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98年度水岡ゼミ・カナダ巡検報告

「リバブルシティ」の矛盾――バンクーバー Vancouver

9月5日〜7日


水岡ゼミ海外巡検は現地集合、現地解散。たった一人で国際線の飛行機に乗るのが初体験の筆者は、無事たどりつけるのかという多大の不安を抱えつつ、最初の巡検先であるカナダのトロント、モントリオールに次ぐ第三の都市バンクーバーに、直接行くより安いという理由から、合衆国ロサンゼルス経由で向かった。

バンクーバー国際空港から宿泊先のB&B、The Balfour Innを目指して移動。市バスを利用するが、途中バスを乗り換えねばならない。空港からMarpole Loop(バスの車庫)行きで終点まで乗り、そこでダウンタウン行きに乗り換える。空港からダウンタウンへの直通の市バスはなく、ちょっと不便。ダウンタウン行きのバスはトロリーバスだった。バンクーバー市内もほとんどがトロリーバス。上海や北京でもトロリーバスが走っているが、海外の大都市ではトロリーバスが珍しくないものなのだろうか。日本では立山から信濃大町側へぬけるトンネル内を走っているトロリーバスしか知らない。

こちらのバスは「次は○○です」という案内が流れない。Balfour Aveというところで下車するようにと巡検のしおりには書いてあるが、どのバス停にも"BUS STOP"という標識があるだけで、なんというバス停か分からない。バンクーバーはほぼ碁盤の目に道路が敷かれており、各交差点の信号には通りの名前が表示されている。バス停もほぼその碁盤の目の一ブロックごとにあるようで、信号機の標識に注目していけばよいらしいが、あまりにも不安だったのでサングラスに半ズボン、半袖のTシャツという、日本でなら考えられないようなラフな格好をした運転手に、地図を見せて目的のバス停になったら教えてくれるように頼む。バスの車内はヨーロッパ系の客もいるが、アジア系の顔をした客も多い。やはり様々な地域からの移民たちによってつくられてきた都市なのだ。運転手に促されてバスを降りる。

地図を見ながら歩くが、曲がりくねった道に入り込んでしまった。どうやら道に迷ってしまったらしい。人に道を聞こうにも、あたりは緑も多く高級住宅街といった風情。昼下がりだというのにとても静かである。人通りもあまりない。やっと見つけたジョギング中のおじさんに地図を見せて、場所を聞く。そのおじさんはわざわざ目的地まで連れてきてくれた。なんて親切な人なんだろう。かくしてなんとか無事宿に着いた。他の人たちも集合し、明日から内容てんこもりの巡検が始まる。


9月6日は、市内交通一日乗車券Day Passを手に例のトロリーバスに乗ってダウンタウンへ。まずバンクーバー市全体を見渡せるハーバーセンターHarbour Centre展望台へ。ちょうど快晴で眺めは抜群。北は、バラード入江Burrard Inletをはさんで北バンクーバーNorth Vancouverの街、そしてその先にはすぐ高い山が迫る。東南には、低層の建物がつらなり、そのはるか彼方に、雪をいただくアメリカ合衆国ワシントン州の山々が望める。南にある小高い丘陵地は、我々の宿があるショネシーShaughnessyの高級住宅地だ。西には、広大なブリティッシュコロンビア大学のキャンパスの先に、太平洋が光っている。自然環境は素晴らしい。

展望台を下り、その後CBD(中心業務地区)を見てまわる。伝統的外観の建物が多いというのが第一印象である。その中でひときわ目立つのが、カナダ太平洋鉄道バンクーバー駅だ。バンクーバーの開発が急速に進んだ要因には、英国資本のカナダ太平洋鉄道(大陸横断鉄道)が開通した(1887年)ことが挙げられる。この鉄道敷設には中国人移民が従事したが、ロッキー山脈を超える難工事で多くの労働者が犠牲となった。この鉄道の終点をどこにするかで当時議論があった。ポートムーディ、ニューウェストミンスター、グランビル(今のバンクーバー)の3つが候補となった。カナダ太平洋鉄道会社は、本当はもっと内陸に作る予定だった大陸横断鉄道の終点、すなわちカナダが太平洋に向かって開ける接点を、わざわざこの場所まで延長し、森林以外何もなかった周辺の自社所有地を今日の都市バンクーバーとして開発して多大の利潤をつかんだ。バンクーバー最大の地主は、このカナダ太平洋鉄道である。その駅からもはや長距離列車は出発しなくなってしまったが、駅舎はきれいに修復されていて、近郊に向かう列車・電車・フェリーのターミナルになっている。駅舎の天井には、カナディアンロッキーなど、カナダ太平洋鉄道が観光開発した沿線の景勝地の画が描かれ、往時の栄光の伝統を偲ばせる。

