▽マイドゥグリ市内視察−英植民地主義の間接統治の今に残す建造環境
朝6時過ぎに起床。カノへの長距離移動があるため、今日も早く出発する。
朝食を済ませ、7時20分頃にホテルを出発、マイドゥグリの中心地である王宮・広場を目指した。
町の中心地に着くと、並木道の入り口にあたる交差点に、大きなゲートが立っている。ここから特別な場所へと続く道が始まるのだとわかる。
ゲートの先は、植民地政府が広く真っ直ぐに整備した通りで、両脇には大きい並木が等間隔で植えられていて、緑豊かな感じを受ける。
英国による植民地統治の中枢となった場所は、通りのいちばん奥に配置されていた。通りの突き当たりにあたる正面には首長の王宮、
その前面にダーバ(Durbar)と呼ばれるお祭りが行なわれる大広場、そして首長のいる王宮を、王宮から見て左の斜め向かいから監視するように、
植民地時代の英国統治者の官邸が建てられている。この建物の空間的配置に、植民地時代の間接統治の機構が如実に現われている。
ダーバは、元々インド起源の公式会見や公式レセプションを意味する意味であり、一般的には伝統的なお祭りを意味するイギリス植民地英語として用いられている。
独立後も、ダーバはナイジェリア社会で重要な役割を果たしており、ラマダン明けに開かれる大規模なお祭りはここ大広場で行なわれる。
大広場では、子供たちが集まって遊んでいたり、男性が数人集まって談笑したりしている光景が見られた。
王宮の正面、つまり大広場に面する側には、台座が設置されている。ガイド氏の話によると、当時の首長は足が悪く、
馬に乗れなかったためにこの台座を作ったのだという。
王宮は、それ自体英国がつくった建物である。大広場を見下ろす台座の上に、象徴的に時計台が設置されている。
もちろん、伝統的なイスラム文化には、建物に時計を設置する習慣は無い。王宮にある時計台は、
イギリス植民政府が支配地域の現地人に対して「時間」の概念を浸透させようとする試みであり、現地人に英国流の厳格な時間の概念を浸透させようとする、
白人の責務(White Men’s Burden)の一種であったと考えられる。
現在も、英国植民地統治者の官邸は、州知事の庁舎として使用され、統治者としての権威がそのまま引き継がれている。
しかし、その正面、王宮からみると右側には、巨大な新モスクが建設中であった。英国がつくった、統治の権威ある場所という都市内の位置関係は受け継がれながら、
しかしその場所は徐々にイスラム化されつつあるのがわかる。
▽旧競馬場
王宮を出て、ふたたびゲートまで戻る。そこから少し離れたところに、植民地時代の競馬場の立派な施設があった。
現在は運動場になっており、少年たちがサッカーをしている。競馬場も、世界各地のイギリス植民地都市に共通して建造された施設であり、
今回の巡検では、ラゴスとカノでもそれを見た。ただし、これらの施設では、現在、どこでも競馬は行なわれていない。ガイド氏曰く、
ナイジェリア人は競馬には興味がないらしい。
競馬場の近くに、味の素の看板を発見した。ここナイジェリア北部でも、味の素は人口に膾炙していることが観察される。
▽廃墟のマイドゥグリ駅
マイドゥグリには鉄道が通っていた。1950年代末から独立後にかけて建設され、東南部のポートハーコートまで延びる、一般的に東線と呼ばれる鉄道であった。
ナイジェリア北東部やチャド行き貨物の積み替え地であり、輸出用にピーナッツ、綿、皮革が集められた。
1996年まで機能していたそうだが、それ以後は現在に至るまで、10年以上も閉鎖状態である。
駅前は広場になっていたが、荒れ果てている。駅舎を通り抜けて1本だけしかないホームに出て、線路を見ると、草が茫々の状態であった。
客車が何台もつながって、操車場の奥のほうに放置されていた。駅構内の公衆電話ボックスや、牢屋のようになった食堂、荒れ果てた切符売り場、
放置された手荷物用のフォークリフトが、多くの乗客でにぎわったであろう昔日の姿を伝えていた。
廃墟同然の駅構内を見学していると、エンジニアだという鉄道職員が現われた。彼によれば、9ヶ月も給料が払われないことがあったという。
鉄道が機能していた以前のような状態に戻ることを祈るとも仰っていた。
