8月24日
落合/ドリンスク、泊居/トマリ、
恵須取/ウグレゴルスク

日本時代に造られた製紙工場の巨大な廃墟
日本とロシアとの勢力圏の境界に沿って、島を横断
日本の漁村の面影をみおろす鳥居
低地から高台へー都市構造の変化パターン
幻に終わった鉄道計画
石炭の街の博物館
打ち棄てられた、悲劇の内恵道路
円錐形の美しい山に見とれる
北に向かう夜行急行の豪華寝台に感動

前日までは豊原/ユジノサハリンスクを拠点とした活動だったが、この日からいよいよ、樺太/サハリン島の北上を始める。豊原/ユジノサハリンスクに戻ってくるのは、4日後の28日だ。
  これまでのように、各自の荷物をホテルに置いておくのではなく、基本的に自動車に積んで移動する。しかし、自動車内が狭いため、全員の荷物をすべて載せたら人間の乗るスペースが無くなってしまう。私たちは必要最小限の荷物だけ携行し、残りの荷物はモネロンホテルに預かってもらうことにした。どの荷物を持って行き、どの荷物を置いて行くか、これはなかなか判断力の必要な作業であった。各自荷物を半分程度にし、何とか人間と荷物を自動車に載せることが可能になった。ちなみに、モネロンホテルに荷物を預かってもらうには、荷物一つあたり250ルーブルの料金がかかった。
 こうした、荷物との格闘の慌ただしさの中、私たちは午前7時45分に、ホテルを出発した。最初の目的地は、落合/ドリンスクの旧製紙工場だ。


日本時代に造られた製紙工場の巨大な廃墟

われわれの車は、北へ一直線に向かった。道路は思ったよりもずっとよく、それほどガタガタすることもなくスムーズに進んだ。前日に真岡/ホルムスクで道路工事が行われていた事からも、道路状況がよくなってきていることが伺える。しかし一般的には、樺太/サハリンのインフラは悪い、と言った方がいいだろう。実際、私たちが体験した樺太/サハリンのインフラの印象は、悪いもののほうが強い。成様の説明によると、それは国家の予算の構造に原因があるという。それは、第一に軍の予算(核、新鋭戦闘機、軍艦)、第二に産業(重要産業)、第三に農業、第四に教育・保険、の順に優先的にまわされ、それでも余った予算がインフラ・公共施設の整備に回ってくるために、この予算はほんのわずかになってしまっている、という具合である。この構造はソ連時代も現在もあまり変化していないという。
 ちなみに、「ドリンスク」という街の名前の由来はなかなか面白い。それは、石灰岩地形をあらわす「ドリーネ」という自然地理学の単語と関係があるのだ。「ドリーネ」は、スラブ語系のスロベニア語で、「へこんでいるところ」を意味する。だが、「落合」のある場所が地形的に特にへこんでいるわけでもないし、石灰岩地形があるわけでもない。「落合」の「落」という漢字の持つ意味に合わせて、このようなロシア語の名前を付けたのかもしれない。

道路の両側を見てみると、一部、近郊農業らしい温室栽培が行われていることが確認できた。昨日も見た、ダーチャかもしれない。だが、大きな農地は耕作放棄されているものが目立つ。ソ連の崩壊に伴い集団農業が放棄され、以上のような状態になっているのであろう。

しばらく野原や牧畜がされている草原の中を進んで行くと、いくつかの集落が目立ちはじめた。そこは大谷/ソコルという場所で、ロシア軍の拠点基地がある。
 大谷/ソコルを抜けると、いよいよ落合/ドリンスクへと入った。検問所のような場所に兵士が立っており、そこを過ぎると市街である。工場へ行くために少し街を外れると、とたんに道が悪くなる。ガタガタ道を進んで行くと、目的地である大きな工場が見えてきた。