その先には、シンクレアセンターという建物群がある。これは、もとの中央郵便局・税関など、1つのブロックに固まっていた4つの政府の建物をまとめて1つにつなげ、内部をすっかり改装して、下は高級ショッピングモール、上は政府合同庁舎として再開発したものだ。しかし、外観は1930年代のままであり、内部の機能だけ改装により入れ替えたファサード保存の典型例として知られている。バンクーバーでもっともすぐれた都市建造環境の伝統と遺産を強調する事業とされたこのプロジェクトは、1986年に完成した。商業機能と行政機能を同じ建物のなかに入れ、外観の伝統を堅持するやり方は、日本とは対照的で新鮮に思えた。

カナダの銀行ロイヤルバンクの建物は高層ビルであった。これは1931年の世界恐慌のさなかに竣工したため、計画の半分しか完成しなかったが、金融機関としての権威を保持しようという資本の強い意志が建物の外観に表現されている。その先、CBDが終わりに近づいたところにバンクーバークラブがある。これは、イギリス本国の上流階級のクラブにならって作られた、旧英領植民地の都市ならどこにもある特徴的な施設で、その都市で政治・経済・社会の面で支配的な階級に属する人々のアイデンティティを示し情報を交換する場として機能してきた。クラブの先は、カナダ太平洋鉄道が最初に開発した高級住宅地、ウエストエンドになる。その入り口の角には、1930年に完成したアール・デコ様式の、保険会社の建物が建ち、壁面には飛行船などその当時の経済を支えた技術を描いたレリーフが刻まれていて、世界の先端を経済成長によって切り開いていこうとする、当時の資本家精神を物語っている。

このように、CBDを少し歩いただけでも、バンクーバーの都市発展を規定してきた2つのライトモティーフ、すなわち、伝統と環境を重んじる「リバブルシティ(住みやすい都市)」への志向と、経済成長を通じたグローバル都市への志向という相反する契機を、容易に見て取ることができる。

こうした建造環境に結びついたバンクーバーの遺産は、次に訪れたバンクーバー博物館にも表れていた。それは博物館のオリエンテーションギャラリーからバンクーバー市内の景観が一望できるようになっている点である。これは、バンクーバーの今日の都市建造環境そのものが博物館の扱う対象として重要であるという考えからきた設計だそうだ。この博物館では移民の歴史について、学芸員の方から説明があった。

現在のバンクーバーは様々な地域からの移民者たちによって形成されてきたといってよい。ロシア人は海豹の毛皮を目的として、アラスカを経由してやって来た。1858年のゴールドラッシュ以降多くの様々な移民がこの地に入植した。イギリスなどヨーロッパからの移民のほか、日本、中国といったアジアからの移民。バンクーバーはヨーロッパの側からすれば北米大陸の西端というイメージが強いが、アジアの側からすれば、移民の入り口なのである。このイメージは大陸横断鉄道が開通してからさらに強まる。鉄道が開通し、港が整備されることにより、バンクーバーは人や物資の集散地としての機能を高めていくことになる。こうしてさまざまな地域からの移民たちの受け皿が整っていった。このことが、今日の多元主義の思想を生む素地になったといってよい。

このころのバンクーバーの産業といえば、周囲の森林を利用した製材業、毛皮産業だった。日本人も多くが移民し主に製材業に従事したが、アジアからの移民は職場の近くに固まって居住した。これによって日本人街やチャイナタウンが形成されたのだ。こうしてできた各々独自のコミュニティが、新しい移民者の受け皿として、または職住近接で就業機会にアクセスしやすいというメリットを持ちつつ、バンクーバーの都市の遺産となっていく。 1900年代に入って大量の移民者が流入し、移民者同士で職を奪い合うという事態になり、当局は移民者をバンクーバーにツテのあるものだけに制限する政策をとった。

この博物館は、白人移民がバンクーバーを開拓した歴史などが詳しく展示されているのに比べ、アジアからの移民や、入植者が増えてくる以前の先住民(first nation people)に関する展示が少ない。そこで2年がかりで、そうした人たちの展示も増やすべく、改装を行うそうである。これはカナダの都市建造環境を規定する考え方の一つである多元主義――異なる価値観を持った人の存在を社会的そして空間的に認める(実はここに矛盾があるのだが)――の実践の一つといえよう。


