には、靴屋や時計屋などたくさんのお店がある。これはホテルから出ることなしにこのホテル内部ですべてのものをそろえられるようにした工夫であり、他のホテルも、後にこの方法を取り入れた。今では世界中のホテルにあって、日本人観光客御用達のようなショッピングアーケードは、ここが発祥の地ということなのだろうか。また、近くに教会もあるため、結婚式もここで挙げられる工夫がされている。
ホテルの外に一歩出る。熱帯特有の、暑くて湿気分の多い空気が我々を包んだ。カルカッタに着いたのは昨日の夜であり、とても暗かったため、はじめてカルカッタの景観を目にする。ビルの高層化も目立ち、近代的なビルも多い。バングラデシュの首都ダッカに比べると、ダッカの道路は道に穴が空いていたりして不整備なのに対し、カルカッタのほうはよく整備されていた。また、ダッカには多く、主要な交通手段と思われるリキシャーがカルカッタには少なく、主要な交通手段はタクシーやバスであった。隣り合っているインドとバングラデシュ2つの国の経済格差を感じざるを得なかった。
ホテルの前には一本の大通りがあった。その通りの名をOld Courthouse Streetという。かつてこの通りは、裁判所の建物に向かって道路がのびていたため、この名がついた。今その建物は、教会となっている。
総督官邸
はじめに我々は日本でいうと首相官邸にあたる総督官邸Government House, Raj Bhabanにいった。この建物はイギリスの「ダービシャー」と同じ形をしており、ビクトリア様式の建物である。植民地時代はここにインド総督が住んでいたが、今は西ベンガル州知事が住んでいる。また、総督官邸から出ている道の両側にはかつての官庁街の建物が密集しており、植民地時代に馬小屋として使われていて馬のマークがきれいに掘られた建物や、その反対側にはインド総督の使用人が住んでいたアパートがある。またこのアパートには州知事の使用人が今もなお住んでいる。また、この駐車場には数台の車があり、州知事の超高級車もおいてあった。そして、以前はガバメント・ハウスからこの道まっすぐにライターズビルディングWriters' Buildingという植民地総督府の建物が見通せたのであるが、電信電話公社がこの道上に巨大なビルをつくってしまったため、今は見通すことができない。景観の阻害だと、チャクラボーチさんは怒っていた。また、以前はこの道の真ん中に池があり、水道管も通っており、水供給もしっかりなされていたことを示していた。
セント・ジョンズ教会
次にセント・ジョンズ教会St John's Churchにいった。プラッシーの戦い直後の1783年に、ザミンダールの寄付によりこの教会は建設された。総督官邸のすぐ近くに位置し、カルカッタの街の中心にたてられたことからもわかるように、この教会はイギリス本国から来た人々の精神的よりどころであった。また教会の宗派はイギリス国教会であることから、本国との結びつきの強さがうかがえる。教会の石材は、すべてイギリス本国から取り寄せた。石彫りなどは本国で行い、それからインドに運ばれた。教会内部の椅子は、当時イギリス人に好まれた、ビルマの高級なチーク材を用いてつくられた。教会の壁には、イタリアから取り寄せたという、ステファニーが描いた「最後の晩餐」がかけられていた。すべてにおいて欧州的なのが、この教会である。壁に埋めこまれた鉄のプレートを見ると、スコットランド人系の名前が彫られている。このことからインドには、イギリスで二流の地位に位置し(一流はイングランド人)、イギリス本国で常に差別をうけていたスコットランド人が派遣されたことがわかる。また、40代で若くして亡くなった官僚がいたこともわかる。インドでは熱帯性の気候のため、マラリアなどの様々な風土病が蔓延していたから、早死にしたのだろう。それにもかかわらず、イギリス本国からインド植民地で働きたいという人は、絶えなかった。なぜなら、植民地で働き、定年の50歳までうまく生きのびれば、イギリス本国に帰って、スコットランドの高原に大邸宅を建てて悠々自適な生活がおくれるほど、非常に多くの退職金をもらうことができるという理由があったからだ。
