新疆ウイグル自治区の省都であるウルムチは、地理的には中央アジアの一部であるが、人口の約80パーセントが漢民族という植民都市である。現在中国政府は、「西部大開発」と称して内陸部の開発に力を入れており、ウルムチはこの拠点都市として重要視されている。
ウルムチの気候は、8月であるにもかかわらず、朝夕は長袖でいいほど涼しく、すごしやすい。昼間は日差しが強いが、日陰に入るとからっとしているので涼しく感じる。ちなみに洗濯物は一晩で完璧に乾いた。
この日の朝、われわれはまず、ウルムチの市街地から少し西に離れたところにある人民公園を訪ねた。
この公園は、1884年清朝の時代から建設が始まり、1918年までに現在残っている主な建物が完成した。中華民国時代は中山公園と呼ばれていた。中山というのは孫文のことを指しており、ウルムチの街路にも中山通りという名前のものがある。そして、中華人民共和国になって、人民公園と名前が変わったそうだ。
残念ながら、あまり時間がなかったので、先生が上記の公園の歴史を確かめるために少し中に入って看板を写真に収めたが、ゼミ生は中に入れなかった。しかし外から見える公園の景観はまさに中国、漢民族的だった。柳の木が植えられていて、入り口の門や中の建物の色は朱色で、門の前には中国で魔よけになるとしてよく建物の前におかれている獅子があった。清代にここを支配し都市を作った満州民族が、故郷を偲ぶ憩いの場として建設されたのだ。私たちが訪れたときも出入りしていたのは漢民族の人々で、ウイグル人は見かけなかった。ちなみにここの入場料は5元だった。
ウルムチのなかでもっともにぎわっているのは、南門と呼ばれている地区の周辺である。 現在門は残っていないが、清代に満州民族がこの地の支配者としてやってきて、周りを城壁で囲んだ都市を作った。そのときに北門、南門ができ、今ではその都市の南側がウルムチの中心部となっている。南門の東側には、イスラムのモティーフを取り入れて1950年代に建てられた人民劇場がある。中央には、芝生が植えられた小さな広場があり、ラクダや、ピラミッド型のモニュメントが飾られていた。それらは新しかったので、最近作られたと考えられる。「毛沢東時代には街の中心には必ずといっていいほど社会主義の集会に使うための広場があり、その名残で残っている敷地に新たにこのようなモニュメントを建てたのだろう。このような景観の変化はイデオロギーの変化の現れであるといえる。そしてまた、この観光客うけを狙った景観の変化はエスニック的要素を強調して再現しているという意味でスペクタクル化ともいえる。」というように先生がおっしゃっていた。
*スペクタクル化・・・その土地にあるエスニックなものを日常的な生活から切り離し、過度に強調すること。観光客をひきつける要素になっていることもある。
この南門のすぐそばに、ウイグル人居住区があった。 支配者の作った都市のすぐ周辺に先住の現地民がすみつくという、典型的な植民都市の構造であるといえる。しかしこの辺りには再開発の手が及び始めており、高層ビル群の裏手に隠れるようにして、土壁でできた家が連なっていた。
ウイグル人居住区の中に入ってゆくと、店舗と住居を兼ねているものが多く、ウイグル人の人々の様々な仕事の様子を見ることができた。 かまどでナンを焼いている家があり、家の前で金属の板を切ったり曲げたりして器用に加工し、ナンを作るかまどを作っている人がいた。 そのほかにも、駄菓子屋さん・理容室・靴屋さん・日曜大工の道具を売っている店・火花を散らして金属を加工している小さな工場もあった。 決して観光客向けではなく、このコミュニティに住む人が必要とするものを自分たちで作って売っているのであった。 また、この居住区の端にはこの地域に住む人が日常的に利用しているであろうモスクもあった。