博物館をあとにして、徒歩でグランビルアイランド Granville Islandへ向かう。この地区はフォルスクリークFalse Creekに面したウォーターフロントである。1950年代までは造船所や倉庫が建ち並んでいた。しかし1960年代初めの景気の下降で造船所が移転するとゴーストタウン化してしまう。そこで1970年代に入り、市が、工業機能・商業機能・居住機能が一地区に一体となって集積するように再開発された所だ。生コン工場があるかと思えば、倉庫をそのまま利用した生鮮食料品や魚介類などが売られている日本の市場を思わせるようなショッピングモールもあった。またフォルスクリークに浮かぶフローティングハウスもある。気のきいたレストランもあり日曜ということもあって大勢の人が繰り出しにぎわっていた。フォルスクリークを挟んで位置しているダウンタウンを目にしながら昼食。やわらかな日差しを受けながらのテラスでの食事はとても贅沢。

ここグランビル地区は、バンクーバー一般の都市景観とは対照的な建造環境を人工的に作り出した場所といえる。バンクーバー一般の都市建造環境では、ゾーニング(用途地域指定)が徹底されている。ゾーニングとは、地区ごとに住宅やオフィスビルを建てる際の建築基準を厳しく決めることである。だからバンクーバーの街を歩いていると、通りを一つ隔てるだけで、軒を連ねる建物の様相ががらりと変わってしまうことがあるのだ。このことは、地区ごとの機能がはっきり区別されていることを示すだけでなく、居住者あるいは利用者の民族あるいは所得階層による空間的な分化(セグリゲーション)をも示す。ところがグランビル地区では、これが正反対の様相を示す。いろいろなデザインの建物があり、さまざまな用途に利用されている。これは機能の「空間的多元主義」をなくし、リバブルシティの平等思想をあらわすものとして作られた仮想都市なのである。


午後は市バスに乗って再びダウンタウンへ。今度は、CBDに隣接するインナーシティ、スラム化しているといわれる、旧日本人街とチャイナタウンに向かう。道中、車内に車椅子の人が乗っていた。そのバスはノンステップバスだ。よく見るとノンステップバスがかなり走っている。車椅子に乗った人でも当たり前のようにバスが利用しており、日本ではあまり見かけない光景だった。バスは、ガスタウンGastownに近づく。ガスタウンは、戦後一時スラム化していた地区が、バンクーバー市初期の建造環境のイメージを維持しつつ1970年代にジェントリファイされ、観光客を呼び寄せるのに成功した地区だ。これは発展、成長よりも伝統維持、ゼロ成長を、というリバブルシティ(住みよい都市)の思想が体現されたもといえる。他方では、ガスタウンには土産物屋・レストランなどが軒を連ね、多数の観光客が訪れるようになり、バンクーバーの経済発展に貢献している。バスの終点は、ガスタウンの東はずれだった。

まず旧日本人街へ。 ガスタウンを一歩出ると、街の雰囲気がはっきり異なってくる。並木もなく、観光客はもちろん地元の人の人通りも急に少なくなる。建物も手入れをあまりしていないようで朽ちていた。政府による低家賃の公営住宅が供給されているものの、全体として住環境は悪い。しばらく歩くと、バンクーバーの最初の産業、へースティング製材所Hastings Sawmill跡の前に出た。戦前の日本人移民は、主にカナディアンロッキーから切り出された木材を加工する製材所労働者として日本から連れてこられた。そしてその門前町のように、製材所のすぐ傍の、パウエルPowell街を中心とした一角に、カナダ日系人がセグリゲートされた地区をつくった。ここには、賄い付き下宿屋(boarding house)・日本品の商店など、カナダにいながら日本人が日本と似た生活を営めるインフラが整っていた。日本からやってきた日本人移民はまずこのパウエル街に住み、カナダでの生活に慣れてから、全国各地に散って行った。各地に散らばる日系人は、日本の食品や物資が必要になると、このパウエル街に来てそこの商店で仕入れた。パウエル街は、カナダに広がる日系人の窓口であり、またその中心地として機能していたのである。当時の日系人は、マイノリティとして白人から蔑まれていた。この認識をあらためようと、日系人たちは、一生懸命仕事をするのはもちろん、現地の学校に通う子供たちが良い成績をとり見苦しく汚い身なりをしないように、そして白人が嫌う体臭を出さないため漬物を食べ過ぎないように、などといったことに至るまで気を付け、大変苦労したという。

