99年度水岡ゼミ海外巡検報告
18:00に成田を出た我々は、21:25に香港国際空港に到着した。
香港国際空港は1998年から使用されている新しい空港で、ガラスを多く使い、グレイを基調にしたゆったりとした間取りは、近未来を思わせる清潔感あふれる空間を演出していた。空港で水岡先生に出迎えていただき、その日はそのまま旺角のホテルに直行した。
空港から香港島の中心部へは鉄道・2階建てバス・タクシーでアクセス可能だが、料金が安いので2階建てバスを利用することにした。香港の公共交通機関、すなわち地下鉄・九廣鉄道・バス・フェリーでは、どこの会社にも共通のオクトパスカードというICが仕込まれた共通のバスカードのようなものを使用することが可能で、HK$150支払えばいちいち小銭を払う必要がなく、何度でも同じカードに度数を補充することのできる、日本にはまだない非常に便利なシステムだった。
高速道路を利用し、鉄道・道路共用の吊橋として世界最長の青馬大橋を通る旺角までのバスの道のりは、時間にしてみれば短かったものの、未知の土地の景色が次々と移り変わっていくさまは驚きに満ちていた。とりわけ、香港の建造環境、高層のマンションやビルがビクトリア港岸の少ない平地に沿って隣接しているのに目を奪われた。確かに日本でも高層ビルは見なれていたが、あたかも剣山のように競い立つ高層ビル群は、東京のそれとは明らかに異質のものだった。なにより、平屋の建物がまったく見られない建造環境は生まれて始めてだった。また、香港の明るさは異様ですらあった。空は街の光の反射を受けて鈍い赤色に染まっていた。
なにはともあれ、長い巡検の旅は眠らない街、香港から始まったのである。
いよいよ巡検の旅が本格的に始まった。喧騒あふれる夜とは違い、香港の朝は意外にひっそりとしていた。しかし、人々の行き交う足並みは速い。我々も、地下鉄に乗って香港島の中環に向かった。
香港の地下鉄で何より驚いたのは、鉄道以前に駅におけるエスカレーターの速さである。日本のそれの約2倍くらいだっただろうか、階段を全速力で駆け抜けるようなエスカレーターのスピードは、香港中国人の生活速度の速さを感じさせた。鉄道自体はイギリス製らしく、人が落ちても轢かれないように、最も低い床部分に比べ線路が一段高く位置していた。土曜日ということもあってか、東京の地獄絵図のような通勤ラッシュに慣れている筆者にしてみれば、快適な車内環境だった。ただし、日本の車内ではしつこいくらい注意が喚起される車内の携帯電話の使用に関しては、地下鉄にもかかわらずトンネル内にアンテナが設置され電波が通っていたことからも、香港では当然とみなされているようで、事実多くの人が大きな顔で携帯電話を使って会話をしていた。イギリス人のような白人はほとんど見かけられず、車内の大半を占めた香港中国人の眼鏡の使用率が、老若男女を問わず異様に高い気がした。
中環(セントラル)の駅で降りると、そこは香港における金融・行政の中心である。駅を出ると、一等地にはジャーディン・マセソン系の香港ランド社を始めとする、イギリス系の会社の本社ビルが立ち並んでいる。駅前の一等地は、中国に返還されたあともほぼイギリス系の香港ランド社が利用権を保有する土地もしくはビルであり、その高額なテナント料とともに一種のプレスティージを供給し、他方香港ランド社には優良物件からの安定した不動産収益を約束している。
ビルの間は歩道橋で結ばれ、キオスクなど通行人の利便性を考えた店が並び、非常に移動しやすい建造環境が準備されていた。中にはフィリピンの物産を置いた商店、フィリピンペソを扱う両替所も見られ、中環で働く上流階級の人々がフィリピン人をメイドとして雇い入れていることを示唆していた。こうした上流階級の人々は、中環から近い香港大学近辺の半山区やビクトリアピーク付近に集住しており、階層毎の住み分けが明確になっているという。
地上50階以上の高層ビル群にもかかわらず、香港には地震が起こらないことから、その間隔は恐ろしく狭い。空を見上げると目眩がしそうだ。土曜日なのでその活気こそ感じることはできなかったが、世界3大金融センターの一つであるきらびやかな香港証券取引所を訪れた後、中環の金融中心に向かった。
中環は世界3大金融センターの一つだけあって、世界各国の銀行がひしめき合っている。しかし、利用可能な空間が限られた香港島において、銀行をはじめとする金融関連会社が独立したビルを持つのは難しく、そもそも中環にオフィスを持つこと自体その会社にとって一つのステイタスになっている。植民地時代の当初から、イギリス人は永久租借権のある香港島の湾に隣接したこのわずかな平地の地区に、互いのリンケージの利益を求めて集積した。
そんな中で、独立したビルを持ち、特徴的な建築様式を持つ3つの銀行があった。その3つの建物ともポストモダニズム的な脱構築と差異を意識した建築様式を備え、そのなかに明確な、香港に対する社会・経済的メッセージが込められていた。
第1は、スタンダード・チャータード銀行である。この銀行の出自は、大英帝国の拡大とともに成長してきた植民地銀行であり、中国だけでなくオーストラリアや南アフリカなど、イギリス植民地における資本投下の一翼を担った。ある意味で、その経済活動の面的な広がりから、現在のグローバルバンクの先駆的存在であったといえるかもしれない。
その建築様式は、大英帝国の庇護の下での植民地銀行という背景を投影して、石造りの重厚で荘厳な作りであった。銀行の中には、植民地金融に貢献した創始者のうちの二人が巨大な銅像として仁王立ちしており、観葉植物で彩られた小さな噴水も見られた。この建物は、香港返還決定後に建て替えられたにもかかわらず、上記のような植民地支配の後光を感じさせる権威的な印象を備えていて、イギリスの、香港返還後もそのプレゼンスを銀行などの金融手段を通じて保ちつづけるというメッセージを感じさせるものだった。
第2は、香港上海銀行である。香港上海銀行は、日本の東京三菱やさくら銀行などの財閥の頂点として系列融資をするような銀行とは異なり、純粋に金融関連商品だけを取り扱うイギリス資本の銀行として、東南アジア・中東など旧英領植民地だけでなく、世界各地に支店や系列行のネットワークを持つ、世界屈指のグローバルバンクである。ただし、香港上海銀行の出自は、スタンダード・チャータード銀行と違って、イギリスの、中国における植民地の経済権益を担うものであった。むしろその後の成長過程でローカルバンクからグローバルバンクへと飛躍していったのである。
