オシュは、中央アジアで最も歴史のある都市のひとつである。古くからシルクロードの交流において重要な役割を果し、また中央アジアのイスラム教の普及によって中央アジアのイスラム教徒の聖地となり、商業的だけでなく宗教的にも重要な拠点となった。
13世紀に、モンゴル軍の侵略を受け、街は一時衰退した。その後、コーカンド汗国に含まれ、その支配下に置かれた。ソ連による支配が始まると、スターリンによって、民族を分割統治するために、でたらめな共和国の境界線が画定された。本来ウズベク族が大多数を占めるこの地は、ウズベク側ではなく、キルギス側に組み入れられてしまった。これは商業的にまた宗教的にも重要な拠点であったこの地の勢力を削ぎ落とすことが目的であったと思われる。このことによって、この地において、ウズベク族とキルギス族との民族問題を生み出す事になった。そして、この民族問題は1990年にオシュでウズベク族とキルギス族の民族紛争の勃発という形で大規模で現れ、多数の死者を出した。
その後、ソ連の崩壊によって、ソ連時代の共和国の境界がそのまま国境線になり、この地はキルギスの一部となって今日に至っている。
朝の7時半、外は雨模様だったが今日の私の体調はよく、さわやかな目覚めだった。階段を降りていくと、水岡教授に「体調は大丈夫か?」と聞かれ、私はなぜ今日に限ってそんなことを聞くのだろうと疑問を感じた。階段を降りきって廊下を見てみると、ゼミ生が一人、みぞおちにヘビー級チャンピオンのボディブローを受けたかのような体勢でうずくまり、唸っている。どうしたのだろうと思って事情を聴くと、そのゼミ生は昨日シシケバブのつくねをたらふく食べて、激しくあたったらしい。他にも、もう一人あたってダウンし、そしてあたってはいないが体調不良で二人ダウンしていた。アルマティでも、つくねに当たったゼミ生がいた。つくねの原料のひき肉は、賞味期限切れの肉を処分する為ではないのかという疑惑もある。食べないことを強く勧める。
仕方なく、その日の視察は教授と2人のゼミ生で行い、残りの人々は、ゲストハウスで静養して体調の回復を図ることとなった。われわれはまず、ソロモンの丘Solomon’s Throne(スレイマン山)に行った。ソロモンの丘は、中央アジアにおけるムスリムの聖地で、中央アジアのムスリムがこの地を訪れる場所である。ソ連時代前にはモスクがたくさん建てられていたが、ソ連によってそれらは破壊され、別の建物が建てられた。しかし、後にムスリムによってモスクを再建され、現在に至っている。
我々は山の中腹まで車で行って、その後は歩いて頂上に登ることになった。歩道は切り立った崖沿いにあり、かなり勾配があったが、歩道は整備されており、手すりもついていて安全だった。この山に巡礼する人はなりいることが予想される。
歩道を歩いて10分ほどすると、Holy Caveと呼ばれる全長8m (ガイドの話では18mといっていたが、そんなにあるとは思えなかった)の洞窟があった。腹這いになって中に入ると、入口から2mほどのところに、メッカに向かって礼拝する場所があった。礼拝の際に膝をついていくうちにできたという穴があり、床は礼拝を重ねたせいでつるつるになっていた。また身を清める雫の落ちている所があった。そこから左上にも洞窟が続いていて、進んでみたが特に中は何もなかった。
洞窟を抜けしばらくすると、腕を突っ込む穴、懸垂場や滑り台など、わけのわからないものが立て続けにあった。ガイドに聞くと、これはシャーマニズム的なもので、いずれも3回ずつすると健康になる、願い事がかなうなどのご利益があると話してくれた。色紙を木の枝にくくりつけている、おみくじみたいなものも見かけたので、聞くと、アミニズム的なもので空、水などの魂や霊を結びつけて一体になろうとしたらしいと話してくれた。
なお歩くと、バブールの家Dom Baburaについた。このモスクは、1847年コーカンド汗国によって建てられ、ソ連が破壊したが、後に再建されたものである。