それから我々は司教の部屋にとおされた。この部屋には特権階級用の椅子と机があり、当時の英インド植民地政府立法評議会の重要な会議が行われたことがある。机は正八角形の形をしており、誰が一番偉いかを示さないようにつくられていた。部屋のタンスには、高級な服や家具や写真などが大切に保管されていた。
近年この教会の周りに高層ビルを建てようという計画があったのだが、1万人もの署名を集め、その計画を中止させた。このことからもわかるように、この教会は、地元の人々にとっても非常に重要視されているといえる。
この教会の庭にも、様々の歴史的建造物があった。
@東インド会社の重要な人々の墓。
A1757年のプラッシーの戦いに勝ち、ベンガルをイギリス植民地支配におくことが決まった記念碑、兼その時のイギリス将軍であるチャールズワトソンの墓。
B植民地になる前の交易で使われていた重要な言葉であるペルシア語やアラビア語の刻まれたドーム型の東インド会社要人の墓。この墓はビザンツ様式であり、1690年にはじめて地元商人とヨーロッパ人が協力してつくられたためオリエント風の様式が強い。また、この墓の周りには鉄に刻まれた様々なマークがあった。
Cインド軍がイギリス人をカルカッタのある建物においこみ、酸欠により1人を除きすべての人を死亡させたという、ブラックホール事件(Black Hole Incident)のモニュメント。この事件がきっかけとなり、イギリスはプラッシーの戦いでベンガル人に復讐をし、ベンガル人を打ち負かして植民地支配に置いた。この事件を風化させないため、そしてインドへの警戒を維持するために、イギリス人が、カルカッタの中心街にこのモニュメントを建てた。だが、あまり刺激的なので、近年インド人がこの場所に移したそうだ。イギリスで使われている歴史の教科書は、ブラックホール事件について、イギリス人はインド人から残虐なめにあった、と現在でも記述してあるそうだ。そのためイギリス人は、インド人は危ないヤツだとか、カルカッタは恐いところだといった悪いイメージを今でも持つという。
次に我々は教会の敷地から出て、かつてジュート貿易の財務会計をやっていた赤い建物の前を通った。今この建物は、インド政府の経済貿易官庁であり、財務会計関係の仕事をやっている。建物の中では、かつてやっていた仕事と同じような仕事を今もしており、独立後半世紀以上経ったいまだに建物の機能が変わっていないのが興味深い。
タウンホール
通りがかったタウンホールTown Hallは、1814年に建設され、第一次世界大戦中は人々に配給をする場として使われ、独立後は市民が使うようになった。また、国民的英雄である12人のインド人画家たちが自分の絵を売り、その金を寄付して修復工事を行い、現在は博物館として使われているそうだ。土曜日休館のため、残念ながら中にはいることはできなかった。
最高裁判所
最高裁判所High Courtは、ベルギーに以前あったが破壊されてしまった建物をまねてつくられたものである。イギリス的なガーデニングが施してある裁判所建物の中庭には、目隠しをし、左手に天秤をもった女像がたっていた。この女神は、目で人を見ることなく、良心に従った公平な審判をする、ということをあらわす。植民地時代に、裁判所は、イギリスが法による支配や公正で合理的な判断をするという考え方を定着させで、植民地支配に対してインド人の支持をとりつけようとするものであった。ベンガルの植民地支配が200年間続いたことからわかるように、ある程度イギリスの正当性がインド人に受け入れられていたことを示す。近年この建物は改修工事が行われ、エレベーターを設置したり、空調設備工事をしたりしていた。これに対しチャクラボーティ博士は、くだらないものをつくり税金の無駄遣いをしている、腐敗したインドの官僚は、予算が集まる大きな土木工事をするほど自らの権力を誇示できると考えて、建物そのものの美しさを損ねている、と怒っていた。確かに、建物自体は2階までしかないのに、エレベーターは必要なのだろうか?