駅は、整備すればまだまだ使える状態にある。この東線に関しては、韓国の鉄鋼企業POSCOがリハビリ作業を請け負うという話が持ち上がっていたと聞くが、
実際に訪れてみると、何も起こっていない。何かが起こる気配すら感じられない状況であった。
▽卸売りの商店が並ぶ商業地区
その後、マイドゥグリの商業地区に立ち寄った。時間的制約があったため、私達は商店の内部には入らず、
市場の中心部を取り巻く形で立地しているコンクリートの二階建ての建物が並ぶ通りを歩いた。
ここは、カメルーンのマルアと異なり、定期市ではなく、基本的に毎日営業の固定商店から成っている。
自動車部品やタイヤの専門店が延々と連なっている、電化製品店や薬局、かつらを専門に扱う店、書店、かばん屋などがあった。
電化製品店では、PanasonicやSharpの旧型のテレビが売っていた。
マイドゥグリが、ナイジェリア北東部地域最大の高次商業都市となっているのだとわかる。
私たちがバンキでみた状況からすれば、カメルーンやチャドも商圏に含んでいるのであろう。
このように、イギリスが作った都市マイドゥグリは、現在では交易都市としての側面を持ち、広い範囲への財の供給機能を果たしている。
▽マイドゥグリよりカノへと出発
8時45分、マイドゥグリ市内見学を終えて、私たちは一路カノを目指す。
カノは、マイドゥグリのほぼ西方、A3というナイジェリアでは一番等級の高い国道でおよそ500キロ強くらいの所に位置している。
市内を離れ、マイドゥグリの郊外に出ると、またしても「新興住宅地」が現われた。ラゴスのものと同様、投機の対象としての意味合いが強く、
誰かが実際に住んでいるわけでもないようで、生活のにおいは感じなかった。
マイドゥグリを発ってより3時間くらいは、道路の脇にソルガム(もろこし)・メイズ(とうもろこし)・ミレット(きび)
などの穀物畑が広がる農業地帯がずっと続いた。道路に面した耕作地は、生産物の輸送の観点から非常に便利であろう。
道路からどれだけ奥地にまで農地が続いているのか、見当がつかなかった。道にそってずっと畑が続いていたので、
規模にして相当広大な農地になっていることはまちがいない。昨日から今日にかけて、マイドゥグリを中心とするボルノ州を東から西に横断することになったのだが、
他に工場など特段なかったので、この地域の経済は、穀物の商業的栽培が中心であることがわかる。
ソルガム・メイズ・ミレットは、西アフリカでは主要3大穀物と呼べるほど主要作物であり、この巡検でずっと見かけてきた作物だ。
ガイド氏に毎回尋ねているが、ソルガムとミレットを見分けるのが難しい。両者ともに2メートル近くまで成長している。
先端に細長い穂があるのがソルガムで、ないのがミレットと見分けていた。メイズは葉が他の二種に比べて広く、
日本でもとうもろこしの葉っぱを見かけていたので見分けがつき易い。
いずれの植物も天水で栽培されており、灌漑施設は見当たらない。またほとんどの農地で、いずれの作物も整列されて植えられておらず、
種類ごとにまとまってはいるが雑然と栽培されている。ごくたまに整列されて植え付けられている農地を見ると、本来畑作とはこうあるべきだと再認識させられた。
整然と植えつけられた畑の方が生産性は高いに違いない。この地域の農業は、既存の作物の栽培技術を改善することによって、なお生産性向上の余地があるということだ。
また農地ではバオバブの木がしばしば見かけられた。ガイド氏曰く、木の実をスープに使用したり、根っ子を薬として用いると言う。
時折小さな集落が現われ、ここの人々が近くの農地を保有しているように思われた。中には「Community Based Poverty Reduction」という看板が掲げられた建物があり、
何らかの開発援助プロジェクトが進行しているようであった。
途上国の農業支援においては、灌漑設備の向上や農薬の使用によって米の増産を図る「緑の革命」が主な支援方法として提唱される。
サハラ以南アフリカでは、ネリカ米がこの革命の主役とされる。だが、「緑の革命」は最も適切な手法ではないようだ。
その理由は、サハラ以南アフリカにおいて、米は最も主要な作物ではないからだ。
