■ イシククル湖 2003 9.4


今日は、ビシュケクを出てイシククル湖北岸を通り、Kungey Alatau山脈の東端、つまり行きとは反対側を通ってアルマティへと戻る。今日は移動距離が長い。早くしないとアルマティ着が深夜になってしまう。ホテルで西洋風のとてもおいしい朝ごはんを食べ、あわただしく荷物をまとめて、ビシュケクを7:40に出た。

イシククル湖へ向かう

ビシュケクのホテルを出てしばらくすると、一戸建ての家が密集した郊外をとおった。この辺りは、ソ連時代に公営集合住宅に入居しなかった人々が、住宅を入手するため、市政府から土地の割当だけを受け、自分の費用と資材で建設した戸建住宅が立ち並ぶ一帯だ。アルマティの郊外にもみられたこのような郊外化は、住宅インフラ整備の立ち遅れが社会不安を生まないようにした、旧ソ連の社会統合政策の表明だといってよい。

進行方向右手に、天山山脈が霞んでいた。この日天山山脈ははっきりと見えなかったものの、頂上に雪をいだいた険しく高い山々であることが感じられた。キルギスはこの東西に連なる天山山脈に国土を分断されており、例えばビシュケクからオシュに行くのでも3000m前後の峠を越えなければならない。天山山脈を中心とした新期造山帯の山脈は国の空間統合の妨げとなっている。小国にも関わらず空間統合が極めて難しいというのはキルギスを経済発展させていく上での大きな障害であり、克服すべき課題である。

途中畑の中に馬に乗ったおじさんがいた。馬に乗った人を見ることはキルギスでは珍しくなかったのだが、大都市ビシュケクの近郊のこのあたりで見かけようとは思わなかった。写真を撮ろうと車をおりると、こっちに寄って来てくれ、われわれは馬とおじさんと一緒に写真をとることができた。観光地以外で馬を近くに見ることはここがこの旅で初めてだったので、うれしくなり、写真をたくさん撮った。そして最後にチップを渡すと、おじさんは馬に乗って帰っていった。このおじさんは観光客を見かけると写真を撮らせ、そのチップを生活の足しにしているのであろう。もともとは写真を撮った観光客がチップをくれたのだろうが、それが重なって自分から近づいていくようになったのだと思われる。

しばらく行くと進行方向左手にチューChuy川が見えた。肥沃なチュー盆地を貫くこの川の名前は、ビシュケクのメインストリートにもつけられている。チュー川は、このあたりでカザフとキルギスの国境をなしていて、前々日アルマティからビシュケクに行く時にもわれわれは橋を歩いて渡った。このあたりでは、フェンスはもとより特に国境を示すようなものはない。水量が少ない時には川を歩いて渡れそうだ。道はしばらくチュー川を左に見ながら川沿いを走るが、川は蛇行していて道はまっすぐなので、途中道はチュー川を越えカザフ領に入る。そしてまた1kmもしないうちにチュー川を越えてキルギス領に戻る。パスポートチェックなどは全くない。国境の川沿いを走っていると知らなかったら、カザフ領に入ったと気づくことはまずないだろう。川にはたまに橋がかかっており、そこには小さな国境管理所がある。ガイド氏によれば、地元の人なら5分以内に国境を渡れるだろうとのこと。ソ連が崩壊して共和国が独立したことにより生活圏が2つの国に分かれても生活圏は維持されているようで、国境を越えている人は多かった。国境には国と国の関係がよく表れる。キルギスとカザフは安定して親しい関係なので、チュー川の国境管理が何もされていなくても特に問題ないのであろう。

チュー川が見えなくなってくると、車は次第に山間部に入って行った。迫る山々がとてもキレイ! 標高が割合高いため木や草が多く生えており山は緑色。このあたりは、意外だが地中海性気候区である。

しばらく行くと道沿いに線路が走っていた。線路は錆びておらず、列車が今も走っているようだ。この鉄道は、イシククル湖への旅客輸送のために建設されたという。ソ連時代に、イシククル湖周辺では、兵器の実験も行われており、湖岸には工業都市もあったから、貨物輸送や軍事的な機能もあったのかもしれない。だが単線で運行本数も少ない。Lonely Planetによると1日2本運行されているということになっている。われわれは、線路の横を通っている間1度も列車が走っているところを見なかった。また、駅も1ヶ所しか見かけなかった。もう線路が引いてあるのだから、きちんと整備すれば観光鉄道として、まだまだ利用のポテンシャルはあるのではないだろうか。

