ラゴスに戻ってきてから二日目である。この日は、ラゴス大学の再訪、中国城という中国人による商業地区、NRCの駅舎見学をする予定であった。
朝食を済ませ、8時半にボゴビリハウスを出発した。外は少し雨が降っていて、空はどんよりとしている。
本日は、はじめラゴスに着いたときに視察する時間がなかった、国立博物館、ラゴスの旧植民地の中心部、ラゴス中央駅などを視察することになっている。
▽旧競馬場一帯
私たちはまず、植民地時代のイギリス行政地区の視察に向かった。
植民地時代のラゴスは、今よりずっと小規模であり、ラゴス島を行政中心とし、その周辺の島や半島に若干の都市機能が広がる程度であった。
植民地都市ラゴスの核は、ラゴス島の旧競馬場を中心とした一帯である。そこには、娯楽の拠点でありまた社交場としての競馬場を取り囲むようにして、宗教の拠点としての国教会、植民地行政の拠点としての立法評議会・総督官邸・裁判所・公共事業局・印刷局、電報電話局など、その他あらゆる植民地政治の機能が密集していた。
9時前に、私たちは競馬場に到着した。この競馬場の写真が、カラバルで宿泊したミラージュホテルに飾られていたのを思い出す。
私たちは、競馬場の正面の旧裁判所から出発して、旧競馬場の外周を一周するよう、時計回りに歩きながら、英植民地時代の建造環境を視察した。
植民地政府の裁判所には、ラゴス州の高等裁判所という看板が掲げられていた。植民地政府の公共事業局は、建物は古く塗装も色あせており、測量事務所(Office of the Surveyor)や、国境委員会(National Boundary Commission)として使われていたようであるが、アブジャに遷都して以降、使われなくなったケースも多いようだ。
かつて、「ケーブルアンドワイヤレス」という、イギリス植民地各地を世界規模で結びつけた電信電話会社が経営していた電話局は、いまでは柵と建物を取り囲むうっそうと茂った樹木に囲まれて存在していた。現在では、ナイジェリア人の多くが携帯電話を使うので、電話局には以前のような機能はなくなってしまっている。それでも、電気通信関係の役所の看板が掲げられていた。
ただし、役所を示す看板はさび付いているものも多く、それが今では使われていないことを示していた。それが、かつては英国支配の中心であり、そして独立後もナイジェリアの中心地であった昔を偲ばせている。このように、少なくともアブジャへの遷都以前は、英植民地時代と独立後のナイジェリアの建造環境の間に、連続性があったことがわかる。
旧競馬場の周囲を歩いていく。施設自体は、日本の競馬場に比べるとそれほど大きくはない。ただし、現在、競馬は行われていない。ナイジェリア人は競馬に興味がなく、イギリスから独立してから競馬をしていないという。このため、馬場は今ではショッピングモールになっている。ただ、ナイジェリア北部ではポロという形で、馬を用いたスポーツが行われているそうだ。
途中、大きな門があり、その上部には、馬の彫刻が4体、前足を大きくあげ立ち上がった躍動感ある姿で存在していた。さらにその上には、ワシのような鳥が馬と同じ方向を向いて門を飾っている。門の前には、全身の長い布をまとった人形が棒を構えており、これは門を守っている人を模しているようである。これらは、比較的新しい彫刻で、独立後に作られたように見受けられる。かつてここが競馬場であったことを示すものだろう。
進むと、再びラゴス州の高等裁判所の看板を見つけた。今度のものは看板自体も新しく、その背後の建物もガラス張りでとても近代的なものであった。おそらく先ほど見た古い看板の高等裁判所が新築され、移転してきたものであろう。この場所には、もともと立法評議会(legislative council)の建物があった。イギリスは、各の植民地に立法評議会を造り、植民地ごとに違う法律を作った。それゆえ、植民地ナイジェリアの法律をつくったのは、イギリス植民地政府である。そのなかには、独立後の今でも有効なものがある。とはいえ、立法評議会は民主的に選挙されていたわけではなく、総督の任命制であった。そして総督には、英国王の名代として、絶対的な権限が与えられていた。立法評議会は、総督の諮問機関として、補助的な役割を担っていたにすぎない。その統治装置の全体は、植民地を西洋の文明で啓蒙し、合理的な社会をもたらすことを「白人の責務」と考える思想で支えられていたのであろう。この場所で、ナイジェリアは、イギリスから独立したのであった。
その隣には、議会の複合施設(National Assembly Complex)があった。建物は幅が30メートルはありそうな重厚な建物で、ナイジェリアの国章が記されている。周囲には車が多く停まっていた。この日も、休日ながら仕事をしていたのかもしれない。