←戦前の日本人街の華やかな様子
(下・左)バンクーバー日本人学校の卒業式:日本会館Japanese Hall前での記念写真

(下・右)今日の日本会館外観

戦前のバンクーバー日本人街の中心は、パウエル街とダンレヴィーDunlevy街の交差点であった。中には、この日本人街で資本蓄積しビジネスを展開した日系人もおり、今でも、石造りの立派な下宿屋・デパートの建物が残っている。しかしすべては、1942年に突如として終焉を迎えた。日本とカナダが戦争状態に入り、日系人はカナディアンロッキーの山奥にある強制収容所に送られた。


住み慣れた家、親しんだ街を追われ、トランクひとつの荷物を持ち出すことしか許されず、強制収容所に送られる日系人

没収された日系人所有の漁船
土地、家屋などの不動産をはじめ、ほとんどすべての財産が没収された。ずらりと並んだ漁船は、日系人が漁業という第1次産業に関わることでカナダにおける経済基盤を築きあげてきたこと、そしてその経済活動がかなり大きなものとなっていたことを物語っている。だが、移民労働者が身を削って蓄積してきたこれらの富は、カナダ政府によって不当に略奪されたのである。

強制収容所全景
戦時体制をとるカナダ社会からまさに空間的に隔離するために、荒野のど真ん中に設けられた強制収容所。鉄条網に囲まれている。

収容所では日系人の印として日の丸のついたシャツを着せられた。日系人のひとりは、自らのアイデンティティとしての国家、国家と密接に関わっている自らの置かれた運命を、次のように冷静に見つめていた。

背いっぱいの
日の丸のシャツ着せられて
有頂天なりしが
射殺の目印

中野武雄 アングラにて


写真は、日系百年祭プロジェクト委員会編『日系カナダ人百年史 千金の夢』ドレッドノート出版(トロント)、1977年より引用

日系人所有の財産はすべて没収され、後に競売に付された。戦後、強制収容から解放された日系人たちがパウエル街に戻っても、なつかしい、かつて生活し、あるいは商売によって自らと結びついていた空間は、もはや見ず知らずの他人のものとなっていた。自らの「場所」を強制的に奪われた日系人たちは、こうしてカナダ全土に散り散りとなった。

1970年代、バンクーバーに「リバブルシティ」の運動が高まり、都市の遺産への再評価が説かれたころ、この日系人街を復興しようとする動きが起こった。一部の建物は、日本風に前面が改装された。後に触れるDELAの事務所を間借りし、1973年に、「隣組Tonari Gumi: Japanese Community Volunteer's Association」と称する、ブリティッシュコロンビア州日系人のコミュニティセンターが発足し、のち旧日系人街に移って発展した。「隣組」は、日系一世の年配者をはじめ日系人全体(白人社会に同化して日本人街とは別の場所に住む人たちも含む)の日本人街のコミュニティセンターとして機能する「隣組」という互助組織である。しかし、戦後来た日本企業の駐在員などとの交流は、ほとんどないという。カナダ日系人たちは、バンクーバーの日系人街を解体した強制収容という行為に対し粘り強い抗議運動を展開し、1988年、カナダ政府はついに謝罪を行い、補償金を支払った。このカナダ日系人の権利回復運動には、日系カナダ人地理学者、オードリー小林Audrey Kobayashi女史が重要な貢献を果たした。小林女史は、Neil Smithなどと同様、自らの学問を'armchair critical geography'に堕めることなく、積極的に社会の革新のために役立てるという思想を体現して、行動したのである。素晴らしいことだ。

「あなた達日本人は、なんとひどい目にあったのでしょう」と、口先だけで言う人達に対して、私は「一体何の話をしているのだ?」と言いたい。「君達は私と同年輩だが、一体その時は何をしていたんだ。君達はこの地に住んでいながら人権無視を黙認した。そしてその沈黙こそ当時の政策に同意していた事になるのではないか」と。
Buck SUZUKI
日系百年祭プロジェクト委員会編『日系カナダ人百年史 千金の夢』ドレッドノート出版(トロント)、1977年、90ページ

この言葉は、単にカナダ社会への問題提起、当時の世代への問題提起にとどまらず、私達ひとりひとり個人個人の現代の社会とのかかわりかたへの問題を提起しているように思える。

