8月30日

色丹/シコタン島、国後/クナシル島

朝霧たちこめる色丹/シコタン島へ寄港
“ムネオ船”の出迎えで、ついに国後/クナシル島上陸
ムネオハウスに、日本への帰国?を実感
荒涼とした古釜布/ユジノクリリスク近郊の景観
日本人墓地と隣り合わせのソ連墓地
「友好の家」にて快適な晩

朝霧たちこめる色丹/シコタン島へ寄港

おととい夕方に大泊/コルサコフを出発してから、船旅ははや3日目を迎えた。もはやすっかりおなじみとなった船室で目が覚めたとき、すでに私たちの乗った船は、国後水道/エカチェリーナ海峡を通って色丹/シコタン島の中心地、斜古丹/マロクリリスクの港に到着していた。午前7時到着の予定であったが、予定よりずいぶん早く到着したようだ。

私たちは、色丹/シコタン島の様子を見るため甲板へ出た。朝霧がかかっていてどんよりした天気で、とても肌寒い。緯度は樺太/サハリン島よりも南に位置しているはずなのに、気温は15度を下回るくらいであろうか。樺太/サハリン島北部のオハといい勝負なくらいの寒さだ。
 船が停泊している斜古丹港/マロクリリスカヤ湾は、天然の防波堤である高く切り立った崖に囲まれており、たいへん波静かであった。昨日の択捉/イトゥルップ島では、私たちの船は港に入らず、沖合に停泊して艀により乗降客と貨物を運搬していたが、この港では、直接港に着岸している。そのため、乗り降りする客の出迎えの車や、町並みなどを間近に観察できておもしろい。

港の周囲はかなり起伏のある丘陵地になっていて、谷筋に沿うように斜古丹/マロクリリスクの街が広がっている。崖の上の内陸側に街があるので、思うようには街の全体を見渡せないが、建物がいくつも建っているのはわかる。ソ連時代に建てられたと思われる、全般的に地味なグレー系の色の2階建ての古いアパートが目立つ。樺太/サハリン島全土でしばしばお目にかかった、5階建て程度の社会主義住宅は見られない。霧がかった曇り空もあいまって、まるでモノクロ写真を見ているような色合いだった。日本が領有権を主張している島であることが嘘のように、異国情緒が漂う景観である。
 アパートのほか、船からはソ連崩壊後に建設されたと思われるロシア正教の教会が見えた。街からはなれた丘の上には、石油備蓄タンクと思われるものが数基ある。

船から下りていく客は、ほとんど大きな荷物を持っている。パソコンのプリンターなど、家電製品が目立つ。稚内から大泊/コルサコフに向かう船では、日本で購入した家電製品を樺太/サハリン島に持ち帰るロシア人乗客を散見したものだが、根室など日本本土とを直結する公共交通機関がないここ色丹/シコタン島の住民には、樺太/サハリン島で家電製品を調達してくる者もいるのだろう。後で上陸した国後/クナシル島に家電製品店が見当たらなかったところからすれば、色丹/シコタン島内にも電化製品を売る店がないにちがいない。大泊/コルサコフへ、週2便の船で片道1日以上もかけて移動しないと家電製品が手に入らないというのは、そこら中に家電量販店がある東京に住む人間にとっては、なんとも気が遠くなる話だ。
 家電製品を持つ乗客のほか、野菜や果物の入ったダンボールをいくつも抱えて降りた客もいた。野菜や果物は、稚内から大泊/コルサコフに向かう船では見かけなかった荷物である。食料品店でも経営しているのだろうか。船の甲板から見てのとおり、色丹/シコタン島は山がちな地形であるうえに、夏も霧が出やすく、気温が上がらず日照時間が短い。そのため農作物を栽培できず、樺太/サハリン島からの船運に頼らざるを得ないのだろう。また、甲板にいくつも積まれているコンテナの中には、食料などの生活物資や郵便物もあるという。私たちが乗っている船便の重要性が感じられる。
 これらの荷物を抱えた乗客が降り立った桟橋には、出迎えと思われる車が何台もいた。その近辺には軍服を着た人が数人監視についていた。