この複合施設も近年新築されたものであり、近くには植民地時代に造られ、かつて使用されていた施設が残っていた。植民地時代の建物といえば、屋根が斜めで瓦やトタンで出来ていることや、それ以外にも石積み式であったり、バルコニーがあったり、イタリア様式を取り入れたデザインであることが挙げられるが、新築された建物にはこうした特徴はほとんど見られない。
競馬場をはさんで、旧立法評議会とちょうど対称となる位置に、イギリス国教会の教会があった。赤い屋根で白い建物の上に十字架があり、さらにステンドガラスがあることでその建物が教会であることが分かる。「白人の責務」の実践には、植民地政府と並んで、国教会(アングリカン)の宣教師が重要な役割をはたした。それは、日本の植民地支配において神社が果たした役割とも似ている。中国や日本でも、「聖公会」の名で、アングリカン教会は布教活動を行い、学校を設立した。日本の大学でいうと、立教大学、桃山学院大学、プール学院大学、平安女学院大学などが、聖公会立の大学として有名である。
付近には、総合病院(General Hospital)、すなわち植民地時代の医院があった。医院は、コンクリートの二階建てで、装飾美はないがそれなりに大きい。西欧的な医療の提供も、風土病にさいなまれていた現地住民を救う植民地的な慈善の発露として、また、植民地支配の社会的正統性を強化するために、重要であった。
その奥には、かつての英植民地総督官邸(state house)の姿があった。特に見張りはいなかったが、写真を撮ることは厳重に禁じられている。官邸は威厳ある古典的な様式で、立派な塀に囲まれ、入り口は鉄の柵で閉じられていた。官邸の玄関の上には、ナイジェリアの国章がつけられていた。ちなみにナイジェリアの国章はイギリスの国章ととてもよく似ている。ナイジェリアの国章は白馬が向かい合っているが、イギリスの国章ではその代わりに一角獣とライオンが向かい合っている。ここにも、イギリスの影響が見て取れる。
塀の中は広く、庭の緑がきれいに整備されており、またマストのようなものが立てられていた。昔はこのマストに、ユニオンジャックが翻っていたのである。ここに最初に住んだのが、ロコジャで最初の官邸に住み、後にアジアに移り英領香港の総督になったルガードである。現在では、この官邸は、大統領がアブジャからラゴスに来た際の宿泊所になっているのだそうだ。
競馬場から離れるにつれ、植民地時代の建物は、民間に転用されているケースが多くなる。かつて英植民地政府の印刷局であったという建物は、その例である。二階建てのその建物は、外壁が薄いピンクとコンクリートのグレーで、豪華な手すりや側壁の装飾を持ち、特に側壁は古代の神殿のようなデザインをしている。現在でもそれほど荒れておらず、一階部分ではカフェになっており飲み物が販売されていた。
植民地時代の刑務所も一角にあった。建物は厚い塀と柵で囲まれており、建物の窓も囚人が逃亡できないように鉄格子が設置されてあった。この建物は、すでに廃墟となってはいるが、外側の柵は緑と白のナイジェリアカラーで染められており、外壁も比較的きれいに塗装が残っていた。独立後もしばらくは使用されていたのかもしれない。
▽最高教育機関、キングスカレッジ
その後、競馬場を周回して出発点の旧裁判所に戻るように歩いて行くと、キングスカレッジという、植民地政府が1909年に設立し、今でもナイジェリア随一の名門中学の前に出た。植民地の「白人の責務」の思想と、親英的な現地人植民地官僚を要請する目的から、イギリスは植民地の各地に学校を作った。これらの学校は今でいう中高一貫である。大学も作ったが、それは植民地支配がだいぶ成熟してのちのことである。初期のナイジェリア植民地にも大学がなかったため、キングスカレッジは、最高の教育機関として植民地ナイジェリアの社会に君臨していた。
建物は2階建てで、正面には高い尖塔が設置されている。一見して高床式のような構造で、他の植民地時代の建物に比べて急な角度の屋根を持っている。現在は全体的に黒ずんでしまっているものの、建物は石で作られた立派な塀で囲まれ、敷地内には木々も植えられており、伝統の風格が感じられた。
▽都市再開発が進む、英植民地支配の旧中核部
このような植民地時代の建造環境がある地区は、今日でも、ラゴスの中核部という相対的位置を占めている。このため、かつての植民地時代の建造物群は、維持するための機会費用が増しており、都市再開発による大きな変貌に直面している。
競馬場は現在取り壊し中で、TBS CITY CENTREというコンセプトで再開発が進められている。設置されていた看板によれば、再開発によって、ワールドクラスのツーリズム、貿易、文化センターを目指すそうだ。これはBHS INTERNATIONALという会社によって進められている「メガシティ計画」の一環であり、その計画の元締めは、ナイジェリア連邦政府であるという。ちなみにTBSとは、TAFAWA BALUWA SQUAREの略称で、TAFAWA BALUWAとはナイジェリアの独立後、競馬場を取り壊すのを決定したときに現職だった大統領の名前である。
