98年夏のカナダ:バンクーバーと極北地方巡検の報告

一橋大学経済学部水岡ゼミでは、1998年9月5日から12日までの8日間、カナダの都市地理と極北地域の先住民イヌイットが抱える社会経済地理的な問題を実地に勉強するため、バンクーバー、イエローナイフ、イヌビク、ツクトヤクツクという4つの場所に行きました。

同じカナダでも、バンクーバーという大都市と、先住民が多く生活している極北地域では、一見するとまったく別々の社会過程が営まれているように思われますが、実はその両者を、国民国家カナダという同質的な空間にかかわる普遍的な社会諸関係が蔽っています。私たちは、この全体としての空間と個別的な場所との連関をカナダについて見い出し、このことををつうじて、主体と空間との結合のありさまをとらえなおすことによって、ゼミや講義で勉強した地理学のコンセプトを現実において理解しようと試みました。

※ゼミの巡検では、現地集合、現地解散が原則です(^^;
今回は、9月5日までにバンクーバーの宿となるB&Bに集合し、12日にイヌビクで解散となりました。巡検の前後に、ロサンゼルス、サンディエゴ、ティフアナ、ヨセミテ国立公園、ニューヨークなど個人旅行を楽しんだゼミテンもいます。

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空間、場所、そして主体のジレンマ
―カナダ極北部イヌイットと、バンクーバーの思想―

ベーリング海峡を渡って新大陸にやってきたと考えられている、カナダの先住民イヌイット(かつて、白人によって「エスキモー」と呼ばれた)は、長年にわたってノマド的生活様式を維持してきた。ノマド的生活様式は、粗放的な空間の利用を特徴とし、その排他的占有を必要としない。経済基盤は、イヌイットが支配できた広大な生活空間によって支えられた、狩猟採集経済であった。酷寒の極北地方では、農耕は自然地理的に不可能であるから、狩猟と漁労以外に、イヌイットにとって現実的に可能な経済の選択肢はない。この経済的生活様式から、イヌイット固有の、主体と空間との自生的結合が育まれてきた。

 このイヌイットの生活空間に、しだいにヨーロッパ白人の生活空間のフロンティアが広がってきた。まず探検家、そして毛皮商人、さらにキリスト教宣教師。そして最後に英国が、イヌイットと何の協約もなく、一方的にイヌイットの生活空間を無主地とみなして、自己の植民地の版図に強行的に組み込んだ。現在の北西準州の地方には、Mounted Police に象徴される、白人の支配権力が進出し、イヌイットは、知らないうちに、自らの空間の主人から、この支配の空間の中で従属的な場所に縛り付けられた存在に変えられていった。

 白人のフロンティアの拡張は、イヌイット自身が生産するローカルな空間の編成をも変えていった。白人の極北部探検は、イヌイットとのかかわりをとりたてて必要としなかったが、毛皮取引の浸透は、イヌイットの自給経済とは異なる社会組織である市場経済を持ちこんだ。市場経済は、商品交換が決まった時間と場所において行われることを必要とする。イギリス人の経営するノースウエスト会社・ハドソン湾会社は、極北部の各地にtrading postと呼ばれる商取引の拠点を設け、需要と供給は特定の場所・時間において関係付けられた。この新しい空間編成を基盤として極北部にもたらされた経済機会は、イヌイットの一部をもそのための特定の場所に定着させることを促した。このことは、宗教・教育・政治など文化・社会機能を担う白人のフロンティアの進出を容易にした。定着は、白人によって先住民を「啓蒙し文明をもたら」し、白人の生活様式に同化させて行くための手段ともなった。宣教師は、特定の場所に教会を設置し、キリスト教を広め、白人にとって普遍的と考えられた理念を先住民に教育した。そして最後に、Mounted Policeによる政治的な支配そのものが、特定の定着した場所からイヌイットの上にのしかかった。この支配の政治機構にとって、イヌイットは、合衆国のNative Americans同様、「征服した土地の附属物」にすぎなかった。

こうして、白人、とりわけイギリス人の支配は、市場経済として・キリスト教として・そして直接の政治的支配として、イヌイットの空間組織を再編していった。のちになって白人の支配者が自らの原理にしたがって提供するようになった「文明」――学校教育・医療・社会住宅などの公共サービス――とのひきかえに、イヌイットは、ノマド的な空間の充用というイヌイットが伝統的に持ちつづけてきた空間性から疎外されていったのである。いまや、この極北の領域と自生的・主体的に結合しているのは、イヌイットを自らの空間性のもとに包摂しこの場所を統治する白人たちであった。