また、ウイグル語でスローガンが掲げられている共産党の支部のような建物も見かけた。そして近くにはSARSに関するビラもはられていた。このような小さな居住区まで、中国政府の政策が徹底されていることが伺えた。
そして、この居住区の一角に、ウルムチ市家屋立ち退き管理事務所が8月27日付でこの地区の人々に発した立ち退き勧告がはられていた。その主な内容は、下記のようなものである。
・立ち退き期限 2,003年8月29日から10月29日
・立ち退き面積 12,346u
・この地区には新たに総合施設、商業・住居ビルが建設される。立退き料として現金が支給される。
この立ち退きに際して住民と政府との協議が行われたが、合意に至らず、強制的に立ち退きが命ぜられることになったということが記されていた。 そこで、実際にここに住んでいるウイグル人の女性に上記の立ち退き料は具体的にいくらか尋ねてみたが、はっきりいくらかは答えず、「わずかばかりのお金だ」というだけだった。立ち退き後の住居も保証されず、わずかばかりのお金だけで、今後ここに住む人々はどこで、どうやって暮らしていくのだろう。 このコミュニティが解体されれば、この地区のウイグル人たちは、住居だけではなく、仕事も失ってしまうことになる。
中国政府は、ウルムチの開発に際して、ウイグル人の人々の文化を商品化し、観光資源としての価値を高めていこうとしている。 だが、果たしてウルムチの発展は、ウイグル人にどれだけの恩恵を与えているのだろうか。建造環境が整って商業機会が増えればかえってこのウイグル人たちにとってよいのではないかという意見も出たが、私たちが見たウイグル人居住区の人々の様子から考えると、とてもじゃないが、このウイグル人たちが競争社会の中で生き残っていけるような経済力を持っているとは思えず、また政府が彼らに対して何らかの支援を行っている様子も伺えなかった。むしろ、今まで住んでいた家から追い出されて居場所を失い、コミュニティを破壊され、漢民族による搾取の対象としてますます貧困化していってしまうのではないだろうか。
ウイグル人居住区を出たわれわれは、バザールの方角に向かった。
ウルムチには大きく分けて3つのバザールがある。まず一つ目、ガイドブックにも載っている二道橋バザール。これは、2年前にトルコと中国の合弁会社が出資した再開発により建てられた3階建てのデパートのようになっている。以前は雑然とした露店が軒を並べているバザールだったそうだ。この店内に売っているものといえば、まさに観光客向けのおみやげだ。カザフ族やウイグル人のきらびやかな民族衣装、民族楽器、毛皮のコートや帽子、ウイグルナイフ、などが主な商品で、客もほとんどが中国人観光客だった。買い物目的ならばわりと楽しめるかもしれないが、現地のバザールの雰囲気を感じようとする人にとっては物足りないと思う。
二つ目は、二道橋バザールの道を挟んで向かい側にある、新疆国際大バザールだ。これは、香港の蘭徳投資と新疆の宏景集団という会社が合弁で5億元の出資を行い、2002年4月28日に着工した、3階建、建物総床面積が10万uもある巨大なショッピングモールである。設計は。エスニックな雰囲気を出すためであろうか新疆の会社、そして建設工事は深?の会社が行っている。中庭にはラクダのモニュメントが建ち、建物はモスクをあしらったデザインで、ウイグルらしさ、イスラムらしさを前面に出して観光地としての特徴を出している。入り口では、ウイグル人の演奏隊の人たちが派手な民族衣装を着て、民族楽器を演奏していた。ここで売られているものは、特にエスニックなものとは関係ない、衣料品、スポーツ用品、靴、など、Tシャツ一枚で100元(約1500円)近くする高価なブランド品が多かった。やはりここも地元の人が買い物をする場所としては縁のないところだ。駐車場には観光バスが何台も止まっており、漢民族のマスツーリストのための観光地となっていることがわかる。すぐ近くのウイグル人居住区には立退命令が出され、少数民族として虐げられているのに、ここではウイグル文化を観光の商品として売り出している。ショッピングモールの前で民族楽器を演奏する姿を、ウイグル人の人々はどのような気持ちで眺めていたのだろうか。