その建築様式は、1階が吹抜けで、その他の階もすべてガラス張りという、香港市民に対して極めてオープンで親しみやすいイメージを作り出そうとしている。この建物も、香港返還決定後に建て替えられたものだが、スタンダード・チャータード銀行と違って、植民地宗主国の権威的な印象は避け、オープンで親しみやすいイメージを前面に打ち出すことで、返還後も香港社会に深くコミットしていきたい、という意志が感じられた。また、この建物が、新空港と同じくイギリスの建築家ノーマン・フォスターの設計で、その建築資材が、世界で最も高価なビルといわれるほど莫大なコストをかけてまでイギリス本国から移入され、徹底してそのスタイルにこだわったのは、グローバルバンクに成長した今でも、銀行の出自がイギリス人であることを再確認し、その経営の生命線を未来永劫香港に根付かせておくという強固な意志を象徴していると言えよう。
スタンダード・チャータード銀行、香港上海銀行、両英国系銀行とも、イギリスから中国に返還後も現地にコミットしていくという強い意志を感じさせる建造物であったが、その建築様式に表れた対照的な意思表示は、日本の横浜などに見られる、同じようにポストモダンな奇抜さはあってもメッセージ性には乏しいビル群を見慣れた者にとっては、非常に新鮮だった。付言すれば、この両行に限らず、リッポセンターなど香港の建造物にはポストモダニズム的なメッセージ性の強いものが多く、建物自体が、グローバルな経済の中だけでなく香港というローカルな経済の中においても常に競争にさらされている香港の企業にとって、自己の独自性を誇示し競争に打ち勝つというメンタリティを示す存在となっていることが読み取れる。
香港上海銀行と通りをはさんだはす向かいには、いま、香港の一大財閥、李嘉誠の長江実業本社ビルが工事をしていた。香港華人系財閥が、イギリス系資本の建物の集中するこの中環にあえて新たにビルを持とうとすることは、「イギリス」というものが、返還後も香港においてなお求心力を持っていることを景観的に示している。
ここから通りをさらに一つまたぐと、第3の銀行、中国銀行である。中国銀行は、中華人民共和国の外貨取扱い銀行として、数多くの支店を持つが、香港支店は、支店とはいえ香港返還後の中国の金融フロンティアの担い手として、極めて重要な戦略的位置を占めている。この建物も、香港返還後にやや場所を移動して建て替えられたもので、その建築様式は、返還後の中国政府のプレゼンスを誇示するかのように中環の中でも最も高いビルであり、尖塔形の近代的なたたずまいを装っているが、中環の中心からはやや離れており、目抜き通りの反対側に正面玄関があることも手伝って、アクセスの不便さは否めない。付近のビルと歩道橋などでつながっていない離島状態だったことからも、どことなく"中国"が香港から浮いているような印象を受けた。
以上まとめると、中環の中心付近にはスタンダード・チャータード銀行、香港上海銀行などの英系の金融機関が立地し、その少し外に香港華人系資本、そしてその外縁に中国銀行がある。そして、さらにその周縁には、シティバンクやバンクオブアメリカなどの米系の金融機関の独立したビルが立地していた。
このように、香港の中環は、植民地時代の英系資本優遇の面影を色濃く残していた。付言すれば、アジアの金融中心香港で、独立したビルをもつ日本の銀行は1行もなかった。日本の金融業の国際化とはどの程度のものか、見せつけられる思いであった。現在日本の金融機関は急ピッチで再編が進んでいるが、ここ中環に独立したビルを持てるようなグローバルな金融機関は果たして現れるのだろうか?
中環の金融中心を視察し終えた一行は、そこが同時にイギリスの香港支配の行政中心であったことを偲ばせるいくつかの場所を視察した。
St.John's教会は、イギリス国教会の教会であり、1847年築の古い簡素な建物である。イギリスの植民地支配は、政治・経済に留まらず、文化・精神の領域までその優越性を誇示するものであったことがわかる。
中華人民共和国の国章が掲げられた特別行政区政府本館は、イギリス植民地時代には香港政庁本館であり、まさしく行政の中心であった。建物の前で、政府から土地を取り上げられ父親が自殺してしまった香港中国人がハンストを行なっており、メディアも1組取材していたが、大々的に取材しているという様子はなく、抵抗自体もそれ以上の広がりを持たなそうな雰囲気であった。むしろ、こうした現在の中国の香港特別行政区政府に対する抵抗運動が盛り上がりを見せていないところから、逆に現在の統治は平穏に行なわれているように感じられた。
旧総督官邸は、1997年までの歴代25人の総督の官邸であり続け、第二次大戦中に日本軍が占領した際に、元「満州国」で仕事をしていた日本人の建築家の手で和風の瓦屋根に改築されたものがそのまま残存していた。内装は洋風の折衷型らしい。香港島で見た唯一の平屋のこの建物の奇妙さは、平屋という浮き出た存在感からだけでなく、ことある毎に日本の植民地支配の過酷さを喧伝してきたイギリスが、その植民地総督を、こうして生まれた和洋折衷の奇妙な外観の総督官邸に戦後もそのまま住まわせつづけた、という事実である。香港人の植民地支配への反感の矛先を日本にも向けさせようとするイギリスの意図がそこに込められていたのだろうか。現在、主はなく、将来、中国政府の意向で植民地博物館のようなものが建築されるそうだ。金融中心から一段高台に立地するそれは、植民地時代そのままの静かな装いを保っていた。
ここから2階建てバスに乗って、香港会議展覧中心に向かった。これは、1997年6月30日香港返還記念式典が行なわれた場所である。中環から展覧中心のある湾仔までは歩くと遠いのだが、車窓からは中環を中心にオフィスビルのエリアが拡大していることが見て取れた。展覧中心の外に、現在は香港特別行政区のモチーフである紫荊花の旗と、中国の旗が双方掲げられていたことや、中国政府が香港特別行政区に寄贈した金色の紫荊花の彫刻から、香港の1国2制度の現状を垣間見ることができた。
中に入ると、メッセのような巨大展示空間になっていて、その日はモーターショーを催していた。新彊ウイグル自治区から寄贈されたタピスリーが大々的に飾られており、経済的には中心の香港も周縁のウイグルも、中国政府にしてみれば同列の、中国の周辺(ペリフェリー)に過ぎず、翻って、自立志向の強い両地域を並列に意識させることで中国全体の一体性を強調していた。