また、裁判所の建物の前に「Street Orderly Bin」(通りを清潔にする=秩序をあたえる)、という字が彫られたゴミ箱があった。これはイギリスがつくったものである。このゴミ箱もまた、「清潔な通りは良い通りだ」という連想から、秩序ある社会は良い社会である、そして、秩序を実現する英植民地支配は正しい、という植民地のイデオロギーを人々に強調している。
この付近の商店の建物にスコットランド製の鉄柱が使われたものがあった。
また、オーストラリア・ニュージーランド銀行が、企業のイメージをあげるため、植民地時代にイギリスがつくった建物を改修して使用している店舗があった。この建物の1階は自分たちが使うために外壁がきれいに塗りなおされているが、その他の階はそのまま放置されて、汚いままである。このようなことをするのは自分勝手すぎる、これだから民間セクターには景観の保全は任せられない、とチャクラボーティ博士はまたもや憤慨していた。
メトカーフ・ホール
川に面しているメトカーフ・ホールMetcalfe Hallは当初図書館であったが、現在図書館はちがうところに移り、政府機関のインド考古学研究所がこの建物を保全し、この研究所の成果を展示している。この建物の中にはこの研究所が修復工事をした様々な遺跡の写真があった。余談だが、この建物のトイレはイギリス人用につくられているため便器の位置が高く、ある男性のゼミテンは、小用を足しづらそうであった。
ここまでで暑くて喧騒なカルカッタの中心部をすでにかなり歩いたので、われわれはいささかくたびれ、喉も渇いていた。ここでチャクラボーティ博士から、近くのカフェに入り、コーラをご馳走していただいた。生き返る思いだった。
中央郵便局
その後われわれは、GPO、中央郵便局の建物を訪れた。この建物は1868年につくられた。この時代、日本は明治維新で、まだ日本人は丁髷に刀である。その一方、カルカッタでは、近代郵便制度がすでに確立していた。このことからもわかるように、19世紀、カルカッタはアジアで第1位の「近代都市」だったのである。日本の近代化もヨーロッパの文化の取り入れをすることによってなされたが、その時、カルカッタが、ヨーロッパ文明を日本に導き入れるのに重役割を果たしたといえるだろう。さて、この建物はドーム型の建築である。交差点のどこから見ても同じように見えるようにつくられている。またこの土地は、プラッシーの戦い時代にはイギリスの砦であった。地面に砦の跡を示す細長い金属が埋め込まれていた。この付近は植民地時代には商業・仕事・政治などの中心地であり、インド中央銀行(Reserve Bank)やかつてのイギリス系植民地銀行である香港上海銀行(HSBC)やオーストラリア・ニュージーランド銀行などが、いまだに立ち並んでいる。植民地時代の金融街は、今もそのまま金融街でありつづけている。
ビービーディー・バグ
鉄道局の建物を軽く見て、ライターズビルディングの建物の南側にきた。そこから道路をはさんで反対側には3人の銅像がある。彼らは独立直前、独立国なら内閣総理大臣に当たる植民地長官を暗殺し、自らも自殺をした英雄たちである。その事件が、英国に、インドに対する植民地支配をもはや続けられないことを思い知らせ、インド独立の足がかりになった。この英雄の頭文字をとってダルハウジースクエアという広場をビービーディー・バグBBD BAGHとインド政府が改名した。しかし、植民地時代の呼び名のほうが長い間地元の人々にはなじんでいたため、今でもそう呼ばれることが多いそうだ。
旧裁判所
旧裁判所Old Courtの建物は、現在はスコットランド教会となっている。大きなものをつくってひざまずかせるという権力構造にあって、チャクラボーティ博士は、安らぎと祈りと快適をこの建物が与えると説明した。ところが、ここを管理している方とチャクラボーティ博士との間に、この建物をめぐっていきなり口論がはじまってしまったのである。インド人同士なのに英語をつかい、興奮してやりあっている。そばで聞いていると、管理人さんは、信者が少なく維持費も集まらないため、存続が大変だから、今後この建物はどうなるかわからない、と主張していた。それに対し、チャクラボーティ博士は、この建物は、由緒のある建物であって、単に教会の信者たちのものではなく、みんなが共有する歴史を物語るものであり、しっかりと存続させなければならないと、反論していた。
