カノ市内視察の続き



本日は、午前10時のフライトでラゴスへ戻る予定となっている。昨日訪問する予定であったカノ国立博物館には、時間がなく行けなかったので、 朝早く起きて、空港に行く前に見学することにした。朝食を注文したが、出発に間に合わなかったので放棄して、8時過ぎに慌しくホテルを去ることとなった。

▽英政府の間接統治政策が体現された都市構造

カノは、中世から交易中心として発達した伝統的都市である。都市全体が城壁で守られた城塞都市となっていた。城壁内部が中世の中心地として発展し、 首長を頂点とした支配システムが機能していた。

カノに侵攻し、植民地とした英国は、この元々の伝統的な権力の中心と同じ場所に行政機能を据え、「Old City」と呼んで、 植民地行政施設を城壁内部の中心地に建設した。このことによって、英国は、新たな権力者としての地位を、被支配者とされた民族に誇示した。 ここには、都市建造環境のシステムの中で相対的な「場所」がもつ連続性が認められる。

しかし、城壁内部の土地が限られていたため、植民地行政官の住宅等を建設する十分な都市空間はなく、城壁外のOld Cityの東側に高級住宅街が計画された。 これが、「ザボンガリ」という地区である。

もっとも、すでにみてきたように、このような都市形成過程は植民地においてむしろ例外である。多くの植民都市は、既存の伝統的な都市中心ではなく、新たな場所に建設された。ラゴスもロコジャも、その例である。ラゴスでは、支配者である英植民地官僚などが居住した跡地が、高級住宅街として現在も機能し続けており、ここにも相対的な「場所」の持つ連続性がある。私たちがラゴスにおいて宿泊していたホテルが位置する 「イコイ」地区は、そのような高級住宅街の一つであった。

▽イギリスの侵略と独立の歴史を語る――カノ国立博物館 Gidan Makama Museum

博物館はホテルから近く、8時15分頃に到着した。博物館の建物は、ハウサ調で、一昨日に見学したカノ歴史博物館の建物と似ていた。 外壁は茶色の土で作られており、白色の直線曲線による模様が描かれていた。

8時から開いているということだったが、さすがに早朝からの訪問者は少ないようで、博物館のガイドの方が来るまでほんの少し時間を要した。 それでも8時20分過ぎにはガイドの方が博物館の案内をはじましてくださった。空港には9時30分には到着したいので、9時に博物館を出発しなければいけなかった。

ガイド氏の話によると、現在博物館として用いられているこの建物は15世紀から存在しており、当初はゲストハウスとして用いられていた。 1463年から1471年までの8年間は、当時の首長の王宮として使われていた。その後、マカマ(Makama)という王族の一員に引き継がれ、それが1950年代まで続いた。 1950年代に建物が三つに分けられ、一部分は小学校に、一部分はMakama言専用に、そしてもう一部分が博物館用になった。 そして博物館は1985年から一般公開されるようになったそうだ。1986年には、この建物自体が国の重要建造物に指定された。

建物の入り口には、応接間があった。カノの伝統的な家には、この応接間が必ず存在する。男性はここで許可を得なければ家に入ることが出来ないのが、 伝統的な決まりだ。建物の大半の材料が土である。カノの土は建物の建設に向いており、細かく刻んだ麦わらを土に混ぜて用いられた。 例えば、建物や塀の強度を増すために焼きレンガを使い、外壁には醸造麦芽の漆喰をかけている。土台部分にはラテライトを用いている。 天井部分には砂漠のヤシの木の枝を用いていて、非常に強く、建物を熱から守ってくれる。

カノのOld Cityを囲んでいた城壁には15個の城門があり、そのうちの二つの城門が展示してあった。城門は鉄製であり、全て地元で作られたという。 城門には、1903年にイギリスがカノに侵攻したときの銃弾の痕いくつもはっきりが残っていた。中国の「愛国教育基地」のような露骨な政治宣伝はないが、 イギリスがイスラムの伝統都市を侵略した歴史の証言と植民地主義への静かな怒りが、にじんでいるようであった。

進むと、中世から現在にかけてのカノの支配階層の家系図が展示してあった。主に4つの家系が2つの大きな王朝を築いていたことがわかる。 一つ目の王朝がHadeというハウサの王朝で、二つ目の王朝がフラニの王朝であった。19世紀始めにイスラム勢力であるフラニがナイジェリア北部に対して聖戦を仕掛け、 征服するに至った。この建物も一昨日のカノ歴史博物館の建物もハウサ王朝時代の建物なので、ハウサ文化が基調の造りとなっている。

