99年度水岡ゼミ・香港、中国、ヴェトナム巡検報告


世界の2大国に勝った国の誇り

9月5日〜7日


9月3日から列車に乗ってへ朝の8時ころに到着。予定よりも約1時間の遅れとなった。前日までの中国に比べて少し湿気が多いような気がする。

駅を正面から撮影列車を降りて駅を出ると、整備されていない土の道があり、建物にはヴェトナム語と中国語の二重表記がしてある。すぐ横にトイレがあり、そこでは2角払って用を足すのだが、大変汚いトイレであった。大きい方のトイレにも仕切りはなく、日本で通っている常識は通じなかった。駅にはなぜか門があって、これを抜けると、右側は山の崖、左側の川沿いがあまり活気のない商店街となっており、食べ物などを売っている。リヤカーに青いバナナを山のように積んで運んでいる人がいる。ここは中国とヴェトナムの国境であるから、ヴェトナムで収穫したバナナを中国に運んできたのであろう。犬が鳴いている。

われわれは、門を抜けてすぐの食べ物屋で朝食を取った。2元の辛い麺であった。すぐとなりの店では、中国の国境警備の人であろうか、制服を着た人が同じく朝食を取っていた。駅から300メートルから、または400メートルくらい、3分から4分くらい歩くと、鉄道の踏み切りにぶつかった。その袂に、中国出入国管理所がある。

出入国管理所で、パスポートを渡し、出国用紙に記入させられた。小さな小屋で、机もゲートもあるわけでない。庭で待たされたが、われわれが日本人であったからであろうか、いすを出してくれた。それなりの厚遇だったのかもしれない。椅子は、ヴェトナム人や中国人用には出されていないようだった。木陰で20分くらい待つと、何も質問なしで出国スタンプの押されたパスポートが返ってきた。次は税関。ここではほとんど何も聞かれなかった。その左側にある検疫所にも行くよう指示される。ここでは名前と国籍、それに署名をさせられた。これは中国人とヴェトナム人以外が書かなければいけないようで、よく見ると、ここに署名してある外国人は、一日に2〜3名くらいしかいなかった。少ない中でも、オーストラリア人、アメリカ人が多かったが、日本人も所々見かけられた。国境の近くにはきれいなホテルがあった国境の近くにはホテルがあり、きれいなものであった。外国人向けでは商売にならないからこれはヴェトナム人と中国人用なのであろう。それだけに、国境にまたがるビジネス客などの需要があるということを意味している。

手続きが終わった後、国境の橋を渡る。料金は要らない。橋の袂で、中国人の警備官が「ヴェトナムのビザを持っているか」と聞いてきた。ビザを見せると、通してくれた。橋といってもその上には、これまで昆明から乗ってきた鉄道の続きの線路が走っていて、もちろんそこを列車が通るのである。つまり、国際列車の本数は少ないということだ。列車の本数が多かったら危なくて人などと一緒には出来ないだろう。今の時点では、両国の物流は、鉄道よりも、個人個人が自転車で運ぶほうが主なのであろう。橋の上でも、自転車に積んだバナナを重そうに運んでくる人が目立った。記念撮影と称して観光客の写真を撮って金を取ろうとする阿漕な奴も見受けられた。しかし、この写真屋の商売が成り立つということは、結構この橋が観光スポットになっているということなのであろう。まあ、ヴェトナム人の多くは、観光するほどの所得は得ていないであろうが。ここでは中国人やヴェトナム人は互いに相手の国を行き来するのに、パスポートもビザもいらない。指定の辺境地区の通行証を提示するだけで、簡単に国境を往来することが出来る。

橋を渡ると、そこにMr. MIZUOKAの紙を持った、Handspan Travelのガイドがわれわれを待っていてくれて、われわれは英語で挨拶をした。列車が1時間半も遅れ、しかも出国手続きに時間がかかったことから、ガイドはかなり待たされたと考えられるが、快く応対してくれた。ここはもうヴェトナムの街ラオカイ(老街)だ。手続きなしでいきなりヴェトナムに入国……と思ったら、実は踏切のすぐ先の建物で、入国手続きをしなくてはならない。 まず、パスポートとビザの検査。手続きをするのに、ヴェトナム人や中国人と見られる人々は長蛇の列を作って順番待ちをしていたが、われわれは、ガイドの手引き(?)で、待合室で待ち、その後列を無視して窓口に行くことが出来た。窓口の向こうの係員は、どこに行くのか、どの旅行社と契約しているか、その書類を見せろ……などなど、質問が大変うるさい。パスポートや予約確認書のコピーなど要求された書類を窓口に出すと、中で何をやっているのか、30分くらい待たされた。渡した予約確認書のコピーは、返してくれなかった。戻ってくると今度は税関。手荷物検査と外貨の持ちこみ申告を行う。外貨はすべて洗いざらい書類に記入しなくてはならない。これは中国で数えておいたのでよかったが、荷物は、驚いたことに大きなかばんをすべてひっくり返されて中身を一つ一つ検査された。これには非常に腹が立った。せっかく前の日に苦労して整理したバッグだったのに!なんだか態度も悪かった。これまでの日本の出国、香港での中国入国、香港から中国本土への出境と入境に比べると、その検査の厳しさが格段に違う。このようなところにも、ヴェトナムの「社会主義国」の一面が見られるような気がする。麻薬や銃などの流出入や、犯罪者の越境などに税関や入管がナーバスになっていることもあるだろう。途上国にはそうした犯罪者や麻薬・銃のシンジケートがつきものであるし、そうした負の財でしか大量の外貨を獲得できないことも哀しい現実であるから。

入国検査の建物の中に両替所もあって、ここで容易に米ドルをヴェトナムのドンに両替できた。ドルからドンへの両替は、事前の¥1→100ドンというレートよりも、ドンがやや値下がりしたようで、70米ドルで、約99万ドン程度になった。ホーチミン(胡志明)の顔がたくさん入ってきて、財布は急に分厚くなった。両替をする場所で、貧しそうな子供がこっちをジーッと見ている。こんなところで引ったくりはされないだろうが、十分気をつけて行動しなくては。中国出国からヴェトナム入国まで、このややこしい手続きでかれこれ1時間半は費やした。

入国手続きを済ませて外へ出て、先ほどの踏切を渡ろうとすると、閉ってヴェトナムのディーゼル機関車に引かれた貨物列車が通過した。列車が通りすぎると、国境の橋はまた、バナナなどをつんだ自転車でいっぱいになった。踏み切りの向こうに、これから3日間お世話になるカーキ色のジープが止まっていた。ここラオカイから、山岳ルートをつたってライチャウ、ディエンビェンフー、ソンラを抜けハノイまで向かう。後で知ることになるのだが、このジープは、ヴェトナム戦争で使われたのと同じ型の旧ソ連製であった。最低限の装備しかなく、窓の開閉にも苦労した。また後からわかったことなのだが、運転手は2名、1名は昔南ヴェトナムでヴェトコンを前線へ運んでいた輸送隊員、もう1名は元北ヴェトナム正規軍のトラック部隊員であったのだ(!)なぜこのような物々しい車と、優秀なドライバーを必要としたか、われわれは、後からいやというほど思い知ることとなった。

1週間くらい前の大雨で、山岳ルートは2,3日前まで土砂崩れがおこり閉鎖されていたという。ジープに乗り、ヴェトナムの赤旗の中央に金色の星一つという国旗が家々に翻る街を通過、最初の目的地、サパへとジープは登り始めた。

山岳ルートといっても、サパまでの道は割合整備されていた。この山岳ルートは、最近では西洋人にひそかなブームを呼んでいる。ジープの窓からは、山岳民族の農業地帯をつぶさに見ることが出来る。ブラックモン族、暑いのに黒い民族衣装ジープから降りて小休止をしているとき、われわれは初めて少数民族に会った。ブラックモン族であった。人々は、頭に飾りをつけ、また耳飾りなどをし、暑い中で黒色の民族衣装を着ていた。中国での民族村や石林などにも、民族衣装を着た人々がいた。その民族衣装は、ほぼ100%観光客をひきつけるためのコスチュームであった。普段は着ていない民族衣装を着ているということから、非常にトゥーリスティであることがわかる。しかしヴェトナムであったブラックモン族の人々は、別に観光客のために民族衣装を着ているわけではない。彼らは普段から毎日そのような衣装を身に付けて生活しているのである。しかし中国の民族村を思い出せば解るように、このままヴェトナムにツーリズムが浸透していけば、いつ、ヴェトナムの少数民族のこの衣装が、トゥーリストをひきつけるためのコスチュームになりさがるかは解らないのである。

急斜面でも苦労して米を作っているジープから見える山々は緑で、所々の斜面に畑や田んぼのようなものが見える。ガイドの人に聞くと、作られているものは主に米とバナナであるという。東南アジアの米作というと二期作を思い浮かべがちであるが、この辺りはあまりに斜面がきつすぎるために一期作しか行えない。途中、旧ソ連の国旗と同じ鎌とハンマーのマークがついた共産党の大きな看板が目に付いた。「きれいな農村を目指そう」というスローガンが掲げてあった。農村にまで、隅々に共産党の支配が浸透しているよい例ではないだろうか。

(沙巴)は、標高およそ1,600m、主に欧米人に知られている高原の街である。中には郵便局やホテルもあり、もちろんレストラン、そしてカメラのフィルムまで売っている。


過去において、熱帯地域にある高原大地は、湿気を含む暑さに慣れていない植民者、すなわち西欧人たちにとって、西欧に近い気候をもちすごしやすいために、恰好の保養地となった。こうしてヨーロッパ人の植民地山間部には、「Hill Station」と呼ばれる、独特の都市形態が形成された。植民地官僚や商社員などヨーロッパ人上層階級の一種の「保養都市」ともいえるが、インドのシムラーのように、夏季はそこで植民地行政自体がなされ、政治都市となる例もあった。ヴェトナムでは、サパのほか、南部にサイゴンのHill Stationとしてダラトがある。また、東南アジアの旧英領植民地では、マレイシア(旧英領マレー)のキャメルン・ハイランズ、ビルマのメイミョなどがあって、未だにイギリスの面影を色濃く残している。日本の軽井沢も、信越本線開通後、当時横浜に本拠を置いた欧米人によって明治期に開発が始められた、一種のHill Stationである。今日の軽井沢の高級そうな別荘地の雰囲気は、このHill Stationの原型を、むしろ今日までかなり忠実に受け継いでいるといえるかもしれない。