この場所は、香港返還後中国本土からの観光客が多いらしく、実際そうだった。当然かもしれないが香港中国人の姿はなく、喧騒漂う商店街と比べると、特に香港中国人はこのような政治メッセージに興味がないように思われた。
その後、香港華人財閥の一つで、アジアの各地でインフラ建設を手がけているホープウエルの本拠セントラルプラザを通って、屋根つきの高架歩道橋を渡り、地下鉄を使って上環に移動した。
地下鉄の駅から外に出ると、中環の隣の駅というのに、雰囲気は全く違っていて、そこはスーツに身を包んだビジネスマンの姿は全くなく、喧騒あふれる香港中国人だけの街だった。この上環と中環の間の少し山よりには、かつて、英国人地区と中国人地区との境界線をなしたピール街が走っている。
まず訪れたのが南北行と呼ばれる中国人商人街で、とりわけ汕頭出身者が多く、主に同郷の移住者の多いタイを中心に東南アジアと中国とを中継する交易を行なっていて、タイ産のツバメの巣などの乾物類、漢方薬などを取り扱っていた。漢方薬と乾物の作り出す異質な香りは、自分が今中国大陸にいることを思い出させる。旧来セグリゲートされてきた低所得層中国人の作り出すどこか重たい雰囲気は、グローバルなビジネスの中心地である中環の華やかな雰囲気とは対照的だった。
南北行と東南アジアの華僑ネットワークとの結びつきの強さは、通りの中心に、タイの華僑系銀行であるバンコク銀行の巨大なビルがあることからも類推できた。
通り沿いのいくつかのビルが建て替えられており、ジェントリファイされた後は、ASEAN経済圏との貿易管理機能が卓越してくるのかもしれない。
香港では南北行に限らず至るところでジェントリフィケーションが行なわれており、香港が生きた街であることを強く感じた。それは、香港がグローバルな状況を反映して街の景観を変える流動性を持ち、同時にそれを可能にする、香港の将来性を見据えた資本の流入があることの証でもある。ただし、どんな高層ビルでも足場は例外なく竹で組まれていたし、落下物防止用のネットも張られていなかったから、ビルのジャングルの中を歩く新参者にとっては、どことなく不安感が付きまとった。
次に、公園管理やゴミ処理など日常的な生活関連の公共サービスを市民に供給する市政局Urban Councilの管理・運営する市場、集会所を訪れ、その後、Possession Point(大?地)に向かった。ここは、1841年にイギリスが香港に上陸して、最初に旗を立てた土地であった。香港が植民地としてその歴史を開始した象徴的な場所でありながら、何の記念碑も案内板もなく、現在では高層ビルの間にひっそりとたたずむ住民の憩いの場として、単なる公園となっていたことは、正直拍子抜けの感であった。と同時に、後に訪れた広州の沙面の公園でも感じられたように、イギリス植民地支配の巧みさを実感した。ただ、榕樹というアジアの植民地を象徴する樹木だけが、すべての真実を知る生き証人であるかのように、どっしりと地に根を張っていた。
再びバスに乗り、午前中の最後の目的地、香港大学に向かった。途中、青いチャイナドレス(長衫)姿の女子高生を見かけた。こうした型の制服を定めた高校の多くは伝統ある名門エリート校ということだ。立った襟が首周りにぴったりでいかにも暑苦しそうだが、校則が厳しいのか、みな襟元を留めてきちんと着ていた。足元は、ルーズソックスの子もいた。彼女たちは、我々と同じく香港大学を目指しているのだろうか。もっとも、「目指す」意味が違うのは重々承知だが。
2階建てバスの車体に「公文式」の大きな広告があった。「あなたの子どもに公文式をやらせると未来は成就する」といった内容のことが書かれている。香港の教育業界に、日本の企業まで進出しているのだ。
1910年創立の香港大学は、本館がロマネスク様式とイタリアの建築様式の折衷型であり、中庭にはバルコニーがあって風通しが良く、熱帯の植民地であることが十分考慮された設計になっていた。まだ夏休みでしかも土曜日のせいからか、行き交う学生の数は少ない。大学生の多くが眼鏡をかけていることが、香港の受験戦争の激しさを物語っているような気がした。エリート高校では、圧倒的少数派になってしまう眼の良い生徒が、勉強を怠けていると周囲から思われてかえって肩身が狭くなり、自分も近視になって眼鏡をかけたいと願望する子もいるという。
香港の教育システムは、小学校6年、中学校3年、高校4年(中学校と高校と合わせて香港では「中学」と呼ぶ。また、高校の最後の1年ないし2年は、「予科」で、大学教養課程レベルの学習をする)、大学は3年間となっている。大学の中でも香港大学は香港有数のエリート大学の一つであり、入学することは容易ではない。一般的にいって香港の受験戦争は激しく、教育水準の向上とともに有能な人材の創出に機能しているが、同時にそのような激しい受験戦争が香港中国人間の競争をあおることにより、植民地支配の構造を隠蔽する役割も果たしていた。
香港大学には陶磁器などを時代毎に展示した付属馮平山博物館があり、日本の大学と違って、植民地であっても大学が文化の教堂と位置付けられていることを感じた。
午後は、元啓徳空港、牛頭角を通って、.観塘、鑚石山、石?尾、長沙湾を視察した。これらは、第二次大戦後香港が抱えた、スクォッター問題、経済構造転換の危機に際して生産され、その後の香港の経済成長の原動力となった建造環境のある場所である。
まず、香港大学から狭い道の坂を、香港中国人があつまる西営盤地区に向かって降りた。途中、市政局が運営する共同シャワー場(日本でいう銭湯みたいなもの)が香港大学から坂を下りてバス停に向かう途中にあった。このあたりの住宅は、香港大学のあるあたりの高級マンション地区の半山区と違い、シャワーのついていないものもあるということだろう。ほんの数分歩いただけで、住宅の建造環境は全く変わってしまう。
さらに下るとゲームセンターがあり、そのドアには「成人場」という貼り紙があった。制服を着た生徒は一切入場禁止である。サッカーゲームなどの日本語のゲーム機があり、日本のゲームソフトのグローバルな市場支配力の一端を知った。それにしても、日本語を知らない香港中国人は、どうやって遊ぶのだろうか。店内は暗く、どこか後ろめたさを感じる雰囲気だった.
