満洲におけるカトリック

(永井直樹)

内容

T はじめに

U 満洲国建国までの中国・満洲におけるカトリック

1. イエズス会による布教(明〜清朝中期): 適応主義と科学技術で権力に取り入る

2. 清朝末期: ヨーロッパ中心主義でカトリック布教の再開

3. 満洲・シベリアにおける、ロシア正教とカトリックのフロンティア争い

4. 義和団事件とカトリック: 半植民地的二重権力と闘った中国民衆

5. ミッションスクールを中国人が奪い返す: 教育権回収運動

V 中国の布教拠点を満洲に: 満洲国をいちはやく承認し信者を獲得

W 相容れない2つのピラミッド: カトリックとローマ教皇庁断絶の戦後

X 終わりに


T はじめに

私たちは今回の巡検において四平市のカトリック関連の施設を訪れ、満洲におけるカトリックの歴史と現状を視察した。カトリックは歴史上、世界各地の非キリスト教国に宣教師を派遣し、教会や学校を創立し、現地で布教活動を行ってきた。私たちが今回の巡検で訪れた四平市カトリック教会暁東中学校の成り立ちもその一連の活動の一つである。日本にも、カトリックの修道会が創立し運営しているミッションスクールが、暁星、栄光、洛星など全国に散らばり、その多くは名門校となっている。このように教育を通じて現地に布教する方式は、満洲においても例外なく行われていた。

出発前の学習、現地での視察、そして日本帰国後の文献の調査や学習を進めていくにつれ、満洲におけるカトリックの活動とその背景には、一般的に知られていない興味深い歴史的な出来事が数多くあることがわかってきた。このコラムでは、中国・満洲のカトリックを、主に歴代の統治機構(明、清、中華民国、満洲国、中華人民共和国)と関連づけて論じていきたい。



U 満洲国建国までの中国・満洲におけるカトリック

1. イエズス会による布教(明〜清朝中期): 適応主義と科学技術で権力に取り入る

キリスト教の中国伝来は、景教として伝わった7世紀が起源とされている。また、元の時代に首都カラコルムにローマ教皇庁から派遣されたプラノ・カルピニが訪れた。しかし、今日に信仰されているカトリックが中国へ伝来したのは、さらに後の時代であった。

再び中国史上にカトリックがその名を現したのは、16世紀末,明の時代のことである。1582年にイエズス会の宣教師のマテオ・リッチ(中国名: 利瑪竇)が中国に到着したのが、本格的な始まりとされる。このころ再開された布教活動の担い手となった。イエズス会のフランシスコ・ザビエルが宣教師として16世紀に日本に布教をしたことから、イエズス会は私たち日本人にもよく知られている。

中国においてのイエズス会の宣教師たちは、明と清の時代を通じて、カトリックだけでなく、幅広い西洋の文明を伝えた。イエズス会の宣教師たちは「適応主義」という布教方針を採ったので、士大夫たちの儒教的な観念と対立せずに受け入れられた[1]。「適応主義」とは、中国人の考える「天」と「皇帝」の概念と聖書の「神」を同化させるというやり方である[2]。

古来より中国では、皇帝とは天命によってその統治の正当性と権威を裏付けられているから、皇帝は中国社会の権力のピラミッドの頂点であるだけでなく、宗教的にもピラミッドの頂点にいると考えられた。このような中国王朝の世界観のなかにカトリックの教えが溶け込むことは容易ではなかった。例えば、中国王朝では、「天」から人々の統治を「天命」によって委任された皇帝だけが「天」を祀ることができ、平民には祀ることができないとされた[3]。しかしカトリックでは、どのような身分のものであっても「神」を祀ることが可能である。よって、人々がカトリックの「神」を祀ることは、「天」と「皇帝」に対する冒涜と捉えられた。このように適応主義では、中国王朝の世界観とカトリックの世界観を融合するには上都合な部分があった。

とはいえ、マテオ・リッチを始めとするイエズス会宣教師たちは、西洋の先進的な科学者たちでもあった。明末の混乱した時代においては、中国人知識人は西洋の先進的な知識を必要とした。その代表として徐光啓は有名であり、ついに彼はカトリックに改宗するほどであった。清朝の時代に入ってからは、宣教師たちはその高い西洋の知識を活かして、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の清朝最盛期の皇帝の学術顧問官として受け入れられた[4]。

(マテオ・リッチ<左>と徐光啓<右> 出所: 『世界史B』東京書籍、2006年、p.159)