また別の建物には、イスラム文化を示す展示があった。メッカへの巡礼やカノにおけるマドラサ(イスラム教の教育機関)の教育方針、 ソコトの首長(スルタン)のためのジハード、カノで暴動を扇動した急進的イスラム教徒などについて説明してあった。

▽植民地支配に謝罪しないイギリス

この伝統的都市カノは、1903年にイギリスに征服された。この時の写真が展示してあり、非常に興味深かった。

カノの城壁を前に、現地で傭兵された黒人兵士が隊列を組んで砲撃の準備をしている後ろで指揮を取っているイギリス人将校、 イギリスがカノの都市を征服したときのユニオンジャック、そして植民地行政府においてナイジェリア北部保護領総督のルガードと首長が対面している姿と、 など、長い歴史をもつ伝統的都市がイギリス植民地支配の手に落ちていった歴史を、冷厳な画像で見る者に訴えかけていた。

さらに進むと、独立への胎動をしめすセクションになった。植民地時代、当初は、ナイジェリア国内において政党は一切なかった。 代わりに、連合体(association)の設立が許可されており、NCNC(National Congress Nigeria and Cameroon)、AG(Action Group)、NPC(Northern Political Congress) などの組織が存在していた。次第に政党結成の機運が高まり、これらの政治組織が結合するなどして政党が誕生した。 1960年10月の独立に向けて、これらの政党・政治リーダーは非常に重要な役割を果たした。

1956年にはイギリスからエリザベス女王が来訪し、独立の可能性について言及し、徐々に独立運動はその勢いを増した。 展示の中には、1957年に英国ロンドンでのLancaster House Conferenceにおいて、ナイジェリアのリーダー達が独立を提議した写真が飾ってあった。 独立時の写真も飾ってあり、そこにはルガードの姿もあった。独立に向けて奮闘したナイジェリアの政治リーダーや政党は、独立後の議会や内閣を占めることとなった。

朝鮮半島などを植民地支配した過去を持つ日本人にとって、その歴史の清算の問題が、 常に肩にのしかかっている。そこで私たちは、カノやナイジェリアの植民地支配について、独立後イギリスから謝罪はあったのかと博物館ガイドの方に聞いてみた。 するとガイド氏は言下に、、「勿論ない」とおっしゃった。イギリス側の言い分は、植民地支配以前、人々は首長に無償で使われていたが、 イギリスは人々に労働の対価として賃金を支払ったと主張している。封建的な賦役を市場の賃金労働でおきかえて、人々を啓蒙し社会を近代化したのだから、 植民地支配には正統性がある、という主張なのであろう。イギリスの支配は正当であったと証言するナイジェリア人も多くいたと言う。謝罪がないのだから、 もちろん賠償もない。旧植民地国が旧宗主国に対して謝罪や賠償を要求するというニュースは時たまみかける。だが、世界的にみると、 正式な謝罪や賠償はほとんど行なわれていないのが現実だ。つまり、それだけ、主権国家が正式に過去の歴史の過ちについて認め、 謝罪することは重みのある行為なのである。

ラゴスへ



▽カノを去る時。時間に正確なフライト

9時5分に博物館を去り、空港に向かった。空いている道路の傍らには、だれも住んでいない新しい住宅がいくつも立ち並んでいる。ここも、投機目的の建設のようだ。

私たちの車は、20分強で到着した。空港直前で道が二手に分かれ、異なるターミナルに続いていた。 私達が利用したベルビュー(bellview)という航空会社が構えるターミナルの建物は、広い敷地内に看板も無く存在していたため、 貨物便のターミナルと間違えているのではないかと心配になった。

いよいよここで長い期間お世話になったガイド氏達とお別れとなった。非常に誠実でまじめなガイド氏への信頼感は、 私たちのあいだに時を経るにつれて高まっていった。ゼミ生たちの間では、ガイド氏に対する愛おしい気持ちが芽生えており、 別れは非常に残念であった。英語は話さないが、着実に仕事をこなす渋いドライバー氏にも大変お世話になった。両氏に対し、ゼミ一同感謝のチップを贈り、 別れの挨拶を交わした。

ターミナルへと向かう。ターミナルビルの中はがらんとしていて、チェックインは滞りなく済んだ。 カウンターには、いささか原始的な秤が置かれていた。クレジットカードがまだあまり普及していないのか、高額の航空券をナイラの札束で買っている乗客もいた。