三つ目のバザールは、商品もシャツ、ズボンなど普段現地の人々が着るものが売られている、現地の人向けのバザールである。価格は、Tシャツ1枚が20元(約300円)くらいと、リーズナブルである。、ただ、入り口付近には、観光客を意識してか、あるいはウイグル人の客寄せのためか、カセットで民俗音楽をながしていた。トタン屋根とビニールシートでできている簡素なつくりで、上記の2つの新しいバザールとはまったく違う雰囲気だった。
バザール見学を終え、両替のために中国銀行へ向かった。ここにはATMがある。何人かのゼミ生はクレジットカードを使おうとしたが、なぜか機械がうまく働かず、使えなかった。沿岸部から遠く離れているため、回線が不安定だったのかもしれない。仕方なく、窓口に並んで、そこでカードを使って中国元を手に入れた。また、銀行周辺には闇両替商人らしき人々がたむろしていた。銀行に両替に来る外国人観光客にやみ両替を勧めているのだろう。
次にわれわれは、新疆博物館へ行った。あいにく、博物館の本館は建て替え中のため、新疆博物館の目玉であるミイラ数十点が、すぐそばの臨時の建物に展示されていた。ここでは「楼蘭の美女」といわれる、約4000年前のヨーロッパ系の女性のミイラを見ることができた。そのほかにも多くのミイラが保存してあった。この地域では乾燥気候のため、自然にミイラができるそうだ。髪の毛や、衣服もそのまま残っていて、とてもリアルだった。
その後、次の目的地、トルファンへ向かった。ウルムチの市街地を出て、高速道路に乗った。日本の高速道路と変わらず、路面状態が良く、きちんと整備されている。しかし、通っている車は少なく、特に対向車はほとんど見られなかった。
この一本道を走っている間、左手にずっとボゴダ峰が見えていた。ちょうど昨日訪れた天地の裏側にあたり、山頂には雪が積もっていて、とても美しかった。
途中、車の中から大規模な風力発電地帯を目にすることができた。ガイドさんの話によると、このあたりは山に囲まれていて風が強く、また偏西風が一年中吹くため風力発電に適しているとのこと。ここで発電された電力は30パーセントがウルムチへ、残りがコルラなど、他の都市へ供給されているそうだ。この風力発電装置にはVestasや、Goldwindと書いてあった。Vestasというのはデンマークの風力発電機の製造、販売会社で、この会社の風力発電機は日本を含めて世界42カ国に設置されており、世界のトップシェアを誇っている。高品質といわれるVestasの風力発電機を大量に輸入していることから、中国政府の新エネルギー開発に対する積極的な姿勢が見受けられた。
しばらくすると、今度は2つの湖が見えた。一つ目は、柴窩堡湖という淡水湖、二つ目は、その名も塩湖だった。この塩湖は湖岸に塩が噴出しており、白くなっていた。塩湖を見るのは初めてだったので感動した。近くには食用の塩に加工する工場があった。工場の標識から、この工場が韓国資本の投資によるものだということがわかった。
道は、天山山脈の達坂城という峠にさしかかった。鉄道がすぐそばを平行し、トンネルで山を越えている。車が峠を越えると、急速に標高を下げた。下りきったあたりに分岐点があり、直進道路はカシュガルへ、左折するとトルファンから遠く北京へ向かう道であった。われわれは左折した。ここで、高速道路は終わりとなる。トルファンに近づくにつれ、暑くなり、路面にはゆらゆらと逃げ水が見られた。
トルファンは、人口の80パーセントがウイグル人、残りが漢民族やその他の小民族から成る。清代にできた植民都市ウルムチと異なって、トルファンは砂漠のオアシスとして昔から栄えてきた町だ。