下りきったところにある、2階建て路面電車の走っている広い道からミニバスに乗って、空港関連のインフラ整備計画の一環としてできた、西側の海底トンネルを抜け、啓徳空港の跡を通って、観塘に向かった。空港後のあたりから、「工業」などと壁に書いた高層建物が目立ち始める。中継貿易機能に代わって、1960年代以降の輸出軽工業を担ってNIEsへの経済成長を支えた工場地帯へ、いよいよやってきたのである。
その中心が、1950年代に植民地政庁により計画的に開発された観塘である。工場地帯とは言っても、日本で想像するような広大な敷地にある低層の工場ではなく、ビルの中のフロア毎に異なる業種の工場が入る、高層の工場アパートである。ビルの側面を見ると、確かに排気ダクトが側壁に沿って這うように備え付けてあった。
しかし、工場アパートの建物自体は当時のままのものが多かったが、その中身は大きく移り変わっていた。すなわち、労働コストの上昇と産業の高度化に伴い、生産拠点は中国本土に移り、現在では管理機能が卓越してオフィスが増加しているのである。工場アパート前には求人の掲示板がたくさんあったが、どれにもポスターはほとんど貼られていなかった。あるのは、セールスパーソンの求人くらいのものだ。一方、中古オフィス家具販売のビラは、街のあちこちの壁に貼られていた。外見は工場と見える建物の壁には、「写字楼」と漢字で書いた不動産の大きな宣伝広告も掲げられていた。建物に入って、いかにも工場らしい階段を上がっていくと、内装を瀟洒に改装したオフィスがしっかり居を構えていた。また、工場全盛時の倉庫では、中国製の衣類を包装し再出荷する作業が、忙しく行われていたし、また内装を変えてフロアを小分けにし、ビル全体がショールームに変質した建物もあった。時代の推移を反映し、観塘の工場地帯は、中国に移った生産を管理する事務所地帯へと大きく機能を変化させていたのである。観塘の街路には、広州ナンバーをつけたトラックが多く走り回っていた。
生産空間から管理空間への空間需要の変化を反映してジェントリファイされたビルも見られた。しかし、管理機能が情報の集積地を志向することから、中環などの中心地から離れた観塘のビルには空き室が多かった。
上記のように工場アパート内部での空間需要の変化は読み取れたが、土曜日ということを考慮に入れてもあまりにひとけがなかった。一番熱気があったのは、場外馬券売場だった。やはりイギリスの影響だろうか。男性が多かった。合法かどうかは別として、香港の学生は競馬をやるのだろうか?ぱっと見たところ、若い人はそこに誰もいなかった。馬で儲けることばかりが頭を支配すれば、植民地で支配されていることなど頭から消えてしまうに違いない。
この日の視察だけで、ブルーカラーからホワイトカラーへの社会階層の入れ替えがおきたかどうかは判断できなかった。人や車の通行量は少なく街全体の印象としては、暗く閑散としていたように感じた。
次に、スクォッター地区の現状を視察すべく地下鉄で鑚石山(Diamond Hill)に向かった。
現存する最後のスクォッター地区である鑚石山は、駅を出てすぐのところに立地しており、狭い路地に沿って平屋の2階程度のバラック小屋が所狭しと隣接していた。周りを高層のマンションやビルで囲まれていたそこは、さながらそびえたつ山々に囲まれた盆地のようで、視線が急に低くなったような気がした。それまで高層化された香港の建造環境を見慣れてきた筆者にとっては、まさに青天の霹靂でだった。日本の戦後の風景を思い起こさせるバラック小屋の並木は、トタン張りでアーケードのように覆われており、食料品や衣料、日用雑貨まで様々な活気あふれる商店が軒を連ねた生活空間になっていた。中には零細な工場もあるようで、建物の外に表記があったが、実際に見ることはできなかった。見たところ排水が悪そうで、台風などの大雨が降ったときには簡単に床上浸水しそうであり、快適な住環境とは程遠く見えた。
このようなスクォッターの住環境は、香港に中国から難民が流入し1940年代後半から50年代まで一般的であった。しかし、希少な作用空間の有効利用を阻害するような低層のスクォッター住宅は政庁にとって邪魔者に他ならず、鑚石山もクリアランスの対象になった。ところが、1957年の香港中国人住民による強硬な反対運動以来、北京の中華人民共和国政府からの人権侵害との批判もあって、非常に扱いづらい、センシティブな地区として現在まで残ることになったのである。統治者がイギリスから中国に移った後も、それまで中国政府が帝国主義的な植民地支配に対し度重なる批判を繰り返しており、また香港中国人の中国政府に対する反感を考慮すると、問題は単なる再開発にとどまらず社会統合そのものにまで波及するので、住民を強制的に移住させるようなことはできなかった。ただし、1982年より以前に住んでいる人には、居住の権利とともに、他の地区の公営住宅へ移る権利も認められており、返還後の特別行政区政府も1998年よりクリアランスに向けての努力を始めている。
1950年代にこのようなスクォッターの難民を公営住宅に再定住させ、職住近接の作用空間を確保し、輸出型軽工業中心の工業化政策を支える空間編成の生産が成功を収めた石?尾、長沙湾の現在はどうだろうか。我々は実際に巡検すべく、地下鉄で、香港で最も早く1954年に建設された難民住宅団地、石?尾に向かった。
住宅地であった石?尾においては、現在でも建築された当時と同じ外観の6〜7階建てのH型高層住宅が残っていた。当時はトイレ・シャワー・水道などは共用だったが、現在では各戸に備え付けられ、多少アメニティーが向上しているように見えた。しかし、窓から垣間見えた部屋の中の様子は、天井の低い狭いワンルームの中にベッドと小さなテーブル、調理用具などで足の踏み場も少なく、ここに一家族が住むことを考えると快適そうには見えなかった。その日の曇天も影響してか、どこか重苦しい雰囲気を漂わせていた。住民層も、50年代に入居した世代が多く、高齢層が中心だった。
