香港側の終点、羅湖駅に到着する。夜10時を過ぎ、深セン側から輝いてくるネオンは眩しいが、駅周辺の様子は真っ暗でよく分からない。羅湖駅にて出国と同じ簡単な手続きで香港を去り、2年前まで中国と英国の国境線をなしていた深セン川を渡ってそのまま徒歩で深セン側に入り、中国入国ビザを提示して簡単な入域手続きをとった。夜だからか、入域審査所は閑散としており、また白人のバックパッカー風の人が審査官ともめている。恐らくビザがないため、入域を許可されていないのであろう。
深セン側は新しいビルや住宅の立ち並ぶ、近代化が現在進行中の新興都市という印象である。しかしその近代化に治安が追いついていないという感じで、何やら危険な香りがする。香港から中国内地側に初めて入った感想などを口々に話していると、「日本人と分かって何かされるといけないから黙っていたほうがよい」との先生のアドバイスがあった。急に引き締まった表情で黙ってバスターミナルへ向かい、ホテルに向かうバスに乗り込むと、バスは省エネのためか、電気をつけずに止まっている。更に酔っ払い風の男性が乗り込んできて、「やっぱり危ない!」とひとり納得する筆者であった。バス料金は2元で、香港の約4分の1の値段だ。
こうして都市独特の深夜の騒々しさを持った深センに降り立ち、巡検の中国本土部分が始まった。
8月30日(月)深セン市内・虎門
深センのホテルからバンに乗り込み、深セン市内を見学する。新しいビルが多く、新興都市であることを感じた。車窓からは建設中のビルをあちこちに見ることができ、急激な都市化が進んでいることが分かる。
香港に隣接した深センは、新しい都市である。1980年以降、?小平が開放改革政策を打ち出し、人民公社が解体されると、国内に企業家の少ない中国は、積極的に外資を導入することにより、市場経済化を図った。特に深センが、中国の中でも外資受け入れ窓口として大きな役割を果たしたことは、以下の統計資料を見てもよく分かる。
年次 | 総額 | 1位 | 2位 | 3位 | |||
1988 | 619,072 | 広東省 | 43.40% | 福建省 | 7.70% | 上海市 | 5.60% |
89 | 629,409 | 広東省 | 43.40% | 福建省 | 14.70% | 上海市 | 5.90% |
90 | 698,632 | 広東省 | 41.00% | 福建省 | 17.20% | 上海市 | 5.30% |
91 | 1,242,173 | 広東省 | 41.20% | 福建省 | 11.70% | 江蘇省 | 6.10% |
92 | 58,122,351 | 広東省 | 32.40% | 江蘇省 | 12.30% | 福建省 | 10.80% |
(単位:千USドル、「中国対外経済指標大綱」より)
国・地域 | 1992年 | 1993年 | 1994年 | ||||
金額 | % | 金額 | % | 金額 | % | ||
香港・マカオ | 20.62 | 81.9 | 41.17 | 82.3 | 26.05 | 87.2 | |
台湾 | 1.06 | 4.3 | 2.19 | 4.4 | 1.21 | 4.1 | |
米国 | 0.47 | 10.9 | 1.83 | 3.7 | 0.8 | 2.7 | |
日本 | 0.56 | 2.3 | 0.75 | 1.5 | 0.27 | 0.9 | |
英国 | 0.54 | 2.1 | 0.74 | 1.5 | 0.24 | 0.8 |
(単位:億USドル、資料:深セン市統計局)
表T・Uから分かるように、外資の半分以上が広東省に流入している。深センは広東省の中心都市の一つであるから、深センに多くの外資が流入した、と言い換えてもよいであろう。更に表Uから、その外資の80%以上が香港からであったと言える。
しかし香港と比べ、都市の景観はかなり異なる。深センでは高層化の程度は低く、密度も低い。これは香港のイギリス政庁の長期的な都市計画、つまりビルを中心地の一箇所に集中させるというやり方とは異なり、都市建設の計画性がより乏しいためだ。いくら広い中国だとはいえ、集積してリンケージ費用を少なくしようという意志は働かないのだろうか?
一方反対に見える香港側は、緑が多く、土地が自然のまま残っている。香港の中国返還から2年経ったとはいえ、深センの都市化は、「一国二制度」の境界にさえぎられて、同じ国のはずなのに、一切香港側には及ばない。香港と深センの間に張り巡らされている高いバリケードからも、双方の土地利用の違いからも、「都市」同士の違いではなく「国家」レベルの違いが厳然として存在することが見て取れる。
深セン駅のそばにある香港上海銀行のATMでクレジットカードを使い香港ドルを入手する必要があったため、目的地までに大回りをしてしまったので少し時間はかかったが、深セン市内の様子を見るのにはちょうどよかった。香港ドルは、廣州の旅行社に支払うために必要だったのだが、中国本土でも、ATMなどを用いて容易に香港ドルを入手することが可能なのである。
最初の見学地は沙頭角というところにある中英街である。この街路はかつて中国と英国(香港)の国境となっていて、返還前から香港側に金を扱う商店が並び、地元の中国人がショッピングに来ていた。現在は、一層派手な商店の並ぶ街路になっていて、入り口の門の近くにはディスカウントストア風の商店がある。ここは返還後も「外国人立ち入り禁止区域」で、われわれは外から覗くことしかできない。この事実だけが、かつて国境であったという事実を思わせる。
中英街を見学後、鹽田コンテナターミナルを見学した。このターミナルは中国内地とコンテナ輸送の専用鉄道で結ばれている。すぐそばの香港のコンテナターミナルに比べ、規模もコンテナの量も少ないが、鉄道を用いることで遠距離との間でも効率的なコンテナの運び出しが可能である。政治的に中国本土とは異質な香港を仲介とせず、独自にグローバルな物流の中に参加しようという意志が感じられた。建設当初に比べ、このコンテナターミナルの動きはより活発である。しかし、実際には香港との規模の差があまりに大きいために、そしてあまりに香港と距離的に近いために、このコンテナターミナルの規模を更に拡大することは難しいように思えた。
その後、深センの経済特別区検問所を通り、特区の外に出た。香港からの工場移転が進み、香港の「分工場」として深センにおいて香港化が進んでいることは否めない。最近の傾向としては、この「香港化」は、経済特区の外側で進んでいる。本日訪問させていただく協豊電子の工場に行く途中、車が遠回りし、龍崗という特区外の街を通った。中国は社会主義国なので、土地の所有権はなく、ある程度の計画性はあるように思っていたが、いたるところに工場が乱立し、同時に分譲アパートも多く存在した。特区外に立地した場合、関税などの事務手続きは煩雑なものの、土地使用権が安く、人件費もより低く抑えられるため、都市のスプロール的な拡散が、郊外における無秩序な工場や住宅の立地として急速にすすんでいることが見て取れた。一方多くの日本企業は人件費・地代はやや高いが関税のかからない特区内に残っている。
