8月31日
古釜布/ユジノクリリスク、
材木岩/ストルブチャティ岬

「北風政策」のおかげで使えなくなった洗濯機
ロシアの辺境に、整備の行き届いた学校
日本との共生を模索するイーゴリ地区長
日露友好を演出する、小さな国境の新聞社
区立図書館は、町の文化中心
充実したサービスで高出生率支える幼稚園兼保育園
昼食と材木岩/ストルプチャティ岬ハイキング
楽しい島民との交流会のさなかに、東京の外務省から怒りの国際電話!
長い一日を振り返って、ゆっくり夕食

「北風政策」のおかげで使えなくなった洗濯機

朝7時15分、ひんやりと肌寒く、毛布から出ていた足が冷えてしまったので目を覚ました。窓から外を見ると、雲は薄く空は比較的明るいが、小雨が降っている。私たちの宿泊する「友好の家」のすぐ前の道には、牛がのどかに草をはみながら闊歩し、そのまわりを野犬が走り回っている。前夜に部屋干した洗濯物は、こんな天気のせいで全く乾く気配がない。

8時頃、集合時間になって、「友好の家」玄関にゼミ生が続々と集まってきた。「友好の家」管理人のおばさんから、館内にある洗濯機や乾燥機の使用はひかえてほしい、と言われてしまった。洗濯機は日本から持ち込まれたもので、修理しがら大切に使っていたが、今では日本からの援助が止まってしまい、壊れてしまうと直す術がない。だから、本当に必要なとき以外にはなるべく使わないのだ、とのことである。
  日本政府の北方領土に対する政策は、潤沢な経済援助によってこの地域に住む人々の対日感情を改善しようという「太陽政策」から、経済援助を一切止めて島民を困窮させ、物質的に豊かな日本に現地に住む人たちの気持ちをなびかせようという「北風政策」に転換した。その転換点には鈴木宗男の失脚がある。東京の外務省の方針転換が、このように遠く離れた地域に住む人々の生活に影響を与えているのだ。

8時15分、雨は霧雨になったが、少し風が出てきた。昨夜と同じレストラン「ロシンカ」へ出かけ、朝食をとる。メニューはパンとゆでたまご、サラダ、鮭とじゃがいものメインディッシュ。興味を引いたのは、パッケージに中国語の書かれたチョコケーキが添えられていたことである。ここから察するに、樺太/サハリンを経由して中国から消費物資の流入がすすんでいるのだろう。 味は、ぼそぼそして美味しくなかった。ちなみに、日本の最寄品的な消費物資はまったくこの島に輸入されていない。

朝食を終えたところで一度「友好の家」に戻り、出発の準備をした。この日はインタビューも多く、予定がつまっていて時間的に余裕がないことが予想されたので、各自お手洗いに行ったり、商店に飲み物を買いに行ったりなど、あわただしく活動の準備を整えた。
 いよいよ8時50分には学校訪問に出発である。

ロシアの辺境に、整備の行き届いた学校

現在の古釜布/ユジノクリリスクの町の中心部は、海岸段丘の段丘面上の高台にある。大きな町ではないので、「友好の家」からこの日見学した学校や新聞社、図書館などの施設は、すべて車に乗れば5分足らずで着く。町の街路は、未舗装ではあるが、それなりに整備されている。

国後/クナシル島には全部で学校が4校あり、小学校から高等学校まで揃っている。中心都市である古釜布/ユジノクリリスクには、そのうちの2校と教育センターがある。また、色丹島にも学校が2校あるという。また、幼稚園は国後島に4つ、色丹島に2つがある。
 私たちが訪れた学校は、町の中心部からさほど離れていない場所にあり、校舎は木造で立派なものであった。8月31日であったのでまだ夏休みで、生徒は誰も登校していなかったが、翌日からの新学期の準備のため、校長先生をはじめ幾人かの先生たちが仕事をしていた。
 ここでは新学期は9月1日からで、6月1日から8月31日までのまるまる3ヶ月が夏休みだ。私たち大学生の夏休みよりも長い。うらやましい限りである。ほとんどの子供は、両親などの大人たちと、または子供だけで、大陸ロシアへ旅行に行くことが多いという。親たちは子供がいい休暇を送れるように最大限の配慮をする。
 旅行に行くことができない子供たちは、集団キャンプに出かけることもある。樺太/サハリンには、この目的のキャンプ場が6ヶ所あり、1ヶ月くらいずつ2交代でキャンプをすることができる。これは、社会主義時代のピオネール(共産主義少年団)キャンプの名残であろう。ボーイスカウト運動のソ連版であるこのピオネールキャンプで少年少女時代に身体と精神を鍛えられた経験を持つ大人は、今のロシアにも結構多いはずだ。