宣教師たちは、皇帝が行幸する際に供奉する形で、中国各地への布教活動を行った。イエズス会の宣教師フェルビーストは、康熙帝に従って、カトリックの伝道に尽力したと言われる[5]。

また、イエズス会の宣教師は、ロシア帝国との領土交渉の際にも重要な役割を果たした。ロシア帝国と清朝の間で国境を定めた1689年のネルチンスク条約では、清朝側にイエズス会の宣教師が清朝の役人に対するアドバイザーの役割を果たした。しかし、その結果として清朝がロシアと結ぶこととなったのは、外満洲の大きな部分をロシアに割譲する、上平等条約だった[6]。

このように明朝後期から乾隆帝の時代まで、徐々にカトリックは、西洋の高度な科学・学問や西洋との関係の援助と引き換えに権力に取り入った。平民や知識人レベルに反対派はいたものの、イエズス会による布教はかなりの成果を挙げていた。

しかし、順調に思える中国へのカトリックの布教は、壁にぶつかることとなった。適応主義による中国への布教方針のカトリック内部で教義に関する争い、いわゆる「典礼論争」が起こったのである。

適応主義を用いたイエズス会に対して、キリスト教徒の孔子崇拝の禁止といった厳格化を求めるドミニコ会やパリ外国宣教会など、反イエズス会との対立である。教皇は、反イエズス会の立場を支持した。

これに対抗して、清朝は、康熙帝の時代にイエズス会以外は布教を禁止した。その対応に反発した教皇庁は、1715年に、孔子崇拝を異端とすることで対抗した。1939年まで、この措置は続いた。この教皇庁の対応に対して、雍正帝は、ついに全面的な禁教令を発表した。イエズス会の布教もできなくなった。中国の正式的なカトリックは断絶し、非合法組織として続いていくことなる[7] 。

しかし、清朝のキリスト教禁教は、日本と比較して徹底したものではなかった。例えば、清朝に西洋学術を伝えた宣教師は、引き続き北京滞在が許されていた。また、非合法の布教活動は行われており、幾度か迫害が強化された時期があったものの、1811年の迫害後にできた「治罪専条」では、地方官によるキリスト教禁止の布告から一年以内に自主的に棄教したものは罪に問わない、という自首を促す要項が取り入れられており、日本の対キリスト教政策とは異なることがわかる[8]。

禁教令の発布後、華北以南で迫害を恐れたカトリック信者が満洲に移住し、信徒が増大した[9]。

明朝末期から清朝中期にかけての中国のカトリックの歴史から、中国の儒教社会とローマ教皇庁を頂点としたカトリック社会は、結局のところ相容れぬ存在であることがわかる。中国の皇帝にとって儒教の方が統治に都合がよく、逆にカトリックは都合が悪いという判断が下されたと考えられる。

中国社会に対して譲歩の姿勢を見せたイエズス会によるカトリックの布教ですら、知識人や一般人からの反発だけでなく、皇帝からも上信感を持たれる結果となった。禁教令を発布した雍正帝は、カトリックを信仰した中国人信者は、有事の際に皇帝ではなく宣教師のいうことを聞くに違いないと考えた。また、そのような状態で多数のヨーロッパ諸国の船が中国に現れれば、擾乱を招くと警戒感を示したとされる[10]。つまり、中国社会にカトリックが広まることで、儒教社会の秩序が乱されるだけでなく、カトリック宣教師の背後にいるスペインやポルトガルといった国々の進出の足掛かりとされるのが警戒された。

このような権力とカトリックの対立は、中国共産党がもつカトリックへの対立的な立場とよく似している。しかし、同時に厳格な禁教令でなかったのは、清朝が宣教師の身に付けた西洋の学術分野や語学力を必要とした、という背景があるのであろう。

その中で、当時中国の縁辺であった満洲が、中国の中央で迫害されたキリスト教徒の避難先の受け皿を提供し、むしろ中国のカトリックにとっての拠点となってゆく。


2. 清朝末期: ヨーロッパ中心主義でカトリック布教の再開

雍正帝による禁教令の発布後、カトリックは、非合法組織としての活動が続いた。ただ、根絶してしまったわけではなく、政府の監視が届きにくい満洲のような縁辺部では、共同体としての重要な役割を果たし、信者の増加が見られた[11] 。

