バンクーバーに戻る][ツクトヤクツクに進む][インデックスに戻る

98年度水岡ゼミ・カナダ巡検報告

オーロラの大地のイヌイットは今。

政治的自立と依存的な経済基盤を問う

イエローナイフ Yellowknife(9月7日〜9日)・イヌビク Inuvik(9月9日)


ンクーバーの後は、いよいよ北極海に面した最果ての町・ツクトヤクツクを目指して、極北地域へと分け入っていく。今日、9月7日は、まず、ノースウエスト準州の首都・イエローナイフへと向かう。

バンクーバーからイエローナイフへは、アルバータ 州の州都エドモントンEdmontonで飛行機を乗り継ぐ。エドモントンは、ノース ウエスト準州への玄関口だ。カナダは、合衆国との国境線に面して、ブリティ ッシュコロンビア、アルバータ、サスカチュワン、オンタリオ、ケベックの諸 州が東西に並んでいる。総人口の90%が合衆国との国境から500km以内に住むカ ナダで、これら南部諸州は経済・社会的にカナダの中核をなすことはいうまで もない。カナダの国土軸は、まず、南部諸州の主要都市バンクーバー、エドモ ントン、カルガリー、ウィニペグ、トロント、オタワ、モントリオールを東西に結んでいる。そして、これから私達がエドモントンを振り出しに、イエローナイフ、イヌビク、そしてツクトヤクーツクへと向かうノースウエスト準州を貫く南北のルートは、南部諸州と極北地域とを結ぶ第2の国土軸ということができる。トランジットのエドモントンは、東西の国土軸と、南北の第2国土軸との結節点なのである。


イエローナイフの空港に着いたのは、夜も9時半をまわっていた。小さな空港の待合室が、飛行機の到着とともに賑やかになる。ここでハプニングがあった。メンバーの1人の預けた荷物が出てこなかったのである。彼は、これからさらに寒い地方へ行くというのに、着替えも何もないままこの後の日程を過ごすことになる(後日、帰路にバンクーバーに立ち寄った際に、やっと見つかった)。空港には、今日と明日の晩の宿となるイグルー・インの支配人Charles (Chul-woo) Jeonさん(私達は、ウーさんと呼んでいた)さんが出迎えに来てくれていた。ウーさんは韓国人で、以前はプラント開発などに携わったエンジニアであった。定年後、こちらに移り住んで、宿泊施設を経営している。

車で宿へと向かう途中、ウーさんが「ノーザンライツが見える」と言って道端に車を停めた。町外れの、小さな湖に面した、明かりの余り届かない場所であった。

はじめて見るオーロラは、最初「少し明るい雲」という感じであったが、そのほのかな光の帯は次第に緑色を増し、輝きを強め、やがて夜空に舞いはじめた。これがオーロラなんだ。この感動は見た者でないとわからない。英語ではオーロラのことをnorthern lights(北方の光)というが、あまりにもそのままの表現で、英語は味もそっけもない表現をするなと思う時が時々ある。ではあるが、オーロラがその形や光の強さを変えながら動きまわることをdanceという動詞で表わすのは、まさしく我が意を得たりである。いささかカタカナ英語の感覚ではあるが、オーロラはダンスを踊っている。ダンシング!ダンシング!

この夜は、ウーさんに、パイロットモニュメントの丘や、グレートスレイヴGreat Slave湖が結氷した際の氷上道路の出発点にも連れていってもらい、オーロラを十分堪能することになった。


私達がやって来たイエローナイフは、ノースウエスト準州Northwest Territories(1998年9月現在)の首都である。イエローナイフという地名は、この地方の原住民デーネDaneの人々が銅の刀を使っていたのを、入植して来た白人達がその黄色に光り輝く刀を見て、この地を黄色の刀=イエローナイフと呼んだことに由来する。人口18,000人。ノースウエスト準州全体で人口は65,000人だから、準州全体の人口の約1/3強が住む首位都市である。凸の字型をしたグレートスレイヴ湖の北東岸にある。このグレートスレイヴ湖の面積は28,400平方kmで、世界で10番目に広い湖である。

「準州」というなんとなくすっきりしない言葉がでてきたが、これはTerritoryの日本語訳である。カナダには、ノースウエスト準州の他にユーコン準州もある。これらが、州provinceではなく、なぜ準州territoryなのか、準州とはどのような性格をもつのかについては、しばしカナダの歴史を紐解く必要がある。

カナダは州から成る連邦国家である。1867年に、当時イギリス植民地だったオンタリオ、ケベック、ノヴァスコシア、ニュー・ブルンズウイックの各属領がそれぞれ州となり、カナダの名の下にひとつの自治領として自治行政権を行使することが、イギリス議会で制定された英領北アメリカ法British North America Act,1867によって認められた。この自治領が現在の連邦国家カナダの始まりであり、カナダは今日でもエリザベス女王を君主として戴いている。英領北アメリカ法は1982年にカナダが憲法を制定するまではカナダの基本法であった(憲法制定後、Constitution Act,1867と改称されて呼ばれていることからも、その位置付けがわかる)。こうして大西洋沿岸の4州による連邦自治領として始まったカナダは、後に、ブリティッシュコロンビアや、サスカチュワン、マニトバなどの諸州を編入して、今日の国土と南部諸州を中心とした連邦制を形成していくことになる。