競馬場内の建物に、ナイジェリア航空の文字を見かけた。ナイジェリア航空は、ダイヤ通りの運航等に問題が多く、私たちが利用したヴァージン航空等に押されて、経営は苦しいと聞く。航空会社の事務所として利用されているような建物は、カーテンが掛けられている部屋がほとんどで、中も薄暗く電気もついておらず、人気もなかった。
競馬場の海沿いには、バスターミナルがあった。ここが、昨日訪問したLAMATAのBRTの終点である。大型路線バスは、ざっと数えて15台は止まっていて、比較的大きなターミナルとなっていた。また、LAMATAが計画中の、ディーゼル都市高速鉄道システムの終点になる予定である。土曜の朝ということもあり、利用者はそれほど見られない。
再開発プロジェクトはまだ緒に就いたばかりであり、バスターミナルの周囲には、旅行会社の窓口や銀行、医療関係の店、清涼飲料を扱う店などが雑多に建ち並んでいた。また、競馬場の門の前の道路には露店が出ていて、細かい電気製品を売っていた。細い路地ではごみが散乱し、また建物を取り壊した後のような瓦礫の山も散見できる。そうした路地は高い建物の影となり、雰囲気が悪く一人で容易に歩けるような場所ではない。付近には、駐車場として使われている空地もあった。駐車代として200ナイラ支払わなくてはならないらしい。
この再開発地区のすぐそばは、ラゴスのオフィスビル群が立ち並ぶ、中心業務地区となっている。ターミナルから、高層ビルにかけられたハイネケンの大きな垂れ幕が望まれた。このビルはNITEL(Nigeria External Telecommunications LTD)で、30階建て程度の圧倒的な存在感を持っている。ビルには、電波塔とおぼしき鉄柱と、あらゆる方向に向けた小型のパラボラアンテナが複数付いていた。
このように、競馬場を中心とした植民地時代のイギリス植民地支配の中枢は、独立やアブジャへの遷都を経験しながら、現在もラゴスの行政の中心という機能を残しつつ。新たな開発段階に入りつつあるのであった。
▽ラゴス港
競馬場から少し歩き、私たちはラゴス港が見える海べりに移動した。ラゴス港は、大陸とラゴス島の間にある入り江に存在する。ここから見ると、コンクリートの岸壁が海に伸び、その上にクレーンがいくつも設置されている。港は大きな船も対応でき、実際に100メートルはありそうな貨物船が停泊していた。
水路をはさんだ向こう側には、コンテナの積み下ろしを行うガントリークレーンが5基ほど確認できる。カメルーンのドゥアラにはガントリークレーンが2〜3基あったが、それよりも港の規模が大きいことが伺える。ラゴス港でもコンテナ化が進んでいることの現れであろう。同時に、港には、フックで荷物を吊るような、従来型のクレーンも設置してあった。
ガイド氏によれば、植民地時代は船が港の深くまで入ってこられず、大きな船は大西洋上に留まり、そこから小さな船で港に入ってきていたそうだ。
▽国立博物館〜植民地前にあった経済と政治に重点
私たちは再び車に乗り、国立博物館に向かった。競馬場から東に近くの場所にあるため、すぐに到着した。
外観はレンガで覆われていて、入り口だけ隙間がある。外には絵も飾られており、博物館らしい。入館料は大人200ナイラ、小人100ナイラであった。受付では、同時に名前、住所、国、人数を記入させられた。
博物館内部には、展示品が説明とともにショーケースの中に収められており、建物の広さを生かして数多くの展示物があった。訪問客のなかには、欧米人の姿もあった。
展示が多すぎて、私たちは予定をこなすために、早足での見学となった。
進んでいくと、最初は鉄器・青銅器が展示されていた。展示品の横には、解説が置かれている。バグパイプのような形のフルートや象牙を表しているトランペット、お椀型のドラム、その次には銅鐸のような鐘、祭事に用いた剣や槍、と続く。
その次には、装飾品が展示されていた。カラバルで使われていたという銅線がばねのようにぐるぐる巻きにされた腕輪や、アダマワで使われたという首長族が首につけているような真鍮のアンクレット、ヨルバの金属製の、足の甲部分に取っ手が付いたような靴などがあった。購入した展示物ガイドブックによれば、ナイジェリア人は地位や結婚といった社会的価値に伴い、自らの体を装飾したそうだ。それには、刺青やピアスなどによって、肉体を直接装飾することも含まれていたという。