また、東南アジアでは、山岳部に少数民族が居住する例が多く、Hill Stationは、山岳部で星雲状に広がる少数民族の集落からぬきんでている大きな都市となったため、少数民族と平野部との交易の場がそこに自然に成立していった。

サパは、このHill Stationの非常によい一例であるといえる。現在でも、サパに見られる教会を中心とした街のつくり、ゆったりとした道路の幅、そして「バルコニー&開き窓」のある建物が軒を連ねていた。フランス植民地時代の保養地としての名残が感じられた。単に保養地としてだけでなく、日用品の充実した市場があって、サパは周辺農村の物流の中心となっている。そして昔は高所得の植民地支配者しか訪れることが出来なかったこの地に、今では一般の外国人旅行者が訪れるようになった。この村の整備は、これからどのように進むのだろうか。


村内を歩いていると、観光者向けの物売りが近寄ってくる。民族衣装を着て、手作りらしき腕輪や笛などを10,000ドン程度で売ってくる。売るための外国語は大変上手だ。日本語で話しかけられてきて、びっくりする。どこで勉強したのだろうか。しかし、中国の主な観光スポット(石林など)に比べるとその売り方に強引さはさほど感じられない。ガイド氏はわれわれに、「サパで1泊したら」とすすめた。ラオカイからサパへ行き、ここに宿泊せず1日でライチャウヘ行く旅行者などめったにいないのだろうか。それともこの旅行社とホテルがグルなのだろうか。とにかくわれわれは、ハノイでの予定があるのでこれは不可能であり、はじめの計画どおりサパを出てライチャウへ向かうことにした。

西洋風の建物inサパ われわれのジープは、サパからさらに登高を続け、標高2,000mを超えるトラントン峠ホアンリェン(黄連)山脈をこえた。この山脈には、ヴェトナム最高峰のファニスパン山(3143m)が聳えている。残念ながらわれわれが通ったとき峠は深い霧で、景色は見えなかった。峠を越えたあたりで舗装は切れ、かなり激しい砂利道になって、土砂崩れを少し除去したような跡が見受けられた。麓まで下ると、霧は晴れた。山肌には大きな滝がかかり、道の両側には数十キロごとに小さな農村があって、バナナやコメを中心とした農業の自給自足生活を営んでいるようだった。村内で何か製品を作って他へ売りに行ったり、観光客を引きつけようとしたりするものはほとんど見受けられなかった。道沿いには少数民族が農具や収穫物を抱えて行き交い、バッファローも我が物顔で道を悠々と歩いている。バッファロー達はひもか何かでつながれている様子もなく、思い思いに草を食んだりあくびをしたりしていた。子供がむちのような物で器用にバッファローを追っているのが目に付いた。砂時計の砂粒が一粒一粒落ちていくようなゆっくりとした時間がそこには流れていた。このような家が多く見られる。周りにはバナナの木と田圃があるジープの出すスピードは、そこでは明らかに異質だった。時折すれ違うバスやジープがあるが、通行者のほとんどはそのあたりの村の人らしかった。道沿いには、峠道ということもあって美しい棚田の風景が一面に広がっていた。日本の棚田も有名であるが、ヴェトナムのそれも深い谷から山の頂まで這うように広がっており、人間の収穫への執念と、その執念が作り出した格別の風景に酔いしれた。

途中、ントー(封土)の町でジープを止め、われわれは昼食をとった。ここには旅行社のステッカーやら「タイタニック」のポスターやら貼ってあり、外国人ツーリスト御用達のお店であることをうかがわせた。ご飯、ポテト、スープ、揚げ春巻き……5人で76,000ドン(約760円)。春巻きがとてもおいしかった。

このあたりまで来ると中国との国境線も至近であり、途中、中国方面に向かう道と分岐した。しかし、その道は草むしており、余り車の通った跡がない。中国とヴェトナムとの国境貿易は、いかに盛んとはいえ、空間的に見れば依然として限られた通過地点のみに限定されていることがわかる。

この

ハノイ→ラオカイ→サパ→ライチャウ→ディエンビェンフー→
ソンラ→ハノイ

という、ヴェトナムの最奥部を巡るこの山岳周回ルートは、ヴェトナム独立の歴史・自然景観・少数民族などの「観光資源」に恵まれ、これから大いに注目される可能性がある。砂利道・岩道のアップダウンの激しい厳しい道路であるが、その景観は本当に美しい。ディエンビェンフーからハノイへ行く途中に一つ観光客用の吊橋がある村があったが、これから観光客が増えるようであれば、他の村もそこからより高い収入を得ようとして、このような観光スポット化を志向することも考えられる。しかしここで問題なのは、このようなことを行うために、まず個々の村々の内部というより、道路整備を行わなければならないということだ。現在は4WDジープがやっと難儀して通行出来るだけで、大型観光バスなどとても無理だ。道路の改良には、政府の援助が必要不可欠になってくる。また、飲食店や土産物屋を作るための資金の融資も不可欠だろう。山岳の村で、内的な資本蓄積は非常に小規模であるから、銀行などの金融整備が早急に求められる。インフラ整備や金融整備など、ヴェトナムの村が観光化するには超えなければならない高いハードルが多く残されている。つまり、村が独自に観光開発することはほとんど不可能に近いのである。

とはいえ、もし観光スポット化したとしたら、その後のことも予想が出来る。農村部の人々の所得は向上するかもしれないが、それは昆明で見たような文化の商品化と引き換えだ。また、立派な道路で少数民族地区が空間統合されれば、商品経済の枠組にとりこまれ、自給自足的な農業が破壊されて、一次産品に特化していく可能性を含んでいるかもしれない。

夜8時ころイチャウ(莱州)のホテルに到着。夜といってもまだ8時くらいであったが、街灯が少ないために、大変暗い。その中で、

「KARAOKE」

という文字が怪しく光っていた。このホテルは観光客向けで、値段もそれなりに高い。夕食代も、現地の人ならばとても手のでなさそうな値段であった。では、果たして観光客が落としていったこれらのお金はどこに集まるのだろうか。これが少数民族の生活向上のために使われるとは考えにくい。結局、観光に目をつけた一部の人々が潤い、少数民族は、そのまま農業を続けるだけなのである。

そのホテルには、われわれ一行の他にも西洋人らしき人々がとまりに来ていた。宿としては、アウトドアが好きな、都会人が好みそうなログハウス風の作りである。だがドアの立てつけは悪いし、鍵はなかなかかからない。メンバーのうち、1つの部屋の鍵は南京錠で、こわれていたため、やむなく持参してきた自前の南京錠を代わりに使った。このホテルの周辺は、ダムが建設され水没することが決まっている。そのために造りも多少いいかげんになっているのであろうか。

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9月4日の朝食はフランスパンに、パン、コーヒー、チーズ、ブルーベリージャム、いちごジャムだった。5人で70,000ドンと、まぎれもなく外国人料金だ。フランスパンは悔しいが美味しい。これにひきかえ旧イギリス植民地はどこでも、植民地化以前からある地元料理を別にすれば、ろくな食べ物がない。しかし、パンが美味しければ美味しいほど、気持は複雑になってくる。

見るも無残な元文化堂ホテルを出ると、近くに、廃墟の建物があった。これはもと文化堂で、アメリカとのヴェトナム戦争の際の北爆によって廃墟と化したものである。アメリカによる北爆は、南ヴェトナム解放民族戦線の北ヴェトナム支援を絶つために1965年2月より始められていたが、ライチャウにもその戦痕が残っていたことは、ヴェトナム戦争の規模の大きさを物語るものであった。

ディエンビェンフーへの移動中には、ヴェトナム戦争戦死者の慰霊碑があった。台座には、近隣村で死んだ兵士たち(主に20から22歳くらい)の名が記されていた。このような碑は、教科書などの詳細な記述と共に、国家により公的な記憶を指示する装置としての役割を果たしている。国家のために死んでいった兵士を祀ることは、戦死したという個人や家族の記憶を永遠に残すためだけではなく、戦争に勝って国民を守ったという事実に即して、国家に対する民衆の求心力を強化すると共に、世界で唯一アメリカとの戦争に勝った国であるという強烈な自負心を民衆のアイデンティティの中に植え付ける。戦争碑というのは、建造物にとして必ず目に入ってくるというインパクト、文字を読まなくてもその建造物の意味さえ知っていれば理解できるという点で、公的記憶を支え、国民を国家に統合する強力な象徴といえよう。


その後、イトンHoi Tong という集落で停車、レッドモン族の人々にインタヴューを行った。レッドモン族の子どもには、腕時計をし、英語でLove Foreverと書いたTシャツを着た10歳くらいの子どももいたれば、一方、全裸の小さな5歳くらいの子どももいた。

モン族の村ですモン族の人々は、米・とうもろこしを栽培し、魚を取り、豚やバッファローなどの家畜を肥育することで生計を立てている。非常に自給自足的な生活で、自己完結的な経済パターンを持っている。米を市場に売ることもでき、政府も買い取ってくれるが、非常に価格が安く、販売量も生産量のおよそ5%程度ということで、商品経済化には至っていない。自分たちの現金収入を正確にはつかんでおらず、現金が必要なときにだけ、ライチャウなどの街に徒歩で鳥や豚などを売りに行って当座の収入を得ている。日用品は集落の店で買うことが出来るらしいが、街へ行くときには牛・豚・傘などを購入するという。市場経済は、自給経済のあくまで補完物なのだ。