この工場は、日本統治時代に建てられた王子製紙の工場だ。この落合/ドリンスクという街は、いわば企業城下町であり、戦前の樺太/サハリンにおける急速な産業化の過程で、この製紙工場を中心に発展してきた街だった。
 だが現在では、この工場はもはや製紙工場としての機能は果たしていない。日本統治の終了後も約50年間動いてきたが、95年に止められた。現在は、その一部の施設を使って湯を沸かし、暖房用に街全体に供給するという、巨大なボイラーとして利用されている。また、使わなくなった機械などから鉄屑を取るために利用されることもある。こうした理由から、製紙工場としては廃棄されたものの、朝早くから多くの労働者を見かけることができた。

工場の外観は、ボロボロになっているとはいえ、圧巻とも言えるほど大規模で立派なものだった。工場は何棟もの建物によって構成されており、それぞれの建物はパイプなどによって連結されている。そして製紙工場であることを思わせる大きな煙突が数本建っていた。窓ガラスが取れたり割れたりしているのが目立つ。工場の外の敷地は、雑草が伸び放題になっており、それはまさに廃墟工場といってよかった。大規模な建物の中をみると、硫黄のような化学薬品が山積みになっていった。日本時代は、ここで数多くの労働者が働き、力強く稼働して、樺太/サハリンの経済を支えていたのだろう。
 しかしその工場の運命も、ソ連に接収され、計画経済に組み込まれることで大きく変わってしまった。一般に、社会主義経済では資本主義経済と比べて新しい技術のための投資がなかなかされない。この工場の旧日本時代の技術も、どんどん陳腐化してしまっただろう。また、ソ連はアメリカとの対抗上、軍事部門には多大な投資をしたが、民生部門にはそれほど投資をしなかったことが知られている。高性能なミサイルを作ることはできても、効率的に紙を作ることはできなかったということだ。
 それでも、国家の保護下にあるうちはよかった。ソ連が崩壊し、ロシアが市場経済を採用したことから、この工場も競争にさらされることになる。戦前の日本の陳腐化した技術では、その競争に打ち勝てなかったことは想像に難くない。こうした理由で、この工場は廃棄されてしまったのだろう。

工場の見学を終えた私たちは、9時ごろ、さらに北上するために自動車に乗って出発した。


日本とロシアとの勢力圏の境界に沿って、島を横断

車は、きれいに整備された道を猛スピードで飛ばして行く。

落合/ドリンスクの北方10キロメートルほどのところで、栄浜(さかえはま)/スタロドゥプスコエという街を通過した。ここには、現在は廃止されてしまったが、大泊/コルサコフを始点とし、落合/ドリンスクで分岐した、旧国鉄の路線の終点の駅があった。
 そこからは、海岸沿いの道路を走って行った。街を過ぎると、途中でラグーン(湖沼)が見えたが、それ以外は道路の両側は草原、オホーツク海と砂浜、という景色が続く。オホーツク海岸沿いの道は敷香/ポロナイスクまできれいに整備されているようで、自動車は快適に進んで行った。

小田寒(おださむ)/フィルソボという街のあたりの荒涼としたオホーツク海の海辺には、小さな漁業のための小屋が見えた。6、7人の人が作業をしており、漁のための船、魚を干すための道具なども見られた。