幹線道路からトルファンの町に入ると、道路の左右にはブドウ園が広がっており、ところどころ、ブドウを乾燥させて干しブドウを作るための茶色い日干し煉瓦の小屋があった。道路には荷台に山盛りのブドウを積んでロバに引かせている姿も見られた。
車を降りると、ウルムチとは比べ物にならないくらい暑い。少し日向を歩いただけでじりじりと肌を焼かれている感じがした。さすが世界有数の低い盆地だ。
われわれはまず、「カレーズ楽園」という博物館を訪れた。 カレーズというのは地下水路を使った灌漑施設の一種で、@乾燥地帯A近くに山があるB傾斜がある(低地である)という三つの条件がそろったところに見られる、中央アジアに特有の灌漑法だ。ここでは天山山脈から、低地のトルファンまで傾斜のついた横穴をほり、山から流れ出る地下水を引いてきていた。このカレーズは、2000年前から作られてきたそうだ。このトルファンのカレーズをすべてつなげると、5000キロメートル。よく砂漠にこんなにも長いトンネルをほってこられたと、驚いた。砂漠の命の水を運ぶカレーズはコミュニティの存在と密接にかかわっている。アフガニスタンにもこのカレーズがあったのだが、ソ連がアフガニスタンを支配していた時、コミュニティを解体する目的で、ソ連軍に破壊されてしまった。カレーズを掘るのには高度な技術が必要で、危険が伴い、多大な労力を要するので、カレーズ職人は人々から尊敬される立場にいたそうだ。 博物館の中を見学した後、実際のカレーズの一部を見た。この博物館はもともとあったカレーズを利用してできたものなのだ。そして外に出ると、観光客向けの土産物店が並んでいて、干しブドウや、アクセサリー類、民族衣装などが売られていた。私達は店員の人々に日本語で「日本人?おみやげ安いよ」などと話しかけられた。ここにも日本人観光客が多く訪れているのだろう。われわれのほかにはおそろいの帽子をかぶっている中国人の団体観光客が多かった。ここはカレーズ文化についての学習の場であると同時に、テーマパーク的な施設でもあるのだ。
その後、われわれは、トルファンの観光名所のひとつであるアイミンミナレット(蘇公塔)と呼ばれるモスクへ行った。モスクの横にミナレット(塔)があるのでこの名前で呼ばれているのだろう。このモスクは1777年に、このあたりを支配していたアイミン・ホジャ(額敏)という人物が、清朝から世襲の地位を保障されるのと引き換えに清朝に統合されることを了承した、いわば売国者が清朝への感謝の意を表して建てたモスクである。
われわれが訪れた時、ちょうど広東省から大量の団体ツアー客が来ており、モスクの上の展望台の上はツアー客でいっぱいだった。ここで、ウルムチへの都市再開発投資とは別の形で行われている、沿岸部からの所得移転の一端を見ることができた。
ガイドさんの話によると、このモスクは金曜日にはムスリムの人々がお祈りに来ていて、実際にモスクとしての機能を持っているという。なるほど、ミナレットもモスクも土作りで、ミナレットの外壁には細かく模様が入っていて美しかった。だが、全てが新しすぎである。モスクの前には西暦2000年に建てられたというアイミン・ホジャの像と噴水があり、観光地として整備が行き届いていた。モスクの裏に回ると、われわれはは同じ時期に建てられたと思われる数十のお墓がを目にした。18世紀に建てられたものにしては、ま新しい。そして、どのお墓もまったく同じ時期に建てられたもののように見えた。墓の表面には人名なども記されていない。本当にこれは人間が眠っているお墓なのかという疑問がわいた。アイミン・ホジャは売国者で、トルファンのウイグル人にとっては憎むべき存在であり、そのような者が建てたモスクに、ウイグル人たちがお祈りに来るのだろうか。しかも、アイミンミナレットには先述のように、多くの観光客、特に漢民族の団体ツアー客が訪れるところであり、そのような場所を、漢民族に対していい感情を抱いていないウイグルの人々が神聖なる宗教の場として使うのだろうか。あの真新しそうな墓は、場合によると、モスクの前の噴水や像と同様に、観光地整備の一環として最近作られたものなのかもしれない。