石?尾から長沙湾へは徒歩で向かった。なぜなら、50年代の工業化政策が推進されたころの労働者は、職住近接を目標に開発された両地区を、我々と同じように徒歩で往来していたはずだからである。確かに、両地区は20分ほど歩けば往来可能で、職住近接の空間編成を確認できた。
石?尾から長沙湾へ歩いていく途中の深水 土歩 には途中、洋服問屋街が見受けられ、服の卸問屋が多数あった。ここで服の注文とって、中国の会社へ縫製を頼んでいるという。女性ものの服を扱っている店が多かった。東南アジアからのバイヤーをターゲットにした看板がかかり、店内には格安衣料が所狭しと陳列されていた。顧客はデザインを持ち込めば大量発注もでき、その問屋は顧客と実際の生産拠点との仲介を担っていた。ここでは、香港の中継貿易の実態を確認することができた。
長沙湾には、石?尾の難民住宅と全く同じ設計の、6〜7階建てのH型の工場アパートが立ち並んでいた。 石?尾の住宅アパートと同じ1950年代半ばに建設されたこの建物で、今日グローバルに経済成長を約束する魔法のキーワードとさえとらえられるようになっている輸出型工業化政策が、香港で明示的に産声を上げた。1950年代は、多くのアジア・アフリカの国がいぜん植民地支配のもとにおかれているか、政治的独立を達成した場合でも、海外市場に頼らず、輸入代替による一国の「経済的自立」を図ることこそが真の独立への途であると考えられていた時期であった。そのときに、植民地政庁はあえてこの建物を建て、輸出型工業化による香港の経済基盤の確立と、それによる植民地の維持を考え、大きな成功を収め、そののちグローバル経済に普遍化していった。長沙湾の工場アパートは、このことを記念する重要な歴史的建造物である。
今でも工場機能は健在で、香港が金融・情報中心であることから印刷工場がまだ多く操業しており、ねじ工場なども空間的に限られていても生産可能なことから多く見受けられたが、香港での軽工業の衰退を反映して、空きテナントが多く見られた。この地区は、政庁の房屋署(ハウジングオーソリティ)が管理していたことから使用目的が限られており、オフィスビル化が進まず、現状の空間需要を満たしていないようだ。
そばには、50年代の軽工業に対する労働需要を満たす担い手として九龍工業という専門学校が現在も残っていたが、工業に対する労働者需要が減少している現状では、生徒集めに苦心しているのか、学校の外に、「楽しく有意義な学校生活」をアピールするポスターが何枚も掲げられていた。今では、コンピュータなどの新たな技術者の養成も担っていることだろう。
長い1日の終わりは、香港の美食に舌鼓を打つことで暮れていった。尖沙咀で、かつて一橋大学で学ばれた郭世紅(リナ)さんとともに会食した中華料理(広東)は、1日の疲れを十分に癒してくれた。そこは、観光者用の高価な店ではなく、地元の人達が愛用する比較的安価な店だったが、海鮮をふんだんに使った料理はどれもおいしかった。本場の中華料理はかなりふんだんに油を使っており、日本のさっぱりとした中華料理とはかなり異なっていた。しかし、周りにいる香港中国人はスマートな人が多く、いったいどういう胃袋をしているのか不思議でならなかった。確かに、食事をとりながらよく飲んでいたお茶には油を溶かす作用があると言うが、筆者にはそれ以上に油を取っているように思えてならなかった。
リナさんは福建省アモイ出身で、香港の名門女子高である英華女校(Ying Wa Girls' School)から香港大学に進学、現在、日本企業DENONの香港支社に勤めておられる。20代後半にもかかわらずすでに課長の職にあって10数人の部下を持っているという。北京語・広東語・英語・日本語・そして出身地方の福建語の5つを自由に操り、華南経済圏のいたるところを、中国内地の生産現場と香港にある意思決定の場とのパイプ役として、連日飛び回っている。このマルチリンガルの能力は、自分の努力一つで身につけたものである。香港中国人の、行政には頼らず己の能力と努力のみを信じるという、甘えがなく自立志向の強いメンタリティを感じた。高校時代は級長を毎年務めていたというが、そのように真面目に努力し、能力を示せば、年齢・性別に関係なく昇進していくことができる香港社会の現状を、われわれは垣間見る思いがした。
香港に来てから3日目をむかえ、熱帯アジア特有の湿気にもそろそろ慣れてきた。この日が香港の巡検最終日であったが、当然巡検のスケジュールは濃いものであった。
朝、地下鉄に乗ろうと旺角駅まで行くと、駅前の旅行代理店に、「日本7日6798香港ドル」「韓国4日1848香港ドル」「タイ4日2998香港ドル」などの貼り紙が、ウインドウに所狭しと張られていた。具体的にそれらの国のどの地へいくのかまでははっきりと分からなかったが、かなりお買い得なツアー価格だ。香港の人たちは、一般市民でも海外旅行をエンジョイできるくらいの所得を手にするようになっており、狭い香港に住む人々にとって、事実海外旅行は人気あるレクリエーションの一つとなっていることがわかる。日本の中では特に、香港では絶対降らない雪や雄大な自然景観が満喫できる北海道に人気が集まっているらしい。
この日の最初の視察は、ビクトリア港を一望できる高台に立つ新築マンションからコンテナターミナルを一望することであった。やや高所得者層を意識していると思われるマンションの1階踊り場から望んだコンテナターミナルは、日本では想像もできない広大な敷地にひろがる巨大なものであった。香港島と新界地区を挟んだビクトリア湾には、大小様々な船が浮かんでおり、石油備蓄庫も遠望できた。
