▽聖十字架聖堂(Holy Cross Roman Catholic Cathedral)
いよいよ、長かった西アフリカの巡検も最終日となった。予定では11時にラゴス国際空港で現地解散ということになっている。幸い、この日は日曜日だったので、教会では礼拝が行われており、ナイジェリア人の信仰の様子を視察することにした。
私たちはまず、カトリックの、聖十字架聖堂Holy Cross Roman Catholic Cathedralに向かった。
この教会は、ガイドブック(Bradt Nigeria)によると、フランスの宣教師が設立したものであり、その宣教師のもと、カトリック国であるブラジルから戻ってきた奴隷たちが地元の人たちを入信させていったという。
この教会の歴史は、1863年、現在のベナンにあったダオメ王国から来た宣教師から始まった。この宣教師はラゴスにいた人々のキリスト教化をうまく進められず、2年後にラゴスを出て行ってしまったが、1869年には次の使節団がこの地に来て最初の教会が設立された。Agudasと呼ばれたブラジルからの奴隷がこの教会に連れてこられ、その人たちがカトリックとヨルバの神々崇拝を結びつけて、地元の人々のカトリック化を成功させた。現在の教会は1934年に建築されたものであり、これはフランス人の司祭であるAime Simonの監督の下造られた。Aimeはその際18世紀のヨーロッパの教会の建築様式をベースにしており、それはゴシック様式の柱、アーチ型の天井、脇の祭壇と控え壁を特徴としている。教会の材質の一部にはフランスから輸入されたものを使っている。(p. 148)
9時ごろ、ラゴス島の中心部にある教会に到着した。教会周辺では、都市再開発が進み、古い建物が次々と建て替えられているが、教会の建物は、むろん昔のままである。
教会はコンクリートの塀と鉄格子と生垣で囲まれており、高さは3階建てくらいに相当し、横は30メートル程度ある大きな建造物だ。外壁はベージュ色で、屋根のふちなど、ところどころに茶色のラインが入っていて、天井の色は青銅の色に似ている。屋根には小さな尖塔と十字架がついている。
教会の周囲には特設のテントが張ってあり、その下には椅子もたくさん用意してあった。また、教会の敷地外でも小冊子やネックレスといったキリスト教用品が販売されていた。いたるところに‘ST VINCENT DE PAUL’と書いてある黒い箱があった。寄付金をいれる箱のようで、箱の上部には‘HELP THE POOR’と書いてある。人々はみなカジュアルな服装で、気軽にお祈りに来ていることが伺えた。とはいえ、教会の周辺あちこちに停まっている車は、比較的新しくきれいなものが多い。お祈りをしている人のなかには、高所得者もかなりいるのであろうか。駐車場もきちんと整備されていた。
教会の中に入ると、広く奥行きがある。正面の祭壇には赤い十字架が掲げられ、十字架の首には白い布が掛けられている。教会の柱は神殿に使われるような重厚なもので、窓はステンドグラスになっており、美しい光が差し込んでくる。通路には空調の代わりと思しき扇風機が複数置かれていた。
教会ではミサが進行中であり、人々は皆ひざまずいて手を組み、うつぶせの姿勢でお祈りをしている。祈り方は様々で、うつぶせ寝の状態で祈念している人、頭を抱えてお祈りしている人を見かける。ざっと数えて3〜400人はこの教会内におり、みな黒人である。キリスト教が完全に土着化していることが伺える。
オルガンの音色が奏でられるとともに、人々は聖歌を合唱し始めた。演奏される音楽の中には、ヨーロッパ風のものではなく、アフリカ土着の音楽をアレンジしたようなものもある。そして、聖体拝領が始まった。中央の通路には列が出来、ときおり立ち止まりながら祭壇の方に進んでいく。その列の前方では、祭壇で赤い布を首から掛けた白装束の人が、並んでいる人にキリストの肉体を表しているパンをつまんで配っている様子である。赤い衣装の人が壇上で話をしており、その後に続いて人々が何かを唱えている。今度は一斉に立ち上がり、全員で何かを唱え始めた。さらに、壇上に子供二人が現れ、赤い衣装の人と並んで立っている。中央の列の人がその前を通ると、赤い衣装の人がその人たちに向かってピッと棒から水を振り掛けていた。
