▽カノ市内視察
今日はカノ市内視察で、盛り沢山の予定が詰まっている。朝食はオムレツと紅茶で済ませた。その後、8時にホテルを出発し、市内巡検に向かった。
ここでまず、カノの都市構造を記したい。カノは、これまで私たちが訪れた都市のどれとも異なる。
カノは、イギリスによる植民地化のはるか前、中世からすでに存在していた。中でも特徴的なのは、
ドイツをはじめとする中欧の中世起源の都市と同様、クルミマーケットを中心として、その周囲を城壁がとり囲んでいることである。
中欧の都市では、城壁の外に、19世紀に拡張した新市街地が広がっている。カノでもまた、城壁の外、
東部にあるサボンガリという地域に新市街地が形成され、植民地支配下の当時のイギリスの植民地支配者が住んだ。
このように、カノは、中世起源の都市構造を受け継ぎ、中欧の都市ときわめて相似の都市構造を有している。
ホテルは、城壁の外、東部の新市街にある高級住宅地区に位置していた。私たちはここからまず、カノ旧市街地をぐるりと囲んでいる城壁に向かう。
朝のカノの街は行きかうバイクや車の数は非常に多かったが、渋滞などは起こっていなかった。
道幅は片側二車線程度であり、中央分離帯が設置され、そこに街灯が等間隔で設置されている。道に穴などはなく、かなり都市インフラが整っている様子が伺える。
ただ、昨日の到着時も感じたように、排気ガスがひどく、窓が開けられない。周りのバイクを見ると、整備不良のためか排気ガスがモクモクと出ているものが多い。
車両も都市も、環境管理はいまだという現実だ。
道沿いに歩いている人の中には、イスラム教の服や帽子をかぶっている人が目立つ。高層ビルや10階建て以上の大型ホテルが各所に散在しており、
イスラム圏ナイジェリアの事実上の首都としてカノが急速に成長していることが感じられる。その一方で、中央分離帯の上に子供が手に小さなカップを持ち、
物乞いしている様子も見られた。ここカノにも、二重経済が進んでいるようである。
▽城壁
20分ほどで城壁に到着した。この城壁の長さは全部で25kmあり、15のKofarといわれる門がある。この門には、朝の7時から夜の8時まで門番がいる。
この城壁に囲まれている地域がカノ旧市街地である。この城壁の中心には、今日の夕方に訪れる予定のクルミ市場(Kurmi Market)が位置し、
また城壁内には首長の王宮や中央モスクなどの伝統的なイスラム教の建物が多く残っている。
この城壁はおよそ900年前に建設され、その後15世紀に拡張された。1903年、イギリス軍が門の一つである、Kofar Kabugaから侵攻してきて、
当時の首長はKofar Waikaから逃げた。現在、その門を首長は通らないという迷信もある。(Bradt Nigeria p.311)
城壁に着いた。このあたりの城壁は、ドイツ政府の援助によって修復され、中世の面影をた。壁は赤茶色であり、高さが4,5mほどであろうか、左右に続いている。
壁の上から3mほどのところに50cm間隔ほどで連続して四角い穴が開けられていた。ここの壁には特別な模様はついていなかった。
また、他の城壁は、高さは同じ程度であるが、壁の一番上が等間隔で突起型の装飾が作られ、その真ん中に小さな穴が開けられていた。
そして壁には波型の模様が施されていた。城壁と一言で言っても様々なパターンがあるようだ。
修復されていたのは、門のところと、外から門の正面に向かって左側である。
しかし、10mメートルほどしか修復されておらず、その後は土がただ盛ってある山のようになっていた。
またその手前の修復が進んでいない箇所も壁が剥がれ落ちるなど、かなり傷んでいた。門を下からのぞくと天井には木が何本も束ねられ、支えとなっていた。
私たちは、そのまま城壁の内側に入っていった。門の内側は旧市街地であった。先ほど見た高層の建物はなく、一階建てか、もしくは二階建ての家が並んでいた。
とはいえ、全ての建物がイスラム風というわけでもない。現に城壁の内部には住んでいる人たちがおり、絶えず家を建て替えているのである。
道には学校へ行くのであろう、ライトブルーのムスリムのベールを被り、同じ制服を着た子どもたちが歩いていた。小学校に登校するのであろう。
後にモスク周辺で見るアルマジリと呼ばれる子供たちに比べると、こちらに住んでいる子供たちのほうが裕福なようである。
ふたたび城壁の外に出て、少し城壁に沿って歩いた。修復がなされていないところは、城壁が小さな土盛りのようになっている。
場所に上ると内側には広い堀があり、大量のゴミが溜まっていた。この堀は、城壁を越えて、中に入ってこようとする人が溺れてしまうためにある。
ガイド氏は、先ほどの城壁の修復を今よりいっそう進めて、さらに魅力ある観光地にしたいと言っていた。しかし、いくら城壁の修復ばかりを進めても、
これらのゴミを綺麗にしない限り、観光地としての魅力は半減してしまうのではないだろうか。
▽変電所
次に私たちは、ロコジャクラブへと向かい、7時半に到着した。
城壁のすぐ横に、変電所があった。前日の夜のインタビューの話でカノの電力の問題について伺っていたばかりであり、ちょうど見ることが出来たのは幸運だった。
だが、見ると、日本のものと比べ、電線はあまり高くなく、柱のつくりも弱々しい。電線も少なく、効率が良いのかは疑問があった。
ガイド氏によると、この変電所は連邦政府が作ったものではなく、カノ州政府が独自に設置したものであると言う。ナイジェリアでは慢性的に発電量が足りていない。
それはここカノでも同様である。しかし、連邦政府は早急に政策を決定しないという現状から、州政府が独自に変電所を作った。