農業に関しては、社会主義であるために土地は国有で、土地所有権はない。しかし、国家と土地の使用契約なしに自由に耕作地を拡大でき、拡大した農地には慣行的な土地使用権が発生する。このようにして理論的には耕したいだけ耕すことも可能だが、山間の土地で絶対的な耕作可能面積が少なく、水は降雨だけで得ているため、なかなか難しい。家族の数や家畜を増やすことで耕作可能面積も増えるように思えるが、それに伴う労働力もかさむから現実には厳しい。バッファローを使えば、生産力はかなり拡大するらしいが、たいていの家族は高価過ぎて必要以上には買えない。このため、日本におけるような農民層の分解がなく、安定した社会構造が維持され、少数民族の生活・経済様式は保守的になっている。生産拡大(拡大再生産)の方法は極めて限られていることから、一過的で自己完結的な生産に終始する結果となり、原初的な資本蓄積すらままならない現状にあるようだ。ここから、これまで述べてきたようなことから解る、モン族の人々のきわめて保守的な考え方、すなわち現状の生活がとりあえず維持されていればあえてリスクは冒さないという考え方が生まれてきているように思える。資金融資も制度的にはあるらしいが、銀行が貸したがらず、モン族の人達も返す見込みがないことから借りたがらず、ほとんど機能していない。実際3年間で200万ドンしか貸してくれないし、一度返せないと、もう二度と貸してもらえない。

もし資金を得ることが出来るなら、モン族の人々は、今のような保守的な考え方から少し解放されて、新しい農業用具や、農薬を買うなど、農業生産を向上させようとするのではないだろうか。資金調達の手段として、観光客向けの商売が考えられるが、現状では食料を売る程度で特に大々的に何かをやるつもりはないといっていた。この食料も、売ってみたはいいが売れずにやめてしまった。つまり、この村においては観光業が所得向上へのインセンティヴにはなっていない。結局モン族の村は、市場経済から完全に隔離された自己完結的な経済社会ということができよう。それが、例えば観光道路が建築されたとしてどのように変化していくかという点は興味深い。ただ、このような土地に政府が道路を整備する莫大な費用を投じてどれだけの便益を予測できるか、この点は難しい。

村の教育環境に関しては、村民全員が村の小学校(6年)に通い、その費用は一人あたりつき20,000ドンだが、この村落の人々の多くは文盲らしい。中学校はライチャウにあり、望めば行けるが、その費用は一人あたりで3百万ドンもかかってしまうため、村で店を開き現金収入が得られているような裕福な家庭しか通わせることは出来ず、中学進学率はわずか5%だという。教育条件も整備しなければ、いかに資金があっても、その先の資本蓄積は難しい。

もっとも、こうしたことのため、民族の伝統は守られている。政府は民族の融解を意図して他部族との結婚を奨励しているが、実際にはそんな機会はないし、そもそもモン族の人々がそれを望んでないという。民族衣装は、自分たちで作ってそれを自分たちで毎日着用するもので、観光客に売っているということもないそうだ。


モン族の人とゼミメンバーみんなで記念撮影 その後、再びジープで、ぬかるみの道を通りぬけ、ディエンビェンフー(奠邊府)に向かった。途中の山肌には、焼畑をしたところとそうでないところのコントラストがはっきり分かるところが何個所もあった。あと12qくらいのところで、下に大きな盆地が開ける。山が折り重なるヴェトナム北西部の奥地に、希少な広い平地である。盆地の向こうに山並みが望めるが、ここはもう隣国ラオスとの国境だ。ここをインドシナ戦争中のフランス軍が拠点とした地形的な理由は、よく理解出来る。

そもそもインドシナ戦争とは、第二次大戦後で日本が敗北した後、大戦中に日本がヴェトナムに与えた「独立」を破棄してフランスがインドシナの植民地支配を回復しようとしたことから起こった。大戦終了の翌日の1945年8月16日、ヴェトナムではホーチミンが独立宣言を行い、ホーチミンを大統領とするヴェトナム民主共和国が樹立された。だが、フランスは1946年、バオダイを擁して臨時政府を立てたため、両者の関係は悪化し、同年12月ハノイでの衝突から全面戦争に入った。ホー軍はゲリラ戦・機動戦を展開し、50年以来のアメリカの膨大な対仏援助にもかかわらず、54年5月フランス軍の拠点ディエンビェンフーを落とし、決定的な勝利を収めた。このフランスの敗北の翌日から開始されたジュネーブ会議で、同年7月インドシナ休戦協定が結ばれ、ヴェトナムの南北分割がなされたのである。


ィエンビェンフーには、昼下がりにようやく入った。周りを険しい山々に囲まれたそこは、驚くほど大きな市街地になっており、郊外には田んぼも広がっていた。飛行場横を通りぬけて、市街地に入った。昆明とは規模が違うものの、山間の村を見なれてきた一行にとって、久々の街であった。中心部の道幅は広かったが、自転車で通行する人が圧倒的に多く、バイクの通行さえまばらな感じだ。しかし、広い道幅や、道沿いの住宅、商店、交差点に設けられた大きなロータリーなどは、どことなくフランス植民地の名残を感じさせた。街の活気はそこそこで、落ち着いた感じだった。街並みに見とれているうちにホテルについた。ホテルで昼食を取った後、午後の巡検に向かった。

撃墜されたフランス軍機最初に訪れたのは、越戦争の記念博物館だった。屋外には、仏越戦争時に使用されていた戦車や対空砲が並んでいたが、恐ろしく装備が粗末でありこれでフランス軍のパラシュート部隊と戦っていたとはにわかには信じがたかった。しかし、そのすぐ脇には戦争時に撃墜したフランス空軍機の残骸が無造作に山積みされてあった。また、1954年7月5日に仏越戦争がヴェトナムの勝利に終わったことを示す碑が建っていた。元ヴェトコン兵士のドライバーは、対空砲を撃つ振りをしておどけていたが、アメリカ相手のヴェトナム戦争のことでも懐かしんでいたのだろうか、彼の顔が幾分精悍に見えてきた。

博物館の中に入ると、仏越戦争時の様々な資料がおいてあって、どうやってフランス軍を陥落させたか塹壕のルートで示した大きなジオラマ、フランスパラシュート部隊の写真、ヴェトナム軍の英雄ホーグェンザップ将軍の写真、仏越戦争休戦を決めたジュネーブ会談の写真などが展示してあった。とりわけ印象に残ったのは、ヴェトナム軍の装備であった。ヴェトナム軍は山間のこの土地まではるばる自転車や徒歩で物資を輸送し、銃などの武器も原始的なもので戦った。当時の前線の模型フランス軍の武器も並列して展示してあり、フランス軍のそれと比較していかに貧弱な装備でヨーロッパ列強の一つであるフランスと勇敢に戦い、勝利したかというコントラストを強調していた。こうした展示は、部外者の日本人にすらヴェトナム人の勇敢さを感じさせるのだから、当のヴェトナム人にとっては民族の誇りをかきたてられるのも想像に難くない。事実、ヴェトナム戦争の塹壕戦のビデオを館内で見たのだが、その時に二人のドライバーはとても誇らしげに人目をはばかることなく軍歌を歌っていた。戦争がその勝敗も含めて、いかに国民のナショナリズムを高揚させる道具であるかを痛感した。博物館にはゲストブックが存在し、見ると、「ハノイから2日かけてはるばるやってきた甲斐があった」と、感激した日本人が書き込みをしていた。

館内の展示やガイドの解説を総合すれば、仏越戦争の勝因は、ヴェトナム人の勇敢さは言うまでもなく、単純な人海戦術から塹壕戦へと変えた戦術の勝利、またそれを指揮した優秀な将軍、兵器の改良などであった。もちろん、フランス軍の戦力が旧仏領インドシナ全土に拡散し、パラシュート戦術そのものも有効に機能しなかったことも重要な要因であった。

博物館の見学が終わった後、博物館をわれわれにガイドしてくれた女性が、500万ドン入りのバッグを盗まれるというハプニングに見まわれた。このガイドは、博物館の入口にバッグを放置した、ほんの僅かのスキを狙われたのである。われわれも一時警察から足止めを食らったが、解放され、博物館の対面にある仏越戦争時のェトナム軍兵士の墓に向かった。

城壁と立派な廟に囲まれた墓地は、一番目立つところの左右に有名な将軍の墓が、その背後に無数の名もなき兵士達の墓が横たわっていた。その中で英雄としてたたえられている兵士の1人は、フランス軍が砲撃している陣地の弾の出口に自らの体をあてがって覆い、フランス軍が砲撃できないようにして、その隙に別の兵士がこの陣地に攻め入り、そこを落としたということで英雄になったのである。自らの肉体を賭して弾の出口にあてがったこの兵士は当然即死だが、その犠牲的精神が称えられ、国民的英雄とされた。日本の神風特攻隊や回天と、何やら発想が似ている。国民国家というのは、結局のところ、民衆を国民という虚像の下に効率よく国家へと収取する装置に過ぎないのかもしれない。墓地の一番奥手にひっそりと咲く白色の花が、なんとも物悲しげだった。

次に、200mくらい歩いて、フランス軍を追いつめて降伏に追いこんだ丘のような塹壕跡を見た。塹壕戦と言葉で書くのは簡単だが、実際にその跡を見ると、それがいかに人と手間をかけた作戦であるかを痛感した。エイズに注意を呼びかける大きな看板 塹壕跡のそばには、共産党を宣伝する看板の隣に、

「エイズに気をつけよう」

といったことを言いたいような看板があった。これが、社会主義ヴェトナムの現在の敵なのだ。

墓地です。城壁に囲まれている博物館に戻るとドライバー達がかけつけた警官達に職務質問を受けていた。待つこと10分、実が証明されて解放された。そこで、再びジープに乗り、フランス軍司令部があったところを訪れた。博物館員のご好意ある取り計らいで、われわれはその内部にまで入れることになった。普段は外から見るだけのものらしく、中に入るための鍵を開けようとしてもなかなか開かなかった。ようやく内部に入ると、そこは地下3mくらいの洞穴で、非常に暗く、あまり長時間いると気が狂いそうだ。こんな中で、当時のフランス軍司令部の長官達は戦争における冷静な(?)意思決定をしていたというのだから、信じられない。狂気以外の何物でもないと感じた。

司令部から5分くらいジープで行ったところには、仏越戦争で死んだフランス軍兵士のための慰霊碑があった。それは、公的にヴェトナムが立てたものでもフランスの国が建てたものではなく、当時従軍したフランス人個人の寄贈であった。聞くところによれば最近建てられたものらしく、忌むべき対象が植民地支配から戦争そのものへと転化し普遍化されたように解釈できるかもしれないが、それが個人の寄贈であるというところに、植民地支配や戦争の遺恨の根深さを感じた。

