腹立たしいまでに無視されてしまった経済地理学!?
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「学会も大政翼賛会化」−傍聴した記者のリポート
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1999年5月23日 経済地理学会総会ドキュメント
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経済地理学会 Q&A
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青木外志夫経済地理学会元会長からのメッセージ
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第1回国際経済地理学会議: グローバルな研究潮流からの孤立深まる
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International Critical Geography Group 運営委員会の経済地理学会に関する決議
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'National Geography Associations and Political Backlash' by Neil Smith
なお,この論文全文の日本語訳は、雑誌『現代思想』27巻13号(1999年12月)pp.142-159 に「グローバル経済の危機と国際的批判地理学の必要性」として掲載されています。あわせてご覧下さい。
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経済地理学会の非民主的運営・新保守主義化などに関する、総会後のできごと
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1999年5月の経済地理学会大会。会則改定が強行採決されたあと行われた「総括討論」で、報告者の一人は、「……経営学に出ております集積論の本を読んでみますと、なぜここまで経済地理が無視されるのかという腹立たしい感じがします」と、真情を吐露した(『経済地理学年報』45巻4号、1999年、91ページ)。 いやしくも学会の年次大会の総括討論である。それは、この学会が1年間に蓄積してきた研究成果の集約点でなくてはならないはずだ。いったいどこの学会の年次大会で、「物理学が無視されて困る」とか、「経済学が他から相手にされないのは不愉快だ」といった、その学問分野それ自体の否定となりかねない述懐が大真面目に語られるだろうか? そもそも、隣接の学問分野から無視されたりすることのないよう、学会の年次大会をめざして真剣に研究を蓄積するのが、学会員の責務というものではないか。 他の学問分野を見渡せば、物理学も、経済学も、各方面から一人前の学問として十分に認知されるに値する自前の理論をしっかりと蓄積している。経済地理学会というのは、こう考えると、どうやらかなり例外的な学会であるらしい。 このように真情を吐露するほどの正直さは少なくとも持ち合わせているこの経済地理学会員の大会報告(同号、27−41ページに所収)を読んでみると、経済地理学会がこうなる理由が、なるほどとわかる。 この大会報告は「グローバル時代における日本の産業集積」を、近年の研究展望を通じて論じたものだ。報告は冒頭で、「近年の日本において産業集積研究が……高まりを見せている」とする。だが、その英語圏における成果として挙げるのは、アルフレッド・マーシャル、『第二の産業分水嶺』のピオリとセーブル、新古典派経済学のクルーグマン、そして「クラスター」というコンセプトを用いて地域産業の競争力に独自の概念化を行った経営学者マイケル・ポーターである。これらはいずれも、経済地理学を専門とする研究者ではない。また、日本における「研究蓄積」として3名の論者が挙げられているが、1名を除いては、これまた経済地理学を専攻してはいない。要するに、経済地理学会は、他学問からの借り物の理論の寄せ集めで、最近の「産業集積」を説こうとしているのである。 もともと地理学は長い間、他の「系統科学」と異なり、地理学の外にある系統諸科学の理論を適宜借用してきてフィールドでその実証を行うという、例外的な方法をもっていた。「地誌」と呼ばれるこの方法は、地理学が学校で「地理」を担当する教員市場を確保していたころには、たしかに意味がないわけではなかった。高校の地理教育の中身は、いろいろな学問分野の成果を寄せ集めて地域のさまざまの様子を生徒に教えるというのが一般的だった。このような高校までの地理教育にももちろん意義がまったくないわけではなかろうが、これと学問としての地理学とを混同するところに、そもそもボタンの掛け違いがある。しかも、少子化が進み、大学改革が叫ばれ、教員養成課程の大規模なリストラがすすんでいるというのに、経済地理学会では、こうした「借り物競争」の発想がますます強まっていることがわかる。報告のいちばん最後を、地理教育について語って締めくくっていることは、このあたりの状況を象徴しているようだ。 この報告は引き続き、「転換期の産業立地政策」などとして、さまざまの国や自治体の政策や、公的諸機関が行ったアンケート調査を借りてきて紹介する。そして、いくつものフィールドでの個別事例(こちらにはさすがにいく人かの地理学者がかかわっている)が紹介される。だが報告を全体としてみると、そこに、全体を貫く経済地理学理論の独自の赤い糸は見出しがたい。あえて探せば、結論に書いてある「日本の機械工業は……大都市工業地域を中心とする広域の関係圏の内部で集積地間ネットワークを作り出している」という指摘であるが、これではせいぜい常識論のレベルで、とうてい専門研究者が真剣にうちたてた理論とはいえない。 経営学者であれだれであれ、自分の学問分野の成果を借りてその二番煎じを地域でやっているに過ぎないようなヨソの学会の「成果」を一生懸命探索し、そこから何かを学んでやろうと考える人はまずいまい。どの学問の研究者も、それほど暇ではないし、また慈善心に富んでもいない。なによりマイケル・ポーター自身、競争戦略について、「Strategy is the creation of a unique and valuable position, involving a different set of activities」と述べているのである。いったいこの報告が表象している経済地理学を、どのようにuniqueでvaluableだと主張したいのだろうか? 諸学問間のこうした「競争的環境」を前提として考えるなら、経済地理が「腹立たしいまでに無視され」るのは、必然的な因果応報というものではないだろうか。
