9月8日(金)

ウッタラン出発
砒素汚染地区シャムタ村
インド入国


ウッタラン出発

ジュート絡まる
いよいよ、バングラデシュ出国だ。国境の街ナポールまで、バンを飛ばす。

Uttaranの近くの道で、象に出会った。狭い道をふさぐように巨体をのそのそ動かし、子供が上に二人乗っている。道が狭いので、象と車がすれ違うのも大変だ。

運転手は車の下に入り、取り除いている。次第に車は郊外を走るようになり、道には、収穫し、干してあるジュートが道に並んでいる。車や自転車、歩行者も気にせずその上を歩いているところをみると、わざと踏んでもらって、繊維をとりやすいようにしているのだろうか。そんな事を何回か繰り返すうちに、私達の乗っているバンの車輪に、ジュートがからまってしまった。

周辺散策
9月5日のアッティアモスクと比較すると、差は歴然。ヨーロッパ風のモスク。 皆車から降り、ジュートを取り除く作業を見ていたが、なお時間がかかりそうなので、近くの町を散策する事にした。近くに古いスクがあるということで見に行った。このモスクは1850年に建てられたものだ。白い壁に緑色の屋根が美しい。階段を数段上って中に入るようになっているのだが、階段の上から2段目で、屋外ではあるが靴を脱がなければならない。巡検の一週間前に、先にダッカに到着していた人の話では、ダッカ最大のモスクでは一番下から靴を脱ぐようにといわれたということで、違いに驚いていた。このモスクは窓にはステンドグラスがはめ込んであり、柱はギリシャ建築のような様式で、どこかヨーロッパ風だった。イギリスの植民地支配の最盛期、それを経済的に支えたザミンダールがいかに英国文化に傾倒していたかを、今日までこの建物の形態がわれわれに物語ってくれている。

モスクを見終っても、なお取り除く作業は続いていたため、もう少し道路沿いの町を視察する。すると村人がこの近くに、つてザミンダ―ルの家だった建物があるということで、見せてくれる事になった。家は、道沿いにあるのだが、敷地が広いようで、少しあぜ道を入らなければならない。家の周りには、すでに崩れかけていたがかなり高い塀がめぐらされていて、容易にその中を見ることは出来ないようになっていた。これまで見てきた農家の家には塀はなく、平屋の建物だったので、その規模の違いがはっきりわかった。地主は30年前にこの家を放棄して住んでおらず、かわりに村人が勝手に住みついていると言う事で、残念ながら奥のほうまで見ることは出来なかった。

一時間くらいたっただろうか。やっとジュートの除去作業が終わり、無事再出発になった。

砒素汚染地区シャムタ村

村の概要
バングラデシュの東の端インドと国境を接するジェソール県の西部にャムタ村はある。この地区は地下水砒素汚染では有名な村であり、砒素に対して様々な研究者やNGOがはいって研究や対策を行っている。また、日本人の研究者やジア砒素ネットワーク(AAN)などのNGOがこの村にはいっていろいろな活動や対策をしている。幹線道路に近いという地理的な特徴がそうさせているのだろう。幹線道路から離れボートなどを使って行かねばならないようなアクセスが困難な村にくらべて、砒素対策も進んでおり、ひとつのモデル村である。

シャトキラ県の県庁所在地シャトキラから、国境の町ベナポールにつながる幹線道路から車でわき道に折れて少し奥に入ったところに、シャムタ村はあった。

女の人の手私が村人を見て一番はじめに感じたのは、この村の人々の肌があまりきれいでないということであった。今まで訪れた村の人々の肌は、暑いバングラデシュの気候のためか肌が水分を保ちつやつやしてきれいであったが、この村の人々の肌は保湿性に乏しく、カサカサしているという印象をうけた。

切断した指の跡村の中へ
通りがかりに砒素中毒患者の女性に出会った。彼女は手を差し出して病状を我々に訴えかけた。彼女の手はカサカサで皮膚の角質化がすすんでいた。そして、私は彼女の表情に何となく不安を感じた。さらに進むと、いく人かの砒素患者に遭った。黒い斑点が体中に出ている人、切断されて指がない人。砒素病院で見たスライドと同じ症状であった。この村ではすでに砒素中毒により2人の女性がなくなり、症状がひどい人はダッカの病院に入院している。砒素中毒というのは体内に蓄積されて起こるものなので、14歳以下の子供にはあらわれないそうだ。だが、ゆっくりとではあるが、この村の子供たちの体をもむしばんでいることはまちがいない。