今までのモスクと違い、ムスリムでない我々もモスク内に入ることができた。入ってみると、絨毯が敷き詰めてあり、意外と思ったよりもこぢんまりしていた。イスラムのシンボルである空飛ぶ馬が飾られてあり、また礼拝するところにはひじを置く用のくぼみがあるなど、外観からは分からないモスクの礼拝所の様子が分かった。
歩道はモスクまでで終わっており、山の頂上に行くには岩場を通るしかない。岩場は崖になって切れ落ちており、少しでも道を踏み外すと転落してしまう悪路だった。私は頂上を目指して慎重に登った。頂上はまだだいぶ先だったが、そこまで行くと100%生きて帰ってくる自信はなかったので、途中の少し平らになっているところでやめた。そこから、オシュの綺麗な町並みを見渡せた。中でも印象的だったのは、街中で貧富の差がはっきりと現れていたこと、そして政府が家不足解消の為に空き地を開放した結果、都市の周辺でスプロール化が進んでいることだった。
この山では、イスラムの聖地と中央アジアでのイスラムの様子の双方を感じとることができた。山には2箇所ほど、食べ物や飲み物を売っていた小さな露店があっただけで、他に観光地らしい店や飾りなどはなく、ほぼありのままの姿の山であった。その為、今まで少し神経質になりながら感じていたマスツーリズムの匂いから解放され、観光地としてではなくイスラムの聖地として、心置きなくこの山にいることが出来た。
見学を終え、反対側に山を下りた。そして、休んでいるゼミ生の様子を見るために、いったんホテルに帰った。体調が回復し、見学に参加できることになった1人を加えて、今度は新歴史博物館に向かった。この博物館はオシュの3000年記念の一環として建てられたものである。博物館で入場料150COMを払ったまではよかったが、写真1ショットにつき10COMという法外な値段だったので、写真を撮れなかった。
博物館は、今までと同じソ連タイプのもので、人類誕生から始まって土器の展示、シルクロード、バブール、当時の最先端の科学者、絨毯やポロのような馬のゲームなどの文化の紹介と続き、キルギスへ勢力を拡大していくコーカンド汗国の地図、イルクーツクからウラジオストクと大連に向かう東清鉄道を建設しつつ帝政ロシアの支配が極東へと拡大していく様子を表している地図があり、最後はソ連時代と崩壊以後の展示で締めくくるという順序だった。部屋全体の照明は、ソ連の展示を除いて暗かった。これは、ソ連時代の事を輝かしい時代として強調する目的かもしれない。
この博物館と、ウズベキスタンの博物館と比較ながら考えた。博物館は多くの人の目に留まる。特に、学校の生徒が来る。その為、博物館には国民に政府の思想を植え付けようとする動機がある。博物館を調べることで、その国のあり方が非常によく分かるのである。ウズベキスタンの博物館には、ヌクスでも見られたソ連の徹底批判を軸に展示が進められているものや、ティムールを強調してアイデンティティの強調し、また現在の政府を肯定しようという動きが見られた。この国は、今のロシアとは違う路線を行く事でウズベキスタンのアイデンティティをより強化しようとしているのである。一方キルギスの博物館は、帝政ロシアの統治を否定しつつ、ソ連と現在のキルギス政府の両者を賞賛している。キルギスはソ連時代の遺産の恩恵を受けているという側面が非常に強く、政府はいぜん、ソ連に片足を乗せながらキルギスとしてのアイデンティティを確立しようとしているのである。
次いで、博物館としては大変珍しい、洞窟の中に展示物がある旧歴史博物館も訪れた。そこに行くには、始めに登ったソロモンの丘の中腹までまた行かなければならないのだが、その際ドライバーが、余計に二度も同じところに来させたとして15ドル払えといってきた。当然、その要求は拒否したが、この国の旅行社のサービスはどうなっているんだと、観光立国を表明しているキルギスの観光サービスのあり方を疑ってしまった。
この博物館も、入場料150COM,1ショット10COM という値段設定で、われわれは入場料のみ払って中に入った。内装は、本物の洞窟の中に博物館を作っただけあって壮観だった。ゾロアスター教の拝火の台があり、また天井がソ連のマークである星型になっている、絨毯にキルギス共産党と書かれてあるユルトの展示があった。