さて、現在のノースウエスト準州・ユーコン準州の地域は、植民地時代には、ハドソン湾会社Hudson’s Bay Companyと呼ばれる、植民地における商取引を一手に引き受ける商社の所有地とされていた。ハドソン湾会社は、チャールズ二世の特許状をもとに商業権のみならず行政権も下付され、インドにおける東インド会社の役割と同じ様に、カナダのイギリス植民地化過程で大きな役割を果たした。会社の代表には、当時のイギリスの北米植民地総督でもあった、ルパート王子Prince of Rupertが就いていた。このハドソン湾会社の所有地が、1871年のルパーツランド法Rupert's Land Actによって、先に成立した自治領に引き渡され、英本国に代ってカナダ議会が立法・行政権を行使するようになった(1871年に英領北アメリカ法British North America Actとして、カナダの基本法にも認められた)。

すなわち、南部の諸州がイギリスからの独立の過程でそれぞれ自治権を持ちながらカナダという連邦国家を形成していったのに対して、ハドソン湾会社の所有地であったところの準州は当初からその自治権を持つことなく、英国による植民地的立法・行政が、そのままカナダ連邦政府による立法・行政へと平行移動しただけだった。その背景には、厳しい自然条件に阻まれ白人の入植があまり進まなかったために白人達の自治権獲得運動が州を形成するに至らなかったことがある。そして、先住民のイヌイットらには、もちろん自治権獲得の意思表明の機会すら与えられなかった。準州に対する連邦政府の行政権の行使という、イギリス植民地の直接の延長線上にある政治制度は、今日まで引き継がれている。


9月8日は、朝からイエローナイフにあるノースウエスト準州の議事堂を訪問した。この議事堂は、イヌイットの伝統的な氷の家・イグルーをかたどったドームがシンボルになっている。エリザベス女王(先に述べたようにカナダの元首でもある)の寄付によって建設され、93年11月17日のオープニングセレモニーには、女王陛下の臨席を仰いだそうである。

事務局の方にまず案内されたのは、公式な議会に先立って根回しを行なったりするための秘密会が開かれる部屋であった。政府与党と野党とに分かれて政策論争をおこなうのを建前とする本会議とは異なり、全会一致を原則としているそうである。これはイヌイットの意思決定方法を採用していると説明を受けた。その精神は、'Changes can come from power of many, but only when the many come together to from that which is invincible, the power of one.' というその部屋に掲げられていた言葉にも表われている。部屋とそこに置かれた机は円形であり、対立から何かを生み出すのではなく、調和によって意思の統一をはかるという精神を実現するものである。イヌイットの考え方にはアジア的なものを感じることができる。

また、比較的最近に建てられたこの議事堂は、様々な文化・言語の尊重にももちろん配慮されていて、英語、仏語ほか、イヌイットの地方言語、計6言語への同時通訳に対応した設備が整えられている。ところが、連邦政府からの補助金がカットされ、常に6つの言語で同時通訳されることは最近減っているという。このことには、多文化主義の実現と経済効率を優先させる政策との間の二律背反、イヌイットの政治的な自律要求と連邦政府からの補助金に依存し自らの経済基盤を築けないこととの二律背反が表われている。

本会議は24人の議員から構成されている。議場を見せてもらうと、政府側の席は片方にまとまっているが、全体的に円形のデザインである。中央には白熊の毛皮が置かれている。イヌイットがかつて生活の糧とし、現在も恩恵をもたらしてくれると考えられている、野生動物を象徴しているそうである。

もうひとつシンボルとして、議会の権威を示すメースMaceと呼ばれる杖が展示されていた。メースが議長の前に恭しく置かれて初めて、その議会は正式なものと見なされるそうである。この杖は、ノースウエスト準州で産出、採取された材料のみで作られ、この地に根差した自立的な政治権力要求のシンボル的な意味を持っている。

ノースウエスト準州は、行政権や予算の面で連邦政府に依存している一方、議事堂を見る限りそこかしこにイヌイットの文化や伝統の尊重、そして、政治的な自立の象徴が散りばめられている。もちろん、それらの象徴物が、政治的な権利を与えてくれるはずはない。そもそも議事堂そのものが連邦政府やカナダ元首でもあるエリザベス女王からの「贈り物」としてノースウエスト準州に与えられているのであるが。