しかし、実際の日系人の地理を見るならば、合衆国ロサンゼルスのリトル東京が日系ホテルなど戦後の資本もひきつけて拡大し発展してきたのと対照的に、バンクーバーの日系人街が復興することは二度となかった。現在は、東ヘースティングス街East Hastings Streetのインナーシティ化がこのパウエル街をもとりこみ、中国人・フィリピン人・韓国人・ベトナム人など、アジア系のエスニックマイノリティが数多く住みつき、またこれらの人々を相手にした商店が、もと日系人が所有していた建物で経営している。日系人街であったという歴史と結びついた都市機能は、「隣組」、旧日系人街との場所の結びつきを絶ちきれない高齢の日系一世が住む下宿、そしてインナーシティ化して危険なためか4時半で授業を終わってしまう日本語学校など、いまやわずかの場所に残るにすぎない。

戦後日系人街が復活しなっかった原因には、以下の二点が考えられる。一点目は、戦後、移民者の減少で、移民の受け入れ窓口としての機能が必要とされなくなったため。二点目は、日本人移民者がカナダのメインストリームに社会的経済的に同化し、三世あたりになると混血率も高くなったことにより、日系人としてのアイデンティティを自ら主張しなくなったため。二点目は「多元主義」の考え方とは正反対のようであるが、白人社会に同化してしまえば、社会的多元性をとりたてて空間的多元性として表現する必要もなくなるのだ。このことには「空間的多元主義」という言説の裏にある差別性が逆照射されていると考えることもできる。

続いてインナーシティからチャイナタウンへ。日系人街から南へ1ブロック行くと、東へースティング街に出る。ここはすでに、バンクーバーのインナーシティ(スラム街)の一部だ。中国語の看板が多く、アジア系の顔をした人が多く歩いている。決してして治安がよいとはいえない。建物も老朽化しており、低所得者層にある人たちが住んでいるのだが、こうした地区を再開発し、低所得者層を追い出そうとする動きがある。こうしたジェントリフィケーションと闘っているコミュニティ団体が, カーネギー地域社会行動プロジェクトCarnegie Community Action Projectだ。東へースティング街周辺は,スラム化しているもののダウンタウンに市バスで10分足らずと大変近い。そこで,これまで老朽化した建物に低家賃で住んできた低所得者を追い出して,ツーリストホテルやバックパッカー用ホステルに改装しようとする動きが盛んになっている。一例を挙げると,香港の財閥である李嘉誠Li Ka-shingが手がける都市再開発計画地区近くに立地するドミニオンホテルを買い取った香港中国人の不動産投機家は、それまで割引の長期契約で居住してきた人々との契約を打ち切り、ホステル経営に転換しようとした。ホステルは、宿泊費は安いものの、狭い部屋に二段ベッドで多くのバックパッカーを詰めこめるし、また室内装飾もロビー等共用施設も最小限でよいので,結構儲かるらしい。既存の住人を退去させるため,香港中国人経営者は既存の居住者に嫌がらせをはじめたので,耐えられなくなった身体に障害を持つ居住者の一人が、 ダウンタウンイーストサイド住民協会DERAに窮状を訴えた。DERAは、この貧困地区におけるコミュニティを維持しつつ、どのようにコミュニティをつくっていくべきか考え、実践しようとする自治組織だ。参加している人達の中には、カナダ人中産階級ボランティアもいる。DERAはドミニオンホテル経営者を調停に引き込んだ。その結果、居住者は慰藉料100ドルを得てより快適な部屋に移れた。しかしこれは、2ヶ月後に新しい住宅を別の場所に見つけるという条件付きで、結局その居住者はそこから退去せねばならなかった。現在このホテルは,B. C. Rainbow Hostelという名のバックパッカー宿として、客を集めている(Newsletter of the Carnegie Community Action Project, July 1, 1997)。

また、東ヘースティング街のダウンタウンに近いあたり、ガスタウンのすぐ南側は,麻薬取引が半ば公然と行われている地区でもある。バンクーバーの他の地区では厳しく取り締まりがなされる麻薬であるが、この地区でだけ警察は黙認している。これには、麻薬使用者など「危険」とされる人たちを一つの狭い地区に空間的に分化(多元化)させ、警察などがその人たちを管理しやすくさせておくという側面がある。