その後、ホテルに帰った。ゼミ生はみな体調が回復しており、全員で外に昼食を食べに行った。今度は、きちんとしたレストランに入ったが、中は結構込んでいた。さすがに、昨日のことがあってか、肉類は全員避けていた。
この先、カシュガルまで、目立った都市は全くない。旅の非常食を買うために、ゲストハウスの隣のレストランRich Manが経営する食品店に行き、。残りのキルギス通貨を清算して、ありったけのお菓子、ジュースを買いこんだ。
午後3時ごろ、いよいよオシュをあとにし、われわれはかつてのシルクロードに沿い、天山山脈に分け入って、カシュガルへと移動を開始した。
オシュを出る前に、私達はレーニン通りと呼ばれている道を通った。この「レーニン通り」は、元は1つ筋の向こうの、中心的な都市機能が集中している通りを指す名前であったが、それがソ連崩壊後、1ブロック裏の道の名前にされたのである。「レーニン通り」といわれると一体どちらの通りを指すのか、紛らわしいことこの上ない。しかし、キルギス政府が旧ソ連の遺産にどのような姿勢を取っているか、象徴的な事例ではある。
オシュからグルチャまでの道は、今までのキルギス国内の道の状況が悪かった事もあり、かなりの悪路を予想をしていた。しかし、郊外に出ても、道の状況は悪くなかった。道の途中で、われわれは、標高2406mのチギルチクChigirchik峠を超えた。峠には木が生えていなかった。また、移牧の風景も見られ、尾根通しに急な道が何本もついていて、移牧が山全体で行われている感じであった。途中、路線バスとたくさんすれ違った。公共交通機関の整備は、農村部でもかなり充実しているようだった。
今晩の宿は、オシュから81km離れたグルチャGulchaという町に民泊である。着いたのが午後5時ごろ、標高2000m近い高地とあって、大変寒かった。グルチャは、計画都市らしく、道路が碁盤状に整備されていた。人口は2万人近いというが、本当にそんな数がこの町にいるのだろうかと大変不思議であった。ガソリンスタンド1軒以外、商店街などは全く見あたらなかった。しかし一方で、文化施設としてホールのようなものがあり、電気や水などのインフラは、もちろん整備されていた。また、ソ連式の国営住宅もあった。こんな奥地の町にこれだけの設備が整っていることから、ソ連の社会主義政策のすごさと、国境に通ずる道沿いが戦略的に重要視されているという事が分かった。下校途中の小学生は、ソ連時代には校則で決まっていたらしい赤いスカーフを、今でもほとんどが巻いており、ソ連時代の名残を色濃くにじませていた。
今晩の宿は、外見は少し古臭い一軒家だったが、中に入ってみると、本棚、立派な椅子やテーブルや派手な内装のダイニングルーム、そしてユルトのような内装の寝室などがあって、結構豪華であった。居間には、ソ連時代のいろいろな表彰状のようなものが置かれていた。かつては、地元の共産党の関係者だったのかもしれない。しかし、休む暇もなくわれわれは、町外れの農家に聞きとり調査に行くため、すぐに車に乗り込み出発した。
かなり広い谷に沿って車に乗ること10分。道路の周囲には、結構集落が密集している。市場経済化が進むにつれて、人々は都市で高い現金での所得機会をもとめ、農村は過疎になっていくことを考えると、まだキルギスには市場経済が全国的に浸透していない事がうかがえる。道の真ん中で車をおり、あまり整っていない、糞がその辺りに散乱している山道を通って、ソクタシュSoku Tashという集落にたどり着いた。この集落には、電線や水道はあるが、その他は自然そのままといった感じの農家であった。電話は無い。
その集落で、農家の人に話を聞ける事になった。この農家の人は、高齢の人は民族衣装を身にまとっていた。一方で、子供になると洋服や運動靴を身に着けていた。この奥地にも、そのような商品経済が浸透しているのだ。