途中ガソリンスタンドに寄り、その際トイレ休憩ということで一度車から降り、トイレに行ったり水やおやつを買ったりした。ガソリンはセルフサービスであった。私はここで袋入りのスティックアイスを買った。一本12ソム(約34円)。味は日本でもあるようなバニラアイスで、おいしかった。ちなみに、袋に入っていない、コーンカップのついたアイスもあった。値段は袋入りのものより安かったのだが、衛生状態が不安だったのでやめておいた。

山を抜けると、「ここから国定公園」というチェックポイントがあり、そこで一人10ソムを払った。チケットには「環境保全のためのお金」と記載されていた。そのチェックポイントのすぐそばに、旧ソ連時代からの工場があったのは、皮肉だろうか。

イシククル湖

バリクチ(Balykchy)の町を過ぎると、待望のイシククル湖が見える。イシククル湖はきれいな水色で、とても大きな湖だった。以前に天池を見た時のことや、日本でよく見る地図から「イシククル湖は点くらいの大きさの湖だ」というイメージがあったわれわれに、イシククル湖は、まるで海のように大きかった。対岸はよく見えない。だが、頂上に雪を抱いた天山山脈は、霞んでいるにもかかわらず湖の向こう側にすぐ聳え立っているように見え、そのコントラストは、日本では考えられないほど雄大であった。このような景色は北岸沿いを走っている間ずっと見ることができた。イシククル湖はチチカカ湖に次ぐ世界で二番目に高いところにある湖で、水面の標高は1609m。また最深で702m。新期造山帯の賜物である。

湖岸をしばらく走ると、左手にイシククル国際空港が見えた。イシククルへのアクセスはビシュケクからのバスが一般的だが,アルマティ行きのフライトも一応存在する。アルマティとイシククル湖はちょうどKungey Alatau山脈をはさんで互いの反対側にあり、ここを越えれば、最短距離でアルマティとイシククル湖が結ばれる。このフライトの運行は夏季のみ、小型プロペラ機で、便数はわからないほど少ないそうだ。ガイド氏曰く、「道路があまり良くないからといって飛行機に乗る人もごくたまにいるけどプロペラ機だし、4000m級の山越えだし、飛行機の方があぶないのでは。乗ったことがあるけど、激しく揺れて怖かった」とのこと。現在は、Kungey Alatau山脈の4000m級の稜線を越えて2つの地点を最短距離でつなぐ道路を建設中である。われわれは、空港からしばらく行ったところでこの建設中の道路を見かけた。草しか生えていない急な山の斜面に、グネグネとした九十九折の道が、山の中腹まで建設されていた。山が険しく急なのはどうしようもないことであるが、これでは道が完成しても、大型車は通行できないであろう。果たしてこれは使い物になるのかと、いささか不安を感じた。もっとも、アルマティに通ずる道路を造って観光インフラを整備しようとしている努力は、評価できる。もし、やがて「使える」道路が完成すれば、アルマティ空港を使用する人が今よりずいぶん短時間でイシククル湖を訪れることができるようになる。そうすれば、イシククル湖の観光産業のポテンシャルは、いっそう高まるであろう。

片道1車線の道路はわりと整備されており,走り心地は良い。道沿いには小さな町や村が切れることなく続き、イシククル湖の周りに割合と人口が集中していることを感じさせた。道沿いには、小麦畑や牧草地が広がっている。道には馬に乗った人はもとより、人に先導された馬、牛、羊、やぎ、にわとりなどがいて、道の真ん中を歩いている。車が来るとたいがいはよけてくれる。馬は、白い毛のものも栗毛のものもいる。また、牧草をどっさり積んだ馬車がひんぱんに通り過ぎる。服装は洋装だが、白と黒のフェルトでできた民族帽子をかぶった人も、年齢を問わずよく見かけた。

チョルポンアタ市内 

Balykchyから約80km走り、イシククル北岸で最大の町、またイシククル湖観光開発の拠点であるチョルポンアタ(Cholpon-Ata)に入った。アカーエフ大統領の別荘もここにあると言われている。市内には、水着や短パン、Tシャツを着たロシア系の観光客の姿が散見された。ここはイシククル湖観光開発の拠点であるが、我々日本人の目からすると商店もホテルも娯楽施設も少なく、観光地・保養地というよりも田舎町の印象である。観光客の少なさはシーズンが終りかけているので仕方ないといいたいが、シーズンがたったの2〜3ヶ月では商売にならないだろうし、9月初旬ならまだシーズンといえるかもしれない状況を考えると、やはりまだまだ、観光地・保養地として発展しているとは言えないであろう。