そこから15分ぐらいすると、かつて漁港だった白浦/ウズモーリエという街に来た。ここでは、市街地の端を通過したので、街の様子を伺う事ができた。この街には、豊原/ユジノサハリンスクとノグリキを結ぶ鉄道、東部本線の主要な駅の1つがある。駅前には、ちょっとしたマーケットが開かれていた。また、街の中では電線の工事が行われており、インフラの整備が進んでいる様子を伺うことができた。
 その先すぐの真縫(まぬい)/アルセンチェフカで左に折れ、私たちはいよいよ樺太/サハリン島の最狭部をを横断する。
 線路が、道路に沿って進んでいる。少し進んだ踏切の近くで、私たちは休憩しがてら車を降り、周りの様子を見ることにした。
 日本統治時代には、23日に私たちが見た豊真線が、樺太/サハリンの日本海側とオホーツク海側を結ぶ鉄道として活躍していた。しかし、豊真線は山岳路線で、その急勾配、トンネルの多さは、ソ連時代になっても悩みの種であった。くわえて、トンネルが日本の規格のため、ソ連本土を走る大型の貨車は通行できない。そこで、、真縫(まぬい)/アルセンチェフカと、日本海側の都市、久春内(くしゅんない)/イリンスキーをつなぐ、「北部横断線」をソ連が新たに建設したのである。これにより、私たちが前日に見た、南部横断線である豊真線は、役割を失うことになってしまう。
 この北部横断線は、かつてロシアの文豪チェーホフが『サハリン島』(中村融訳、岩波文庫、1953年)のなかで、日本のフロンディアとロシアのフロンティアがぶつかってできた、樺太/サハリン島における自生的なバウンダリーとした線と一致している。この線より南方が日本の勢力圏、北方がロシアの勢力圏だったのだ。これは、日露戦争の結果政治的に決定された北緯50度線に比べると、かなり南方に位置している。

再び車に乗り込んだ私たちは、島の横断を再開した。さきほどのオホーツク海岸線の整備された道路と比べると、大変にガタガタ道だ。その道を猛スピードで飛ばす自動車に一時間ほど揺られている途中、変電所の設備を見ることができた。 変電所をすぎるとすぐに、私たちは、日本海側の都市、久春内(くしゅんない)/イリンスキーに着いた。日本海側は、稚内から続く海岸段丘の地形が美しい。海岸段丘を登り下りしながら南下すると、ほどなく、目的地である泊居(とまりおる)/トマリへと到着した。


日本の漁村の面影をみおろす鳥居

泊居/トマリは、日本時代には港街として栄え、王子製紙の工場、ビール工場もあり、大変活気のある街だった。しかし、現在は製紙工場、ビール工場とも閉鎖され、港としての機能もローカルなものにすぎない。人口は1万人あまりいるというが、前日訪れた真岡/ホルムスクと比べると、活気のない寂しい印象を受けた。

私たちは街の入り口にある、石造りの泊居大橋のそばで自動車を降りた。この橋は日本時代に作られたもので、ソ連時代には、橋に埋め込まれた「泊居大橋」と書いた看板がそのまま残っていた。しかしその看板はすでに取り外され、看板があったくぼみはコンクリートですっかり埋められて、まだ現役の橋全体が明るい水色の塗料で塗りなおされていた。 この橋とその付近は、日本時代には都市の中心だった。日本の面影が色濃く残っており、市街の方にソ連時代に建てられた社会主義住宅が見えなければ、少し裏ぶれた日本の漁村と間違えそうである。
 橋のたもとには、日本時代から操業していた旧ビール工場の跡地があった。私たちが今回使ったガイドブック『ワールドガイド・サハリン』(徳田耕一著、JTB、2002年)によると、まだその工場は現役で操業中と書いてあったが、どうやら廃棄されたらしい。

この泊居/トマリには、日本時代の遺跡として、港を見下ろす丘に二つの鳥居が残っていることで知られている。私たちは、まずそこへ向かうことにした。舗装されていない道を歩いて行くと、茂みの中に丘へと続く細い道を見つけた。丘の上は開けていて、登ってすぐのところに大きな燈籠の遺構が建っていた。

燈籠を離れて、一つ目の鳥居をくぐり抜け、二つ目の鳥居の方へと向かった。二つ目の鳥居は少し離れたところにあり、緩やかな上り坂となっている草むらの小径をしばらく歩くとたどり着いた。鳥居には「皇紀二千六百年」、「魚谷粂次郎」と刻まれていた。1940年に魚谷さんが寄進してこの鳥居が建てられたということだろう。

鳥居の近くには神社の跡地があった。建物自体はもちろんなく、柱の跡などがわずかながら残っているだけである。そこには花やろうそくやマッチが落ちていたので、ここに誰かが最近供え物をしたことがわかる。元島民の日本人が、戦後ここへ来てお供えをしたのかもしれない。