このように、イギリス人がはじめてイヌイットに対してとった姿勢は、白人への従属的な同化であった。この同化という点において、イヌイットに対する大英帝国の支配の様式は、アジアやアフリカと基本的に変わるところがない。諸州が連合してカナダという連邦を形成し、イギリスから独立した後も、北西準州は、植民地の政治機構のもとにおかれたままであった。支配者が、次第にイギリス本国から、自治権を獲得していったカナダ政府の白人に代わったにすぎない。立法評議会の中に行政評議会があり、総督がオタワの連邦政府から任命される。

自生的な空間性から疎外されたとはいえ、探検家フランクリンが3年間もバフィン島の近くで氷に閉じ込められたことが象徴するように、極北部はイギリス人にとって生活が困難な場所であり、そこに居住して、毛皮など白人に富をもたらし、不等価交換に「応じてくれる」イヌイットは、貴重な存在であった。Trading Postを設置し、そこにヨーロッパの産品を持ち込み、交換する。グローバルな市場経済が成立していないこの時期、この交換に、共通の抽象的人間労働の基準があるはずはない。

一般に、植民地は、すでに先住民が密集して定住している先住民を征服し支配する「征服型」と、人口密度が低い場所に宗主国民が農耕のため入植する「入植型」の2つに分類される。「入植型」植民地の場合、先住民は、入植者が排他的に占有したい空間を非効率的に占拠してきた邪魔者に過ぎない。脱植民地化の時代になると、前者は、先住民がそのまま国の主権者になる形で独立した。アフリカやアジアの多くの旧植民地は、この類型である。後者の類型は、植民地宗主国人(白人)が、宗主国そのものから主権関係を断ち切って、その地域の独自の支配者となる形で独立した。この場合、先住民は白人支配から解放されず、白人入植者との間で生活空間をめぐる闘争が激化し、敵対的な少数民族問題をそのうちに抱え続けた。ニュージーランドにおけるマオリが、後者の典型例である。カナダ極北部もまた、基本的に後者の類型に属するが、異なるところは、気候や土壌が農業に適さないため、白人入植者が入り込めなかったことである。このため、排他的空間への権利を巡る白人と先住民との闘争は、最近まで顕在化しなかった。ここに、カナダ極北部が植民地としてカナダのほかの部分と比べてもつ特異性がある。土地を排他的に占有しないノマド的生活様式のイヌイットは、空間の排他的充用をめぐる葛藤がなかったので、絶滅させられた東部ニューファウンドランドのベトゥック等と異なり、少なくともその存在が、白人によって黙認され、許容されていたのである。

とはいえこのことは、イヌイットが伝統的生活様式を続けうることを意味するものではなかった。貨幣という一般的な等価物をもたらしたイギリスの侵入は、宣教師の布教活動とあいまって、次第にイヌイットを文化的に西欧に同化させていった。名前・言語・食事・居住・衣服その他すべてについて、同化の過程が浸透していった。貨幣経済の浸透は、イヌイットが、伝統的なノマド的生活様式に依拠して経済的・社会的自立を続けることを、ますます困難にしていった。また、貨幣経済の浸透による西欧化が、生活水準の上昇につながる限り、イヌイットたちは、伝統を墨守するよりも、同化の過程を積極的に受け入れ、Native Languageをすててさえ自ら英国流へと生活様式の転換を志向して行く傾向を見せた。

戦後の大英帝国の脱植民地化、そして世界的な、欧州中心主義から多元主義への転換は、こうした状況のもとでイヌイットの生活空間に覆い被さってきたのである。

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ここで、この脱植民地化の過程が、多元主義・環境保護思想の台頭、そして経済活動がより高密度に地表空間を利用するところから生ずる北西準州がもつ資源的価値の増大という、二つの側面と同時並行的に進んだことを認識する必要がある。