湾内には、国境警備隊の船が数隻停泊していた。レーダーを搭載している大型の船、灰色に塗装されていて数人しか乗船してなさそうなほど小さい船など、いろいろな種類の船がいた。
 私たちが巡検に出発する直前、貝殻/シグナルヌイ島付近で日本の漁船がロシアの主張する領海に侵入したとしてロシアの国境警備隊に拿捕され、その際国境警備隊による銃撃で1名の死者を出す事件が起きた。漁船拿捕にかかわったロシア船は、小さくてすばしっこい船だったのだろう。なお、湾内には、使われておらずさび付いた船などのくず鉄が放置されていて、その中には、今までに拿捕されてきた日本の漁船が含まれているようである。これまでに拿捕された漁船の数は、じつは少なくない。
 陸地を見回してみると、軍用とおぼしきトラックや、戦勝記念に飾ってあると思われる迷彩色の戦車が見えた。また、明るい色で塗装された2階建ての建物と、工場のような建物は、いまやロシアの極東地域有数の大手水産加工会社となった、ギデロストロイ社の施設である。ギデロストロイ社が、択捉/イトゥルップ島を拠点としつつ、北方諸島全体に経営の手を広げつつあることがわかる。

私たちは、ひととおり景色を眺めてから、食堂に行き朝食をとった。献立は甘ったるいお粥のような食べ物とパン、サラミである。朝食後は、同乗していたロシア人の子供数人と親しくなっていたゼミ生もいた。挿絵が入っている単語帳を片手に、家族構成などの簡単な会話をロシア語で楽しんだ。子供たちの話によると、子供たちは、ロシア大陸旅行からの帰りであるという。2日後、9月1日が学校の始業式だ。

客の乗り降りと積荷のコンテナの積み下ろしが完了すると、10時55分、大泊/コルサコフ発のときと同じ、国威を発揚するかのような勇ましい軍歌が船内に流れてまもなく出帆した。予定より1時間程度早い。
 斜古丹港/マロクリリスカヤの湾の入口に、灯台が見える。この灯台は、戦前製の地図にも表記されている、日本統治時代からある灯台である。
 港を出てしばらくは色丹/シコタン島の海岸を横に見ながら、ユジノクリリスク海峡を国後/クナシル島のある西方向へと航行する。海岸線は険しい崖になっていて、美しい。


“ムネオ船”の出迎えで、ついに国後/クナシル島上陸

ユジノクリリスク海峡を横断している私たちの船から、晴れていれば、国後/クナシル島の雄姿が眺められるはずであるが、海面には霧がかかっており、視界がたいへん悪い。
 お昼にまた食堂に行き、昼食をとった。メニューはボルシチにパン、お粥と鶏肉である。安い割には腹もふくれるし、それほどまずくないので、よろしい。

船は、午後2時半すぎ、いよいよ国後/クナシル島の沖合に到着した。私たちは荷物をまとめ、下船の準備をして乗降口で待機した。
 国後/クナシル島では、択捉/イトゥルップ島と同様に、直接私たちの船を港に接岸することはできない。そのため沖合で私たちの船は停泊して待機し、艀を私たちの船に横付けして、乗客と荷物を艀にのせかえて、艀で上陸しなくてはならない。私たちの船の周りにも、艀を用いて荷物の積み下ろしを行っていると思われる大型船が数隻停泊中であった。

午後2時50分ごろ、国後/クナシル島から乗る70人程度の客を甲板に乗せた艀が私たちの船に接近してきた。艀は私たちの船に横付けされ、私たちの船から艀にはしご状の階段がかけられて、艀から客が乗船してきた。旅行バッグを持っている客が多い。
 私たちの船は国後/クナシル島を出ると大泊/コルサコフに向かい、その後国後/クナシル島→色丹/シコタン島→択捉/イトゥルップ島→大泊/コルサコフという経路で運行するので、70人の乗客は全員大泊/コルサコフ行きとみて間違いないだろう。