鳥居のさらに奥には、「忠魂碑」と書かれた石塔が建っていた。こうした鳥居など神社の遺構が、壊されずにそのまま残されていることが興味深い。
 日本の植民地であった朝鮮半島や台湾では、戦後、日本植民地時代の神社や鳥居などはすべて破壊され、撤去された。朝鮮半島や台湾では、神社が、元からそこに居住していた人々を精神的に抑圧していた日本時代の象徴であったので、その遺産を積極的に取り除こうとするインセンティブが地元民に強かった。しかし樺太/サハリンでは、戦前の日本人住民の多くが去り、別のところから来たソ連人に入れ替わった。だが、征服者として戦後新たに入り込んだソ連人に、戦前、神道によって抑圧された経験は無い。もっとも、樺太神社の遺構は鳥居も含めすべて取り壊されていることからすれば、泊居/トマリは田舎町で、石造りの鳥居は壊すのが面倒だから、残されているとも言えるだろう。いずれにせよ、貴重な日本時代の遺産である。


低地から高台へー都市構造の変化パターン

海岸段丘面の高台にある神社の跡地から、市街の全景がよく見えた。市街地の裏手には、廃棄された王子製紙の工場跡がある。

この街の顕著な特徴は、ソ連時代に作られた社会主義住宅群が高台の海岸段丘面に位置し、日本時代に作られた旧市街が川沿いの沖積低地に位置していることである。現在では、日本時代の旧市街は、建物が老朽化してかなり放棄されてしまっているが、地図を見ると、低地部分にレーニン通り、ソビエツカヤ通りなど、ソ連で都市の中心部につけられることが多い街路名がならんでいて、ソ連による占領直後は、日本統治時代の市街地がそのまま都市中心として使われたことを示唆している。
 興味深いことに、これは、私たちが訪れたサハリン州の各都市の多くに共通した特徴だ。ソ連は第二次世界大戦で破壊を免れた、沖積低地に建てられた日本時代の市街はそのまま残して利用し、利用されずに空いていた高台に新しい社会主義住宅群を作ったのだ、と考えることができる。
 ただし、8月20日のソ連軍の攻撃によって旧日本市街地が大部分破壊された真岡/ホルムスクのように、日本時代の建物が利用できなくなっていた場合は、そこを更地にして、低地に社会主義住宅群が建てられた。戦争で街がどの程度破壊されたかによって、その後のサハリン州の街の発展過程が大きく異なったということがわかる。

神社の跡を見学し終えた私たちは、昼食を取るために、社会主義住宅が立ち並ぶ段丘面にある、泊居/トマリの現在の市街へと車で向かった。ここは、10棟以上ある社会主義住宅アパートの一部が商店になっており、広場では、衣類や食料などを扱う小さな自由市場が開かれていた。

もっとも、かんじんのレストランは、昼間は営業していないことがわかった。もう一軒のレストランに行ってみたが、そこも昼間は営業していない。仕方なく私たちはあきらめ、さらに北上する途中の街である、先ほども通過した久春内/イリンスキーで昼食をとることにした。


幻に終わった鉄道計画

泊居/トマリを出発した私たちは、久春内/イリンカ川まで戻り、その橋のたもとで降りた。そこで、水岡先生に、今回の私たちのサハリン州巡検に学術的な協力をいただいた、日本時代の樺太/サハリンの建築遺産の専門家、サハリン州郷土博物館のイゴール・サマーリンIgor Samarin 部長の著書『《Put' Bogov》po Ostrovam(島上にある神の道)』(ハバロフスク、プリアムールスコエ・ヴィエダモスティ社、2005年)を見ながら解説をしていただいた。この著書の7ページに収録された日本の古地図によると、この川の両岸に、松前藩とロシア双方の監視所が立地しており、日本とロシアのフロンティアがぶつかり合う地であったことがわかる。