砒素のでる井戸を使う女砒素のでる井戸を使う子供村にはいくつかの井戸があった。この村の井戸は砒素汚染の調査がすでに行われている。水における砒素含有量の世界保健機構(WHO)安全基準は0.01ppmなのであるが、バングラデシュ安全基準はそれよりあまい0.05ppmである。安全基準よりずっと濃度の高い水が出る井戸は赤いペンキでその井戸に×をつけるなどをして人々にその井戸水を飲まないようにうながしている。だが実際には、砒素の水が出る井戸はそのまま使用が続けられており、大量にでてくる砒素を高濃度に含んだ水で、子供がカラダを洗ったり、女性が洗い物をしたりしている。危険であるからといって完全に井戸を壊してしまうと、特に乾季に水が足りなくなるので、使用を禁止できないのだ。これは、乾季に、砒素に汚染された井戸水を飲料水として、ここにすんでいる人々は使わざるを得ない状況を意味する。水の供給が需要に追いついていないのが現状だ。

ろ過装置装置についてる看板AANの方々に会う
さらに奥へ行くときな溜め池の沼と濾過装置があった。ここをわれわれが視察しているとき、偶然にも、これらをつくったAANの方々が状況の把握にみえられた。チームリーダーで経済地理学者の上野登教授はジェソールに滞在中ということであったが、AANの中心メンバーである、谷正和博士(九州芸工大学助教授・人類学)にお話を伺うことができた。これらは飲料水の慢性的な過剰需要を補うために、AANが砒素軽減対策の一環として1999年1月に建設した。この装置は、まず雨期の間にこの溜め池に雨水をため、そして水が不足する夏期にこの池から濾過装置に水をパイプで通し、それを飲み水として使うという仕組みになっている。この装置のすぐ近くには、砒素問題に詳しい専門家が住んでいて、住民にこの装置の使い方を教えたり、装置の維持管理をしたりしている。ただ、このシステムには問題がある。このひとつの池に対して60家族が使うことができるのだが、実際現在はひとつの池を200家族が利用するため、6ヶ月間の乾季のうち、3ヶ月でその水を使いきってしまう。村にはこのような溜め池が2つあるが、この村の家族すべてにとって充分にいきわたらない。またため池、我々がここを訪れたときは雨季の終わりであり、きたるべき乾季に備えて、溜め池に大量の水が入っていなければならないはずであるが、我々の目には池の容積の半分くらいしか水がたまっていないようにうつった。

たしかに、今のところ一番安全な代替策は雨水であり、AANも雨水を集めるように奨励している。しかし、人々は砒素を含んだ井戸水に危機感が少ないからであろうか、それとも雨水を集めるのが面倒だからであろうか、あまり一生懸命に雨水を集めるようなことはしないという。援助で装置をいったん作れば、それは長くその地区に建造環境の一要素として残る。それを操作し、維持管理するのは、援助の主体ではなく地元の人々だ。本格的な上水道を援助して設置するという対策も無論ありえたであろうが、谷助教授は、この理由から、「あまり複雑な装置は寄付できない」とおっしゃっておられた。

AANの方々今後、この村での対策について、AANの方は、地元の方たちやローカルなNGOに任せていきたいとのことであった。その理由は、最近この村に外国人が来ても、人が集まらなくなったことからわかるように、地元の人々が外国人に馴れてきたという意識が生まれてきているからだそうだ。この状況になってしまえば、人類学の学術調査にはたしかに具合が悪いかもしれない。とにかく自分たちがやれるところまでの対策はやったので、AANの方たちは、この村から、撤退するという。

砒素汚染のモデル村とか、パイロット村といわれているシャムタ村ですら、このような状態である。幹線道路から地理的に遠い砒素汚染の集落では、いったいどのような状態が展開しているのであろうか。

バングラデシュ砒素汚染問題のまとめ
2つの視察(砒素病院とシャムタ村)からわかるように、砒素汚染がバングラデシュ全土に広がってしまったのにはニセフの責任がある。ユニセフは井戸をつくったのだが、つくりっぱなしの無責任で、井戸水の砒素含有度検査などいっさい行わなかった。ユニセフは、日本のほとんどの学校で生徒から募金を集めており、われわれにもなじみ深い。以前学校で、途上国の子供たちを貧困から救うと信じて払ったユニセフ募金が、バングラデシュの子供たちを含む多くの貧しい人々を砒素中毒で苦しめたのだと考えると、ユニセフという団体への信頼感がわれわれの心の中で揺らぐのを覚える。そもそもこれは、現在日本をはじめ先進諸国で取り上げられているが、PL法(生産者責任法)にふれる問題ではないのか。ユニセフは、自分の責任をより明確に認めねばなるまい。

我々が訪問を終えて、後に議論したことだが、ANNの活動も根本的な解決にならないのではないかということである。深井戸が安全であるといわれているのであるから、建設費等は非常にかかるとは思うが、それをより多くつくり、しっかりと水質調査をして人々の命を守るということが重要ではないかということである。