ターミナルは、土地と港湾の造成を政庁が行った後、運営そのものは民間企業の手にゆだねられている。公共部門は必要な基礎の部面だけしっかりと整え、後は、HIT(元英系、現在華人系)・COSCO(中国系)・ATL(米系)・MTL(元英系、現在華人系)という4つの民間コンテナ会社が運営を担当して、日本もこれらの企業と契約して荷役を行なっている。ここにも、香港の経済成長の基盤が、政庁の周到な空間編成計画に基づく土地供給と、そのインフラの上で行われるの企業の自由競争にあることが確認できた。このターミナルの荷扱量は98年において世界2位であり、香港の中継貿易港としての役割、グローバルな物流のハブとしての空間的位置は、その巨大な規模から十分確認できた。ターミナルに並んでいるコンテナはすべて、グローバルスタンダードな大型コンテナである。これを、わが国のJRは、未だ受け入れていない。香港の大型コンテナを中心とした荷役は、日本の小型コンテナを中心としたそれと比べても、香港がいかにグローバルな中での自己の位置付けを明確に認識しているかを痛感した。それは同時に香港の経済戦略が、域内の工業生産から域際貿易へと再び変化しつつあることの表れでもあった。
ここにおいて香港におけるセントラル地区を中心とした管理機能の集積、コンテナターミナルにおけるグローバルな物流の展開を考えた時、そこにはグローバルな中の香港における新たな経済的位置、経済戦略が見て取れる。
今まで見てきたように、50年代から輸出型軽工業を中心に成長を続けてきた香港は、土地価格や人件費の相対的高騰と、隣国中国の改革・開放政策により、80年代以降再びその経済的位置を変化させてきている。とりわけ中国の市場経済導入と経済特区の設定は、市場経済を担う企業家の存在の薄い中国に、資本主義のエッセンスを体得した大陸周辺の在外華人地域、特に香港の企業家が資本を導入することを可能にした。
具体的には、香港に隣接する深?経済特区をはじめとした広東省に、自由化された空間として、香港企業の具体的な作用空間が供給されたことから、製造コスト削減のために香港企業がこぞって広東省に進出した。この香港企業の広東省を通じて、広東省の香港化、すなわち「グレーター香港化」が始まった。
こうして、朝鮮戦争以来衰退していた中継貿易機能が香港に再度復活してきている。元来、香港は、シンガポールやマラッカが南シナ海とインド洋をつなげる機能を果たしてきたように、イギリスの植民地化以降広州に代わって東シナ海と南シナ海をつなげる機能を果たしてきた。そして、グレーター香港化が進み生産拠点が中国本土に移転するにつれて、中国本土の完成品を世界の各地へ、世界各地からの完成品を中国本土へ、という中継機能が再び息を吹き返したのである。
1950年代の中継貿易と異なる点は、香港の「つなげる」役割が、グローバルなネットワークの拡大により、従来の東シナ海と南シナ海だけに留まらず、太平洋、大西洋にまでその範囲を拡大したことにある。それは、中国の改革・開放政策により、12億人という巨大市場が世界に開放されたことから、香港が世界各地からの中国を目指す製品の入口となったこと、工業化の進む中国からのアメリカ合衆国を中心とした世界各地を目指す製品の出口となったことを意味していた。もちろん、高付加価値製品の加工組み立ての特化したとはいえ、香港製品自体の輸出増化を無視するわけにはいかない。こうした中継貿易機能の復活が、コンテナ取扱量世界第2位として数字に表れているのである。
当然そこには、イギリス香港政庁とそれを受け継いだ香港特別行政区政府の長期的な経済戦略とそれに基づく建造環境整備の政策が生きている。政府によるコンテナターミナル9の建設にとどまらず、ターミナルに隣接するストーンカッター島が中国人民解放軍の駐留地とされて今以上の開発が不可能となると、今後大嶼山島前の海面を埋め立てて新たなコンテナターミナルを建設、港湾施設のインフラをさらに開発することによって、深?、塩田など開発の進む華南経済圏の地域間競争の中で、最も大規模で効率的な中継貿易港として生き残り、香港の経済的・社会的地位をゆるぎないものとしようとする強い意思が感じられるのである。
コンテナターミナルの視察を終えた我々は、ミニバスでツェン湾の三棟屋という客家集落に向かった。
客家とは本地に対するよそ者の意味で、広東・広西・江西・福建などの山間僻地に住む移住民のことである。三棟屋の客家は、福建省寧化から広東を通ってやってきた。現在の家屋は、文化面における1980年代からの英政庁による従来の中国の伝統を軽視した植民地政策から、伝統文化の保護政策への政策転換によって、福建・広東省から材料を取り寄せて復元したものであった。?湾は、60年代以降地下鉄の整備などにより工業化が進み、元の客家住民はこの場所を離れていた。その建築様式は、伝統的な広東省の家屋であり、共同の空間や、祖先神を祭った場所、家屋を囲むような城壁など、コミュニティとしての一体感を大事にした作りとなっていた。一方、集落を城壁で囲むことは、差別されているマイノリティにとっての「差別されている」という意識を一層強化しているように思えた。
次に、三棟屋と同じ客家集落である吉慶囲に向かうべく、バス停に向かった。バス停は地上5階程度の高架道路上にあり、そこから望むと、地下鉄の線路の右手は手のつけられていない原生林、線路の左手が高層ビルの密集する開発された都市景観という、対照的な景観が広がっていた。香港の土地はすべて英国王所有のcrown landであったから、都市化は香港の政庁主導で行われる。したがってこの地区でも、民間主導のスプロール的な都市開発の拡大はありえなかった。
バスは、数日前までの豪雨のせいで、本来の路線の美しい峠道の道路が崩壊したため、海岸沿いへと臨時にルートを変更し、途中から高速に入った。インターの出口にあるバス停付近には、何台も自転車が放置されていた。このあたりはまだ鉄道がなく、交通不便なので、周辺の人たちはここまで自転車でやってきて、日本と同様に放置自転車し、高速バスで九龍方面など市街地へ通勤通学しているのだ。20キロくらいあるのでちょっと遠い。川崎から登戸くらい、新宿から青梅街道沿いに小平までくらいの距離だが、香港中心部の労働市場にこのあたりの集落も取り込まれていることがわかる。