その後、先生がガイドさんと運転手に、普段人々が使っている「シティモスク」へ連れて行くように頼んだ。すると、2人ともとても嫌がりはじめた。それでもしつこく頼むと、トルファン北大寺という漢民族のムスリムの人々が使っているというモスクに連れて行かれた。中に入ることはできず、外からのぞくことしかできなかった。 しかし先生が、もうひとつ「シティモスクがあるはずだ」と主張すると、ガイドさんは、最初はそんなものはないと言い張った。それでも連れて行くように頼んだが、運転手はかたくなに嫌がり、ついに「そこへ我々が連れて行くと、政府に罰され自分達が会社から怒られてしまう。どうしても行きたいのなら勝手に行ってくれ!」と言いはじめた。仕方なく、自分たちだけで探そうとした矢先、車の中からモスクの屋根が見えた。そこで、自分たちで歩いていくからこの近くの道端で下ろすよう頼み、車を止めてもらって、そこから5分ほど歩いてシティモスクへ行った。
そのモスクは、ウルムチで見たのと同じような、日干し煉瓦の壁でできたウイグル人居住区の中にあった。私達がモスクの中に近づくとウイグル人の男性がいぶかしげに寄ってきて、中には入ってはいけないと示した。仕方がないのでモスクを外から見ながら裏に回り、ウイグル人居住区の中を少し歩いた。 そこには、本当の中央アジアの村落があった。ゼミ生の一人は、ここに住む人々のプライベートな空間にいることで、大変緊張したと言っていた。トルファンで最も暑い時間帯(午後3時くらい)だったからかもしれないが、居住区内はひっそりとしていた。それでも家の前で遊んでいる子供、小さな赤ちゃんをあやしている家族の姿を見ることができた。写真を撮ってもいいか尋ねると、快く応じてくれた。
トルファンの人口の80パーセントはウイグル人なので、このようなモスクやウイグル人居住区がいたるところにあってもよいはずだが、どこも裏手に隠れている。車で道路を走っている限りはその存在に気づかない。観光客には少数民族の生活を感じさせないような都市構造になっていた。
このモスクの見学後、先生が「アイミンミナレットで何か疑問に持ったことはなかったか」という質問をされた。そこでわれわれは、このアイミンミナレットは単なる「テーマパーク」で、実際には利用されていないのではないかと思いいたった。さらに考え、実際にウイグル人が神聖な祈りの場として利用しているシティモスクなどから観光客の目をそらすために好都合なのがアイミン、ミナレットなのではないかという結論に達した。このアイミンミナレットは現地の人々から嫌悪される売国者が建てたものである。だから、観光に訪れる沿岸部の漢民族の人々は、清に売国したアイミン・ホジャに好感を持ち、ガイドからこの売国者が建てたモスクでウイグル人が祈りをささげると聞くと、ウイグル人は自分たちに対して友好的だという印象を抱くのであろう。
もしもこのアイミンミナレットが存在せず、トルファンに来る中国人(漢民族)観光客がシティモスクのような実際に機能しているモスクを観光ルートにしたならば、現地のウイグル人の神聖なる宗教の場を荒らすこととなり、民族対立の引き金になるかもしれない。ガイドさんが「シティモスクへ連れて行くと、政府に罰せられる」としきりに言っていたのは、ウイグル人と漢民族の間のトラブルを避けるために、そして中国が抱える民族問題の露呈を防ぐために、観光地として認められているところ以外には観光客を連れて行ってはいけないという政府による規制があるからにちがいない。