スラムへの道のり
午前中の散策を終え、我々はデジタルカメラのフィルムであるフロッピーをとりに一度ホテルに戻った。昼ご飯を食べる時間がないので、先生がテイクアウト用のサンドイッチを頼んでくれた。
午後、我々はハウラー地区でスラムプロジェクトを行っているNGOである、ハウラー・パイロット・プロジェクトHowrah Pilot Projectを訪問することになっている。サンドイッチが届けられると同時に午後の視察に出発する。ホテルの近くに待機しているタクシーを2台捕まえ、分乗して、船着き場であるブブガットへタクシーをとばす。熱帯の風を、タクシーに乗っているときだけは、心地よく感じた。私が乗った方のタクシードライバーは紳士的な顔つきの一方、運転は荒かった。時速が何キロでているかスピ−ドメーターをのぞき込んだが、メーターは壊れていて、わからなかった。
ブブガットについた。船着き場へさっそく行こうとするが、先生たちが乗ったもう一台のタクシーが来ていない。我々と一緒に乗っていたチャクラボーティ博士はあせって、いろいろなところを探し回っていた。先生たちには悪いと思いながらも、先についた我々は少し暇ができたので、その辺で買い食いをする。暇ができたら、即買い食いという癖がいつの間にかついてしまった気がする。日本で私は貧乏なのでこんなことはしない。インドの物価の安さがそうさせているのであろうか。ゼミテンの一人はココナッツジュースを、もう一人は怪しい熱帯フルーツを露店でひとつ買い、私はいつものごとく、昔の駄菓子屋によくあった瓶に入ている、甘そうなクッキーを大量に買いまくる。ずいぶん値切るのもうまくなったと感じた。3人でそれぞれのものをわけつつ食べた。ココナッツジュースはぬるくてあまりおいしくなかった。
先生たちが10分後くらいに汗をかきながらやってきた。どうやら、ブブガットではないもう一つの船着き場のほうだと、タクシードライバーが勘違いをして、そっちへ行ってしまったらしい。おかげで我々はすこし暇ができたのだが…。
全員集合したところで船乗り場へ向かう。カルカッタのはずれの「ブブガット」の「ブブ」というのは、植民地時代のインド人低級官僚の略称である。この船着き場は、かつてこうした人々が使っていたのだろうか。日本でいう湖で手こぎボートに乗るところのようなつくりであり、足場がみしみし音を立てていて、今にも壊れそうであった。
ボートに乗り込み、フーグリー川Hoogli Riverをわたる。これは、バングラデシュに向かう前にガンジス川の本流が途中でインド国内で枝分かれしてベンガル湾に注ぐもので、ガンジスと同じ茶色に濁っていた。川の流れが早いためか、ボートは川の流れに対し斜めに進んで、苦しそうなエンジン音をたてていた。少し上流には、植民地時代にイギリスがつくったこの川にかかる立派な鉄橋が見えた。やはり、川の風は気持いい。熱帯にいるのを少しの間忘れさせてくれた。ボートの中で我々は、サンドイッチを食べる。さすがグレートイースタンホテル製だけあって、なかなかおいしかった。
インドの物乞いについて
船の中で物乞いが恨めしそうに我々を見て、ものをねだりに来た。当然、我々は何もめぐまない。だが、午前中の視察で、ライターズビルディングの前で物乞いに出会い、われわれが何もめぐまなかったとき、チャクラボーティ博士は現金を物乞いに渡していた。親切に案内してくださったチャクラボーティ博士にこうした経済的負担をかけたことは、申し訳なかった。外国人はもともとより多く金を持っているのだから何かめぐむ義務がある、という考え方なのであろうか。めぐまないのは社会的義務を果たさない強欲な人間だ、ということになるのかも知れない。そこには、貧者を助けるべきとする宗教の論理と、下の者に「慈善」を施さねばならないというイギリス的倫理観との、不思議な接合。こうした、市場経済の外にある宗教と倫理によって、貧困者への所得再分配が行われ、インドやバングラデシュの社会はなんとか維持されているのだ。グラミン銀行総裁のユヌス教授やBRACは、こうした思想を批判して、それを市場経済に置き換えようとしているのである。