私たちは、艀にいる乗客の中に、サハリン州郷土博物館のサマーリン部長(右写真)をみつけた。サマーリン部長は、樺太/サハリンや千島/クリルの日本時代の遺構を専門に調査・研究なさっている方である。もともと、私たちは、サマーリン部長とともに国後/クナシル島を訪れる予定であった。だが、その前に、柏原/セベロクリリスク方面へ調査に赴いておられたサマーリン部長は、、現地の交通事情がわるいため、豊原/ユジノサハリンスクに予定通り戻れなかった。そこで、柏原/セベロクリリスクから貨物船をつかまえて古釜布/ユジノクリリスクに到着、ここから樺太/サハリンへ戻るため、私たちの船に乗りこんできたのである。
 サマーリン部長は、大きなリュックを背負い、他の乗客よりもひときわ目立った。この地域は宿泊施設が十分にないため、野宿のための装備など、たくさんの荷物が必要なのだろう。私たちは、サマーリン部長に英語で簡単に自己紹介をした。
 サマーリン部長は、国後/クナシル島の日本統治時代の中心都市である泊/ガラブニノを訪れるとよいとアドバイスを下さった。私たちは、それに従って、ここを訪れることにした。

乗船が済んで、午後3時半すぎ、下船客が階段を伝って艀へ乗り換えはじめた。パスポートと乗船券、そして通行許可証のチェックをすませた私たちも、重い荷物を持ち、階段に踏み出した。階段といっても、手すりを付けたはしごと言った方が適切なしろもので、足場が悪く、踏み外したら危険である。しかも波で階段がよく揺れる。高齢者の乗客にとってはさぞ大変だろう。ここでも、乗客のなかに樺太/サハリン島で購入してきたのであろうテレビなど大型の家電製品を抱えている人もおり、これまた降りるのが大変そうだ。
 今日は比較的海も穏やかなものの、もし少しでも海が荒れたら艀に乗り換えられなくなってしまうのではないだろうか。揺れるはしごから足をすべらせて落ちてしまうかもしれない。北方諸島と樺太/サハリン島を結ぶ数少ない交通手段が、こんなに確実性がなさそうなものであることに驚いた。
 艀では、これからお世話になるクリル日本センターのスマルチコフセンター長(右写真)が“Student”と書かれたカードを掲げて待っていてくださった。

艀への乗り換えが完了すると、午後4時ごろ、私たちとロシア人客でいっぱいになった艀は、いままで乗ってきた船からはなれ、国後/クナシル島の古釜布(ふるかまっぷ)/ユジノクリリスク港へ向けて出発した。
 艀の船名は「希望丸」、1997年根室造船株式会社製である。煙突には、大きな赤い日の丸と、日本国民の友好のしるしというロシア語が書かれている。かの有名な鈴木宗男氏の尽力により日本から寄付されたものだ。北海道の中小造船会社が製造を担当しているのは、鈴木宗男氏が自らの出身地である北海道、とくに道東の経済を振興させようとしていたためであろう。
 程なくして、艀船は古釜布/ユジノクリリスクの港に到着した。港のあちこちにすっかりさび付いたくず鉄が放置されている。見栄えもよくないし、環境に悪くないのだろうかと心配になる。
 海岸段丘の上に街の中心があるようで、2階建てアパートが目立つ。
 拿捕された日本漁船とみられる船が古いものから比較的新しいものまで何隻も放置されている。
 その中に、私たちは、巡検出発直前に起きた漁船拿捕・銃撃事件によってロシア国境警備隊に連行された「第三十一吉進丸」を発見した。数人しか乗れないような、ごく小さな白い船である。そのすぐ隣には、色丹/シコタン島でも見た、灰色の船が停泊していた。
 日本のマスコミの取材班ですら国後/クナシル島に来て取材をすることが出来ないというのに、私たちは国後/クナシル島に来て、事件の漁船や国境警備隊を生で見ることができてしまう。すごい所に来れてしまったな、と改めて感じた。