校長先生に、校舎内を案内していただいた。校舎の中に入ると、生徒の描いた色とりどりの絵などが廊下の壁のいたるところに貼られ、とても華やかに飾り付けられている。教室は、中学生から自分のクラスの教室というものはなく、大学のように、科目ごとに教室を移動するようになっている。私たちは、そのうちいくつかの教室を見学した。目を引いたのは、ほとんどの教室にロシアの国旗が掲げられプーチン大統領の肖像写真が貼られていることだった。 上の写真の掲示板には「我が祖国」とロシア語で書かれており、愛国心を育てる教育が行われていることがわかる。日本ではこのような光景はほとんど見られないが、外国ではさほど珍しいことではないらしい。

英語の教室をのぞくと、キリル文字と英語のアルファベットとの対応表などが貼ってあった。現在では小学5年生から英語を学ぶが、2年後には小学校2年生から英語の授業が始まるのだという。日本でも近年は、小学校の段階で英語教育を始めることが提唱されている。いうまでもなく、英語はグローバルなコミュニケーションの手段であるが、サハリン州ではロシア語がすべてで、私たちは今回の巡検中、日本以上に街で英語が通じず困った場面が多かった。冷戦中は、英語のような「敵性言語」の学習はあまり奨励されていなかったに違いない。一般市民でへんに英語がうまいと、アメリカのスパイと警戒されてしまったかもしれない。そういう意味では、ようやく英語アレルギーがなくなり、グローバリズムの影響がこのようなヨーロッパの辺境地域にまで及んできたということであろう。
 グローバリズムの影響は、飾り付けの中に、たとえば「くまのプーさん」などのディズニーのキャラクターが含まれていることにも伺えた。

地理の教室には、国後/クナシル島の自然環境の写真が掲示されていた。日本の地理の初等教育と同様、まずは自分たちの郷土について学ぶようだ。空間的な広がりの中で社会を把握する能力を育てるともに、郷土愛を育み、ゆくゆくはそれを国民意識へと昇華させていくことが、地理の初等教育の重要な課題であろう。とりわけ日本とロシアの間で国境問題をかかえ、ロシアが統治しはじめてまだ歴史の短いこの地域では、生徒にロシア人としてのアイデンティティを土地と結びついたかたちで認識させる教育がなされている 。事実、この教室では、写真にあるように、国後島の地図を掲げ、「ロシアの島 クナシル」と大きく見出しを書き、その左右に、国後島を探検したロシアの先駆者である、ガラブニンとネベリスコイの肖像を掲げて、国後島が正統的にロシアの領土であるという認識を幼少時から生徒たちに植えつけようと教育していることがわかる。

言葉をはっきりと発音できるようにするための「特別教育ルーム」という部屋も見せていただいた。一般的に、日本人にとってロシア語の発音は非常に難しく感じられるだろうが、ロシア語を母語とする人々でもやはり美しい発音は容易ではないのかもしれない。

教室の他には、食堂や体育館、図書室などもある。食堂では昼食が1食25ルーブルで食べられる。家が貧しくその食事代が払えない生徒には、特別に無料で昼食が提供される。経済的な理由で初等教育・中等教育を受ける権利が行使できない生徒が出ないよう、教科書なども無料で貸し出されるのだという。ただし、もちろん学期が終わったらそれは返さなくてはならない。
 体育館では、明日の始業式のために飾り付けが行われていた。図書室にはたくさんの本の他にコンピュータ5台もあり、生徒が使うことができるようになっている。

私たちは、丁寧に説明しながら学校内を案内してくださった校長先生に丁重にお礼をして、学校をあとにした。
 教育はたいへん重視されているようである。辺境地域でありながら、新設の学校が作られていることや、校舎その他の設備に整備が行き届いていることなどから、そのことが推察される。社会主義圏では伝統的に教育や文化活動を重視する傾向があり、ここでもその影響が残っているのかもしれない。


日本との共生を模索するイーゴリ地区長

続いて、私たちは「友好の家」に戻り、サハリン州南クリル地区、イーゴリ地区長のお話を伺った。9時30分からの予定であったが、5分ほど遅れてのインタビュー開始となった。