ハウラー地区概観
幅の広いフーグリー川をわたり終え、ハウラー地区に着いた。街の中心地まではリキシャーで行く。カルカッタではじめてリキシャーにのる。この地区では、多くのリキシャーを見ることができた。カルカッタ中心街との差を感じざるを得なかった。私はチャクラボーティ博士と一緒にリキシャーに乗った。そして、通り過ぎる大きな建物を指し、ここは以前ジュートの工場であったが、今はつぶれてしまっていると教わった。この工場の建物はレンガ造りであった。だが、さびれて、建物が崩れはじめている。この工場がこれから訪れるところと関係していると、この時は、思わなかった。
我々は、船着き場から乗っていたリキシャをおり、これから訪問するNGOの本部へ、建物の込み入った路地を歩いて進んでいった。だが、見たところここがスラム街とは思われなかった。というのは、我々にあるスラムのイメージとは、ダッカで見たような、人がその辺に落ちている廃棄物などを寄せ集めてつくったと思われる狭く小さなバラック小屋が無秩序にたてられた所、というものであったからだ。ここのスラムはそうではない。建物はこぎれいなレンガ、またはコンクリート造りであり、2階建から高いもので5階建ぐらいはあった。人口密度が高い状態で人が住んでいる。
5分ほど歩くと、ハウラー・パイロット・プロジェクトHowrah Pilot Projectの本部事務所に到着した。とある建物の2階に本部事務所はあった。この活動を見学させていただく代わりに、我々は1人10ドル(計70ドル)を料金として払うことになっている。そこでは、きれいに正装した子供たちが出迎えてくれ、我々一人一人に手作りの花輪を首にかけてくれた。この事務所にはアルファベットの表がかけられてあることからも、ちょっとした学校みたいな役割を果たしていることがわかる。また、我々を歓迎してくれていることをあらわして、インドと日本の友好をあらわす手書きの壁紙が飾ってあった。
スワミーさんの概要説明
子供たちが別室に行き、女の人が我々に飲み物を出してくれた。はじめにこのNGOの代表であるラーマ・スワミーRama Swamyさんが、この地区の概要について話してくださった。
この地区はかつて、アジアを代表する工業地帯で、東洋のマンチェスターともいわれていた。インドの基幹産業であったジュート産業や、ヨーロッパでは必需品であったタイプライターのメーカー、レミントンRemingtonの工場があった。そして、労働者の通勤手段は徒歩にほぼ限られたので、労働者住宅は、工場のそばに密集して固まった。今われわれが視察しているNGOの活動地区は、もともとそれらの工場で働く労働者とその家族が生活する空間だったのである。
時がたち、19世紀末から、日本や香港、東南アジアなどが産業発展を遂げると、インドの産業は、アジアの産業発展から取り残されていった。さらに、物流の手段がジュートの袋からコンテナへ、文章を書く手段がタイプライターからワープロ・パソコンへと移行して、この工業地帯の産業構造は陳腐化していった。ジュート工場はだんだんと閉鎖されていった。最近、レミントンの工場が突然とつぶれ、一夜にして2,000人もの労働者が解雇されるという事件が起こった。だが、それらの工場で働いていた労働者とその家族は、この場所に残らざるを得なかった。たとえ他の所へ引っ越したとしても、そこに今までのような雇用機会はやはりなかったからである。
この労働者街で失業が広まるにつれ、貧困問題が発生し、この場所に犯罪や暴力が多くなったり、非教育や負の環境が大きくなったりした。特に、子供たちに多大な影響が及ぶようになった。大人たちは路上で物売りをするなど、細々ではあるが仕事をしている。加えて、もとからここのインフラは十分でなく、騒音問題や水質汚染など環境が劣悪である。公的な援助がないためなかなか改善できない。