古釜布/ユジノクリリスクは、戦前は泊村に属する小さな漁村で、集落は海沿いの平地にあるのみだった。
 だが、戦後、ソ連の実効支配下におかれてから、国後/クナシル島の中心という位置づけを与えられ、まだ未開発であったほぼ無人の高台に、新しい都市「ユジノクリリスク」が開発された。
 中心部には、レーニン像と広場が作られ、それに面して行政府の建物が建てられた。現在は、そのすぐ近くに、ロシア正教会もできている。なお、広場にあった行政府は、その後、地震のため使えなくなり、ムネオハウスのすぐ裏手に、明るく塗装された新しい行政府の建物がつくられている。
 艀から、制服を着た人が数人監視している桟橋に上陸すると、私たちは迎えにきてくれていたワゴン車にすぐさま分乗した。高台の下にある海沿いの道をほんの数分走ると、私たちが国後/クナシル島で宿泊する「日本人とロシア人の友好の家」、通称ムネオハウスに到着した。


ムネオハウスに、日本への帰国?を実感

「日本人とロシア人の友好の家」は、鈴木宗男氏が外務省に対して権勢を振るっていた絶頂期、1999年秋の完成である。プレハブ2階建て、レーニン像が建つ広場から約200m、グネチコ通りに面して建っている。
 2002年に、日本共産党の国会議員が「ムネオハウス」という通称をもちいて国会で追及をはじめたことから、この施設が日本中で一躍有名になった。巡検直前に起きた漁船銃撃・拿捕事件では、漁船の乗組員が「友好の家」に一時拘束され、そのさい日本のテレビのニュースで、「友好の家」内の様子を撮影した資料映像や、「友好の家」内の間取りが紹介された。
 簡単に撤去できない恒久な建物を日本の援助で建設することに関して日本政府が難色を示したため、あえて建設や撤去が比較的簡単にできるプレハブ製にしてあるという。入り口には、この建物が日本政府の協力によってつくられたことをうたうプレートが目に付いた。日本の国旗が描かれており、その下に「この施設は日本国民の友情の印として、日本政府の協力により建設されました」と、日本語とロシア語で表記されていた。
 「国後島 緊急避難所兼宿泊施設建設工事」と題されたプレートには、日本の工事請負企業の名前が記されていた。「友好の家」は、名目上は、現地ロシア人が緊急避難に用いる施設でもあるということのようだ。だが、実際のところ、「友好の家」にロシア人が避難してきたという話は聞いたことがない。この施設を利用する人のほとんどは、ビザなし交流で来る日本人か、ビザなし交流で日本へ行くために集合するロシア人である。
 まだ築7年ということもあり、プレハブといえども周囲の建物と比べればきれいで立派に見える。サイズも大きく、5m×4mくらいで4人ほど入る部屋や、2人用の部屋があわせて10室以上もあるほか食堂などの設備がある。プレハブといっても、日本の工事現場で作業員が使うようなものとはまるでスケールが違う。クリーム色の壁にえんじ色の平らな屋根という華やかな配色が、周りのくすんだ社会主義時代の建物のなかに、ひときわ引き立っている。工費は4億円あまりだそうだが、その程度の価値はたしかにあるだろう。
 鈴木宗男氏が失脚するまでは、日本政府から「友好の家」に維持費が出されていたが、失脚後、日本からの援助は一切断たれた。現在、施設の管理はロシア側が行っており、従業員もロシア人である。維持資金を稼ぐため、一般のホテルのように使われているので、豊原/ユジノサハリンスクの旅行社を通じてロシアのビザありで渡航してきた私たちのような客も、宿泊できる。