イーゴリ地区長は、日本と国後/クナシル島とはビザ無し交流制度により密接な交流があり、多くの日本人がこの制度を利用して国後/クナシル島を訪問し、またロシア側からも日本各地を訪問するほか、漁夫たちが北海道の花咲港、釧路港、根室港などに水産物を持って寄港する、と日本との関係の密接さをまず強調された。
  さらに、国後/クナシル島には毎年日本から日本語の先生が来て、約1ヶ月にわたり講習を開いているため、この島では少しずつ日本語を話すことができる人が増えてきているのだという。
 以上のような簡単な紹介の後、国後/クナシル島の経済問題と領土問題について、ゼミとのあいだで活発な質問と討議がなされた。

最初に、この地域の産業と経済の状況についての質問を出した。イーゴリ地区長の説明によれば、国後/クナシル島では水産業が主要産業であり、そのほか建設業、発電などが行われている。
 発電は、現在瀬石/ゴルヤチー・ブリャジュという小さな集落で稼働している地熱発電を拡大し、全島に電力を供給できるようにする計画である。択捉/イトゥルップ島でも同様の地熱発電が計画されている。現状では、島で必要な電力のかなりの部分はディーゼル発電によってまかなわれているが、ディーゼル発電と地熱発電とを比較すると、地熱発電のほうが約半分のコストで生産が可能なのである。千島火山帯から外れ地殻構造の異なる色丹/シコタン島では地熱発電ができないため、ここでは水力発電所の建設が予定されている。
 地区長はさらに、ロシア政府が2006年8月9日に発表した、2007年から2015年にわたる「クリル開発計画」についてふれられた。これにより、モスクワの中央政府からの融資で、発電所建設にとどまらず、港湾や空港の建設、魚の孵化場など、大規模なインフラ整備がこの島になされる予定だという。
 それより以前の計画、すなわち1999年〜2005年の間の計画では、前述の地熱発電の他、道路や色丹/シコタン島穴澗/クラボサボドスコエ村の学校などが建設された。だが、中央からの融資は途中で止まってしまうこともあるとのことだ。
 日本からの経済支援も、鈴木宗男衆議院議員が力を持っていたころはかなり大規模に行われていて、私たちが宿泊した「友好の家」のほか、ディーゼル発電所や色丹/シコタン島の病院、小学校などが日本の資金により作られた。

このことに関連して、鈴木宗男と国後/クナシル島との関係についての質問がゼミから出された。鈴木宗男といえば、日本では「疑惑の総合商社」などと社民党議員になじられ悪評が高い。だが、鈴木宗男は、色丹/シコタン島の大地震の際にさまざまな支援を送り、千島/クリルに住む住人たちは、みんな彼に感謝しているという。日本でのトラブルについて、イーゴリ地区長は「他の日本の議員たちは彼の行動を誤解しているのではないか」と鈴木氏を擁護する考えを示した。
 鈴木宗男は北方領土を繰り返し訪問している数少ない国会議員の1人で、この地域のことをたいへん深く理解している。鈴木宗男氏は、北方領土への技術支援を積極的に行った。これはこの地域にとって最も重要であり、とてもありがたかった、とのことである。
 しかしながら、鈴木宗男の失脚以後、日本の北方領土政策の転換とともに、日本からの支援は激減し、技術支援は中止されてしまった。食料などの小さな支援は続いている。だが、住民の生活状況は10年ほど前とは大きく変化している。消費財は、樺太/サハリンからの移入により、豊富に出回るようになった。それゆえ、もはやそのような援助は必要ない、と地区長は言い切った。日本側には「このような支援は必要がない」と伝えているそうだが、それでも毎年この無意味な経済支援が続けられている。イーゴリ氏は「ややうがった見方かもしれないが」と前置きして次のように述べた。「もしかしたら、私たちに無駄な食料が送られてくるのは、日本の誰かの政治家の都合なのかもしれない。私たちが日本に望んでいるのはこのような支援ではなく、経済協力なのです。たとえば日本とロシアの合弁会社を作り、友好的に活発な経済活動ができたらいいですね。」

次いで、私たちが国後/島を訪問する少し前に起きた日本漁船「第31吉進丸」の銃撃・拿捕事件についての話題になった。
  イーゴリ地区長は、拿捕事件によってロシアが日本人の人命を結果的に奪ってしまったことは遺憾であるとし、現地の実情とはかけ離れた政治がモスクワと東京とで行われており、今回の一件もモスクワからの何らかの圧力があったのだろうと述べた。水岡先生は、日本が米国と従属的な軍事同盟関係を強めてゆく中で、日露両国は新たな緊張関係をはらむに至っており、この事件は、両国がお互いに警戒し合い、緊張が高まっていることのあらわれではないか。と述べた。
  しかしながら、日露の境界水域における問題としてより重要なのは、密漁の問題であり、これがある限り漁船の拿捕はやむを得ないことだろう、とイーゴリ地区長は続けた。ロシア漁船が、本来支払うべき税金を払わずに密漁を行い、捕った水産物は洋上での闇取引によって日本へ送られている。このような現状で利益を得ているのは、ロシアの漁夫と水産物を買い取っている日本だけであり、ロシア政府は損失をこうむっている。ロシア側としては、強く取り締まりを行う方針である。日本政府への抗議も行っているというが、日本政府からは全く返答がないという。