サハラ以南アフリカの農業支援で求められているのは、上記のソルガム、メイズ、ミレットのような伝統的な主要作物の生産性を上げることである。
これら伝統作物は天水で育てられており、これを稲作に転換しようとすれば、大規模な灌漑施設を設置しなくてはならなくなる。
このための経済負担は、途上国にとって容易でない。このような地域ではむしろ、伝統作物の生産性を上げるための農業改良指導のニーズが最も高いように思われる。
日本が援助するとしても、ネリカ米一辺倒ではなく、もっときめの細かなプログラムが望まれる。
マイドゥグリの町を出発してから一時間ほど経過して、ダマトゥル(Damaturu)という町を通過した。比較的大きな町で家畜の巨大市場があった。
町も活発で賑やかであった。
さらにその一時間後、ポティスカム(Potiskum)という町を通過。このポツカムという町で、今まで通ってきた国道A3が南西の方角に折れ、
私達はカノまで西方に真っ直ぐ進む道路に乗り換え近道を選択する。
▽建設中の幹線道路
A3という幹線道路とその後の国道を合わせ、一本の道路を通ってマイドゥグリからカノへ向かっていくみちすがら、
この道路に沿って、もう一本の道路が建設し、片側二車線にしているのを目撃した。当初は盛り土しか見えなかったが、
車が西方に進むにつれて整備の具合が徐々に増し、重機によってコンクリート舗装されているところもみつけた。
恐らく西側から工事が進められているのだろう。私達が通った一本の道路もその状態は良好で快適に高速走行ができた。
渋滞することもなかった。鉄道の整備が全く進んでいないのと比べ、道路整備の進捗は著しい。マイドゥグリ・カノ間は、
これまで通ってきた他の地域の幹線道路に比べても、より重点的に整備されているように思われた。これは、北部の政治的発言力の高まりを現しているのかもしれない。
▽送電線
道路と平行して、マイドゥグリからカノにかけて送電線がずっと走っていた。マイドゥグリからカノまでの道中ずっと道路と併走しているので、
まるで電線と一緒に旅しているようであった。電線は、長距離用と、道路沿いに位置する集落に電気を配電する電線があった。
地元配電用の電柱で倒れかけているものや電線が滅茶苦茶になっているものもあり、そのメンテナンスが一部悪かった。
市内の配電線は良く見ると上下二段に分かれていて、各段3本の電線が走っているのが一般的であった。
先月末のカラバルで取材したユアテックの坂上さんによれば、上段が33,000ボルトの電圧で、
下段がこちらの家庭用電源の電圧である220ボルトの電線であるということだった。下段の電線が各家庭につながっている。
長距離用の送電線を一定間隔でつなぐ鉄塔は、当然配電用の電柱より大きく立派なものだが、
私が毎日通学路で見る多摩川の鉄塔のほうがずっと大きく見えた。ここで使用されている送電線鉄塔はそれほど大きくないため、
電圧は数万ボルトレベルなのかもしれない。ナイジェリアの経済発展のために、電力インフラを大幅に増強させることは必須であり、それに応じて、
これから送電網の整備も必要であるとわかった。これまで電気の重要性はわかっていて、発電に関して注目していたが、
新たに送電という部分の重要性を勉強することができて個人的に非常に有意義であった。
▽地元の食堂で、おいしいモイモイ
午後1時となり、アザーレ(Azare)という町で昼食を取ることになった。
私達は通常、昼食を、宿泊しているホテルのレストランか、市内のレストランで食べる。例のごとく、車を走らせながら適したレストランを探していると、
小奇麗な建物のスーパーマーケットを併設したレストランを発見したので降りてみた。だが、残念ながら、営業していなかった。
折角なので、スーパーマーケットによってお水などを調達する。ユニクロのズボンが1500ナイラ(約1,350円)で売っていた。
イギリス経由で入ってきたらしく、「12ポンド」という値札がついていた。他に、アラビア語で書かれた商品もあり、アラブ地域との商業的関係が伺える。
また、子供用自転車が7500ナイラ(約6,850円)、扇風機が2000ナイラ(約1,800円)で売られていた。
