9月4日(火)

グラミン銀行訪問
  • マイクロクレジットは万能か?
  • 腐敗した政治ができないことを市場概念がする!
  • 市場も万能ではない
  • 慈善は悪だ!
  • グラミン銀行今後の展望
  • 日本に望むこと
  • グラミン銀行の収入源
  • 教育は大切
  • マイクロクレジットのこれから
  • ジェネラルマネージャーによるプレゼ ンテーション
  • 市場開拓
  • 車窓から見たスラム街
  • 解放戦争博物館見学
  • "Fight for peace!!"
    砒素病院訪問
  • 砒素汚染問題とは
  • 砒素中毒の写真
  • ユニセフの責任
  • 資金源
  • 緑の革命との関連性
  • 解決策
    ダッカ大学地理学教室訪問

  • グラミン銀行訪問

    この日は午前中 ラミン銀行の 本店を訪れた。あの有名なユヌス教授に会える……! 今年度の巡検 で、グラミン銀行をテーマにバングラデシュを視察したいとゼミで提 案してそれが実現した筆者は、朝から期待に満ち溢れて車に乗りこん だ。約束 は8時45分。グラミン 銀行のビルも、うわさ の通りとても大きな高層ビルであった。と言っても 、BRACのビルのほうが外観は整っている感じがした。ビルのある場所 は、都心部ではなく、郊外の 新しく都市開発されたMirpurという地区にある。 きれいな会議室

    グラミン銀行訪問のため、我々は、一人あた りUS$15の料金を払 うことを銀行から要求さ れていた。2階の会議室に通されてユヌス氏を待つ。かなり広い 会議室で、20個くらいマイク がテーブルにつけられている、とても近代的な会議室であった。ユ ヌス氏との面会の時間は1 5分の予定である。

      ユヌス教授は多忙のため少し時間に遅れて部屋に入ってきた。筆 者はかなり興奮してま った。最初に簡単な全員の自己紹介を行ったあと、質疑応答を行った。

    マイクロクレジットは万能か?
    我々の一番の関心は、BRAC視察の後のゼミでも議論したように、 市場原理をもとにしたマイクロクレジットという方法では全ての貧 しい人々を貧困から救うことはできないのではないか、 ということである。つまり、本当に貧しくて食べ物にも困っている人々・ ローンを返すことの出 来なくなった人々はマイクロクレジットでも生活を改善することはできな いのではないか、とい うことである。
    そのことを率直に質問してみると、ユヌス教授は、まず 民主主義の重要性を話しながら、我々に かんで含めるように説明してくれた。

    腐敗した政治に できないことを市場概念がする!説明してくださるユヌス教授
    (ユヌス氏のお話より)
    貧困というのは、経済的制約のために、自 分の潜在能力 を引き出すチャンスならびに自由がない状態を指す。 まるで盆栽の松のように、本当は大木に なれる木でも小さな器に入れられ、その能力を開花させることができな いで終わってしまう。 この状態から貧困者を抜け出させることができるのは、経済の力である。 経済力があってこそ人々は、自らを生かすチャンスを得ることができ、自 由でいられ、もと もとの能力を発揮して行動することができる。

    現在のバングラデシュの政治は腐敗しきって おり、村を支配している地主なども自分の利益を考えるだけである。こ れらの古い官僚機構 は、革新的にはなり得ない。
    これと対照的に、市場原理は、腐敗 した政府や地主などに比べ はるかに合理的で、民主主義を社会に導入することができる。政治過程 で自分の支持する候 補者に主権者が投票するのと同じように、経済過程では、自分の好きな財に ドル紙幣を投票 することによって、その財を選好するという主体的意思をアピールできる。 これが、経済主権 者の民主主義だ。マイクロクレジット活動は、人々にお金を与えることに よって、貧しい人 々を、「投票権」を持った主権者にする、という意味付けがあるのである。能力ある貧困な 人々に経済的なチャンスを与えることができない社会や制度を市場原理によ って撲滅しよう としているのである。