全面的に日本の資材を使って建設された建物であるだけに、何となく日本っぽさが感じられた。「日本人とロシア人の友好の家」と、ロシア語と日本語で併記された看板のついた入り口から玄関に入って感動したのは、玄関がまさしく日本式であったことだ。つまり、日本旅館のように玄関で靴を脱ぎ、下駄箱に靴を置き、スリッパに履き替えて、一段高くなったフロアに上がるのである。
 内部も、日本の宿泊施設そのものであった。電力費節約のためか蛍光灯がつけられてなかったが、日本にあるものとまったく同じ「非常口」の看板がぶら下がっている廊下を通り、私たちは荷物を置きに各自部屋に向かった。
 部屋の中もやはり心やすらぐ日本的な雰囲気だ。薄い紫色のじゅうたんに白い壁、明るい蛍光灯で清潔感があってよい。ベッドもきれいにメイキングされている。よくロシア人の従業員により手入れがされているらしく、まだ新築同様のような雰囲気が残っていて、とても快適だ。
 トイレと、洗面所兼シャワールームも、やはり日本そのものだ。消耗品であるトイレットペーパーすら、日本製と思われる質感である。日本政府は「友好の家」への援助を一切打ち切ったとのことだが、在庫がまだ残っていたのだろうか。それともビザなし訪問団によって調達されているのだろうか。さすがに湯船から温泉あふれる大浴場はなかったが、日本製のシャワー個室が男5室、女3室もあるだけで大満足だ。なにしろ、ホテルモネロンやフェリーの中には、お湯の温度調節も荒くて古く汚いシャワーが少数あるだけだったのだ。私たちはこの日の夜にシャワーを利用した。ぴかぴかの日本製シャワーの使い心地は、やはり素晴らしい。
 食堂にある換気扇は三菱製、テレビはソニー製、ティッシュは大王製紙製のエリエール、そして日本の赤い消火器まである。食卓には、イカリソースも置いてあった。これは関西在住のビザなし訪問者が持ち込んだのだろう。
 コンセントの形状は日本の規格のものになっていて、電圧も日本と同じ100Vである。日本の家電製品をそのまま使うことができる。建物のどこかに変圧器があるのだろう。なお、サハリン州でよくみられる規格のコンセントも併設されている。一般にサハリン州は、コンセントの形状が日本と違う欧州規格であるうえ、電圧は220Vなので、日本の電化製品を使うには、プラグの形状を変換する器具と、変圧器が必要である。
 これまで全く日本と異なった環境に1週間いた私たちは、日本に帰国したような感じがわいて、本当にほっとさせられた。

室内には、ベッドのほか木製のクローゼットと、北海道や樺太/サハリン島のような寒地でもよくみられる温水式の暖房がある程度で、すっきりしている。1階の窓はすべて、日本の建物にもついているような柵が取り付けられ、窓から侵入・脱出できないようになっている。
 施設内には、ビザなし訪問団が訪れたことを示すものがたくさんある。
 廊下には、日本のビザなし訪問団が国後/クナシル島民と交流している写真が多数飾られていた。また、食堂には、日本のビザなし訪問団がお土産に持ってきたと思われる、大量の日本人形や扇子が所狭しと飾られ、小上がりの畳敷きとなっている食堂の一角は、日本のお土産コーナーと化していた。
 いかにも日本人が持ってきましたといわんばかりの、似たり寄ったりの日本土産だ。何年もビザなし交流を行っていて、似たような、しかもロシア人にとってなじみのない代物をいくつも貰ってロシア人はうんざりしないだろうか、とふと思ってしまう。これらの土産は、私たちがここを訪れる直前に訪れていたビザなし訪問団が置いていったものだろうか。これらの土産物の貰い手がないので長々と放置されている、わけでなければよいのだが。


