9月9日の午後の5時にイヌヴィクからアクラク航空機に乗って、我々はツクトヤクツクに向かった。飛行機は、我々だけのチャーター便だった。機材は小型14人乗り、見るからにぼろい。とても心配だ。イヌヴィクからは約150km北にあるため、約30分もこの飛行機に乗らなくてはならない。離陸すると、揺れがすごい。我々のメンバーの一人が体調不良になってしまった。飛行機から見える下の風景は、ツンドラである、木などは存在せず、あちこちには小さな湖がたくさんみえる。
少し現地の地理を紹介すると、ツクトヤクツクは北極海に面していて、人口約1,000人の小さな街だ。北緯69.4度、北極圏より北、アラスカのアンカレッジよりもさらに北にあるのだ。
我々は午後6時ごろツクトヤクツクに着いた、空港の滑走路は砂利で、低いフェンスにかこまれ、誰でも入れそうだ。天気は小雨で気温はとても低く、東京は夏というのにこちらは摂氏2〜5度。スキーウェアを持ってきた甲斐がある。
我々を迎えにきてくれたのは,Arctic Tour CompanyのロジャーRoger Grubenさんと、夫人のウィニーさんだった。社長のロジャーさんは、外見からするとイヌイットの人には見えない。身長が高く、顔は白人っぽい。後で聞いたところによると、ドイツ人の血が4分の1混っているのだそうだ。彼は3年前までTUK(ツクトヤクツクの略称)の村長をやっていたが、その後観光会社の社長になり、現在も村人の尊敬が厚い。ロジャーさん一家は4人家族で、夫人と今年大学受験をする息子が一人、そしておばあさんがいる。空港まで迎えに来ていただいたもう一人はジョニーさんという人物。彼はロジャーさんの会社で働いている。彼は純粋なTUKの人なので、顔は日本人に似ている。ここTUKでは人口95%がイヌイットで、5%は白人だが、かなりの混血が存在しているということだ。
我々は、ロジャーさんの家にホームステイした。豪華な一般の西洋的な家で、先住民の雰囲気が残ってない最新型だ。暖房設備も完備している。しかしここTUKは、上下水道の整備がないため、タンク車に上下水を運んでもらう。シャワーの水もかなり節約しなくてはならない。その晩の夕食は、カリブー(鹿の一種)のステーキとスープだった。カリブーの肉は弾力があって、また特有なにおいがあるため、日本人の好みとあまり合わず水牛のような味がする。
食事中にロジャーさんがいろんな話をきかせてくれた。例えば今我々が食べているカリブーの肉は狩りでとったり、または友人からもらったものである。お金で買ったものではない。そこではコミュニティが重要な役割を担っている。またこの近くに渡り鳥(雁)が飛来し、9月ごろまた南に戻るという。
食事のあと、ロジャーさんは、TUKの生活習慣やInuvialuit最終協約についての話をしてくれた。
まず、ツクトヤクツクの意味は「たくさんのカリブーがある土地」という意味だ。生活の面からみるとここの人達は主に狩りをするのが一般的で、名前の通りここには約3万頭のカリブーが存在する。一家は一年間20頭のカリブーをとる。これは自分の家族で食べるか、友人に配る分である。カリブーは、靴を作るために生皮をとるとか、またpakiesと呼ばれるジャケットやドラム面の材料にもなる。春には雁を狩する。ここには約1万5千頭の雁が棲息し、ロジャーさんは、毎年約150頭は狩ったそうだ。カリブーと同じく、狩ったものは自分で食べるかまた知り合いに配るかである。
またここでは魚を網でとることもでき、ベルーガ鯨の捕鯨も行う。長さは約3〜6mあり、重さは200kgもある。その皮や冬の食料として狩るのである。1955年には年間55頭捕獲し、ピーク時の1970年には85頭も捕獲したが、それ以降捕獲量は減ってしまった。現在も減り続け将来はとても心配ということだ。北極熊やgrissy bear(灰色熊)については、また後に述べる。
TUKの冬は、10月から4月まで。冬の平均気温は−30度、一番寒いときには−60度ぐらいまで下がり、ここまで寒くなると防寒用具も大変だそうだ。夏は5月から9月までで平均気温は15度ぐらい。寒気が入り込む頃とくらべだいぶん暖かくなる。夏は、イヌヴィクに行くには飛行機しかない。非常に不便なので、30年前にカナダ政府が道路をつくる予定があったが、その費用として1億5千万ドルかかるので道路は建設されず、夢の一年中整備された道路は実現しなかった。冬は凍った水面を道路代わりにイヌヴィクまで車でいけるので、しばしば人々は買い物に出かけるとのことである。