次に、このNGOの活動について、スワミーさんが話してくれた。ハウラーでの工場閉鎖で失業問題が深刻化してきた3年前から、この場所でボトムアップのための活動をはじめ、いろいろな団体と協力しているそうだ。手工芸の技術や女性中心のマイクロクレジット、識字教育、さらには大きなNGOの提案を軸にして、お金を稼ぐことについて知り、女性が自立できるようにするため、経営などを教える活動などを行っている。また、地元のボランティアと協力し、環境問題や健康問題にも取り組んでいる。
スワミーさんが強調しておっしゃったことは、この地区は古い産業地帯で、以前この地区は労働者街であったから、労働者としてまとまれる「社会的力量(social power)」のヘリテイジはすでに存在している、ということだ。それゆえ、この上に「道徳的力量(moral power)」を鍛え、非寛容 (intolerance)をなくし、共同体をつくって人々の道徳的な面を向上させていくことで、社会正義を獲得し、自立のための継続的アプローチをとることができるという。この活動を2年以上続けてきて、この地区の人々も成長し変わってきた、と話した。
代表のスワミーさんは、共同体の形成と発展において「空間」の重要性を強調していた。また、様々な宗教や哲学に影響を受けており、有名な経済地理学者であるデビット・ハーベイにも強い関心を示しておられた。
スラムの子供たちとの交流
スワミーさんのお話がひとわたり終わると、部屋の別室で待機をしていた子供たちと我々は交流した。子供たちみんなでインドの童謡を歌ってくれた。おかえしに我々は、前々から練習を繰り返し行い、準備をしておいた日本の童謡、「大きな栗の木の下で」をふりつきで合唱した。反応は、いまいち…、だった。ただ、ここの子供たちは非常になつっこかった。はるばる日本からきたわれわれのために、精いっぱいの盛装をしてきてくれたのだと思うと、とてもうれしかった。インドの子供は、目鼻立ちがしっかりしていて、かわいい。
スラム地区の視察
子供たちとの交流を終え、我々は組織の方々、そしてスラムの子供たちと一緒にスラム街を歩くことになった。子供たちと手をつなぎながら歩く。ここで生活をしている人々を刺激しないために、写真撮影は禁止された。建物がひしめき合っている小道を通り前に進んでいく。時たま、どちらの方向に進んでいるかわからなくなることもあった。小道にはかなりゴミが散らかっており、たまに異臭がした。この街は比較的高い住宅に囲まれている。細い道が交わる所には井戸があって、女性が水をくんで洗い物をしたりしていた。この水からは、幸運なことに、砒素は出ないという。街の壁には様々な落書きがあった。ソ連の共産党と同じ鎌とハンマーのマークなども書きなぐられていた。労働者の街の伝統があり、インド共産党の活動が盛んなのであろう。この街を歩いていると、イギリスの産業革命時代の労働者街とはこのようなものだったのだろう、とふと思われてきた。
5分ぐらい歩き、我々はここで一番大きいという共同広場についた。この広場は、住民たちが連帯を深め、self-empowermentを養うための場所として使われているという。だが、もともとこの広場は、このNGOがプロジェクトとしてつくったというわけではなく、もとからあった空間だそうだ。
さらに歩いて、密集した住宅の中を分け入っていくと、そこは18〜20世帯がその周囲を取り囲むひとつの小さな広場のようになっていた。その広場では、洗濯物が長い共同で利用されるロープにかけられていた。犬が広場にいて、広場を囲んでいる世帯全体の番をしている。ここには、広場という空間を契機にして、小さな共同体ができていることがわかる。広場が、いちばん基礎的なコミュニティのまとまりをつくりだしているのだ。スラムプロジェクトで集会があるときには、この小さなまとまりの単位で代表がでてくるという。そして、この小さなまとまりがいくつも集まり、さっきの大広場を中心とする、より大きなコミュニティの単位になっている。このスラム地区は、こうした重層的な空間編成をなしている。