香港の人件費の上昇、土地使用権の高騰は香港の企業にとって頭の痛い問題であった。これらの経費削減のため、中国の開放・改革政策と時を共にして、多くの企業が地理的に近く、リンケージの取りやすい深センに進出し、管理機能は香港に残しながら生産部門だけを深センに移したのである。つまり、香港企業が、深センにおいて、委託生産加工を行うようになったのである。委託生産とは、香港企業が原材料・部品・中間製品・機械・設備さらにはデザイン・サンプルなどのすべてを深センに持ちこみ、深センの安価な土地と労働力を用いて組み立て加工した製品のすべてを香港企業が引き取って、加工賃と土地リースのみを深センに支払う形式のことである。(渡辺利夫『華人ネットワークの時代』日本出版放送協会、31,32ページ)また、中国側から考えれば、広東省の最大都市廣州ではなく、深センを経済特区として開放した理由として、深センの香港に対する地理的な近さもさることながら、廣州という旧来の大都市に急激に市場経済の要素が流入し、貧富の拡大・社会不安の増大が起きることを懸念したという要素を考えることもできる。深センは、?小平の命令一下、農地と村落の中に、人民解放軍の労働力で急速に作り上げられた都市であるから、性格がまだ定まっていないこうした都市のほうが市場経済化の"モデル都市"として具合が良い。
このように意志決定は香港にゆだね、生産部門のみ深が請け負うという体制が大半を占めているが、深センの中では香港に頼らない独自の経済発展を目指そうという動きも出てきている。これは香港からの下請けを中心とする直接投資だけでは経済発展に限界があるため、また深センに立地する工場が増加し競争が激化したためと考えられる。われわれが訪問した平湖にある協豊電子実業は、こうした新しい志向を積極的に向いた企業の例である。
協豊電子実業は本社が香港にあり、深セン市街から車で40分、深セン市街から香港まで電車で約40分という、深セン市内および香港へのアクセスのよい場所に立地していた。周りにもいくつかの工場が立地しており、工場が深セン市内から周辺へと移行しているのが分かる。100%発注を受けた製品を作る下請工場であり、取引先は香港、日本、合衆国などである。仕事の受注は、ほとんど人的ネットワークに依存している。協豊電子は,その香港中国人の社長さんが日本と深い関係をもつこともあり、他の深センの工場に比べ日本との取引の割合が多いようだ。原料も80%は日本などの発注側から支給されており、発注を受けた電話機、コントローラ、充電器、パチンコ台の鍵などを作っている。従業員は約1300名で男女比は8:92と圧倒的に女性が多く、従業員の平均年齢は20歳である。彼女達は深セン以外の中国各地から「出稼ぎ」に来ており、22〜23歳になり、ある程度稼いでお金を貯めるか故郷へ仕送りをすると故郷へ戻っていくという。3〜4年も働けば十分な結婚資金・故郷への仕送りが可能なためである。逆に工場側も、基本的に賃金が勤続年数に比例するため、生産コストを押さえるためにも労働者の定着率を高くしようというインセンティブが働かない。工程ごとに細かく作業が分担されており、従業員はすぐに熟練できるように工程が設計されている。工程につく前の研修は40時間であることから、一つ一つの工程は単純工程ということができるだろう。それぞれの工程を受け持つ女工はまだあどけない顔をしていた。なにやら「あゝ野麦峠」を思わせる。
女工の賃金は400元くらいからスタートし、技術習得の速さ、作業品質などにより昇給する。昇格は、物科員−組長−科文−主管−経理、の順である。誤解の無いようにフォローすると、この工場では女子工員に無理な勤務体制を強制しているわけでもないし、中国の他の工場の水準から見て不当な低賃金で搾取されているわけでもない。採用条件が中卒ということだが、実際には小卒も存在する。しかし、就業規則は厳しいようで、タイムレコーダーの側には、「他人がタイムカードを打ったら即解雇」と掲示が貼ってあった。
本社が香港にあること、100%下請けであることから、大まかに言えば深センに多く存在する委託加工工場のひとつと分類できるが、訪問前に考えていた、単純作業でできる製品を人海戦術であまり品質を考えずに大量生産する、という新国際分業のイメージとはかなり異なっていて、協豊電子では独自性を打ち出すため、また競争に勝つために以下のような努力をしていた。
以上をまとめると、香港などの発注側からの委託生産という点では、今のところ協豊電子は「分工場」と言わざるを得ないが、品質管理の方法、従業員の教育や、中国国内の部品の使用などによって香港や日本に依存しなくても企業として生き残っていける術を開発し、独自性を保つ努力を進めている。最終的に協力豊電子は、委託加工に依存しない、SONYやPANASONICのような自社ブランドを独自ブランドとして確立することを目指しているようだ。このようにして、深センへの産業移転は、単なる労働集約的な生産ラインだけでなく、技術開発部門にまで拡大する気配を見せ、より高度な技術と高品質に基づく産業体系の形成への萌芽が徐々に生まれているように思われた。
説明をして下さった工場の品質管理責任者の今野さんは、以前日本の企業で勤務しておられたが、技術者の立場から厳しい品質管理を主張してコスト重視の経営陣とうまく行かなくなり、思い切ってその会社を辞した。しかしそのきっぱり筋を通す姿勢が、以前1年間一緒に仕事をしていた香港中国人の経営者に見込まれ、深センのこの工場に採用された。そこで、まだ中国では珍しい厳しい品質管理を行う工場を実現して、中国製品を「安かろう・悪かろう」からハイテク化・高品質化へと転換させる新しい方向性に重要な役割を担っておられる。今野さんの「21世紀も生き残るためには、デザインレビュー技術(設計を審査できる技術能力)など更に高度な技術も現地で行えるようにしないとならない」という言葉は、こうした新しい深センおよび中国全体の工業発展がめざす今後の方向を、改めて肌で感じさせるものだった。
協豊電子をあとに、貸切バンで、香港の華人資本ホープウェル(合和)がBOT方式で建設した高速道路を飛ばして虎門に向かう。地名を表示する道路標識は、かつて使用されていた繁字体が使われているものが多く、それを慌てて簡体字に塗りなおしたような箇所もある。
高速を降りると大雨で道全体が大きな水溜りで覆われているところがあって、すぐ柵の向こうは目的地なのだがなかなか進むことができない。結局居合わせた車に分乗させてもらい、車高を高くして水溜りを通りぬける。こうしてやっと虎門の海戦博物館に到着したが、博物館は改装中であった。ガイドさんの「見学できない」という言葉を制して入り口に行くと、博物館の警備員は改装の終わった部分だけではあったが意外に簡単に見学を許可してくれた。当然、他の観光客はいなかった。
館内はジオラマなど一般受けするものが多く、非常にツーリスティックな展示品が多く目に付いた。虎門にあるのだから当然だが、展示物には中国人がいかに勇気を持って列強に対抗したか、という中国側の誇りが感じられた。