    市場も万能ではない
    質問するゼミテン 我々は市場原理の欠点、例えば「Only the fittest should survive」 というネオリベラリズ ムのキャッチワードに現れているような、敗者を作り出してしまう主張に 注目している。
    だ が、ユヌス氏に言わせれば、これは市場に問題があるからではなく、それを 使う人間自身に 問題があるから発生するのである。市場機構は、我々自身がうまく使おう という主体的な意思 をもてばよく機能する。 それぞれが自分の利益を求めるのではなく、みんなが環境や人権を考 えるようになると、市場機構を用いて社会をこうした方向に変えていけるの である。
    もちろん 、市場原理・今のグラミン銀行の現状はBESTではない。しかし、それに とって代わるalternat iveがないので、仕方ないのだ、とユヌス教授は言った。「新保守主義にはオータナティブがな い」と言い切った英国のサッチャー元首相が思い出される。 だが、ユヌス教授も、お金さえあれ ば、あるいは利潤追求のためなら何をしてもよいという、旧社会主義諸国などにともすれば目に 付く全くの放任的な資本主義は支持していない。あくまでも市場経済を運営する人々の倫理観を 重視し、大切にしようとしているのである。かつて合衆国留学時代、マルクス経済学に傾倒してい たというユヌス教授の面影を、そこに感じ取ることができた。

    慈善は悪だ!
    熱心に聞くゼミテン ユヌス教授はさらに、チャリティ(慈善)というのは人々を自立させられなくなるので悪いもの だ、と述べた。
    我々もよく物乞いの子供達に道端で取り囲まれたが、「恵んであげる」のは、相 手が「かわいそうなもの、自分より下なもの」という意識があることの表れである。チャリティ を施すことによって、相手から自尊心や自立心を奪い、結局その人達のためにならない、とユ ヌス教授はおっしゃった。

    今後の展望
    われわれはさらに、グラミン銀行のこれからの活動の展望につい て聞いた。
    ユヌス教授は次のよ うに答えた。実は、マイクロクレジットはバングラデシュではいまでも違法であるが、良いこと であるから政府はこれを黙認している。このように、われわれの行動で政策を変えることもでき るのだ。 今では子供までがグラミン銀行ゲームをするなど、子供のころから親近感のあるものに なっている。そして現在では、世界中の国でマイクロクレジットが行 われる ようになっている。 マイクロクレジットは、これからも世界に広がるであろう。 1997年には、合衆国のワシントンでマ イクロクレジットサミットが行われた。このサミットは日本から当時の羽田首相が出席するなど かなり世間の注目を集めたものであった。 今では40,000箇所で200万人のメンバーがマイクロクレ ジットを受けている。最初26ドルで始めたものが、今は2億6000万ドルに増えている。

    今のバング ラデシュは洪水などが起きるとすぐ社会はめちゃくちゃになってしまう、もろい社会である。将 来は洪水が起きても崩れないような社会を作りたい。

    これからの計画としては、@運営の質を高めること、A空間的に恩恵を受ける人を増やし ていくこと、B政府の政策を改善する ということを挙げられた。

    日本に望むこと
    日本へ望むことについて質問したところ、次のような要望が返ってきた。
    日本のODAは橋や道路を 作っているだけで、作ったら終わってしまう。だが、マイクロクレジットはそのお金がまわって人 々に還元され、その資金は拡張再生産される。日本ももっとマイクロクレジットに資金を回して欲 しい……。

    グラミン銀行の収入源
    現グラミン銀行の収入源は何か、という問いに対しては、93%は自己資金 であり、残り7 %は政府から金を借りているとのことであった。自己資金というのは、メンバーの貯金ということ であるから、93%は貧困者によって所有されている銀行ということになる。

    教育は大切
    ユヌス教授は、これからの世代が状況を本当に変えることができると信じている。だから子供 達に教育を施すことは重要であり、メンバーの人にも子供達を学校に送るように働きかけてい る。これからはその子供達により高いレベルの教育を受けさせられるようにするつもりだ。現 に今は大学に行くための奨学金を与えているということであった。

