【概要】 |
17回目を迎える2009年度水岡ゼミナール夏季巡検で、わたしたちは、満洲と極東ロシアの地を訪問しました。
戦後60年という節目の年を越え、かつて日本が満洲の地に建設した「満洲国」への関心が高まりつつあるのを背景に、多くの日本人旅行者が満洲の地に足を運んでいます。日本では、満洲国に関連する多くの文献やホームページを目にすることができます。 わたしたちは、巡検に際し、テーマとして3つを設定しました。 一つ目は、列強間のフロンティア争いというテーマです。満洲族の固有の土地であった満洲という空間は、清朝の弱体化に伴い、18世紀半ばに急増した漢民族の流入に加え、19世紀末から20世紀半ばまで、ロシア・ソ連と日本という諸アクターのせめぎ合いの場になりました。世界中で列強諸国によるフロンティア拡大が行われる中で、アクター同士がどのように関わったか、また、その力関係が空間編成にどのような影響を及ぼしたかといった点に着目しました。 二つ目のテーマは、建造環境の持続性です。日本が満鉄附属地ならびに満洲国で実施した都市計画を学び、戦前の地図と現在の都市空間とを見比べることによって、今なお、どれだけ多くの街路網や建物などの建造環境が維持されているか、あるいは、変化しているか、という点を実際に自分たちの目で確認し、経済地理学に特有である建造環境の概念への理解を深めました。 三つ目は、政府の無責任さというテーマです。満洲国時代に、開拓団、インフラに従事する職員など、多くの日本人が本国から送り出されました。しかし敗戦後、高級職員は特別列車でいちはやく日本に戻ったものの、庶民は見棄てられ、命からがら日本へ帰国した者、残留孤児として置き去りにされた者、ソ連軍や現地の郎党に虐殺された者、ソ連に抑留された者と、それぞれに壮絶な運命を辿りました。私たちは、その最期の地へと赴くと共に、かつての開拓村を訪問し、無謀な開戦をした日本が、国民を戦争へと煽りながら、結局いかに無責任な対応を国民に返したか、現地で学ぼうとしました。 以上の3つのテーマを中心に、18日間に及ぶ巡検を行いました。日程は、日露戦争の激戦地となった旅順に始まり、北上して、第二次大戦敗戦後の軍事裁判が行われたハバロフスクへと向かっていくという足取りをたどりました。これは、日本が大陸に足がかりを築き、フロンティアを拡張し、そして潰え去った歴史的経過を大まかに再現しようという意図からきています。読者の皆様には、祖国を離れ、しだいに大陸の内部へとフロンティアを広げていった日本の有り様を、私たちと共に、追体験して頂ければと思います。 なお、本巡検報告では満洲の地域を表す呼称として、「中国東北部」や「東北」ではなく、「満洲」という名称を用いています。しかしこれは、「満洲国」を正当化しようとする意図から来るのではありません。「東北部」は、漢民族が支配する国家である中華人民共和国の首都北京から見て東北の方角に位置するという縁辺性を含意する地名であり、これに対し「満洲」は、この地域が満洲族の古来の土地であり、その地方を独自に表す呼称であるという認識からきています。 読者の皆様には、「満洲国」を客観的、中立的な視点から見つめて頂くと共に、「過去」の記憶として固定化された満洲国のイメージを、今なお、脈々と生き続ける「生きた」記憶として、捉え直して頂ければ幸いです。 では、どうぞごゆっくりご覧ください。 |