1844年、天主教解禁教令が公布され、中国におけるカトリックの布教が再開された。これによって五港における教会建設・中国人のキリスト教への改宗が認められた[12]。この布教の再開のターニング・ポイントとなったのが、アヘン戦争であった。アヘン戦争に勝利したイギリスは、清朝と南京条約・虎門塞追加条約といった上平等条約を締結した。それに便乗する形で、フランスは1844年に黄埔条約を結んだ。この黄埔条約にキリスト教の布教に関する条項が含まれており、カトリックの布教は、フランス主導により再開された。

だが、カトリックの布教に、民衆から抵抗が起こった。フランス人宣教師シャプドレーヌが中国人に殺害され、このことに対する抗議として、フランスは、1857年〜1860年にかけてのアロー戦争に参戦した。英仏の勝利の結果締結された北京条約には、内陸地へのキリスト教の布教を認める条項が含まれていた[13]。この条項によって中国でのカトリックの布教はさらに加速してゆくこととなった。また、プロテスタントの布教も、これ以降本格化する。

1860年の北京条約によるキリスト教布教自由化以降の布教方法は、明朝後期から雍正帝の禁教令が公布されるまでの時代の「適応主義」と大きく異なっていた。中国社会の秩序や文化をまったく考慮しないヨーロッパ中心主義的な布教活動が行われ、中国民衆から非難が噴出するとともに、反キリスト教運動が強まっていく。この反キリスト教運動を「仇教運動」と呼ぶ。この「仇教運動」は、やがてキリスト教だけでなく、「扶清滅洋」のスローガンと共に対西洋排斥運動へと転化し、義和団事件へと繋がっていった。

このような中国でのカトリックの布教のやりかたには、比較的中国社会と協調しつつ中国人信者を獲得するのに努めた明朝末期から清朝中期までの時代と比べると、明らかな帝国主義の色彩の強まりが認められる。カトリックや西洋文明の東洋に対する文化的優越性を前提し、軍事力に訴えるのも厭わず布教の自由を獲得して、西洋列強の中国への領土的な野心を満たす行動との結託をもいとわない。時の権力の強さを見極めながら、それに硬軟両様の巧みな対応をして布教を進めていくカトリックの姿がわかる。


3. 満洲・シベリアにおける、ロシア正教とカトリックのフロンティア争い

ここで19世紀半ばの満洲に目を向けてみる。満洲では、反キリスト教運動の他に、もう一つカトリックの宣教師たちを悩ませ始めた問題があった。プロテスタントやロシア正教の満洲への勢力拡大である。特にロシア正教は、ロシア帝国が数世紀の時間をかけてシベリア・満洲地方へと進出したのと一体となってフロンティアを広げ、満洲のカトリックに脅威をもたらしていた。

カトリックは、ロシア正教が満洲地方へ勢力を拡大させようとしたのに対抗して、シベリアへの布教活動を行った[14]。宣教師によって19世紀半ばに北方ロシア領のカハロウスカ・ニコライエフまでの布教旅行が実行された。しかし、現地住民は宣教師の言葉に耳を傾けず、ロシア政府も滞在を許可しなかったことから失敗に終わった。

前節で述べたように、19世紀半ばに中国でのカトリックの布教を主導したのは、フランスであった[15]。フランス内外を問わず、カトリック宣教師への執照発給はフランス公使館が担っており、請願や訴訟などの諸案件もフランス公使によって清朝政府に伝えられていた。

このことから、カトリックとロシア正教の対立には、フランスとロシア帝国との帝国主義的対立が影響していると考えられる。1853年から1856年まで続いたクリミア戦争(英仏土連合軍対露)からプロイセン宰相ビスマルクによる対仏包囲網による露仏の対立は、露仏同盟の結ばれる1894年まで続き、両国は敵対関係にあった。そして、ロシア帝国は東アジアへの南下を目指していたのに対し、フランスは南から、インドシナと中国、そして日本の権益獲得をめざした。これに伴って、国家同士だけでなく、それに伴って宗教同士のフロンティアの争いが満洲において発生したことは、興味深い事実である。


4. 義和団事件とカトリック: 半植民地的二重権力と闘った中国民衆

義和団事件の発端には、仇教運動が大きく関わっている。カトリックが公認された後、宣教師たちは、中国人信者の抱える訴訟に介入し、有利な判決が出るように働きかけ、成果が出ないと見るや外交ルートを使って圧力をかけるという行為を多くとった。帝国主義戦争で獲得した外交特権を用いた宣教師による信者の支援は、清朝の官僚機構よりも迅速に行われ、中国国内に半植民地的な二重の権力構造が存在するようになった。保護を求め、カトリックに入信する人々は増加したが、同時に、信者ではない中国の民衆から強い反発を招きはじめた[16]。