最後に、ディエンビェンフーが戦場であったことを示す碑を見た後、ホテルへの帰路についた。

今も、植民地支配を続けたフランスに決定的に勝利したこのディエンビェンフーでの戦争は、ヴェトナム人たちの心の多くを、誇りとともに占めているのである。

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9月5日今日は、ディエンビェンフーからハノイまで、

470km

を1日でジープにより移動する日だ。まだ暗い朝5時半、われわれはホテルを出発した。ハノイへ向かう幹線道路だけあって、道は1車線ながら舗装されており、ジープは快適に飛ばした。

朝7時、人が増えてきた ようやく明るくなった途中のムオンアンで朝食。全く何もない山の中の集落なのだが、デミタスのフランス風コーヒーが、悔しいほど美味しい。ここで、運転手さんが前日ディエンビェンフーへの道中、少数民族の行商人から買ったパパイヤをごちそうになった。

ここからジープは、標高差1000mある険しい峠越えに挑むことになる。峠までは優秀なドライバーのおかげで難なく来たが、「ハノイまで400km」の標識を過ぎて峠を越えたあたりで、ハプニングは突然訪れた。


1台のジープのブレーキが急な下り坂で故障したのである!道幅1車線の狭いカーブで、右手は山肌、左手は草つきであるもののかなり急に谷に向かって落ちている。コントロールを失ったジープは、タイヤを滑らせ一旦谷側に向かった。ここでドライバーは、神業的なハンドルさばきをみせ、ジープを1回転させて後向きにし、車体を山肌際に何の損傷もなく止めた。

It’s a miracle!

時間にすればほんの数秒であった。乗車していた4人はなんの声も発することはなかったし、恐ろしいくらい周りの状況やドライバーの様子が克明に見えた。だから、別に谷への転落死を意識することはなかったし、なんとかなると思っていた。下手な遊園地の絶叫アトラクションより、よっぽど貴重な緊張感を体感することができた。

かなりのハプニングであったが、興奮する同乗者、車の状況を克明に残したタイヤ跡をよそに、ドライバーは至って冷静だった。ジープのボンネットを開けると原因の究明に乗り出した。素人目でも一目瞭然に、ブレーキダクトから大量のブレーキオイルが漏れている。修理道具は極めて不十分にしかなかったが、石やガムテープ、金属片などのありきたりの道具だけで、慣れた手つきでドライバーは修理を始めた。

危機一髪!で止まったジープ 結局、このような故障は日常茶飯事なのだろう。それはひとつに、このジープは、ハノイの旅行代理店の所有物ではなく、旅行代理店がジープ、ドライバーをレンタカー会社から個別に手配していることによる。ツアーのコストを少しでも安くするために、km当たりレンタル料がジープの4倍する日本製の4WDではなく、車齢20年、もうじき成人を迎えるような円熟の旧ソ連製ジープを手配したのだろう。また、レンタカー会社も、おそらくコスト削減のため、十分なメンテナンスをしているとは言い難いのではないか。山岳ルートがブームを呼ぶには、移動手段の信頼性確保が絶対条件と断言できる。『Lonely Planet』はこの軍用ジープが「safe」だと書いているが、私たちは、このホームページの読者にジープの利用を勧めるわけにはいかない。ここにもまた、観光化に向けてのハードルが準備されていた。

修理を始めてから1時間もたったころだろうか、ドライバーが片言の英語で「Ok!!Let’s Go!」と言った。確かに、ブレーキダクトからのオイル漏れは止まっていたし、ヒッチハイクなどの手段も車通りのない辺境の地では空しく終わりそうだったので、一抹の不安を残しながらも再びこのジープに身を委ねた。

一方、故障しなかったジープに乗った筆者も含めたメンバーは、先にとある村につき、後ろのジープが来ないので待つことにした。一つの売店で休ませてもらったのだが、そこにはテレビがあり、初めはわれわれを恐る恐る見ていたが、次第にわれわれの持ち物などに興味を持ち始め、全く言語も通じないのに話しかけてくるようになった。メンバーも片言で『地球の歩き方』などを使って話してみた。いくら待っても後ろのジープが来ないので、前のジープのドライバーが後ろを見に行って来るといってジープで出て行った。右の青いパンツの子、バトミントンはかなりの腕だった!することのなくなったメンバーは、ヴェトナムの多くの村村でバトミントンが行われていたのを思い出し、その店にいた子供に身振りでバトミントンをやろうと誘った。なんと店の裏にはしっかりとしたコートがあり、後ろのジープで大変なこと起こっていることも知らずに、バトミントンに明け暮れていたのでであった。

ブレーキ故障のために遅れていたジープが追いつき、ふたたびソンラに向かって移動をはじめた。このあたり、標高が低くなると、タイ族の居住区になる。タイ族は、雲南だけでなく、ヴェトナム、ラオス、そしてもちろんタイ王国に至るまで、東南アジアに広く居住しているのだ。途中、ディエンビェンフー行きのバスとすれ違う。車体にハングル文字が書かれている。韓国もヴェトナムも右側通行なので、韓国から中古車が入って来やすいということだ。日本から入れるとハンドルの位置を変えねばならず、コストがかさむ上、車の性能も低下する。イギリス植民地時代のまま左側通行のビルマでは、東京都バスの中古が都バス時代の塗色のまま立派にやはり公共バスとして第二の人生をつとめているというが、こうした日本車の中古は、フランスと同じ右側通行のヴェトナムには全く見られない。 ンラ(山蘿)に着いて昼食。うなぎのスープや麺類など6,7品注文して、一人当たり(5人全部でではない)76,000ドン。並みの味であったことを考えればかなり高かった。旅行社のステッカーがいくつも貼ってあるところを見ると、ここもツーリスト御用達レストランなのだろう。旅行社は、キックバックを受け取っているに違いない。

地図を見ると、この先ハノイまで、まだ標高差の大きな峠がいくつも待ち構えている。われわれは、故障し崖から転落しかかったジープに乗り続けるのが怖くなっていたので、代替車を要求していた。ところが昼食のテーブルでガイドは、「故障車はもうすっかり直っている。代替車を要求すれば運転手が責任を問われて首になる。運転手にsympathyをくれ」、などと口説き始めた。運転手の雇用確保のため、われわれに、故障車に乗ったままこの先ハノイまで旅行を続けよ、というのである。無論、あの故障ジープがこの先どうなるかわからないことを考えれば、これは受け入れられない要求であり、きっぱり断った。事実ソンラの先で、くだんのジープはまた別の箇所が不調になった。旅行者の安全よりドライバーの事情を優先して考える姿勢。ヴェトナムのツーリズムがこうした程度のモラルの市場経済で動かされているのでは、その全面的な発展はまだむずかしいだろう。

昼食のあと、われわれは、ソンラの街中にあるフランス植民地時代の強制収容所を視察した。

この収容所は1930年に建てられ、フランス植民地時代に抑圧された反植民地運動勢力が収容されていた場所である。入り口の門に、「悔い改めよ」とフランス語で書いてあるのが、残されている。本当に悔い改めなければならないのは、ヴェトナム人か、フランス人か。もちろん、ヴェトナム独立後、ヴェトナム政府側がフランス側についた少数民族を逆に抑圧したことも、忘れてはなるまい。建物は、まるで数年前に空爆が行われたかのように破壊され荒れ果てたままになっていた。現在の様子から、そこに存在していたであろう、過去の収容所を想像してみる。冷たそうな石造り。周りを壁で囲まれ、中にいたら生きる希望すら薄れてしまうのではないかと思ってしまう。高地で寒いため、フランス植民地時代にはバスルームの中で、暖房と称して炭を燃やした。これが不完全燃焼を起こして一酸化炭素を発生させ、その中毒で収容者が殺されたという。ただ、建設中のまま、使われなかった女性の部屋は一酸化炭素中毒で死なないように設計されている。なんと「博愛」的だろうか。また黙秘する者は地下の部屋に縛り付けられて水攻めにされていた。地下は、更に暗く冷たい感じがした。地下の牢獄には、光などほんの一握りしか入ってこない。ヴェトナム人の収容者は、ここで、かすかな光を浴びながら、植民地からの脱却を夢見て死んでいったのだろうか。さらに疫病(マラリア)なども流行ったという。逃亡し、村民の通報によって捕まえられると、その人は斬首され、晒し者にされる。首を置く板の台も、そのまま残されていた。このように、フランスの独立運動に対する弾圧は、残虐を極めた。荒れ果てた状態になっているのは、1944年にフランスが拷問の証拠を消すために爆撃をして壊したからだという。

収容所の視察を終え、ホーチミンの肖像と、ヴェトナムの金星、そして共産党の鎌とハンマーの党章が大きく掲げられている事務所に立ち寄った。訪問者が記帳するアルバムがあり、見るとフランス人が書いたものもあった。何やら歯切れの悪い文章で、フランス人が、過去の過酷な植民地支配の動かぬ証拠をみせつけられ、心の中でその過去を清算し得ない逡巡が感じられた。もちろんこれは、フランス人だけの問題ではないのだが。

ソンラを出て、再びハノイに向かった。このあたりになるとかなり大規模な商業的農業が認められる。サトウキビの耕作が見られ、沿道にこれを現地で加工する大きな砂糖工場もあった。国営工場であろう。あたり一帯はカルスト地形が広がっており、絶壁に囲まれた奇妙な形の巨大な岩がたくさんある。ハノイから200kmあたりのところまでくると、結構ツーリストの出入りもあるらしく、タイ族がこしらえた観光客目当ての有料吊橋や、道路際のみやげ物店等が目に付くようになった。昨日訪れたライチャウの奥地も、そのうちこのように変わってゆくのだろうか。さらに峠をこえるとモクチャウ(木州)で、ここはあたり一面に茶畑が広がっていた。