かつて戦争で使われた装備も展示されていた。ヨーロッパ勢力がアフリカを侵略する以前、この地域は決して原始の土地ではなく、いろいろな王の権力があって、たがいにフロンティアの拡張を目指して争っていたのである。頭から草を生やしたようなヘルメットに、全身が金属のニットのような鎖かたびら、スコップのようなものが多くぶら下がっている服などがあった。銃身が長い鉄砲は、博物館の説明によれば、ポルトガルから14世紀ごろ伝わったものだそうである。ナイジェリアは、リスボンから長崎に至るポルトガルの通商路上にあったので、やはりポルトガルの影響は大きかったのだろう。地元の権力者同士の争いに、ヨーロッパ製の武器や防具が用いられたところは、日本の戦国時代などと似ている。
また、弓矢はナイジェリアの南北で利用され、矢の先端には毒を塗って殺傷性を高めていた。馬の鞍は、戦争時でも安定性が高まるように使われたということだ。ナイジェリア北部の人は戦争の際に馬に乗ったが、南部では歩兵が中心であったようである。歩兵が進軍している像もあった一方で、木製でできた、こちらは北部の騎兵を表す、馬にまたがっている像もあった。
次の展示コーナーには、自然発生的にできた通貨が展示されていた。ガラス瓶が通貨として使われていたとあり、カラバルの博物館にも同様のものがあったが、薬が入っているような普通の瓶であった。また、鉄や塩、牛やビーズなどといった地元のものや、鉄や銅の延べ棒や貝殻、マニラ麻にタバコなどといった輸入されたものも通貨にされたという。ここには、そうした鉄の棒や、コインと貝殻でできたバスケットなどが展示されていた。イギリスが植民地化する以前から、この地域には市場経済が存在し、通貨が自生的に流通していたことを示していた。
全体として、この博物館は、植民地化される前史に重点が置かれ、植民地化以前に、それなりに発達した経済・政治がこの地域に存在した事実を示す内容となっていた。植民地時代の歴史についての展示はほとんどなく、カノの博物館にみられたような、植民地支配を批判するような展示の傾向は、まったくみられなかった。
40分ほどで一通り見終わり、私は受付で販売していたガイドブックを購入した。32ページほどのコンパクトな冊子で、代表的な展示物を挙げながら解説が書いてあり、一冊200ナイラであった。
途中で帰りのフライトのリコンファームを終え、私たちはラゴス大学に向かった。前回ラゴス大学を訪れた際に約束を取り付けていた地理学部のババトラ教授にインタビューをするためである。
私たちは、地理学部のある大学の校舎に入り、早速教授の研究室に伺った。室内には、交通地理学を専門とされているイイオラ(IYIOLA)さんも同席され、バハトラ教授と一緒にインタビューに応じてくださった。
まず、前日に訪問したLAMATAについて、評価をうかがったところ、次のような見解を示された:
LAMATAのBRTは予想以上に成果を上げており、交通の状況は良くなっている。ラゴスには1000万人以上の人口がいるため、新たな鉄道システムは交通の改善にとって現実的なスキームだろう。LAMATAの新たな鉄道システムには、中国のCCECCとカナダのCPCS transformが興味を示している。また、資金は、イングランド人が100億ナイラを出資してくれることになっている。
次に、カノとLAMATAで私たちが経験した、公的インフラ整備における、連邦政府と州政府との間の行政分担の問題について尋ねたところ、民主主義の政治システムと空間スケールとの関係について、次のような示唆に富んだご見解を伺った:
現在、(連邦政府の)運輸省には、たくさんの機関が集まりすぎているのが問題だ。イギリスを模範に、そうした各機能を分けることが必要である。例えば、州政府が独自に行ったLAMATAやカノの発電事業は、分けられた機能によって成功した好例であるといえる。
ナイジェリアにおいては、民主主義的な要素がより低次の行政レベルで機能することをつうじて、政策が進展するといえる。つまり、民主主義的な政治システムの下では、政治家は次の選挙対策のために何らかの成果を上げねばならない。例えば、市民はより良い交通システムを求めている。そこで政治家は、(票を獲得するため)交通システムの整備に努める。その過程でPPP(第3セクター)などを導入し、これによって利益を求める私企業が潤う。こうした関係が優れた政治家の下でうまく回り始めると、LAMATAのような成果が出てくるのだ。
現在、LAMATAにみられるように、ラゴス州知事が強い主導権をもって、交通の改革に乗り出している。そのために、州知事はいろいろな省庁を巻き込み、交通改革への事業をコーディネートしている。
このように、州が主導権を持ち、下からのボトムアップによって動いているのに対して、連邦政府は上からのトップダウンであり、その結果として、電力や鉄道インフラの問題は遅々として進まないのだ。したがって、ナイジェリアにおいては、地方分権を推進し、低次の行政レベルでの動きを促進することが重要なのである。