こうした状況の中、山東省南部に大刀会と呼ばれる宗教武術の集団が1894年に出来上がる。この大刀会は、カトリック信者と土地争いをしていた中国人に味方し、ドイツ人宣教師を襲撃した。この襲撃を発端として、ドイツは膠州湾を占領した。その後の訴訟にも敗北を重ね、ついに大刀会は義和団と名前を変え、カトリックと官軍を相手に戦闘を始めた。これが、義和団事件の発端である[17] 。

このため、1900年の義和団事件の際には、カトリック教徒は多大な被害を蒙ることとなった。教会や司祭館は壊され、信者の財産は没収・焼失させられ、193名の殉教者を出した[18]。

1860年からのキリスト教の布教の自由化は、中国社会にキリスト教を受け入れるか否かという判断を迫った。その背後には欧米諸国の帝国主義的意図が存在し、中国社会を大きな混乱に陥れた。布教自由化から義和団事件までの40年間は、中国社会において、西洋的な思想や価値観への反発が掻き立てられた時代であった。


5. ミッションスクールを中国人が奪い返す: 教育権回収運動

義和団事件が列強によって抑圧されたことで、中国社会の欧米諸国に対する実力を用いた反発は一つの終止符を打った。それに反比例して、キリスト教伝道はさらなる発展を迎えた。その背景には、義和団事件の賠償金の一部がキリスト教の布教活動に回されたこと、義和団事件が欧米社会に強い衝撃を与え、欧米キリスト教会に布教の必要性を一層強く認識させて、新たに中国へ宣教師が送り込まれたことがある。

義和団事件を契機に、中国社会は、西洋的な思想にのみ込まれていった。しかし、中国社会のキリスト教への抵抗は、また別の形で盛んになった。「教育権回収運動」である[19]。

キリスト教の布教活動の中で、ミッションスクールの運営と教育は、世界的に、宣教師の仕事として重要な役割を果たしてきた。だが、中国には古代から官吏になるために受ける科挙と呼ばれる試験制度が存在し、試験内容は中国古典の教養を求めていた。よって、ヨーロッパ的な学問を教えるカトリックやプロテスタントの宣教師による学校は、はじめ将来性ある優秀な中国人の若者を呼び込むことが難しかった。しかし、19世紀末になると中国社会にも西洋の知識の必要性が認められ始め、1905年に科挙が廃止された。これによって、ミッションスクールは急速に広がった。ちなみに、カトリックの大学としては、北京の輔仁大学、天津の工商学院、上海の震旦大学が著名であった[20]。このようなキリスト教による教育活動の広がりに対抗したのが、上述の教育権回収運動である。

(上海で戦前名門だった、メソジスト系ミッションスクール、マクテイア女学校 The McTyeire School for Girls の建物 出所:Tess Johnston and Dek Erh, A Last Look: Western Architecture in Old Shanghai, Revised Ed., Hong Kong: Old China Hand Press, 2004, p.214.)

ただし、教育権回収運動は、中国古来の文化的伝統を尊重する中国人によってのみ取り組まれたのではない。その発端には、欧米からキリスト教的伝統主義への批判と哲学的自由主義や経験論を学んだ中国人知識階層の合理的思考があった。例えば、陳独秀は雑誌『新青年』によって西洋文明の啓蒙を行った。また、西欧から共産主義思想が中国国内に広まったことで、「宗教はアヘンである」という価値観が生み出された[21]。この運動は、どのような西洋文明を中国が摂取すべきか、という点に関し、中国人の自立性を求めた運動であったということもできる。

こうした機運の中、1922年の北京の清華大学で行われた世界キリスト教学生同盟大会を契機に、反キリスト教運動が高まった。1924年には、ミッションスクールへの反対が運動の中心となり、教育権をキリスト教の教育機関から取り戻す運動へと繋がった。

この「教育権回収運動」に国民党政府が追随する形で、@キリスト教学校であっても校長か副校長に中国人を起用すること。Aキリスト教伝道を第一の目標にしないこと。B学科は教育部制定のものに拠り、宗教教育を必須科目から除外すること。などが決まった。フランスは、この改革に抗議したが改革は止まらなかった。宣教師たちは、中国民衆の反感によって中国での伝道ができなくなることを考え、この改革に共感を示し、義和団事件のころとは異なる対応をした[22]。