つり橋。渡るのにお金を要します 午後6時ごろ、頼んでおいた故障車代替のハノイから来たジープとようやく対面した。故障車に乗っていたメンバーはこれに乗り移り、山道のドライブを続けた。新しい(といってもやはり旧ソ連型の)ジープは、やはり走りが安定していて、故障車とまったく違う。見る見るうちに暗くなっていく街灯類のまったくない狭い山道を、恐ろしいスピードでジープはかけぬけていった。元ヴェトコンのドライバーは、全神経を車の操舵に向けている。迫り来る崖にも、巧みなシフト操作とアクセルワークで対応する様子には、神々しさすら漂っていた。1年前くらいに免許を取ったメンバー2人は、ただただ感心するばかりであった。 夕食はハノイから80kmほど離れた街、ホアビン(和平)でとった。このようななんでもない町にはツーリスト御用達レストランがないらしく、普通のヴェトナム人用レストランになった。値段は5人で4万ドン、揚げ春巻きがまたもや非常においしかった。ここでみんなでチップの相談をする。3日間ほとんど寝ずに運転しつづけた元ヴェトコンの運転手さんに40米ドル、教習所の学科教習でならった通り、冷静にハンドルを切って崖から転落を防ぎ、途中で交代した元北ヴェトナム正規軍の運転手さんに30ドル、途中から代替ジープを運転した運転手さんに10ドル、農村の人からの聞き取りのアレンジ・通訳もしてくれたが、移動中はほとんど寝ていたガイドさんに15ドルということになった。テレビから日本でもおなじみの「サロンパス、久光」のコマーシャルソングが何回も流れていた。サロンパスの広告看板はハノイにもいたるところにあって、積極的にヴェトナムでマーケティング中らしい。

ホアビンからは、2車線の平坦な道だ。ドライバーにも、ほっとした安心感が伺える。結局ハノイのホテルについたのは日付の変わる間際だった。ノイ(河内)では、それまでの車の少なさ、あたりの暗さに比べて、人、バイクの多さ、街灯の明るさに圧倒された。しかも多くのバイクの交通マナーが非常に悪い。できれば日本の警察にここまで出張してきてもらい、取り締まってほしいものだ。

そんな中でもわれわれは、長く険しい山岳ルートの難しいハンドルさばきを無事終えられたことに対するドライバーへの感謝の気持にあふれていた。本当に3人のドライバーの方、お疲れさまでした。

ハノイについた。本文のトップに戻る


9月6日(月)にわれわれがハノイで泊まったホテルは、ハノイのOld Quarterの一角ハンマン(門簾)街にある。ここは、1,000年もの歴史を持つ地域で、通りに今も、かつて何を扱っていた商店街かわかる名がつけられている。ホテルのあるあたりでは、スダレ(簾)が売られていたのであろう。しかし今は、そのような歴史は、この地区に立ち並ぶ、ツーリスト向けの土産物屋やアオザイテーラー・ドイモイ後簇生した欧米人バックパッカーを主に相手する民営旅行代理店・中級ホテル・インターネットカフェなどの騒々しい集積にとって代わられた。われわれが巡検のアレンジを依頼した現地旅行社Handspan Travelも、この地区にある。非常識なくらい多くのバイクや自転車が、所狭しと走り回っている。もちろん、土産物屋や旅行代理店などの他にも、バイクの部品の店・金物・蒲団屋・外国製缶詰など売っているマーケットなど、地元の人々を相手にした商店を見ることも出来る。時折、果物や野菜を積んだリヤカーがゆっくりと道を進んでいる。そのギャップがまた面白い。

ホテルを出て、高速道路を通ってハイフォン(海防)の工業団地へ向かう。ハノイ〜ハイフォン間の高速道は、日本の援助によって作られた、ヴェトナムでは空港高速についで2番目の高速道路である。これまでに比べればかなり整備された道であるが、日本の高速と違って、インターがない代わりに横断歩道があったり、歩行者が横断し自転車が走っていたりと、雰囲気は相当に異なる。高速道路の両側は、ほとんど一面平坦な水田だった。中国では、深?から廣州に至る高速の周りに小さな工場群がべったりと張り付いていたが、北部ヴェトナムではハノイ周辺にしか集積していない。しかも、高速の沿道の工場は、合衆国のフォード・韓国のラッキー金星グループ(LG)・台湾の食品資本など、比較的大規模なものが目に付いた。だがこれらの工場は、いまひとつ活気が感じられない。平屋の商店街も見られる。なんと「KARAOKE」の文字が多いことか。後で聞いたところによると、ヴェトナムの「KARAOKE」は、多少不健全な場所であるらしい。


イフォンに着き、野村証券がハイフォンで土地を購入して建設した工業団地を見学させていただいた。広大な敷地のわりにはまだ工場が少なく、雰囲気は閑散としている。

まず始めに、村ハイフォン工業団地を経営するNomura-Haiphong Industrial Development Corporationの村上博治社長からお話をうかがった。現在の工業団地 出資は野村グループ70:ハイフォン市30で、ハイフォン市は土地を現物出資となっている。つまり、実際に資金を投下したのは、野村グループだけだ。野村證券は、1993年当時、まだ旧仏領インドシナは金融の処女地であったので、ここにくさびを打ちたいとの思いで、まず拠点のハノイに証券会社の設立を試みた。香港でわれわれが見たように、アジアでもシンガポールを含めて欧米系の金融機関が強く、これらの拠点都市に日系の証券会社が入り込む余地は、もはやなかった。そこでヴェトナムに目をつけたのである。J.P. モルガン、メリルリンチもヴェトナムに事務所を開設しようとしていたので、競争だった。

しかし実際に始めてみると、社会主義国ヴェトナムには全く金融の制度や用語が存在しておらず、債券を発行したくても外貨準備高など基本的なデータや財務諸表がなく、証券の買い手もいなかったため、ビジネスにならなかった。やがて、金融部門も他の会社も、次々ヴェトナムから撤退していった。ヴェトナムは、社会主義とはいってもドイモイ政策などにより急速に発展していると想像していたのだが、実際来てみると、工場がどんどん進出しているわけではないのである。話を聞きながら、来るときの一面の田んぼ、そしてそれと対照的な深?の産業景観を思い出していた。

工業団地自体は、ヴェトナム政府から工業団地を作ってほしいとのオファーがあったので、はじめは金融業務の副業のつもりで始めた。だが、すべてが撤退した後、結局残ったのは工業団地だけで、証券会社が工業団地を経営するという不思議な状況が生まれてしまった。こうしたなかで社長さんは、北部ヴェトナムには工業団地が少ないため、工業団地を作りこの地域をぜひ活性化させたいと、熱意をもってわれわれに語られた。

この土地はもともと水田で、そこを野村証券が購入したものである。用地買収交渉は合弁側(ヴェトナム側)が行ったが、立ち退き料は野村側が払った。用地買収のとき、農民も心得たもので、なかなか立ち退かないでより多くの立退き料をもらおうとしたという。ここは想像と違っていた。農民が、そこまで企業を相手に交渉したということは筆者には驚きであった。しかしお話の中でもあったが、立退き料をいくら農民が上げようとしても、たかが知れていて、買収が遅れてしまうことを考えれば、多少高くなっても文句を言わずに払ったという。農民が企業を相手にしたといっても、両者のレヴェルは全く違っているのである。もっとも、「買収」といっても、社会主義国であるので、厳密に言えば所有権はもっておらず、かわりに50年の賃借権を保持している。また工業用と用途は定められていて、マンションなど他の用途には転用できない。その賃貸料として、50年分一括で1ha=50万米ドルを支払った。

用地買収後、湿地を干拓し用地造成をした。水道・ガス・工業団地自家発電の電気などのインフラ整備もした段階で、日本企業を中心に1年1haあたり60米ドル程度で貸し出すことをはじめたという。団地建設の過程では、用地買収よりもむしろ、インフラ整備も含めた造成作業のほうがはるかに費用がかかってしまった。しかし今のところ、その用地はたった10%ほどしか埋まっていない。当初は日本企業のみを対象にしていたが、それでは到底土地が埋まらないので、日本企業以外も対象とする販売戦略に変更し、新たにシンガポールの会社をエージェントとして迎え、活動を開始した。すると幸い、入り口のすぐそばの優等地に引き合いがあり、ある外資系企業が購入することとなったというが、一番いい玄関前の土地を日系でない企業に取られた、と社長さんは言葉に悔しさをにじませていた。とはいえ、背に腹は代えられない。そもそもこの団地が完成した1997年は、ちょうどアジア経済危機が本格的に始まり、日本企業も、おいそれと海外に拠点を置けなくなった時期だったのである。ここでシンガポールのエージェントを迎えたということは、英語圏の企業はもちろんのこと、東南アジアに広がる華僑系の企業をターゲットとして考えているのだろう。今後は、比較的小規模で労働集約的な工場中心の企業誘致を行っていくという。

地理的なことから、香港とのつながりもあるかと考えられた。余り意識されないが、香港からハノイまでは、ちょうど東京から博多くらいの距離しかない。距離からだけ考えれば、このあたりの地域経済は、香港を中心とする経済圏に取り込まれてもおかしくはない。しかし香港資本は全く入っておらず、台湾・アメリカ・ヨーロッパ・そしてもちろん日本資本が主であるという。ホーチミンはASEAN経済圏として一つの経済圏に属している。ハノイのほうは香港に比較的近く、地理的には華南経済圏に属してもよいのだが、北ヴェトナムは中国と関係を結ぼうとしない。理由としてハイフォンは軍事港だったこと、ヴェトナムが 中国の経済圏に取り込まれたくないのでは、と話してくださった。特に共産党幹部には、そのような経済圏の構想はないという。香港と結べば、今よりもダイナミックに経済を行うことができようが、香港と結ぶということは、どうしても、香港を「中枢」とした経済圏の「周辺」として扱われることになる。それが不満なのだろうか。しかし筆者は、そんなことを言っていては、孤立してしまうのではないかという疑問を抱いた。