インド入国

緊張のバングラデシュ出国
植民地時代に、ジェソールとカルカッタを結んでいた広軌の鉄道線路の踏切を渡ると、国境に向かう道に車は入った。これは、植民地時代、ダッカとカルカッタを結ぶ幹線道路で、イギリスの作った並木が美しかった。

ナポールBenapolは、国境の街といっても、独立の際に突然出来た国境のため、特にマーケットがあるわけでもない。強いて国境が近づいているというのが分かるのは、インドのナンバープレートをつけたトラックが並んでいる事からくらいである。国境の検問所が目立たない、と言うのもあって、運転手が気づかず国境の緩衝地帯にまでバンを突っ込み、そこを突破しようとして、一同びっくりした。これでインド側にまで突っ込んでしまえば、撃たれてもおかしくない!大声を出して、3m先はインドという国境線ぎりぎりのところで車を止め、Uターンさせた。

出国審査。質素な建物だ。 冷や汗をかきながら皆荷物を持って、出国審査を受ける。バングラデシュの人たちも、手にパスポートを持って並んでいる。通行証明書など、パスポート無しの簡易型の証明書はないということで、一回一回審査を受けなければならないのだそうだ。ここを毎日のように通勤や国境貿易で通過している地元の人はいないということだろう。植民地時代には走っていた、ジェソールからカルカッタへの直通列車も今はない。1947年までは一つの領域で、国境の両側にはいずれもベンガル語を話す人々が今も住んでいるというところからすれば、この国境は、かつての東西ドイツ同士ほどではないにせよ、かなりものものしいものといえる。

私達の審査は、外国人ということで、国内の人の列とは別に、別室で審査があった。一人一人が審査を受けるわけではなく、先生がみんなのパスポートと、ロードパーミット(陸路出国許可証、Road permit)の書類を集め、審査を受ける。先生が緊張した面持ちで、移民官の質問を受けている。私達は建物の外で荷物の番をしながら待っている。先生が、窓の外の私達に向かって手を振る。結局、審査官は何の賄賂も要求せずに旅行の目的や、これまでの行程など一般的な質問をしただけですんなりと出国スタンプを押してくれた。しかも、苦労して取得したロードパーミットは、移民官がその存在に言及すらせず、もちろん提出も要求されず、結局まったく使わずじまいだった。このバングラデシュ陸路出国の際のロードパーミットについては、必要という説と不要という説の両者が交錯しており、我々は国境での出国手続の際トラブルというリスクを避けるためダッカでこれを取得しておいたのだが、どうやら「不要」という説が我々の場合は正しかったようだ。もっとも、公式には「必要」なのだろうから、Permitを持っていないからという理由から国境でUターンを強いられても、文句はいえない。そのあとすぐに、税関を通る。「何か申告するものはあるか?」と聞かれ、ないと答えると、あっという間に通してくれる。こんな簡単でいいのか?と拍子抜けしてしまった。

そのまま徒歩で国境を通過する。国境と言っても、門があるだけだ。バングラデシュの門のほうが一回り小さい。鉄製の茶色い門だが、たいして大きくない。さようなら、バングラデシュ!

インドへの一歩
そこからインドの門まではたった10歩くらいだ。門が少しだけ大きく、新しい感じがした。インドの国境警備をしている人は、おそらく軍人だろう、ベレー帽をかぶっていた。一応、パスポートを見せ、中に入る。町の名前は、べナポールからリダシュプールHaridaspurに変わっている。次に、入国審査だ。これが一番時間がかかった。ここでも、バングラデシュ人とその他の外国人は別に並んだ。一つ一つ、パスポートに書いてある事と、ビザの有効期限などを分厚い帳簿に手書きをする。これが終わって、パスポートが審査官に手渡される。どうやらコンピュータにデータを打ち込んでいるようだが、のんびりとやっている。手渡してくれる時に、ヒンドゥー語でこんにちははこういうんだ、などと審査とは全く関係ないような話をするので長い。国境の役人たちは暇なのだろうか。こちらは、暗くならないうちにカルカッタに着きたいとあせっているのに。なぜか、バングラデシュ側にいたバングラデシュ人の審査官が遊びにきていた。この部屋の壁に、入国者数などが書いてあった。今日は、ここから陸路インド入国した人数は、バングラデシュ人を除くとたったの4人だ。帳簿を覗いたところによると、どうやらネパール人らしい。この国境通過地点は、バングラデシュとインドを結ぶ最も重要な陸上ルートなのだが、それでもインド亜大陸以外の人間がこの国境を通過するのは、珍しいのだろう。