簡素なつくりのラウンジでしばらく待った後、専用バスで滑走路まで移動し、飛行機のタラップに着いた。 その際に、乗客の荷物がこれから積載されようと地面に置いてあったのだが、ゼミテン二名の荷物がなく、若干不安になった。 この二人はチェックイン時の荷物の預け入れが他の人よりも遅かったため、荷物の運搬も遅くなっているようであった。 荷物を置いていかれることだけは避けなくてはならないので、この二名だけ搭乗せずに待ち、荷物を確認してから飛行機に搭乗した。 やはり、途上国での旅では実際に確認するという習慣を徹底するべきであろう。先生からは、「もし荷物が来なかった場合、 ギャーギャー騒いで出発を遅らせるように」との助言を頂いた。日本で快適なサービスを享受している私達にとって「ギャーギャー騒ぐ」経験はあまりないかもしれないが、 途上国の旅においては非常に重要なスキルであるし、ましてや日本でも有効な場面はあると思う。細かなことではあるが、先生から生きる術を学んだ瞬間であった。

機内の座席は自由であり、離陸後すぐに軽食(パン)が配られた。フライトアテンダントの女性が綺麗であった。巡検中、一番綺麗な人であったかもしれない、 などとゼミ生の一人が話しかけてくる。やはり、ナイジェリアでは、フライトアテンダントは花形職業なのであろう。 飛行機は、国内線で一般的に使われている定員100名程度の中型機であった。離陸直前にフライトアテンダントが緊急時の説明を、 身振り手振りを交えて行なうのはヨーロッパの格安航空便と同じであった。

10時45分頃、機はほぼ時刻表通りカノを離陸した。アフリカの大地を眼下にみて、ラゴスには11時55分に到着した。一時間強しかかからなかったことに、驚いた。 途上国の国内線フライトは避けたほうがよいと聞いたこともあって、少し心配だったが、このベルビュー航空に関して言えば、到着時間はほぼ正確であり、 危ない思いもせず、問題は無かったように思われる。

ラゴス大都市圏交通局(LAMATA)



出口で、無事に、ラゴスのガイド氏と再会できた。車に乗り込み、 午後一時に訪問予定のラゴス大都市圏交通局(LAMATA、Lagos Metropolitan Area Transport Authority)へと向かう。 飛行機が遅れないかヒヤヒヤだったのだが、ほぼスケジュール通りに飛んでくれたおかげで、アポイントに遅刻せずにすんだ。

二週間強ぶりに帰ってきたラゴスは蒸し暑く、相変わらず渋滞していた。LAMATAへの道中、道路沿いにいくつも工場が立地していた。

午後一時過ぎ、LAMATAのオフィスに到着した。建物の周りは、沢山の車が駐車され、人々も多く、活気が感じられた。

▽都市交通問題解決への実効的取り組み――LAMATA

私達は、会議室に通された。そこは、冷房が利き、プロジェクターにプレゼンテーションが準備され、別世界のようであった。
ここでの私たちの目的は、ラゴス州政府の交通を担当する局でLAMATA側からは最高責任者のモオベレオラ博士(Dr. Mobereola)を筆頭に、財務部長、投資計画部長、ビジネスシステム部長、 融資元であるEcobankからの代表者などLAMATA経営陣総出のそうそうたるメンバーが私たちを迎えてくださった。私達を日本からの投資ミッションと思ったのだろうか、 それとも私達が社会人となった時のための投資と考えたのだろうか。いずれにせよ、日本に対する期待度はかなり高いように思われた。 最近日本国内では、鉄道など公共交通が、輸出ポテンシャルを持つあらたな産業として注目され始めている。 しかし、LAMATAのこの期待に応えられるような日本のプレゼンスは全くない。






▽インタビューを終えて終わり

会議室でのインタビューを終え、感謝を述べた。すると驚いたことに、LAMATAの方々は私達にパックランチをご用意してくれているとの返答だった。

職員の方の話によれば、BRT視察に来る外国からのゲストが頻繁にあるようで、対応も手慣れている。投資ミッションもあるだろうし、 ラゴスでの成功の経験に学びたい途上国の都市交通関係者もあるのだろう。ガーナのアクラでは、BRTを導入する予定になっているという。