このようなカトリックのミサをみると、キリスト教がナイジェリア南部の人々に広く受け入れられ、人々の生活に深く入り込んでいることがわかる。それは、カノで見た、モスクを中心とするイスラム社会とは、あまりに異質であるように感じた。
▽イギリス国教会クライストチャーチ大聖堂(Christ Church Anglican Cathedral)
次に私たちは、イギリス国教会のクライストチャーチ大聖堂に向かった。大聖堂の周辺は、企業の本部やバンクオブインダストリーなどといった高層ビルが立ち並ぶエリアである。ユニオンバンク、ファーストバンクといった銀行のメタリックなガラス張りの高層ビル群と、その周囲にある、貧しい平屋の建物群が対照的である。
ガイドブック(Bradt Nigeria)によれば、次のようにその由来が説明されている:
1867年からこの場所に教会があったが、現在の教会の建築は1925年に始まり、1947年に完成した。ラゴスで最も大きい教会の一つで、四角い尖塔とくぼみの多い内装を持った、鮮やかな白の建物である。そのデザインは典型的なネオゴシック様式で、アーチ型のステンドグラスや木製の説教壇があるが、漆喰の中にブラジル的な単生花のモチーフも装飾として存在している。(p.149)
教会はまさにイギリス風といった時計台が印象的で、外観はかなり新しそうに見え、壁がグレーの地に白く縁取られていて非常に目立つ。時計台の部分はおよそ6階建ての建物の高さに相当し、奥行きもある巨大な教会だ。窓の形などは先ほどのカトリックの教会と同じだが、こちらの建物の方が全体的にシンプルであるように感じた。
教会の入り口に、‘THE MOTHERS UNION CELEBRATION OF 100 YEARS OF CHRISTIAN CARE IN NIGERIA 1908−2008’と書かれたポスターが貼られてあった。すでに教会の中ではミサが始まっていて入りにくかったものの、入り口では教会関係者の方だろうか、ドアを開けて私たちを入れてくれた。
中に入って本を渡され、空いている椅子に座る。本は、『Canticles & Psalms of David』と『Hymns Ancient & Modern New Standard』の2冊で、聖歌の歌詞が書いてある。
教会内は白い壁、白い柱で、シャンデリアやステンドグラスがあり豪華につくってある。この教会の椅子にはひざまずく板はなく、椅子も個別であった。中にはおよそ250〜350人がおり、ほとんど満員である。カラフルな布をぐるぐる巻いた帽子をかぶっている女性が目につく。
前方には‘2008 HARVEST SEASON’と書かれた垂れ幕がある。収穫を祝うということだろう。祭壇があり、その隣には合唱団らしい人たちがいた。また、全面左右に小さいスクリーンが二つあって、そこには聖歌の歌詞と、説教が英語の文字で字幕のように映写されている。
私たちも立ち上がり、一緒に聖歌を歌ってみた。’Benedict us’という歌を1〜10番まで歌い、最後に神の栄光を称える’Gloria’を歌った。音楽は感動的で、リスクが多く困難だったアフリカの地で無事に初期の目的をはたして巡検を終え、いま帰国の途につこうとしている私たちを、神が祝福してくださっているようにも感じられた。
10時を回り、いよいよ空港に向かう時が来た。
車で高架上を走っていると、先ほどの高層ビル群の近くに、広い空き地があり、そこには白く長い、運動会で使われるようなテントが設置されていた。その中には、白装束の人々が横に並んで座っている様子である。何をしているのかよく分からなかったが、100人以上はそうして座っていた。おそらく宗教団体であるように思った。
▽空港での解散
10時30分ごろ、渋滞にもかからず、無事にイケジャにあるラゴス国際空港に到着した。空港の入り口でガイド氏と皆で記念撮影をした。