    マイクロクレジットのこれから
    ユヌス教授によれば、今のグラミン銀行の現状はスタート段階でし かない。ライト兄弟が2 0秒間空中に浮かんだようなものである。それには、今のボーイングのようなトイレも、 リクライニングシートもついていなかった。しかし、ライト兄弟が成し遂げたことの本質 は、空を飛んだことである。 それと同じように、グラミン銀行も問題を抱えていないわけ ではないが、それはこれからどんどん改善されることであって、本質は、マイクロクレジ ットは貧困層に機会を与え、それを助けることができるという点である、と言ってユヌス氏 は締めくくった。

    集合最 初に面会時間は15分と言われていたのにもかかわらず、ユヌス氏は約一時間も 我々に話を してくださった。自らの立場に固い信念を持つ、やさしそうな方であった。

    ユヌス教授のお話が終わった後、全員で記念撮影をしてユヌス氏とお別れした。

    ジェネラルマネー ジャーによるプレゼンテーション
    その後グ ラミン銀行のジェネラルマネージャーが、グラミン銀行の概要についてプレゼンテーショ ンをしてくださった。パワーポイントを使ったかなり本格的なもので、びっくりしてしま った。この方はユヌス氏がチッタゴン大学の教授だった時代の教え子だそうである。

    このプレゼンテーションによると、グラミン銀行の組織は、
    ヘッドオフィスHead office
    1個
    Zonal office
    45個
    Area office
    122個
    Branch office
    1149個
    センターCenters
    67914個
    グループGroups
    446481個
    借りての人々People
    240万人
    というようになっているそうだ。

    パワーポイントの一つグラミン銀行の借り手のほとんどが女性であることの理由は、 バングラデシュでは 習慣的に、女性が虐げられているからである。結婚時に女性が男性の家に持っていく巨額 の持参金であるダウリ制度のほか、すぐ離婚されたり、暴 力を振るわれたりする。

    また、 女性はいつも家族のことを第一に考えているので、クレジットを家族のために使ってくれ るのだ、という。 グループというのは村人5人一組のグループである。ほとん ど同じシチュエーションの人達 が同じグループに入っている。手には5本の指があるから5人一組にした。 このあたりは、前 日に視察したBRACととても似通っている。

    クレジット活動の他、冬には毛布を支給しており、また、砒素への対策もとっている。井戸水に砒 素があるかないかの検査をしているということであった。

    市場開拓
    マネジャーもまた、グラミン銀行の役割は村人が市場へ出て行くのを助けることであっ て、市 場を開拓するのは借り手である、ということを強調していた。
    ただ、グラミン銀行自体がビジ ネスを開拓した例も少なくない。グラミン銀行は、日本の商社「丸紅」も出資しているグラミン フォン(Grameen phone)という携帯電話会社や、インターネットのプロバイダも経営している。 また、シドニーオリンピックの広告にグラミンフォンが登場するなど、バングラデシュでメジ ャーな企業であるということがうかがえた。
    これらの企業は、農村というコンテクストとは関 係なく、純粋に企業経営に特化している。ここにBRACとの違いが ある。家禽業の分野でも新し いプロジェクトがあるということであった。

    我々はこの日の午後、移民局に行き、バングラデシュを陸路出国するために必要な書 ad permitの申請をどうしても終えなければならなかった。移民局は13:00には閉まるた め、我々は質問もほどほどにして、グラミン銀行を後にした。

    車窓から見たスラム街
    グラミン銀行から出てすぐ、われわれは車窓からスラム街 を見た。 バングラデシュでは、NGO 中心に農村開発がすすんでいるため大都市ダッカに流入する貧困者は減っ てきていると読ん だことがあったのだが、スラムは思ったより大きく、たくさんの人々が住んでいるようであ った。川のそばにあり、道路からの排気ガスも多くふりかかり、生活環境はやはり厳しそう だ。

    (2年 太田 真美子)

    解放戦争博物館見学
    Fight for peace!!
    大通りから少し入った、目立たないところに放博物館(Liberation War Museum)はあった。この博物館は、1996年に開館された。入り口も小さく、ともすると通り過ぎてしまいそうだ。この博物館は、特にイギリスの植民地時代、さらにパキスタンの軍事政権の統治時代、そして1971年の独立までの歴史を紹介し、展示するものだ。館内は、撮影禁止だった。

