ユダヤ自治州は、ハバロフスクの西側に位置し、アムール川/黒竜江で中国と国境を接している。
ユダヤ人は、帝政ロシア時代、「外国人」として扱われ、ユダヤ人が信頼できない存在でスパイ行為をするものだと考えられていた(上田和夫著『イディッシュ文化――東欧ユダヤ人のこころの遺産』 三省堂 1996, p.106)。彼らの生活には、居住の制限などの制約があった(Jewish Autonomous Region‐Establishment and Development of the JAR)。
1917年の三月革命で、帝政ロシアが倒れ、ケレンスキーの臨時政府が成立した。ケレンスキーは、ユダヤ人に対する制限をなくし、ユダヤ人の中にも政界に進出するものが現れた(上田著, p.107)。しかし、この政権は長く続かなかった。同年、11月革命が起き、レーニンと、ユダヤ人であるトロツキーたちが指導するボリシェビキに政権を奪われた。
ボリシェビキでは、多くのユダヤ人がポストに就き、「反ユダヤ主義やポグロムに対し厳しい態度」をとり(上田著, p.108)、ユダヤ人に寛容な政権であった。
ボリシェビキ政権は、政府内にユダヤ人の入植に関する委員会KOMZETを作った。そのリーダーはトロツキーであった。従来土地の制限があったユダヤ人に対し、広く農耕できる入植地を与えようとした(Jewish Autonomous Region‐Establishment and Development of the JAR)。
この目的は、反ユダヤ主義に対抗することであった。政府内で多くのユダヤ人が要職に就いていることは、反ユダヤ主義を抱き、社会主義下で肉体労働している一般住民には怒りを起こさせるものであった。そのため、ユダヤ人は激しい憎しみの的となった。
ユダヤ人をそのような迫害から守るためという名目で、ソ連政府は、ユダヤ人を他の国民と空間的に隔離して、保護しようした。また、ユダヤ人も新たな土地を開墾して、他の国民に社会主義に貢献していることを示そうとした(R. コンモス著, 福迫勇雄訳『スターリン背後の猶太人』政経書房, 1939, pp.373)。また、「ユダヤ人に対する政治的同情と経済的援助を外国から獲得」するという意図も隠されていた(ツヴィ・ギテルマン著、池田智訳『ロシア・ソヴィエトのユダヤ人100年の歴史』明石書店, 2002, p.195)。まさに、新生社会主義国ソ連は、そのユダヤ人に対する待遇の先進性を世界へ向けてアピールしようとしていた。
KOMZETは当初、クリミア半島やウクライナに入植地を創設しようとした。しかし、確保できる土地が少なかった(Jewish Autonomous Region‐Establishment and Development of the JAR)。そこで、地質学者ブルック教授の下、調査を進めていくと、アムール川/黒竜江流域、ハバロフスクの西側に広大な土地を発見した(欧米局第一課『「ソヴィエト」聯邦猶太人植民地「ビロ、ビッジャン」區事情』, 1932, p.2)。この極東の一画がユダヤ人の入植地となる。この土地が適していた理由は、元々人口が少なく多くの人を収容できること、土壌が肥沃で農業に適することであった(欧米局第一課, pp.68)。また、鉄、金、石炭などが埋蔵し、鉱工業の開発においても期待されていた(欧米局第一課, pp.53-55)。こうして、1928年、ユダヤ人の入植地を、このモスクワから離れた辺境の地に建設することを決定した(上田著, p.113)。最終的に決定を下したのは、スターリンであった。
もともとこの地域は、ユダヤ人には縁もゆかりもない。にもかかわらずこの地がユダヤ人の入植地に選ばれたのは、上記の理由以外に、満洲族がこの地域の先住民であるためにソ連が奪還を恐れたこと、日本のシベリア出兵などフロンティア拡大の動きを抑えることなど、領土防衛のために人口をこの地域に充填する必要があったからである。また、満洲に関して言えば、ソ連政府に反抗的で、ハルビンなどを中心に満洲に亡命していた白系ロシア人ににらみを利かせる意図もあっただろう。
こうして、入植地は、ユダヤ人ではなく、政府主導で創設された。計画では、1933年までに5万、1937年までに15万〜18万、1938年〜1942年の第三次五カ年計画中には、さらに10万人を入植させることになっていた(R. コンモス著, p.360)。
ユダヤ人入植者の募集は大々的になされた(ツヴィ・ギテルマン著、池田智訳『ロシア・ソヴィエトのユダヤ人100年の歴史』明石書店, 2002, p.192)。その結果、ウクライナやベラルーシ、ロシアの中央部から、またはるか遠く、当時は独立国で1940年にソ連に併合されることになったバルト三国、西ヨーロッパではフランス、ドイツ、アメリカ大陸からはアメリカ合衆国、アルゼンチンからも移住してきた(Jewish Autonomous Regionホームページ‐Establishment and Development of the JAR)。