やっと、パスポートにスタンプが押され、インド入国だ。次に税関。代表して一人のスーツケースが開かれる。おそらく一番大きい荷物だったからだろう。しかし特に一つ一つ中身を見るわけではない。形だけと言う事らしい。ここでも、特に賄賂を要求されたり、理不尽な要求をされたりしたわけでもなく、日本のコインが欲しい。と言われただけだった。来る途中香港の免税店で仕入れておいた、旧英領植民地でマールボロ以上に歓迎される555 State Expressというブランドのタバコを試しに出してみたが、かえって受け取りを拒否された。外にでると両替所が数軒ある。どの両替所にも1ドル44.85ルピーと言う看板が出ているが、46にするといって客引きをしている。しかし条件があり、100ドル札か50ドル札の高額紙幣でないと、このレートでは両替をしてくれないのだ。これはダッカの街中でも同じだったらしい。私の両替したところは、なぜか100ドル分を全部50ルピー札で変えてくれたため、92枚にもなって、一気に財布が膨らんだ。100ルピー札もあったようなのに。

国境から駅まで
皆両替を済ますと、5km離れた電車の駅まで行かなければならない。重い荷物を持って歩いていける距離ではないので、リキシャーか、ミニタクシーを雇って向かわなければならないが、皆揃って2台で150ルピーだと言う。これはどう考えても高いが、どのタクシーと交渉しても同じことを言う。仕方なく、その値段で2台に分乗して駅に向かう。途中に、ガンジーの銅像があり、インドに来た事を改めて実感した。時差が30分あるので、時計を遅らせる。それでもすでに夕方になっていたが、バングラデシュの夕方に比べ、電灯が多く明るい気がした。店の品揃えも多いような気がする。家々も、バングラデシュでは木造や竹で編んだ壁の家が多かったのだが、煉瓦造りの家が増えてきた。そして一番の違いは、英語の看板が多い事であった。変わらないことといえば、ミニタクシーの運転は荒いことだ。ジェットコースターくらいの気合が必要だったが、とにかく到着した。

列車でカルカッタへ
駅に到着し、カルカッタ行きの2等車の切符15ルピー(1ルピー=2.5円、2000年9月現在)を買って、午後6時10分の発車を待っていた電車に無事に乗り込む(この線は電化されており、本当の電車である)。ここから、カルカッタのダムダムDum Dum駅まで約2時間半の道のりだ。たくさんの人が乗っているが、始発だった事もあって、何とか座れた。2等車の座席は粗末な木のベンチだが、1.6mの広軌だけあって、車体の幅は日本の電車よりずっと広く、ゆったりしている。 後期のゆったりした車内。3人がけのボックス席が左右1つずつある。隣に座った人々は、皆揃って英語が話せた。食べ物や、お土産を売りにくる人が多い。かりんとうのようなお菓子や、綿菓子のようなお菓子、青いミカンやバナナ、髪を結ぶゴム、線香などの小間物を絶え間なく売りに来た。途中ジュートを車が巻き込んだり国境でもたついたりで時間をとったため昼食をしている時間がなく、腹が減っていたので、車内販売の食べ物を買ってわれわれは空腹をしのいだ。

電車は各駅停車で、頻繁に止まり、客を拾ってゆく。カルカッタに近づくにつれ、電車が混んできた。女性が乗ってきたので立ち、座席を譲ろうとすると、目の前のインド人が、「立っているとスリの標的にされるから危ない、座っていなさい」と注意してくれた。すでに暗くなって外も危ない雰囲気なので、ダムダムDum Dumで地下鉄に乗り換える計画を変更し、終点のアルダーSealdah駅まで行く事にした。

カルカッタ到着
セアルダー駅に到着した時は、夜も9時近くなっていた。電車を降りると、ホームには、腰に布をまとっただけの裸の人間が、伏せて死んだように横たわっている。駅舎を出て、タクシーでホテルに向かう。最初、白タクにつかまり、400ルピーとふっかけられたが、オフィシャルのタクシー(黄色か、黄色と黒)のほうがよいということで乗り換えた。インドのタクシーは、メーターが古いと言う事で、メーターに出てくる料金を2倍し、20%上乗せすると言う事で交渉が成立した。

こうしてレートイースタンホテルGreat Eastern Hotelに無事到着。ここは、19世紀の植民地時代からの由緒あるホテルで、ロビーはゆったりと豪華なつくりだ。バングラデシュで質素にすごしてきたわれわれは、圧倒されるようだった。深夜街中に出歩くと危ないので、ホテル内の中華料理店で夕食をとることにした。一人一皿ずつ注文するが、勘違いしたらしく、全ての料理が7人分出てくる!こんなに食べられるわけないじゃないか。交渉し、二人分に減らしてもらった。少し向こう側にいたヨーロッパ人のテーブルでも、何かトラブルが起っていたようだ。久しぶりに飲んだビールがおいしかったこと!

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(3年 小澤 真紀)
(3年 藤巻 浩一)