    入り口にゲートがあり、軍人のような人が立っていた。入場料は3タカで、とても安かった。私達が行く前には、女子高校生らしい集団が見学にきていたこと、出口にあった入場者数の看板にも、入場者の内訳に生徒の欄があったことからも推測できるように、若い世代のうちでバングラデシュの解放の歴史を風化させないため、また愛国心を育てるために、入場料を安くしているのだろう。

    ゲートを通ると、建物の前にEternal Frameがあり、世界中の自由と民主化のために戦い、命を落とした人々の鎮魂のために燃えつづけているということだった。展示は、パキスタンの国語ウルドゥ語のベンガル語地域東パキスタンへの押し付けに抵抗しパキスタンからの独立への火付け役となった1950年代の言語運動、ベンガル語を擁護する上で大きく貢献した詩人タゴール、またバングラデシュ建国の父、ラーマン初代大統領(Sheikh Mujibur Rahman)についての展示が多くあった。この博物館に限らず、町のいたるところにラーマンのポスターは多く、彼は今もバングラデシュ人の心の支えになっているようだ。 英領インドをイギリスの植民地支配から解放しようとして第二次大戦中に日本の軍部と協力したチャンドラボーズも、解放運動家として、ラーマンらと並んで大きく取り扱われていた。ムガール帝国時代もまた英領インドのもとでもベンガル地方が一体であったことを示す昔の地図、そして英国が立ち去るとき「宗教」を理由として分割されてしまったベンガルを示す地図が、掲げられていた。もともと、英国のインド支配にもっとも激しく戦ったのはベンガル人であり、それを独立後分割することで、ベンガル人のインド亜大陸における勢力をそごうとしたのだ、というイギリスお得意のDivide and Ruleの考え方を、これらの地図から垣間見ることができる。解放戦争で使用された薬莢や、軍服、プラッシーの戦いのジオラマなどもあった。パキスタン兵士の残虐な行為、特に女性へのレイプの写真が多く、直視できないものも多かった。ジェソール付近で、棒を持って戦う女性の写真など、独立運動への女性の貢献を示す展示もかなり目立っていた。

    門の外に、来場者数を示す表があった。全体として女性のほうが多い。また2000年4月からの来場者数は、男子生徒が約300人、女子生徒が約400人で、女子生徒のほうが多い。ここからも、バングラデシュがNGOに限らず、国を挙げて女性の啓蒙に力を入れているということがわかる。

    この掲示板のそばに、グラミン銀行の経営する携帯電話会社グラミンフォンのロゴ入り時計がかけられていた。また館内には、午前中訪問した、かのユヌス教授がアメリカ留学中に出版していた風刺漫画や、独立を求める手紙も展示されていた。ユヌス教授は、アメリカ留学時代、マルクス経済学に関心を示し、社会運動に多いに興味を抱いたのである。マイクロクレジットをつうじて貧困者を救おうとする着想も、こうしたユヌス教授の思想と無関係ではないだろう。しかし、現在のユヌス教授は、この博物館の創設にも運営にも関わっておらず、寄付などもしていないということだった。

    Fight for peace!「偉大な事をするには大きな犠牲が必要だった」というラーマン初代大統領の言葉に象徴されるように、パキスタン軍の非道な仕打ちについての展示は多かったが、全体として独立を勝ち取った誇りが感じられる展示だった。イギリスの支配、パキスタンの支配に勝利したという栄光のストーリーが描かれていた。

    一方で日本で博物館を訪れると、戦争についての展示は、戦争自体に対する罪悪感と、二度と悲劇を繰り返さぬように、という反省と決意が込められたものが多い。この違いは戦争の勝者か、敗者かという違いから出てくるのだろうか、とゼミの皆で話し合った。

    (3年 小澤 真紀)