連邦政府に見切りをつけ、自らの州のスケールで行動するほうが効率的であると判断したのであろう。整備されたインフラで地域経済が発展すれば、
イスラム圏のナイジェリアは、連邦政府のなかで、より強い政治的発言力を持つこともできる。
▽首長の王宮を至近距離でにらむようなイギリス植民地政庁
次に私たちは、城壁の内側に入り、首長の王宮を目指した。王宮はクルミ市場の南東にあり、そのすぐ北側に中央モスクが位置する。
行く途中、先ほどの城壁と同じような形に作られた塀に囲まれている小学校などが見えた。学校建築に、伝統を尊重する様式がとりいれられている。
旧市街地の道も整備されていて、走りやすい。そのまままっすぐ行くと、前方左手に時計台が見えてきた。
それは、周りの建物とは異質のイギリス風に建築された植民地行政府の建物である。
イギリスは、これをあえてカノの中世的中心の内部に建設し、ムスリムの伝統的都市を征服者として植民地支配下に置いたことの象徴としていた。
クリーム色と茶色のツートンカラーの建物の正面から真っ直ぐ道路が伸びていて、そのつきあたりに首長の王宮があった。
首長の王宮をにらむように、至近距離でイギリス植民地政庁を立地させたことになる。当時保護領といいながらも、常に首長に支配下においていたことを、
マイドゥグリ同様の構図で配置された建物から読み取ることができた。どこからでも時計台が見える設計は、イギリス本国にある高い塔のついた建物を想像させる。
マイドゥグリ同様、西欧的な時間の概念がなかったこの地に、時計台を作り、西欧的な時間の観念の優越性を示しながら、伝統的な首長を支配していた様子が伺える。
現在、この時計台のある建物は、それに付着した政治的権威がそのままカノ州に移行し、州政府の建物として使われている。
この建物正面を私たちは右折し、王宮に向かった。道路の右側には広場が広がり、その左右に並木が配されていた。
王宮は全体的には薄ピンク色であり、ところどころにクリーム色と青が配されている。入り口の門は左右から段々になっていて、一番上に旗がはためいていた。
段々になり一番上に旗が掲げられてある様子や壁面のくりぬき方などを見ると、ここにもなんとなく、イギリス風の面影が感じられる。
旗が掲げられている時は首長がこの中にいることを示している、とガイド氏が教えてくれた。その左右に塀が続いており、
左右の塀には、薄ピンクの壁の間に等間隔でモザイク状の柱が並べられていた。
門の下には緑と赤の伝統的な服を着た警備員がおり、中には入れてもらえなかった。
外から門の中を覗くと、そのまま道が続いていて、奥にもう一つ建物が見えた。門を正面に右手前には大きな広場があり、
その周りに観客席が設置されていた。人はほとんどいなかった。
観客席は、いわゆる日本のスタジアムにあるような段々になり、椅子が並んでいるものと、二階建ての建物の二階に席が設けられているものと、二種類あった。
ダーバー(Durbar)という祭りが11月に行われる。前者の椅子には一般の人が座り、後者にはより地位の高い人が世界中から見に来る。
この広場からはこの後訪れる中央モスクも見えていた。
▽巨大な中央モスク前広場に群がるアルマジリの子供たち
首長の王宮の裏には、中央モスクがある。私たちは、次にそこに向かった。
ここは、ナイジェリアで一番大きいモスクで、5万人が入ることが出来る。モスクの正面にも広場が広がっていた。
モスクの手前には2メートルの程度の壁が続いていて、その一番下は緑に縁取られていた。ムスリムでない私たちはモスクには入れず、外からしか見られなかった。
モスクは真ん中に緑の球体の屋根が見える。そしてこの左右に白い塔が見えた。
この広場には、平日の朝にも関わらず、多くの子供がいた。彼らは学校へも行かないで、ふらふらしている。
私たちが中央モスクのそばに行くと、100人近くの子供たちが取り囲んできた。多くの子供たちが手に小さなコップなどを持ち、物乞いをしている様子である。
こういう子どもたちをアルマジリ(Almajiris)という。
【アルマジリ】 |
アルマジリは、アラビア語で「移民」という意味である。子供が多いが貧しい家庭は、すべての子供を養えないので、一部を都会に出す。
イスラム教の修行のため、先生の下でコーランを学ぶという名目である。しかし、実際にイスラム教の教育をほとんど受けることが出来ず、日中は、物乞いや、者も多い。
先生のために食事を持ってこない場合やお金を稼がない場合は体罰など虐待を受けることもある。10代になると、犯罪などに巻き込まれる子供も多い。
大きくなったあと、出身の家に戻ることはない。
参考文献:Nigeria, Bradt p.300 |
▽草の根の主体性にねざす多面的活動で効果的な農村開発〜WOFAN
私たちは、カメルーンで、日本のODAによる活動についてその実態と問題点を学んだ。欧米諸国もODAを行っている。
日本と異なる点は、このODA資金が、政府に対するハコモノ援助や政府レベルでの丸投げ「要請主義」ではなく、
真に農村に根ざして、農民の福利向上をめざし活動している地元のNGO経由で提供されることが多い、ということだ。
私たちは、カノで、USAID(米国の政府援助機関で、ほぼ日本のJICAに相当する)等の資金により地元の人が運営するNGOの一つ、
WOFAN
(Women Farmers Advancement Network、女性農民の進歩をめざすネット)を訪れ、事務局長からその活動内容について具体的にお話を伺い、
日本のODAと比較を行う機会に恵まれた。
WOFANの事務所は、カノの郊外にある。道中にはマイドゥグリでも見たような投機を目的にした建売の新築がいくつか見られた。