荒涼とした古釜布/ユジノクリリスク近郊の景観

「友好の家」に重い荷物を置いたところで、近辺を車で視察することになった。
 まずは食堂に集まり、現地を案内してくださる「クリル日本センター」のスタッフの方と顔合わせした。クリル日本センターは、ビザなし交流で日本へ行くロシア人を募集したり、民泊の手配をしたり、ビザなし交流日程・プログラムを作成したりして、日露交流がうまくいくようサポートしている組織である。
 ビザなし交流は1991年にゴルバチョフソ連大統領の提唱によって開始されたものである。現地の人との相互理解を通して日露の関係改善をめざすとされるが、日本政府の思惑は、いうまでもなく、この交流を領土返還につなげてゆくところにある。
 クリル日本センターには、かつて運営資金が日本からでていた。だが、鈴木宗男氏が失脚すると、「友好の家」と同様に運営資金は断たれてしまった。このため、センターの運営も、日本の外務省から自立し、ロシア独自の判断ですすめられるようになった。最近では、ロシア国内の旅行社とも提携し、国後/クナシル島における現地旅行エージェントのように機能しているらしい。
 私たちに、インツーリストサハリン社を通じてクリル日本センターが提案した国後/クナシル島内のスケジュールは、ビザなし訪問団の行程に準じたもののようである。日本が援助を断ち切ったおかげで、ロシアのビザで国後/クナシル島を訪問した私たちも、ビザなし交流団と同じような経験が現地でできることになった。なかなか興味深い皮肉ではある。

古釜布/ユジノクリリスクの郊外は、平地が比較的多い。海沿いを走る車の車窓からは荒涼とした草原が見え、所々にくず鉄が放置されていた。10分程度車を走らせると、蝋燭岩(ろうそくいわ)という岩に到着した。砂浜の海岸にぽつりと聳え立っている不思議な岩である。名前のとおり、蝋燭のような形をしている。地形図によると、高さ31mという、とても高い岩だ。周囲には海鳥がたくさんいた。
 今日が8月30日であることを疑いたくなってしまうような荒涼として寒々しい海岸沿いを暫く散歩した。海岸には、日本製カップヌードルの容器の破片や日本製ビールの空き缶など、懐かしい漂流物がたまに見受けられる。私たちは国後/クナシル島まで、稚内→樺太/サハリン島→国後/クナシル島と、途方もない手間と時間をかけて来た。とはいえ、国後/クナシル島は北海道の野付半島まで、最も近いところで20km足らずである。ロシアの実効支配地である国後/クナシル島と北海道本土の間に、日本人が通過することが大変困難な国境があるわけだが、漂流物はいとも簡単に国境を越えてやってくる。国後/クナシル島が日本本土から「近くて遠い地」であることを実感させられた。
 海藻がたくさん打ちあげられている海岸を暫く進むと、朽ち果てかけた古い小屋と、網が載った小さなボートを見つけた。このあたりは、日本統治時代には漁村があったところだ。クリル日本センターの方は、アキアジ(サケのこと)の漁の準備をしている、と説明してくださった。
 私たちは、小屋の裏手の、小さな峠のようなところまで登って北部を遠望した。この峠は、昔は国後/クナシル島の北部、乳呑路/チャチノ方面へ向かう唯一の道路として機能していたが、今は使われていない。ソ連統治下で、陸側に新しく道路ができ、集落の集約化が進んで、中心都市古釜布/ユジノクリリスクは市街が拡大されたが、小さな町は廃村になってしまった。この小さな峠より北には、いまでは集落がひとつもないのだ。留夜別村の一帯は自然保護区となり、一般人の立ち入りができなくなっている。
 歩いて戻る途中、新しい道路を、戦車のような無限軌道を履いた自動車が通り過ぎた。道路の向こう側には、低い建物があった。ホタテやナマコの加工工場らしい。


日本人墓地と隣り合わせのソ連墓地

私たちはその後、再び車に戻り日本人墓地へ向かった。日本人墓地は私たちが向かうところを含めて2箇所あり、いずれも日本のビザなし訪問団が訪れるスポットとなっている。私たちが訪れる直前、8月25日にも、ビザなし訪問団が訪れているらしい。
 日本ではたいがい墓地は町外れにあるものだが、その例に漏れず、この日本人墓地も古釜布/ユジノクリリスクの町外れにある。
 墓地に着くと、戦前に日本の墓地が作られた所に隣接して、戦後に旧ソ連人墓地が作られていた。これは、豊原/ユジノサハリンスクで戦前の樺太神社に隣接して戦後に戦勝記念碑が作られたという事例に似ていておもしろい。支配者が変わっても、場所に与えられた機能は、容易に変わらないのである。
 墓地には、漢字で「古釜布墓地」と書かれた碑が建っている。その周囲には小さめな墓碑がいくつもあったが、笹などの草が生い茂っていて状態はよくない。慰霊碑や墓碑のなかには、古くなって刻印された文字を判読しにくいものもあれば、ごく最近建てられたと思われるものもある。ビザなし訪問で来た人が、慰霊碑を建てて帰るのだそうだ。
 気候がよくなった4月のイースターのころ、クリル日本センターの人がたまに来て掃除をしてくださっているそうだが、これに日本政府からの援助はでていないという。日本人墓地のとなりにあるソ連人の墓地も、草が生い茂っている。転出してしまうと、墓地を管理する人がいなくなるのだそうだ。ソ連人の墓碑は、てっぺんに共産主義のシンボルの赤い星印がついている。ソ連崩壊後に立てられたと思しきロシア人の墓碑にはロシア正教の十字架がてっぺんについている。その近くには、ロシア正教の礼拝所があった。