この点でわれわれは、カナダで訪れたもう一つの場所、西海岸最大の都市バンクーバーに目を向けねばならなくなる。バンクーバーは、今日のイヌイットのありさまを規定するカナダという空間全体の政治的・社会的思想を示唆する、普遍性を体化した場所である。バンクーバーでイギリス人たちは、大英帝国の最西端に位置する「Lotus Land」として、ヨーロッパやカナダ東海岸では不可能な理想郷建設を試みた。ここに、さらに西からアジアの移民が大量におしよせ、木材や漁業などの一次産品の生産と交易で、都市経済は発展していった。理想郷建設と、経済発展への志向.この2つから、成長志向と環境保護志向という、バンクーバーの都市政治を強く特徴づける、対立する思想が頭をもたげてくる。合衆国の都市と異なり、都市内高速道路をバンクーバーが全く持たず、トロリーバスを中心とした公共交通体系が一応整備されていることは、環境保護志向が強くバンクーバーに根付いていることを物語っている。

しかし、「環境保護志向」という、一見誰にでも受け入れられそうな文言は、実は無色透明ではなく、さまざまの思想的connotationを持ちうる。誰の、どういう環境を守るのか? 「都市環境保護」がアングロサクソン系白人のもとで主張されるとき、この潮流は、ショネシーなど、英国の田園都市の理想にしたがって建設された既存の高級住宅地を、移民してきた香港中国人の風水思想など東洋的な都市環境意識から「護り」、アングロサクソンの都市思想の優越性と現行の都市セグリゲーションの空間編成を維持する保守思想に、容易に転化する。こうした白人の拠点をゾーニングにより排他的に維持する一方で、すでに中国人人口が流出しつつあるダウンタウンでは、そこに「多元主義」の名のもとにチャイナタウンの維持と振興を図り、また、麻薬取引をスラム街 East Hastings Streetの一角に閉じ込める都市政策がとられてきた。バンクーバーで、社会的多元主義という一見進歩的な思想は、不動産市場を媒介とし、空間的多元主義(=セグリゲーション)という保守の思想に転化した。パウエル街に戦前あった日系人街の復興をほとんど行わなかったことで、この「空間的多元主義」を結果的に拒否したカナダ日系人の思想は、この社会と空間・そしてその背景に潜む進歩と保守との連関というパラドクスからすれば、むしろ進歩的であったのかもしれない。East Hastings Streetで運動する活動家は、なにしろ、ジェントリフィケーションに反対し、インナーシティを貧困者がセグリゲートされるスラムのまま残すことを唱えているのである。

この、社会的多元主義と、空間的多元主義との連関こそ、イヌイットに独自の生活空間を付与するさいに働いてきた思想のジレンマである。そしてその先に、サッチャリズムに影響された「地方分権」の思想――独自の空間があればそこで独自の資源を独自に生産的に充用し、経済的自立を図るべきである、とする政策の発想がある。そこで、このジレンマは一層拡大しうる。

いかに「地方分権」が主張され「空間的多元主義」が実行されたところで、カナダが、「第一世界」に属する独立国としてひとつの政治空間をなし、分権化・多元化された空間の層の上位を蔽っていることにかわりはない。この空間には、「第一世界」として、教育・医療などの公共サービスが、先進資本主義国としての共通な空間において平等かつ均等に提供されねばならないとする、シビル・ミニマムの思想が存在する。このことは、南部諸州と全く異なる厳しい気候をもつ厳冬期のツクトヤクツクにおいて、外気が零下40度の時、学校の校舎をプラス20度に保つことを意味する。あるいは、定住的生活様式に転化しながら、遠隔のため定着的な雇用機会にアクセスしがたい大量のイヌイットの失業者に、生活保護を与えることを意味する。この思想が、カナダの中央政府に多大の財政支出を結果することは、いうまでもない。そしてこのために、オタワの政府からの多額の所得移転がなされている。

イヌイットの生活領域が、カナダの一部として、しかも準州としてとどまる限り、この所得移転は保障される。だが、イヌイットの領域が独立ないし正規の州(province)としての資格を獲得し、この所得移転がなくなれば、他の所得機会を自ら見出さない限り、イヌイットの地域は文字通りの貧困に苛まれた「第三世界」となってしまうであろう。イエローナイフでわれわれに話をしてくれた、英スコットランド出身という準州事務局長は、それゆえに、北西準州は、正規の州に昇格すべきでない、と語ってくれた。空間における均等性の要求は、明らかに、社会的多元主義という思想の実現を、阻んでいる。バンクーバーにおける空間と社会とのあいだに多元主義思想がはらむジレンマは、姿を変えて北西準州にも表明されているのである。

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ここから、白人統治のもとでのイヌイットの「自立」という思想がいったい何を意味するものなのか、新たな問題が見えてくる。