街の看板などに、アラビア語が併記されているものもある。20分ほど車で走り、WOFANの事務所に到着した。建物の正面右手前に庇があり、その下に門番がいた。
建物正面は駐車場になっていた。事務所は薄緑色であり、壁にWOFANの看板が取り付けられ、そこにWOFANのロゴも描かれていた。
インタビュー開始まで、一階の事務室で待たせてもらうことになった。ここでは、電話やファックス、メール、写真複写などができるサービスを提供していた。
15分ほど待つと、Executive DirectorであるHajiya Salamatu Garba氏が事務所に帰ってきて、二階に案内された。
入ると左側に大きめの机と椅子があり、そこでインタビューを行った。周りの壁にはWOFANの活動の写真が何枚も貼られている。
Hajiya氏はイギリスの大学に留学し、開発学を専攻した。現在は大学の教授でもあり、植物病理学を教えている。
自らの生徒をカドナ州の村に送って実践的な勉強をさせているらしい。私たちも自己紹介し、インタビューを開始した。
▽イスラム系のNGOに、米国政府や企業が活動資金を援助
WOFANは、1993年に設立されたNGO団体である。農村に住む、特に若い人や女性の持続可能な生活の改善し、また貧困削減の手助けを行うことがその目的である。
ロゴのマークは妊婦の女性をモチーフにしている。
設立後の1993年から95年まで3年間、スタッフは女性しかいなかった。しかし現在は男性も含む25人のスタッフと12人の教育や健康に関するコンサルタントがいる。
大きな組織になったといっておられた。メンバーの多くはムスリムであり、基本的に、イスラム教の理念に基づいて運営がなされている。。
活動資金の出どころは主に米国で、USAIDやコカ・コーラから援助金を貰い活動している。ナイジェリアの銀行からはほとんど貸してもらえないらしく、
Hajiya氏が口座を持つ銀行だけが少額の融資をしてくれているという。
▽北部ナイジェリア農村の現状と、WOFANの開発プログラム
次に、現在の、この地域の農村部にある農家の現状についてお話しくださった。
農地の平均規模は1.1ヘクタールであり、自分の土地を持っている人は60-65%である。基本的に土地は相続して引き継がれていく。
生産した作物の40%を家族で消費し、その残りを商品として売っている。これらを売って手にいれた現金で、病院や学校のお金を払っている。
一年の稼ぎは5,000ドル程度であるという。WOFANではその額を15-20%向上させようとしている。つまり、5,000ドルから6,500ドル程度に向上させたいらしい。
現在、WOFANは、肥料の正しい使い方やエイズの予防方法など農村に伝えるためにラジオプログラムを利用している。
WOFANとしては対話を重視しているが、現実的に限界があり、より広くより奥地の人にまで声が届くようにこのラジオプログラムを始めた。
週に6回ナイジェリアの北部の5州で流されている。ラジオは英語ではなく、現地の言葉で流されている。
これは、普段英語など使わないような田舎の農家にとっては理解しやすく、とても役に立つのではないだろうか。
またIDRC(:International Development Research Centre)と一緒にアフリカラジオドラマ協会(African Radio Drama Association)をつくり、放送もしている。
ラジオ放送をするからといって全員が聞けるわけではない。まずラジオを持っていないような農家にはその声を届けることはできないからである。
実際にこのラジオを聞けているのは農家の60%ほどであると言っていた。
▽マイクロファイナンスでなく、マイクロプロダクションを!
バングラデシュのユヌスが創始し、貧困にあえぐ途上国農民のエンパワメントを実現する特効薬として処方されたのが、
小規模金融(マイクロクレジット、マイクロファイナンス)であった。しかし、農村開発の実践家の間では、マイクロファイナンスについて、賛否両論がある。
私たちは、WOFANの、マイクロファイナンスに対する意見を尋ねてみた。
WOFANは、マイクロファイナンスは行っていないという返答であった。その理由は、利子が30%と以上に高く、本当にお金をもうけて返せる人は一部であり、
その他の人はより貧乏になるから、ということであった。
WOFANでは、マイクロファイナンスではなく、マイクロプロダクションという方法で貧困層の農家を救おうとしているという。
これはマイクロファイナンスと異なり、農民自ら食糧増産を図っていくシステムである。ここで例を出して説明してくれた。
農民が落花生を作るためにWOFANからお金を借りるとする。WOFANは効率よく栽培できるように種や肥料を売る。そして農民が落花生から油を作り出す。
その油をWOFANが市場の値段で買う。そうすることによって農民が現金を手にし、うまくいくと徐々に大きなビジネスになるというものである。
つまり、単にお金を貸すのではなく、原料、生産技術や市場まで、NGOがきちんと責任を持つ体制を組織するということだ。
このようなマイクロプロダクションは、単なるファイナンスに比べ、より多くの雇用を生み出す可能性もあるともおっしゃった。
現在この手法を使っている農村は、6つの地方政府の中の18の地域である。一つの地域に20〜25人の農民がいる。
マーケットの情報などをリーダーに携帯電話を持たせ、伝えている。3、4年前はWOFANが携帯電話を購入し、リーダーに渡していたが、
最近ではとても安価になっているらしく、自ら買わせている。一台2,000〜3,000ナイラ程度である。
▽マイクロファイナンスでなく、マイクロプロダクションを!
