9月5日(火)

ダッカ輸出加工区(EPZ)
ダッカからジェソールへの道


ダッカ輸出加工区(EPZ)

 
産業の最先端の現状
P>今日は終日移動だ。ダッカのホテルを出発し、途中ジャムナ橋を経由してジェソールの近くの、Uttaranのあるタラという町に向かう、約600kmの行程だ。朝6時にダッカのホテルを出発した。道端に、衣類工場から出たと見られる布の切れ端が多く散乱している。これらは、ベッドの中身として利用されるという。

途中、ダッカ輸出加工区を視察した。輸出加工区というと港湾立地と連想しがちだが、この加工区は、ダッカとジェソール、そしてダッカとジャムナ橋を結ぶ幹線道路沿いとはいえ、内陸部のかなり港から遠い場所にある。 入り口で一言許可を得ると、徒歩でなら簡単に中に入れてもらえた。しかし、自動車では入れないようだ。周りのフェンスには有刺鉄線が張り巡らされている。加工区に原料を持ち込むのを厳重に防いでいると考えられる。だが物乞いをしている人や道端でパンを売っている商人も入ってきており、徒歩での出入りは比較的楽らしい。ちょうど朝の出勤時間で、マイクロバスで労働者たちが運ばれてきた。このEPZでは工場の内部を見せてもらうことはできなかったが、外からみると、かなり巨大な工場が設立されている。バングラデシュ最大の財閥BEXIMCOの繊維工場や染色工場がある。工場からの排水が(おそらく染色用塗料であろう)、側溝に流れていたが、濃い青色で、酢酸のような匂いもしている。どうやら垂れ流しになっているようだ。(左写真参照)環境保全に関する企業への規制はほとんどないのであろう。周辺には農村が広がっている。この汚染された水は、いったいどこに行くのだろうか。看板に「この工場で児童は雇用していません」と書いてある。これをわざわざ掲げるということは、児童を働かせている工場が多いことを意味するのであろう。児童労働が敷地内の土地の利用率は大体半分といったところで、使用されていない工場もあり、活気があまりない感じだった。出口にはFedexやDHLなどの航空会社の支店や、スタンダード・チャータード銀行の支店もあり、輸出加工区らしさが感じられた。

ダッカからジェソールへの道

アッティアモスク
 バングラデシュでは、人口の85%くらいがイスラム教徒ということで、一日に数回、祈りの時間になると、大きな音でコーランらしき声が流れてくる。アッティアモスクの外観

Tangailという町の近くで少し遅い朝食を取った後、その近くにある、古い10タカ札のデザインになっている有名な古いモスクに寄っていく事になった。このモスクはッティア(Attia)モスクといい、1609年ごろ建てられたものだ。現在の建物は1837年にザミンダールによって修復された。この当時はイギリスの植民地支配下にあり、ザミンダ―ルを通じて間接統治が行われていた。イギリスは、ザミンダールのイスラム文化や支配構造自体を改変しようとはせず、むしろそれをそのまま温存して支配機構に取り込むことで、植民地支配を安定化させていた。このモスクの修復は、イギリスの、統治の為のこうしたイスラム擁護政策の影響を受けた建物だということである。

モスクは、イスラム文化に特有のアラベスク模様も施されていた。アラビア語を学ぶ少年達。デジカメに興味津々モスクの前には池があって、アヒルが泳いでいてとてものどかだ。この池で沐浴している人さえいる。私達もモスクの中に入る事が出来た。実は数日前、ダッカ市内でコーランの流れてくる音を頼りにたどり着いたモスクでは、男性が祈りを捧げており、筆者(女性)は中に入る事を許されなかったので、今回も入れるのか心配だったのだが。中に入るとひんやりと涼しく、本棚にはコーランが入っている。小学生くらいの男の子達がアラビア語を学んでいた。これはコーランを学ぶために必要らしい。また、偶像崇拝をしないイスラム教と言う事で、中の様子はとても質素で、飾り気がなかった。