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この合意が持つ意味は、第1に、白人政府とイヌイットとの間に合法的な協約関係を結ぶことにある。南部諸州による連邦政府は、ハドソン湾会社の所有地を委譲されるという形でイギリスとの間にテリトリーについて条約を結び、統治の正統性を確保してきた。ところがイヌイットの関係については、正式な協約関係がなく、イギリス植民地支配の政治関係をそのまま引き継いだ格好となっている。このことは国家が公式に認める民主主義の思想の根幹にかかわる問題であると同時に、現実の経済・社会諸活動におよぶ法的な問題である。先住民の権利・自立意識の高まりに対応し、先住民に対する合法的・合理的な権利関係を公式に策定しなければ、今後の極北地域での資源開発などに反対運動の形で影響が出ることは十分に考えられる。協約がないままだったなら、こうした運動の主体が主張するであろう帝国主義的な植民地統治によるイヌイットの空間に対する権利の収奪という国内的・国際的批判に、現在のカナダ連邦政府は応えられなかったであろう。
第2には、この協約は、それがしばしばland claim(土地への権利)と関連付けて語られるとおり、イヌイット権限の及ぶ排他的な領域を認めた。カナダの連邦政府側からすれば、居留地と引き換えに、他の広大な空間について正統な支配権を獲得したことになる。イヌイットの側からも、それまで自らの排他的空間というものを持たなかった状況から、空間の権利を法的に獲得することが出来たことは、進歩だという見方もありうる。しかし、領域が明確に決定された形での土地所有は、彼ら本来の権利の回復であっただろうか。イヌイットが植民地支配によって土地を収奪された時、イヌイットたちは狩猟で生計を立て、常に移動するノマド的な生活様式を持っていた。そこでは、広大な大地はだれの所有でもなくだれでも自由に利用できた。定住し、そこにおいて有界化された領域を排他的に専有するという空間概念は、そもそも、イヌイットたち自身のものではなく、欧米的なものである。厳密に言うなら、欧米的空間概念に同化されたイヌイットが、それにもとづいて、欧米的な社会関係にのっとって権利を主張したということになる。これは、植民地以来カナダの白人政府が推し進めてきた資本主義社会のエートスがイヌイットの意識や行動様式をも支配し、彼らの白人社会への同化が進んだことを意味するにほかならない。
第3には、協約は、国有地(Crown land)とされたイヌイットの空間への権利の一部が貨幣で補償され、それを元にした経済発展という選択肢がイヌイットに提示されたことである。この補償金を、イヌイットたちはどのように支出しているか。ロジャー氏によると、この補償金を元に、イヌイットは基金を設立し、自ら散在する集落とイヌヴィクとを結ぶ飛行機会社やはしけ会社の経営に乗り出したり、社会保障を行なったり、教育プログラムや奨学金の提供などの、経済的発展と自立、生活水準の向上、将来の世代への投資を行っているという。同時に、基金自体が目減りしないように投資も行なっている。ロジャーさんによると、1998年現在、基金は3.05億カナダドルまで増えているという。しかし、アジアの活況を受けて香港に2.5億カナダドル(約250億円)の投資を行っていたものの、経済危機の影響を受けて困った事態にもなっているともいう。資本市場のグローバル化がカナダの極北までおよび、そこで経済的な自立を模索しているイヌイットに否定的な影響を及ぼしているのである)。この補償金が最終的な一時金であることを考えると、この補償金をどのようにして生かしていくのかは、イヌイットにとって決定的な問題である。
とはいえロジャー氏は、協約の対象領域全部に、あらゆることにつきイヌイットの権限が及ぶことをしきりと強調していた。そして、今回のイヌイットの事例を先例として、他地域の権利獲得運動を促進したいとも述べていた。しかし、イヌイットにとってこの協約は自らの利益になるのだろうか。自分達がもともと住んでいたところに白人が勝手に入ってきて、白人の土地所有概念、すなわちあらゆる土地には所有者が存在するという観念をおしつけた。彼らはもともと自然の中で生きていた。定住せず動物の群れを追いながら生活していた。しかし、取引を容易にしたいという白人の都合によりイヌイットたちは居住場所をさだめるようになった。そして次に白人たちは、イヌイットたちの土地を奪って地下の資源をを掘るために協約を結んだ。これは、イヌイットたちにとって先にのべたとおり最初と最後の条約である。このため、もはやイヌイットたちは権利を拡張することができない。これでは、イヌイットたちにとって、将来が明るいとはいいがたいのだ。そして、ヨーロッパ的な土地所有概念、定住という生活様式、基金の運用を通じたグローバルな資本主義経済へと、イヌイットたちは統合されていくことになろう。