現在、気候の変化により、降水量が減ったりしている。その中でも育つように品種改良が進められている。
IITA(:International institute of tropical agriculture)とWOFANが一緒に4年間豆の品種改良に向けて活動している。
そのことにより、生産性を20倍にすることを目指しているが、現実的には15倍程度である。またICRISATやIRAがソルガムや豆や落花生の品種改良を行っている。
このような品種改良は、中国もアフリカに来て取り組んでいるという話を、私たちはアブジャのNEPADで聞いた。
これに対し、日本が唱えるような、高収量のネリカ米導入一辺倒の方策は、アフリカ農村の現地を把握しておらず、このようなNGOにも、
現地農民にも支持されないであろう。
WOFANでは、これ以外に、さまざまの農業改良普及事業を行っている。農村で、栄養価が高く、また収入を増やす農法の説明を行ったり、
農薬を散布する時の安全の確保の仕方を実演したりしている。WOFANのスタッフが現地に出向き、自ら農民の前で実演して見せて、理解を促している。
▽農民や子供たち自らに作業をになわせて、参加意欲を高め、援助資金を効率的に使う
カメルーンで私たちは、日本のODAで多数の小学校が建てられているのを見た。この建設に携わったのは、日本の清水建設である。
では、このようなハコモノ建設について、WOFANは、どのようなプログラムで取り組んでいるのか、尋ねてみた。
教えてくださったのは、トイレのない学校にトイレを作るプロジェクトである。全部で5,000万ナイラ〜6,000万ナイラほどかかったという。
援助はUSAIDを含む、いくつもの援助団体が一団体平均して5万ドルずつ寄付してもらった。
当初の計画では、75個のトイレを建設する予定であったが、実際には、同額の予算で92個のトイレが建設された。
これによって、援助資金がより効率的に使われたことになる。
なぜ、計画が超過達成されたのか?
その秘密は、この建設に、現地の農民がかかわったからである。いうまでもなく、このプロジェクトは衛生的にも非常な効果を農村にもたらした。
もうひとつの事例は、小学校建設である。部屋に掲げられた、農村の子供たちが自らの小学校の建設のために力を合わせてレンガを土に埋めている様子を写した写真があった。
つまり、日本のODAのように箱物を日本の建設業者に発注して大量に作るのではなく、そこに通う子供たちに建設を手伝わせて建てているのである。
これによって、学校を大切にしようという精神が子供たちの心の中に生まれるであろう。
また、トイレの例で明らかのように、援助資金もより効率的に使われるに違いない。
農村の子供たちへの支援については、これだけでなく、ECD=early children development centerという活動分野を設け、積極的に取り組んでいる。
WOFANは、小学校に机と椅子を寄付するといった、物的援助を行っている。しかしそれだけでなく、病院から先生を連れてきて、
マラリアの予防等の話を子供たちに行っている。また、子供たちの前で苗の植え方を実演したり、縫い物を教えたり、落花生からオイルを製造する方法を教えたりしている。
このように、WOFANは、体系的な農村開発とエンパワメントの活動を行って、効果をあげているようである。
しかし、日本は、ODAの資金をこのような民間NGO団体などに分配し、それを財政的に援助して開発効果を上げるるといった手法は、わずかしか取っていない。
かならずしも現地をよく知っているとはいえず、ノウハウや経験がどの程度あるか不明な青年海外協力隊員などに、
高額の予算をあてて現場の支援活動を行わせているのである。これと対照的に、米国USAIDなどの資金に支援され、
イギリスでノウハウを学んだリーダーが指導するWOFANの農村開発手法は、現地の農民や子供を直接プロジェクトに参加させることで、
エンパワメントとコスト節約を同時に実現している。
ここで、日本のJICAとWOFANが共同で仕事をしたことがあるか尋ねたところ、「ない」とはっきり言われた。
▽豊富な情報の資料室と着実なトレーニング
続いて私たちは、今朝モスクの前で見た、アルマジリの子供たちのことについて伺った。
カノには現在、二つのアルマジリのためのイスラム教学校がある。これはマドラサと呼ばれる。WOFANは、農村に基盤を持つNGOであるので、
アルマジリに特別のサポートはしていないという。だが、3年前に調査したことはあるそうだ。アルマジリとは関係ない学校に食べ物を寄付しているようである。
Hajiyaさんは、部屋の壁に貼られた、全部で100枚をこえる活動現場の写真を見せてくださった。時間の関係で、私たちは農村の現場に行くことはできなかったが、
これらの写真を見て、これまで伺ったお話を、よりリアルに認識することができた。
次いで私たちを、インタビューしていた場所のすぐ横の部屋に案内してくださった。ここは図書館になっていて、中には壁4面に棚が置かれ、
農業に関する本や教育に関する本、病気に関する本など専門的な本が表紙の見えるように綺麗に並べられていた。