ジャムナ橋ーODAで作られた橋―
更に車を走らせ、ジャムナ橋方面へと向かった。ャムナ橋は日本のODAと世界銀行の融資によって作られた橋である。総工費は1000億円(7億ドル)で、1998年6月に完成した。ガンジス川とジャムナ川の合流箇所から上流の氾濫原に架かっている。この橋は全長4.85kmあり、世界で6番目の長さだ。橋の手前16kmから始まる取り付け道路からして、今までの道と全くちがう。車通りが少ない。両脇に高圧線の電柱が走っている。これまでも舗装はされている道だったが、凹凸もかなりあり、ましてセンターラインなどなかった。多くの道は、舗装されているのは一車線分で、対向車がない場合はそこを通るようになっており、対向車が来た場合はお互い舗装のない部分にはみ出して走るしかなかった。しかし、ジャムナ橋の取り付け道路に入った途端、車の動きはかなりスムーズになり、まるで日本の高速道路のような走りごこちになった。道路の路面表示も日本標準のものだ。道路際にのんびりと馬が草を食んでいる姿を見て、ゼミ生の1人は、「日本に帰ってきたみたいだ、北海道を走っているようだ」とはしゃいでいた。道路の横には、ジャムナ川西岸からジャムナ橋を渡りきったところまで完成している鉄道をダッカ方面にまで延長する工事が進行中だった。韓国系の建設会社が工事を続けており、韓国製のトラックや重機が止まっている。とても立派な道だが、車どおりは全くないといって良い。

料金所を通り、いよいよ橋に入る。我々の右側には、すでに完成した鉄道線路と高圧線の高い電柱が並行して走っている。すれ違った車は数台で、乗用車は全く見かけなかった。見かけたのは、長距離バスがほとんどで、トラックの数が思ったよりも少ない。物流のための輸送網としては、あまり活用されていないようだ。というのも、この橋を通るには550タカ払わなければいけないし、取り付け道路を過ぎると道は悪く、しかもダッカとジェソールならびにカルカッタ方面を結び、絶えずトラックが通う幹線道路からは、ルートが大きく外れているからである。更に、歩行者は通行禁止である。実際、バスにも車にも乗らない民衆はこの川を船で渡るのだ、という話を聞いた。

橋の出口近くに、大きな写真でハシナ大統領と、その父であるラーマンの肖像画があった。ラーマンの肖像画が待ちのいたるところに飾ってある事は前述したが、尊敬されているということ以外に、ハシナ大統領の父であるからだ、という理由もあるという。この橋を通り、実際にはあまり役立っていないODAの実態か…と思ったが、後に洪水の時、このジャムナ橋がライフラインとして使われたと言う話を聞いて、なぜか安心した事を覚えている。

それにしても、これだけ立派な橋を維持する費用も、莫大であろう。これを一体誰が負担するのだろうか。ジャムナ橋に限らず、このように外国のODAによって作られたインフラの維持費をどうやって捻出するかは、バングラデシュにとって大きな問題だと考えられる。しかし、このジャムナ橋の絵は、派手なバングラデシュのトラックやベビータクシー(タイのトゥクトゥクと同じもの)の後ろに描かれていする。ベンガル虎や、独立記念碑などがトラックなどの絵の主流だが、ジャムナ橋もかかれている事を考えると、バングラデシュでは有名な橋であり、発展の象徴なのだろう。草の根の民衆がジャムナ橋にかける期待も、また大きいのだ。

橋を渡り終えると、警察官が検問をする。そのあと、車を降りてジャムナ橋をゆっくり見学することになり、取り付け道路の横にある歩道を歩いた。おりるとすぐに私達を見つけた水売りの少年や、お土産らしきものを持った商人が近寄ってくる。カラフルなはたきや、回すと不思議な音がするおもちゃなどだ。どう見てもバングラデシュの伝統工芸など、外国人観光客が買いそうなものではない。国内の旅行者向けのものなのだろうか。ジャムナ橋の周辺の様子。広大な空き地になっている。ふと道路のほうを見ると、天井のない2階バスが、多くの客を乗せて通り過ぎていった。わが国の瀬戸大橋や明石海峡大橋などと同じように、観光名所になっているらしい。とはいえ、この人たちはどこからきたのか、そしてなぜ似たものを売っているのか、もと締めがいるのか、この辺は疑問である。道路の近くの河原には、小さい苗木がたくさん植林してあった。しかし、少し奥は全くの荒地である。このジャムナ橋が通ったことにより、この敷地も将来的に何か工場が建てられたりするのだろうか。そのつもりで整地してあるようにも見えた。