そのほか、道路交通問題について、トヨタや三菱など、タクシーのメーカーや車種の統一の必要性を提起された。
航空分野については、今日、エミレーツ航空、中国南方航空、アリク・エアなど、様々な海外の航空会社がラゴス空港に参入している。アメリカ、イギリスからも直行便が出来た。石油生産の拠点、ポートハーコート行きの飛行機は、半数以上が欧米人だと、航空交通の国際化を強調された。
最後に、今回、本当のアフリカの姿を見ることができたということだが、是非とも日本にそれを伝えて、ナイジェリアに投資を呼び込むためのプロパガンダをお願いしたい、と私たちに訴えて、インタビューを結ばれた。
短い時間だったが、イイオラさんへのインタビューを中心に、示唆に富んだ様々な情報を教えていただいた。私たちはお礼と記念撮影をし、研究室を後にした。
▽大学内の学食へ
インタビュー後、1時半過ぎとなり、ちょうど昼食の時間なので、学食に案内してもらい、そこで食事となった。
学食といっても、屋内ではなく、屋根のない広場を囲んでいろいろな食べ物を売る店が並び、その前にテーブルがある、一種のフードコートのようなつくりになっている。テーブルは、ラゴス大の学生で賑わっていた。私たちは、店の外のテーブルを取り、学生に混じり一休みした。
のどが渇いていたので、私たちはそれぞれコカコーラ、スプライト、そして英国のシュウェップス社のビターレモンというレモンソーダのようなものを飲んだ。瓶入りの飲み物は一ビン35ナイラ。ここでは人々は、細長い瓶にストローをさして飲んでいた。ボゴビリホテルのような例外を除いて、一般的に飲み物はそれほど冷えていないが、ここでもあまり冷えていない。電力が安定していないため、冷蔵庫もあまり冷えないのだろうか。しかし、英国では生温いビールを飲むということなので、英国文化の影響かもしれない。
食事は、みな、焼き飯にコールスロー、揚げプランテーンに少し辛めに味付けされた鶏肉にソースが掛けられたものを注文した。このセットは300ナイラ。プランテーンはいわばバナナと同じようなものなのだが、ナイジェリアの学生たちにとっておかずなのだろうか。ご飯はぱらぱらで、コールスローも日本のものとあまり変わらない。メニューには以前食べたモイモイもあったが、誰も食べなかった。
飲み物や食べ物の価格は、日本人の目から見ればリーズナブルだが、ナイジェリアの所得水準からすればかなり高価である。大学まで進学できるのが、相当に高所得層に限られることを、学食の価格が物語っているように思われた。
食事を終え、車に乗り込んだ。大学のキャンパスから出ると、門の近くには、若者向けのファッションを扱うお店やサングラスなどのアクセサリーを売っているお店が点在していた。やはり大学の近くということで、裕福な家庭出身の学生に需要があるのだろう。
車の中で、日本国外務省の危険度レベルが最大になっているポートハーコート行きの飛行機の半数が欧米人という、大学で伺った状況について、ゼミ生で話し合った。同じような「海外安全情報」は、海外の政府もそれぞれに出しているが、それでも、欧米人は、適切なセキュリティ措置を取った上で現地に投資している。外務省の海外安全情報を金科玉条にし、リスクを取ろうとしない日本が、積極的に石油権益を取っていくという点で出遅れているのは明らかだった。
また、ナイジェリアの政治に民主主義が定着するにつれ生じている、インフラ整備のリスケーリングという点も、示唆に富むお話であった。すなわち、選挙の存在が、州のスケールで住民に密着した政策決定がなされる重要な動因となっている。これと比較し、上置境界がもたらした人為的国境が常に民族間の対立に基づく政治的抗争を生んでいる連邦レベルでは、交通・電力などインフラ整備の効果的な政策が出せないのではないか、という重要な点が指摘された。
道を走っていると、郊外に向かうイバダン・イコジャ方向の車線は比較的スムーズに車が流れているが、都心に向かうラゴス島方面は渋滞がひどくなっているのが分かる。やはり、ラゴス島へ向かうための橋が3本しかないことが影響しているようであった。
道路沿いに、ガソリンスタンドが見えた。その店では、ガソリンは1リットルあたり70ナイラで、軽油は140ナイラ、灯油は50ナイラで販売されていた。販売価格はきりが良い数字で、日本のようにあまり価格が細かく変動しなさそうだ。これまでガソリンスタンドを見てきて、価格もある程度統一価格になっているという認識を持っていたが、ここではそうしたことはなく、少し離れたガソリンスタンドでは1リットル当たり石油が70ナイラ、軽油が145ナイラ、灯油が60ナイラで販売されていた。やはり、店が価格を決める裁量を持っているのであろう。