外に出ると、阿片戦争で中国が、侵略しようとする英国軍と戦ったときの砲台が、珠江が南シナ海に注ぐ河口に向け、風化しかけて並んでいた。対岸には、イギリス軍が戦争の際目印にしたという高い仏塔が望まれた。これは、中国の近代がまさに阿片戦争から始まったこと、またそれが植民地宗主国に対する抵抗と自立の歴史であったことを思い出させる建造物だった。
さらに太平という街に車を進めると、実際に林則徐が阿片を焼いた池があって、そのには林則徐の巨大な像と、江沢民が訪れてその精神をたたえた看板がかかっていた。これらを残すことによって、その精神を称え、記憶に残していこうという意志が感じられた。
虎門を後にし、虎門をまたぐ巨大な吊橋を渡って、高速を飛ばし廣州へと向かう。本日の宿、「沙面賓館」に着いたのは、夜の8時だった。
隣接した「新茘枝湾酒楼」で夕食を取る。広東料理では「机以外の四足のものと飛行機以外は何でも食べる」といわれてきた。廣州にはその精神が残っており、ここでは生きた魚やみみず、蛙、海蛇などの食材を選び、調理してもらえた。食材は生まれてはじめて口にするものが多かったが、大変おいしく、巡検中の食事でも一,二を争う人気だった。
8月31日(火) 廣州
朝7時半にホテルを出ると、珠江沿いで多くの人が太極拳をしていた。中年の人が多く、学校があるからか、人気がないからか、若者は全くいなかった。本日の巡検は、沙面地区の見学から始まった。
沙面は、第2次阿片戦争を契機にできた英仏の租界であった。租界とは、阿片戦争以後、開港場に設置された外国の租借地区のことで、中国の領土ではあるが、行政・司法権は英仏等の租借国にある治外法権で、列強の中国に対する政治・経済・軍事活動の拠点として大きな役割をした地区をさす。当時中国人は夜間立ち入りを禁止されていたという。
沙面には、租界当時の建物をそのまま使用しているところが多く、ロンドンにありそうな石造りの重厚な建物が多く残っている。後から写真を見たら、これが中国だとは誰も分からなそうな街並みである。例えば英系資本で現在は香港を代表する商社のひとつで、ロスチャイルド系の財閥スワイヤの事務所は、現在ホテルとして使用されている。特徴的なのは、英国領事館の隣がジャーディンマセソンの商館というように、経済活動の自由を求める自由貿易商人と英国政府の密接なつながりが空間的にも見られることだ。自由貿易商人たちの「自由」な活動に対抗する清側を英国政府が軍事的侵略によって保証する、という関係が建物の立地によって確認できたのである。
すでに香港で見たように、スワイヤもジャーディンも、今日まで香港を代表する巨大英系商社である。逆にいえば、革命前は中国に経済権益を求めビジネスを行っていた英系商社が、戦後は香港という独立した経済空間で、中国人の労働によって支えられた輸出型軽工業と国際金融を経済基盤に巨大な資本蓄積を行ったことになる。その意味で、香港は立派な植民地として続いてきたという事実を、この沙面の歴史は逆に照らし出しているといえるであろう。
かつての沙面は英国地区とフランス地区に分けられていて、フランス地区には教会があった。この教会はフランスカトリックの教会だ。単に沙面地区に住むフランス人に対し礼拝を行う場としてではなく、精神的な部分までその地区を支配する象徴としての建造物と考えることもできる。
さらに、租借地が廣州の空間を切り取る方法にも特徴があった。それは既存の完成した都市中心を避けるというやり方である。具体的にいうと、沙面は清朝時代の広州の城壁の外側で市街から離れた、砂の干潟の上に建設された。これは入植地の住民感情も考慮に入れながら、原住民とのコンフリクトを極力避けつつ、都市空間に新たな植民地支配の拠点の形成を容易にするという、巧みな植民化の手法であった。
戦前は、横浜正金銀行(その後の東京銀行)や三菱商事も、ここ沙面に独立した建物を構えていた。戦前の日本は、華中や華南では、英国が開拓した対中経済進出の空間のいわば背中に乗る形で中国に経済進出を図っていたことがわかる。
現在、沙面にはドイツ、ポーランド、アメリカ合衆国などの領事館があり、欧米人がその建造環境を好み、再び戻ってきていることも分かる。
次に、沙面を廣州の本土と結ぶ橋を渡って、清平市場を見学した。清平市場は1979年に開設され、?小平が訪れ、改革開放経済のモデルとした市場である。「清平市場」と書かれた入り口を入ると、生きた鶉、野菜や魚、肉類や亀などあらゆる食材が並び、多くの人で賑わっていた。加工品はほとんど売られていなかったのだが、やっと見つけた点心の店で蒸し餃子と小龍包を買い、遅い朝食となった。蒸したてのそれは一籠6個入りで2元という値段の安さにもかかわらず驚くほどの美味だった。殆どが地元の人らしく、日々の食糧を買いに来ているようであったが、売り手も買い手も大声でやり取りし、真剣な目で食材を選んでいた。
この清平市場に象徴される中国経済の改革・開放は、社会主義計画経済パターンと訣別し、西側先進国を経済モデルとして進められてきた。実際には、単純に西側のシステムを取り入れたわけではなく、段階的に「計画経済を主として、市場調節を従属させる」という限定された方法から、後に計画経済の「まずさ」と市場経済の「強さ・有効性」に対する認識の深まりに伴い、「計画的指導の下での市場経済」、「計画的商品経済」(84年)に変わった。1992年10月に開かれた党大会では、計画経済を完全に捨て、「社会主義市場経済」を明確に打ち出した。市場経済メカニズムの導入からその憲法上の確認まで、中国は10年以上の時間を要した。(沈才彬『中国経済読本』,亜紀書房,1999年,p95〜96)
清平市場から少し歩き、1999年6月にできたばかりの地下鉄(中国では地鉄と呼ぶ)に黄沙駅から乗る。大体1回の乗車で5〜6元である。ほとんど紙幣しか流通していない中国なのだが、地下鉄に乗るには硬貨が必要であり、両替所で両替してもらう。ホームに降りると、香港に戻ってきたのかと錯覚するほど、駅の中は香港のメトロと同じ作りをしていた。車両のデザインも香港のものとそっくりだが、香港の電車が英国メトロキャメル製であるのに対し、廣州の電車はドイツのジーメンス社製である。ドイツの会社にわざわざ英国風の車両設計で作らせたのであろう。かつて「自力更生」を唱えたはずの中国が、今はかつての植民地香港をモデルにして「社会主義市場経済」をすすめていることを象徴するような地下鉄であった。ただ香港と違うのは、乗客が非常に少ないことだ。スーツ姿の人が多く、先程清平市場で見たような中国の庶民は殆ど見られなかった。電車の本数も10分に1本程度と余り多くなく、広告の掲示板にも空きが多い。ガイドさんの話では、地元の人は地下鉄の料金が高いため、少し時間はかかっても縦横に走っている市バス(1回1元)を利用するという。なるほど、空いているわけが分かった。しかし、この地下鉄は、時速160km運転を誇る香港行きや深セン行き直通急行が数多く発着する廣州東駅と廣州市街の主な部分とを直結していて、ビジネスマンには便利である。この地下鉄の性格が、ここからよくわかる。
