中国とカザフスタンを結ぶ国際列車の車中で、一晩を明かした。日の出は8:00ごろだっただろうか。目が覚めると、窓の外には明るくエビ湖の水面が流れていた。
この列車は中国の車両である。車両のインテリアは全体的に明るく、全体的に清潔、奇麗で好印象の持てる列車だ。客車のボディには「硬臥車」の表示があるが、内装は完全に「軟臥車」であり、4人で1つのコンパートメント(2段ベッドが2つ)となっている。廊下には案内の電光掲示板、そして各部屋には冷房が付いている。その立派な旧ソ連領共和国に乗り入れる国際列車に国の威信を賭ける中国の意気込みがひしひしと感じられる。しかし冷房は風量調節ができず、あまりの寒さにガムテープで噴出口を塞いでしまった。ガムテープは、こういうとき何かと役に立つ。またシーツや枕が備え付けられており、これらの使用料は運賃の中に含まれている。
北京時間で午前8時15分に中国側の国境、阿拉山口に列車は到着した。駅に停車すると、まもなく8人の出国管理官が列車に乗り込んで来て、コンパートメントごとに出国の手続きを始めた。出国カードを書き、パスポートのチェック、ランダムな荷物のチェックが行われた。本・書類・新聞などを入念にチェックしていたようであった。
車外に出ることはできなかったので窓から眺めると、町はかなり発展しているようだ。「鉄路大酒店(ホテル)」をはじめ大きな建造物が幾つか見えた。看板や横断幕は基本的に中国語(漢字)表記だったが、中にはロシア語(キリル文字)でルビが振られているものもあった。異様に大きなパラボナアンテナがある。駅には、「新鉄快速」と書かれたトラックが何台か停まっていた。これは、中国でトラック運輸サービスを行っている中国企業の名前である。
われわれの列車のあとを追うように、阿拉山口終着の、国内線列車が駅に滑り込んできた。ホームに人影は少なかったが、ギターやバックパックを持った白人の旅行者数人が降りたった。われわれの列車には乗ってこなかったところを見ると、この国際列車の切符を買えなかったのかもしれない。週2回運行のこの列車は満員で、中国とカザフスタンとの密接な関係を印象付けるものであった。
中国は、江蘇省連雲港(黄海に面する沿岸都市)を起点に、中国からユーラシア大陸を横断し、欧州にいたる鉄道網を拡充していく、「新亜欧大陸橋」とも呼ばれるユーラシア鉄道構想を推進している。中ソ論争以後、中ソ間の国境は最前線であり、中国とソ連との線路の接続は不可能であった。しかしソ連が崩壊し、中国も改革開放体制を導入して、中国と旧ソ連共和国との国境の透過性が高まった。これを機に、第二・第三シベリア鉄道となる国際欧亜連絡鉄道輸送の拡大を、中国は推進してきたのである。1992年には連雲港を出発したコンテナ列車が、オランダのロッテルダムまで達した。 もっとも、現在この様式で亜欧間の物流がなされていることは少なく、われわれも、この線を往来するコンテナ列車のようなものは、見なかった。このコンテナ列車は、少なからず政治的なアピールであったろう。しかし、それ以後も、中国は列車ダイヤの整備を中心に改善を続けており、現在では毎日、連雲港から阿拉山口へ列車が出ている。
このような状況下で、カザフスタンも中国も、列車と、それを補完する形でトラックによる陸上輸送を強化しようとしている。今後、このような陸上輸送サービスとそれに関するインフラ、すなわち貨物列車における線路・トラックにおける道路がますます整備されることが予想される。
約3時間の出国審査の後、列車は阿拉山口駅を出発し、何もないステップといっていいほど幅の広いアラタウ峠をまたぐ国境地帯の線路をゆっくりと進んだ。線路沿いにはトラック用の道路と中国側税関と思われる建物が見られ、さらに進むとフェンスが見られた。フェンスは、草原のはるかかなたの山の上まで、延々と続いている。このフェンスは国境そのものではなく、密入国を防ぐため中国側が自国領内に自主的に設置したものである。、実際の国境はその先で、石碑のようなものが建てられているだけであった。カザフスタン側の標石は、国旗の色をとり、水色と黄色で塗られていた。
カザフスタン側に入るとすぐに、監視塔と管理所のような建物が見られた。そしておそらく、ソ連時代に作られたものと思われる黒くて古いフェンスと、独立後に作られたと思われる白くて新しいフェンスが二重に張り巡らされた地域に出た。ここは、阿拉山口からわずか4km先にある、カザフスタン側の国境の町、ドスティックの少し手前である。 カザフ時間と北京時間には−2時間の時差があるが、カザフスタンはサマータイム制度を導入していることで時差は−1時間となり、現在はカザフ時間で10:15である。われわれは、カザフスタンへの入国審査を、この、何もない場所で受けることになった。