 最後に、領土問題についてイーゴリ地区長に率直な意見を求めたところ、次のように述べた。
 「たしかに、国後/クナシル島は、ロシアと日本との間で領有権の争いがあります。しかし、私の父がオデッサ生まれ、母もウクライナの出身でしたから身近に感じるのですが、EUをみれば、さまざまな地域で領土問題が依然として残っているにもかかわらず、国境の概念にとらわれずにローカルな問題をインターナショナルに処理している例が多くあります。これを手本にした関係改善が望ましいのではないでしょうか。日本にも、千島/クリルに投資したいと考えているビジネスマンがきっといると思います。しかしながら、仮にこの地域を日本に引き渡ししたとしても、もともと千島/クリルに住んでいた日本人たちは北海道や、さらに本州へと移住しているでしょうし、そうした人々がわざわざこの条件の悪い島に戻ってきてくれることはないでしょう。東京とモスクワは、領土問題に関するすべてのことをもう一度考え直して、日露双方にとってプラスとなるような経済協力を模索すべきです。島民たちの対日感情は良好で、お隣さんなのだから仲良くしたいと思っているし、拿捕事件については残念なことだと思っています。今回の千島/クリル訪問がきっかけとなって、皆さんが大学を卒業して、千島/クリルへの経済協力を手がけてくれたら嬉しく思います」
 地区長が言われるとおり、地区長のご両親が出身のウクライナの西部は、もと全体がハプスブルク帝国領であり、今は国境で分断されてしまったものの、歴史的な一体性が根強く残っている。欧州では、このような、ローカルな空間スケールで連続性があっても国境で有界化されしまっため問題が国際的とならざるを得ない地域において、「ユーロリージョン」という地域的な枠組みがいくつか作られている。ウクライナが関わるものとしては、カルパチア山脈の南の「プスタ」と呼ばれるハンガリー平原において、ウクライナと、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ポーランドの5ヶ国で組織された「カルパチアン・ユーロリージョンCarpathian Euroregion」がある。
 広い旧ソ連を生活の足場とし、欧州のウクライナ出身のご両親を持つイーゴリ地区長は、こうした欧州の経験を念頭に置いて、私たちに領土問題の出口を提案されているのであろう。陸上国境がせめぎあい、国境線の変遷を繰り返してきた欧州の知恵と、「固有の領土」は不可侵とする考え方で動きが取れない日本の政治。お話を伺い、その考え方の落差を感じざるを得なかった。

イーゴリ地区長は、私たちのインタビューに答えた後、色丹/シコタン島に新しく作られた学校の始業式に出席するため、そちらへ向かうとのことであった。私たちゼミのために、多忙な中1時間近い時間をとって、さまざまなお話をしてくださったことに感謝したい。

日露友好を演出する、小さな国境の新聞社

続いて私たちは、新聞社「ナ・ルベージェ」を訪問した。この新聞社で出しているのは『国境』という新聞で、第1号は1947年11月22日に発行された。もうすぐ60周年になるのだから、歴史のある新聞といってよいだろう。
 現在の発行部数は約1,200部である。ソ連時代には現在の数倍の発行部数であったが、主として経済的理由によって減少してしまった。色丹/シコタン島では特に購読者が減少している。これは、地震による経済的打撃の他に、船の運行便数が少なく、配達が発行から10〜20日も遅れてしまうことがあり、新しい情報を伝えることが重要な新聞という媒体の役割を果たすことができないからだという。また、発行周期についてもソ連時代には週3回、90年代には週2回、今では週1回とどんどん減少している。

立派な建物の中に案内していただいて、こぢんまりとしたオフィスで社長さんのお話を伺った。この小さなオフィスの中のパソコンで紙面を編集し、リソグラフを用いて印刷まで行っているのだそうだ。スタッフは現在ではたったの3人で、新聞記者・編集者にふさわしい学識のある人材が島にいないことが問題であるという。
 機材はパナソニックやエプソン、ヒューレッドパッカードなど、日本や米国のメーカーのものであった。これらは広告料の他、行政府からの補助金などにより購入したものだ。