原住民の政治的自立の要求は、ヌナヴット地区のイヌイットと女王陛下との間の合意Agreement between the Inuit of the Nunavut settlement Area and Her Majesty the Queen in Right in Canadaとして、1993年に大きく前進した。1999年4月1日に、今日のノースウエスト準州の東側ほぼ半分が、原住民の自治政府ヌナヴットNunavutとして分離するのである。ヌナヴットの首都は、バフィンBaffin島のイクァリットIqaluit(旧称Frobisher Bay)に置かれる。ヌナヴットが成立すれば、その人口の約9割が原住民で占められるという。原住民の自治へ向けての動きが、現在のノースウエスト準州では盛り上がりを見せている。

ノースウエスト準州の議事堂を訪問して、主席書記官(事務方の最高責任者として、日本で言うと地方自治体の助役に相当する)ハミルトン氏から、ヌナヴット設立に向けての動きや、ノースウエスト準州(1999年4月以降は、ヌナヴット設立に伴って、現在の西側の領域が、現行の名称はそのまま新しいノースウエスト準州となる)の今後の発展戦略などについて伺う機会を得た。

氏は、英スコットランド出身であり、スコットランド人がイギリスの植民地経営を担ってきたという伝統を感じ取ることができる。彼のような官僚が、自らと、自らに利益をもたらしてくれるその土地の利益というものを代表して、植民地ならぬカナダのテリトリーの経営に深く関与しているのである。

まず、彼はヌナヴットの設立に向けての動きと、それに伴ってヌナヴットとならない新ノースウエスト準州での原住民の自治政府について説明してくれた。

新ノースウエスト準州では、立法評議会が最高の意思決定機関であるという地域政府の枠組みを保ちながら、どのようにして原住民の自治政府との間で調整を行なうかについて、次の4つのモデルが考えられている。

  1. 政府対政府モデル:原住民の自治政府と立法議会を並立させる。立法議会は準州としての権限を行使するが、原住民の権限の及ぶ土地、財産、事柄については関与しない。
  2. 一院制:立法議会が最高の権限を持ち、白人と原住民の代表者数を9人ずつ同じとする。
  3. 複合議会制:立法議会が最高の権限を持ち、白人と原住民の代表者数は14人対8人とする。ただしそれぞれが会派を作り、採択には両会派のそれぞれ過半数が必要とする。
  4. 二院制:立法会議と原住民評議会から構成され、立法会議は一般的な土地、財産について、原住民評議会は原住民の土地、財産、事柄について、それぞれ権限を持つ。準州全体の意思決定は、両院によって行なわれる。
だが、こうした先住民の政治権利拡大の動きが、南部の連邦諸州と同じ地位を持つ州(province)として完全な自立を要求した場合、果たして経済的な発展基盤を確保できるであろうか。この点について氏は、次のような見解を述べてくれた。ノースウエスト準州は、その財政の80〜85%を連邦政府からの補助金に頼っている。そうした補助金を連邦政府から得ることができるのは、ノースウエスト準州が現在の準州(territory)という地位にとどまっているからである。許認可権の多くは確かに連邦政府に帰属し、自立性には制限があるが、それについては民族自決をバーゲニングパワーとして用いながら、南部諸州からの所得移転を受けているほうがいいというのである。

バンクーバーで中国人街を都市のヘリテイジとして守ろうとする多文化主義は、英語圏のなかにフランス語圏ケベックを抱える連邦国家カナダにとって、連邦を維持するための国是でもある。新ノースウエスト準州やヌナヴット準州に対する補助金は、彼らを補助金付けにして同化政策を推し進めることによって経済的な自立の道筋からそらし、多民族主義という名のショウケースを全カナダに示す役割を果たしてきたのかもしれない。それはバンクーバーのチャイナタウンが多民族主義のシンボルとなっていることとある意味では同じであるが、中華系住民は富裕な階層が多く自ら経済的な自立を確保しているのに対して、イヌイットには経済基盤として補助金に頼るしか生計を立てていく方法はないという点が異なっている。


議事堂から歩いて5分ほどのところに、プリンスオブウエールズ記念北方博物館Prince of Wales Northern Heritage Centreがある。ここもイギリス女王にして、カナダの元首であるエリザベス女王から、500万カナダドルの寄付を受けて設立されたものである。中に入ると、チャールズ皇太子の肖像画が誇らしげに飾られていた。南部の連邦諸州と比べ、準州が、イギリスとなお強い絆を保っていることを、改めて認識する。

ここでは学芸員のエリザベスさんに案内していただいた。まずはオフィスで、イヌイットのおもちゃや実用品を見せてもらう。印象深いのは、皮で出来たひしゃくや動物の骨に細長いスリットを入れたスノーゴーグル。日本のけんだまに似たおもちゃもあったが、小さな穴がひとつしかなく、なかなか入れるのが難しい。イヌイットが住んでいる所はあまりにも寒冷で木が育たないため、ほとんどの日用品は動物の骨や皮で出来ている。一方、デーネ族が住む所では木などが生えるため、日用品も大部分は木で作るそうである。これらの用具は、学校の児童生徒が実際に手にとって体験学習できるとのことであった。