そのあと各自は別々に分かれて寝ることになった。
その晩、著者とゼミの長老者は外でテントの中で寝るのことに挑戦した。外気はとても寒く、風も強い。しかしテントの中には薪入りの暖房があり、とても暖かい。ここでは、今の夏の時期は、夜の10時になっても日が沈まず、とても明るい。寝る前ロジャーさんが薪をたくさん切っておいてくれた。我々もちょっと薪割りに挑戦したが、なかなか難しくて大変だった。寝る前には暖炉にたくさん薪を入れたが、朝の5時ごろ薪が切れてしまい、急に寒くなったため、いったん目が覚めた。(後で聞くと、家の中の方がもっと冷えていたという。)
9月10日 朝から、ロジャーさんが集落の中を案内してくれた。初めに案内してもらったのは、ピンゴ(pingo)と呼ばれる小さな山みたいな変わった地形である。ピンゴの高さは一番高いものでも約60m、中身は氷そのもの。ピンゴは、永久凍土が氷をもりあげてできた。氷の下にはまだ凍らない水があって、この水が凍り始めると、上にある氷を盛り上げてしまい、1年には約1cm高くなるそうだ。TUKには約400個のピンゴがあって、歩いて行けるものもあるそうだ。ピンゴは、カナダ政府指定の自然保護区になっており、TUKのランドマークとして観光客がよく訪れる。
その後、TUKの下水池を見にいった。ほとんどの下水は家庭からくる。近くにゴミ捨て場もあって、環境問題になっている。ここは南と違って気温がとても低いため、微生物の分解作用があまり働かないので、なかなかゴミや下水が分解されず、廃棄物はそのまま残ってしまう。ゴミ捨て場には機械類や車・家電製品や生ごみが一緒に捨てられていた。その乱雑さは、見るも無残としかいいようがない。やはり問題なのは、現在の人口の増加や商品経済の浸透に伴う廃棄物の増加である。ゴミが増加しても、ここにゴミ処理場を作るのはコストがかかり過ぎるし、また別のところに運ぶのも大変なため、どうしようもない状況になってしまうのだ。
その後、われわれは移動中に泥道にひっかかってしまい、動くことができなくなった。全員車からおりてロジャーさんが15分ぐらい戦ったところ、泥沼から逃れることができた。TUKの道はとてもひどかった。特に今年の9月は毎日雨。だが、TUKでは道はほとんど土や砂利でできている。この素材は南の遠い所から土を運ばなくてはならないためコストはとても高く、1m3約30ドルかかるということで、なかなか修復作業が進まない。
そのあと、石油会社の開発基地と宿舎跡を通った。建物は、American Oil 社とGulf Canada 社の2社のものがある。1980年以降の石油価格の下落によって、生産の利益が出ないために、開発はストップされてしまった。この辺境地での運営のコストや輸送手段に金がかかったためで、閉鎖によってこの地域の人達にとってかなりの経済的なダメージであった。巨大な、人気(ひとけ)のない会社の宿舎が大自然の中で立っているのは、不気味である。やはり現在活気の失われつつこの街の活性化のためにはぜひ開発を再開してほしい、とロジャーさんがつぶやいた。
石油会社の隣はTUKの発電所があり、ここの1,000人分の電気を供給している。この発電所はここの住民の所有ではなく、連邦政府所有となっている。大体の家庭は電気が通るそうだ。近くにはTUKの一番大きい物資供給基地があり、この基地はNorthern Transportation 社所有である。この会社はイヌイットの経営で、規模は日本の漁港の1/10くらいだが、ここの住民にとっては大切な港である。イヌヴィクからの船は週に1便しかなく、買い物や通販や郵便物を運ぶ役割を担っている。この地域では買回品の購入に通販が盛んで、ロジャーさんの家もたくさんのカタログがあった。中の値段はかなり安い。とくに、通販の送料は、カナダ国内として南部諸州と同一料金なので、輸送費を上乗せして高く売っている地元の商店より割安感が高まる。しかし、6月から10月までしか港が使えないので、住民はほしいものを一度に沢山たのまなくてはならない。さもないと来年まで待つことになるのだ。港が使えない冬は飛行機や氷上道路を使って物資を運ぶ。