ゼミ生の興味を引いたのは、ソ連時代からの現在までの新聞の報道内容の変化に関する話であった。ソ連時代には、この新聞は地区の共産党の機関誌であって、新聞の内容はすべて事前にチェックされていた。したがって、共産党に対する批判は一切できなかった。今では事前の検閲のようなことはないが、サハリン州の行政府が資金を出しているので、行政府そのものを批判することはないという。行政府に対し批判的な内容を書く場合には、特定部署あるいは個人に対する批判として掲載するのだ、ということだ。

領土問題について、ジャーナリストとしてどのように考えるかという質問に対しては、「領土問題のような大きな問題は、東京とモスクワとで話し合って解決することだと思う。我々一般市民が考える問題ではない。それよりも草の根レベルでビザ無し交流により友好を深めることが重要だと思う」と述べた。2006年7月15日号を見せていただいたところ「こんにちは、日本」という見出しで、日本との友好ムードを醸し出す記事が掲載されていた。
 ちなみに、この日の夕方に行われた国後島民との懇親会でも、島民の1人が、この新聞社とまったく同じ趣旨の回答をしたので、私たちは興味深く思った。このような考え方の背景には、かつての共産党政権の影響があるのかもしれない、と水岡先生は言う。国家の政策は変えられない所与のものとして、それ自体の批判はせず、その政府の政策の中で自分たちに何ができ何をすべきなのかを考える、という発想が残っているのだろう。
 新聞社として特に大きな関心をよせるトピックなどはありますか、という質問に対しては、小さな新聞なので、とくに主体的に問題を追求することはなく、出来事や催しを事実に即して報道するだけだ、とのお話であった。この新聞社が置かれている状況からするとやむをえないのかもしれない。だが、私としては、あまり前向きで野心的な新聞社ではないと感じた。このような姿勢では読者にとって魅力的な新聞を作ることはできないであろう。発行部数の減少も当然かもしれない。

区立図書館は、町の文化中心

続いて、新聞社のすぐ近くにある公立の図書館を訪問した。ここは、ユジノクリリスク行政区立図書館で、大人から子供まで年間約1600人が訪れる。行政区の資金により運営されており、無料で利用することができる。私たちは図書館員の方に館内を案内していただき、全体を見学した。

私たちは最初に、13歳までの子供たちのための部屋を見学した。まだ小さな子供たちは、家族に連れられてここにやってくる。子供たちはここで本を読むだけでなく、絵を描いたり楽器を弾いたりすることができる。図書館が企画して工作教室なども実施している。ここで子供たちが楽しく過ごすことによって、やがて喜んで本を読んでくれるようになることを、図書館は期待しているそうだ。国後/クナシル島に関する本や日本のビザなし交流団から寄贈された絵本なども並べられ、中には日本語を勉強していて日本語の絵本が読める子供もいるという。
 
 14歳以上の子供たちのための部屋で、とりわけ私たちの目をひいたのは、ロシア語による日本に関する本のコーナーである。これらの本は、子供たちだけでなく、大人もよく借りて読んでいるのだそうだ。島民たちの日本に関する関心の高さのあらわれといえるだろう。世界的に人気の高い村上春樹の小説などは、やはりここでもよく読まれているという。図書館利用者の中でいちばん多いのはこの年代の子供たちだ。

  大人のための読書室も見学した。読書のための机と椅子がおかれているほか、本棚には法律書、百科事典などが並ぶ。雑誌や新聞は特に充実しており、雑誌は49種類、新聞は14種類がそろえられている。ゲーム雑誌やコンピュータ雑誌はよく読まれており、また女性の利用者は花や家庭に関する雑誌を読むことが多いという。モスクワで発行されている『今日の日本』という雑誌もあった。
 壁には、新聞に掲載されたプーチン大統領の一般教書演説の切り抜きが貼られていた。このようにして、国家の指導者が示す方針を一般の民衆に宣伝することは、ソ連時代から、公立図書館の重要な役割だったのだろう。ビザなし交流団から送られた沖縄の民芸品も、ここにおかれていた。

 最後に、日露友好の部屋に案内された。この図書館では、ビザなし交流の開始とともに、日本との友好関係をより強固なものとするため、このような部屋を設けている。図書館員は、政治ではなく文化交流によって友好を深めることが重要だ、と話す。この日も交流団体「ロ・ク・ニ」(ロシア、国後/クナシル、日本の頭文字をとった)の方々10名ほどがこの部屋で私たちを歓迎してくれた。この日いた多くの人が、ビザなしで日本へ来たことがあるといい、行き先も北海道のみならず、本州から九州までと広範囲にわたっている。紅茶とスコーンをいただきながら、簡単な日本語により交流を楽しんだ。また、私は、はるばる持参した自分のヴァイオリンで日本の曲とロシアの曲とを弾いたところ、たいへん好評であった。