地下鉄の「講習所」駅をおり、農民運動講習所を視察する。講習所の面する中山路は廣州のメインストリートである。古代都市以来の伝統なのか、中国の都市の中心部は街路が縦横にはりめぐらされ、整然としている。講習所は共産党が創設した農民運動の指導者養成施設である。思想教育・軍事訓練・農業指導などが行われ、反資本主義・反封建主義・反帝国主義の下、共産党による中華人民共和国建国にいたる中国革命達成に対して大きな成果があったとされる。ソ連から教官が派遣され、毛沢東も教鞭をとっていた。毛沢東の担当科目は、革命理論なのかと思ったら、なんと地理学だった。人民公社は、毛沢東の地理学思想研究から産まれ出たのだろうか……? 講習所内には、当時使っていた宿舎の簡素な様子、中国革命に貢献した講習所卒の人物の顔写真などが展示されていた。
毛沢東は終生農民の力によって中国革命の達成・国家の発展がなされると考えていた。 つまり中国共産党は、農民こそが革命の主体であると同時に農業を国家発展の核と捉えていたのである。後に人民公社が成立されたときにも、この考え方が応用されたわけだ。
一方ソ連のマルクス=レーニン主義による革命理論は、少数精鋭主義による職業革命家の組織を重要視し、上からの工業化、即ち共産党幹部による計画経済の下、工業化による国家発展を目指していた。講習所では、農民の力を第一義におく毛沢東のアイデアを視覚的に確認することができた。
しかし、この中国共産党の運動が決して容易なものでなかったことは、そのそばにある、廣州起義烈士陵園が物語っていた。1927年、12月、共産党は廣州を3日間武力占領した後、軍閥や国民党、列強諸国などによって殲滅された。この陵園は、この廣州起義事件を記念するものである。廣州の小学生は、中国革命の歴史を学ぶため、必ずここに遠足にくるらしい。
陵園を出て、中山路を中心とした広州の中心市街を横目に見ながらバンは市街地をすすんだ。中国の都市は古代都市以来の伝統からか、都市の中心部は街路が縦横に張り巡らされ、整然としている印象を受けた。新しいオフィスビルやホテルなどが、盛んに建築されている。
着いたところが、石室教堂(Sacred Heart Church)だった。ここには第2次阿片戦争以前、清朝が広東・広西両省を統治する両広総督府の建物があり、林則徐もここで執務していた。ところがこれが英仏軍により破壊され、その後まさにその跡地の上に1888年フランスがこの教会を建設したのである。パリで設計されたゴシック様式の建物だ。中国的な小規模な商店の並ぶ建造環境において、巨大な石造りの教会は異質な、街並みから浮いている感じがする。現在は日曜礼拝の時間以外は入ることができず、我々も外観のみの見学となった。
ヨーロッパ列強を中心とする世界の一体化は、工業中心のヨーロッパと、ヨーロッパ製品の原料供給地・製品市場としての植民地地域の間に垂直分業を生み出す一方、この過程でヨーロッパの白人達の内面に、ヨーロッパの英知・文明・キリスト教に対するその他の地域の無知・野蛮・異教を対置する差別意識が根を下ろしていった。かつての清朝において重要な建造物の真上にあえてヨーロッパのシンボルであるキリスト教の教会を建設するフランスのメンタリティは、この意識を象徴して余りある。もっとも英国の植民地都市構築は、沙面のように旧市街から離れたところで行われ、余り原住民と対立しないような配慮がなされていた。このように、両国の植民地都市に対するメンタリティは、地理的にはっきりと現れていた。
現在の中国では、キリスト教を含むあらゆる宗教を潜在的な反政府勢力と位置付けているため、キリスト教も国家公認の「中国キリスト教協会」傘下の協会にしか布教が認められていない。キリスト教団体が革命前に作ったミッションスクールも、「教育権回収運動」を経てすべて閉鎖された。このように制限的な状況であるからか、そしてキリスト教がフランスから「押し付けられた」ものであるからか、廣州の人々の心にキリスト教は浸透していないようである。
中国におけるキリスト教布教の始まりは明代の1583年、イエズス会士のマテオ・リッチによるが、当時は東方への布教という純粋な宗教的動機により布教が行われていた。しかし、阿片戦争後、キリスト教布教は植民地主義・帝国主義と庇護と協力という形で結びつくようになった。このことを考えれば、革命後の中国政府がキリスト教に対し厳しい政策を取ったことは、十分理解できる。
中国が半植民地化されてゆく過程で、まず、列強が宣教師に外交上の保護を与えるようになった。具体的には「不平等条約」を中国に強要した際、そこに宗教上の寛容が含まれたことを指す。第2次阿片戦争後の北京条約では、キリスト教布教の自由、内地旅行権の自由が条項に含まれ、宣教師は列強の保護下に開かれることになった。一方列強側は植民地進出に際し、キリスト教布教を植民地支配の正当化に利用した。
キリスト教によって植民地の人々の心を捉えようとしたばかりか、当時西洋に広まっていた「社会ダーウィニズム」を植民地支配に利用し、西洋のより「進化」した文化・思想のひとつとしてキリスト教をより「進化」の遅れた中国に浸透させることが彼らの使命としたわけだ。更に地理的に見ると、キリスト教教会が既成の都市の中心で、現地の行政・支配機構のあった空間に建造環境を求めたことは、政治・経済的にだけでなく、文化的・精神的領域にまで従属的な支配を及ぼそうというメッセージを孕んだ都市空間の象徴としての役割を持っていた、とも考えられる。(参考文献:J.Tエリス他『キリスト教史10 現代世界とキリスト教の発展』 平凡社,1997年,p451〜480)
石室教会を後にし、越秀公園(廣州市博物館・五羊像)に到着した。博物館の元の建物は「鎮海楼」といい、それは城壁の覆う町全体を見下ろせる高台の上に立地して、中山路を中心とする旧市街の核であった。ただし、19世紀以後は、阿片戦争後の沙面の租界地やその並びにある英国が管理した税関がある珠江沿いの地区に都市の中心は移動し、さらに中国革命後は北京路へと、町の中核は移行していった。現在では、地下鉄の終点で香港や深セン行き急行の始発駅となっている廣州東駅そばの天河が副都心の役目を果たしている。このように、博物館には、廣州が中国にとっての海の窓口であったこと、とりわけ明以後のヨーロッパ人の来航、広東13行の特許商人たちが活動した清朝における唯一の港であったことなどを反映した、中国各王朝ごとの興味深い展示が多くあった。また、革命後は香港に逃れた嶺南大学や真光女子中学(True Light Girls' College)などをはじめとするミッションスクールの伝統が廣州にあったこと、1921年の都市計画が当時としては画期的な第3セクター形式であったこと、広東13行(factories)と類似のものがかつてわが国の平戸にもあったこと、鉄道の敷設権を巡る株の投機があったこと、など、列強の主導のもとで資本主義の都市空間として廣州が生産されてゆく第2次大戦までの過程をかなり客観的に詳しく説明した展示も、目をひくものだった。
五羊山では、廣州市のシンボルとなっている彫像を見た。この像の由来は太古に廣州が飢饉にみまわれたとき、仙人が2度とこのような災害が訪れないよう、五匹の羊を遣わしたという伝説をもとにしたものである。羊と最近中国に頻発している水害防止との関係はあるのだろうか?