再び車に乗り込み、久春内/イリンスキー駅に到着した。バスターミナルにもなっている、さびしい駅前広場の売店で、私たちは、昼食にパンやソーセージ、飲み物などを買うことにした。
 売店は、外から見るとみすぼらしい小屋にしか見えないが、中に入るとなかなか商品数が豊富で驚かされた。私はそこでパンを2つと、1.5リットルのジュースを買って32ルーブルだった。格安である。味の方もまあまあで、レストランには行けなかったものの、それなりの昼食にありつけることができてホッとした。

近くには公衆トイレがあったので、何人かのメンバーがそこで用をたした。この付近に若い日本人が団体でいることはまれなのか、地元のロシア人たちに物珍しそうに見られた。

駅前広場に、ちょうど、豊原/ユジノサハリンスクから恵須取/ウグレゴルスクに行く長距離バスが停車していた。ここから先、日本海側を走る鉄道は敷設されていないので、これ以上北上する公共交通機関はバスだけとなる。実は、日本時代に、この久春内/イリンスキーから恵須取(えすとる)/ウグレゴルスクまで鉄道を延長する計画があり、工事が始まっていた。途中の、珍内/クラスノゴルスクまでは、かなり路盤ができあがっていた。しかし、戦中の資金難と、線路が内陸の峠を越える難工事になることからなかなか工事が進まず、そのまま日本は敗戦を迎えて、その計画は放棄されてしまった。
 私たちは、この後自動車でさらに北上を続けた。建設途中だった鉄道の路盤跡が平行しており、一度も使われずに放棄された橋脚の跡をいくつも見つけることができた。22日のサハリン州政府でのインタビューで、恵須取/ウグレゴルスクまでの延長鉄道建設の計画があると聞いたが、その工事はまだ全く始まっていなかった。着工すれば、この路盤が活用されるのだろうか。

さらに北上を続けた私たちは、珍内/クラスノゴルスクから、海岸沿いではなく内陸に入った。日本統治時代には、恵須取/ウグレゴルスクへと続く道路は海岸沿いについていた。しかしそれは、かなり険しい道であった。計画された鉄道は、それを避け、珍内/クラスノゴルスクから内陸を経由するルートになっていた。今回私たちがゼミで勉強した『国境の植民地・樺太』(塙書房、2006年)の著者、三木理史氏に尋ねてみたところ、戦後にソ連によって作られた内陸経由の道路の一部は、日本統治時代に建設途中で放棄された恵須取/ウグレゴルスクまでの鉄道用路盤を利用したものではないか、とのことだ。なるほど、地図を見ると、内陸の道路は線路のようにまっすぐ引かれている。

私たちはさらに内陸部を北上し、恵須取/ウグレゴルスクを目指した。道路は舗装されておらずガタガタで、砂だらけだった。時折石炭を積んだトラックが猛スピードで走って行く。トラックの重みで路面が荒れてしまったのかもしれない。トラックが通るたびに砂埃が舞い散るため、自動車の窓を開けることができない。そのために車中が大変暑くなり、換気もできないため大変不快であった。

二時間ほど自動車に揺られていると、ようやく平地に出て、上恵須取/クラスノポリエという街を通過した。道が徐々にきれいになり、小さな小屋や、社会主義住宅が目立つようになってきた。衣服などを扱っている自由市場や人々が行き交う様子が見られるようになり、私たちは恵須取/ウグレゴルスクへと到着したことがわかった。