港の近くには早期警戒レーダーステーションがある。無防備のように見え、歩いていけそうだ。レーダーステーションは1960年代に作られ、冷戦時代に主に活躍した。しかしソ連が崩壊した今となっては、軍事目的としてほとんど使われず、北極におけるカナダ空軍の救助活動のナビゲータとして利用される事が多い。ちなみに冷戦が終わった今は、軍備の予算カットのためここに空軍もおらず、遠距離操作でコントロールされている。また、ここには、日本の北海道大学のレーダー基地もある。
TUKにはTuk Innというホテルもある。驚いたことに40人も収容可能で、サイズとしてこの辺境地にとっては大きすぎると思われるが、後で聞いた話によるとやはりお客が単独で来るところではなく、まとまって来る団体が多いようで、このニーズに合わせホテルが大きめにつくってあるとのことだ。モーテルのような簡易なつくりだが、単独で泊まると、150ドルはするという。
TUKに病院というものがない。あるのは診療所で、4人の看護婦が常駐しているが、常任の医者はいない。1ヶ月に一回しか医者が診断しにこない。また、歯医者は3ヶ月に一回巡回しにくる程度だ。回数として決して多いとは言いがたい。だから一般的な病気(風邪のようなもの)や応急処置しかできず、重い病気や手術、入院はイヌヴィクまでいかなくてはならない。患者は、時間の問題があるので飛行機で運ぶことが多いという。
病院はなくても小さな警察署はあり、警官が5人働いている。内訳は、白人4人とイヌイット1人。「支配」の力が、民族としてのイヌイットの外からきていることがわかる。とはいえ、TUKは静かなところで大きな犯罪はなく、また人口も少ないため、4人がちょうどいいサイズであろう。パトロールする警官は非常に一般人に愛想がいい。人口の少ないせいか多分ほとんど顔見知りなのだ。一人の若い婦警は、真昼の3時、制服姿で、ここのスーパーマーケットでPSのゲーム(FFT)を買っていたのを我々は目撃した。その後彼女は、我々が日本に帰る前の晩にわざわざロジャーさん宅に警察グッズをもって売りに来た。(チャリティー活動らしく、案外安かった。私は警察の帽子をつい買ってしまった。
そのあと我々が見たのは、地下冷蔵庫だ。これは永久凍土(ツンドラ)まで穴を掘って、一年中零下25度をずっと保つという自然の冷蔵庫である。この冷蔵庫は個人の所有物ではなく、コミュニティの所有である。深さは11mもあるため、降りるのにかなりの勇気が必要である。井戸を上り降りする梯子はとても小さい。肉や魚をどのように下ろすかは不明。人間が降りるのもとても恐く、失敗は許されない。一人が落ちると皆つぶされる。またとても寒いので5分以上中にいるのはつらい。穴の中には一杯小さな部屋があって、すべてドアがあり、それぞれカリブーや魚の肉などが氷の地面にそのまま置かれている。天井は低く、この辺の人のサイズにあわせて作ったかもしれない。
お昼のあと、我々はイヌイットの民族衣装を着てみた。このような衣装は、ほとんど店でなく、家族内で生産さている。衣装はいろんな種類の毛皮が利用して作られ、カリブーや熊、アザラシなどが材料となっている。家の中で着るととても暑い。コンビネーションとして衣装の基本は、コートと手袋(これはすごい発明だ、ちゃんと落ちないように服と繋いである。)そして皮のブーツ。ブーツは暖かくてソーセージに似たにおいがする。ブーツの値段は70ドルから200ドルまでさまざまらしく、ロジャーさんのお母さんに頼めば、120ドルで作ってくれるそうだ。
その後、我々は北極海の海岸に向かった。海岸とはいえ、目の前に広がっている風景は砂浜ではなく、小石の海岸になっている。寒くて凍えそうになってしまった。海水浴する人は誰もいない。珍しくきれいな石が沢山あり、私は記念に1個もって帰った。そのあと我々は北極海にはいることに挑戦したが、素足では水温がとても低いためすぐにあがってしまった。(この寒さなら、タイタニックの主人公がなぜ死ぬかは肌で実感できる。)
そのあと我々はTUKの教会を見にいった。教会は、Anglican(英国教会)とRoman Catholicの2つがある。1937年、Anglican教会が先につくられた。この教会は、昔のTUKの中心部にある。教会はお祭りなどの主催地にも使われている。中に入ると、壁に信者の名前がはってあり、イヌイットの名前ではなく、西洋化した名前が目立つ。宗教に関してTUKの人々はほとんどクリスチャン化されており、教会の影響が強いため、ここがコミュニティの中心になったのだ。もともと文字のなかったイヌイットの言語に文字を与えたのも、教会の宣教師たちだ。ここのイヌイットの言語は、アルファベットをあてて表記する。西のほうには、三角や丸など、独特の形の文字をあてたイヌイットの言葉もある。