ナイジェリアでの最低賃金が7,500ナイラであることを考えると非常に高価だ。このように比較的高価な品を扱う店があるということは、
このアザーレの商圏においても、二重経済化があり、上層に位置する人々も住んでいるのであろう。
この店を後にして、再度適したレストランを探す。ガイド氏らもこの町に初めて来たようで、そこらを歩いている地元民に尋ねている。
英語ではなく現地語で話しているのだが、ガイド氏が尋ねる際に、「レストラン」という英語を用いていた。
なぜここだけ英語になって、「レストラン」を意味する現地語を使用しないのか違和感を抱いたが、
どうやら地元民向けの「食堂」と外国人・お金持ち用の「レストラン」は完全に人々の中で差別化されているということなのだろう。
結局、この町で「レストラン」は見つからず、近くにあった地元民向けの大衆食堂に入る。このような大衆食堂は、一般に「Food is ready」と呼ばれている。
通常私達が利用してきた「レストラン」ではメインディッシュ一品1,000〜1,500ナイラはするのだが、この大衆食堂ではおよそ100ナイラであった。
大きな価格差があり、外食産業も、二重経済で完全に分断されていることが分かった。
この食堂では、「モイモイ」という、ゆで卵を、豆をひいて蒸したペーストで包んだだんごのような食べ物が人気なようで、
先客の方々は皆一様にモイモイを食べていた。モイモイは一つ30ナイラと格安であった。折角なのでモイモイを4つ注文したが、
なかなかのボリュームであり、2つで十分過ぎた。
帰り際、食堂の店員に、味の素を使っているかどうか聞くと、味の素は甘みが強くて、使うとお客からたまにクレームが来るので使っていないそうだ。
代わりにネスレのマギーを使っていると言う。ゼミ生の一人は、味の素などの調味料の味を嗅ぎ分けられるらしく、
たまに食事の席で「化学調味料の味がする」と呟いていた。
▽北部ナイジェリア農村中心地の階層的空間編成
マイドゥグリとカノという、ナイジェリア北部の主要都市に挟まれて存在するこれらの町の位置関係について概括してみたい。
今回の巡検に携行したカナダのITMB Publishing社が発行する地図には、マイドゥグリ−カノ間に19の町が記されている。
記録係である私は、走行中、町に出くわすたびに名前を看板などから調べ、地図の上に通過時刻を記入していった。
よく地図を見ると、私達が利用した幹線道路上に、均等間隔でこれら19の町が位置している。縮尺160万分の1の地図上では、
町と町の間が1〜2cmに必ず収まっており、直線距離でいうと、それぞれの町の間の距離が15〜30kmとなっている。
確かに、乗車中は、一つの町を通り過ぎて20分くらいすればまた次の町が現われるといったことの繰り返しであった。
上記で挙げたダマトゥル(Damaturu)やポツカム(Potiskum)、アザーレ(Azare)は地図上で見ても、他の道路と交わる交通の結節点となっていたため、
通過した他の町よりも規模は大きかった。
この辺り一帯は平地である。便宜的にマイドゥグリ−カノ間の地図上の距離を30cmだとして、マイドゥグリ・カノを高次中心、
先程挙げたダマトゥル(Damaturu)、ポツカム(Potiskum)、アザーレ(Azare)を中次中心、それ以外の16の町を低次中心とする。
そうすると、マイドゥグリ−ダマトゥルという2つの中次中心間には5つの低次中心が位置し、この小都市間の直線距離は8cmである。
ダマトゥル−ポツカムという二つの中次中心間には、4つの低次中心が位置し、直線距離は6cmである。
ポツカム−アザーレという二つの中次中心間には、2つの低次中心が位置し、直線距離は6cmである。
アザーレ−カノ間には、5つの低次中心が位置し、直線距離は10cmとなっている。
以上から読み取れるように、マイドゥグリとカノの間の地域には、地元民が連続して居住しており、これらの人々の消費財を提供するための、
そしてこれら人々が生産した小規模の農作物を売るための場所として、19の中心地がマイドゥグリ−カノ間に位置している。
また、マイドゥグリ−カノ間には3つの中次中心が存在しており、低次中心よりも高度な消費財を供給する機能を果たしている。
