8月29日
択捉/イトゥルップ島
 

水平線に広がる、択捉/イトゥルップ島の雄姿
船内食堂に、ソ連勤労者食堂のおもかげを見る
美しい散布/ボグダン・フメルニツキー山に見とれる
食べ応えある昼食、そして島に向かうロシア人の子供たちと交流
活発な経済活動と美しい自然
洗濯料金、日本円で千円なり

水平線に広がる、択捉/イトゥルップ島の雄姿

私の泊まった船室は4人部屋で、私の他にゼミ生が3人いた。船室は3階に位置し、換気をするための設備が不十分なのか、暑く寝苦しかった。
 早朝、だれかの、「択捉/イトゥルップ島が見えているぞ!」と叫ぶ声で目が覚めた。私たちは、急いで甲板へとむかった。

 

甲板に出ると、晴れ渡ったオホーツク海の水平線上に、左から右まで択捉島の島影がうすく長く広がっていた。択捉/イトゥルップ島は、横に長い形をしている。これが、私たちの船の進行方向、水平線いっぱいに見えるのだ。
 私たちは、島の全容を見るため、船の先頭へと移動した。ちょうど進行方向が日の昇る方向で、朝日が海を照らしていた。
 まず、進行方向右手奥には、プリンを少し傾けたような形の阿登佐岳/アトサヌプリ(1205m)。そのすぐ左には、択捉/イトゥルップ島最高峰の西単冠/ストカップ山(1634m)に始まる連山が広がり、この連山の向こう側に単冠/カサトカ湾がある。旧日本軍はこの湾に集結し、そこからハワイの真珠湾/パールハーバーへと侵略戦争の一歩を踏み出したのだ。そのとき、誰が、5年後に日本がこの島の実効支配を失っていると予想しただろうか。
 進行方向左手に目をやると、散布/ボグダン・フメルニツキー山がそびえている。
 右の奥には、国後/クナシル島の爺爺/チャチャ岳と、ルルイ岳の山頂も、うっすらと水平線上に顔をのぞかせていた。


船内食堂に、ソ連勤労者食堂のおもかげを見る

島を見たあと、私たちは船内の朝食の食券を買うことにした。朝食の食券の販売は、午前8時から8時半までだ。この時間を逃すと、基本的に朝食にはありつけない。
 食券を販売しているのは4階なので、私たちはそこへ向かった。ロシア語を満足に話せない私たちが食券を買えるかどうか不安だった。しかしその女性は手慣れていて、簡単なロシア語と食券販売の時間が書いてある部分を指差すことで 、食券を手に入れることができた。

 食事の時間になったので、四階の食堂へと向かった。そのすぐ外には、この船の名前のもととなった、イゴール・ファルフトディノフ前サハリン州知事の功績を称える写真や文書が貼ってあった。前知事は、サハリンの大陸棚の開発、ロシア正教会の建設、日本との経済的な交流などの功績があった。成様は、この前州知事と知り合いだったらしく、彼がユジノサハリンスク市長だった時、その来日に際して通訳として函館へ同行したという。改めて、成様の人脈の豊富さに驚かされた。

 テーブルに着くとウェイトレスが食券を回収しにきた。しばらくすると食事の提供が始まった。今朝のメニューは、マンカという穀物で作ったお粥とそれに入れるバター、パン、ゆで卵、紅茶にジャムを溶かしたロシアンティーと、それに成さんからいただいたチーズ。シンプルなものであったが朝食には十分であった。私にとってはかなりおいしいものだったが、マンカとロシアンティーはゼミ生により評価が分かれた。

 それにしても驚くのは、この朝食の料金が40ルーブルと大変安価なことだ。たしかに、豊原/ユジノサハリンスクのサハリンサッポロホテルで食べた高級料理に質では及ばないかもしれないが、その10分の1ほどの料金としては、十分においしい。