こうして市内の視察が終ると、我々は自由行動で各自土産物店やスーパーに寄った。TUKには4つのお土産屋がある。ロジャーさんのお勧めは、イヌイットのお婆さん一人で経営している小さな店だ。営業時間はいつも気まぐれだが、今日は我々のためにわざわざ店を開いてくれたそうで、入るといろんな工芸品が一杯並んでいる。ここの品物はすべてお婆さんひとりで作ったので、値段は安く、消費税もとらなかったため、とてもよい買い物ができた。すぐ近くには、イヌヴィクと同じくNorthern という、白人が営業するスーパーがある。これは、イギリスによる植民化の時代に極北部に進出したNorthwestern Companyの末裔の会社が経営するものだ。ここには一般のスーパーと同じくらい品物が揃っていて、北米のどことも変わるところがない。しかし1〜2割ぐらいは他と比べ値段が高いのが特徴だ。輸送費によるものと推測される。店に入った時ちょうど学校が終わる時間であったため、子供がいっぱいいた。我々を珍しい目で見るので考えてみたら、ここにはやはり観光客がまだ少ないということに気付いた。観光客といえば我々より先に渡辺謙が来たらしい。
TUKは、そんなに古い集落ではない。イヌイットたちは、むかし定住地をもたなかったため、いまのTUKになったのは100年もたっていないのだ。町の発展は特に戦後から急に行われた。理由の一つは、石油の発掘が人口の移住を増やし、町の経済活動の規模も拡大した。もう一つは冷戦時代の北方防衛のレーダー基地としてカナダ空軍の駐屯地となった。しかし80年代に入り石油の値段の下落や冷戦体制の崩壊のため、労働者や空軍部隊がいなくなったため、今はいまひとつ活気がない。という状況だが、いまイヌイットたちは、観光やいろんなビジネスに手をつけ、自分の力でなんとかやっていこうとしている。とはいえ、やはりTUKは辺境であるため、あらゆる公共設備が足りない。電気はあるが下水道はなく、また医療機関も自立できるほどのものは揃っていない。ここでやはり一番問題となるのは、運営費用である。1.52億ドルの補償金をイヌイットに払ったカナダ連邦政府は、これ以上イヌイットのためにお金をつぎ込むことは難しくなったのだ。
晩御飯の後、我々はイヌイットの一般人である、Nasogaluak夫婦のHenryとMaryさんを呼んで話を聞かせてくれた。この夫婦は、いぜん伝統的生活様式を維持し、狩がおもな収入源となっている。1年のうち10ヶ月以上は外出なので、家はほとんど留守。夫Henryさんは主に狩中心の生活で、特にアメリカ人の観光狩猟客相手にガイドをしている。北極熊の狩りをしたかったなら、彼が所属しているBOGS(狩りを案内する人の会)の紹介を通じなくてはならない。白熊1頭をるにはあわせて約20万円以上の費用がかかる。彼にとってこの仕事はなかなか良い収入であり、妻のMaryさんは主に通訳と夏キャンプの手伝そして夫の狩りや罠の仕掛けを手伝うなどしている。
TUKといえば、ここの天気はNo dark in summer, no light in winter(夏は闇なし、冬は空黒き)という短い言葉で定義できるのだ。夏には毎年、イヌイットの子供たちむけのキャンプがある。キャンプは連邦政府や子供の親達の援助金によって運営され、イヌイットの子供たちに、その文化やライフスタイルを教える。例えば、イヌイットの言語・水泳・罠のかけ方・食べ物の保存・狩りのやり方・捕獲したものの洗い方や調理のしかたなどを教えてくれる。このキャンプの参加は強制的ではなく、また年齢を問わない。参加者は小学生から高校生までいて、毎年TUKの子供の半分が参加している。キャンプは主に5月から8月まである。ちょうど一番天気のいいこの季節、学校は休みになり、夏休みに子供たちをキャンプに参加させるのだ。
コミュニティーは例えば1年間北極熊の狩りできる頭数を制限していて、1年間には15頭しか狩れない。そうではなければ、熊が絶滅する恐れがある。熊のほかにカリブーなど異論な動物も狩の制限対象となっている。また狩にはquick kill(速効殺)というタイプの罠を使用しなくてはならない。この罠の特徴は、動物の首をはさみ、すぐ首の骨を折って動物が苦しまずに殺せることにある。しかし欠点は、首のあたりに傷がついてしまい、毛皮の品質が悪くなることで、毛皮を取る人には頭が痛い問題になっている。従来の型、leg holeは足だけはさむ形で、動物を疲れさせたあと、取りに来た時殺すやり方だが、「リバブル・シティ」バンクーバーで誕生し、いまやグローバルに活動する環境保護団体グリーンピースGreenpeaceなどによって、leg holeを用いた狩の行為は「悲惨」とされ、裁判にまでなったこともある。