館内の展示品を紹介していこう。

まず、イヌイットの創世神話のレリーフがある。そのレリーフの物語とは、セーナSenaという女性がある男と結婚して、そしてある日、夫が島に狩りに行ったところ行方不明になった。セーナは一人取り残され、不安になったため、自分の父親に迎えを頼んだ。ところが、夫の正体は実は鳥の化身であり、妻セーナが逃げると思った夫は、迎えにきた両親とセーナを鳥達に襲わせた。親達がこのまま全員が全滅されると思い、決心をしてセーナを海に落とそうとした。海に落ちまいと彼女は抵抗し船縁にしがみついたが、鳥の攻撃が激しいため、両親はやむをえず彼女の指を切り捨てて娘を海に突き落とした。その指から海の動物がうまれ、彼女は運良く魔術師にひろわれ、海底に髪を編んでもらって今も幸せに過ごしているそうだ。これが、イヌイットに伝わる民話である。

 次に、見せてもらったのは灰色熊grizzly bear親子の剥製である。この剥製には悲しい話がある。この親子熊がたまたまある探検隊の残した残飯を漁っていたところ、余りにも近くで危険を感じた人間に撃たれた。小熊だけは生き残ったが、親がいないといずれ死んでしまうため小熊もついには殺されてしまった。これら親子の剥製は、同じような悲劇を起こさないために、探検や旅行の時はゴミをきちんと片付けることを呼びかけている。

 そのあと、グリーンランドからの探検隊の様子を展示した部屋があった。彼らがここを探検する目的は、ヨーロッパから中国まで通じる北からの新しい航海路Northwest Passageを開拓することであった。Ross、英海軍、そしてFranklinの探検隊などの事例がとり上げられていた。特にフランクリンの最後の探検に関する展示では、極北の自然の厳しさと当時の西欧人の無知とが語られていた。彼は、カナダの東のバフィン島あたりで厳しい寒さに見舞われ、氷の海に3年間閉じこめられた。しかし英国海軍の誇り高い彼は、部下に対して常に規定の制服着用を要求し、寒くとも規定外の先住民の服など絶対許さなかった。食料は、本国から持ち込んだ缶詰を中心にしたために鉛中毒が発生した。こうして、寒さと鉛中毒から、やがて彼の探検隊は全滅してしまう。また、なかなか帰ってこない夫を心配して、妻が救助隊を頼んだが、救助隊も彼と同じ過ちを繰り返し、これもまた全滅という二次災害を招いた。

こうした数々の悲劇を生みながらも、次第に極北地域の開発は進んだ。イギリスの植民地化にともない、ハドソン湾会社とノースウエスト会社の二つの会社が、お互い競争し合って極北地域を切り開いてきた。特に面白いのは彼らがこの地域に酒と煙草のような「文明」にともなう悪習慣を持ち込んだことである。もちろんこんな寒いところではお酒を発酵させるのは不可能である。極北では手に入らないこれら奢侈財はイヌイットに浸透してゆき、開拓を進める商社にとって重要な儲け口となった。

またこの地域では捕鯨が盛んで、このことも多くの商人や探検家をこの地にひきつけた。こうした人々の中には原住民の女性と結婚するものもあらわれ、そうして生まれた混血はメティスMetisとよばれている。メティスは英語とイヌヴィットの言語を喋ることができるので、ハドソン湾会社などに通訳として雇われることが多かった。

白人の入植が本格的に始まったのは、1897年にカナダの警察が入ってきてからである。またそのあとには石油ブームとゴールドラッシュがあってさらに移住が進められた。第二次世界大戦中には、日本がアリューシャン列島沿いに北上しアラスカを攻撃するのではないかとの危惧から、日本の攻撃を防御するための軍事物資を運搬するためのアラスカ・ハイウエイがこの地に建設された。物資の輸送路が確保されたことと、その交通に必要な燃料や資材、部品を供給する基地として、イエローナイフは発展することになった。

とくに1945年の後、イエローナイフの町は拡大し、西側の新市街地へと広がった。

 そのあと、先住民の家の展示を見た。家はカリブーの皮で作られ、およそ一軒当たり約30頭のカリブーが使われた。インディアンのテントと同じ作り方で、下に葉っぱを敷く。このテントは、主に雪のない時期に使われる。また、テントに塗られた赤い線は、そのテントが集落の中でも有力な人の住宅であることを示すそうだ。この博物館には、昔ラッセルという人が合衆国アイオワ州に買って帰ったテントが展示されている。ラッセルが持ち去った1868年当時、彼はわずか25ドルで手に入れたそうだ。しかしそのあとカナダ政府の要求によってつい最近帰国を果たしたテントである。冬になればこうしたテントでは寒さに耐えることはできず、彼らはおなじみのイグルーという氷でできた家に住む。

先住民は船を使って狩りをやることもある。船はトウヒ(spruce)の皮でできている。狩りに使う槍には浮き袋がついていて、一回投げて失敗しても沈まず、また一度獲物に命中すれば、動物が簡単には水中に逃げ込めないようになっている。賢い発想である。