単に本を並べて貸し出すだけではなく、この図書館が地区の文化中心としての役割を担い、積極的な活動を行っていることは印象的であった。

充実したサービスで高出生率支える幼稚園兼保育園

図書館をあとにした私たちは、幼稚園兼保育園の保育施設を訪れた。2歳児から6歳児までの76人が通い、朝の7時半から夕方の8時まで開園している。日本でいま課題となっている「幼保一体化」がすでに実現した施設だ。月1600ルーブルで、子供を週5日間預け、親は安心して仕事に励むことができる。これはほとんどが子供たちの食費で、毎日3食が提供されている。土・日は休みである。
 国後島では出生率は上昇しており、子供が2人3人いる家庭もある。そのような状況であるため、保育施設は不足しがちであり、2010年には新しく保育施設が作られる予定だという。

保育施設の中は、日本で見られる幼稚園と同じように、色とりどりの玩具などが置かれ、またピアノがあった。私たちが訪れた時間には、昼寝をしている子供たちもいたが、起きていた子供たちは、先生のピアノ伴奏にのって歌を披露してくれた。幼稚園の外にはかんたんな遊具があって、外でも子供たちが元気よく遊べるようになっていた。

昼食と材木岩/ストルプチャティ岬ハイキング

レストラン「ロシンカ」でハンバーグとボルシチを中心として昼食をとり、一度「友好の家」に戻ってハイキングの支度をして、私たちはいよいよ、材木岩/ストルプチャティ岬へのハイキングに向けて出発した。
 材木岩/ストルプチャティ岬は、国後/クナシル島の北側、根室/クナシルスキー海峡側に位置する海岸の景勝地で、見事な柱状節理による奇怪な景観が圧倒的である。

午後1時55分、車に乗って出発する。ハイキングコースの入り口までは、戦後にソ連が山の中につけた道を使って島を横断し、車で約30分の道のりである。
 古釜布/ユジノクリリスクの町を抜けるあたりで昨日見学した墓地を右手に見て、車はどんどん山の中へと入ってゆく。あいかわらずの砂利をしきつめた道路で、決して乗り心地がよいとはいえないが、樺太/サハリンで乗っていた車と違って暑くないだけよしとしよう。

途中、道路の整備をしている現場を見た。色丹/シコタン島にモスクワからロシアの教育担当大臣がじきじき来訪しており、国後/クナシル島にも来るかもしれないので、そのときにガタガタ道だとぐあいが悪いからだ、という。どうやら、近くの山の斜面から赤土を掘り出し、それを道路に運んできて上に盛って平らにならしているようだ。だが、生態系への影響が考慮されているのだろうか。雨水により盛った土が流されてしまうのではないか。泥縄的なずさん工事という印象をぬぐえない。
 ふいに、目の前にキタキツネが顔を出した。運転手さんが車を止めて指をさしてゼミ生に教えてくれた。小さくて可愛らしい目をしており、毛並みもとてもきれいであった。

予定通り、約30分で海岸に到着した。戦前ここには、ヤイタイコタンという集落があった。いまもダーチャが少しみられる。数え切れないほどのカモメが浜辺で休んでいる。
 さて、ここから片道約3kmの道のりのハイキングである。戦前に日本の国土地理院が作成した地形図には、ここに小径の記号が記されている。戦前は、海岸沿いの漁業集落を結ぶ生活道路として歩かれていたのだ。道は海岸沿いにつけられており、起伏はないが、砂地の上を歩く部分などは足をとられて、歩きやすくはない。

途中、一箇所だけ大きな岩によってルートがさえぎられており、手を使って岩場を上り下りしなくてはならない。このあたり一帯の岩はみな柱状節理になっているため、足場は多く岩自体もしっかりしているから、落ち着いて行動すれば問題はない。登山の経験があるゼミ生が登りやすいルートを発見し、そこをゆっくりと1人ずつ注意を払いながら三点支持で慎重に難所を通過した。
 海のほうを見ると、漁師がなにやら魚をとるための網のようなものを船に乗って設置していた。本当に、このあたりは水産業が主要産業なのだということを再認識した。

途中で、浜辺にハマナスがきれいに咲いているところがあった。案内してくれた方が「この実は食べられますよ」と言うので、私も1つ試食してみた。たしかに食べられないことはないが、たくさん食べたいとは思わないものだった。硬くてやや渋く、すっぱいトマトのような味であった。トマトの原産種はこんなような味だったのかな、と思った。
 