町にはこぢんまりしたイシククル博物館があり、イシククル湖周辺の考古学や、野鳥などの自然、音楽・衣装などの文化に関する展示がされていた。またアカ―エフ大統領に関する展示コーナーもあった。ここでは、フルカラーかつ英語で非常に詳細にかかれた「キルギスの音楽(CD付)」「キルギスの民族衣装」という,いかにも先進国から来た観光客向けの本を売っていた。私は非常に心引かれたのだが、一冊30米ドルという値段に負け購入を断念した。そのときは「日本に帰って色々調べればこのくらいの資料は出るだろう。もしかしたら本だってネットで売ってるかも。」などという甘い期待をしたが、帰国後すぐその考えが甘すぎたことが発覚した。悲しいことだが、キルギスはまだ知名度の低い小国であり、そこの文化にあれほど特化した本やその情報はそこでしか得られないものだったのである。めったに行けない旅行先にあった資料は二度と手に入れられないので多少高くても買っておくべし―このことは私にとって非常に大きな教訓となった。

ホテル オーロラ

その後われわれは、Issyk-Kul Sanatorium、通称「オーロラ(AURORA)」に向かった。ガイドブックにはIssyk−Kul Sanatoriumと記載されているが、ガイドは、サンクトベテルブルクでロシア革命に活躍した艦船名からとった「オーロラ」という名しか知らなかった。このホテルは、旧ソ連時代に共産党の特権階級の保養所としてつくられたもので、現在は一般のホテルとして営業しており、金さえ払えば誰でも入る事ができる。外装はソ連時代に特徴的な無機質なコンクリートづくりであるが、ソ連時代のものにしてはかなりきれいである。内装はシャンデリアや絨毯、社会主義リアリズムの大きな像などがあってとても豪華かつ重厚な雰囲気である。プライベートビーチや広い庭園もあり、非常に整備されている。さすがに特権階級向けだ。「平等な労働者階級の国」であったはずの旧ソ連という国が実はなんであったのか、この「オーロラ」は、われわれに言わず語りに教えてくれた。

以下は、AURORAの料金表である。

 
シングルルーム ダブルルーム
1月 1380ソム(約3942円) 2300ソム(約6571円)
2月 1380ソム(約3942円) 2300ソム(約6571円)
3月 1380ソム(約3942円) 2300ソム(約6571円)
4月 1380ソム(約3942円) 2300ソム(約6571円)
5月 1640ソム(約4685円) 2760ソム(約7885円)
6月 1840ソム(約5257円) 2950ソム(約8428円)
7月 2530ソム(約7228円) 4600ソム(約13142円)
8月2530ソム(約7228円) 4600ソム(約13142円)
9月 1840ソム(約5257円) 2950ソム(約8428円)
10月 1380ソム(約3942円) 2670ソム(約7885円)
11月 1380ソム(約3942円) 2300ソム(約6571円)
12月 1380ソム(約3942円) 2300ソム(約6571円)

*これは、スタンダードルームの料金である。これ以外に、ダブルのLUXルームがある。値段はだいたいスタンダードダブルルームの二倍である。値段変動は、スタンダードと同じ状況だ。夏のシーズン期と秋冬の閑散期で価格が2倍以上開いている。これは、夏に客が集中する一方、それ以外の時期にはほとんど客が来ないということを表している。

建物の湖との間に広がる大きな緑の庭園には、白いバラが植えてあり、白樺がきれいに植林されていた。白樺はロシアにはどこにでもある木だ、とガイド氏が教えてくれた。前に見たウルムチの人民公園と同じく、ロシア人たちが故郷を感じられるようにしたのであろう。大きな恐竜の彫刻があったのには驚いた。

われわれは、庭園を抜ける遊歩道を通ってビーチへ向かった。ビーチには人が20人位いて、泳いだり備え付けのすべり台で遊んだり、体を焼いたりしていた。ほとんどがロシア系の人であった。イシククル湖の水は20℃くらいだろうか、思っていたより冷たく、とても透明であった。塩湖ということなので水をなめてみると、海の水ほどではないが少しだけしょっぱかった。砂粒は大きめの整ったものでとてもさらさらしており、足を入れると埋もれるほどだった。