義和団事件から20年経って起こった教育権回収という新たな運動は、封建的権力と宗教の関係性であった清代中期のカトリック禁教令の一連の流れとは異なり、中国民衆と宗教という関係性においておこった対抗である。華北以南の中国の中心部におけるカトリックの布教は、常にこのような緊張関係をはらんでいた。



V 中国の布教拠点を満洲に: 満洲国をいちはやく承認し信者を獲得

これに対し、縁辺である満洲は様子が異なっていた。満洲では、中国の中心部ほどカトリックへの対抗が強くなく、義和団事件以降、信者の数が急増する。1900年で9,060名、1910年で21,047名、1920年で34,016名、1930年で45,319名となった。

満洲では、ローマ教皇庁が、遼東を中心として満洲に独立した教区を設ける必要性を認識し、1838年に北京大司教区より教区を分離しており、1840年にパリ外国宣教協会から派遣されたヴェロルによってカトリックの拠点は確立していた。義和団事件の打撃から満洲教区がいちはやく立ち直ったのは、周縁を中国の中心部から教区として分離独立させておいたローマ教皇庁の賢明さの成果ともいえた[23]。

1912年に清朝が崩壊すると、満洲は、政治的に上安定となった。しかし、1932年に成立した満洲国の統治下に入ると、治安状態は改善された。独立した教区の基盤が確立されていたカトリックの宣教師たちにとって、満洲の治安状態の改善は、なにより、布教活動を活発化させる好条件となった。

満洲国が成立し、これが国際的に日本の傀儡国家とみなされると、満洲国を承認しない諸外国の宣教団は、本国に引き揚げた[24]。しかし、満洲国とカトリックはそれなりに良好な関係を築いていた。ローマ教皇庁は、満洲国にいる教区長を通じて満洲国とローマ教皇庁との関係を深めるという方針であった。世界中の多くの国が満洲国を承認しなかったなかで、バチカンはいち早く満洲国を承認する立場を表明した。ローマ教皇庁が満洲国を承認したのは、1934年4月のことであり、日本とエルサルヴァトルに続く、三番目の早さであった[25]。この背景には、満洲国と良好な関係を結ぶことで中国の周縁部を拠点として中国全体に布教してゆくというこれまでの方針を制度的に固め、同時に満洲地方での布教活動を円滑に行いたいという思惑が読み取れる[26]。国際的に承認されることがほとんどなかった満洲国にとって、バチカンからの承認と支持は貴重であった。

満洲国時代、満洲地方のカトリック教会は9つの教区を有していた。奉天、吉林、撫順、チチハル、延吉、依蘭、熱河、赤峰、そして四平街である。中でも奉天教区は満洲カトリック各教区の母教区とされた。このうち四平街教区は、1929年に奉天教区と熱河教区から分離独立して成立した。各教区の多くは、学校・孤児院・養老院・病院といった公共施設を設けた[27]。

今回の巡検で訪れた四平市カトリック教会は、中国におけるこうしたカトリック布教の活動拠点の一つとして建てられたものである。それゆえ立地も、四平街駅の西側で日本人が住む満鉄附属地ではなく、駅東側の中国人地区が選ばれた。

カトリック修道会のミッションスクール設置は、日本を含む世界中で行われており、主要な布教手段であることはすでに述べた。四平街でも、聖ヴィアトール修道会のフランス系カナダ人宣教師が英語学校、そしてのちに暁東中学を設立し、通常授業外に宗教的実践を行うというやり方で中国人に布教が行われ、着実に信者の数は増えていった。教団も、宣教師を追加派遣することでより力を注いだ。さらに宣教師たちは、地元の中国人を神父にすることで将来にわたる布教活動の基盤を築こうとした。1934年時点で四平街教区信徒総数13,749人であった[28]。こうして、四平街にもカトリック信仰が根付いていった。

(聖ヴィアトール修道会の宣教師たち 出所: ‘Mission de Mandchourie (Chine) (1931-1953)’, Missions Saint-Viateur, No. 82, Jan-Feb 1956, p.4)