列車に、12人の入国審査官と1匹の麻薬犬が乗車してきた。ここで、カザフスタンの入国書類、健康調査(SARSの影響であろうか検温もあった)、税関申告書書類の3枚を書かされた。書類を書くと、税関係官が内容をしっかりチェックし、通貨の数字のところには、後から書き足しができないようにしっかりマルで囲む。カメラや携帯電話といったものも確認された。入国審査官にも色々な役割の人がいるようで、カーキ色の制服の人がパスポートのチェック、紺色の制服の女性が税関書類、別の男性が荷物のチェックを担当していた。審査官の中には瞳の青いロシア系の人もいた。
この国境通過地点は、係官が難癖をつけて賄賂の類を要求することで、以前から悪名高い。この一連のチェックの間じゅう、車両内は緊張した雰囲気で、誰もコンパートメントから出ていないときも、しばしばあった。湯をとりに行こうとコンパートメントの外に出ていると、入国管理官の一人が「コンパートメントの外に出歩いたから100元の罰金を払え」「さもなくば列車の外に出ろ」などと、恫喝をからめて要求をしてきた。これはおそらく法的な根拠のない「言い掛かり」であろう。そもそも、カザフスタンの係官が、なぜ中国元で「罰金」を徴収するのだろうか。しかし、大きなトラブルになると面倒なので、50元に「値切って」事態は解決した。もちろん、領収書も何も出るはずはなく、罰金という名の無心にあってしまったのだ。ともかく、出入国審査の間は、自分のコンパートメントから出歩かないのが賢明である。
約2時間の入国審査が済んだ後、列車は再びゆっくりと動き出し、ドスティック駅にすべりこんだ。峠といっても、東西のかなたに山並みが望めるだけのステップ(草原)の真中に駅舎と線路があるだけ、という場所だった。阿拉山口と違い、駅の前にこれといった街並みもない。
ここで台車の乗せ換え工事を行う。旧ソ連内の線路は広軌、中国は標準軌であるため、中国の台車ではこれから先には進めないのだ。ここで線路の軌道(線路の幅)について簡単に説明を加えておく。一般に軌道は広軌・標準軌・狭軌の3つに分類される。日本の場合、新幹線が標準軌(1435mm)で在来線が狭軌(1067mm)である。中国は前述のとおり日本の新幹線と同じ標準軌で、一方ソ連では広軌(1520mm)となっている。そのため、客車をジャッキで持ち上げて、広軌対応の台車に乗せかえる必要があるのだ。
作業が済むまでの間、客車に残ることもできる。車内で寝ている客もいるが、外に出て、駅舎内のレストランで食事、あるいは売店で買い物などもできた。同じコンパートメントの韓国系の男性は、旅慣れた様子で、駅の近くにあるレストランに食事に行った。売店では新聞、アルコール類、その他こまごましたものが売られていた。チョコレートを買ってみたところ、原則としてカザフテンゲでの支払いだが、中国の人民元も良いレート(1元=18テンゲ)で使用可能であった。通貨両替所は駅舎内になかったが、有料トイレがあり、中国元1元で使用可能であった。これに対し、中国ではどこでも、カザフテンゲなど相手にもされない。
駅舎は、これまでの中国の駅舎とは打って変わったヨーロッパ的な建築物で、外壁が塗りなおされていてとてもきれいだった。ドスティックとは、ロシア語で「友好・友情」を意味するドルジバに相当するカザフの言葉である。この国境駅までは、ソ連が中国との友好を求めて古くから鉄道が敷設されていたが、ここからウルムチまでの鉄道が完成し、「友好」が実現したのは、皮肉なことに、ソ連が崩壊した1991年だった。駅舎には、中国とカザフの国鉄路線が接続された記念の板がはめこまれていた。
駅の構内で、日本人の自由旅行者2人と会った。2人は中東方面から半年くらいかけて旅を続けており、カザフスタンから中国に抜けるところなのだと言う。つまり、この駅で中国→カザフの列車と、カザフ→中国の列車がすれ違うことになっているのだ。
話を終えてホームに上がってみてびっくりした。われわれの乗ってきた列車が無くなっているではないか! もしかして、台車交換作業が終わって出発してしまい、われわれは置いてきぼりに・・・という不安を胸に、線路の上を歩いてそれらしき方向へと歩いてみた。すると、400mほど離れた引込み線で、列車はまさに台車のせかえ工事の真最中だった。列車が無くなったことに驚いていたのはわれわれだけでない。カザフ人らしき乗客の数人も、線路の上を探し回っていた。
台車交換作業は、至ってのんびりしている。1車両50tの車体を「1両ずつ」ジャッキで持ち上げるのだ。後で分かったことだが、この乗せ換え設備は日本の円借款で設置されたものだという。しかし、中国側の乗せ換え工場(おそらく阿拉山口にある)には中国の設備が用いられていて、「全車両を」一気に持ち上げて乗せ換えられるそうだ。このようなところに資本を投下するところに、鉄道による欧亜連絡で戦略的な地位を確保しようとする中国の真剣さが伺われる。