バスは高速を降りると、ネパールのグルカ兵がかつて駐屯していた元英軍基地(現在は中国人民解放軍の駐屯する中国軍基地となっている)のわきを通って、吉慶囲に向かった。
吉慶囲に最寄のバスの終点には、元英軍基地の近隣であることを反映してネパール語の書かれた商店が並んでいた。路上には、お盆が近かったからか、紅色の線香と祖先に祭る偽札の燃え残りが多く散在していた。
吉慶囲は、三棟屋と違って今も実際に客家が住んでいる城壁集落であるが、昔から新界一周ツアーの立ち寄り地のひとつとしてどの観光ガイドブックにも記載されていて三棟屋以上に観光地化が進んでおり、観光ツアーと思われる大型バスが何台も止まっていた。しかし、著名な割に、この集落の人々は、過去に新界が英国の植民地化された際、これに頑強に抵抗したためか、集落は三棟屋と異なり、現在にいたるまで住民の自助努力以外、まったく公的な修復の手が及んでいない。近隣に敷かれる予定となっている鉄道の駅にも、住民の要望する「錦田」とは違う名前が付けられそうになっていて、反対運動が起こっている。中に入ると、伝統的な客家住宅より、近年建てかえられた普通の家屋のほうが多く、見世物のはずの伝統文化は影を潜めつつある。しかし、過去に戦利品として英国軍に奪われた鉄の城門をイギリス本国から奪い返し復元したような住民の一体性は、入口近くの小さな公民館のようなところに人がひしめき合って歓談しているところからも、今でも根強く残っているようだった。
吉慶囲からはタクシーに乗り換え、米埔自然保護区に向かった。
米埔自然保護区は、野鳥の飛来地・生息地として1995年ラムサール条約指定区域に認定されている。ただし、これは単に自然保護の観点だけから申請、認可されたわけではない。英政庁、特に現地化した白人支配階級は、ラムサール条約指定区域としてその空間を有界化することで、香港返還後の中国側、すなわち深?からのスプロール的な工業地帯拡大による環境破壊の防止を意図したのである。しかし、近年米埔周辺で一戸建て分譲住宅の開発が始まっており、下水処理施設がない香港、そして深セン側からの工業排水の流入で、保護区域の水質悪化が懸念されている。
米埔は、中環など香港の中心部から直通の公共交通のアクセスがなく、最寄のバス停から20分以上歩かなくてはならない上、出来合いの観光ツアールートからも外れているとあって、観光客の姿はほとんど見られなかった。入口でWWFの管理スタッフに入場料HK$100と寄付金HK$1を支払って入場した。ここは深センとの境界が近いので、非合法入域者防止のためパスポートが必携で、提示し旅券番号を記録される。パスポートを忘れると、絶対入れてくれない。アメリカ人らしい人が管理スタッフと何やらもめていて、かなり傲慢な態度だった。ツーリストというのは自分の培ってきた価値観やルールを過信しすぎてどこか傲慢になりがちだが、現地の人から見れば、「〜人」の代表である。このことを常に意識し、同時に自分こそがstrangerであるという謙虚な気持ちを忘れてはいけないと感じた。
保護区の入り口にある香港政府農漁署の事務所でもう一度登録し、保護区内に入った。中は、湿地帯や魚を養殖している貯水池が中心で、低木の木々が豊かな緑を蓄えており、ここが同じ香港なのかと目を疑いたくなるような光景が広がっていた。時々池を跳ねる魚や樹木に巣を作るアリ以外、生き物の気配は感じられない。ルートにしたがって野鳥の観察小屋へ向った。途中、英国の化学薬品会社ICIの寄贈した鉄柵があり、我々の視界をさえぎったが、良く考えてみれば野鳥の生態を脅かさないための配慮であった。環境を汚す恐れのある化学薬品会社が寄贈したというのはなんとも皮肉であったが、企業にしてみれば環境保護を常に考えているというメッセージをこめたものなのだろう。
ロッジ風の木造3階建ての野鳥小屋にはいると、野鳥の生態をカメラを構えて観察している人がいた。我々も小さな小窓から外を除くと、正面には一面の湿原が広がっており、いくつかの野鳥の群れが見られた。釧路湿原などに比べるとその規模ははるかに小さい。小窓の下には鳥を紹介するポスターが張られていたが、素人に見分けるのは難しかった。右手には旧国境を示す背の高い鉄条網が返還後の今もしっかり張られており、その奥は深センであった。鉄条網のバリケードを隔てて、手前の一面の緑と、奥手の、バリケードぎりぎりまで迫る高層ビル・工場群が織り成すコントラストから、「一国二制度」を支える中国の国土空間の有界化の現状を、一目瞭然に確認できた。
米埔からタクシーで南に行くことおよそ20km、人口約50万人の街が屯門であった。屯門の駅から街全体を一望すると、整然と市電や道路、高層マンションなどが配置され、そこがまさしく計画都市であることが実感できた。
香港政庁は屯門において、石?尾、観塘の例にならって、職住近接のより大規模なニュータウン計画を意図し、政庁主導の空間編成を行なって、高層の公営住宅、工場アパートなどを供給した。さらに政庁は、既成市街地とは隔絶された新しい都市空間の建設を意図し、輸出軽工業の発展を伴った自己完結的な経済発展を目指したから、九龍や中環などの中心地区からの高速鉄道網は敢えて建設しなかった。
我々は政庁の意図したニュータウン計画が実際どのようであるかを視察すべく、駅前から新しくてきれいな市電に乗って、輸出軽工業の工場地区に向かった。
工場地区を歩いたが、人気がまったくと言っていいほど感じられない。日本のYKKの工場も見受けられたが、製品を搬入出するトラックが行き交うわけでもなく、工場の中から作業の音が聞こえてくるわけでもない。もちろん生産は行なっているのだろうが、フル操業とは程遠そうだ。しばらく歩いて巡検を続けたが、目に付くのは空きテナントを示す"租"の字が掲げられた看板ばかりで、地元向け消費で新鮮さが要求される乳製品工場だけがフル操業していた。