例えば『Beekeeping in the tropics(熱帯地方の養蜂)』や『Mother’s Love(母の愛)』といった題名の本があった。
いつ発行されたか調べるとCTAというオランダの会社から96年に発行されていて、かなり古い本であった。
この部屋で職員はフィールドワークに行く際に専門的な勉強をすることが出来る。
最後に、書斎に案内された。壁には6つほど表彰状が飾ってある。また横の棚には何十本ものビデオテープ、ラジオの録音テープが置かれていた。
またスタッフがトレーニングを受けている写真や、大人の読み書き支援の様子の写真、AIDの予防の説明をしている写真、
ラジオプログラムの普及の様子の写真も貼られていた。
このように、NGOの効果的活動は、主として欧州で編み出されたノウハウの着実なトレーニングによって支えられている。
▽ムスリムの草の根に効果的にくいこむ、米国の「ソフト・パワー」
最後に、Hajiya氏の書斎で記念撮影をし、事務所を後にした。時間にもっと余裕があれば、私たちも、活動している現地に赴き、
その様子を知りたかったところではあったが、写真を見ながら付きっ切りで説明してくださり、大変理解できたことに感謝した。
米国は、イラクやアフガンでイスラム勢力と戦っている。だが、同時に、USAIDをつかい、イスラム系のNGOであるWOFANに積極的に資金援助している。
これは、グローバルな地政学から見れば、軍事的・政治的対応とは別の、いわば「ソフト・パワー」によるムスリム取り込み策であるとみなすこともできよう。
そうであればこそ、効率的に、かつ現地の草の根に深く食い込む効果的援助をやらなければ、「ソフト・パワー」は功を奏さない。
これに対し、日本は、アフリカへの援助によって何を目指すのか、その背景に国際戦略が見えない。
その結果、ヤウンデのJICAへのインタビューで認識したような、数々の問題点が生じている。日本は、ODAの金額を他国と競うより先に、
もっとその質を向上させなければならないことを、改めて痛感した。
私たちはそのまま、一旦昼食を取るためにホテルへ戻った。
▽外国企業の集まる高級住宅地区に、日本のプレゼンスは無し
カノは、イスラム圏ナイジェリアにおいて、重要な産業の拠点でもある。昼食後、私たちは、その実情を知るため、工場をいくつか視察することになっている。
まず、私たちの車は、今回、アブジャからカラバル、そしてバンキからカノまで、
ナイジェリア北部の視察をすべてアレンジしてくれたカノ観光局(KanoTourist Board)に立ち寄った。
観光局は、市の東側の、高級住宅、高級スーパー、外国資本のオフィスの入ったビルが集中する地区にある。
敷地の中には、観光局の事務所だけでなく、インターネットができる施設やゲストハウスなどが用意されている。
再び車に乗り込んだ。途中、貨物列車が走っているのを目撃した。カノ周辺では、鉄道が機能している様子を見て、一同驚いた。
ここを出て少し行くと、右側に、LG PLAZAと書かれた3,4階建ての建物があった。建物の前には、韓国LGの看板が並んでいた。
中国のみならず、韓国もかなりナイジェリアに入り込んでいることが分かる。日本の家電企業のオフィスは、残念ながら見当たらなかった。
その後、マーケットのそばを通った。カラフルなパラソルがいくつも並び、食料や雑貨が売られていた。
マーケットには多くの人がおり、手前にはバイクが並んでいて、バイクでここを訪れている人が多い様子である。
▽ナイジェリア地元資本の食品企業〜ダラ食品
その後、私たちはカノ州の産業関係の省に立ち寄りDirector TourismであるTijjani Aliyu Abdu氏を乗せて、ダラ食品(DALA FOODS)の工場を目指した。
この人が、工場の見学のアレンジを行ってくれた。
徐々に郊外に 出てきて、周りの景色も変わっていった。この地区は工業団地になっている。道の左右にはプラスチック工場やタイル工場、
パイプ工場、繊維工場などが多数立地しているのが見られた。ここは連邦政府ではなく、カノ州独自が1976年に作った工業団地である。
ここカノには3つの工業地帯があり、フェーズ1,2,3あわせると10km×10kmであり、フェーズ1には10社、2には15社、3には12社がはいっている。
周囲は、地元向けの食料や肥料を作っている工場が連なっている。昨晩私たちは、安価な中国製品が流れてきて、
地元の工場が廃業に追い込まれていると聞いたが、工業団地には、いぜん活気が感じられた。
出発から40分ほどたち、ようやくダラ食品の本社工場に到着した。入ると正面に、工場の建物があり、壁に「DALA FOODS NIGERIA」と大きく書かれていた。
工場の建物の前は、トラックなどが停まるのであろうか、少し広くなっていて、大きな木が植えられていた。工場を正面に、右側に事務所があった。
我々はまず事務所に案内された。中に入ると社長(Managing Director)のマドゥグAlh.Ali J.Maduguさんが快く迎え入れてくれた。
中には、技術アシスタントの人もいた。 私たちは、早速インタビューにとりかかった。