ヴェトナムには中国製品は多く入っているが、そのかなりが密輸品らしい。河口とラオカイとを結ぶ橋の情景が、ふと頭をよぎった。特に、所得の低い人々が普通に携帯電話やホンダのバイクを持っていること自体おかしい。筆者はこの点を社長さんから伺ってはじめて気がついた。ヴェトナムのGNPが低いことは事前に知っていたし、多くのヴェトナム人がバイクに乗っているのもそれまでに実際に見ていた。しかしそれらの事実をつなげることができず、ヴェトナムに潜む「経済の二重構造」を見逃していたのである。大臣の給料が月200ドル、市長の給料が月100ドルというが、これで本当に生活できるはずがない。表に現れないところでの金の流れのほうがはるかに大きいのだ。

ヴェトナムに工場を立地させる利点として社長さんが挙げておられたのは、低賃金労働者をプールできること、社会主義国のため政情が安定し治安がよいこと、である。逆にヴェトナム進出の問題点としては、ヴェトナム国内向けの市場が未熟なことであり、先ほど記述したフォードの工場は、今は操業していないという。ヴェトナム政府が自動車生産のライセンスを乱発し、多くの西側企業が飛びついたが、市場には受け入れ能力がなかった。しかも、工場は資金の国内調達が不可能である。そもそも社会主義経済のもとで生活してきたヴェトナム人には銀行を余り頼る習慣がないし、ヴェトナムドンはハードカレンシー(国際市場での交換可能通貨)ではなく、米ドル経済とヴェトナムドン経済という2重性がなおヴェトナムにうちつづいている。ヴェトナムドンに対する信頼がないことは、この地で少しすごしただけでも知ることが出来る。われわれの泊まったホテルのボーイは、ドンのチップを断り、ほぼ同じ額のドルのチップなら受け取った。これは一つの象徴的な例だろう。

ヴェトナムに工場を誘致するに難しい状況は、まだ続く。社会主義の原則が影響してか、輸出100%の工場でない限り、外国企業の100%出資が認められておらず、ヴェトナム政府から合弁相手が決められてしまう。合弁側が土地ないし古い工場設備を現物出資するため、進出先(立地点)がこの現物出資の場所に縛られて、自由に決められない。ヴェトナム政府の政策は、社会主義の理念に従い、この措置によって空間的に均等な発展を図ろうということかもしれないが、工業の空間的集積を前提とする工業団地経営にとっては、致命的である。つまり、野村ハイフォンにとっては、ヴェトナムに工場立地を日本企業が決定したからといって、このハイフォンの団地には来ない可能性が高いのである。これには社長さんも大変弱っておられた。

また、空間統合に関わる問題として、通信費用が高いということがある。日本との国際電話は、ヴェトナム発が日本発の4倍もする。今日ではごく標準の通信手段である国際ファクスは、ヴェトナム発日本行きが1枚(30秒)500円だ。また、社長さんのお話によれば、ヴェトナムでは通信に関しするプライバシーがないに等しい。電話はあたりまえのように盗聴され、手紙は検閲され、国営プロバイダーで電子メールも見られてしまう。また、一般の市民はテレビのBSチューナーを設置することが禁止されている。日本では考えられないことだ。ただ、社長さんは、盗聴されるならそれで割り切るしかないと話しておられた。しかし、今日の経済のグローバル化が十分な空間統合を前提して初めて成立しているところからすれば、これではまだ「陸の孤島」としかいいようがない。

また団地外のインフラが整っていないことも挙げておられた。特に、教育・医療設備はハノイのInternational SchoolとInternational Hospitalしかなく、これでは外国人が家族をヴェトナムに呼び寄せ、安心して一緒にすむことができない。

こうした困難な状況の中で、社長さんは、野村ハイフォン工業団地のセールスポイントを一生懸命われわれにアピールしておられた。すなわち、1ha=60万ドル/50年でオファーしていること、メンテナンスがしっかりしていること、団地内で日本語が使えること、また敷地内に税関があり、労働者の斡旋もしていること、野村側が、水道・ガス・電気・通信などの安定的なインフラ供給を保証していることなどである。

工場労働者の賃金は月に30〜40ドル。この賃金は深?と同じ位である。熟練労働者になれば月に100〜200ドルは払うことになるという。日本企業にしろ他の国の企業にしろ、海外直接投資をするときには、いろいろな国・地域にわたり複数の選択肢を総合的に検討して立地の意思決定をするから、これでは少なくとも賃金の面でヴェトナムの比較優位が全くないことになる。しかも、香港というインフラと経営環境が整った「中枢」から遠く離れ、社会主義政策の縛りがより厳しく、しかも中国と違って人口が少なく国内の有効需要も余り期待できないだけ、北部ヴェトナムは、深?とくらべて有利な点は極めて乏しい。ヴェトナムが現状のままであり、かつ深?が存続する限り、最終的にヴェトナムに立地を決定する企業はどれだけあるだろうか。

労働者の多くはハイフォン市内から団地からの送迎バスで通ってくる。深?が遠く四川省等から従業員を集めてくるのに対し、ヴェトナムでは農村から都市への人口移動がほとんどない。これは、外国企業での雇用機会が希少であって、遠くの農村部の産業予備軍まで徴用する必要がないことの現れであろう。こうして、外国企業で働くことが一種のステイタスになっている、それでも、離職率はかなり高いという。労働組合は法律で作るように定められているのだが活動は全くない。

社長さんは、「そろそろ金融の現場に戻りたい」ともらしていらした。これは本音であろうと思われる。周りをヴェトナム人に囲まれ、ただでさえインフラも整っていない社会で、しかも工業団地のビジネスもなかなかうまく進まないとなると、やはり大変な立場なのだろうということは十分理解出来る。説明を伺った部屋に置かれた工業団地の大きな模型は、敷地いっぱいにたくさんの工場が建っているように作ってあった。社長さんは「何も建ってなきゃさびしいですからね」と笑っておられたが、この模型のとおりに工場が林立する団地になり、社長さんが見事栄転される日がくることを、われわれは願ってやまない。


次にわれわれは、団地内に立地している、

ローツェRORZE

という日本からの直接投資で建設された工場にお邪魔し、現地法人の中村秀治社長からお話を伺った。

RORZEは、2〜3年前から準備をし、昨年オープンした新しい工場である。ヴェトナム支社は、製作拠点として発足した。他に、台湾、アメリカ(シリコンバレー)、韓国(ソウル)、シンガポール(流通拠点)に支社があり、いずれもこの2年間に立ち上げられている。製品は半導体を運ぶためのクリーンルームで使われるロボットなど、工場の自動化を進めるためのロボットを製作している。ロボットはすべてオーダーメイドで、ヴェトナムではロボットに使用する世界一小さな制御系など、ロボットの中で規格化できるものを製作している。ロボットは月に50〜60台、制御系は月に1,000台ほど作っているという。現地法人の取締役は4人すべて日本人で、製作に使用する機械は日本製、技術者はヴェトナム人。ヴェトナム内でできない部分はシンガポールのメーカーに依頼している。品質の面で、ヴェトナムですべてを製作することはできないので、部品(電子関係)は日本で製作、アルミはオーストラリアなどから輸入している。ヴェトナムでは、原材料として重要なアルミが、日本の半額くらいで手に入るという。

工場内部です 100%輸出であるため、ヴェトナムの企業と合弁する必要がない。このようにしたのは、ヴェトナムのパートナーを持つと、意志決定が遅く、ヴェトナム側が「二重経済」で私腹を肥やそうとするからだという。日本の本社からの注文が100%、輸出100%。結局出来上がった製品は、広島の本社に集めて再検査する。その後、日本の内需向けのほか、合衆国・台湾・韓国などを中心に輸出する。すなわち、すべての製品は、まず日本に運ばれる。ハイフォン周辺で他の工場とのリンケージを作る考えは全くないという。完全に日本の分工場といった趣だ。日本の本社で再検査するのは、ただMade in Vietnamでは売れないからで、日本で再検査したという保証と、会社のブランド名を前面に出して信用を確保したうえではじめてヴェトナム製として売ることができる。とりわけ、韓国・アメリカではヴェトナム製品に対する倦厭感が強いらしい。ヴェトナム人からさえ、「『Made in Vietnam』で売れますか?」 と聞かれるそうだ。さらに困ったことには、ヴェトナムが国家としてアメリカの最恵国待遇を受けていないため、アメリカ向けの製品は35%の追加的な関税がかけられる。

これらの障害を乗り越えてこの会社がヴェトナムへの工場立地を意思決定したことは、英断といえば英断だ。だが、なぜヴェトナムに立地したかという理由の大部分は、社長個人の意向からきている。そして、日本の本社の主幹事をしている野村證券が運営するこの団地に工場を建設した。日本で製作すると、合衆国の企業に比べ4割高になる。価格を下げるための海外拠点を探していた日本の本社社長が、合衆国で活躍しているヴェトナム難民を見て、勤勉だ、という印象を受けたらしい。このような印象から、取締役でさえ社長の決定の後から知るというほど、即断で決められた。確かに、自由競争と実力主義の合衆国で、アジア人としての差別を受けながらいわば崖っぷちに立たされて、香港のリナさんのようにわき目もふらず社会的な昇進目指し人生を闘う合衆国のヴェトナム人と、「親方赤旗」の社会主義の雰囲気の中でのんびり仕事をする本国のヴェトナム人とは、意識や労働へのエトスに決定的な違いがある。また、現地の社長さん自身も、社会主義にはメリットが余りなく、むしろ問題点として、法律がころころ変わり、時に上からガツンとやられ、税関にもタカリのようなことがある、とこぼしておられた。

われわれは、このような企業の意思決定方式に非常に興味を持つと同時に、危険性も感じた。つまり、役員会で社長や役員らで話し合いを重ね、経済的・社会的諸状況の利害得失を厳密に分析・研究した上で、利潤極大化が図れるという確信のもとにヴェトナムへの立地を決定したわけではない。こうした話し合いをすれば、意見がわかれ、結局決定が遅れて他企業に先を越されるということはたしかにあろう。だが、現状では、原料のアルミが安く手に入る以外、ヴェトナムに工場を立地させるメリットは一体どれだけあるのだろうか。 従業員の総勢は140人で、九月末までに160人に増やす予定である。ほとんどがハイフォン市内から通勤している。最近はハノイ市内からも問い合わせがあるという。農村から採用しないのは、最低限の教育を受けていないため、生活のマナーから教育しなければならないし、また都市部から多く応募があるため、わざわざ農村部から人を呼んでくる必要もないからである。平均年齢は28歳、35歳以上は採用しない。これは30歳以上の人なら一度は国営企業で働いたことがあり、染み付いた社会主義的な考え方や働き方があるという理由らしい。平均労働時間は7時間で、3交代のうち二つを使用している。残業は大体1時間から1時間半くらい。140人のうち、ヴェトナム人技術者は15,6人を占めている。 食事は会社が支給している。