すぐ南はチャイナタウンになっている。現実には,多くのバンクーバーの中国人たちはもはやこのチャイナタウンではなく,南のリッチモンドRichmondなど、国際空港の近くに集住する傾向がある。いまや、昔のチャイナタウンに,観光客のアトラクションとしてはともかく、本当の中国人の「居住場所」としての機能は薄らいできている。このチャイナタウンにヘリテイジを感じるのは、中国人よりむしろ白人かもしれない。こうしたチャイナタウンという空間的多元主義をあえて守ろうとする白人の主張と行動――これは、確かに現在の建造環境の伝統維持に貢献しよう。だが、再開発に反対し現在の建造環境を維持していくことにより「多元性」の思想を訴えることが、逆にバンクーバーの中に差別性の強いセグリゲーションを維持し続けることに貢献するのも、また事実である。文化的多元主義の考え方は、ケベックなどを抱える「連邦国家カナダ」の枠組みで捉えた場合に、その国民国家維持のため不可欠なものであろう。しかし,その実現手段が、こうした空間的多元主義であるとき,そこに大きな問題が生ずる。このことは巡検後半で「イヌイットの自立」を考えていくときにも、浮かんでくる問題だ。


翌日7日はブリティッシュコロンビア大学地理学科教授であるレイ教授の案内で、彼のライトバンに乗り市内を巡検。

レイ教授が宿へ迎えに来る前、宿がある高級住宅街ショーネシーを徒歩で見てまわる。この地区には高所得者が多く居住しており、チューダー王朝様式の住宅が建ち並んでいる。樹木は敷地内や道路沿いに多く立ち並び、道路も、碁盤の目状に敷かれているのではなくわざと曲がりくねらせてある。とくに、円形の芝生の公園に取り囲まれた「クレセント」と呼ばれる場所は、バンクーバーでもっとも高貴な誉れ高いアドレスだ。ここに菊のご紋が屋根についた住宅があった。先ごろ、妻への家庭内暴力容疑でカナダ警察に逮捕された日本のバンクーバー総領事は、ここに住んでいたのだろうか。

ショネシーは、英国の田園都市の思想に沿った「自然と人間との調和」、伝統的建造環境を守るリバブルシティの考え方が体現された地区ということができる。しかし、ここには建造環境をめぐる対立が存在する。この地区の白人の住民たちは、コミュニティ意識が強く、ショネシーの居住者組合を作っている。地区内で新しく住宅を建てたり、改築するときはこの組合の許可を得ねばならないが、チューダー王朝様式以外は許可されない。新築でさえ、昔建った古い家のように見せかけて作るのだ。この組合には中国人居住者は加入することができない。そしてこの組合は、英国の田園都市の思想を無視した、香港中国人が好む住居(モンスター・ハウス)を排斥しようとする。

ここに、カナダ人(アングロサクソン)と中国人(中国系カナダ人)との間にある都市開発に対する考え方のコンフリクトが見えてくる。すなわち前者は、英国流の思想に基づく都市建造環境のヘリテイジを守ろうとし、田園都市的な環境を重視するのに対し、後者は、そのような都市ヘリテイジの意識が希薄、というよりむしろ風水など自民族特有の思想に基づいて住宅をデザインし、開発志向型であるということだ。

このような対立が生まれた背景には、2つの理由があろう。

  1. まず、バンクーバーを「Lotus Land」ととらえて、その建造環境に田園都市思想を強調する傾向は、都市成立初期からあった。これが現代に正統性を受け取ったのは、1960年代のオフィスブームによるバンクーバーの急激な人口増加に伴う、環境悪化に対するヒッピーなどによる反成長・環境主義の思想と接合したからである。1970年代当時、一番の問題となったのは高速道路建設であった。バンクーバー市は公的な話し合いぬきに高速道路を市街地のチャイナタウンまで通すことを発表した。これに対しヒッピー・中国系カナダ人ら市民は、郊外の保護・反成長を根拠に激しく反対し、3度にわたった試みにもかかわらず高速道路計画は頓挫した。こうした環境重視の運動は、保守的なショネシーの田園都市志向の都市思想とある意味で同じ路線上にあるように理解され、後者の保守性・差別性はおおいかくされた。
  2. こうしたところに、カナダ連邦政府がバンクーバーの経済成長を目論んでとった一連の新移民政策が登場する。連邦政府は、1986年以降、カナダ経済へまとまった投資のできる移民を、香港返還によって流出しつつあった資本・人口の呼び寄せを狙って奨励した。その結果、バンクーバーへの投資は増加し、土地取引なども急増して、経済成長がもたらされた。香港の不動産・株式投機で富を築いた富裕な中国人は、バンクーバーの最高級住宅地として誉れ高いショネシーに移民先の住所を求めた。このあたりの物件価格は1千万カナダドル(巡検当時の為替レートで10億円)は下らないといわれるが、苦にならなかったのであろう。しかしショーネシーにすでに強く存在していたアングロサクソンのアイデンティティに基づく「リバブル(住みやすい)シティ」の思想の実践は、逆に中国系の人たちのアイデンティティを否定し、排除した。香港中国人が古い英国流の家をとりこわし、風水思想にしたがって木を切り倒そうとすることに、激しい非難の嵐が巻き起こった。カナダにおいて、より「啓蒙的」とみえる文化的多元主義は、いまだ同じ空間では実践され得ず、必然的に、より差別的な空間的多元主義を伴なわざるをえないのである。