石炭の街の博物館

恵須取/ウグレゴルスクの現在の人口はおよそ2万9千人、主要産業は、石炭である。

もともとこの街は、漁村であった。1859年に、ロシア人がこの地域の北方で石炭があることを見つけたらしい。日本時代になると、急速な産業化の過程で、南から進んできた日本海側の開発のフロンティアがこの辺りまで達し、それまで漁港であったこの街は、従来からあった石炭産業と、王子製紙の進出に伴う製紙産業、また豊富な木材を生かした林業などの街に変わっていった。しだいに、樺太/サハリン西部の一大産業中心となったこの恵須取/ウグレゴルスクに、水陸連絡設備が完備された港湾建設の計画がたてられ、炭鉱からの石炭の運搬、港からの石炭の内地への運搬が、その港を中心に行われるはずであった。だが、その港湾開発計画も、日本の敗戦とともに放棄された。
 漁村であった時代は、海岸沿いに「海市街」が伸びていたが、工業化が進むに連れ、市街地は内陸の方へ移った。これは、恵須取/ウグレゴルスクの産業が漁業などから、石炭産業ならびに製紙業に変わったことと関係している。現在の恵須取/ウグレゴルスクの中心部は、日本統治時代に「山市街」と呼ばれた内陸部の都市の位置をそのままひきついでいる。 樺太/サハリンの産業上、大変重要な都市が、この恵須取/ウグレゴルスクなのだ。第二次世界大戦後、ここをソ連サハリン州の州都にする計画すらあったという。

私たちの車は、市役所前の広場に着いた。広場の周りには市役所、郵便局、ホテル、レストラン、文化センターなどの施設が集まっている。広場に面した道路が街の中心の大通りで、この通り沿いに主な商店、行政機能、映画館、図書館などがならんでいる。

私たちはこの広場で、市役所のミハイロビッチさんと合流した。広場に面した大通りを博物館へ向かって歩きながら、市内の様子を見た。この日これまで訪問した街は豊原/ユジノサハリンスクと比べて寂しい街が多かったが、この街は人通りが多く、活気があった。建物は社会主義住宅が多かったが、一階部分を商店として利用しているものが見られた。街路や公園はよく整備されていた。市役所の方によると、それらの公園は街の若者たちによって整備されているらしい。

広場から5分ほどで、地元の有志が手作りで資料を集めてできたという市の博物館へと着いた。博物館の入場料は一人250ルーブル、写真を撮るには1枚50ルーブルと、かなり高額だった。
 博物館に入ると、職員の方に案内していただいた。博物館は、自然、社会、歴史といった具合で三つの部分に分かれており、私たちは時間の都合で残念ながら自然の部分は見ることができなかった。残りの、社会、歴史の部分を見学することで、恵須取/ウグレゴルスクの産業や社会について理解を深めることができた。

博物館には、1981年に、恵須取/ウグレゴルスクの旧日本人住民によって作られた、貴重な「海市街」の地図が展示してあった。それによれば、海市街は、日本時代に大きく栄えていたことがわかる。

この他に、日本時代の神社にあった狛犬、オルガン、ヤカン、石臼などの日本時代の生活物資を展示した部屋などを見学した。道端から引き抜いてきたらしい、基本図の測量に使った水準点の標石も展示してあった。しかし、この石が何を意味するのか現地のロシア人にはわからなかったようで、私たちに尋ねていた。なにか、境界石とでも思ったのかもしれない。
 産業についても、館員の方が説明してくださった。
 ソ連時代になっても、製紙業は、ここでも戦前の王子製紙の工場をひきついで発展した。
 また、街の近くには、樺太/サハリンで最も大規模な露天掘り炭鉱がある。そしてこの付近でも、石油・天然ガスの存在が二年前に判明したらしい。ただ、現段階では事業化への行方は不透明である。
 漁業については、日本時代から盛んで、ソ連時代にはソホーズを中心に行われていたが、市場経済化に伴い、漁業は潰れてしまった。しかし、それは最近復活しつつあるという。農業は、市場経済化以前には4つのソホーズがあったが、それらはすべて潰れた。しかし、個人農によって農業生産は受け継がれ、ジャガイモ、トマトが特産である。
 このトマトを露店で買ったゼミ生によると、甘みがあって大変おいしいものだった。恵須取/ウグレゴルスクの野菜の自給率は100パーセントであるらしく、豊原/ユジノサハリンスクなどへも出荷されているようだ。