作業が終わると、元のホームに列車は戻ってきた。この列車を頻繁に利用する人もかなりいるのだろう。慣れたもので、多くの乗客がこのときどこからともなく現われ、列車に乗り込んだ。
結局、阿拉山口に着いてから7時間以上、出入国審査と台車取替えのため、列車はこの国境地帯で停車した。ようやく、カザフ時間14:30に、ドスティクを列車は出発した。
列車が国境地帯を離れ、空腹を感じたので、カザフスタンの車両で運行される対向の国際列車から切り離されて、この中国仕立ての国際列車の最後尾に連結された食堂車に行ってみた。食堂車は、古いが綺麗に磨き上げられ、シックでよい雰囲気を醸し出す、ソ連時代からの車両であった。メニューは手書きのキリル文字で書かれており、まったく解読不能であったので、車内で働く、中国語・カザフ語・ロシア語を話す少年に通訳してもらった。ボルシチ・トマト素麺のようなラーメン・カザフスタンのブランド「天山ビール」などを注文した。料理もビールも大変おいしかった。
隣のテーブルに座ったカザフ人たちと拙いロシア語で話すと、「広島・長崎」という言葉が出てきた。カザフスタンにはソ連時代、原爆実験場のセミパラティンスクがあり、被爆経験国としてのシンパシーがあるのだろう。アルマティーに着いた後、キルギスの首都ビシュケクに向かうと言ったら、「俺の友達がドイツのメルセデスで送ってやるぜ!」としきりに言ってきた。大変陽気なカザフ人たちだった。
食事を済ませ、会計をしようとすると、金額が異様に高額でびっくりした。会計伝票を見せてもらい確認したところ、隣の席のカザフ人が飲んだビール代や、吸ってもいないタバコ代が含まれていた。「ここはレストランだから高いのよ!」と言い続けていた食堂車のおばちゃんも、「ごめんごめん、間違えていたわ…」と言って非を認めた。故意だったのか過失だったのかは分からないが、高すぎると思ったら確認してみると良いかもしれない。カザフテンゲを持っていないので、中国元で支払った。食堂車でのレートは(1元=16テンゲ)と駅よりも悪くなっていた。
列車の窓の景色は、阿拉山口からずっと続く、カザフステップであった。その中に、アラ湖が見えてきた。小さな町に列車が停まると、列車にたくさんの販売人がやってきた。停車時間が短く車外には出られないが、窓やドアから買い物が可能であった。この駅でも人民元が流通していた。ちなみにピロシキ1個が1元、焼き魚も1匹1元とリーズナブルな価格だったが、水は10元と異常に高かった。
日も暮れた22時、列車はウルムチから来た鉄道路線の終点、アクトガイ駅に到着した。この駅で列車は、シベリア鉄道とタシケントとを結ぶトルキシブ線に合流し、方向を変えてアルマティに向かうことになる。この駅で人民元を使うことは、もはや不可能であった。
このように、近隣諸国の通貨が使用できる場合とできない場合、そして使用可能としても距離が離れるにつれて使用できなくなることがある。ここに通貨政策・国際為替市場で決定されたレートとは異なった価値で取引される通貨の姿がある。つまり他国の通貨使用の可否は実体経済における各通貨の信用度、あるいは信認を反映しているということだ。 ハードカレンシー(主にUSD)の裏づけがある通貨、その通貨を発行する国家の経済が安定している通貨、インフレによって減価することのない通貨などが「安全な通貨」として商人に好まれることは言うまでもない。その点で見ると、人民元は相対的に信頼の高い通貨といえるのではないだろうか。ウルムチを初めとする中国側でカザフテンゲが用いられるという、逆の事例が見られなかったことも、人民元がテンゲより信認が高い証であろう。しかし、アクトガイで人民元が流通していないことから、直通の鉄道が開通し、国境における中国経済との分断が解かれて10年あまりの時点では、中国経済がカザフスタンに及ぼしている影響も、まだ小さいことがみてとれる。
中国元は、中国の経済力とその成長力、そして2003年時点における元高の流れから、周辺国では、少なくとも自国の通貨と比べてより「安全な通貨」とみなされている。カザフスタンでも、中国元は国境周辺では受け入れられた。ただし、中国では常に中国元だけしか使われないかというと、そうではない。華南の広東省に行くと、中国元よりも香港ドルがさらに「安全な通貨」として高い信認をうけ、自由に流通しているという。
これらは、まったくの市場原理で自然発生的に起こっている経済現象である。公定の為替レートなどはむろんなく、各商人が自発的に交換レートを決定している。列車の食堂・駅での買い物・販売人からの買い物から判断するに、カザフスタンでは、「1中国元=16〜18カザフテンゲ」といったところが相場のようである。この国境通過は、通貨信認の国際的な階層性について知るため、よい勉強の機会となった。
アクトガイを過ぎるとしばらく停車駅がないようであり、寝台車のコンパートメントに戻って、ベッドに入り休んだ。