橋のたもとの下まで歩いて行ってみた。とても晴れた日で、日差しが焼け付くようだった。橋の下には、電話線やガスのパイプラインがつくられていた。このように、道路・鉄道・高圧線・電話・ガス、と多目的の橋でないと、世界銀行が融資をしないという事情があるためだ。車が路上駐車を許されなかったため、駐車を許可されたところまで15分ほど歩く。すっかり打ち解けた、我々に付き添ってくれたダッカ大学院生のファルックさんと私達の男子学生の一人は、手をつないで歩いていた……といってもこれはバングラデシュでは特別な事ではなく、中のよい同性の友達同士は、手をつないだり肩を組んだりして歩くのが普通だからなのだ。

ジャムナ橋を視察した後に、再びジェソール方面へ向かって走り出す。途中、直進すべきところ、車はダッカ方面へのフェリー埠頭に戻る感じで左折してしまい、ここで大きな迂回とロスタイムを強いられた。私達はベンガル語が読めないので分からないが、どうやらあまり道路標識が多くないらしい。まして英語でかかれている標識は全くないといってよい。この理由として、独立後のバングラデシュがベンガル語のみの単一言語国家になったので、英語は、国際的なコミュニケーションの手段として以外必要でなくなったことである。加えて、英語が公用語の一つであり、英語習得熱の大変高いインドに対する対抗意識というものも、あるかもしれない。運転手さん自身もしきりに地元の人に道を聞いていた。

役目を失った鉄道橋

 途中、パブナ(Pabna)という街からクスティア(Kushtia)という町に渡るには、ガンジス(バングラデシュでの名称は、Padma)川を渡るためにフェリーに乗らなければならなかった。しかし、フェリーは30分に一本しか出港しない。フェリー乗船場から300mくらい手前に切符売り場があったのだが、それを見逃し、我々の車は切符を買い損なったので、1本あとのフェリーに回されてしまった。ということで、私達は車を降り、植民地時代の1912年にイギリスが建設した道橋を徒歩で渡ることになった。撮影禁止のはずだが…?もともと、この鉄橋を通る鉄道はカルカッタからシュリグリ、ダージリン、そしてさらにインドの東部辺境を結ぶ幹線で、植民地インドの空間統合のために不可欠なものだった。しかし、植民地統治が終わり、ベンガルが分割されると同時に、国境のところで鉄道は寸断されてしまい、今はバングラデシュ国内のみを走るローカル線として、また貨物線としてしか使用されていない。一応柵はあるのだが、通行は自由ということで、橋のたもとにいる警察官に、写真撮影を禁止されたものの、橋を徒歩で渡ることを許された。ガンジス川をまたぐ1.8kmの巨大な鉄道橋は、渡り切るのに徒歩にして約30分かかる。英国がこの橋を建設した当時、長さにして世界で10の指に入っていたという頑丈な鉄橋は、今日、私達のほかに地元の人が自転車で通る位だ。途中一度だけ、地元の人々を乗せた列車が通ったが、その交通量の少なさは、鉄橋の頑丈さ、巨大さと非常に不釣合いなものだった。足元には、植民地時代ときっと同じ、濁っているが雄大なガンジスが、とうとうと流れていた。

接触事故は日常茶飯事?!

 橋を渡って再び車に乗り、ジェソールに向かう。しかし、ここで事故がおきた。リキシャーを追い越した私達のバンの後部が、対向するトラックに接触したのである。パリン、と音がした。しかし、このくらいの事故は日常茶飯事なのか、お互い何を言い合うでもなく、そのまま走りつづける。あとで見てみたら、後ろのライトが壊れていた。幸い、我々には何の被害もなかったが、ライトの修理代に5000タカかかるといっていた。

道を行く途中は水田がほとんどで、何度か通る小さな街も、そのつくりや、商店街にある店舗の種類がとても似ている。不思議なもので、あるのはチャイやカレー、サモサ風のスナックが食べられるような食堂、果物屋、針金や鉄板を売っている金物屋、便器などを売っている店とパターンが決まっており、リングワンデリングしているのではないかと錯覚されるほどだ。