活発に採掘される、露天掘りの炭鉱

市街をもっと視察したいところであったが、夜行急行の出発時間が気になる私たちは、恵須取/ウグレゴルスクをあとにしなければならなかった。途中に露天掘りの炭鉱があることがわかったので、私たちはそこをのぞいてみることにした。
 30分ぐらい自動車で進むと、その炭鉱ゲートに到着した。許可が無いため、そこから先に入ることができなかったので、入口から中の様子を窺った。露天掘りの様子は遠くてよくわからなかったが、石炭を満載したトラックが盛んに往来し、いまも大変活発に採掘されている炭鉱であることがわかった。


円錐形の美しい山に見とれる

自動車で南下を開始し、珍恵/オザダチリフ峠を越えるあたりで、まぢかに円錐形の大変美しい山が迫って来た。私たちは停車してよく見ようとしたが、ドライバーは猛スピードで先を急いでいる。私たちはなんとかこの山を鑑賞したいと、しばらく山が美しく見えるポイントを探っていた。だが。沿道の木が邪魔して、なかなかよい場所がない。
 ようやく木が切れたので停車してもらい、山を鑑賞をした。それは、釜伏/クラスノフ山という名前で、夕焼けに映える姿は、富士山のように美しかった。明らかに、古い火山である。北海道から東には太平洋をとりまく新しい火山列が千島からカムチャツカへと続いているが、北には、利尻島、そしてこの釜伏/クラスノバ山と、古い火山列が続く。北海道が、その分岐点となっているのだ。日本統治下ならば、百名山かなにかに指定されて登山者を多く迎えたにちがいないこの美しい山には、登山道もない。山頂は、訪れる人も無いままひっそり眠っているのだろう。もっと見ていたかったが、あまり遅くなると暗くなるし、列車の時間もあるので、私たちは再び自動車に乗り込み、出発した。

私たちは、珍内/クラスノゴルスクまで戻ってきた。車は、湖の岸で止まった。対岸が、日本時代に作られた旧市街で、私たちが立っている側がソ連時代に作られた新市街である。しかし、旧市街には社会主義住宅が建ち並び、私たちの見ている側からは日本風の建物は確認できなかった。旧市街と新市街を結ぶ湖には、木造の橋がかけられている。丸太が積み上げられた橋脚は、大変美しい。川とその対岸の町並み、夕焼けをバックに、絵のような美しい風景だった。ロシア人の少女たちが橋の所で遊んでいた。

海岸沿いを美しい夕日を見ながら走って行くと、かなり大きな日本時代の重油発電所の廃墟があった。 そこから一時間半ほどすると、再び久春内/イリンスキー駅前に着いた。駅には、ちょうど、豊原/ユジノサハリンスク発、泊居/トマリゆきのローカル列車が停まっており、駅前広場は多くの人でにぎわっていた。日本製ディーゼルカーの車体には、旧国鉄と同じ字体で車両番号が書かれている。かつては、日本の国鉄の中古車「キハ58型」が多く走っていたというが、いまはすべて廃車されたようである。 昼食を買った売店で今度は夕食を買う。私は、ソーセージと飲み物を買ったが、二回連続でこうした売店で買ったもので食事を済ませるのは、なかなか辛いものがある。


北に向かう夜行急行の豪華寝台に感動

恵須取/ウグレゴルスクを出て三時間半ほどした午後10時ごろ、私たちはようやく白浦/ウズモーリエ駅前へと到着した。ここで、私たちは北に向かう夜行急行列車に乗るのである。荷物を降ろして私たちは、早朝から一日お世話になった自動車と別れ、各々駅の近くの売店で食料などを買った。
 駅のホームは日本のように高くなっておらず、低い。改札があるわけでもないし、切符も売っていない。ホームは工事中で、足下は砂だらけだったが、暗くてよく見えなかった。そこで列車が来るのを待っていたが、途中で旅行者と思われるロシア人が「リュックサックを交換してくれ」などと言って私たちに絡んできた。成さんが追い払ってくれたことで事なきを得たが、辺りが真っ暗、しかも言葉が通じないので、不安を感じた。そうこうしているうちに一時間ほどで列車が到着し、あらかじめ用意してあった切符を持って列車に乗った。