従業員の募集について、以前は募集広告を出すことにすら制限があったが、最近は新聞広告で募集することもできるようになった。100人採用するのに応募は3, 4,000人もくるという。試験は日本の高校入試の上程度の問題で、三角関数、分数、足し算・掛け算、オームの法則、微分積分など。ヴェトナムの状況を考えれば、かなり難しい試験だといえよう。そのかわり、給与は月60〜100米ドルと、都市部での他の仕事に比べればかなり高給である。

労務と品質の管理について伺うと、日本でマニュアルを作り、その通りにやるよう指導している。社内教育はマニュアルどおりに働くよう、モラルから指導する、と社長さんはおっしゃられた。事務所では日本語のできるヴェトナム人スタッフが常にいて、日本語Windowsがインストールされたパソコンを用いている。検査部門はOJTにより教育したヴェトナム人スタッフが担当している。誰が、いつどういう検査を行ったか記録しておくことで、自己責任を持たせる体制をとっている。QCサークルはつくっていないが、こうした難しい試験を通って入社したヴェトナム人に直接の技術教育をほどこすことを、重視している。ヴェトナム人の国費留学生は、帰国後は国の機関に入るしかない。政府は、民間レヴェルで若者を海外にあまり出したがらない傾向にある。そこで97年に、理系の大学・専門学校を卒業したヴェトナム人7人を日本に派遣して教育した。職場ではヴェトナム人がヴェトナム人を教えたほうが効率がよいためである。

では、合衆国で教育を受け、合衆国で成功しているボートピープルのもつ学力・技術力などを取り込んで、ヴェトナムの工場をレベルアップさせることはできないのだろうか。社長さんにこの質問をしたところ、これは本国のヴェトナム人がうけいれないという答えをいただいた。ヴェトナムが一番大変だったときに国を捨てて逃げ出した人々だという、本能的な拒否反応があるらしい。中国が、最近までイギリス植民地、つまり外国だった香港の中国人はもちろん、華僑すなわち海外の中国人の投資資金と技術を最大限に使って経済発展を図っていることと、ここも対照はクリアーだった。

設備投資は2億円で、税金はかからない。その他、建物に10〜12億円、機械に9億円を投資している 現在目標効率の60%の達成率であり、生産量は目標を達成しているという。不良品は0%というから、深?と協豊電子と同じかなりの高品質を実現していることになる。

見学をしてみて、経済地理学で学習し、自分のイメージの中にあった新国際分業とはかなり違っていた。深?の工場と単に給与だけ比べれば、同じくらい、もしくはヴェトナムのほうが高い。業務内容の技術水準の高さについてみても、ヴェトナムのほうが上だ。深?の工場では、品質管理が重視されているとはいえ、労働者の業務内容は単純労働で、安い土地、安い労働力を存分に生かした委託加工である。しかしここヴェトナムでは、従業員を高度な仕事が出来るように技術教育して、ヴェトナムの他企業と比べてかなり高い賃金で、より複雑な労働をさせている。では、ヴェトナムの工業のほうが先進的なのだろうか?中国では、今野さんもおっしゃっておられたように、ゆくゆくは中国現地の自社ブランドでほとんどすべての工程を中国国内で行いたいという未来を実現する可能性が、かすかでも見える。だがヴェトナムは、完全な日本直接投資の分工場であって、こうした域内の産業リンケージの厚みが増すことによる産業体系の生産が現地でなされるとは考えにくい。

非常に高度な製造過程の部屋 つまり、ヴェトナム国内では、共産党は自党の存続のためには資本主義経済が必要ではあるが、逆にあまりに資本主義経済が強くなると邪魔にもなる。工場が域内でリンケージを強め、産業体系として社会諸関係の中に深く根をおろしてしまえば、こうした「邪魔」な要素が強まることとなろう。仏・米と長い間戦って、戦争経済と社会主義経済という計画の要素が経済に強く染み込み、市場経済とはかけ離れた世界が長く続いた、北部ヴェトナムは、むしろ華南経済圏に取り込まれないよう、自らをリージョナルな経済拠点となりうるはずの香港などをむしろ避けているようにみえる。こうなれば結局、このRORZEのような、日本の飛び地としての外国企業しか存在しえない。言いかえれば、「ドイモイ政策」という派手な立て看板だけ作ったものの、肝心の商店には真剣に品物を入れようとしていないようなものではないか。結局ヴェトナムでは今も国営企業が経済の中核になっているのである。

その後、建物の屋上から工場団地の全体を展望させてもらった。遠くに発電所や浄水場などが望まれたが、眼下にはサパのあたりを思わせる雄大な緑の草原が広がり、そこに寝転びまどろんだらさぞかし気持よいだろう、とふと思った。

工場団地見学の後、車でハロン湾まで行った。途中、川を、船が車と人を乗せて運ぶ、「渡し舟」のような物に3回ほど乗った。それほど大きな川ではなかったから「フェリー」と呼ぶには多少迫力に欠けたが、多くの人と同時に、車や、観光バスまで運んでいた。橋をかければもちろんうんと便利になるし、川幅はせいぜい200mくらいのものだからそれほど費用もかからないはずだが、それだけのインフラ投資資金すらまだヴェトナムにはないわけだ。川を渡し舟で渡ります工事のけはいもない。大陸の大河、珠江の河口である虎門にまで高速道路の巨大な吊橋をかけてしまう中国との、気の遠くなるような違いを感ずる。観光バスにはフランス人観光客が多く、ヴェトナム人の子供がフランス語で絵葉書・地図・フルーツなどをこちらにも売りにくる。適当にフランス語であしらっていたら、日本人とわかったらしく、子供の言葉はすぐ日本語に変わった。恐ろしいマルチリンガルだ。翌日訪問する炭鉱への謝礼として、東南アジアではどこでも人気の英国ブランド555 State Expressのタバコを1カートン、渡し舟の渡頭にある小さな店で買った。シンガポールの免税店の印が入っており、15万ドンだった。実際にシンガポールに行って免税店で買うより、かえってここで買ったほうが安いくらいだ。これも、ヴェトナムの「二重経済」の下のほうに関わっていることはまちがいない。

ユネスコ世界遺産に指定されているハロン湾に近づくにつれて、朝通ってきたハノイからハイフォンへの高速道路とはかなり雰囲気が変わっていった。田んぼと工場という朝の景色から、今度は民家や民家向けの商店、学校などを見ることが出来た。商店のいたるところには、最近ヴェトナムで爆発的人気の即席生ビール、BIA HOIの看板がめだつ。  ロン(下龍)湾に到着、船で遊覧した。ハロン湾は、日本の松島と似たような海岸侵食と、土地隆起による奇形であった。静かな湾内を周遊船で回った。周遊した時間が日没にかけてだったので、大小様々な島に夕日が溶けこんでいくさま、日が暮れて湾に沿っていろ成す夜景など、美しい風景を十分たんのうすることができた。

なかなかの眺め

途中、鍾乳洞のある島にも立ち寄ったが、そこはすでに観覧時間を終えて閉っていた。われわれが着岸すると、始めは、入れないとにべもない態度の係員だったが、強引に説得し、
4万ドン渡すと、案内人の態度は変わって、なんとかわれわれを中に入れて案内してくれた。
(日本人に対する悪い偏見を増幅させなければよいが…。) 鍾乳石には、それぞれ名前がつけられており、昔の人が働かせた想像力を身近に感じることが出来た。

この日は、ハロン湾を望む高台のホテルに泊まった。このあたりは中国との国境に近く、中国からの観光客を当てにして漢字の看板がめだつ。しかし、国際通信の状況は良くなく、メンバーの二人は日本へ電話をかけようとしたが、どちらも目的を果たせないまま15米ドルという大金を払ったのである。

夕食は、街に出て1人5万ドンのハロン湾特産の海鮮料理。大変美味だった。

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9月7日(火)この日は朝から、世界でも有数の無煙炭であるンゲイ(鴻基)炭の採掘場を訪れた。

無煙炭は非常に良質の石炭であり、暖房用などではなく、工業原料として世界各地で使われている。フランスが19世紀末の植民地時代に採掘を開始したものであるが、今日では、その品質ゆえにホンゲイ炭は抜群の国際競争力を誇り、ヴェトナムにとってグローバルな資本主義の中で自己を位置付ける重要な貿易産品となっている。ヴェトナム戦争の頃も、日本は合衆国を支持していたにもかかわらず、当時の北ヴェトナムからこのホンゲイ炭を購買しつづけた。しかし最近は、アジア経済危機の影響などから、輸出が伸び悩んでいるという。

広いですね ホテルを出ると、すぐ湾口を渡るフェリー乗り場に来た。その先に、ホンゲイ炭の積出港があって、船が横付けされている。ここから貨物船が炭鉱まで伸びて、石炭を輸送している。

カンプー(錦普)という街にある国営炭鉱の事務所に立ち寄って、炭鉱の技術者に同乗してもらい、すぐ鉱山に入った。途中、坑道を補強する材木を運ぶトロッコとすれ違う。しかしわれわれは、危険な坑道には入らず、高いところから露天掘りの採掘場を視察した。この採掘場では、ウクライナ製のダンプカーが炭をベルトコンベアまで運んでいたが、採掘のし方はかなり粗いと感じた。そこここに炭と思われる塊が積み上げられており、採掘も計画的とは考えにくい。いまだに地下に6千万トンという莫大な可採埋蔵量があることがわかっているからであろうか、効率や、無駄を少なくするということを重点的には考えていないようだ。露天掘りであるために危険性も薄く、すべて国家公務員の炭鉱労働者はなんだかのんびり仕事をしているように思われた。とはいえ、日本には全くない露天掘り鉱山のダイナミックさには目を奪われた。広い土地を、渦巻き状に掘り下げている。遠くから見ると、ショベルカーやダンプがおもちゃのように見える。相当のスケールである。炭鉱の反対側を見ると、昨日夕暮れのなかをクルーズしたハロン湾のパノラマが朝の光にかがやいて、たとえようもなく美しい。同行してくれた、Handspan Travelを経営するグエン(阮)ホンリンNguyen Hong Linhさんに、「露天掘り炭鉱視察・ハロン湾展望ツアー」はどうか、と冗談で提案したら、「それなら、泊まったホテルのあたりからカンプーまでボートでクルーズして……」などと、かなり正気に検討していた。そのうち、こうしたツアーが本当に売り出されるかもしれない。