 かつて彼らの一般的な生活生活は、カリブーの群れを追いそれにあわせて常に住み場所を変えていたノマド的な生活であった。だが、白人達が経済フロンティアを広げてくると、定住を余儀なくされた。毛皮をとってきても交換の場所が特定できなければ市場取引ができないからである。定住すると、かつての移動生活と違って獲物が思うようにとれない。こうして、飢えて死んでしまう先住民も中にはいたという。

 最後に彼らの調理ナイフを紹介しよう。それは、ウルuluとよばれる東京都のマークに似た形をしていて、ちょうど手にはまる。動物の肉などが切れる。昔は骨で出来ていたが、鉄が伝えられた時から主に鉄製となり、使う時は二つを両手にはめて使う。


プリンスオブウエールズ記念北方博物館を訪れた後、イエローナイフに住んでいる日本人ガイドさんの案内で、市内巡検に出かけた。日本人が定住して観光客相手にガイドをやっても仕事になるほど最近日本人客がイエローナイフを訪れているわけで、1年間に3,000人がこの地にやってくるという。目玉は無論、オーロラだ。私達もまた、オーロラを堪能していった日本人として、その中にカウントされたことだろう。

まずイエローナイフの都市形成史に触れながら、今日の都市空間編成を見ていく。

イエローナイフは、グレートスレイヴ湖に突き出た半島部に、ノースウエスト会社やハドソン湾会社などの植民地における商取引を一手に引き受ける商社が、先住民から毛皮を買い集め、また、先住民に猟銃などの道具や生活物資を売るために、交易拠点trading postを作ったのが、街のはじめである。現在は、この戦前からあった旧市街と、戦後開発された本土上の新市街の2つに大きくわけられる。
半島部には、かつての交易拠点だった名残を示す建物が多く残され、イエローナイフのヘリテイジを今に伝えている。カナディアン航空の前身の航空会社が水上機を運行していた頃の建物の横には朽ちたエンジンが置かれ、年月を感じさせる。ハドソン湾会社の店舗だった建物の上には、鳥の装飾が置かれている。宣教師の事務所だった建物は保存され、Wild Cat Cafeとして観光客向けに営業している(訪れたときにはすでに今年の夏の営業を終えていた。残念)。これらが集積する地区は、商取引や植民地における宣教活動の拠点として、かつてのイエローナイフの都市中心であった。

半島から連なるレイザムLatham島には、デーネDane人の集落が形成された。レイザム島には、今日、デーネの居留地が設けられている。我々はこの居留地も訪れた。デーネの居留地は、そこの住民もさることながら、周辺のデーネ民族に対して各種サービスを提供する拠点として機能している。コミュニティセンターや、学校が設けられ、イエローナイフに所用で出て来た人や病院に通う人たちの短期滞在用の宿泊施設もある。

デーネ居留地の家々は、いずれも白く塗られ、きれいな外観だ。これは、例の議事堂の開会式にエリザベス女王がイエローナイフを訪れた際に、デーネの居留地も視察されることになったために、外観を改装し直したそうだ。また、政府の補助金を受けて、古い住宅を改築して大きな新しい住宅を立てている最中だそうで、古い住宅が取り壊された空き地も見られた。

デーネの居留地と接する形で、レイザム島にはイエローナイフの高級住宅地がある。このあたりは、水道が通っていないために各戸毎に飲み水用のタンクを備え付ける必要がある。さらに冬場には、タンクの水が凍らないようにするための燃料代が月1,200ドル余計にかかる。それにもかかわらず、政府関係の官僚などが住んでいるという。また、大きな家の部屋の幾つかを旅行者に貸し出すB&Bも、このあたりには多く見られる。

近くのパイロット・モニュメントと呼ばれる岩盤の丘に登る(整備された階段が付いています)と、今でも水上飛行機が発着する様子が見られる。氷河が削り取った痕に水が溜まったり、デルタ地帯であったり、湖沼が多く見られる極北地域では、滑走路の整っていない小さな集落とを結ぶのに、今でも水上飛行機が活躍しているのである。また、今日では観光客を乗せた飛行も行なわれている。


水上飛行機が発着する湖面の先、小さな島に、水上ハウスを何軒か見ることができる。バンクーバーでもそうだが、水上に住むという画期的な居住様式を考え付くような人々は、リバブル・シティを志向する「革新的」な発想の人であったり、あるいはヒッピーであったり、芸術家のような創造力あふれる人達であるようだ。こうした人達は、もう少し中心街に近い地域の小さな家にもよく住んでいる。古い小さな家を丁寧に手を入れて住んでいたり、反核のピースマークが家の壁面に描かれていたりする。

この中心地から少し離れた地域は、古くて小さな家が残されていて、所得が少なく社会的地位の低い先住民も多く住んでいる。昨夜オーロラを見に行った帰り、せっかくだからオーロラを眺めながら宿まで散歩がてら歩こうかと思ったとき、ウーさんに治安が悪いのでやめるように注意されたことを思い出す。