もしイヌイットたちがleg holeタイプを使用すれば、グリーンピースとトラブルになりかねない。そして罰金として約3〜500ドル取られるそうだ。グリーンピースはいつもイヌイットたちの狩猟活動にいろいろ圧力をかけ、毛皮の取り引きを邪魔することや市場を封鎖することもしばしば起こしている。グリーンピースは、主に、先進資本主義国の都会に住む人々によって構成されている。その思想は、狩りを悲惨なものとすべきではない、という口先での哀れみを持つ都会人のそれにすぎない。これが、実際に長い間自然の中に住み、伝統的生活様式をし、狩りをやって限られた数だけを狩り、自然のバランスを保ちながら生活してきたイヌイットのマイノリティたちに、大変な圧力を加えるのだ。そこで生活する人こそ、自然の実体がわかるのではないのか。もう一つ彼らにとっての問題は、quick killという罠の値段だ。一個あたり15ドルもする。この夫婦の場合今約2,000個保有しており、全部で3万ドルの罠代。車1台より高いのにおどろく。
イヌイットが狩りをやる時には場所が定まっていない、イヌイットたちに、土地の排他的所有の概念が非常に弱いのは、ここからくる。TUKから離れるとすぐカリブーや野生の熊の生息地になるので、好きなときに狩りなどしにいく。しかし罠をかける場所や魚をとる時の場所が個別に決められて、個人が責任を持って管理しなくてはならない。罠を仕掛ける時には2人以上の立ち会いが必要とされる。外部の者がもし単独で狩りなどをやると、方向がわからず、すぐ道を迷ってしまう。そのため現地人のノウハウが必要とされ、ガイドを雇わなくてはならない。一般の人が飛行機に乗り、上から射撃して動物を射止めても、結局狩ったものを取りに行くのは現地人だ。イヌイットが実際に魚をとるやり方は、次の日に披露してもらった。
TUKの人々は半分以上失業中。もちろん理由は、雇用機会が少ないからだ。定職としての雇用機会は、政府機関の人達や空港だけで、その他の人々は夏には道路や家の修復作業をするか、また民間投資の労働者として一時的に働くしかない。もし冬でも働きたい場合は、南の方の都市、アルバータ州エドモントンなどに行って職をさがす。また税金に関して、裕福な者は、地方税と所得税あわせて約25%税金を支払わされる。
しかしここでは、働かなくても、イヌイットたちは国の社会保障金で生活ができる。国の住宅に住めば、光熱費もただ同然、ちなみに家賃は月に32ドルという激安で、おまけに65歳以上ならば全くただで住まわしてくれるという特典付きだ。しかしTUKの冬の寒さが大変なので、年寄りは大体暖かい南の方に移住してしまう。ここの家はほとんどプレハブで、ほとんど作り終わったものが船で運び込まれる。(カナダのこの技術が日本の家にも普及したことを思い出そう)。遠距離にあるため、家をつくるのに輸送費が高く、一軒の値段は1500〜2500万円と非常に高い。普段もし自分の家を構えれば、光熱費は1ヶ月に1千ドルもかかるし、ローンなどを考えるとやはり自宅を持つ人は約3割しかない。
生活様式をみると、イヌイットにはまだ大地の自然との関わり合う部分が多い。狩を中心する人々がまだ大分いるのだ。しかし昔と違って、いまは貨幣経済の時代であるため、自給自足経済は貨幣の普及によって変わってきた。貨幣経済の領域の中に囲まれるかたちになり、生活を存続するためにお金という物を稼がなくてはならない、昔定住していなかったイヌイットたちは、白人たちの影響によって、取引をし易くするため定住を余儀なくされた、昔のように自由に獲物を追うことができない生活になじめず、飢え死にする者もいた。このような状況の跡はいまも多少みられる。定職は長続きしないこともある。他方、罠も狩のやり方も「現代化」され、伝統様式は忘れ去られてきた。また、グリーンピースなど外部の圧力にもさらされている。貨幣経済・欧米白人の価値観と昔の伝統的生活の板挟みになり、イヌイットたちの生活は決して楽ではない。福祉の面を見ると、確かに色々な補助がもらえているが、それは政府が、こうした板挟みにあるイヌイットたちを口封じするためのお金ではないのか。先にのべたように、協約によって確かにイヌイットたちは大金がもらえたが、自分の空間への権利(これは移動などの自由への権利を含む)が失われる結果になってしまった。
9月11日 我々はIlisarvik Mangilaluk Schoolという、地元の学校を訪問した。