    砒素病院

    砒素病院訪問

    砒素汚染問題とは
    バングラデシュにおいて関心を呼んでいる環境問題の1つに、下水の砒素汚染問題がある。地下水の砒素汚染問題とは、その名のごとく、地下水に砒素が含まれていて、それを人々が飲むことで中毒になり、皮膚の角質化や、ひどいときは皮膚ガンになってしまう問題のことだ。

    砒素汚染はバングラデシュ全国に広がっており、特に汚染が濃厚な地帯はガンジス川下流域に集中して出現している。

    この問題がバングラデシュで発見されたのは,1983年である。過去1970年代までは、バングラデシュにおいて地下水砒素汚染問題は存在しなかった。なぜなら、その当時バングラデシュの人々は地下水を使わず、表面水を主に使っていたからだ。ところが、バングラデシュにおける人口爆発が起こり、水の需要が増え、それまで足りていた表面水だけで人々の水は足りなくなって、人々は飲料水を他の手段にたよらねばならなくなった。このとき、井戸を利用した地下水にたよることが、先進国の援助のもと技術的に可能になった。また、井戸は、農業用水を供給するにも有効なため、バングラデシュ全国にこの方法が広まった。こうして、水利用の条件が大きく変化したのである。

    井戸を掘るようになったもう一つの理由は、「衛生上の配慮」であった。井戸が掘られる前は15mくらいの穴を各所に掘り、そこに雨期に水をため、乾季に飲み水として使っていた。だが、その水は雑菌が含まれていたりして不衛生であり、特にその水の雑菌に抗体がない子供たちを中心に下痢などが起こって、子供たちの死亡率は高まった。そこでニセフ(国連児童基金、UNICEF)が、当時安全であると見なされていた井戸をその代替として掘った。ところがその井戸水に、有毒物質の砒素が含まれていたのである。それを知らないまま住民はその井戸水を飲み続け、砒素が体内に蓄積し、砒素中毒となっていった。

    医師の方々砒素汚染調査というテーマでわれわれがはじめに訪れたのは、ッカ・コミュニティー病院(Dhaka Community Hospital)である。 ここでは3人の医師の方が我々に応対してくださった。

    この病院は日本の国際協力事業団(JICA)やNGOであるジア砒素ネットワーク(AAN)などと協力して、医療による砒素患者の治療だけでなく、現場に行ったり調査をしたりして根本的な解決をしようと努力している。

    砒素中毒の写真
    病状1病状2 はじめに、スライドを見せていただいた。それは世界銀行などのインターネットなどで掲載されているものと同じであった。黒く点となり、角質化した砒素中毒患者の皮膚の状態や、それがさらに悪化してガンとなってしまった皮膚や指の状態、そして血流が悪くなり切り取らねばならないガンを切りおとした後の状態、などの写真であった。かなり悲惨であり、目を覆ってしまいたくなるようなものが多かった。

    それから概要を話してくださった。現在、64県のうち46県で、全集落の95%に砒素汚染が広がっている。バングラデシュの人口1億2000万人のうち、8000万人の人が飲料水として井戸水を飲んでおり、そのうちの6400万人の人々が砒素に苦しんでいる。また、井戸水の使用の70%は農業に使われ、5〜10%が飲み水である。農村部の住民たちは、砒素中毒にかかり体の調子がおかしいと思っても、交通インフラの未整備など、バングラデシュの地理的な特徴で、都市の病院まで行くのは大変である。一回の診察費や治療費は15タカと少額であるのに、病院の立地が空間的に限られているため、自ら病院に行くことはできない。この病院の調査員や砒素関係のNGOが現地に調査や出張にいった時に、病気を診察してもらったり治療してもらったりする程度である。

    病状3砒素中毒で皮膚ガンにかかってしまったら、皮膚だけの問題でなくなる。ガンには転移の可能性があるからだ。早急にそのガンの部分を切断しないと命に関わることもある。

    砒素中毒になるのは主に大人である。その理由として砒素中毒は長い間水を飲み続けることによって砒素が体内に蓄積していって起こるものであるからだ。

    われわれは、砒素中毒に対する治療技術がどこまですすんでいるか、と質問をした。そうしたら、病院の医師に、「治療技術の開発は先進国の問題だ」と返された。多くの患者の治療で大変なので当然のことかもしれないが、先進国任せで、どんな方法であっても、自分たちで新たな治療の手立てを見つけようとする姿勢はないように感じた。