成様の話によると、ソ連時代には、いわゆる「レストラン」と「勤労者食堂」という二種類の食事場所が存在していたという。勤労者食堂というのは、政府の助成金によって運営され、安価でそこそこの食事を労働者に提供することが目的だった。その低料金から慢性的な赤字だったが、それは政府が補填した。特定の企業の専有施設というわけではなく、たとえば旅先で食事をするときなど、誰でも訪れて利用することができた。それに対してレストランというのはその5〜6倍の料金で、パーティーや特別な催しのときなどだけに利用された。ソ連の社会主義は、こうして勤労者の基本的な消費需要を、それなりにきちんと満たすよう取り計らっていたのである。だが、ソ連崩壊後、市場経済化のもとで政府からの助成金が途絶えた勤労者食堂は、すべて潰れてしまった。
 しかし、この船内食堂は、ソ連時代の勤労者食堂の性格を受け継いでいるようだ。というのも、この船の乗客のほとんどは、国後/クナシル島や択捉/イトゥルップ島の島民である。これらの島での生活は、樺太/サハリン本島に比べれば厳しい。この船の食堂の低料金は、それに対する一種の補助であるといえよう。「共産党や政府に不満さえ言わなければ、そこそこの生活を誰もが享受できる」という社会主義の評価できる側面をこうした形で体験することができたのは、私たちにとって大変貴重であった。独占状態であるがゆえに、船内食堂の料金が高い日本のフェリーとは大きく違う。

食事を終えた私たちが食堂をあとにしようとしたとき、ふと気になったのは、壁に日本の「称名滝」の観光ポスターが貼ってあったことである。称名滝(しょうみょうだき)とは、富山県の立山町にある、落差が日本一の350mある名所である。1〜2月は、オホーツク海に流氷が入り込むので、千島/クリル航路は、2ヶ月に1便だけで、あとは運休となる。その間、この船は、ウラジオストック・富山(伏木)間の航路に使われることがあるのかもしれない。

食堂を離れた私たちは、シーツ代90ルーブルを支払って、パスポートを返してもらうことにした。その窓口は、朝食券を買った部屋だ。意思が通じるか不安だったが、「パスポルトゥ」と言ったら日本人のパスポートをあるだけさっと用意してくれた。またもや、この女性の手際の良さに助けられた。少々無愛想なところはあったが、私たちが快適な船内生活を送れたのは、この女性とのコミュニケーションが言葉要らずだったことが大きいだろう。手際よい扱いから察するに、この船には、ロシア語を話せない外国人も、それなりに乗ってきているのだと思う。


美しい散布/ボグダン・フメルニツキー山に見とれる

食事が終わって再び甲板に上がると、択捉/イトゥルップ島が、さらに近くなっていた。
 そこには、足を怪我したコーカサス地方出身のロシア軍兵士がいた。その兵士は大学生で、休学して徴兵され国後/クナシル島に配置されたが、怪我をしたため兵役を続けることができなくなり、、国後/クナシル島から荷物を取って、地元のコーカサスに帰るのだという。簡単な英語を話すことができ、また大変社交的な性格だったが、私たちは、根室/クナシルスキー海峡のすぐ向こう側、国後/クナシル島にロシア軍がしっかり駐屯し、祖国の領土防衛の任についている事実を直接知ることができた。

写真では左方向が、北
 船が進むにつれ、左側に、散布(ちりっぷ)/ボグダン・フメルニツキー山が、ますます大きく見えてきた。標高は1585 m。戦前は、択捉/イトゥルップ島の最高峰とされていたが、ソ連が実効支配をはじめて測量しなおしたところ、西単冠/ストカップ山のほうが49mも高いことがわかり、最高峰の地位を追われた。もっとも、日本の中・高等学校の地図帳では、いまだに最高峰である。というのは、西単冠/ストカップ山の標高が、いまでも戦前の日本の測量のまま、1566mと記されているからだ。
 散布/ボグダン・フメルニツキー山は、一見すると2つの山であるように見える。最高峰の北にあるもうひとつのピーク(1561m)には、北散布/チリップ山という別の名前がついている。だが、実際はもともと1つの火山で、その上部が噴火によって爆裂して欠けて2つになったのだ。爆裂した部分はすさまじい崖になって、赤い地肌をさらしている。
 こうした複雑な形状であるため、山は、船が進むにつれて姿を大きく変えていった。赤い崖の部分は、さらに択捉島に近づくとかくれてしまい、均整のある円錐形の南側のピークだけが見えるようになった。
 たいへん美しい山である。だが、戦前は登山道が無かったし、今も無い。もし戦後も日本の支配が続いていたら、紗那/クリリスクを拠点とする登山道がきっと作られていただろう。