その後レイ教授が迎えに来た。水岡先生が日本のデパートで買ったおみやげを渡すと、レイ教授はその場で包みを開いてみせた。中身は壷。日本人はプレゼントされた品物はその場で包みを開かず帰ってから開けるのがエチケットとされるが、欧米圏ではその場で開けるのが礼儀とされる、ということを聞いてはいたが、事実その通りだとつまらないことに感心した。

ショネシーの住宅が広い区画を持ち、わざと曲がりくねった街路を持っているのに対し、そのすぐ南側の「第2ショネシー」と通称される住宅地に進むと、直交型街路で1軒の区画はより狭く、格が一段下がることは、景観ですぐに判る。しかしここでも、建築規制が強まっており、それにはっきり違反して建築された住宅には、何年も買い手がつかない。このあたりの売り家の看板を見ると、広東語風の姓をもった担当者の名前が大書してある。アングロサクソン系住民の不安をよそに、このあたりの物件の上得意がいぜん香港中国人であることが明らかだ。不動産資本はここに住みついているわけではないから、アングロサクソンのカナダ人から安く物件を仕入れて、香港中国人に高く売りつけてしまえばそれで終わりだ。こうした不動産資本の論理により、この地区の建造環境と住民の社会構成は、今後どう変わってゆくのだろうか。

車はショーネシー地区のとなりにあるフェァビュウ地区にはいった。ゾーニングのために、16番街を境としてショーネシー地区とは明らかに異なった都市景観が展開する。ショーネシーには、商業機能が全く許されないが、こちらには多数の商店がならんでいる。建物は、ショネシーとは対照的に、小規模で、ポストモダン的な個性をもったスタイルがめだつ。この地区はウォーターフロントの後背地にあたり、かつては単身労働者の長屋住宅がたちならぶ低所得者居住地域であった。しかしその後、ウォーターフロントでの公営住宅の開発による外部効果で、再開発が進んだ。現在の住民の社会構成は、ショネシーと異なり、高所得から低所得までを含むより多様なものとなっている。

丘陵上にあるこの地区から、フォールスクリークにむけて歩道橋が架けてあった。この歩道橋は、公園との一体性を保ち、自然環境を生活の場にとりいれるために、木々が植えられ、自然石が配置されている。コンクリートを破るように置かれている自然石は現代の都市文明も自然の力にはかなわない、都市文明に対するアンチテーゼを象徴している。公園には、水流や滝をあしらった人工の自然がある。1970年代にバンクーバーを支配した環境主義の思想をわかりやすく表明したものといえよう。

ここでレイ教授はバンクーバーの交通インフラの問題について話してくれた。前にも書いた通り、空港はダウンタウンへのアクセスがあまりよくなく、都市高速道路も存在しない。現在の交通網に対して不満の声が上がっているのも事実だ。そこで空港へのびる郊外電車を敷くことが検討されている。すでに、むかし建設された鉄道線路があって、それを改築すれば電車を走らせることはできるのだが、沿線住民が反対している。その根拠として鉄道敷設により沿線がジェントリファイ(再開発による高級化)され、貧困層にある自分たちが追い出されるのではないか、という危惧がある。他方、電車を建設する側としては、沿線に住宅が立ち並ばなくては乗客を十分集めることができず、経営が困難になる。このため、住宅開発をしたい。この矛盾にも、バンクーバーが、一方で「リバブルシティ」を追求しながら、他方で経済の要因を否定できない、ジレンマをはらんだ都市であることがうかがえる。


その後、車で一路ホースシューベイへ。途中、人の手があまりつけられていない森林が生い茂り、開拓以前のバンクーバーの原景観を残すスタンレー公園Stanley Parkを抜け、1930年代にできたライオンズゲートブリッジLions Gate Bridgeを渡りウェストバンクーバーに入る。この橋は三車線しかない。車線を増やそうとする動きに対し、対岸のウェストバンクーバーの住民は、いまでも反対している。道路が拡張し交通の便がよくなれば、より多くの住民がウェストバンクーバーに流入し、現在の居住環境が悪化するであろう。空間的隔離によって自らの住宅地を有界化し、その高級さという空間的多元性を維持しようという発想である。これも、ショネシーや鉄道敷設に反対する理屈と同様、自分の近隣住区のミクロな住環境を維持しようとするために「リバブルシティ」の思想が保守的に利用される好例といえよう。橋からは、バンクーバー経済を支える大きな埠頭が望まれ、カナダ産の鉱物資源をバルクで積み込んでいる。