まず、イヌイットたちにとって、ノマド的な生活様式から定住的生活様式への移行の過程は、自生的なものではなく、植民地化の過程・すなわちイギリスを中心とする経済・社会に自己が他律的に包摂される過程であったことを、忘れないでおこう。イヌイットたちにとって、定住的生活様式による「経済的・社会的自立」とはいかなるものか、そこにはまったく経験が存在しない。仮に、定住による経済的自立に関して何らかの方法が見出されたとしても(そして、イヌイットたちは、自らある程度それを努力して見出そうとしているのであるが)、それが、かつての採集・漁労経済に基づく伝統的な生活様式と全く異質のものであることは、まちがいない。仮に、異質とはいえそこに新しい生産と生活の様式が見出され、十分に経済成長を遂げ得た場合には、はじめてそこに経済的自立とそれに基づく真の分権の可能性が生じ得よう。新興「第三世界」国家の建設さえ、アジェンダにのぼり得よう。だがそれは、別の見方からすれば、市場経済の強制法則に包摂され、イヌイットがもつノマド的生活様式という伝統的な自己の徹底的な否定の上に成り立つ自立である。経済がもたらす強制法則は、イヌイットがそのために何世紀にもわたって受け継いできた伝統的生活様式という文化の面での独立を捨てることを強いる。もしその先に文化の面での独立が可能であるとすれば、その現実性は、経済の強制法則を受け入れて経済成長をしたあとにしか存在しない。従来のイヌイットの伝統的な生活様式と全く異質の様式に基づく「経済的自立」か、さもなくば、域外からのツーリズムのために、伝統的生活様式を大きくcontriveするように不自然に強調した「自立」か。いずれにしても、伝統からの疎外は避けられない。

このジレンマから、「自立とは何か」という定義をめぐる問題が、より明示的に頭をもたげる。

イヌイットの経済的自立が文化の独立の否定であるというジレンマは、イヌイットだけの問題ではなく、ナショナルな、あるいはグローバルな空間に広がる経済の強制法則に取りこまれつつある世界のさまざまの場所が、近年、多かれ少なかれ経験している。社会的多元主義が優勢となってきているのが、バンクーバーの事例に表明されているこうしたグローバルな均等化の流れであることは、一つの皮肉であろう。

今日のカナダも、むろん例外ではない。白人が支配するカナダの空間の下に自らを置くことを受け入れるならば、多元主義尊重という<新たな啓蒙思想>にしたがって、カナダの一部としてのイヌイットもその文化的独自性が保護され維持され得る面がある。ノマド的様式が定住的生活様式へと、居住の空間形態が変わったにもかかわらず、なお「民族の伝統」として採集経済を続けようとするイヌイットに対し、<犬橇ではなく、飛行機やスノーモビルで採集経済を営むのは、もはや伝統ではない>という批判の声にもかかわらず、カナダ政府は、採集経済維持のための援助を続けている。

他方、イヌイット自身の生産・生活様式を見るならば、イヌイットは事実上、ナショナルな、そしてグローバルな空間に広がる経済の強制法則に自らを合わせる道にすでに深く入り込んでしまった。イヌイットの家のインテリアは、はるか南のカナダ諸州にある家のそれと、まったく変わるところがない。イヌイットたちは日常生活で英語を用い、学校でも英語を使って授業が行われ、図書館にあるのはほとんど英語で書かれた本で、事実上英語がイヌイットたちのfirst languageと化している。ツクトヤクツクのごみ捨て場は、市場経済を通じて手に入れた廃棄物であふれかえり、若い世代の人々は、裏の海で採集した魚などよりも、ファーストフードを好む。アメリカ的生活様式のもとで大量に生放流される下水は、いずれ海を汚染し、魚の採集自体をできなくしてしまうかもしれない。バンクーバーのEast Hastings Streetで公然と取引されている麻薬すら、このあたりに移ったイヌイットなどを経由してツクトヤクツクに流れ込み、イヌイットの高校生の間などで嗜好対象になりはじめている。