途中、道路沿いに、「ラゴス―アクラ」との看板を見かける。長距離バス乗り場である。アクラとは、ナイジェリアから、仏語圏のベナン、トーゴをはさんで西にある、ガーナの首都である。国境を3本も越えて、大西洋岸沿いに、毎日出発の都市間輸送が行われているのだ。カメルーンとナイジェリアとの国境通過がいぜん不便であるのと対照的に、西アフリカ諸国の間は、空間的にも統合が進んでいるようである。ただし、バスといっても日本のような大型バスではなく、ワンボックスカー(バン)をバスとして利用している。長距離移動しなければならないだけあって、このバス会社は比較的新しい車を利用しており、街中の黄色のバスに比べて乗り心地はよさそうである。
午後3時、道の左手に、青い屋根の大きな教会が見えた。その向かい側に、朱色の巨大な外壁に囲まれた地区があった。それはまさに城のようである。私たちの車が、走っていた幹線道路から下ると、正面に、この外壁の中に入る門があった。その門の上部には中国国旗とナイジェリア国旗が翻り、その下に「中国商城」という漢字があった。
ここは、ラゴス中心部からは少し離れた、幹線道路沿いの郊外のオジョタ地区で、ラゴス大学からさらに北上し、ラゴス国際空港があるイケジャ地区の東にあたる。
入り口の門の近くに、看板が設置されてあった。英語で“OJOTA CHINA SHOPPING COMPLEX LAGOS”とあり、2005年3月10日に完成し、完成には、オバサンジョ前大統領夫人が関わったと書かれている。同様の看板の中国語版も設置されていた。
だが、万里の長城のような中国商城の外壁の朱色は色あせ、黒ずみ、またところどころ外壁が崩れてしまっており、外観からは、とても3年少し前に造られたものには見えない。
門前では、パラソルのもとでいくつかの店が展開していた。ここの店員の多くはナイジェリア人で、2010年に南アフリカで開かれるサッカーのワールドカップをイメージしたビニールバッグや、デッキブラシなどもある。特徴的なのは、アフリカに来てから露店の品物といえば一点ものが多かったが、この店では同じ商品が複数置いてある。卸売り機能も兼ねているのかもしれない。ビニールバッグは、遠くから来た卸売商人が仕入れたものを持ち帰るにも有用であろう。
私たちは、ここでいったん解散し、手わけして商城内を簡単に調査した。中国語を話さず、買い物客ではないと見られたか、ここにいる中国人は私たちに対してあまり友好的ではなかった。
まず、あたりを見渡すと、衣服や布など、繊維製品が並べられている店が非常に多い。また、ガラスのショーケースの中にネックレスなど貴金属を陳列した店、皮製のバッグや帽子などおしゃれな小物を扱っているお店、さらには診療所に赤ちゃん用品店、照明の卸売りをしている店などもある。
店舗数を数えてみると、約120の店がこの中国商城で営業していた。だが、意外と空き店舗も多い。店の上部にはナンバーがふられていて、それを見ると200くらいあったので、それが入れる最大のテナントの数であろう。店員は中国人が多いが、店によってナイジェリア人も雇っており、店内で働いている人を時折見かけた。
私たちは、布を扱っている店に入ってみた。そこでは衣類のほかに、革靴やサンダル、ネックレスなども陳列してあった。価格は、例えばワイシャツは300〜500ナイラ、パジャマは700ナイラ、半袖シャツは300ナイラであった。この店は日本であったら小売店程度の品数ではあるが、ナイジェリアではそもそもこういった店舗自体ほとんど見かけないのでこの規模なら十分に卸売りの機能を果たしているといえる。
その店の店員である女性は、見た目はまだ20代の若さだった。インタビューを試みると、福建から5人家族で来たそうで、中国城ができて以来3年間ここで店をしているという。ナイジェリアへは、その市場の大きさを見込んで来ており、3ヶ月に一回は中国に帰るそうだ。仕入れと帰省を兼ねているのであろう。ラゴスと広州・北京とのあいだを中国南方航空の直行フライトが結んでいるので、頻繁な一時帰国も、さほど負担にならないものと思われる。品物はもちろん中国製である。
その後、違う衣服店に移動した。そこで、ゼミ生の一人が、安いと思ってワイシャツを1着購入しようとしたが、売ってくれなかった。というのも、シャツについていた値段は複数購入したときの値段であり、一着ずつの販売はしていなかったからである。やはり卸売が中心のようだ。
店を出た後、近くの公衆トイレを借りようとしたら、なんと有料で1回当たり20ナイラを払わなければいけなかった。