その後われわれは、ここのレストランで昼食をとった。真昼間なのに部屋は薄暗く、テーブルがきれいにセットされて重厚な雰囲気が漂う中で、ボルシチ、オムレツ、肉料理など各自思い思いのものを食べた。各自パンとスープ、サラダかメインディッシュくらいしか食べなかったが、一人100〜300(約285円〜865円)ソムほどだった。やはりキルギスにしては高めである。だが、このような場所で食事をとって特権階級の雰囲気を感じることができたのは、いい経験であった。

カラ・コル

オーロラを出てさらに100kmほど行き、カラコルKarakolに着いた。カラコルは、イシククル州の州都で、イシククル州で一番大きな町である。カラコルは1869年に帝政ロシアのフロンティアにあって、その支配拠点としてつくられた町であった。また、温泉が出ているためロシア人の保養地でもあり、さらに天山山脈やタリム盆地への探検の拠点でもあった。現在では、天山山脈へのトレッキングの拠点となっている。温泉に関しては、近くで金鉱が発見され金を掘るようになってから鉱害がおきて、使えなくなったという。町には英語の道路標示や看板が散見された。ここには、キルギスで活躍しているスイスのNGO、ヘルベタスが入って、観光開発の努力がなされているそうだ。町は計画都市で、碁盤目状である。

我々はまず、帝政時代のロシア風建築をいくつか見に行った。ロシア帝政様式の建造物は、窓枠、ベランダなどの造り・装飾がソ連時代のものより凝っていて美しい。積極的に保存されているわけではないようで、今もふつうに使われていたり空き家になったりしていた。また、壁が崩れている家や、家の一部を近年、既存部分とは無関係の粗雑な様式で改造した家があった。全体として保存状態は極めて悪く、荒れ果てているといった印象を受けた。ソ連時代、町はあまり栄えなかったので、これらの古い建造物を壊して新しい建造物を建てる必要がなかったのだと思われる。こういう状態を「消極的保存」という。消極的保存なのだから保存状態が悪くて当然だ。さらに、街が何らかの理由で栄えはじめれば、すぐにでも取り壊されてしまうことになる。だが、これらを積極的に保存すれば、トレッキングに来た観光客に市内観光をさせる、よい観光資源になるのではないだろうか。

その後、ロシア帝政時代の建造物の近くにあるロシア正教会Holy Trinity Cathedral(聖三位一体教会)を見に行った。この教会は帝政ロシア時代にロシア人のためにつくられたものである。カラコルでは、町ができたばかりのころユルトの中で礼拝が行われていたが、1890年に石造りの教会が建てられ、1895年に木造のHoly Trinity Cathedralが建てられた。1930年代にボルシェビキによって破壊されたが、再建築され現在のものとなっている。現在のものは丸太作りで、屋根にあるロシア正教会のシンボルを除けば一見丸太小屋風である。中に入ることはできなかったので、教会の周りを一周した。

都市の見学が終わったあと、われわれは、トイレをかりるため、大学の建物に入った。大学の前には大きな像が立っていた。ここで、観光と環境保存を専門にしている女性教授と少しだけ話をした。このような専門を持った教授が大学にいるということは、カラコルで観光開発を進めてゆこうとする努力のあらわれなのであろう。

今のところカラコルは、すでにトレッキングの拠点としてある程度名が知られているものの、町自体には観光で訪れるにこれといった場所があるわけでもなく、魅力に欠けていると感じた。たとえロシア風建築物を修復しても、それだけではカラコルを観光で訪れることには結びつかないかもしれない。イシククル湖全体として、包括的な観光開発計画が必要であり、そこにカラコルを位置づけていかなければならないだろう。

アルマティへ戻る

カラコルの視察を終えたわれわれは、陽が傾き始めた道を、アルマティへ戻っていく。行きとは違い今度は、Kungey Alatau山脈を東にまわり、そこで国境を越えて帰る。