食べ応えある昼食、そして島に向かうロシア人の子供たちと交流

択捉/イトゥルップ島をもっと見ていたかったが、昼食の時間になったので、私たちは再び食堂へと向かった。
 ロシアでは昼食を一日のメインの食事と考える風習があるようで、このフェリーの食堂も例外ではない。夕食が50ルーブルに対し、昼食は70ルーブルである。もっとも豪華であることが推測できたので、私は大変楽しみにしていた。
 さて、実際のメニューは、ジャガイモ、人参、豆、肉の入ったスープと、穀物のリゾットとミートボール、パン、ロシアンティーだった。肉が中心のメニューで食べごたえがあり、私は大満足だった。

女子のゼミ生は、国後/クナシル島と色丹/シコタン島に住むロシア人の女の子たちと仲良くなることができた。きっかけは、フロントでお湯をもらおうとした女子が、従業員とうまくコミュニケーションがとれずに困っていたところ、ロシア人の10歳前後の女の子のうちの一人が、日本語で話しかけてきて、助けてくれたことである。その女の子たちは「ビザなし交流」で日本に来たことがあり、日本にもともと関心があったようだ。そこで、女子のゼミ生たちは、このロシア人の女の子たちを自分たちの部屋に招き、つたないロシア語を交えてコミュニケーションをとって、楽しいひと時をすごした。「北方領土」には実際そこに住んでいるロシア人がいるということを、コミュニケーションを通して強く実感した。


活発な経済活動と美しい自然

午後2時ごろ、日本時代からの、択捉/イトゥルップ島の主要都市、紗那/クリリスク沖合のナヨカ/キトブィ湾に船は碇をおろした。予定より二時間も早い。当初は、船長の許可を得られればもしかして短時間でも択捉島に上陸できるのでは…と期待したが、それは無理だったので、甲板上から島を観察することになった。
 海岸沿いは海岸段丘が広がっている。紗那/クリリスクの集落は、私たちが停泊しているナヨカ/キトブィ湾からは見えず、さらに奥に存在している。日本時代には、湾に沿って漁業集落があった。現在は、漁業関連施設とおぼしき、見るからに新しい建物が点在している。
 湾には、大型の漁船や漁船に必要な石油を積んだタンカーが何隻も停泊していた。漁業を中心としたこの島の経済活動は、かなり盛んなことがうかがえる。「合茂」と中国語で船名が書かれた漁船もおり、このナヨカ/キトブィ湾を漁業基地として使っているのかもしれない。こうした経済活動が、根室のすぐそばで、日本人の知らないあいだに行われていることには、改めて驚かされる。

こんにちの択捉/イトゥルップ島の地域経済を語る上で外せないのが、「ギデロストロイ」という漁業会社である。成様の話によると、この会社は、元軍人のユダヤ系ロシア人であるベルホフスキーという人物によって、ソ連崩壊後作られた。もともとは、公共土木事業に参入する予定で創立した会社だったのだが、あまり需要がないので、水産加工などの漁業関連事業へとビジネスを展開、そちらで大きく成功した。現在は、それで得た豊富な資金を利用して択捉銀行という名の銀行まで作っている。
 現在は、山の向こう側にある別飛/レイドボという集落に大きな工場がある。岸からまっすぐ上っている未舗装道路は、この工場へと続く道であろう。現在、択捉島の住民の多数がギデロストロイの関係者であり、税金の大部分がギデロストロイから徴収されているらしい。ギデロストロイは極東ロシアにおいてかなり規模の大きな企業であり、択捉島はほぼ完全に「ベルホフスキーの島」となった。

日本時代には、紗那/クリリスク以外にも多くの集落が存在したが、ソ連時代に多くの集落が再編統合され、集落の数は少なくなった。このため、島には、戦前にも増して手つかずの自然が広がり、現在は保護地区になっているようだ。