 ホースシューベイ Horseshoe Bayは、フィヨルド地形の入り江にあり、ブリティッシュコロンビア州の首都ビクトリアがあるバンクーバー島へのフェリーの発着地点である。かつてはバンクーバーの人々が週末を過ごすための別荘地であったが、カナダ大陸横断道路(高速)がここまで通じたために、この地も通勤圏になりつつある。この日はlabour day(働く人たちの休日)という、夏最後の祝日のため、多くの人で賑わっていた。港のほとりにあるレストランで食事。レイ教授によると、おすすめは英国風のフィッシュアンドチップス(フレンチフライつき白身魚のフライ)だそうだ。たしかに身がこぼこぼしていて非常においしい。


帰路は、ハイウェーを通らず、ギネスが開発したブリティッシュ・プロパティBritish Propertiesと呼ばれる丘の上の高級住宅街を左に目にしながら、車を走らせる。このあたり、ウェストバンクーバーは、雄大な太平洋に面する風光明媚な地で、最近ショネシーと同じぐらいの物件価格に高騰してきた。にもかかわらず、住民の「リバブルシティ」の思想が強く反映された結果、狭い橋に渋滞が起こりがちで空港からのアクセスが悪い。また、ショネシーほどまだ有名になってもいない。このため、ショネシーと異なり、ここに香港中国人住民の姿はほとんどない。ショネシーで香港中国人とのコンフリクトに疲れたアングロサクソンのカナダ人は、次第にこちらに移ってくる傾向なのかもしれない、と思った。


ライオンズゲートブリッジを渡って再びバンクーバー側に戻り、ウェストエンドを通る。この地区はバンクーバー初期の高級住宅地であり、ビクトリア朝の建物が立ち並んでいたが、現在では、次第に高級な高層マンションにとってかわられてきた。なかに、下の部分はビクトリア朝の建築様式を維持し、上の部分に高層アパートを建設するというファサード保存をしている住宅があった。そのアパートは公営住宅として低所得者層に供給されているそうだ。

その後、車は キッツラノKitsilano地区へ行く。この地区は人口増加・急速な都市発展・それにともなう環境問題が表面化した1967年に、多くのヒッピーが流れ込んだ場所で、バンクーバーのヒッピー活動の一大拠点となった。現在、キッツラノの住民は,ヒッピーからヤッピーへと移っている。しかし、ヒッピー好みの、ロマン化された欧州のイメージで英国の田園地方を模した住宅や、こぢんまりとした一戸建て・あるいは木造アパートなどが、まだ裏通りの随所に見られる。アンチ都市文明のヒッピー文化がいぜん認められるこの地区に、かつて環境保護団体グリーンピースの本部もあった。グリーンピース発祥の地であるバンクーバー。「リバブルシティ」の考え方の柱にあるこの環境主義・自然保護の思想は、この地から生まれた圧力団体を介して北極圏イヌイットのリバビリティにまで強くのしかかっている。

もともと,バンクーバーの市政府は、キッツラノの海岸を全部買い取って長い一続きの公園にしようとしたらしい。だがその後この計画が中止され、海岸の所々に公園が散在することになってしまった。その中の一つに、多くの日本人移民が働いていた、いまはなきヘースティングス製材所の建物が移転され保存されていた。


この後、次なる巡検先、ノースウェスト準州の首都イエローナイフで見られるオーロラに胸をおどらせつつ、バンクーバー国際空港へと向かう。空港でレイ教授と記念撮影、お礼を言ってお別れした。このときはまだ、筆者がロサンゼルス−バンクーバー間で予約していたカナディアン航空便に寝坊して乗り遅れていたために、残りのバンクーバーから先の予約しておいた座席がキャンセルとみなされて、筆者の飛行機の予約だけ取り消されてしまっており、1人だけバンクーバーに取り残されてしまい、エドモントン空港で夜明かしして1日遅れでみんなに追いついたものの、結局自分だけオーロラは見られずじまいという、帰国後の土産話にはもってこいの結果になるとは知る由もなかった。

金をケチらず 直行便で 行くんだった (涙)。


[参考]