ではいったい、こうした「例外主義」が頭をもたげている経済地理学会は、どう、今後の自らの活路を見出そうとしているのか。 この学会報告は、1997年にだされた「特定産業集積の活性化に関する臨時措置法」という新政策を持ち出してそれを肯定的に評価し、全体を結んでいる。たしかに、「地域構造」学派の領袖で政府国土審議会委員を務める新しい経済地理学会会長じきじきのお手本どおり、わが国の経済地理学者は最近、政府や自治体の政策にかかわる審議会等に御座敷がかかり、重宝がられるようになってきた。本来の学問の内部で「なぜここまで無視されるのか」と腹を立てた日本の経済地理学者に、待ち焦がれた「渡りに船」が、学問の外で、こうして政府や自治体から差しのべられたのである。だが、独自の理論の堅固な中身を持たず、自らの学問の言葉で発言できない経済地理学者は、この「船」に乗って何をしようというのだろうか……。 地理学者は、「環境の学」を自任しながら、2005年の愛知万博に群がることには長けていたが、いまや国際的な批判を集めるに至ったこの万博計画が海上の森の環境を破壊することについては、なにひとつ批判の声をあげようとしなかった。このことからすれば、この問いに対する答えは、ここにあえて書くまでもあるまい。
視野を世界に広げてみよう。合衆国においても、クルーグマンやポーターの登場は、経済地理学者の間に関心を呼び起こしている。しかし、これに対する反応は、クルーグマンやポーターの「御託宣」を得てそれを「新経済地理学」などと神社のお札のように奉り、すっかり舞い上がって足元が地から離れてしまった日本の経済地理学会の状況とは正反対である。合衆国では、クルーグマンやポーターの登場により、経済地理学が伝統的に扱ってきた研究分野の足場が掘り崩され、自らの学問の相対的位置が沈下してゆくのではないか、という危機感がむしろ惹き起こされてきているのだ。学問の「縄張り」的発想はいただけないが、合衆国の経済地理学が、諸科学の競争的環境の中で、いったん「借り物競争」をしてしまえば独自の学問主体としてヨソの学問分野から無視されてしまうことになるという認識をもっているとしたら、それは立派なことと率直に評価してよいだろう。
そもそも、半世紀近くも前に、『Annals of the Association of American Geographers』に掲載されたシェーファーの論文によって、英語圏では古い地誌学の「例外主義」的な方法論が根本的に清算され、社会・経済地理学は、物理学や経済学などと同様、「借り物」ではない自前の空間編成理論という学問を目指す方向へと、大きく転換していた。危機感におそわれて、合衆国の経済地理学界の一部には、旧来の「例外主義」に再び逃げ込もうとする動きもなくはないようであるが、多くのチャレンジングな研究者は、クルーグマンやポーターという新古典派経済学や経営学から吹いてきた嵐に立ち向かい、文化の商品化など新しい研究アジェンダに取り組んで、経済地理学をより広い対象領域の上に再構築するアプローチ、そして、クルーグマンやポーターでは浅い空間編成と生産様式にかかわる理論をさらに深めるアプローチ、などに積極的に取り組んでいる。そしてその中から、いま、社会・経済地理学独自の空間理論をふまえ、こんにちの新保守主義下でのグローバルな産業展開がもたらすさまざまの状況を、曲学阿世ではなく、社会科学の立場から批判的に究明する、ICGGやEARCAGなど新しい研究集団のうねりが、グローバルに起こりつつある。
もともと、英語圏の社会・経済地理学は、「無視」どころか、隣接社会諸科学の研究者に大きく評価されていた。工業集積論で大きな理論的成果をあげたアメリカの経済地理学者スコットの理論はレギュラシオン理論に取り入れられ、また、社会学者と地理学者の間には、緊密な(もちろん対等・平等の)共同研究の基盤が作り出されている。いま日本にも、クルーグマンらの登場によってかき立てられた経済地理学への高まる関心、そしてこうした社会・経済地理学理論の最前線が、海外から地理学以外の日本の社会諸科学へ、次々と直接に伝わってきている。日本の経済地理学会の頭上は、残念ながら素通りだ。 この経済地理学会報告者は、いったい、こちらのほうの「無視」には「腹立たしく」ならなかったのだろうか??? 「借り物競争」の日本の経済地理学会は、「経営学」からだけでなく、こうした世界的な学問潮流からもますます無視されてゆくばかりというのに……。 1999年5月の総会において、日本の経済地理学会は、1954年以来の批判地理学の制度としての伝統をかなぐり捨て、グローバルに展開する批判的な社会・経済地理学研究の流れのなかで自前の学問の言葉で社会と空間を語るという、本来の学問発展への活路をみずからすすんで断ち切った。 この学会は、今後どのような行く末をたどろうとしているのか。総会と同じ日に行われたこの大会報告と討論は、この点をかなりわれわれに、正直に示してくれたようである。 |
会計監査に北村嘉行氏、寺坂昭信氏
評議員当選者
(定数40名) |
On the question of the JAEG,
It is certainly very disappointing news although by now expected.
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● 本ホームページは、その後の情勢の変化などをもとに、2000年5月29日更新しました。
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