もっとも、満洲国の統治理念とカトリックの教義が、相容れる思想であるとはいえない。満洲国の建国理念は各民族が平等の立場で共存共栄を目指すというもので、表向きは宗教の多様性に寛大さを示していたが、実際には建国から年が経つにつれて表向きにあった宗教に対する寛大さの国家理念は影を潜め、中枢に神道が表出するようになった。神道が国家理念の中枢であるという日本の天皇制イデオロギーによる統治が満洲国にも取り込まれていった[29]。

そもそも、神道による天皇制イデオロギーは、明治維新政府の王政復古のスローガンに沿う形で、日本国内において皇統の神聖性や正統性の確立のために整えられてきたもので,明治初期には、日本へのキリスト教の侵入を防ぎ、天皇による神道国教体制の確立を目指す役割を果たしていた[30]。神道を国家の思想の中枢に位置付け、天皇制による統治体制を強固にし、国民の潜在的なイデオロギーの統一を狙うという傾向は、1920年代から1930年代初頭にかけて日本を取り巻く経済的な情勢が悪化するにつれて強まっていった。満洲事変以降になると、神社崇拝(天皇の国と神社は表裏一体の関係である)が国民としてあるべき道徳とされ、崇拝が強要された[31]。このような日本国内のイデオロギーは、当然ながら日本の実質的な支配を受けた満洲国においても反映されるに至った。満洲国での儒教的な国家理念から天皇制イデオロギーへの変化は、第二次世界大戦遂行の際に、満洲国が物資の供給などの面で総力をあげて日本に奉仕する立場となったことでより明確になった[32]。

だが、満洲国とローマ教皇庁との良好な関係もあって、第二次世界大戦末期にカトリックは、満洲地方で、18万5千人の信徒を獲得するに至っていた。カトリック教会は、教育・医療・福祉の分野における活動に加え、満洲各地に、キリスト教精神による社会活動を行うカトリック村というコミュニティが存在したのが特徴である[33]。

この時代のカトリックは、国際的な承認がなかなか得られず孤立していた満洲国と、中国やモンゴル地方への布教[34]を目指すローマ教皇庁との利害が一致したことによって、安定した布教活動が可能であった。満洲国のカトリックは、これまでの中国歴代王朝でのカトリックと比較して、安定した社会環境でかなり成功を収めたと見ることができる。四平街の暁東中学は、その重要なひとつの拠点であった。



W 相容れない2つのピラミッド: カトリックとローマ教皇庁断絶の戦後

第二次世界大戦に日本が敗戦して満洲はソ連の占領下におかれた。国共内戦により、多くの教会や学校が破壊され、内戦が終結し中華人民共和国が成立すると、中国国内のキリスト教自体が、大きな転換点に直面した。

中国共産党は無神論の立場ではあるが、統一戦線の時から一応は宗教を容認し、1949年の共同綱領では信教の自由という立場を表明していた。しかし実際に、信教の自由は、共産党を支持する「愛国的宗教団体」にのみ適応されたにすぎなかった[35]。

中華人民共和国憲法の信教の自由のスタンスは、次のようなものであった。宗教は、古い社会秩序(自然支配が確立されておらず、階級的な圧迫が残る社会)の段階に克?しがたい人類の課題を、神秘的現象によって説明するものである。中国社会は、まだ完全に自然支配が確立されていない社会(階級圧迫が残る社会)だから、宗教を排斥してはいけない[36]。中国社会が完全に共産化されれば、宗教は必要ないということである。

こうした中華人民共和国建国当初の宗教政策に対して、中国国内のキリスト教の中ではプロテスタントがカトリックよりも早く協調姿勢を示した。カトリックがプロテスタントの後手に回った背景には、カトリックが地主勢力と結びつきが強かったこと、ローマ教皇庁への従属性が強いこと、そしてプロテスタントの本色教会運動[37]のような運動の経験がなかったことが大きい[38]。

1950年には、「中国基督教の新中国における努力の途」という宣言が政府とプロテスタントなどの団体によって出された。帝国主義とキリスト教の関係に触れ、アメリカを帝国主義として非難・反対し、新中国建国を擁護する立場を表明するものであった。さらに、プロテスタントは「三自愛国運動」を起こし、自治(宗教の外国支配の排除)・自養(経済的に自ら養い独立すること)・自伝(自ら独立して伝道すること)を達成すべきとした[39]。

このプロテスタントの運動に対して、カトリックでは、1950年の四川省での革新宣言を契機にして徐々に中国全土に教会の革新運動が広まっていった。1954年頃には、プロテスタント・カトリックの信者のほとんどが三自愛国運動に参加するに至った[40]。