空港の中に入った。到着ロビーとは違い、出発ロビーはなかなか近代的だ。各航空会社の受付の上部にはテレビ画面があり、そこに航空会社のロゴが映し出される。中国南方航空、デルタ航空、そしてKLMの存在もここで確認できた。中国、米国、オランダは、ラゴスへの直行便を飛ばしているということだ。ちなみに日本からアフリカへの直行便は、現時点ではカイロ行きしかない。それ以外のアフリカの都市への航空便は、座席が埋まらず、経済的に引き合わないのだろう。このこと自体が、中国、米国、オランダなどと比べた日本とナイジェリアとの経済・社会関係の立ち遅れを物語っている。
空港はガラス張りで日差しが明るく入り、日中はどことなく安心できる雰囲気である。両替所や軽食ができるカフェもある。ただし、国際線ターミナルということで、ホットドッグ、ハンバーガーは二重経済の上層部対象の価格付けとなっており、それぞれ500ナイラ、700ナイラと、目が飛び出るような値段であった。
ガイド氏は空港の中まで来てくれ、先に飛行機に乗るゼミ生との別れを惜しんでいた。
ゼミ生の一部は、空港の荷物チェックの際に係官から要求を受け、1人5ドル支払う事態になった。まだ一部では、賄賂を要求する風潮が残っているようだ。
この後、ガイド氏と先生、私ともう一人のゼミテンが空港から再び車に乗り、ナイジェリアとベナンとの国境に向かった。先生ともう一人のゼミ生がすぐに日本には帰国せず、単独で陸路、ガーナないしコートジボアールまで移動を続けるためである。私は、ラゴス国際空港の便が夜9時半のものだったので、それまでの時間を有意義に使おうと、国境へ同行することにした。
イバダンへ向かう幹線道路を北に進むと、ラゴス州の州境を越え、オッタOttaという町にはいった。この町にも住宅が広がり、ラゴスの郊外のようになっている。ここからミニバスでラゴスまで通勤している様子である。渋滞が激しいため、ここからラゴス市内中心まで約38キロの区間を、車で2〜3時間もかけて行くのだそうだ。そのため、毎朝4時くらいに起床しなければ会社に間に合わず、しかもすし詰めのバスで通勤するので読書などで移動時間を有効に使うこともままならない、という気苦労を人々はしているのであった。
オッタで左に曲がり、国境への道を西に向かって走る。路面は整備されているが、道中、反対車線、すなわちラゴス方面への渋滞が激しい。私たちのベナンへ向かう進行方向でも、時折渋滞に捕まってしまった。
前方に、中国人がたくさん乗ったマイクロバスを発見した。集団で移動している様子で、車種はトヨタの商用ワゴン、ハイエースである。この車に、定員オーバーで一列に4人も座っている。どこへ行くのだろうか。
オッタのあたりは、広い敷地が残されており、かつラゴス市内へもそれほど遠くないので、ラゴスの工業地域になっている。道沿いに、ホンダの二輪工場とネスレ(マギー)の工場を見かけた。飲料工場もあり、周囲には瓶がたくさん積まれていた。食品会社の工場もある。ここに立地したのだろう。ベナンへの国境へもこの道一本で行けるので、場合によると、仏語圏西アフリカでの製品の需要も考慮しつつここに立地したのかもしれない。
道は途中からひたすらまっすぐになり、地平線の向こうまで続いているように見える。ところどころに集落もあれば、熱帯雨林を突っ切るような場所もあった。道中、高圧のガスのパイプラインがあることを注意する看板がある。見るとシェルのパイプラインが地中に埋まっていて、この道のすぐ脇の地下を通っているようだ。
途中、検問に一旦車を止められたが、特に問題もなく通り過ぎることができた。ガイド氏によれば、彼らはナイジェリアの国境付近を警備している警官であるそうだ。
空港を出発してから二時間半くらいで、ベナンとの国境に到着した。狭い川をはさんで、手前にナイジェリア、奥のほうにベナンの国旗が掲げられて、そのそばに国境事務所があるのが見える。当初の予定では1時間半くらいで着くと聞いていたので、やはり悪い車の流れが影響したのだろう。ここの国境は、ラゴスからコトヌーに直接抜ける、幹線道路上の国境に比べるとすいていて安全ということだ。
ナイジェリアの道が尽きるここで、巡検は終わった。私は、先生とゼミ生と別れ、ガイド氏と一緒に渋滞の反対車線を走り、空港に戻った。