▽戦略的新製品「クヌン」で飛躍
マドゥグ社長のお父様が、会社の創設者である。資本金は40万ナイラであり、資本の40%に相当する額の融資を銀行から受けている。この融資の利子は、20%である。
ダラ食品は、本社のあるカノにしか工場がない。工場を含め、敷地の広さは400m×400mで、1986年にこの場所に移転してきた。
設立当初、ダラ食品は、シティティー(City Tea)というごく一般的なティーバッグを生産していた。このほか、砂糖も袋詰めにして売っていた。
その後クヌン(KUNUN)という、地元の伝統的飲料にヒントを得た新製品を開発し、2005年に食品科学技術研究所の賞をもらった。
これが、同社の発展をもたらした。クヌンの商品化に成功して以降、企業は、例年20%の成長をしている。今年は10%成長すると予想している。
現在は、120人の従業員を雇い、24時間連続で稼動している。このため、3シフトの交代制を取り入れている。
男も女も賃金に差はなく、最低賃金は一ヶ月に8,000ナイラである。他に商品開発を行っている技術者も雇っている。彼らの月給は20,000ナイラ程度である。
製品開発は基本的に自社で行うが、大学の教授にアドバイスを貰うこともある。
▽好評なクヌン、地域シェア第二位のシティティー、新製品も開発中
クヌンは、ミレットパウダー、ペッパー、タマリンド、ジンジャーからできている粉状の食品である。100%ナイジェリア産である。
お湯にこのクヌン粉末を混ぜ、砂糖を好みの量を入れて飲む。甘く、どろどろした感じ。とても体に良いということであった。
このクヌンは、カノで唯一の商品であるとおっしゃった。西アフリカではこの伝統的な飲み物がよく飲まれている。
とくにラマダーンの時期を飲むためラマダーン以外の時期より売れるという。インタビュー中にこのクヌンを飲ませていただいた。
会社が直接にクヌンのマーケティング対象とする市場は、ナイジェリア国内であるが、イギリスのロンドンや中国の広州でもクヌンは販売されている。
これは、卸売り人が、同社との契約関係なしに勝手に海外に持って行って、ロンドンや広州に住むアフリカ人に向けて販売しているようである。
また、宣伝料はとても高いが、ラジオやTVでも宣伝している。
シティティーは,現在リプトンの次にカノでシェアがある。茶葉はナイジェリア産が70%、そして残りの30%がケニア産か中国産を使っている。
ナイジェリア産の茶葉は、主にナイジェリアの南東部のタラバ州で収穫されている。最近は、ケニア産より中国産のほうへ移行している。
毎月4トン製造している。砂糖は一般向けではなく、ホテルにおろしている。
いま開発中なのは、粉末ジュースであるという。大学にアシスタントを頼み、共同で開発している。
ミレットをクスクスにして、それから作る、「BISKI」という新製品も開発中であるという。原料は、マーケットから収穫の時期にまとめて買っている。
▽日本の原料は使っていないが、協力には前向き
味の素について伺った。かなり気を使ってくれたのだろうが、味の素はとても人気だとおっしゃった。
もっとも、数多くナイジェリアにでまわっているうま味調味料のなかで、マドゥグ氏は、マギーが一番成功しているとおっしゃった。
ネスレは1960年にナイジェリアに入っていたらしく。他の会社の製品より普及している。味の素を原料に使っているか聞いてみると、
スープなどは作っていないから必要でないとおっしゃった。
日本との技術協力については、いまのところ日本と関係を持っていないが、もし適切なオファーがあって、
企業の発展につながるのであれば、提携・協力を行いたいと積極的な姿勢を見せられた。
いまは、現地の大学との協力で進めている新製品開発などについて、日本のノウハウをもとに提携する可能性も考えられるだろう。
▽工場視察
工場は、本社事務所の向かい側にある。マドゥグ氏が案内してくれた。この工場は99年に拡大した。中に入るとそこはまず、大きな倉庫になっており、
シティティーの詰まったダンボールが天井まで積まれていた。
私たちはそのまま奥の部屋に入り、工場の部分の視察に入った。機械が激しく稼動しており、会話をすることも困難な大音量が響いていた。
つぎに、入ってすぐ左にある部屋に案内された。ここは商品開発部門であり、化学実験などをして、新製品の開発をしている。
中には白衣を着た人が二人いた。壁は薄紫であり、引き出しのついた白い箪笥が壁に沿っていくつか置かれてあった。
その上に四角形の機械が二個、また紫色や茶色、白色の粉の入った袋や薬品の入ったビンやボウルも20個ほど置かれていた。
職員はちょうどボウルの中で何かをかき混ぜていた。
部屋を出て、最初の機械が作動している場所に戻った。ここは二階建てになっていて、シティティーを製造していた。
工場入り口から見て左奥に、機械が4台並んでおり、そこに青い作業着を着た女の人が5人ほどいた。機械はそれぞれ二階から繋がっていた。
直方体でロッカーのような形の機械には、一台ずつ1から4まで順番に数字が書かれていた。その上に円錐を逆にしたようなロート形の機械が二階から降りてきている。