第2次世界大戦中のアラスカハイウエイの開通を機に、イエローナイフの経済は大きく発展した。そうした町の発展・人口の増加によって、市街地も空間的に展開された。戦後、オールドタウンから坂を登った高台に新市街地が建設され、今日ではそちらに政治機能・商業機能が移動した。我々の泊まったイグルーインは、ちょうど旧市街地と新市街地をつないでいる坂道の途中にあり、どちらへ行くにも便利である。
新市街地は、CBDを取り囲むように住宅地が広がっている。こちらには白人が多く入居している。金鉱の採掘活動が活発だった頃には、労働者を収容するためのアパートも数多く建設された。だが今日では、空き部屋も目に付くらしい。
また一戸建ての家も多く見られる。イエローナイフ周辺は寒冷のため木材の成長が遅く、大きな丸太を使う家ほどお金持ちで、それを誇示しているということだ。乾燥していて寒冷なため、丸太の家は木材が収縮して手入れが大変なのである。また、岩盤が剥き出しになっていて基礎工事の必要がほとんどないため、家具などの設備が一式整った箱型の家を据え付けるだけのトレーラーハウスという様式も手軽で人気を集めている。

このようにイエローナイフには、先住民デーネの居留地、レイザム島の高級住宅地、かつてのトレーディング・ポストの伝統を保存した施設がある旧都心部、原住民とヒッピーなどの多く住んでいる旧市街の古い住宅地、そして、白人が多く住んでいる新市街と、はっきりとした空間的な居住分化が見られる。イエローナイフは先にも書いたように人口わずか18,000人、日本風に言えば小さな町だけれども、そこに、都市の発展に伴うオールドタウン・ニュータウンの区別や、エスニシティによるセグリゲーション、夜の治安の悪さ、そして伝統を保存する発想まで見られるのは、驚きである。イエローナイフは、バンクーバーやロサンゼルスなどと共通の空間と社会をもった、立派な北米の都市なのだ。


ツアーの途中に、ドッグレース犬の飼育小屋に立ち寄った。毎年冬場に行なわれる犬橇レースは、当地では盛り上がるらしく、そのための犬にも高い値がつくという。こうした犬橇は、かつて極北地方で冬場の唯一の交通手段であった。しかし今日では、飛行機や自動車、スノーモービルなどに取って代わられている。それでも、イヌイットの伝統文化として、レースという形で今日でも息づいているのである。


次に、市街地の近くの金鉱 Con Mine (miramar mining 所有)を訪れた。イエローナイフの主要産業のひとつが、金採掘である。ジャイアントマインと呼ばれる金鉱が最も大きく、他に2つの金鉱で採掘が行なわれている。そのうちの1つがこれである。ところが、労働組合がストライキを決行中で、ゲート脇にピケを張っていた。ピケのテントにいる労働者に声をかけてみた。その話によると、金の市場価格が下落したため生産の規模が縮小され、それにともない会社側が賃金カットしようとしたこと、先任順位権seniority rights(解雇や一時帰休を、勤続年数が短い労働者から行い、勤続年数の長い労働者の雇用は守られる優先権)を無視した雇用方針に対して、98年5月よりストを行っているという。彼らは全米加の鉄鋼労働者組合802支部に属し、組合本部から1人あたり週300ドルの支援金を受けている。これを生活資金にストライキを継続しているのだ(通常の給料は、週に1,000から1,200ドル)。ストライキ中の労働者の中には、かつてブリティッシュコロンビアで坑夫をしていた人もいた。職能別労働組合制をとっているので、一旦労働組合に加入すると、合衆国とカナダの鉱山で自由に労働することができる権利を獲得する。一般には、鉱山労働のような過酷な肉体労働には、社会的地位のより低い少数民族の労働者が多く従事することがある。また、イヌイットの雇用は、深刻な先住民の失業対策という意味もある。そこで、先住民の労働者はいるのかと質問すると、ほとんどが白人ということであった。職能別労働組合制度に守られた白人労働者と、かつての自らだけが生活した土地の底に埋まった資源であるにもかかわらず、それを採掘する労働力市場にすら自らを売り込むことのできない先住民の対比が印象的であった。


イエローナイフ2日目の夜はあいにくの曇り空であったが、ウーさんにお願いして、私達は再びオーロラを見に出掛けた。1台の車で2往復してもらったが、筆者は、後のグループとして観察地点に残ることになった。少しでもチャンスがあればオーロラをもう一度見たいと思った。しばらくしてウーさんが先発隊を宿に送り届けて戻って来た。彼は、後発隊の面々がなかなかあきらめないのを哀れに思ってか、「地元では、空が曇っていてオーロラが見えない時は、歌を歌って踊りを踊れば、それにつられてオーロラも姿を現わして踊りだすと言われている」という秘策を授けてくれた。果たして、30分も歌い踊り騒いだ結果、オーロラが姿を現わし、私達にあわせてダンシングしたのである。幸運だった。ただし「日本語とタイ語をまぜこぜに歌ったので困惑していたようなオーロラのダンスだった」とは、ウーさんの弁である。