カラコルを出てしばらくは小さな集落が続いていたが、そのうち道は山の中へ入って行った。集落はなくなり、道はくねり、道路もあまりよくなくなった。だが絶景で、山には、ところどころに木が生えていたり草が生い茂っている中に、馬や山羊が草を食み、ミツバチを養う人々がおり、ユルトが点在していた。ユルトは観光地にあるもののようにカラフルに刺繍やフェルトで模様が入っていることはなく、汚れた白一色でシンプルであった。ユルトのそばに動物小屋があったり、車があったりした。ユルトまで電気がひいてあることもあった。ユルトをかつてのように遊牧に使うのではなく、定住に使っているのだ。さらに進んで、標高が2000mを越えてくると、山の植生が、草から針葉樹林に変わった。

カラコルから約2時間、国境に近づくと、チェックポイントが次々現れた。チェックポイントはソ連時代に人の自由な移動を制限するために作られたものであるが、現在でも州境や国境近辺で残っている。それほど警戒は厳重でなく、鉄棒で作った古びた遮断機で道路を仕切っただけののんびりした雰囲気で、係官は特にパスポートを見たりするわけでもなく、たいがいはガイドが少し話をしたら通してくれた。国境に着くまでに3つのチェックポイントがあった。

キルギス・カザフ国境

さらに進むと谷は開け、あたりは一面の大草原になった。陽は遠くの山脈のかなたに沈み、あたりは真っ暗になった。Karkyraの村で道を左にとって、ステップのど真ん中を突き進むと、19時45分、粗末な小屋が二つならぶだけの国境通過地点が闇の中から現れた。この2つの審査場以外は、見渡す限りの草原だ。満天の星と月の明かりで、遠くにうっすら山並みが見える。国境を示すものは看板とこの建物のみで、隔てる川も鉄網もない。銃を持った国境警備官数人が国境を見張っている。こんな真っ暗になってからも、国境が開いていてよかった。われわれ以外に、国境を越える人はいない。この道は行きに通った道に比べると幹線道路の趣はなく、昼間でも通る人は少ないと思われた。

キルギス出国手続きは、ガイドがわれわれの名を書いた紙を出しただけで、パスポートチェックはなく、出国や税関書類の記入も要求されなかった。しかし、何が起こったか、ガイドと国境警備官達が小屋の中でもめていた。われわれはバスの中でただただ待機。わいろを支払ったからか、20分後なんとか解放され、遮断機が上がってわれわれはキルギスを出国した。キルギス時間で、20時05分。

数百m進むと、今度はカザフスタン側の入国審査である。カザフスタン時間では、すでに21時05分。ふだんカザフとキルギスの時差はないが、カザフスタンがサマータイムを導入しているため、この時期はカザフが1時間進んでいた。 カザフスタン側では、中国からカザフスタンに入った時の関税書類とパスポートを回収された。途中何回か国境警備官がガイドを通じて「日本人の知り合いがいる」と言ってきたり、バスに入ってきたりした。バスの中で警備官が何を始めるのかと緊張が車内を走ったが、結局特に何もしないで降りていった…荷物検査の代わりだったのだろうか? 国境警備官たちは本当にヒマそうで、カセット音楽を大音量で聞いていたり、われわれを興味津々な笑顔で見つめたりした。やはり人が来ること自体珍しく、さらに旧ソ連の人でないとなるとめったに見ることなどないのであろう。なんだかんだで30分待たされた後、パスポートにスタンプが押されて戻ってきた。カザフスタンに無事再入国だ。

国境でトイレを借りようとしたら、ガイドが「(トラブルをさけるためにも)ここで借りるよりも少し行った所で用を足したほうがよい」といったので、そうすることにした。そして少しすすんだ後、用を足すためにバスを降りた。といってもそこに手洗所の建物があるわけではない。寒い!! この草原地帯は、標高約2000mの高原である。半袖シャツは問題外、薄手の長袖ニットでも寒さを感じた。我々の乗っていたバスの光以外は明るいものがなく、満天の星空が見えた。この時期は火星が大接近していたため、火星がひときわ明るかった。こんな満天の星空はこの旅が終わったらしばらくは見られないだろう‥。

バスに乗って、いざアルマティへと向かう。だが道は当然未舗装、穴ぼこ、水溜りだらけのひどい悪路である。バスは大きく揺れ、スピードも出せない。本当にこの道であっているのか、ずっと一本道だったと思うけど実は道をどこかで間違えたのでは…などと不安になってきた。だが、35kmほどいったKegen の町からは舗装された道に変わり、一気に走りやすくなった。アルマティまでまだ200km以上あることを示す道路標識が目に止まる。途中で、中国新疆からアルマティに向かう主要道路と合流。居眠り運転防止のため、ガイドとドライバーがずっと大声で話をしていた。きついお仕事ありがとうございました!!