最後に、三元里抗英記念碑を視察した。この記念碑は1841年5月、地元中国人が侵略した英国軍200名をナイフなどの原始的な武器によって殲滅したことを記念したものであり、反帝国主義・反植民地主義に対する抵抗のシンボルとなっていた。
以上で廣州の巡検を終えた我々は、再び専用バンに乗り込み、廣州白雲空港に到着する。この空港は、中国国内便にとっての重要なハブ空港のひとつであるにもかかわらず、香港国際空港と比べると格段に施設設備が不充分な印象だ。国内線というのに搭乗する際パスポートのチェックがあって面倒な上、どのゲートから飛行機が出るのか全く表示がない。雷雨のためわれわれの昆明行き中国南方航空のフライトはしばらく出発を見合わせていたが、結局雨がやむのを待ちきれずにに離陸した。雷雲の中を突っ切って機は上昇し続け、窓からは小さな稲光りがみえて、ひやひやした。雲の切れ間から、珠江デルタ一帯を俯瞰することができ、見渡す限りの田園の中を蛇のように這っている川の様子は、中国のスケールの大きさと、治水も含めた農業の重要性を改めて感じさせるものだった。
機内では国内線というのに暖かい機内食が供され、サービスは悪くなかった。約2時間半後、無事昆明に到着した。さすがに海抜1800mの高地ということもあり、それまでの沿海部の空気とは質が違う。冷気を帯びた空気は肌寒さすら感じた。中国は全国どこに行っても時差がないため、約800kmも西に移動したにもかかわらず、時計の針を調整する必要がない。夜の7時にしては明るい昆明の夜だった。
9月1日(水) 昆明
巡検も5日目。次第に中国の空気にも馴れてきた。昆明は標高が高く、朝ホテルから出てみると、Tシャツ一枚では肌寒いほどの陽気であった。本日の予定はまず市内から180kmほど離れた石林へ向かい、再び市内へ戻る途中七星村で農民に暮らし振りをインタビューし、市内へ戻り民族学院で教授から中国の少数民族の現状を聞く。
市内から、昆明郊外へと向かう。次第に景観が山がちになり、水田やとうもろこし畑が見える。道のはるか上の山の急斜面にはベトナムのハノイに通ずる鉄道が走っている。「よくもまあこんなところに作ったものだ」と思わず口にしてしまう程山の高い部分を削って敷設されたこの鉄道は、かつてフランスが列強との植民地獲得競争の中で勢力圏を拡大するため、また希少金属の獲得のため敷設したものである。道中途中下車し、中国での朝食の定番となった坦々麺のようなものを食べる。これは米の麺(ビーフンと言ってもスパゲティくらいの太さがある)か小麦の麺か選ぶことができ、大抵は豆板醤でいためたひき肉と子葱が乗せてある。一杯2元から3元と安い。
昆明市内から車で約2時間半、石林に到着した。石林はカルスト地形が美しい観光地である。
興味を引かれたのは、文革期に江青が訪れる際、彼女を称えて「梅の花のように美しい」という詩が刻まれていたが、四人組追放のときにセメントで塗りつぶされ、その後雨などではげてしまったものがあったことだった。北京から遠く離れた石林においても、中国の激しい思想的変動と権力抗争のすさまじさを象徴するような中央政府当局の政治的意思が建造物に反映していたことは、共産党の全国支配が強い統制力を持っていたこと、またその支配が多分にイデオロギー的なものであったことを感じさせた。
石林から車で約30分、七星村という農村で、農家の方から直接話を聞くことができた。七星村は700戸、人口約2000人の漢民族の村で、周りを低い土壁が囲んでいる。最近農民からの寄付、政府からの助成金で水道を整備したという。これを記念した碑が建てられており、100元以上寄付した農民の名前が記してあった。七星村の中には商店や小学校、病院、人民公社時代に建てられた脱穀所などがある。土壁の家々の多くは鍵がかかっており、どうやら皆農作業に出かけているようだ。途中突然現れた少数民族の人達が、手作りの刺繍を施した鞄を手に、日本語を使いながらついてくる。結局彼女達の熱心さと、少数民族の生活に貢献しようという思いとで、めいめいが鞄を買うことになった。
ある一軒の農家にお邪魔して、お話を伺うことになった。
このお宅ではタバコ、とうもろこし、米、小麦などを作っており、約1haの耕地を持っている。七星村の中でも積極経営のようで、離農して近くの街で建設作業など肉体労働をしている別の家族から、土地を借りて耕作している。村の中ではやや裕福な家ということだが、家の中の様子は床が土間になっており、煙草の葉が山積みにされていて、電化製品はテレビくらいだった。中国が巨大な人口を有しているにしては、近年農村の消費需要が低迷し、これが現在の中国経済に不況の原因の一つをつくりだしていることが、現実に見て取れる。人民公社解体以降はそれぞれの土地を家族で耕すようになったそうだ。作物の中でもタバコが主な現金収入源になっており、買い手側(国営のタバコ会社)が買い付けに来るか、自由市場へ売りに行くかのどちらかである。
生活は人民公社解体以降、それより前に比べると楽になったし、年間約4,000元の収入(肥料代などを含む)は、中国の平均的な農家の収入より多いほうというが、それでもまだ満足できる水準ではないらしい。しかし深センなどの沿海部に出稼ぎに行くことは殆どありえないし、そうしたくないと言うのである。なぜであろうか。
まず、過去に1人深センに出稼ぎに行った人がいたが、帰ってきてしまった,という失敗例があることだ。実際に近くの工場などでの仕事は、習慣の差異などから来る摩擦があり定着しないという。このケースを恐れる親達は、都会への憧れをたとえ若者が持っていたとしても、騙されることを恐れて都会へ出ることを許さない。全くこちらが驚くほどの強い口調で(と行っても中国の人は基本的に口調が荒かったが)都会への不信感と嫌悪を表していた。都会へ出て、行方不明になったとしても、捜索を依頼するのに2,000〜6,000元ほどの賄賂を出さないと捜索してくれないから、危険を侵してまで都会へ出て稼ぐよりもこの村の中で、顔見知りの中で農家を続けるほうが安全でよい、と考えているのだ。また、結婚も農家同士でなされるため、都会の情報や出稼ぎについての情報が入ってくる機会がない。
農作業で収入を増やすことも難しいようだ。七星村では年間一人あたり60kgの小麦を納めればよく、それほど重税ではないが、それは土地が痩せているためだという。他に作っている野菜や米は自給用で、自由市場で売ってもあまり高く売れないそうだ。タバコだけが現金収入源になったが、かつて使用していた外国製(日本製)の肥料は、国営企業保護と景気低迷に伴う輸入抑制のため使えなくなり、また投資銀行は貯金した分しか融資してくれないため、投資資金を得ることができず、生産性をあげるための農機具を買うこともできない。更に、殆どが金銭的な問題から中学までで学校を終える。(高校へ行くには週に20〜30元かかる。しかも先生のレベルが低く、昆明の学校へ通わねば大学に行くことができない)農業技術を得るための高等教育を受け、農民にフィードバックすることによって生産性を上げるという道も険しい。