この列車は、サハリン鉄道の看板列車、寝台急行「サハリン号」だ。この列車に乗れば、次の日の午前10時ごろにノグリキに着く。車両は、大陸を走る客車の台車を狭軌に履き替えた大型で、基本的にロシア様式の設計である。夜行にはこれ以外にもう一本あるようで、そちらの方の設備はどうなのか、よくわからない。

 私たちが利用した車両は、特にきれいに改装されていた。もしかしたら、外国人を優先的に乗せる豪華な車両だったのかもしれない。寝台部分は4人一部屋のコンパートメントで区切られ、カギをかけることができるドアも付いている。廊下部分は絨毯が敷かれ、窓には赤い色のカーテンが付けられている。また、廊下の小さな共用スペースには給湯器が設置され、カップ麺やコーヒーにお湯を利用することができた。しかもその給湯器には透明なカバーで覆われ、ますます豪華な装いだ。日本の寝台車は、簡素なつくりのものが多いので、豪華客車に乗ったゼミ生は、一同感動ものであった。

何人かのゼミ生は、あらかじめ購入してあったカップ麺をそのお湯を利用して食べた。ロシアのカップ麺にはフォークが付いており、なかなか気の利いた仕様である。 豪華設備はこれだけに止まらない。なんと廊下には電光掲示板が設置されていた。電光掲示板には、時刻と外の気温、さらにはトイレが使用中かどうか示すランプまで付いていた。しかもそのトイレには、大変珍しく、便座が付いている。便座無しの便器、さらには穴を掘って木の板で囲んだだけの公衆トイレを使い続けてきた私たちにとって、便座付きのトイレも感動ものだった。もっともそのトイレも、現在の日本の電車に設置されたタンク式トイレと違い、昔の日本国鉄のように、便を線路の上に垂れ流しである。それゆえ、停車中は使えない。
 肝心な走りと言えば、スピードはそれほど出ていなかったものの、大陸の広軌の客車にJRと同じ狭軌台車をはかせたにしては揺れずに安定しており、快適な車中生活を送ることができた。こうした豪華な設備のためか、最近、この寝台急行の利用者は多いようだ。北の石油基地に向かう技術者のような乗客も見かけた。かつては設置されていた食堂車は、廃止されたようだ。利用者が多ければ、食堂車を無くしてそこも客車にした方が、効率が良いのかもしれない。
 各車両には、女性の車掌が乗っている。その女性は、シーツ代金の徴収、検札、給湯器管理など、乗客の世話係のような仕事をしている。一般的に、こうした世話係のような女性の車掌は旧社会主義圏の国の鉄道に存在するらしく、中には乗客に食べ物や飲み物を非正規で販売したり、予約せずに乗った客から賄賂をもらって予備の客室を確保してやったりなど、私的なアルバイトに公務の傍ら励む者もいるようだ。私たちを担当していた車掌は、何も売っていなかったようだが、もしあったとしたら、食べ物や飲み物を買ってみたかったものだ。

私は水岡先生、徐先生、ガイドの成さんと同じコンパートメントになった。そこで水岡先生が駅の近くの露店と売店で買ったカニと、ペットボトル入りビールをいただきながら、一日の疲れを癒した。ビールはいかにも安物といった感じアルコール臭く、あまりおいしくなかったが、カニは100ルーブルという破格の値段でまるまる1匹が手に入り、大変においしいものだった。砂だらけの車内にずっといたため体が大変汚れていたが、もちろんシャワーなど無い。しかし、疲れとアルコールのせいで、私はすぐに眠りについてしまった。

(長江淳介)

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