建物のエントランスで写真撮影を行い、実際のBRTが運営されている現場を視察しにいくことになった。

LAMATAのバス車庫・整備上見学



▽モチベーション高い労働者たち――LAMATAバス車庫・整備場の見学

BRTバスの車庫・整備場は、LAMATAの本部から車で5分くらい離れたところにある。 なかなかの広さで、サッカーコート2面分以上はある敷地が、バスの車庫と、事務所・整備場の大きく二つの区画に分かれている。 車庫といっても、屋根や建物はなく、広い駐車場に何十台ものBRTバスが駐車されている。 BRTバスは、赤色と青色をしたバスがあり、赤色のバスが急行バス、青色のバスが各駅バスという違いになっている。 各バス正面頭部の標識には、「Nigeria」「Lamata」という二種類の標識が記されているのだが、特に意味はないようだ。

駐車場の横には、コンテナ12個ほどをつなぎ合わせた事務所がある。そこには、事務室、ドライバーの待機室、仮眠室が設けられている。 事務所脇から業務連絡と思われる大音量の放送が流れていた。

次に整備場へ移った。バス4台程度が入ることができる整備場で、この建物の奥が事務所という位置関係になっている。 整備場の前には、先程と同様に広い駐車スペースが確保されていた。整備場に近づくと、インドのバス製造会社、 アショクレイランド(Ashok Leyland」の旗が掲げられていた。Ashok Leylandはバスの売却後も修理サービス契約も結んでいる模様である。

事務所で、整備場の代表の方々にご挨拶した。あまりお話しする時間はなかったが、きちんとポロシャツ型の制服をきこなし、 写真を撮ろうとすると、シャツのボタンがきちんと留めてあるかどうか、そっと自分でチェックしていた。 規律正しい作業しようというモチベーションは高く、制服が象徴する組織の連帯感はかなり強いようである。 それでいて常に愉快な方達であり、私達を大歓迎してくれた。より社会的地位が高く、雇用も安定している新しい交通システムの職員として働いているプライド、 そしてこのシステムを自分たちが担っているのだという使命感が、行動の端々ににじみ出ていた。







▽ラゴス市民に支持されたLAMATAバス

車庫・整備場の見学後、BRTバスに試乗できることになった。私達が乗ったバスは、車庫から直接出発し、実際の運行ルートに合流した。 視察のために特別に出動してくれたバスであったようだが、途中から、バス停で待っていた乗客が「なぜ自分たちを乗せないのか」という雰囲気になり、 結局客を乗せて、通常の業務をこなすバスとなった。私たちにとっては、LAMATAバスの普段の姿をありのままに見ることができ、かえって具合よかった。

運行ルートに出ると、BRTバスはさっそく専用レーンを走り始めた。一般車線とはブロックで隔離されているので、渋滞に巻き込まれずスムーズに走行する。 ただし、BRT専用車線の全区間がブロックで隔離されているのではなく、例えばミニバスの集客地点や脇の道路との合流地点では、 他の車両が本線に合流できるようブロックではなく白帯で仕切られている。

しばらくして、バス停に到着した。バス停といっても、路面電車の停留所のような感じで、通常のバス停よりもずっと大きくしっかりと作られ、 屋根も設置されていた。バス停には、非常に多くの乗客が長い一列となって並んでいた。その列はバス三台分くらいの長さになっていた。 列の先頭に来ると、客は、そこにいるチケット発券スタッフから切符を買ってバスに乗り込む。私たちが車内で見ていると、押し合ってわれ先に乗る姿はなく、 乗客の秩序はきわめてよい。乗客はすでに皆切符を持っているので、ワンマンバスのように、小銭を出す客で入口が滞ることもない。

バス停の先頭のバスに人々が乗車している間、私たちが乗ったバスを含め3台ほどのバスが待っていた。人々の平均待ち時間が10分ということだったが、 10分間バスが来ないのではなくて、バスはいるけれども長蛇の列によって10分待たなくてはいけないというのが現状である。 実際に、私たちのバスが列の先頭に来て、お客を乗せ始めてから終えるまでおよそ4分弱かかっていた。また、立ち乗り専用の列も他に存在していた。 すでに乗って目的地に向かおうとする客にとって、この4分のロスタイムは大きい。一度に多数のドアを開けて効率的に乗降客を処理できる鉄道車両とちがって、 ここがBRTシステムの弱点の一つといえる。