更に、石林の中継地として村を観光客に開放することも考えられるが、七星村自体が、中国の他の農村と何ら差別化された観光客をひきつける観光資源を持っていないことや、石林から車で30分という距離からも、現実的には難しそうだ。
現在の非農業的な雇用形態としては、昆明市内の建設現場に出稼ぎに出る場合があるというが、ほぼそれに限られているのであろう。村の外に、縫製の学校に生徒を募集するはがれかけたポスターがあったが、これがこの村の人々を非農業の雇用機会に導くものかどうかはわからなかった。
一人っ子政策が効を奏し、人口増加が要因となって七星村の人々が都市に押し出されることもなく、これ以上経済的に豊かになるための道は八方塞がりのような気がした。中国には、改革・解放による工業化の波から取り残され、このような「安定的」状態にある農村が数多くあるに違いない。その意味で、われわれは、極めて平均的な中国の一端を見たのだと思う。だが、これでは、農村部に潜在的にある莫大な消費需要は現実に顕在化せず、中国経済も現在の不況から脱出できないだろう。だが、質問に答えてくれたおばさん達の明るい笑い声を聞くと、現状の「安定」でもよいのではないかという気さえしてくる。一人っ子政策によってかなり強圧的に人口制限がなされているからこそ、現在の収入で生活が「安定」している、と言うこともできる。村にも大きな字で宣伝してあった一人っ子政策は、広大な中国農村部における潜在的危機の爆発を防ぐ決定的な役割を果たしている。しかし、それは同時に、今の中国マクロ経済における有効需要を過少にし、経済危機をつくりだしているのだ。このジレンマを、われわれは一見した農村の「安定」のなかに読み取ることができる。
快く私達を迎えてくれ、栗や水タバコ(フィルターの代わりに水を用いる。大きな竹筒のような形)を進めてくれた二人に御礼をして、記念撮影をして七星村を去った。
再びバンに乗り、途中の街の道路沿いのレストランで、雲南省名物の鴨料理を食べた。雲南の鴨料理は、北京ダックと違って、皮だけでなく身も食べるのが特徴だ。大変美味で、私たちは残さず平らげた。これをみてガイドさんは驚き、「まだ足りないですか」と言った。周りのテーブルでは皆食べ物を残したまま席を立っていて、残すことが当たり前のような感じである。日本と違って、出されたものを全部食べてしまうのは、中国では失礼なことらしい。値段は大変安く、5人でたらふく食べてたった100元だった。
約二時間で昆明市内に入る。沿道には、深セン周辺のような工場進出は全く見られなかった。改革・開放のすすんだ沿岸部と、内陸部との大きな格差を実感させられる。七星村の周辺に、非農業の雇用機会が極端に乏しい事が分かる。また、昆明は、確かに七星村から働きに出るには遠すぎる距離である。
次の訪問場所、雲南民族学院に到着した。民族学院は少数民族について学ぶ大学である。ここ昆明に民族学院という大学があることは、雲南省が22の少数民族を抱えているためで、中国政府としては民族学院を作ることによって少数民族の文化・習慣の保護を支持し、発展させようとしていることを示すためであろう。大学の入試はそれほど厳しくなく、更に少数民族が優先的に入学できるそうだ。学生の約3分の1が少数民族で、3分の2が漢民族だ。日本からも九州大学の学生が留学しているという。
驚いたことに民族学院のほうからも日本語通訳の人が待っていた。彼は日本の大学でいう留学生課の職員さんであり、ということは日本からの留学生が多いということなのだろうか。
私達に少数民族の現状について話してくださったのはタイ族の刀先生である。少数民族、特にタイ族について話しをうかがった。
タイ族は雲南省の主要な少数民族のひとつで、2つのタイ族自治州、7つの県、22の郷が1953年にできた。首長はタイ族の人でなければならない。
教育については村ごとに小・中学校があり、小学校2,3年までは少数民族の言語を用い、その後は漢語の統一教科書を用い、漢語の授業が行われる。タイ族の人々は基本的には小学校に通うことは普及しているが、昆明などの都市に比べ、先生のレベル・施設ともやや劣ることは否定できない。また自治州では夜間学校も開設されており、日中農作業をした大人が、読み書きを習うこともある。さらに、時々共産党のグループが派遣され、政治について教えることもある。高校は県単位で数校ある。大学進学の際には、少数民族に優遇措置があり、中国統一試験では得点に無条件で30点加算される。また、例えば北京大学の入試の場合には、統一試験で700点が最低ラインなのだが、少数民族の場合には630点に最低ラインが下げられるなど、大学によって多少ちがいがある。大学進学した少数民族の多くは、卒業後Uターンし、自治区の役所などに勤めることが多い。
次に少数民族の言語について、日常生活で使うのは民族語で、子供達も学校で漢語を習い、ほぼバイリンガルのレベルまで話すことができても、漢語の流入は外来語として単語レベルでしか使われない。市場経済化が進む中で漢語を使用するほうが有利なのではないか,という問いに対しては、村には昔ながらの生活習慣、風俗が残っており、生活言語として使われているので、漢族とのコミュニケーションのために漢語を使うことはあっても、民族語が漢語によって駆逐されることはないという答えが返ってきた。言語が民族・個人のアイデンティティに関わるからだろう。また、タイ族の言葉はタイ王国の人の言葉と文字は異なる(タイ族の中でも地区によって異なる)が、音声としては似ており、双方の言語で話しても意思の疎通ができる。
中国外にいるタイ族の人々との交流については、タイ族の人の住むシーサンパンナ(雲南省の端、中国の55の少数民族のうち22が集まっている、中国・ビルマ(ミャンマー)・ベトナムと国境付近の地区)とタイ・ラオスとの間には協定が結ばれており、通行証明があれば、パスポートなしで行き来が可能である。この行き来は改革・開放後に正式に認められた。特に、ミャンマーとの行き来が認められたのは1980年代に胡燿邦がシーサンパンナを訪れた後だった)国境付近に住む人は個人経営の零細貿易会社を営んでいる人もいるという。