テナントのいない店舗には、『西非統一商報』という新聞が窓に張ってあった。「非」という文字には、中国語で「アフリカ」という意味がある。つまり、西アフリカに住む中国人向けの中国語新聞である。新聞社の経営が成り立つだけ多くの中国人が西アフリカに来ているということの現れである。大量の中国人が、相互扶助しながら、西アフリカというはるか異国の地でビジネスを行い、生活していることの現れだろう。また、先ほど見た長距離バスターミナルがラゴス中心部でなく中国商城に近い郊外に立地しているところから判断すると、この商城は、ラゴスにとどまらず、ガーナなど西アフリカの他の国をも商圏にとりこんでいるのではないか。西アフリカの周辺諸国からも長距離バスでやってきて、この中国商城で品物を仕入れ、それを自分の街で売るという商業活動が行われているのであろう。
ふたたび駐車場となっている広場にもどると、そこには、交番ほどの小さなガラス張りの建物があった。見ると、ガラスには「広告」「新聞」などの文字がある。ガラスには内側から紙が張られていて、中国語で「貸し部屋 ベッド3つ、トイレ2つ ここから5分」と書かれていた。ここで働く中国人が、集団で借りて住むにちがいない。
こうして、私たちは中国商城の視察を終えた。そこには、チャンスを求めて中国から西アフリカまでやってくる貪欲な中国人の姿があった。また、西アフリカ各地から集まってくるアフリカ人の卸売商によって、中国製品がアフリカ各地に広く流通してゆく。そうした、西アフリカにおける中国製品の流通のハブとしての機能をこの中国商城は果たしている。こうしたところに、現代のアフリカにおける中国の巨大なプレゼンスの一端を見ることが出来た。リスクばかりを考え、アフリカの現地でコストの高い高級な生活をしなければやっていけない日本企業や日本人には到底真似のできないやり方で、中国は深くアフリカに根付いてしまっているのである。
1時間ほど中国商城の視察をした後、私たちは再び車に乗り、ラゴス国際空港の南に位置するオショディ地区を目指した。そこには、私たちが巡検出発前、夏学期にゼミで学んだ教科書『Subsahara Africa』(著者、出版社)の表紙を飾ったオショディマーケットがある。
午後4時過ぎ、車を近くに止めて、私たちは道路沿いのマーケットを歩きはじめた。周りの露店が道幅を圧迫し、少しでも油断すると車に接触しそうになる。駐車場のそばのマーケットでは、トイレットペーパーや文具、コンロ、衣服、靴、化粧品など日用品が売られていた。マーケットは土曜ということもあって、多くの人でにぎわっていた。周りの人や車を避けて歩くので精一杯だ。
やがて、私たちは歩道橋についた。階段を上っていく。するとそこには、忘れることができない光景が広がっていた。それは、私たちがアフリカに行く前、はるか彼方の地に思いを馳せつつ学んだ教科書の表紙の写真そのままの世界である。真っすぐな線路に沿って、開いた鮮やかな露店のパラソルが地平線に届きそうなほど伸びていき、さらにその隙間を人々とバスケットに入った色とりどりの野菜が埋め尽くしていた。眼下のマーケットから、さかんに取引の声が聞こえる。またバスが次々とターミナルにたまっていき、そこからも喧騒が聞こえる。その風景は感動的で、ナイジェリアの溢れるエネルギーを目の当たりにし、私たちは圧倒された。
さて、このマーケットは、列車が通らない間、線路の上に一直線に広がって商業活動が行われている。歩道橋の下におりてゆくと、オショディ駅と書いてある駅名看板を発見した。もちろんこの線路は廃線になっているのではなく、土日に運行していないだけで、平日にはちゃんと汽車が通る。駅のそばに近づいて、私たちはゼミの教科書の表紙との違いを一つ見つけた。表紙の写真に載っていた駅舎の屋根はもはや存在しない。鉄道の荒廃が進んでいる様子が、ここにもあった。
線路沿いのマーケットでは、先ほど通ってきた駐車場のマーケットとは違い、主に生鮮食品を扱っていた。例えば、ピーマンやトマト、とうがらし、玉ねぎ、生魚、生肉、米、豆類、パン、さらには味の素も売られていた。しかし人が多すぎて、私たちは、ゆっくり品物を見ることもできない。邪魔になっていたのか、私たちはときおり罵声を浴びることになった。こうした状況であったので、あまりマーケットにいられず、私たちは早々に車内に戻った。
この日最後の目的地はNRCのラゴス駅である。時刻はすでに午後5時半になり、次第に日が沈みつつある。
車を止め、私たちは「LAGOS TERMINUS」という文字がある建物に向かって歩いた。外から見ると、白を基調に屋根と側面などに緑を用いて、それなりに新しそうなデザインに仕上げてある。形状は、学校の体育館のような建物だ。入り口付近で、その外観を写真に収めた。
ところが、それが原因で私たちは私服警官につかまり、駅の事務所に連れて行かれてしまった。話によれば、駅舎の写真を撮ったことで、私たちがスパイではないかと思ったそうだ。どうやら写真を取るにはNRCの許可書が必要だったらしい。ほとんど列車が来ない駅にどのような戦略的価値があるのかはなはだ疑問ではあるが、結局、警官は写真を撮らないという条件つきで私たちの駅内見学を許可してくれた。