  知床半島は、すぐ対岸の目と鼻の先である。だが、残念ながら曇っていて、対岸の知床半島の海岸沿いの低い部分は見えていたが、山の上部はかすんでしまっていた。もし晴れていたら、羅臼岳や硫黄岳を中心とする知床の山々の雄姿が望まれたことだろうとおもうと、残念でならなかった。
 知床半島との間に横たわる根室/クナシルスキー海峡には、目には見えないし日本で発行されている地図には書いていないけれども、実際には、日本を取り巻くほかのどの国境よりも透過性が低く、決して越えられない事実上の厳しい「国境」が存在している。
 ビザなし交流は、根室が拠点であるから、指呼の間にある知床半島の羅臼からここに直接船で乗りつけることはない。一般の日本人は、樺太/サハリン島経由で、ここを片道3日もかけて来訪訪問せざるを得ない。加えて、日本政府はここが自国の領土であることを主張しておきながら、旅行を自粛するよう閣議了解を出しているため、国後/クナシル島旅行の手配をしてくれる日本の旅行会社はどこにもない。
 しかし、国境とはあくまでも人為的なものであるから、その影響を受けるのは人間だけである。
 浜辺にはたくさんのゴミが漂着していた。バルティカ・ビールの瓶などロシアのゴミの他に、明らかに北海道本土から流れてきたと思われる日本語の書かれたゴミもたくさんあった。
 そしてこのあたりでは、一部の日本の携帯電話会社の電波が届く。実際、ゼミ生のうちの何人かは、ここから自分の携帯電話を使い、国内通話で東京の友人に電話をしたり、メールを送受信したりしていた。
 ところで、日本本土で国後/クナシル島からの電話を受けたゼミ生の友人たちの反応がまた面白い。私たちとしては、国後島などという、一般の日本人は訪れることが極めて困難な辺境の地から電話しているのだから、当然みな驚くだろうと予測していた。しかしながら結果は全く反対で、誰も驚かなかったという。友人たちのメンタルマップには、日本で発行されている地図の図柄が頭にあって、国後/クナシル島はただ単に日本の一部と思われているということなのだろう。私たちと友人たちとのメンタルマップにズレが生じていることが伺えて面白い。

そんなことを考えながら1時間あまり歩いて、材木岩/ストルプチャティ岬に到着した。近くで見ると大きくて立派な岩であり、日本語名のとおり、あたかも鋸で切って製材した材木がたくさん並んで置かれているように見えた。
 この岩をめぐっては次のような言い伝えがあるという。「むかしむかし、あるところにアイヌ人の商人が住んでいました。彼はさまざまな国へ行って商売をしていました。彼には美しい娘が1人いて、彼はたいそう娘をかわいがっておりました。国後島のある貧しい家庭に、1人の美しい少年がいました。やがて娘と少年は恋に落ちました。2人は境遇こそ違えどもお互いのことを深く愛し合っていました。しかし、幸せな月日は長くは続きませんでした。ある日、娘の父親がこのことを知って激怒し、『そんな男とつきあってはいけない』といって娘を隠してしまったのです。娘はたいへん深く悲しみ、幾日も泣き続けました。娘と少年は絶望的な悲しみにくれて死んでゆきましたが、娘の泣いた涙がかたまってできた岩が材木岩だということです…」
 戦前は、この岩の裏手を回るようにして100mくらい登り、岩の向こう側の漁業集落に行く生活道路があったように地形図に描かれているが、そのような道路はもはや跡形もなく、草に埋もれていた。
 写真撮影などをして少し休憩してから、私たちは往路をそのまま戻った。待っていてくれた車に乗り、「友好の家」へと向かった。



楽しい島民との交流会のさなかに、東京の外務省から怒りの国際電話!

午後5時40分から、「友好の家」でクリル日本センターのスタッフならびに島民の方々合計6名との和やかな交流会が行われた。
  まず、ゼミ生から島民に、「日本についてどう思うか」と質問が出た。ビザ無し交流で日本を訪れた国後島民が口々に言うことは、日本は裕福で技術が発展し、文化的にもきわめて洗練されており、また日本人は知恵があり賢い、ということで、聞いている私たちのほうがこそばゆくなるほどの褒めようであった。そこで、「では逆に日本のよくない点はなにか」と聞くと、「日本にはあまり欠点が見あたらないが、強いて言えば日本人の男性にはロシア人と比べて女性への思いやりが足りないですね。たとえば外出先で妻のかばんを持ってあげるとか、家庭でも食事を男性が作ることは珍しいでしょう」とのことであった。最近の日本ではだいぶ変わってきたと思われるが、「資本主義国では男性優位」という、旧ソ連人の間にあるステレオタイプが垣間見られるようであった。