このように改革・開放によって比較的自由に往来することが可能になり、タイ王国をはじめとする外国のタイ族との交流が深まることによって、タイ族全体としての共同体意識が高まり、自立の意識が高まるのではないかと考えることもできる。そもそも、もと雲南省に住んでいたタイ族が次第に南下し、チャオプラヤ川流域の平野部にいたクメール人を追い払って建国したのが今のタイ王国である。雲南省のタイ族は、タイ王国のタイ人の源流なのである。刀教授自身も、バンコクのチユラロンコン大学に留学した経験があるが、言葉の心配はいらなかったという。このような、国境を越えたタイ族の合同の可能性についての質問に対し、刀教授は、改革開放以前から実際には「開放」しており、相互の交流によって共同体意識は高まっても、それはあくまでも中国という国の統治から独立しようというものではないと述べた。「国の政策によって少数民族は保護されているため、中国政府に対する反発は生まれるわけがない。政府は自治区を迫害することなく管理してきた。国が発展していけば、民族が強くなる。」と答えた刀教授も、通訳の方も、私達の質問に苦笑していた。民族学院という国の教育機関の教授として、国に対する反発的な発言は立場上できない。このため、中国の統治に満足しているということを必要以上に強調しているように私達には思えた。
最後に今後のタイ族の経済的展望であるが、タイ王国との交流が容易になったこと、また言葉が通じるというメリットがあることから、タイ王国とのリージョナルな交易がさらに発展していくことは考えられる。現在は北京や昆明などでタイ料理のレストランやホテルを経営している人もいる。このような観光客相手のサービス業は今後、雲南省から、ビルマ(ミャンマー)とラオスとの国境をなすメコン川経由で陸路タイに入国するルートが一般観光客にも開放されると、シーサンパンナ内での営業もますます増えるのではないだろうか。
現在は政府・銀行からの融資が小額に限られているため、なかなかタイ族の人が個人で起業できるほど資金がない,という問題もあるのだが、銀行機能の整備など、何らかの形で資本調達が可能ならば、タイ族独自の企業も現れ始める可能性もある。
中国という共産党一党支配の国の中で、なかなか率直な教授自身の考えを聞くことができなかったのは残念だったが、ゆっくりと言葉を選びながら私達の質問に答える姿からは、少数民族に限らず中国全体にまだ自由に発言できる空気は広がっていないことを感じさせるものだった。
今日の夕食は民族学院でも話題になったシーサンパンナの料理を食べに行くことになった。ホテルの前にあるバスターミナルから市バスに乗る。一元払い、発車すると車内の電気が消えた。省エネのためなのだろうが、日本のバスに慣れている筆者には少し怖かった。バスを降りて、少し昆明の街を歩いた。街の雰囲気は、廣州と比べて落ち着いているが、真新しい高層ビルが交差点に立ち並んでおり、新しい昆明の中心部として発展しつつあることが感じられる。
シーサンパンナ料理のレストランは、こうした新しい都市中心の裏にあった。日本には、シーサンパンナに日本人のルーツがある、という学説を唱えている地理学者がいるという。それは、シーサンパンナの食文化が日本の信州の食文化に酷似していており、また和服の原型と見ることのできるような民族衣装、日本の新嘗祭や大嘗祭に類似する儀式などがある、ということらしい。実際出てきた料理には、赤米(パイナップル味だったが)や野沢菜のような漬物など確かに似ているものはあった。しかし何より私達を驚愕させたのは、"辛さ"だった。魚を食べても、肉を食べても何を食べても辛い。唐辛子の赤い色をしていなくても辛い。筆者自身はそれほど苦にならなかったのだが、後にお腹を壊した巡検参加者達は、「絶対"シーサンパンナ"のせいだ!」と確信に満ちた口調であった。
恐るべし、シーサンパンナ。昆明の第1日目の夜は強烈な辛さと共に更けていったのである。
9月2日(木)昆明
朝7時。時間の節約のために朝食を買出しに出た。なんとなくまだ薄暗く、そして肌寒い。ホテルの周りを歩いていると、通勤・通学の人々が自転車で走っている。道によっては自転車が一車線を占領している程の数の多さだ。また、子供を後ろに乗せたオートバイも多い。ガイドさんによると、最近は昆明も治安が悪く、子供の誘拐事件が多く発生しているため、学校まで親が送っていくのだという。肝心の朝食は時間が早すぎたのか適当なものが見つからず、後で件の麺を食べることになった。
今日は、雲南民族村の見学と雲南省博物館の見学、更に旧フランス人居住区の見学を予定している。
専用バンに乗り込み、まず民族村へ到着した。民族村は少数民族の生活を、民族ごと再現して観光客に見せるテーマパークだ。到着とほぼ同時に開園し、色とりどりの民族衣装を着た人達が音楽に合わせて踊り出す会場式典が始まった。入園料は45元で、地元の中国人が始終見にこられるような価格ではない。入り口にさまざまな種類の民族衣装を着た女性が立っている。彼女達はガイドをするのだ。中に入ると、よく動物園にあるトロッコバスのようなバスが待っていて、観光客を運ぶ仕組みだ。ガイドブックの『lonely planet』に"human zoo"と書いてあったが、然り、である。
民族村の中はそれぞれの民族ごとに分かれており、住居が再現され、パネル等が飾られ、また民族衣装や工芸品などの土産物を売っていた。少数民族の人々が自らを、また彼らの文化を商品として観光客に売る、という悲しい現実だ。それでも、少数民族の人々が作った土産物を観光客が買えば、それぞれの土地にいる少数民族に経済的に貢献し、かつ伝統技能の継承も果たせる……と思ったのだが、ガイドさんの話ではデザインだけ少数民族の村落から取ってきて昆明市内の工場で売り物を大量生産しているという。確かに山岳地帯に住む少数民族たちの村から、昆明に商品を輸送するのは難しくコストがかかって儲からない。更に、売上は少数民族の村には全く還元されないということだ。となると、この民族村は、少数民族の生活様式や文化をそれなりに紹介してはいるし、そこにいる民族衣装を着た人は実際その少数民族の人なのだが、収益は単にそこで働いている人々や民族村の運営側(国が経営に参加している会社)の利益にしかならないことになる。要するに、少数民族の文化を商売の材料に利用しているだけなのだ。
動物園で動物を見る代わりに人間を見て、目があってしまい気まずい思いをするような、民族村に対し本末転倒な印象を受け、民族村を離れた。
また民族村から次の目的地へいく途中にレースコースがあった。民族村周辺は娯楽地区として開発の意向があるらしい。ガイドさんの話では、共産党幹部、縁戚者が経営幹部になることが多いと言うことだ。これが、「社会主義市場経済」の一つの現実だろう。