そのロートの中を二階でかき混ぜた茶葉が通ってきて、下の機械の中に入り、その前にある円形の回転しながら流されてくる空のティーバッグに茶葉が詰め込まれていく。
そして完成したティーバッグを作業員5人が箱に詰めて、すぐ後ろにある円柱形の箱に入れていた。この機械は、80年にイタリア製のものを導入したが、
86年にアルゼンチン製のものに取り替えたと言う。
また右側には地べたに座り、作業をしている女の職員が5人ほどいた。
こちらの作業員は先ほど箱に詰められたシティティーを、ビニール袋に詰め込んでいた。
次の部屋には、ホテルに納入する砂糖をパッケージする機械がある部屋である。部屋の左奥に三角形のロートのような形をしていて、
その下に袋を取り付け、詰め込んでいる機械が二台ある。高さも1mほどであろうか、シンプルな機械であった。かなり使い込んでいるようで、とても汚れていた。
こちらは男性の作業員が三人いて、三角形のロートの中身をかき混ぜている。そして手前には鮮やかな黄色の機械が置いてある。
これも使用目的は先ほどの機械と同じだが、大きさはこちらのほうが大きく、2m弱くらいであろうか。こちらには作業員はいなかった。この機械はインド製だと言う。
次の部屋では、先ほど飲ませていただいた、この会社の戦略商品クヌンを製造している部屋であった。
クヌンの主要原料であるタマリンドが、大きな銀色のもち手のない直径1mほどの鍋で煮られていた。
その後、いろいろな他の原料を入れてできた液体は、宇宙船のような形の機械で乾燥される。
できあがったクヌンの粉が、高さ3mほどのロートの型の機械の上からロートの中に流されていく、その下に製品の袋がいくつもくっ付いていて、その中に詰め込まれていく。
完成品は下のバケツにためられていた。その横で、製品の袋をダンボールに詰めこんでいる人がいた。
別の部屋にすすむと、右側ではまだ発売していないジュースの粉を作っている人がいた。
製法はかなり原始的で、平たいバケツのなかで果物を手で絞っていた。奥には、乾燥機が設置されていた。
3mほどの高さであり、銀色の丸鉛筆の先を逆にしたような形であった。
その部屋から外に出た。外には石炭を燃やし、その熱で乾燥機を動かす中国製の機械があった。青の3mほどのタンクが一番左にあり、
そのタンクの右側に管がくっ付いていた。右上にもタンクがあり、その右下にもタンクがあった。青いタンクの前にはハンドルがあり、
その真ん中には中国語が書かれていた。
これらの機械はすべて、コンテナで完成品を持ってきて、そのまま設置している。ナイジェリアではこういった機械を作ったり、
組み立てたりする技術があまり高くないのであろう。
少し離れた場所にダチョウが一匹。話を聞くと、ダチョウの肉はヘルシーであり、将来人気がでると見込み、次のビジネスチャンスと考えているという。
新製品の開発準備である。
また工場には3ヶ月おきに政府の関係者が品質をチェックしに来る。しかしたまに突然来ることもあるとおっしゃっていた。品質管理に自信を示したものであろう。
工場内では労働者30人ほどが勤勉に働いていた。いうまでもなく、雇用機会さえあれば、まじめに働くのである。
▽戦略的に新製品に挑むダラ食品〜日本のコミットメントの可能性
工場の視察を含め、私たちを快く迎えてくれたことにマドゥグ社長に感謝し、外で記念写真を撮った。
ダラ食品は、今のところまだ一社一工場の中小規模企業であるが、クヌンというナイジェリア人の嗜好に合った戦略商品で大きく成功し、
海外にも実質的に販売されていて、成長軌道に乗っている。次の戦略商品として企画されている粉ジュースは、
かつて1960年代までの日本でも「渡辺のジュースの素」などとして広く需要されたものの、
日本人の所得向上とともに顧みられなくなったギッフェン(劣等)財であり、味の素がナイジェリアに根付いているのと同じ理由で、
マーケティングをうまくすれば商機がありそうだ。
だが、この工場で使われている機械の生産国は、従来は、欧州(イタリア)とインドであり、近年はここにも中国が進出をはじめている。
原料にも、中国の茶葉が進出している。日本の機械も原料もまったくなかった。投資機会としては規模としてはたしかに小さいが、
そうしたところを一つ一つ市場として確保し、さらには技術提携で技術水準向上を支援してゆく、日本政府と企業が一体となった取り組みが必要ではないだろうか。
これが「援助から投資へ」という、アフリカへの新しい関わり方だと考える。このようにして日本経済の地理的広がりを拡張しない限り、
日本経済にも、将来の持続的成長の可能性が無のではないだろうか。
その後、マドゥグ社長から、クヌンとシティティーをダンボール1箱ずつお土産に頂き、工場を後にした。
▽スパーブ飼料会社
次に私たちが訪問したのは、スパーブ飼料(SUPERB FEEDS)という、鶏の餌を作っている企業である。
この企業は、一区画の敷地が小規模に設定された、別の工業団地の一角に立地している。先ほどのダラ食品が立地していた大規模な工業地帯に比べると、
道も余り整備されておらず、ゴミもそこら中に散らかっていた。