幅の広い通りをしばらく進んで、左に折れると、その向こうには、非常にゆったりとした市街が広がっていた。ヒンズー教の人々が住む地域だという。我々がこれまで視察をしてきたスラム地区には、イスラムの人々が住んでいた。インドではヒンズー教徒が一番多く、すでにウッタランのイスラムさんから詳しくお話を伺ったように、イギリス植民地時代には、英領インドでイギリス人の下にヒンズー教徒がいて、インド植民地統治をたすけていた。そのため、今でもヒンズー教徒はイスラム教徒に比べ権力をもっているのだ。この空間の格差は、その表明である。
ヒンズー教徒の街を進んでゆくと、強い異臭がした。そこにはフーグリー川へと続く、スラム内で一番大きな排水のための川があった。その川の畔には公衆便所があったから、ここも広場のような機能を果たしているのかもしれない。川といっても、まったく川に見えない。農業の用水路という感じであった。かつて、この川は1mぐらいの深さがあり、そこそこの幅もあったという。ところが、その川の掃除をしないために、大量のヘドロが堆積してしまったため、今では深さは10cmぐらいで、幅もジャンプしてまたげるくらいである。ヘドロには、病原菌が詰まっている。そこそこの雨が降るだけで、この川は氾濫し、汚水が街に流れ込んで、伝染病やマラリアの原因となるという。
最後に、この地区の公立小学校にいった。学校といっても、100uほどの粗末な空間で、ひとつの空間に5つの教室が仕切りなく存在した。一方には壁がなく、外から自由にのぞける。半ば青空教室のような感じだ。教師の給料などは国が支払うが、文具等は生徒が自分で購入しなければならない。長椅子、長机、黒板があった。。この学校は朝夕の2部制であり、国の奨学金の制度もあるという。多くの生徒が、汚いながらも一応制服を着ていた。旧英領植民地諸国では、基本的にどの国でも生徒に制服着用を義務付けている。バングラデシュで訪問したウッタランの学校よりも、カルカッタのこの学校のほうがイギリスの影響が強いということなのであろうか。
視察を終えて
この地区が、不法占拠者(スクォッター)などがバラック小屋をたててつくるスラムなどと違う点は、人々が建物の所有権を持っていることである。このため、追い立てや立ち退きなどの居住上の不安がない。また、カルカッタ中心街と大きな川を挟んでいるという地理的な特徴から、アメリカ合衆国の都市の中心街で行われている、ジェントリフィケーション、つまり、投機的デベロッパーがスラムの土地を安く買いしめ、再開発をして高く売ることで、住む場所を追われるおそれがないという点も見逃せない。人々は、ここで、永く生活してきたし、これからもここで生活してゆくのだ。それだけに、このスラムプロジェクトは、「広場という空間」を場としたコミュニティディベロップメントに活動の重点をおかなければならない理由が十分あるのである。
視察が終了し、再び本部事務所に戻ってくる。口に入れると蜂蜜がしみ出してくるあまーいお菓子など様々なお菓子を頂いた。そして、ここに住む女性の方とその子供たちと軽く懇談した。子供たちは我々に電話番号を聞いたり、住所を聞いたりした。また、私のノートに子供たちは、自分の名前を英語で書いてくれた。最後に事務所の女性の方が、我々のために書いてくれた詩を、朗読してくれた。その詩は、我々の心に何ともいえない暖かみを与えてくれた。
これだけ歓待されると、われわれはますます本部事務所を立ち去りがたくなった。だが、時間は無情に過ぎてゆく。チャクラボーティ博士は、ここを出なければならない時間がきた、とわれわれをせきたてた。事務所の方々すべてに別れの挨拶とお礼を言い、事務所を出て、大きな通りまで子供と手をつなぎ歩く。街を子供たちとまわっていたときよりも私の手を握る子供の力は強かった。我々の前にリキシャーがとまった。リキシャーに乗り込む。子供たちは、見えなくなる曲がりかどまで手をふってくれていた。つぶれたジュート工場を左手に見ながら、われわれは船着き場に着いた。
ビクトリアメモリアル