合衆国のアラスカ州で永年教鞭をとり、極北部の教育にはベテランという校長先生が我々を出迎えてくれた。まず校長先生は図書館で話をきかせてくれた。この学校は1953年に開校した。昔は貨幣経済が普及しなかったため人々はなかなか子供を学校に通わせようとしなかったが、現在の社会経済システムに追い付くために、子供たちは学校に通わなくてはならない。学費は無料なので、現在ほとんどの子供たちが通っているそうだ。とはいえ、スーパーにある郵便局には、「子供を学校に通わせよう」というキャンペーンポスターをみつけた。まだまだ教育に関心をもたない親もいるのだろう。学校は、1年に185日授業がある。先生は10日多く、195日働かなくてはならない。朝9時から午後4時まで授業があり、10クラス編成で、幼稚園から高校まで約300人が在籍している。
ただし障害児のための設備はなく、障害児を持つ家庭は、子供をエドモントンやイエローナイフまで送らなくてはならない。また家の遠い人には、通信教育も行われ、本や材料は遠くエドモントンから取り寄せ、生徒の家に届けられる。現在12名がこの制度を受けて、毎日学校側が宿題を出しているが、家にいるためなかなかやる気が起こらないという欠点、毎日出している宿題を本人が本当にやっているかどうかはチェックできないこと、先生を送って家庭訪問をさせることが出来ないので、勉強の実体は把握不可能になってしまう、と校長先生は悩んでいた。
学校の一年当たりの予算はとても少なく、カナダ政府は生徒の頭数で教育予算をふりわけるので、年間15万ドルしかなく、足りない状態である。スタッフは25人いるが、給料は低く、ボランティア精神がないと続けられない。スタッフらは校内だけではなく、社会のためのいろんな活動も参加している。最近不況のため、中央政府の教育予算カットで6%がカットされ、ここの先生の数も減った。
夏は天気がいいため、子供たちは狩りやキャンプにいく。しかし冬になると外が寒いので子供たちは学校の中で遊ぶ。ここには最新型の体育館があって、ホッケーなどができる設備だ(ホッケーはカナダの国技だよ)。外気が零下30度のとき、校内を+20℃に保つのだから、光熱代だけで相当の予算がなくなる。校内には、TUK全体で唯一の図書館がある。蔵書は約2万冊だが、英語で書かれたものばかりで、イヌイットの言語で書かれたのは、たった1冊しかないという。偏ったことだと実感できる。学校の予算が少ないため新聞や写真館が持てない。給食もない。子供は、大体自宅に帰り昼飯を食べる。家の遠い子の場合には、学校にお弁当を持参する。朝は牛乳ぐらい多少でるが、全員分は配布できない。校長先生によると、合衆国の学校ならば朝も昼も給食できるということだが、ここはとても予算がないという。図書館でさえ窓が割れ、予算不足のため修理されていない。
通学手段としては、徒歩以外、1台のスクールバスがあり、TUKの村によって運営されている。やり方として先に年上の子を先に迎え、小さい子供はあとで迎えにくるシステムとなっている。(冬の寒さを考慮して考えたものだ)。昔バスなどがなかった時代、学校に通うことは特に冬のとき至難の業だった。この学校は基本的にはいくら気温が寒くても休校にはならない。だが風の強い日だけは、スタッフや子供の安全のために休校する場合もある。生徒たちのまじめさは我々も感心するものだ。
この学校もやはり一般の学校と同じく不良生徒、アルコールや麻薬の問題をかかえている。教育の問題は南の学校と同じくやはりイヌイットだけの問題ではない。外部の悪い文化や習慣はイヌイットの若い世代に浸透してきた。それを対抗するのに生徒を校外の悪い人達から守るだけではなく、学校内の不良生徒からも真面目な生徒を守らなくてはならないとのことだ。黒板の上に生徒の権利を書いて張ってある。
生徒の卒業後の進路を見てみよう。今年の高校卒業生は9人いて、8人が大学に進学することになっている。とても進学率が高いことに驚いた。校内の高校生全体は50人しかいないため、先生が生徒一人一人の面倒をきちんと見られるという有利さがある。大学は最も近くてエドモントンまで行かなくてはならない。大学卒業後は、南の方に定職があれば戻ってこない人もいるし、先生や職員として戻って来る人もいる。このほかイヌヴィクには専門学校があり、基礎のトレーニングを2年経て、そのあと実際に2年間ぐらい訓練をやり、合計4年間で卒業できる実業コースもある。やはりイヌイットたちが地元に戻って働けば、地元のことをよく知っているため、コミュニティのことをよく理解できる人材となる。こうした人々は増えてきており、大変喜ばしく、これからも是非増えてほしい、と校長先生はおっしゃっていた。