イヌイットは、いかなる「自立」を志向すべきなのだろうか――しかし、北西準州Inuvialuit地区のイヌイットは、すでにこの自立の様式を規定する空間的選択を自らしてしまったように思われる。これが、連邦政府との間に締結された、Inuvialuit Final Agreement協定である。この協定によって、イヌイットは、協定対象地区の大半におよぶ地上権・地下権を放棄することを余儀なくされた。イヌイットたちが地上権・地下権の両方を確保し得たのは、定住地周辺のごく一部にすぎない。この空間のみが、将来にわたり、イヌイットにとっての新たな「自治」の基盤となる。採集経済は、粗放的・非排他的な空間の充用様式を特徴とした。この空間充用様式を否定し、排他的な空間充用様式を押し付けたのは、この領域を植民地化した白人たちである。もしイヌイットの生活領域が植民地化されず、イヌイット自身に近代的な国民国家として独立する機会が与えられていたならば、イヌイットの伝統的な生活領域は全面的にこの「イヌイット国家」の全面的な領有のもとに置かれていたにちがいない。そしてこの権利のもとで、自主的な資源開発によるイヌイットの経済的自立も、可能であったろう。それゆえ、Inuvialuit Final Agreementによるイヌイットの占有領域に関する規定は、空間をめぐるイヌイットの「政治的勝利」である以前に、白人が経営する資源開発事業に空間の面での法的根拠を与え、条約のない状態にあったイヌイットからの資源開発にかかわる権利訴訟から守る協定であり、白人の「政治的勝利」であった。同様の協約がより早く結ばれたアメリカ合衆国アラスカ州では、このことがより明確となっている。イヌイットの生活空間の上位にイギリス、そしてカナダという白人支配の空間の層が成立し、しかも資源開発という空間の排他的充用様式が極北部において現実の必要性となってきたために、イヌイットたちは、19世紀の後半にニュージーランドのマオリがこうむった経験を、20世紀後半になってすることを余儀なくされたのである。しかも、こうした排他的に占有する空間を明確に分ける制度は、空間的多元主義と社会的多元主義との間にあるジレンマをあえて見過ごす多元思想のpretextをともなってなされたのである。それゆえこの協定は、バンクーバーで認められた、多元思想における社会と空間との連関を、より大規模に、かつより明確な制度の裏付けをもって拡大再生産したものにほかならない。社会的多元主義が空間的多元主義に転化し、その結果多元主義が差別と抑圧の思想を帯びている点において、カナダの極北は、バンクーバーと同根なのである。

多元化され、セグリゲートされた空間においてイヌイットが今後民族として生き延びて行くために、そしてまたカナダ全体の空間に普遍的に広がる生活様式に自らをあわせるために、もっとも必要なものは、いうまでもなく貨幣である。連邦政府との間に締結されたInuvialuit Final Agreementで、定住地でない広大な場所の権利を放棄した補償として、イヌイットには一時金が支払われ、これを基金にイヌイット独自の企業化が目指されることとなった。そして同時に、中央政府からの所得移転によって、社会的部面でカナダにひろがる空間と同等のナショナルミニマムを確保し、そのなかで、ツーリズムにも大いに貢献する伝統文化の維持を図る。これが、イヌイットが現在とりつつある戦略である。

企業化といっても、ツーリズムなら可能であっても、この極北地域でもっとも大きな経済ポテンシャルを有する石油・貴金属などの埋蔵資源開発をイヌイットが主体的に経営することは、すでにみたように、空間の制度として困難になった。イヌイットから自立的な資源開発という極北部最大の経済発展の可能性を事実上奪ったのは、この協定の最も重要な本質だった。加えて、協約によってもたらされる補償金は、大規模な鉱物資源開発の資本として、また、イヌイットが自前の開発ノウハウを獲得するための資金としては、到底足りない。

しかも、多元主義とならんでバンクーバーに象徴的に表現されているカナダの新しい「進歩主義」、すなわち環境保護思想が、カナダという空間の一部であることによって、イヌイットの伝統的な生産・生活様式に大きな影響を及ぼしはじめている。海豹保護の流れは、海豹の毛皮市場を崩壊させ、イヌイットの重要な所得機会を奪った。バンクーバーは、今日グローバルな空間のスケールで環境保護活動を行う団体「グリーンピース」の発祥地であった。グリーンピースは、従来イヌイットが用いてきた、leg holeと呼ばれる、獣の脚を捕まえ、獣を弱らせてから捕獲する罠を、動物に対し残虐であるとして非難し、このため罠は瞬時に動物を殺すギロチン式のものに変えさせられたという。Leg holeは、伝統技術で作ることができるが、ギロチン式の罠は市場から購入しなくてはならない。イヌイット自身の価値観ではないところにある「グローバルな環境保護の啓蒙思想」が、イヌイットの生活を、ますます貨幣経済に包摂させ、伝統的な生産・生活様式を、疎外された形態に変えてしまっている。