墓地の視察を終え、私たちは、島の手付かずの自然の一端を知るため、砂利道を車で移動して羅臼/メンデレーフ山の麓を流れる精進/レスナヤ川に行った。足のすねぐらいまで水がある川を100mぐらい歩いて遡上すると、小さな滝があった。川の水は大変冷たい。また、水には火山性の含有物が多いようで、川の石はやや茶色っぽく変色していた。
 滝自体はまったく大したものではなかったが、国後/クナシル島には手付かずの自然がよく残っていることを実感できた。


「友好の家」にて快適な晩

川の近くには、船の中で会ったニコライさんが配属されているロシア軍の施設がある。そのせいか、軍関係らしい車と何度もすれ違った。
 午後7時、夕飯をとりに、あらかじめ予約を入れていた近くの20席程度のレストラン「ロシンカ」に向かった。これまで巡検中に何度か入ったような、雰囲気重視で値段のかさむバーとは違って、手ごろなレストランである。メニューは、ジュースにパン、コーヒーまたは紅茶、ポテトサラダ、ハンバーグ、じゃがいもと、デザートにクレープの生地にメープルシロップのようなシロップがかかったものである。味も私たちの口にあいとてもおいしい。
いままで船内で質素な食事を3日間も続け、それ以前の巡検でも売店で買ったもので簡素に食事を済ませることが多かった私たちにとって、これは大変なごちそうで、一同大満足であった。
 国後/クナシル島滞在中は、クリル日本センターの取り計らいで、旅費に食事代が含まれており、毎食のメニューが決まっているので、料理を注文する手間がかからず気楽だ。
 食後、飲み物などを買うために、ゼミ生の多くは「友好の家」のすぐ裏手にある商店へ行った。店は、わりと新しそうな建物だった。基本的に旧ソ連時代に造られた古そうな建物が多い街だが、ところどころに新しそうな建物も見受けられる。辺境の地といえども、経済活動がまったく疲弊しているというわけではなさそうだと感じた。もっとも、近年起きた地震のため建物を建て直さざるを得なかったのかもしれない。
 店内の品揃えは、今まで樺太/サハリンでもしばしば見てきたこの手の売店(マガジン)と同じだ。日本製の商品はまったくならんでいない。それでも、ここの店員さんは気さくな方で、「こんにちは」程度のごく初歩的な日本語の単語を話しかけてくれる。ビザなし交流団とのかかわりがあるのか、樺太/サハリン島にあった売店の店員よりも明らかに日本に対して親近感を持っていることが感じ取れた。「友好の家」の真裏にあるという立地上、ビザなし訪問団が定期的にこの店を訪れるのだろう。もしかすると、ビザなし訪問団の日本人を手堅い顧客とみなしているのかもしれない。ここは、樺太/サハリンよりも辺境の地であるだけに、物価は樺太/サハリンよりも少しだけ高いようだ。
 雑用がひとしきり済むと、私たちは快適な「友好の家」で、明日以降の、島での詰まった活動スケジュールに備え、ゆっくりと休むことにした。

(栗野 令人)

前日へ | 2006巡検トップに戻る | 翌日へ

All Copyrights reserved @ Mizusemi2006