また、鈴木宗男氏についてどう思うかを聞いてみた。すると、「彼は本当にクリルのことをよく考え、行動して、発展に寄与してくれた」「単に政治家としてではなく、人間として本当に素晴らしい人だ」と賛辞の声が次々に聞かれた。日本では「疑惑の総合商社」などとよばれ、社民党や共産党の議員から大バッシングを受けた代議士だが、鈴木氏のように草の根の住民たちに感謝される仕事をすることは、それ自体として政治家のひとつの役割ではないか、と思う。

続いて、やはり領土問題に関する意見交換が行われた。日露両国間の友好関係を深めていくためには、両国が自らの主張を繰り返して相手の言葉に耳を傾けない状況から脱して、お互いにある程度の妥協をすることが必要である。そうした中で、興味深い提案を根室市長がしているという話を島民たちから聞いた。その骨子は、国後島・択捉島を日本とロシア両国の「自由経済地域」とし、日本人もロシア人もパスポートやビザなしで本土から渡航でき、自由に経済活動を行えるようにしよう、というものだ。これは、例えば行政や裁判をどの国の法律でやるのか、といったことをはじめ解決しなければならない難しい点も多々あろうが、前向きな検討に値する提案であるように思われる。
 先のイーゴリ地区長の言う日露の合弁会社であるとか、水産資源を増やすための科学的な共同研究など、「自由経済地域」になれば地域の発展の可能性は飛躍的に広がるだろう。これこそがWin-Winの解決である。しかしながら、モスクワの中央政府や日本政府は当然のことながらこのような提案には聞く耳を持たず、反対している。

ちょうどこの友好的な交流会の最中、事件は起こった。東京の外務省から、突然、水岡先生あてに2度も電話がかかってきたのである!! 
 ロシア国内で多くの中継地点を経由してつながっているらしい国際電話回線なので、先方の声はかなり聞き取りにくかったが、「お前たちは、日本国旅券を使って、ロシアのビザで国後島に来ているのか。そんなことをしてもよいと思っているのか」「『自粛要請』を知っているか。これは、『国益』に反する行為だ!」「次の船便で、早く撤退しろ!」「参加学生の名簿を出せ…」などと、電話の向こうの声は叫んでいる。
 日本国外務本省の電話機から、国番号「7」で始まるロシア向け通話として国後/クナシル島に「国際電話」をかけることは、この島のロシアによる支配を認める一端にはならないのだろうか? 坂下船長がムネオハウスに拘留されていたとき、電話は豊原/ユジノサハリンスクの日本領事館から1度かかってきただけだったという。私たちが国後/クナシルのフィールドにいることは、第31吉進丸の日本人船員が銃撃死し、船がロシア国境警備隊に拿捕されたことよりも、外務省にとって重大な関心事のようにみえる。政府の立場としては、是が非でも私たちの滞在を認めるわけにはいかないのだろう。
 その後、このことを聞きつけたスマルチコフセンター長が、豊原/ユジノサハリンスクにある、ロシア外務省出先機関にこの件を報告した。ロシア外務省側は、「参加学生の名簿は日本の外務省に出すな」とスマルチコフセンター長に指示したということである。
 それにしても、日本国外務省は、どこから私たちが国後/クナシル島にいるという情報を聞きつけたのだろうか。もし、私たちが島に上陸してから約1日のあいだに接触したロシア人の島民をだれか、日本のスパイとして取り込んでいたのだとしたら、日本国外務省の諜報能力も、意外に見上げたものかもしれない。

約1時間におよぶロシア人島民との交流会は、ゼミ生と島民との双方に大きな知的収穫をもたらしてくれて、終わった。
 

長い一日を振り返って、ゆっくり夕食

この日の夕食もまたレストラン「ロシンカ」へ出かけた。
    ペリメーニという餃子によく似たロシア料理が出た。餃子は、もともと華北から満州地方にかけて特産の料理である。考えてみればロシアの極東地域と満州(中国の東北部)は国境を接しており、とりわけ沿海州はもともと清朝の領土であったものをロシアが奪ったのだし、ハルビンのあたりはロシアが強い影響力をもっていたから、満州料理の影響を受けたロシア料理があってもまったく不思議ではない。
 他にも特産の鱒を使った料理であるとか、さまざまなおいしい特産料理をゆっくり食べて、長い1日を振り返った。
 朝食時と同じ中国製のケーキも出た。こちらのほうは、同じ中国起源でも、ペリメーニと違ってボソボソでおいしくなかった。  

(せきぐち ひろあき)

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