駅内は正面と側面に二箇所の入り口があり、入り口の正面、つまり建物のちょうど中心に窓口が存在しており、そこで切符を販売している様子であった。駅内にはベンチが備え付けられ、その付近にダイヤの看板も設置されていた。ダイヤは現行のものではなかったが、参考までに、以下にそのダイヤを紹介したい。
Time Table No.15
Local/Workmen’s Trains-Lagos terminus
Mondays to Fridays
Departures Arrivals
1 S.103 04.00 To Oshodi 1 S.102 06.00 Ex Oshogi
2 S.105 06.20 To Oshogi 2 S.106 06.40 Ex Agege
3 131UM 06.45 To Idogo 3 S.112 09.30 Ex Oshogi
4 S.109 07.30 To Oshogi 4 S.114 10.05 Ex Agege
5 S.111 09.45 To Oshogi 5 134DLP 12.15 Ex Ibadan
6 S.113 11.30 To Oshogi 6 S.116 12.50 Ex Oshogi
7 133ULP 15.30 To Ibadan 7 S.118 14.20 Ex Oshogi
8 S.117 15.45 To Agege 8 S.122 18.35 Ex Agege
9 S.121 17.05 To Oshogi 9 S.124 19.20 Ex Oshogi
10 S.125 18.47 To Agege 10 132DM 21.10 Ex Idogo
要するに、約140km先のイバダン行きが、最も遠くまで行く列車である。
その後、私たちはプラットフォームに移動した。構内には確認できただけで3本の線路が入ってきており、そのうちの2つのホームに列車が停まっていた。一編成は客車だが、もう一編成の列車は、前からコンパートメント車両、寝台列車、荷物車という3種類の車両が連結されていた。そのうち、荷物車の中には何も積まれていなかった。寝台列車をはさみ、コンパートメント式の旅客車両を見ると、車体は塗装の青色が映えていて比較的新しい。いまにも、カノに向けて発車しそうな雰囲気である。私たちは、飛行機でカノからラゴスに戻ってきたのだが、できれば、このような寝台列車で移動してみたかった。
列車の先にある線路を見てみると、線路の曲がり方がきれいな曲線ではなくカクカクとしている。長い間、保線しておらず、線路が荒れているのかもしれない。
ホームも駅舎と同じく白と緑のナイジェリア色に塗装されていた。屋根には、「LAGOS」という駅名表示がついた電灯が取り付けられている。だが、あちこちに、スクーターや棚といった粗大ごみのようなものが放置されていた。そして、プラットフォーム脇には、なぜか荷物が金網の中に収納されていた。いつ、長距離の荷物列車が出発するのだろうか?駅の時計は止まっている。ちぐはぐな感じのプラットフォームの情景ではあったが、やはり鉄道の荒廃が進んでいるように思えた。
プラットフォームを後にする際、今度は別の警察に止められてしまった。その警察は、またもや、写真を撮っていないか、メモをしていないかを聞いてきた。無事やり過ごして、私たちは駅舎を後にした。
ラゴス駅を出ると、時刻は6時を過ぎており、この日は夕食を残すのみとなった。最終日ということで、私たちは、ECO HOTELという高級ホテルのビュッフェで巡検の打ち上げをすることになった。
このホテルは、とにかく豪華なものだった。外にはテニスコート、ホテルの中庭にはプールが付いており、たいへん広い。だから客層も欧米からの客が多いのかと思いきや、ナイジェリア人の姿も多く、女性に関しては、ハリウッド女優のようなサングラスに毛皮を身につけている人も複数いた。二重経済の上層部を構成している人々を目の当たりにしてその格差の大きさを思い知った。そして、ホテルの入り口車寄せには、銃を構えた警備員が、貧しく用のないナイジェリア人が入ってこないようにしっかり見張っている。
ビュッフェはサラダだけで8種類もあって、日本の都心の高級ホテルのビュッフェといっても十分通じる豪華なもので、洋食中心であるが、ナイジェリア料理もあった。一人3900ナイラという値段はおよそ日本円にして3500円程度であり、料理の質から考えれば二重経済の上層部の物価は日本と同等かもしくはそれよりは多少安いという印象を持った。私たちは食事を楽しみながら、これまでの巡検の感想を一人ひとり述べ、巡検の成果を振り返った。
食事を終え、約束の夜9時半に、運転手が時間通りに迎えに来てくれた。私たちはボゴビリハウスに戻り、巡検最後のアフリカの夜の眠りについた。