乞ご期待

街を一望 帰路、カンプーの街で、無煙炭を材料に作った彫刻を土産に買った。7万5千ドンの立派な彫刻は、石炭ではなく石でできているといっても誰も疑わないほど、とてつもなく堅い。その後、バンでハノイ市内へ戻った。戻る途中は、前日とは違い、1回しか「渡し舟」に乗らなかった。ちょうど小学校が終わった時間であったのだろうか、多くの小学生が、学校から出てきた。中国との国境の街モンカイ(芒街)へ行くバスが、客と荷物を満載してしじゅうすれ違う。その中の1台が、道路から突然犬が飛び出してきたのに減速せず、そのまま轢き逃げして走り去って行った。

ハノイ−ハイフォン間の高速に乗ってすぐのサーヴィスエリアのようなところでわれわれは小休止を取った。しかしここがくせものの観光客御用達店で、われわれの他は、中国人と見られる観光客だけであった。ただのパンを2個買っただけで、1万5千ドン!メンバーは、「なぜこんなパンにこんなに金を…」ともらしていた。ガイドさんにこのことを言ったら、信じられない表情が返ってきた。ヴェトナム人には、ずっと安い価格でパンを売る、一物二価の「二重経済」なのである。ちなみに、後日ハノイの橋の袂で普通の街頭商人からフランスパンを買ったら、1本1,000ドンだった。

高速が突如として切れて飛び込んだノイの街は、一種のカオスであった。バイクが街路を占拠し、行き交う車は信じがたいほどクラクションを連呼する。人々は無秩序に道を横断し、大きな交差点にも信号はあまり見受けられなかった。

車は、中国行きの鉄道が紅河を渡るロンビェン(隆邊)橋をくぐる。この戦略的に重要な橋は、植民地時代にパリで建造されてここに架けられたもので、ヴェトナム戦争中常に米軍の爆撃対象となったことで知られている。しかし、当時のヴェトナム人は、この橋を厳重に警備し、破壊されると直ちに補修して、交通を確保した。

昔の収容所ですハノイでは、まず、旧市街に隣接し、かつてフランスの政治・経済機能が集まっていた都市区画の一角にある植民地時代の収容所ゾンサントラールMaison Centraleを訪れた。これは、1896~1954年、フランスがヴェトナム人の反植民地主義者を収容し、かつ処刑した場所である。逆にヴェトナム戦争中は、アメリカ兵の捕虜収容所になっていて、捕虜の間では、皮肉ってハノイ・ヒルトンと呼ばれていた。

収容所では、いかにヴェトナム人がフランス人から迫害されていたか、また逆にヴェトナム戦争のときは、いかにヴェトナム人が家族に手紙を出すことを許すなど寛容な拘束の仕方でアメリカ人捕虜に温かく接していたかが、写真を交え対照的に語られていた。独立運動家を処刑したギロチンは、囚人が処刑の際横たわった木の寝台・首を入れる小さな穴・ギロチンの鋭い刃・その刃で落とされた生首が入る薄汚いバケツなど、その残酷さがわかるよう生々しく重苦しい雰囲気で展示されているのに対し、暗い牢獄の中で、囚人たちが祖国の独立や、自分の無実を訴えた文章は、明るい雰囲気の部屋にその英雄的精神をたたえるように展示されていたことも、対照的であった。ライチャウ郊外で見たヴェトナム戦争戦死者を祀る碑と同様、この2つの対照の中に明白なメッセージをこめて、国家による公的な記憶を指示する装置としての役割を、このメゾンサントラールは果たし続けているのである。

フランス兵のヴェトナム人への虐待、違いがはっきりしています。アメリカ人捕虜と・・・ ついで、フランス植民地時代には高級住宅地だった界隈に立つ事博物館を訪れた。博物館の前には、旧東欧社会主義諸国や旧ソ連の多くの都市ではすべて撤去されたレーニンの巨像が、ヴェトナムがいまなお世界で最も正統的な社会主義国のひとつであることを誇示するように、すっくと立っている。ふと、ローチェの中村社長が、ヴェトナム人は、自分たちが世界の超大国フランスにもアメリカにも両方とも戦争して勝った唯一の国だという栄光を事あればすぐ口にする、と述懐しておられたのを思い出した。

博物館は残念ながら閉館時間の都合があったので、われわれは主にアメリカとの戦争時の遺品や写真を重点的に見学した。入り口には、米軍機を14機も落とした北ヴェトナム軍の戦闘機MiG-21が飾られてあった。またヴェトナム戦争での、女性の英雄的行動が、部屋一室を使って展示されており、ヴェトナム人が男女関係なく、国民を挙げて一致団結して戦ったことを訴えていた。さらに、ヴェトナム戦争中、ラオス領内経由で北ヴェトナムから南のヴェトコン軍に物資を補給したホーチミンルートの実物大ジオラマ、そして、旧南ヴェトナムの大統領官邸にとどめの一撃をかけた戦車の実物もあった。展示全体を通じて、誰もがアメリカにはかなうまいと思っていたヴェトナムが、緻密な作戦と、国民の団結、そしてソ連中国の援助によりアメリカに勝利したことがつぶさにあらわされ、納得してしまった。世界で最も強い国、ヴェトナム! ―― そう信じれば、経済なんて取るに足らないつまらないもののようにも思えてくる。

アメリカ軍機を14機も落としたヴェトナムのミグ戦闘機 軍事博物館の前には、ラッグタワーがある。今ではハノイのシンボルの一つとなっているこのタワーは、植民地化以前のヴェトナムの王朝時代に作られたもので、額には漢字が彫り込まれている。植民地化以前、ヴェトナムでは漢字が使われていたのだ。現在のヴェトナム語表記は、フランス人宣教師が、その発音をフランス語に似たアクサンを多用したローマ字で表現したものによっている。この表記法が普及するにつれ、ヴェトナム人たちは漢字が読めなくなり、中国文化から強制的に切り離された。言語を媒介とした、極めて巧妙な、そして決定的な文化の面における植民地政策である。[ヴェトナムの地名・人名も、ほとんど漢字に由来しており、その発音を植民地時代にローマ字化して現在にいたるものなので、このホームページでは、明らかな限りその漢字表記を( )で補ってある。

その後、ホーチミンが日本の敗戦の翌日に独立宣言をした、パリとそっくりのオペラハウスを見た。このあたりの街並みは、そのゴシック式の建造様式からもフランス植民地時代の名残を色濃く感じるものだった。さらに、ホーチミン廟・旧仏領インドシナ植民地総督府の建物などの前を通り抜けて、最後にわれわれは、ランスが植民地時代に建てた教会にたどり着いた。これは、St Joseph Cathedralといって、この教会ができる前は、ハノイはおろかヴェトナム全土に著名な仏塔がここに立っていたのである。フランスは、これを取り壊し、その仏塔の土台をそのまま使って、パリのセーヌ川のほとりにあるノートルダム寺院とそっくり同じ教会をその真上に建てた。われわれが見たように、フランスは廣州でも、政治的な核であった旧両廣総督の役所の真上に、石室教堂を建造した。アジアの伝統的な文化を物理的に否定し、その上に自己の文化の優越性を建造環境として明示的に表現するというこのフランスの植民地都市空間生産のやりかたは、征服者のそれであり、廣州でも、ハノイでも、全く同一である。これに対しイギリスは、香港や沙面の場合ですでに見たように、伝統的な都市空間をあえて避けて自らの植民地都市を建造し、原住民との直接の対立を避けるやりかたをとった。ここに、植民地都市空間の生産におけるイギリスとフランスとの差を、はっきり見て取ることが出来る。

この日はこの教会に入ることができないとガイドは言っていたのだが、絵葉書を売っていた売り子が、あとから何か買う約束で、横からそっと入る口を教えてくれた。入ってみると、その荘厳な雰囲気に、一瞬ヴェトナムにいることを忘れてしまった。椅子には、熱心にお祈りをする人も何人かいた。整った顔立ちの老婆は、植民地時代にフランス人の運営するミッションスクールの女学校でキリスト教の敬虔な信者となったのではないだろうか。ディエンビェンフー近くの僻遠の村で朝食にすすったデミタスの味が、ふと心によみがえってきた。ヴェトナムの伝統文化と同様、植民地文化もまた時間を超えて、場所に根をおろし、その過去の痛みとともに打ち続くのである。

教会です 夕食でわれわれは、これまでの巡検で発揮した英雄的精神を高く評価されて、ヴェトナム共産党中央委員に昇進した……気分を味わうことができた。かつて共産党高級幹部しか来ることができず、最近ようやく開放された
ータイ(湖西)ヴィラで、巡検最後の打ち上げをしたのである。このヴィラは、ハノイの中心部から4km離れた湖を眺める最高のロケーションに、木々に囲まれひっそりとたたずんでいた。数組のカップルが静かに大人のときを過ごしていた。われわれはそこでこの日の報告会を行い、あるカップルを憤慨させてしまったのであるが、その広広とした豪勢さは、階級なき体制であるはずの社会主義がどのような特権階級を作り出すのか、スターリニズムとは何かを垣間見る思いがした。  ホテルに帰ると、とうとうこの巡検旅行もおしまいだ。さまざまな出来事が頭の中を早足で歩いて行く。一緒に行動したメンバーと先生、そしてガイドをはじめとしたさまざまな人々にお礼の気持を…という頃には、翌日早朝からのフエ(順化)への学生有志の自由旅行にそなえ、われわれはすでに夢の中なのであった。


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(2年 染田屋 竜太)