しかし、夏は雨が多く、気候は冬にもなれば摂氏マイナス20度は当たり前(下表参照)、その上、一から荒地を開墾しなければならないという過酷な条件であった。それゆえ、1928年には654人が入植したが、翌年までに60%が去った(ツヴィ・ギテルマン著, p.195)。そこで、この地が魅力のある場所で、ユダヤ人による自治が実現する場所であると思わせるため、1934年、「ユダヤ自治州」に指定した(上田著、p.114)。1938年、極東地方はアムール地方とハバロフスク地方に分離され、ユダヤ自治州はハバロフスク地方の一部に位置づけられた(Khabarovsk Krai Government site‐Historical information, Jewish Autonomous Region‐Establishment and Development of the JAR)。
(ビロビジャンの月別平均気温・降水量 msn天気予報より作成)
それでも、この計画はユダヤ人をひきつけるものとはならなかった。1939年になっても、ユダヤ自治州の全人口108,938人中、ユダヤ人は17,695人と16%程度しかおらず、ほとんどはロシア人であった(Robert Weinberg, Stalin's Forgotten Zion, University of California Press, 1998, p.69)。15万人以上入植させるという計画は単なる夢で、実際には目標に全然届かずに失敗した。
さらに、スターリン(右写真、出典:Robert Weinberg著, p.14)の権力下にあって、ユダヤ人はさまざまな制約を課せられることになった。1930年代後半に入ると、その傾向はさらに強くなった。スターリンは、ユダヤ自治州の共産主義化を進めて、ユダヤ人の文化を破壊した。例えば、イディッシュ語の学校を廃止した(Robert Weinberg著, pp.68-69)。反ユダヤ的な政策は戦争によって一時中断されるも、1948年までには完全にユダヤに関する施設は閉鎖され(上田著, p.115)、完全にユダヤ文化が禁止されてしまった。こうして、ソ連の諸民族をスターリンが望む共産主義のもとで均質化する炎に、ユダヤ自治州もさらされた。結局、「ユダヤ自治州」は名前だけのものとなった。国際社会に向けてはユダヤ人への待遇の先進性をアピールしていたソ連は、国内ではまったく逆の政策をとり、二面性のある行動をとっていたのである。
現在のイスラエルがあるパレスチナは、かつてオスマン帝国の支配下にあった。
世界中に分散し迫害を受けていたユダヤ人のため、「約束の地」パレスチナにユダヤ人の国家を建国しようとシオニズム運動が立ち上がった。この運動を開始したのはユダヤ人ジャーナリストのテオドール・ヘルツルである。
第一次世界大戦中、イギリスはバルフォア宣言によりユダヤ人のパレスチナでの独立を約束した。しかし、イギリスは当時「三枚舌外交」を行い 、アラブ人に対してはパレスチナを含む領域での独立を約束する、フサイン・マクマホン協定を結んでいた(財団法人中東協力センター「サウジアラビアと中東紛争・中東和平」)。さらに、英仏露の3カ国間でパレスチナの国際管理を決めるサイクス・ピコ協定も結んでいた。結局、第一次世界大戦後、1920年にパレスチナはイギリスの委任統治領となった。
第二次世界大戦終了後、イギリスによるパレスチナの委任統治終了に際し、パレスチナ分割案が提示された。パレスチナ分割案とは、パレスチナをアラブとユダヤの両国家に分割する、つまりアラブ人とユダヤ人両方に土地を分け与える案である(臼杵陽著『イスラエル』岩波新書, 2009, pp.76,77)。アラブ人から猛反発されたが、国連の決議で採択され、1948年5月にイスラエルは独立し、「ユダヤ人国家」が誕生した。
では、イスラエル建国はソ連に、そしてユダヤ自治州にどのような影響を与えただろうか。
1948年から1989年までの約40年間で、ソ連からイスラエルへ移住した人数は合計218,170人であった。しかし、1990年から1999年までの10年間だけで、旧ソ連地域からの移住者は、821,763人と急増している(同, pp.98,99)。1948年のイスラエル建国直後の時点では、共産主義国であるソ連領内にいる人々は移動や出国の自由がなかったために、40年間で20万人強という数字にとどまったと考えられる。しかし、1991年にソ連とイスラエルは国交を樹立し、移住のための出国も自由化された。それに伴い、ユダヤ人は自由にイスラエルへ移住することができるようになり、ユダヤ自治州からもイスラエルへと人々が移住していった。
ソ連崩壊後、ハバロフスク地方の一部という扱いであったユダヤ自治州は、自立したロシア連邦構成主体として認められた(ロシア東欧貿易会ロシア東欧経済研究所編『ユダヤ自治州経済の現状と再建の課題』, 1997, p.6)。だが、2000年代に入ると、プーチンは中央集権化の傾向を強めた。ソ連時代に比べれば規制は緩いが、ユダヤ自治州はロシア連邦中央政府の意向に沿うよう求められている。
ユダヤ自治州内について考えてみても、州知事のヴィニコフ氏はロシア人で、ハバロフスク州のクラスヌイ・ヤールという村の出身である(Jewish Autonomous Region‐Governor Biography)。ユダヤ自治州で育ったというわけではない。人口でロシア人が大多数を占めるのであるから、行政においてロシア人の主張の方が通りやすく、ユダヤ人の主張は顧みられにくい。
すなわち、「ユダヤ自治州」というユダヤ人が仕切っている地域であるように見せながら、実際には、この自治州に利権をもつロシア人が、自治州の政治と経済を牛耳っているのである。