連邦政府が、そして世界のほかの先進資本主義国が、イヌイットの「社会的・文化的多元主義」の思想を主張するのは、こうした社会的・空間的脈絡のもとでであることを、われわれは忘れるべきでない。狩猟・漁労を営み、かつて自らがすべてにおいて主人であった空間の大部分が切り離され奪われたあとでの、連邦政府によるイヌイットの「自立」「self government」の強調。だが、そこで先住民イヌイットの真の伝統は、どのようにして生き延びうるのだろうか−−すでに協定が結ばれた今となっては、これがイヌイットが選択するための唯一の空間的な基盤なのである。

カナダ極北地区最後の夜、イヌビクの街随一の格式あるMackenzie Hotelの私の部屋に、突然電話が入った。電話のむこうの声は、「あなたは日本人だろう。私はドイツ人、今すぐ会いたい」と言っている。北西準州への拠点、南部のアルバータ州エドモントンには、約8万人というドイツ人コミュニティがある。電話で私を呼んだ、もう70歳は過ぎているであろうマッケンジーホテルの老支配人Walter Willkomm氏は、まだ矍鑠としていて、ドイツ風のどっしりしたインテリアが施されたバーに私を招き入れ、「自分は、Danzig(グダニスク)で生まれた――」と、語りはじめた。見事なドイツ風インテリアで飾られたバーの片隅に飾られた大きな教会の白黒写真を示しながら支配人は「これは、私が洗礼を受けた教会だ」と教えてくれた。酒は、ドイツの特産シュナップスだった。

彼は続けた。「若いころ、私はボクサーで、Breslau(プロツワフ)で何度も試合をしたことがある。それから、ゲッペルスの宣伝学校の生徒になった」「ドイツの敗戦後、ハノーファーに逃れた。そこで、結局カナダへの移民を志望したのだ」……なぜ、祖国ドイツを捨てて、カナダに移民を?「今は、ダンツィヒも、ブレスラウも、もうドイツではなくなった。みなポーランド領になったんだ。日本だって−−あの島は、いったいどうなったんだ」。支配人は、かつての「戦友」として、日本人の私を迎えてくれたのであろうか? 彼は続けた。「ドイツは、偉大な国だった。カント、ニーチェ、ハイデガー、ヴェーバー、ゲーテ、シラー、ベートーベン、ブラームス……世界史に不朽の名を残す思想家・芸術家は、皆ドイツから出たのだ。それが、戦後はいったいどうなったというんだ」……私は、この支配人に返事をした。「ダンツィヒ、ブレスラウ、そしてマリエンブルク、ケーニヒスベルク……私は、学生を連れて、これらの街々をすべて訪れたことがあります」。グダニスクでも、カリーニングラードでもなく、私がドイツ語でこれらの地名を語ったとき、この支配人の目頭には、もう2度と戻れない故郷がよみがえったのか、涙すら浮かんだように感じた。支配人は最後に、「もうあなたと私と、生きているうちに2度と会うことはないだろう。だけれども、この晩のことを忘れないでくれ」。こう言って別れ際に彼は、娘がデザインしたというホテルのコースターと、そのシンボルが刺繍された、ジーンズのシャツを私に渡してくれた。

自らの「空間」の足場を曲がりなりに白人との協定によって確保し、そこで上位の空間からの枠付けと営力に制約され疎外されながら、伝統的様式から見ればまったく未経験な経済・社会様式を基盤に「自立」への道を模索するイヌイットたち。そして、永遠に失われたドイツの故郷を捨て、イヌイットたちの生活空間だったカナダの極北に移民して、自らの経営するホテルのバーとレストランに、ミクロな空間とドイツ人としての自己の思想との自生的な結合を生産することで、自らのホテルを市内随一の格式にのしあげ経済的に成功させた支配人。

「多元主義」を語ること、「自立」を目指すこと。空間と主体との結合を考えに入れるとき、その思想はジレンマをはらみ、単純でなくなる。しかし、この地理学が固有の課題としてきたジレンマこそ、新しい真の社会的・空間的自立の思想を求める問いかけをわれわれがときほぐす、重要な糸口のありかを示しているのである。

(水岡 不二雄)