しかし、もし先生が「シティモスクを見たい」と強硬に主張していなかったら、われわれもまた、旅行会社の決めたお決まりの観光ルートに従って、本当に観光地化された「テーマパーク」にしか行かないマスツーリストになっていただろう。私は、現地の人が普段の生活の中で利用しているシティモスクを見て、なにか簡単に触れてはいけないような宗教の神聖さのようなものを感じた。そして裏手にひっそりと隠れるようにしてあったウイグル人居住区を見て、中国の抱える民族問題の一端を感じた。トルファンの地元の人々の生活の一部を垣間見ることができたような気がした。たいていのガイドブックには観光地しか紹介されていないし、旅行社も観光地にしか連れて行かない。私達観光客はほんとうに注意していないと、肝心の部分、現地の生活そのものに触れることのできないまま旅行を終えてしまうのではないかと思った。
トルファンからウルムチまでの帰り道は、また高速道路を利用した。 途中の炎天下、大きな荷物を抱えて道路を歩いているウイグル人男性を追い越した。ヒッチハイクするつもりで歩いているのだろうか。しかし交通量そのものが少ないので、車をつかまえることは容易ではなかろう。このまま歩いてトルファンまで行くつもりなのだろうか。
この高速道路には、行きに寄ったところ以外ガソリンスタンドがほとんどなかったので、途中で車に何かトラブルが起きたらどうするのだろう、と心配になった。
われわれは無事にウルムチに着き、旅行社に寄って帰路現地解散後の航空券などを各自購入した後、カザフスタンのアルマティへ向かう国際列車に乗るため、ウルムチ駅へ向かった。
ウルムチ駅は、はじめに上海から着いたときと同じように、相変わらず人が多く雑然としており、緊張を強いられた。駅に入るときにはX線の荷物チェックを受けなければならないため、入り口付近は大きな荷物を持った人々でごったがえしている。そして、駅の中の、仕切られて小ぎれいに作られた国際列車専用の待合室で列車の出発時間まで待った。
このような列車に乗るまでの流れは、ウルムチ駅に限ったことではない。中国で列車に乗るときには駅に入るときには荷物検査を受け、列車ごとに待合室が設けられているのでそこで改札の時間になるまで待って、それからホームへ行くのだ。
中国の列車には給湯設備があるため、寝台列車に乗る乗客のほとんどはカップラーメンを持ち込む。このような中国人の習慣に適応してか、中国でカップラーメンを買うと、必ず中にプラスチックのフォークが入っている。車内販売のお弁当や食堂車で食事をすることもできるのだが、割高である。食堂車では、一食25元(日本円で約375円)、お弁当は15元(約225円)する。したがって、現地の人々はあらかじめフルーツやお菓子、一つ3元から5元くらいで買えるカップラーメンや茶葉、などを用意しておいて、列車に持ち込んで食べるのだ。日本人も、列車に乗る前にはこれらの食料と、果物ナイフ、水筒またはコップを用意しておいたほうがよいだろう。
国際列車専用待合室にいる客は、ウイグル人、トルコ系、ヨーロッパ系の顔立ちの人々などさまざまであった。このことを反映してか、切符はロシア語、ドイツ語、中国語の3ヶ国語で書かれていた。旧ソ連の国際列車乗車券は、ロシア語とドイツ語の2ヶ国語で表記する習慣になっているようだ。英語表記はない。かつて、ロシア帝国が、ドイツ帝国やハプスブルク帝国と欧州で国境を接していた名残なのだろうか。乗客はみな、大きな手荷物を2,3個抱えていた。中国でたくさん物を買い込んで、製造業の未発達なカザフスタンやその他旧ソ連諸国で商売をしたり、故郷の家族、友人に与えたりするのだろう。
改札の時間になり、ホームへ出ると、中国製のとてもきれいな国際列車が私たちを待っていた。カザフスタンまでの国際列車は週に2回出ており、中国製とカザフスタン製の車両がそれぞれ週に一回ずつ運行している。私たちはちょうど中国製の列車の日だった。冷暖房・給湯設備のある清潔な列車で、カザフスタンへの快適な旅がはじまった。