その後我々は学校内を視察した。中学2年生のクラスの授業をみて、面白いことに気付いた。私が日本の高校(東京学芸大附属)に留学して経験したクラスの雰囲気の冷たさ、何か静かで寂しい雰囲気とは反対に、この学校の雰囲気には緊張感がなく、対話式に行われ、意見などを自由に言える暖かい感じがする。もう一つの印象は、授業でやっているの数学が非常に簡単であり、高校2年生なのにまだ小6の算数をやっているし、他の科目も簡単である。教育の内容や質に関しては、やはり問題があるのではないか。立派なパソコン室もあって、機械自体はそれほど古くないが、インターネットには接続していない。やはりこれも予算が足りないからだという。
最後に日本からはるばる来たお客としてちょっと授業に参加して日本のことを紹介してくれと我々がたのまれて、早速小学生4年のクラスにお邪魔した。イヌイットの子供たちは恥ずかしがりやで、なかなか日本についての質問してくれなかったが、帰る寸前に一人が走ってきて小声でこう質問した:
学校は一つのシビル・ミニマムであるし、また一国の空間を横断的に統一基準に達しなくてはならない。このとき、TUKのような辺境の学校は、環境条件が過酷のため、特に運営費やコストがかかる。しかし政府の予算は頭数に振り分けるため、多少の配慮を行ってもとても足りないという結果になってしまう。そして、設備不足・教育水準低下といった問題が発生する。こうして必然的に出てくる教育水準の空間的な多様性は、多元主義・「分権」の思想から微妙な支持を受けて、北に大きな「辺境」をもつカナダに、安上がりの政府という 'neo-liberalism' を正当化する論理につながって行かないだろうか……。
その後、我々は、ジョニーさんと一緒に、イヌイットの生活様式を実際に見るため、魚を取る所に小船(5人乗り)で湾の対岸に向かった。岸辺の海に網をはり、薪でお茶を沸かした。使う飲み水は途中で小さな湖からとってきた。お茶は一般の市販ものだが、なんとも言えない味がしてこの寒い中とても暖まる。その後ニシンが網にかかったところで水揚げをし、ニシンの生卵を食べさせてくれた。日本の数の子より卵はかなりサイズが大きい。ちょっと生くさいがおいしかった。そのあとウィニーさんが来て、ニシンをクッキングフォイルで包み蒸し焼きにした。我々の立つツンドラの大地には、black berryがいっぱい生えていて、我々も摘んでみた。味はあまりないが、ジャムの材料としてちょうどいいらしい。魚がそろそろ出来上がるころ、雨が降ってきたのでテントのなかで雨宿りし、テントで美味しい焼き魚をたべた。イヌイットにとって、狩りをすることや川の魚をとることは、我々の感覚といえば、冷蔵庫からものを取り出すみたいな感覚であって、食べたい時にとればいいということらしい。だからこそ、この大地の恵みは、イヌイットにとって誰も奪うことのできない大きな宝物なのだ、と我々も実感した。
午後4時半、ロジャー夫婦やジョニーさんとお別れをして、我々はツクトヤクツク空港にむかった。人気の少ない空港で、最後にロジャーさん・ジョニーさんと写真をとり、名残惜しいお別れをした。空港には大きいな白熊の剥製があった。小さな女の子4人が遊んでいて、皆がTシャツ1枚だけだった。寒くないかと思いきや、やはり寒さに慣れているのだろうか。そのあと我々は、5時発の小さな飛行機にのって、ツンドラを越え、再びイヌヴィクに戻ったのだ。
その晩我々はドイツ人が経営するマッケンジーホテルに泊った。夜中の2時までパーティーがあり、うるさくてたまらなかった。我々はゼミの打ち上げで近くの自称中華料理レストランに行った。中華料理といってもちょっと違う。甘くて味はとても変。皆もかなりショックだった。特に野菜が少なく、肉系が多い。ここではやはり野菜が貴重で肉より高いそうだ。この地方が野菜など栽培できる自然環境でないからなのは、明らかだ。
朝の8時から、Inuvaluit Final Agreementでイヌイット側の交渉家となった白人の専門家に話を聞いた。その後自由行動になり、我々はお土産の買い物をした。ここにはTUKと同じくNorthern Storeがあり、そこには、何と世界一北のPizza HutとKFCがあり、早速入った。KFCでは小さなKFCおじさんの貯金箱が3ドルで売られていた。早速買うことにして、店長のサインをもらい、今回の巡検の一番思い出あるお土産になったのだ。
(2年 チャッカラパン ユワリ Chakraphan Yuwari)