こうして中国人のキリスト教会が共産党政権に順化されてゆく一方で、中国国内にいる外国のキリスト教機関や外国人宣教師たちには、強い弾圧が加えられた。1950年の朝鮮戦争を契機として、1951年には宗教・文化・救済の各機関の接収と「反人民的」外国人宣教師の追放が決定された。四平街の聖ヴィアトール修道会の宣教師たちも、中国人の信者たちから切り離されて拘束され、結局1953年に国外追放の処分を受けて、満洲に代わる新たな拠点とされた京都ないし台湾を経由してカナダに戻った[41]。

このような弾圧には諸外国から反発もあったものの、遂に1957年、中国のカトリックはローマ法王との関係を断絶し、中国天主教愛国協会として組織しなおされた。この背景にはカトリックのローマ法王を頂点とするピラミッド構造の組織形態と中国共産党のピラミッド構造が相容れなかったことがあげられる。カトリック教徒はローマ法王に忠誠を誓わなくてはいけないが、共産党にとってローマ法王に忠誠を誓うことは共産党に忠誠を誓わないことであり、共産党統治の根底が揺らいでしまうことになりかねない[42]。満洲国に友好関係を求めたバチカンは、現代の中国でも、一方ではローマ法王に忠誠を誓わない愛国協会系の公認天主教をローマ法王の側になびかせようと秋波を送りつつ、中華人民共和国政府とは、いぜん疎遠な位置を保っている。

文化大革命の際には、公認の教会ですら閉鎖に追い込まれた[43]。改革開放後には宗教活動が再び認められ、1982年には、「わが国の社会主義時期の宗教問題に関する基本観点と基本政策」が示されて、宗教政策が緩和されている[44]。

しかし、近年では1999年には法輪功が禁止になり、さらにチベット仏教のように国内の各民族と関係する宗教問題もある。そのような背景を考えると現在の中国のカトリック教徒は、ローマ法王に接近し忠誠を誓うそぶりを示すなど、共産党政府にとって危険と判断されれば、弾圧の対象となり得るリスクを依然として抱えている[45]。実際に、政府非公認の「地下キリスト教会」と呼ばれる中国版「隠れキリシタン」が広がって、信者の数は7000万人にも達するといわれている。中国当局は、これをしばしば摘発、抑圧している[46]。



X 終わりに

歴史的にカトリックは、幾多の迫害や排斥運動に見舞われてきた。だが、その時代ごとに、時に国家権力に対しては取り入り、また時に権力と真っ向から対立したりしつつ、柔軟に姿勢を変えて根強く今日まで存続し続けた。

中国においてカトリックが存続することができた背景には、宣教師たちの教育・慈善活動等を基盤とした草の根布教ともいうべき地道な活動がある。そして、地理的には、国家権力の監視が行き届きにくい場所を求めて、そこに拠点を置き、カトリックを全国に広める巧みな政策をとった点があるだろう。満洲は、中国全体として見れば、中央政府の監視がいきとどきにくく、カトリックの布教に都合のよい縁辺であった。

日本では、キリスト教は島原の乱を最後にほとんど断絶し、隠れキリシタンとして非合法にて生き延びた。中国でも、カトリックは、ほぼ同時期の16世紀半ばに流入した。その後、中国の明朝末期から清朝初期、日本での戦国・安土桃山時代には、その高度な西洋文明・交渉能力などと引き換えに受け入れられたが、中国の清朝中期・日本の江戸時代のように時代が安定してくると、権力者に警戒される形で禁じられた。そして、禁止となった長い間、細々と地下で庶民の間に受け継がれてきた。それを可能にしたのは、庶民に受け入れられる教義の伝道や教育・慈善事業、そしてそれを実行した宣教師の功績であろう。

また、カトリックは強固なピラミッド型の組織形態を持っているので、清朝中期に雍正帝によってキリスト教の布教が禁止された背景と現在の中華人民共和国での対キリスト教政策は、よく似てくる。強権的な権力者は、カトリックの力を必要とせず、むしろ別個のピラミッド構造を持つカトリックは権力確立の邪魔であり、力で抑えつける政策に訴える。逆に政治基盤が脆弱であった明朝末期・清朝初期・満洲国などでは、強固な権力を持つカトリックの背後にある西洋諸国の文明・資金・政治的支持を引き出すために、カトリックが利用され、カトリックと国家権力との間に、win-winの相互協力関係ができあがる。カトリックへの政策の違いは、その時代の統治機構の状況の反映でもある。