▽BRTバスに乗車して気付いた問題点

BRTは、ラゴスの都市交通問題に苦しめられてきた市民に強く支持され、非常に多くの人々がBRTを利用している。

バスの中には、BRTに関するクレームや意見を受け付けるという掲示があり、BRTを社会に受容させようとする姿勢が感じられた。

バスはすぐに満員になって、実際に私達が乗ったバスもいくつかのバス停では満員のため新たなお客を乗せなかった。 始発点や規模の大きなバス停以外では、待っていても来たバスが満員でなかなか乗車できないという事態は、日常的であろう。

大量の利用者に対しては、とにかく大量のBRTバスを投入することで現状をやりくりしているようだ。 しかし、大量のBRTバスを投入すれば、バス専用レーンの中で渋滞が生じてしまう。

橋の直前のバス停で、バス専用車線は終わる。専用車線を設けるため橋を拡幅するのは莫大な費用がかかるので、 このバス停以後、BRT専用車線はなくなり、一般車線と合流するのである。その合流地点では、幾台ものBRTバスが渋滞する橋にの入りれることが出来ずに並んでいた。 巨大なバスが列をなして糞詰まり状態になっているのは、いささか滑稽にさえ見えた。ここで私たちは下車して、同行してくださったLAMATA・NURTWの人々に別れを告げた。

ホテルへの帰り道、橋の一部にはBRT専用車線があったのだが、数台の車やバイクタクシーが専用車線に侵入しているのを目撃した。

バスの話題で盛り上がりながらホテルへ



▽世界に広がる、バス利用の高速都市交通システムへの試み

帰りの車内で、先生から世界の諸都市における取り組みを伺った。

日本の名古屋市では、基幹バスというシステムがあって、道路の中央にバス専用車線がある。元々、名古屋市内には路面電車が走っていたが、 モータリゼーションの流れを受けて路面電車を廃止にしたところ、交通渋滞に公共交通機関が巻き込まれる事態となった。 今一度路面電車を敷きなおすのはコストがかかるため、妥協策として公共バス専用車線が導入されるに至った。 路面電車は線路のあるところにしか行き来できないが、基幹バスはどこからでもバス専用車線に入ることができ、より柔軟に人々を輸送できる点が長所である。

名古屋市の基幹バスシステムの取り組みは現在でも続いており、いちおう成功しているといえる。 だが、路面電車には、固定の線路があることで乗客に安心感を与えることや、スピードが出せる、複数の車両を連結できることでより多くの乗客を運べるという、 バスでは得られない長所がある。一部には、これなら路面電車を廃止しなければ良かったという声もあるそうだ。 この点からすれば、LAMATAが、BRTの成功に満足することなく、次の段階に都市高速鉄道建設を射程に入れ、長期的視野で臨んでいるのは、高く評価されるべきであろう。

アメリカのボストンには、トロリーバスとバス両用の「シルバーライン 」というシステムがある。 これは、トンネルのある市内では排気ガスを出さないため架線から電気を引いてモーターで走り、地上に出た郊外では、 普通のバスとしてエンジンを用いて走るというシステムだ。またオーストラリアのアデレードでは、オーバーン という、 都市部の専用レーン内で運転手がハンドルを握らずに自動で走行する、ガイドウェイバスシステムを使用している。

このように、従来は低速の都市交通手段とみなされてきたバスを高速都市交通体系に取り込もうとするさまざまの試みが、いま世界でなされている。

(参考)
マサチューセッツ州湾岸交通局HP
アデレードメトロHP
名古屋市交通局HP

▽ホテルへ

私たちは、橋を渡り、本土からラゴス島経由で、前回のラゴス滞在時と同じボゴビリハウスに到着した。 同じホテルではあったが、前回宿泊時とは少し印象が違って見えた。旅も終わりに差し掛かり、再度ホテルを眺める私たちの心境には、 これからの未知の大地への巡検に不安を感じていた3週間前と異なり、はるばる隣国カメルーンまで足を伸ばした巡検の困難を乗り越えてきた自信があった。

ホテルでは、今夜イベントが行なわれるようで、エントランスを過ぎたところのロビーでは、慌しくイベントのための準備が行なわれていた。 どうやら映画の上映会のようだ。

本日は、これ以後予定もなく、のんびり談笑し、ロビーで映画を鑑賞するなど、各自自由に過ごした。 ちなみに、ホテルで上映された映画は、いろいろな著名人がアフリカに抱くイメージ、数十年後のアフリカを語るというものであった。 数十年後にアフリカは、今の中国のように世界の工場として発展しているのだろうか、というスクリーンからの問いかけが、印象に残った。


(佐藤 剛)

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