このことから、屯門の職住近接のニュータウン計画が現実に立ち行かなくなっているのは明らかだった。現状では、グレーター香港化によって工場が中国本土に移転したため、また香港の中心地の中環や中国の広州などからも遠いため、管理機能としてのオフィスも集まっていない。むしろ、民営アパートの高層化に伴い、香港の中心地区に対するベッドタウン化が進行している。香港政府も、香港全体のより有機的な空間利用のため、中心地区への高速鉄道網の整備にようやく乗り出した。
屯門を視察し終えた一行は、オクトパスカードが使えない旧型の2階バスで一路東方に湾岸伝いに移動した。
途中、空港コア計画展覧センターで下車、空港コア計画の実態を視察した。そのバルコニーからは、空港コア計画の実際、すなわち空港から世界最長の吊り橋を渡って、高速道路で中環地区へ通じるという一連の公共建築物を一望できた。高速道路の下には空港鉄道も走っていた。センターの中の展示物はコア計画の実態をつぶさに知ることができ、計画を紹介した英語の映画を実際に見た。空港コア計画にも、香港政庁の周到な空間編成計画が隠されていることが明らかになった。
その一番の中心は、いうまでもなく、一昨日利用した香港国際空港(赤?角空港)である。
香港国際空港(赤?角空港)は、かつての啓徳空港に代わって1998年6月から使用されている。啓徳空港は、ビルの林立する新界地区に立地した、世界でも有数のビジーな空港として、また着陸の難しい空港の一つとして知られていた。しかし、都市の中心部に近いという危険性、滑走路が1本しかないため最も混雑する時間帯には2,3分に1本の飛行機が飛び、空港施設のキャパシティーから入国・出国手続きに非常に時間がかかるという状況などから、新空港を建設することは香港政庁にとって急務であった。
そこで、香港政庁は、中国大陸の入口に留まらず、アジアの入口としてのハブ空港の地位を確保し、アジアの金融、情報・通信の中心としての地位を確固たるものにするために、空港建設や、空港への道路・鉄道網の整備など10のプロジェクトに分割された、総額1564億HK$(1999年9月のレートでは、HK$1=\15)に上る世界有数の公共投資計画(Airport Core Programme、ACP)を策定し、新空港の場所を大嶼山島に定めた。
このような大規模公共投資を決定した裏には、東京(成田)、ソウル、台北、香港、バンコク、シンガポールなどの、アジアの中でのハブ空港の地位を巡っての熾烈な都市間競争に対する、香港政庁の深刻な危機意識があった。日本では、国内経済の規模の大きさと比例して努力をしなくても空港需要は多いが、作用空間の狭小さから国内経済の規模の小さい香港では、大規模なグローバル経済の中での空港需要を、利便性の高い空港施設の建設によって、自らの努力において作り出していかねばならない。
空港コア計画展覧センター(ACP Exhibition Centre)の展示物及びパンフレットによれば、この計画の目玉は以下のようになる。
周知の通り、中国返還前の香港はイギリスの植民地であり、その土地はCrown Landとしてすべてイギリス国王のものであったから、香港政庁にとって、その経済成長に必要な作用空間の開発と効率的な土地利用編成をすることは比較的容易であった。成田空港の拡張計画が、土地の収容に四苦八苦し、国際的なハブ空港としての地位を危ぶまれているのとは対照的である。すなわち、官有地である土地の使用権を擬似資本化し、政庁の都合に合わせて常に需要過剰気味に供給すれば、その売却益は政庁の財政備蓄として蓄積されていく。このような土地制度に裏づけされた巨額の財政備蓄こそが、ACPのような巨大プロジェクトを自前の資金で遂行することを可能にした。返還を間近に控えていたイギリスの香港政庁にとっても、潤沢な財政備蓄をそのまま中国政府に引き渡すよりは、資本を土地に投下して建造環境として固着させるほうが、すでに土着化した香港の白人支配階級にとっても、香港中国人にとっても戦略的意義が大きかったのである。
こうして建設された新空港は、1時間に最大40便の発着陸を可能にし、入国・出国にかかる手続き時間を大幅に減少させ、空港鉄道を使えばセントラル地区へ23分でアクセスできるようになった。また、香港政庁の潤沢な財政備蓄のおかげで、橋やcross-harbourトンネルなどを除けば、新しく建設された高速道路はすべて無料で開放された。なにより、深セン・マカオ・広州という国際空港が隣接する激戦区において地域の中心としての地位に留まらず、アジアの玄関としての地位を確保するために、この新空港の果たす役割は極めて大きいと言える。(参考文献 水岡不二雄「英国人による香港植民地統治と空間の包摂-序説」 『一橋大学研究年報 経済学研究』35 )
空港コア計画展覧中心を視察し終えた一行は、香港大学日本語学科の学生との会食をすべく、タクシーで旺角に急いだ。
香港大学の学生4人と、香港大学日本語学科の教授でいらっしゃる原先生を交えての会食は、英語・日本語の交錯する楽しい会食であった。学生のうちの2名は、交換留学生としてこの秋から一橋大学にやってくる。昨日のリナさんとの食事の時にも感じたことだが、香港の学生は向学心が強く甘えがない。4人ともかなりの日本語を使いこなしており、それに比べると自分の英語能力はまだまだだなと思った。
香港大学生との有意義な時間をもてて満足した一行であったが、我々の巡検日程はまだ終わったわけではなかった。ホテルで荷物をチェックアウトした後、九廣鉄道に乗って一路深センに向かった。窓の外には、香港の郊外化が進んでいる様子が、沿線の暗闇の中にそびえたつおびただしいマンションの数からも想像できた。香港中国人と深センの中国人とを実際に見分けることはできなかったが、我々の乗った九廣鉄道は新界地区からの通勤客だけでなく、深センからの日常的な買い物客などにも気軽に利用されているらしい。
九廣鉄道は、静かに我々のつかれた体を運んでいった。
(経済学部2年 若菜高博)