    ユニセフの責任
    次いでわれわれは、ユニセフが資金援助などをしてつくられた井戸から砒素が出たのであるから、ユニセフの責任についてどう思うか、と質問した。医師は、「2つの立場がある」と答えた。第1の立場は、ユニセフは故意にやったのではないから追求すべきではない、というものだ。ユニセフは、1970年代に、バングラデシュだけでなく南アジア各地や台湾などで井戸を掘った。バングラデシュは、その独自の地質の影響(その根本原因の正確なところは、いまだに解明途上である)で運悪く砒素が出てしまっただけであるから、ユニセフの責任については忘れよう、とするない立場である。第2の立場は、ユニセフが井戸水の砒素汚染の事実を公表をしなかったことに責任がある、というものだ。ユニセフは、砒素汚染があるということを実は15年前から知っていたのだが、長い間砒素汚染があるということを否定し続け、97年になってはじめてその存在を認めた。もっと早期に発表していれば、被害の拡大や井戸の過渡な普及はある程度防げたかもしれないので、その点の責任があるという立場である。ただ前者の立場においては、ひとつの「裏」を医師はもらした。たしかに、井戸をつくり砒素問題を起こしたのはユニセフであるが、今現在、ユニセフは砒素対策に対して最大のドナーであり、過去を非難するようなことをいって関係を悪化させる方がデメリットは大きい。責任問題は黙っていたほうがバングラデシュは得だ、ということである。

    資金源
    さらに、砒素汚染の対策などのための資金はどうなっているのか、と質問した。医師は、バングラデシュ政府は砒素の対策にまわすほどの資金はなく、外国からの借款や寄付に頼っている状態である、と答えた。年間US$4300万もの寄付などが諸外国から援助されているが、世界銀行や国連開発計画(UNDP)の職員たちの給料などに資金がまわってしまい、患者が治療するための資金にまわらないので困っているといっていた。また、安全な水が確保できていないにも拘らず、広報、つまり、ここの水は危ないから飲まないほうがいいということをただ訴えるだけのために資金を使っており、効率的な資金運営がされているとはいえないそうだ。

    緑の革命との関連性
    砒素汚染問題が「緑の革命」と関係しているか、と質問してみた。この病院の医師は、両者の関係を否定した。砒素を含んだ水を灌漑用水として農業に使うことで、農産物に砒素が蓄積されていく生物濃縮がおきないということは科学者によって示されており問題ないといった。また、地下水の利用で「緑の革命」それ自体は大成功をおさめたそうだ。実際に統計を見れば10年前に比べ穀物生産は2倍に増えている。地下水の利用により井戸をたくさん掘り、地下水を大量に汲み上げたことによる環境問題は、砒素問題ではなく地盤沈下や土壌疲弊だ。だが、「緑の革命」が進行したことにより、大量の灌漑用水が必要性になったため、多くの井戸がつくられ、砒素汚染された水をだす井戸が空間的に広がったことは事実なのではないのだろうか。

    病院の前で  解決策
    井戸の地下水に変わる代替飲料水についてどういうものをあげられるか、と質問したところ、今のところはよい代替はないという答えであった。事前に我々が資料などから学んだ各対策について聞いてみた。まず雨水により飲料水確保する対策については、雨水は安全なのだがそれを貯蔵するためのインフラが十分でない。雨水は壺でためるので、6ヶ月間もの長い乾季をのりきるだけの充分な量の飲料水を確保することができない。壺を5つ重ねたフィルターを用いて砒素をこしとり飲料水を得る対策については、その取り除いた砒素をどう処理するかという問題があるということだ。また、砒素の被害のない深井戸を掘るという対策については、他の鉱物が出てくる可能性があると共に井戸を掘るのに多くの資金が必要であるという。特に多くの資金という点が障害であるようだ。