9月9日。今日はイヌビクを経てツクトヤクツクへと向かう。いよいよ北極圏へと足を踏み入れるのだ。

イエローナイフからイヌビクまでの飛行機は、前半分が貨物室となっている。乗客の荷物だけではなく、様々な物資が飛行機で運ばれているのだ。だが、たまたま一番前の席を割り当てられた筆者は、間仕切りの壁に前を塞がれ窮屈な思いをするは、隙間風が差し込んで来て寒いは、あまり快適でなかった。

飛行機はノーマンウエルズNorman Wellsに立ち寄って、それからイヌビクへと向かう。ここは、石油採掘のために生まれた町である。採掘に携わっているであろう体格のがっしりとした労働者や、図面を入れる筒を抱えた技術者らしい男達が乗り降りする。離着陸の際に、窓から、石油採掘の櫓やその先から出ている炎をちらっと見ることができる。


イヌビクは、冷たい雨が降っていた。低く立ちこめた雲は初冬そのもので、北陸育ちの筆者には、うら寂しい感情が呼び起こされる。関西地方の方は、滋賀県湖北地方の時雨のうら悲しさを思い浮かべてもらいたい。こうした感情は、「極北」、「最果て」という言葉のイメージによって、さらに増幅される。

天候以外にも、イヌビクには心細くさせるような要因が何かとある。例えば交通手段。カナディアン航空やエアーカナダといった名の知れた航空会社の路線があるのは、イヌビクまでである。陸路も然り。町の入り口に立つ、ウエルカムメッセージが書かれた看板には、太鼓のようなものを叩いて踊っている人の絵が青っぽい色調で描かれ、< href="http://www.fieldguides.com/yukon.html">デンプスター街道 Dempster Highwayの終点であることが記されている。空路・陸路ともに、南部からの直接の交通路はイヌビクまでで、さらに北を目指そうとする場合は、地域交通(例えばこの地域だけで運行しているような航空会社や船舶、バージ会社)に乗り換える(あるいは積み替える)必要がある。イヌビクは、これまで乗っかって来た第2国土軸の太い動脈の、とりあえずの終点なのである。

産業についてもこうである。空港の近くにindustrial zoneと書かれた案内標識が立っている。こんな極北の地に、しかも町からは20kmも離れた何もない空港周辺に工業団地??−−どんな産業が立地しているのかと思えば、実は、航空機のハンガー(整備庫)や部品の貯蔵庫を指してindustrial zoneと言っているらしい。

少々ネガティブな書き方をしてしまったが、空港から町への道路沿いには黄色く色付いた森林が広がっていて、「カナダ」、「広葉樹」、「森の国」というイメージ通りの景観を見ることができた。紅葉の時期は1週間ぐらいということで、幸運であった。

町の入り口には、大きなカナダの国旗が翻っている。町のシンボルあるいはカナダ政府の公的機関を連想したが、ホテルを経営するドイツ人が目印として立てたものとのこと。確かに宿への目印としての効果は抜群である。それと同時に、ドイツ出身であるが故に、そしてイヌビクのような限られた狭いコミュニティにあってホテルの経営で成功している身にあっては、普通のカナダ人以上にカナダへの愛着や忠誠を示す必要があるのだろう。

空港から一度旅行社の事務所へ行ってスケジュールを確認した後、まずは、ビジターセンターを訪れた。

イヌビクまで来ると、心細さだけでなく、<いよいよ極北に来たな>というポジティブな感動も沸いてくる。そうした訪問客の気持を読むかのように、ビジターセンターでは、北極圏への訪問証明書を発行している。ここで氏名や交通手段を申告すると、数日後に、名前がタイプ打ちされた仰々しい証明書が出来上がる。これから行くツクトヤクツクについての情報も、ここで得ることができる。麝香牛やカリブーの剥製をみたり、ピンゴと呼ばれるツクトヤクツクにしか見られない氷の小山についての知識もここで仕入れることができる。もちろんイヌビクの町自体についての情報もある。

イヌビクは人口3,500人。連邦政府およびノースウエスト準州が北部の広大な地域を統治する政治拠点であり、マッケンジーデルタ一帯に点在するイヌイットや他の先住民の集落に対して様々な財やサービスを提供する中心地である。また、極北地域の観光拠点でもある。1955年にこの街が建設される以前は、アクラヴィクAklavikという町が地域中心であったが、洪水に頻繁に襲われる場所であったため、高台が選ばれて新しく作られたのである。

ビジターセンターと道路を挟んで向かい側には、地域病院があり、地域医療サービスを提供している。8人の医者が常駐していて、小さなコミュニティを巡回することもあるという。また、周辺地域から医療サービスを受けに出て来た人の為に、宿舎がある。看護婦の宿舎もある。