川をわたり、船着き場からタクシーに乗り、最後に我々はカルカッタ郊外にあるビクトリアメモリアルにいった。この建物は植民地時代の終わりをそろそろイギリス人も感じてはじめいた時期の1904年、おきみやげ的な意味で、イギリスがインドを統治したことを刻みつけるためにつくられた。インド総督カーゾン卿の像が建物の前にたっていた。建物にはイギリス王室の紋章があり、建物の前の芝生や噴水や通路は、はっきりとイギリス的な景観をつくりだしていた。建物の中には、1階に総督やイギリス国王の銅像がずらりと並んでおり、2階は特に何もなかった。また、建物の奥にはカルカッタの歴史館があり、カルカッタの発展の歴史から独立に至る過程を紹介してあった。
チョーリンギー地区
ビクトリアメモリアルの隣は、植民地時代イギリスのビジネスマンや白人用高級住宅のあったチョーリンギー地区である。この地区は主に1800年半ばに発展し、バンガロー式住宅が発達した。1889年には都市の拡張が行われ、カルカッタの中心地となった。また、司教の家もあり、チョーリンギーが当時の英国の文化・宗教の中心であったこともわかる。現在は再開発が進み、土地の高騰化から高層化が進んでいた。インドを代表する財閥であるタタTATAの巨大ビルも、ここに建っていた。
カルカッタには2つの世界が存在する。かつて英国人が排他的に住んだ高級住宅街で、いまは経済活動が活発であるチョーリンギーと、インド人労働者が「東洋のマンチェスター」を支え、いまはスラムとなった労働者地区。とても対照的であり、中心街と郊外の隔離の強さを感じた。以前にイギリスがイギリス人居住区と、インド人居住区をわけたなごりが、そうさせているのであろう。
我々は一度ホテルに戻り、そこでチャクラボーティさんと別れた。それぞれ個人は寝台列車に乗るため荷造りなどをする。私はすでに荷造りを終えチェックアウトを済ませていて、時間ができたので、買い食いに出かける。近くのパン屋で甘そうなパンを買う。とてもおいしかった。出発の準備を終え、荷物を抱え車に向かう。ホテルの前に車をつけることができなかったので、駐車場まで重い荷物を運んだ。そして、車でシルダー(sealdah)駅に向かう。交通渋滞がすさまじく、ほとんど車が動かないことがあって、時間どおりに駅につけるか少しあせった。原因は一方通行の道を進行方向と逆に走る路面電車であった。
カルカッタの交通事情もバングラデシュと同じでサバイバルである。つまり、「攻め」の運転なのである。そこでは我々日本人が自動車教習所で学ぶような「ゆずりあい」の精神は存在しない。いかに自分が先に行くかを運転手は考えている。こんなところでは日本人はレンタカーなどを借りて自分で運転しない方がいい。事故を起こしてしまったら弱いのは我々外国人であるのはいうまでもない。
駅に着き、物乞いやポーターがたくさんよってくるのを無視し、スリなどにあわないように、貴重品が入っている場所に神経を集中させながら、一目散に、寝台車をめざした。寝台車の入り口には我々の名前が書かれ、座席が指定されていた。我々の乗った寝台車は、エアコンがきいていて、日本の寝台特急とほぼ同じ2段式であり、騒音がほとんどせず快適だった。われわれの急行「ダージリンメイル」は、19時15分の定刻に、音もなく出発。窓の外は真っ暗で、何も見えない。夜、係員が食事の注文にくる。値段は45ルピー(約105円)で、駅の食堂で食べるのに比べてかなり高いが、頼んでみた。食堂車が連結されていてそこで調理するのではなく、注文を取った後、少し先の駅に連絡し、そこでオーダーの品を調理させて積み込むという、駅弁のようなシステムらしい。途中、列車が遅れたため、夜10時を過ぎてようやく食事を積み込む駅に到着、われわれは食事にありついた。一つの皿にご飯と数種類のカレーがのっている。当然スプーンなどはついていないので、手で食べる事にした。手で食事するのにも大分なれてきた。ただ、エアコンがききすぎて、私は少し風邪をひいてしまった。
いよいよ明日は、最終訪問地ダージリンである。どんなドラマが待っているのかと、列車の揺れとあわせて心を躍らせながら枕に顔を埋めた。