参考文献、注

[1]高柳俊一・松本宜郎編『キリスト教の歴史2 宗教改革以降』山川出版社、2009年、p.210、211

[2]ジャック・ジェルネ著、鎌田博夫訳『中国とキリスト教 最初の対決』法政大学出版局、1996年、p.251

[3]ジャック・ジェルネ著、前掲書、pp. 139〜141

[4]田口芳五郎著『満州帝国とカトリック教』カトリック中央出版部、1935年、pp.54、55、64、65

[5]日本基督教団出版局編『アジア・キリスト教の歴史』日本基督教出版局、1991年、p.170

[6]岡本さえ著『世界史リブレット イエズス会と中国知識人』山川出版社、2008年、 p.39〜41

[7]高柳俊一・松本宜郎編、前掲書、pp. 212、213

[8]日本基督教団出版局編『アジア・キリスト教の歴史』 日本基督教出版局 1991年、 pp.139、140(吉田寅筆)

[9]日本基督教団出版局編、前掲書、p.171(吉田寅筆)

[10]岡本さえ著、前掲書、pp.41、42

[11]高柳俊一・松本宜郎編、前掲書、p.214

[12]高柳俊一・松本宜郎編、前掲書、p.220

[13]高柳俊一・松本宜郎編、前掲書、p.221

[14]田口芳五郎著、前掲書、pp.60,61

[15]高柳俊一・松本宜郎編、前掲書

[16]菊池英明著『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国 清末 中華民国』講談社、2005年、p.112

[17]菊池英明著、前掲書、p.112

[18]田口芳五郎著、前掲書、pp.69、70

[19]日本基督教団出版局編、前掲書、pp.162、163(吉田寅筆)

[20]日本基督教団出版局編、前掲書、p.158(吉田寅筆)

[21]日本基督教団出版局編、前掲書、pp.163、164(吉田寅筆)

[22]日本基督教団出版局編、前掲書、pp.164、165 (吉田寅筆)

[23]日本基督教団出版局編、前掲書、p.171(吉田寅筆)

[24]日本基督教団出版局編、前掲書、p.173(吉田寅筆)

[25]塚瀬進著『満洲国「民族協和」の実像』吉川弘文館、1998年、p.152

[26]田口芳五郎著、前掲書、pp.3、4、26〜54

[27]田口芳五郎著、前掲書、pp.73〜104

[28]田口芳五郎著、前掲書、p.93

[29]塚瀬進著、前掲書、pp.67〜74

[30]櫻井徳太郎、大濱徹也編『近代の神道と民族社会』桜楓社、1991年、pp.16、17

[31]櫻井徳太郎、大濱徹也編、前掲書、p.37

[32]塚瀬進著、前掲書、pp.67〜74

[33]日本基督教団出版局編、前掲書、p.173 (吉田寅筆)

[34]モンゴル/蒙古へのカトリックの布教については、日本基督教団出版局編、前掲書、pp.197〜202を参照。

[35]愛知大学現代中国学部編『ハンドブック現代中国』あるむ、2003年、pp.48〜51

[36]日本基督教団出版局編、前掲書、pp.166、167

[37]本色教会運動とは、1920年代の中国において、プロテスタントの教会などに対し、@自治・自養・自伝の達成、A中国伝統の祖先崇拝をキリスト教的な形で考えていくこと、B教会の行事の制定に、西洋式と中国式の二つの視点を用いること、などを提案した運動。

[38]日本基督教団出版局編、前掲書、pp.165、167、170 (吉田寅筆)

[39]酒井忠夫著『近・現代中国における宗教結社の研究』図書刊行会、2002年、p.520

[40]日本基督教団出版局編、前掲書、p.170 (吉田寅筆)

[41]‘Mission de Mandchourie (Chine) (1931-1953)’, Missions Saint-Viateur, No. 82, Jan-Feb 1956, pp.15-16

[42]愛知大学現代中国学部編、前掲書、pp.48〜51

[43]愛知大学現代中国学部編、前掲書、pp.50、51

[44]酒井忠夫著、前掲書、p.528

[45]愛知大学現代中国学部編、前掲書、pp.50、51

[46]『日刊スポーツ』電子版 2009年2月7日「中国で地下キリスト教会弾圧が急増」