深夜のアルマティ

国境出発から4時間後の深夜2時、われわれはようやくアルマティのウユットホテルに戻ってきた。ずっと食事を取っていなかったのと、明日の朝食べるものを買うため、アルマティに1つしかない、24時間営業のスーパーマーケットへ行った。このスーパーは、東京の紀伊国屋風の高級スーパーである。

深夜2時であったが、スーパー併設の野外カフェには若者たちがたくさんいた。私はここで、ピロシキを3つ買った。0,5テンゲなどの細かいおつりは硬貨自体がないらしく、「つり銭のかわりにこれでいいか?」とマッチ箱を提示された。よく分からないのでとりあえずもらってみたが、後で考えてみたら次の日に飛行機に乗るのに、マッチは意味がなかった! カザフ滞在中、おつりのかわりにマッチ箱というケースはこれ以外でも何件かあった。原因は、1テンゲ(約0,8円)よりも小さい硬貨は出ていないのに料金設定で1テンゲより小さな単位が使われていることである。物価の安いカザフでは1テンゲよりも小さい単位も重要なのであろう。だが政府からすれば、小額硬貨は硬貨の価値よりも造るのに金がかかってしまって無駄なのであろうか??

総括・イシククル湖観光開発のポテンシャル

後日、この日の視察事項をもとに、ゼミでイシククル湖の観光開発のポテンシャルと今後の展望について、ゼミで討論をした。

イシククル湖周辺は、不便でも良いから静かにすごしたい人には向いているかもしれないが、そのような場所は他にもたくさんある。それゆえ、交通インフラを整備することと、客に「イシククル湖は遠くて行きにくいがそれでも行こう」と思わせる何か、イシククル湖にしかない差別化の戦略=希少性を持たせることが観光開発には必要である、という意見で一致した。

この差別化戦略の具体例としては、イシククル湖南岸に眠る水中遺跡のスキューバダイビング、海水浴と乗馬のセットなどがあげられた。また、自転車レースやトライアスロンの大会を誘致して知名度をあげて、ブランドイメージを持たせるようにするという戦略もあがった。

イシククル湖開発の最大の問題点は、シーズンがほんの数ヶ月に限られていることである。観光開発の成功か失敗かの分かれ目の大きな1つは「シーズン以外の期間も観光客を絶やさないようにすること」ではないだろうかという意見も出た。このためにまず必要なのは、冬季でも使えるインフラ整備である。そして、近隣諸国には地形的に作れないし、また天山山脈のすばらしい景色を見ながら滑ることのできるスキー場、もしくは近隣諸国ではしにくいがここならできるといった独自性のある施設の建設等を行う。この際、環境に配慮したやり方を徹底させる。これによって、旧ソ連客にはあまり関係がなくとも、環境に気を使う<最もカネを持った>欧州から来る客の心をつかむことができるであろう。また美しい環境や景色を保つことは、キルギスの将来にとって大きな財産となる。

ただし、やはりイシククル湖だけでは観光の魅力に乏しいので、「イシククル湖観光」として売るのではなく、例えばカザフ、ウズベクとキルギスのイシククル湖、あるいはカラコル周辺の建築遺産やトレッキングと合わせるといったように、周遊性を持たせて売るとよいのではという意見が出た。アクセスの面からも、周遊性を持たせることによって観光客が増えると予想される。「周遊性を持たせる」ことは、一ヶ所だけで観光客を呼び寄せるほどではないが、複数の見所を集めて全体となると見ごたえがあり、満足感を得られる場合に特に適している。キルギス、カザフ両国は特に大きな観光資源は持っていないが、近くなのに文化や気候がかなり異なるところからも、周遊性を持たせるとかなりよい観光のポテンシャルとなるのではないだろうか。ちなみに「周遊性を持たせる」例は、日本だと東北地方の観光があり、これはかなり上手くいっている。

これまで見てきたことを総合すると、今のイシククル湖の状態であるかぎり、観光業は、キルギスを支える主産業の1つには到底なれない。しかしさしあたり、主産業を支える産業、くらいにはなれるはずだ。適切なプランを明確に立て、かつそれを実行することが今のキルギスには最も必要である。また、明確なプランを立てる作業に、外国のNGOなど、開発支援団体が協力すれば、よいものができるであろう。

(西村 裕子)

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