    バングラデシュの人々は、炎暑の気候のため、1日あたり4リットルも水を飲まなくてはならず、それらの対策だけでは飲料水はたりない。このため、やむをえず井戸水を飲むことになる。まだ、すべての人々に十分で安全な水を供給するための十分な対策はないというのが現状である、とこの病院の医師たちは結んだ。

     シャムタ村に続く

    (3年 藤巻 浩一)


    ダッカ大学地理学教室訪問

    夕暮れのダッカ大学校舎 砒素病院での討論を終え、私たちはッカ大学に向かった。ダッカ大はイギリス植民地政府により、1920年に創立された。地理学教室のN.イスラム(Nozrul Islam)教授と、lecturer10人くらいが、1時間以上遅れた私達を待っていてくれた。

    旧イギリス植民地の大学制度はイギリス本国の制度と同様で、各学部に教授が1人しかおらず、順に教授、Reader, Senior Lecturer, Lecturer, Assistant、学生となっている。しかし、私達と話したうちの一人は、Assistant Professorという肩書きを持っており、この制度にも変化が起っているようだ。そのほかにも、イギリス式の大学制度では、学生は3年生であるが、これも4年生への移行がおきているという。このように、イギリス式の制度がアメリカ式の制度へと変化している。

    ダッカ大学には地理・環境 学科(Department of Geography and Environment)があり、人文地理よりも、経済地理の方が規模が大きいらしい。地理学教室を開いたのは、アーマン(Nafis Ahman)という社会地理学者(1911〜82)である。彼の肖像画が教授室に飾ってあった。学生の内、60%が男性で残りが女性で、意外と女性の比率が多い。ダッカ大学のイスラム教授とLecturerの皆さんと。コンピュータ室にて。コンピュータ室を見せてもらうと、新しいパソコンも何台かある。特にi macがあって、驚いた。GIS(地理情報システム)について学んでいる人が多く、GISを用いて作ったグラフや地図などを見せてくれた。このGISのうち一部は、アメリカから約15万円で購入したという。

    コンピュータ室の机には、バングラデシュにおける女性と子供の人身売買に関する地理学的研究、というテーマで書かれた、ここの院生の修士論文が無造作におかれていて目をむいた。海外の学会でバンクラデシュの研究者が出席・報告することは、旅費を工面することが難しいこともあって、稀である。しかし、実際には、植民地時代からの英国とのアカデミックな結びつきがあって、英語圏の新しい地理学の研究動向がはいりこみ、相当に批判的アプローチを持つ社会・経済地理学の研究が、バングラデシュ国内で進んでいるようだ。

    キャンパスを出ると、すぐ道路の反対側に独立の記念となった言語運動の記念のモニュメントがあり、言語が民族意識の大きな核となっていることを感じた。このモニュメントはバングラデシュのタカ札の図柄になっている。夕食のレストランへ向かう途中、最高裁判所の建物を見た。すでに日が落ち、門が閉まっていたので遠くから見るだけであったが、ライトアップされた建物は白いイギリス風のもので、バングラデシュがイギリスの植民地であったことを改めて思いださせるものだった。

    夕食は、ダッカ大のlecturerたちと共に、ベンガル料理。和やかな雰囲気で話す。食事も手で食べる事に挑戦した。最後、お別れするとき「自分は今皆さんにプレゼントするものは何も持っていないが、バングラデシュのことを皆さんが忘れないように、この札をプレゼントしたい」というスピーチと共に一人一人に10タカ札をプレゼントしてくれた。これには、前述のラーマン初代大統領がのっている。ホテルまで送ってくれたハッサンさんは、別れる前に、「自分は大学の教授になりたい。政府の官僚は給料はよいが、腐敗している。大学教授こそが偏見なく世の中を見て、社会に貢献しようとしている。君たちもそうなってほしい!」と言っていた。ハッサンさんに限らず、バングラデシュの人は共通して、政府が腐敗していること、国のために貢献したいということを主張していた。独立戦争を経験した世代が多く、愛国心が高いという事だろう。 
    明日はUttaranのあるTalaまでの移動日だ。

    (3年 小澤 真紀)
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