教育サービスについても、以前は各集落には中学2年までの教育機関しかなく、中学3年から高校まではイヌビクへ来て寄宿生活をしながら学校へ通う必要があった(現在は、ツクトヤクツクなどでも高校教育は行われている)。しかし、イヌビクはもちろん、ノースウエスト準州のどこにも大学はない。高等教育機関としてあるのは、写真のオーロラ・カレッジAurora Collegeという、高校を卒業した人向けの専修学校だけである。

政治機構についてみると、カナダ政府の出先機関や、イヌイットトカナダ政府との土地協約Inuvialuit Final Agreementのイヌイット側当事者となった団体The Committee for Original People's Entitlement 事務局、そして自然・資源保護に関する機関がイヌビクに置かれている。

イヌビクの町の中心街は、これら学校・官公庁・ノーザンストアというスーパーマーケット・土産物屋・レストラン・ホテルなどが立ち並んでいるマッケンジー通り(この通りには、イヌビクでただひとつの交通信号もある)である。その通り沿いで目を引くのは、イヌイットが作る氷の家・イグルーを摸した建物だ。これはカトリック教会で、その形から、通称イグルーチャーチと呼ばれている。イヌイットに様々な、近代的・西欧的なサービスを提供するための拠点として人工的に作られたイヌビクの町にイヌイットの様式を取り入れた建物が存在することに、イヌイットを、その場所での文化を一面で尊重することを通じて、キリスト教というカナダ主流の宗教に取り込もうとするへの統合と多文化主義に依るイヌイットの文化尊重との対立を、景観として見ることができる。

イヌビクに来て以来気になっていたのは、あちらこちらに樋の様なものが通してあることである。これは、各建物を結ぶ上下水道などのパイプを収容したラインだ。イエローナイフでは固い岩盤がむき出しになっていたが、ここイヌビクはマッケンジー川河口のデルタ地帯にあるため、土壌が堆積している。これが厄介なのである。イヌビクのあたりは冬になると地面が凍るくらいに寒く、凍土が見られる。この凍土の表層は夏場には溶けるのである。ちょうど、霜柱が溶けた後のようなぬかるみ状態となり、上下水道を地中に埋めることができない。そこで地上に樋を渡すような形で架設するのだ。ただし、これで全てが解決したわけではない。地上に架設することによって今度は冬場凍り付く心配が出てくる。凍り付いてしまっては困るので、スチームで暖めて水の流れを確保している。このパイプを幹線から各家庭まで引き込む部分については、それぞれ個人の負担となるそうだが、1フィート(約30cm)あたり100ドルかかるとのことである。

パイプだけでなく、中を通る上水道の確保も大変である。イヌビクはマッケンジー川沿いにあるものの、その水には多量の泥が含まれそのままでは上水道に適さない。そこで、川が氷結する冬の間だけは川の氷を解かし水道水として供給している。夏場は、近くに滔々と大河が流れているにもかかわらず、貯水池を別に設け、そこの水を使っている。

上下水道は、近代的な生活に欠かせない、極めて基本的なインフラストラクチュアである。その上下水道ひとつとっても、極北という自然環境の中で欧米近代的な生活を営みながら暮らすことが、いかに大きな経済的負担を強いるものであるかがわかる。こうした多大の経済的追加コストを負担してまでも、西欧近代的な生活様式を営もうとし、厳しい自然条件からくる制約を埋め合わせるのに必要不可欠資金を供給するため多額の補助金を投じてまでも、先住民を欧米的生活様式に同化させようとしてきたのが、これまでのカナダの政策であった。それはいうまでもなく、社会的平等・シビルミニマムを説く福祉国家主義とリンクしていた。しかし今日、世界的な自由競争のなかで小さな政府を目指す’neo-liberalism’の政策理念は、すくなからずカナダにも押し寄せてきている。
カナダの連邦政府・南部諸州、もっというと白人主流派が、準州への所得移転をできるだけ少なくするには、すでに見たように先住民に州昇格という「自治」を与えることによって実は空間的に「多元化」し、準州であるがゆえの補助金をなくすという政策オプションも有効であろう。そうなった場合、極北地域の先住民政府は、経済的にも独立した主体として、もはや経済的に連邦に依存することなく、自己責任において地域経済を運営することが当然ながら要求される。だがそれは、自然環境を克服するためのメタコストを追加的に負担して、ようやくスタート地点に立てる競争なのである。この厳しく多元化された競争条件において、現実には、いったいどの程度の「自治」がイヌイットに可能となるのであろうか。


我々はこうして、

という具合に、カナダの国土軸を北に向かいながら次第に低次の中心地へと移動してきたことになる。そのさらに低次、そしてそしてカナダ主流と比べもっとも多元性を帯びた場所が、次に訪れるツクトヤクツクである。


バンクーバーに戻る][ツクトヤクツクに進む][インデックスに戻る

(大学院D1 藤田哲史)