次に訪れたのは、雲南省博物館である。この建物はロシア人の設計でスターリン様式のものである。建物の上のタワーの頂点には共産党のシンボルである赤い星がついていて、またタワーの下には赤旗がたっているのが特徴的だ。スターリン様式の建物は、東欧のチェコやポーランドなど、ソ連の影響の及んでいた諸国に広く共通に見られる建築様式で、中国では北京の北京放送局や物産館の建物も、スターリン様式の代表的な建物となっている。近くの旧市街にある雲南芸術学院の建物もスターリン様式だった。中国も、1958年以前はソ連から技術的・経済的に援助を受けていたが、ソ連が西側との平和共存路線を打ち出したため、中ソ論争が起こり、年にはソ連の援助は停止された。
博物館の中には主に、国賓からの贈り物とその時の記念写真などが展示されていた。
展示の中には毛沢東と第三世界のリーダー達が共に写っている写真があった。毛沢東は中国国内で権力の周辺をなしている農民を基盤とするの革命戦略をとったように、国外においては西側、つまり欧米という先進・資本主義国の影響を受けず、第3世界という周辺をなす国々を基盤とし、中国がこれを指導して団結し一つの革命的な政治勢力を保っていくことを理想とした。この毛沢東の思想に共鳴した第三世界のリーダー達が写っているわけだが、よく見ると所々背景が黒くぼかしてある。これは、後に毛沢東の思想に共鳴しなくなった人達が写真から抹殺されているためだ。歴史的な資料が政治的意図から捏造されてしまう恐ろしさ、中国における政治権力の強さを見た気がした。
別の部屋には、雲南省の少数民族の展示があり、それぞれの民族の写真パネルや、生活用具、民族衣装、楽器などが展示されていた。
博物館の見学を終えた後、私達は徒歩で10分程の旧フランス人居住区を視察した。ここはかつて中国の半植民地化を巡る競争の際にベトナムから北上して鉄道を敷設したフランス人たちの居住区だった。石林に行く途中でみた鉄道がこれである。ハノイと昆明を結ぶ鉄道は、1910年開通に成功した。競争相手だったイギリスもまた英領植民地ビルマの旧王都マンダレーから中国に向けて鉄道建設を開始したが、途中険しい山岳に阻まれビルマのラシオで鉄道建設を断念せざるを得なかった。こうして中国雲南省は、ハノイを中心とするフランスのアジア支配の後背地に取り込まれたのである。今フランス人は住んでおらず、縦長の窓が観音開きである建築様式などに、わずかにフランス人居住区であったことの面影が感じられた。
このフランス人居住区や雲南省博物館のあった所が旧市街であり、現在は昔の面影を残しながら、煉瓦造りの古い建物が壊され、新しく煉瓦風の外壁をしたビルが建つようなジェントリフィケーションが進んでいる。現在の市街は昨日シーサンパンナ料理を食べた、レストランのそばの地区に移ってきている。
建設中のビルの壁には「写字楼」という販売宣伝の看板がかかっていた。これは観塘でも見たように香港で使われる広東語の言い方で、officeを意味する。本来の中国語なら「辨公室」と書くはずで、廣州の地下鉄同様、香港が近代化の象徴たる機能を持って中国内地に定着している様子が現れているようだ。
以上で昆明の見学を終え、預けていた荷物をホテルで受け取った私達は、昆明北駅でバンを降りた。昆明北駅は、国際列車が発車する駅にしては、思いのほか小さく、しかも古い。の入り口には、「尋ね人」のビラが何枚かはってあり、その殆どが5歳以下の男の子だった。ハノイ行きの国際列車が週に2本走っているのだが、今日は走っていない日であるため、私達も国境の河口駅止まりの夜行急行列車に乗る。駅の待合室は揃いの鞄を持った団体旅行客らしい中国人や、故郷に帰るらしい大きな荷物をたくさん持った人が多く、外国人は殆ど見当たらない。国際列車以外には軟臥車(soft sleeper)は付いていないので、私達は硬臥車に乗ることになった。列車に乗る前に、改札口で切ってもらった切符を車掌に渡し、代わりにプラスチック製の座席番号のかかれた札をもらった。この様にして乗客の確認を取っているのだろう。
硬臥車は2段に分かれていた簡易ベッドがついていて、4つのベッドで1ブロックになっていた。エアコンはついていない。硬臥といっても木でできているわけではなく、ちょうど病院の診察台のような硬さと広さのベッドだ。シーツや布団、タオルが用意されているし、車両ごとに洗面台やトイレもあり、食堂車も連結されている。なかなかの乗り心地だった。
河口に向かう鉄道は、今では中国国鉄の運営だが、中国で一般的な標準軌ではなく、東南アジアと同じゲージ1mの狭軌である。カンボジアで鉄道がつながれば、バンコクを経由し昆明とシンガポールが鉄道で直結することになる。列強が中国に鉄道を競って建設したとき、ロシアが建設した旧満州の部分を除けば、すべて標準軌が採用された。しかし、フランスがあえて中国全土と異なり東南アジアと同じゲージをここで採用したというところに、中国の雲南省をハノイを中心とする自らの植民地支配する領域のもとに空間統合しようとした意図が、明確に示されている。
列車は定刻に発車、翌朝7時すぎ国境に到着するまで、480km、17時間の列車の旅が始まった。さっそく売り子のおばさんが、スナック菓子や水を売りに来る。線路は遊園地の汽車のようにたえず曲っていて、小さなディーゼル機関車が牽引する列車の速度はあまり早くない。時速50kmくらいだろうか。車窓からは初め昆明市内の街並みが見えていたが、次第に展望のすばらしい山の上を走るようになり、石林に行くときに走った道路がはるか下に見えるようになってきた。しばらくすると流れの殆どない広い川沿いを走るようになった。この川はなんと、虎門で南シナ海に注ぐ珠江の源流である。中国大陸の広さを実感する。先日の大雨で増水して、茶色く濁った水だった。所々にダムがあり、水力発電が行われていた。水量は豊富だが落差は小さく、あまり効率的な発電所のようには見えなかった。どのような狭い範囲でも自前の資源を持とうとする人民公社の影響だろうか。幾つかは工事中のものもあった。
夕方食堂車で食事をした。 メニューは決まっていて、ご飯、スープ、ゆで卵、肉じゃがのようなもの、ピーマン、野菜の茎、鶏肉などが入った炒め物が一つのトレイに盛られて給仕された。少し油っこいがボリュームたっぷりで、20元だった。スプライトやビールも売っていたが、ここのスプライトを買って飲んだメンバーの1人は、その後、腹を壊してしまった。
食事後、再び車窓からの景色に見入る。車窓からの景色はまばらな住居は見えるが、木々に覆われた山間部の渓谷へと変化していった。線路は相変わらず珠江源流に沿って山肌に貼りついたように続いており、急カーブやトンネルが続く。また線路が一部災害で被害を受け、応急修理されたあとがあるところもあった。われわれの列車も、途中でかなり長い間停車した。
(2年 小澤真紀)