工場に着くと、入口は大型トラックがちょうど通れるほどの広さになっており、中は真ん中に車が何台か置かれ、その正面の左右に工場があった。
この工場は、先ほどのダラ食品に比べると、小規模である。
事務所は入って右側手前にあった。私たちはまず、工場を案内してもらうことにした。
▽工場視察
工場の外には、袋詰めにされた製品が積まれていた。「BROILER FINISHER」とかかれ、ブロイラーの餌として売られるようだ。
工場の中に入ると、粉塵が飛び散っており、中で働いている人たちはみなマスクをしていた。私たちも、ここでマスクを着けた。
建物の中は、数台の機械と袋詰めの製品が散乱している。10人ほどの作業員が働いていた。2mほどはあろうか円柱と円錐をくっつけたような形の撹拌機がある。
作業員がその横にあるハシゴに登り、中に袋詰めにされたあらゆる原料をその中に入れていた。機械がそれをかき混ぜ、下から完成した飼料が出てくる。
混ぜている原料には、「DANGOTE SALT」と書かれた塩や、味の素の「AJINOMOTO ANIMAL NUTRITION」とかかれたアミノ酸製品、そして牛骨粉などである。
味の素は、調味料だけでなく、飼料分野でもアフリカに食い込んでいるようだ。ただし、このアミノ酸製品は、日本からの輸入ではなく、南米の工場製のようである。
そのまま左奥に進んでいくと、そこには酵素やビタミン等、少量使う原料を置いている小屋があった。中には壁に沿って棚があり、
そこに10種類ほどの原料がそれぞれ2,30個ずつ保管されていた。それらの酵素やビタミンを入れて餌の栄養分を強化するようだ。
次に、そのまま真っ直ぐ進み左横の建物に入った。地面に2m×2mほどの四角形の穴が二つ開いていて、そこに将来新しい機械を導入するという。
また発電機があり、停電の際はそちらに切り替える。このほか、ピーナッツのしぼり粕のケーキ(かたまり)や大豆を搾った残り粕でできたケーキも、
鳥の餌として、販売している。
▽インタビュー
工場の視察が終わり、事務所で少しだけ話を聞かせてもらえることになった。余り時間が無いため、すぐにインタビューを開始した。
この会社は家族経営であり、現在CEOであるAlh. Umar Lawan氏が創業者である。経営者自身は、この会社を設立する前、製造業で働いていた。
まだ創業して4年ほどであり、毎年20%以上の成長率である。資本金は3500万〜4000万ナイラであり、現在52人の作業員を雇っている。
資本は38%を州政府から、残りの62%を自分で持っている。政府からの出資に金利はつかない。
経営者のAlh. Uman Lawanさんは、この制度にとても感謝していた。この制度を知らない人が多く、残念であるとも言っていた。
また、土地代は無料であったという。資本と土地という、起業に重要な要素を政府が提供していることから、政府が産業発展に大きな力コブを入れていることがわかる。
鶏の餌に特化しており、同社はカノで現在二位の実績である。共同研究や研究委託などを行い、製品開発に努めているということだ。
写真を撮り、工場視察のお礼を言って、スパーブ飼料を辞した。
▽藍染場
藍染場は夕方5時までしか開いていないと聞いたため、私たちは工場をあわてて出発し、藍染場に向かった。
藍染場は、旧市街地内部の城壁の内側にはいってすぐ、クルミ市場の東側にある。車に乗り、30分程度で「Kofar Mata Dye Pit 1998」と書かれた門に到着した。
目の前で藍染が行われている。
中に入ると、すぐに観光客向けらしく、案内人が現れて、勝手に藍染めの解説をし始めた。
中には50個近くの穴があり、そこで藍染めをする。穴はちょうどマンホール程度の大きさだろう。
上からのぞくととても深く、5,6メートルはあろうか。別の穴に濃厚な青い染料が入っていた。全ての穴が使われているわけではない。
落ちたら無事ではすまない穴の深さに、私たちは足元を見ながらこわごわの視察となった。穴のそばには10人ほどがいて。
ある人は穴の中に棒を入れてかき混ぜ、別の人は染め上げたものを畳んでいる。また使われていない穴には、上にかごが載せられてるものもあった。
入ってすぐ右には小さな小屋がある。これは、あとで訪れる伝統的なアイロンを行っている場所である。そのさらに右奥に洗濯物が何枚も干されていた。
【藍染】 |
穴の一つ一つはそれぞれ別の人が所有している。500年も続く家族によって所有されているものもある。
まず、藍染の染色液を作る。これは、いくつかの染料と水を入れて混ぜ、その後トネリコを入れ再度混ぜ、数日間発酵させる。
それからインジゴの棒を入れ、数日間そのままにし、次にカリウムを入れ、混ぜる前に三日間、混ぜた後に三日間置き、最後にインジゴやトネリコの棒を取り除く。
その後、二週間発酵させたものが使われる。いったん液を作ると、一年間繰り返し利用される。
インジゴは輝く青、トネリコは明るさを、カリウムは色が落ちない役割をそれぞれ持つ。色の濃さは、何日間浸しているかによる。
一年間使ったものはカリウムがなくなるまで燃やされ、泥のような形にし、また再度利用される。
参考文献:Nigeria, Bradt p.309 |