こうした町の一つにとまって、我々は軽く夕食をとる事にし、道沿いの食堂に入った。牛肉のミンチが入っている正方形の揚げ物を、小さく切ってくれた。大変おいしかったが、このような地方の町では外国人が珍しいらしく、気づけば店の外は黒山の人だかりになっていた。そのなかの一人が、上手な英語で、「あなた方は援助団体か。この町に援助をしに来たのか」と我々に向かって話し掛けてきた。この店に限らず、どこを歩いていてもすぐに10人や20人は集まってきてしまう。特別な事をしているわけでもないのに、人々に取り囲まれてしまう。食事を終え、車に乗り込むと、車の周りにたくさんの人が集まってきた。最初はただ珍しそうに見ているだけだったが、次第に窓をたたいたり、顔を近づけて覗き込んだりと、彼らの行動がエスカレートしてきた。われわれは何もする事が出来ず、ただ彼らが車をたたきつづけるのを見ていると少し怖かった。

う。美しい。 特に変わった風景といったら、途中の道で、染物をしている集落があったくらいだ。時々、BRACの看板がある。これは英語で地名が書かれていたからすぐわかった。BRACの看板はダッカ周辺と同じデザインで、緑色にBRACのマークと、ベンガル語および英語で地名が書いてあるのだ。車窓からの風景は、南に下っていくために熱帯の植物が増えてきた。道路には、枝が張り出して道全体をトンネルのように蔽うようになるまで育った深い並木が続いている。これも、英国植民地時代に植えられた並木であろう。さとうきびを道端で沢山売っていた。

途中、我々が寄り道をしたり、また迂回を強いられたりガンジスの渡河で時間を取ったりして、すっかり予定より遅くなってしまった。バングラデシュ西南部の大中心地で、英植民地時代はカルカッタを東京としたとき甲府や宇都宮といった位置にある都市だったジェソールに着いた時、時計は夜7時を回り、あたりはもう真っ暗になっていた。ここで、遅れる旨をUttaranの事務所に電話で連絡しようとするが、市外電話をかけられるところが街中になかなか見つからず、苦労する。

ここからさらに車で約1時間半のタラ(Tala)という街が、目的地である。しかし、車はいったん県庁所在地のサントゥキラ(Santkhira)を通る道にまたもや迂回しようとして、そのまま国境の街、べナポール(Benapole)へ向かいそうになってしまった。近道への入口をやっとのことで見つけ、道を急ぐ。バンはひた走り続け、夜もふけてきた。よく停電が起こるために、バングラデシュの夜は真っ暗になる。そこに、ろうそくの火や、スプレー缶のようなランプの火がぽつぽつと見えて、明るい夜になれている私達にとってはとても幻想的だった。途中、警官が道路で待ち構えていて、何ヶ所かで検問された。

Uttaran到着!

 夜10時半、15時間半の移動を終え、タラ(Tala)にあるUttaranの本部に到着した。もう夜は遅く、本部の入口の鉄扉は閉ざされ、中は真っ暗だ。当然ながら誰も我々を待っていてくれていない……と思いきや、3階建ての屋上から、懐中電灯で我々を照らす人がいる。警備員だろうか。我々の身分を言うと、ゲストハウスはあっちだ、あっちに行け、と指示された。こうしてこれから3日間お世話になるUttaranのゲストハウスに到着した。このゲストハウスの入り口には頑丈な鉄製の門があり、車一台がやっと通れるくらいの幅だ。ちょうど停電中だったので、漏れてくる電灯の明かりもなく、空には星が輝いている。このタラという地名は、ベンガル語で「星」を意味するのだと言う。懐中電灯の灯りを頼りにゲストハウスに入る。これから3泊するこのゲストハウスは2階建てで、2階に4部屋ある。3つの寝室の真ん中にキッチンの付いた部屋があり、私たちの宿泊中に、冷蔵庫が導入された。寝室には蚊帳付のベッドが置いてあり、天井にはファンがあるが、冷房はなく質素なつくりだ。なぜかベッドには布団がついていない。タラの気候は大変蒸し暑いが、風力の強いファンの下では布団なしで眠るのは少し寒かった。バスルームは一つの部屋にしかついていない。ここはホテルではなくNGOのゲストハウスなのだから、質素なのは当然なのだ。

到着後、ろうそくの灯りで準備してくださってあった遅いカレーの食事をとった。

(3年 小澤 真紀)
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