この集落には、11世帯、50人の人が住んでいる。聞き取りをした農家では家畜業が営まれており、500頭の家畜を飼っている。ソ連時代には、コルホーズの一部を構成していた。今では、5つの村でひとつの集合体を形成して集団農業を行い、一棟あたり500頭ほどの羊、牛や山羊を飼っている。家畜の所有権は、個別の農家に属する。ソ連崩壊後、家畜数の制限がなくなり、家畜飼育頭数は以前より10倍に増え、また今までsecurutyとしてソ連政府に支払っていた、1ヶ月1000COMもなくなり、所得が増加して、生活は飛躍的に向上した。現在の所得は、生活費を払って余りある額だという。育てた家畜は、10COM程度でバスを借りてグルチャに運ばれ、そこのバザールで一頭あたり2000~3000COMで2,3頭売る。得た金は、その日にバザールで他の商品と交換してしまう。
家畜の放牧に使う山などの土地は基本的に政府の所有物だが、農家は自由に使える。また、家を建てるとき、また自用の野菜を作る目的などの自留地については、地代が必要で、年間1uあたり100COMで借りられる。雪が降る冬季は、小屋で家畜を飼う。
学校は、4kmくらい離れた隣の集落のクルコにあり、11の村から集まってくる。そこでは高校の課程まで、一貫教育で教えられる。その学校に行っているという、この農家にいた高校1年の少年は、アカエフ大統領から賞をもらった事のあるという秀才であり、将来法律家になりたいと話していた。こんな奥地でこのような優秀な人材を生み出せる事も考えると、教育を始めソ連時代に構築されたインフラの正の遺産のすごさを実感せずにいられなかった。
ただ、聞き取りの最中、集落の首長だという途中からきた旧共産党員のおじいさんにスパイと間違われ、写真をなかなか撮らせてくれなかったりした。
聞き取りの謝礼ということであろうか、われわれは羊の頭の骨格、工芸品のカップなどを買うよう求められた。骨格は50米ドル、カップは10米ドルだという。外国人から米ドルを求める人々の行動様式は、このような奥地の山村まで浸透しているようだ。われわれは、感謝の気持ちを込めて、10ドルのカップセットを買うことにした。そして、最後に記念写真を撮影して終わった。
この村を訪問して感じたのは、都市部よりも田舎の方が旧ソ連の名残を残しているという事だ。キルギスでは、まだ旧ソ連の制度の遺構が重要な役割を果たしていることを実感した。そして、旧ソ連では、教育やインフラが広大な国の隅々にまで施されていた点に感心させられた。その様子を見ていると、実は、キルギスの経済と社会を支えているのは、米国直輸入の市場主義制度云々などではなく、旧ソ連の政策なのではないかと思った。
こうして農村からもどり、我々は民泊先に帰り、なかなか豪華な夕食をとり、ウォッカなど飲んで騒ぐ気力のないまま、やけに獣くさい布団で寝た。
最後に、私が本日の巡検で感じた事を、2つ書いておきたい。
第1は、外務省の「海外安全情報」なるものについてである。これによると、私達が巡検に行く前、オシュには「渡航の是非を検討してください」という勧告が出されていた。しかし、実際行ってみると、オシュやその近辺は全く危険を感じるような地域ではなかった。夕飯も、日中の見学も全く安全だった。われわれは、外務省の情報に頼らず、自分達で実際に調べて危険かどうか判断することが重要であると感じた。もっとも、これは外務省だけの責任ではない。われわれ一般の日本人も、意識の中で、あまり名前を聞かない国や地域、過去に危険だといったんふきこまれた場所は絶対に危険だと思いこんでしまいがちなのも事実である。これは、日本において、マスツーリズムが普及しすぎ、個々のツーリストに事実関係の把握力が欠如していることに理由があるように思える。われわれは、そのような偏見を取り払って、真の情報を把握することが重要である。
第2は、「オシュ3000」というキャンペーンについてである。始め、なぜわざわざビシュケク2200と並列して行われているか不思議だった。しかし、オシュはもともとウズベク族の土地である。オシュにおいて、政府は1990年のような紛争を警戒しており、オシュのウズベク族への懐柔策として、ウズベク族の伝統を尊重する「オシュ3000」のキャンペーンを展開しているのではないだろうか。このように、キルギスは、イスラム原理主義運動やオシュにおける民族問題などを抱えており、その面においても私は先行きの不安を感じた。