なお、紗那/クリリスクには空港がない。サハリン州政府による「クリル開発計画」で、ここにようやく民間の空港が作られることになっている。
 現在は、択捉島の南部の天寧/ブレベストニクという集落に、戦前の日本軍の飛行場を改装した軍用飛行場があるので、豊原/ユジノサハリンスクからの航空便は、現在ここに発着している。成様が以前、択捉島に取材に来たものの飛行機が欠航続きで帰れなくなったとき、共産党員としてのコネクションを利用して、軍の飛行機を使わせてもらうことがあったらしい。共産党が支配する社会では、組織間の関係は硬直化していたが、個人的なコネクションはかなりの力を発揮したようだ。

船と陸との貨物の受け渡しは、コンテナを使って行われている。樺太/サハリン本島から送られてくる荷物を島に降ろし、または島から送る荷物を積み込む。活発な経済活動を反映し、交易はかなり大規模のようで 大量の荷物を処理するのに大変時間がかかった。コンテナのなかには、ロシア郵政のものあった。郵便物もこの船で輸送されているのである。ちなみに、日本本土から択捉/イトゥルップ島あてに郵便を出すと、モスクワ経由で送達される。料金はヨーロッパ向けと同じで、あて先を「Russia」と書かなければ届かない。
 停泊時間が長いので、船から釣りを楽しんでいる乗客もいた。
 夕暮れになるころ、ようやく客扱いが始まった。紗那/クリリスクの港はこのフェリーが横付けするには小さすぎるので、乗客の乗り降りと貨物の受け渡しは艀を使って行われる。乗客の乗り降りには50分ほどの時間がかかり、乗る人が約50人、降りる人が約75人いた。樺太/サハリンで購入した製品とかばんを持って危なっかしい階段を下りるのは、慣れているはずの地元のロシア人もつらそうだった。

択捉/イトゥルップ島の観察を続けていると、時間がどんどん過ぎ、気がつけば何時間も甲板の上にいた。乗客の乗り降りと貨物の積み下ろし・積載も終わり、あたりが暗くなってくるころ、船はようやく国後/クナシル島に向けて出航した。
 美しい夕暮れの海を惜しみながら、私たちは部屋へと戻ることにした。午後8時半、夕食の時間になったので食堂に向かった。今晩のメニューはレバーの炒め物、タマネギとニンジンのサラダ、マカロニ、パンである。


洗濯料金、日本円で千円なり

夕食後の空いた時間などを利用して、たまっていた洗濯をするゼミ生もいた。
 東芝製の洗濯機が、船内2階の洗濯室に備え付けられている。これはもともと、船内乗客用のシーツなどを洗濯する業務用なのだが、乗客の個人的な衣類の洗濯にも使わせてくれた。
 はじめ、女子のゼミ生たちは洗面所で洗った洗濯物を部屋で干していたところ、洗濯担当の女性船員に声をかけられ、洗濯機を利用させてもらえた。これは無料だった。水岡先生は、この洗濯機を使って女性船員に洗濯をしてもらったところ、日本円で千円を請求された。これは、船内の備品を使って船員が個人的なアルバイトに利用しているのだろう。千円は、次に日本に寄港したとき、この船員の小遣いになるのかもしれない。

それにしても、択捉/イトゥルップ島は美しかった。もし、一般の日本人がもっと自由に択捉/イトゥルップ島に訪れることができたなら、多くの人が「あ、こんなに美しい島は、やっぱりロシアから返してもらわなくちゃ…」という気になりそうだ。日本政府は、「北方領土」への渡航をいつまでも自粛要請しておくより、自由に渡航させて、その直接の経験で、「領土返還」の必要性を理解してもらったほうが賢明なのではないのだろうか?
 船が国後水道/エカチェリーナ海峡を越えて太平洋に抜ける真夜中ころ、ゼミ生は皆、各自の部屋でぐっすりとやすんでいた。

(長江淳介)

前日へ | 2006巡検トップに戻る | 翌日へ

All Copyrights reserved @ Mizusemi2006