確かにこれら3都市は他の小都市より規模も大きかったし、ダマトゥルには家畜市場が、またアザーレには、高級スーパーが存在した。
そして、ダマトゥルなどの中都市へさらに高次の消費財を提供するための卸売市場の役割をマイドゥグリとカノが果たしている。
このように、ナイジェリアの北部地域に、クリスタラーが提唱した中心地論的な都市の空間編成が存在していたことは、非常に興味深かった。
▽カノ〜経済的に発展する、伝統的イスラム交易都市
私たちはようやく、カノの郊外にやってきた。アブジャからカラバルまでの間で、カノの旅行公社から派遣されてきたガイド氏はしきりに、
経済的発展を遂げたカノの偉大さを口にしていたので、私達も期待していた。
たしかに、農地を見ると、トラクター等の農機具やスプリンクラー等の灌漑設備が目につく。大都市カノの郊外では、
このような資本集約的な近郊農業が行なわれていることが観察できた。このように発展した近郊農業が、大都市カノの胃袋を支えているのである。
カノには、夕方の4時過ぎに着いた。
【カノの歴史】 |
カノは1,400年前に誕生したイスラム都市で、西アフリカで現存する最古の都市である。
ラゴス、カラバル、マイドゥグリなど、英国やポルトガルが作った植民地起源の都市と対照的に、カノは中世より、
地中海や中東とのサハラ砂漠をまたぐ交易の南側に位置する重要な拠点都市であり、イスラムの学問の重要な中心地であった。
11世紀から14世紀にかけて、ハウサ族がこの都市を支配した。だが、19世紀に入ると、カノは、ソコトを中心地としたフラニ族に征服され、
カノはフラニ族の一都市となる。ラゴス、カラバルなどがある南部が15世紀からヨーロッパ勢力の侵略をうけ、宗教もキリスト教化したのに比べ、
北部は、地中海南岸のイスラム地域と密接に結びつき、独立を保ち続けた。しかし、20世紀初頭にイギリスに侵攻され、カノは英保護領となった。
戦後の脱植民地化の機運の中で、カノとその周辺地域は、ナイジェリアとして南部のキリスト教地域と一つの国家領域となり独立することを強いられた。
参考文献:ガイドブック West Africa (Lonely Planet) |
【カノの英植民地化を促した、イギリス行政官、ハンス・ヴィッシャー】 |
Hanns Vischerは、1876年にスイスで生まれ、後にイギリスに帰化した行政官である。彼は1903年にイギリスに帰化し、
その後ナイジェリア北部保護領の政務部で働き、更にはリビアのトリポリで解放された奴隷と共にサハラ砂漠の縦断を成し遂げた。
ハウサ語を完璧に話したヴィッシャーは、この建物に西欧式の学校を初めて創設した。これによって彼は、ハウサ人から熱い信望を得て、
「Gidan dan Hausa(ハウサの息子)」という称号を与えられることとなった。北ナイジェリアの教育行政に従事し、
退官した後も、アフリカでの教育に従事し続け、ナイトの称号を得るに至った。
カノ歴史博物館の展示資料より |
▽観光局長のお話〜都市企業家精神で
ホテルで夕食をとり、暫く休んでから、夜10時ごろからカノ州の観光局長 がわざわざ私たちのホテルまで来てくださり、カノの観光や経済についてお話して下さった。
▽カノの観光業
まずカノの観光について伺った。
カノは、かつて、地中海からサハラ砂漠を越えて南部アフリカに至る交易の一大拠点であった。このため、元来北アフリカとのつながりは強く、
観光ルートの面でも、スペイン等のヨーロッパ諸国から地中海を越えて、アルジェリア、マリ、
ニジェールを経て陸路でカノへやってくるサハラゲートウェイというルートを用いて外国人観光客がやってきていたという。
しかし、近年のニジェールならびにチャドの政治不安によって、このルートからの外国人観光客の流入が止まり、非常に大きな問題となっているという。
外国人・ナイジェリア人問わず、カノにやってくる人の数は毎月30万人程であり、このうち外国人観光客の数はおよそ5%の15,000人(毎年18万人)である。
しかし、カノにやってくる外国人にはビジネス目的の人も多くおり、純粋な観光客を分類するのは非常に難しい。
局長は、カノが国際都市であり、異文化との共生・異文化の受容という雰囲気が長い年月をかけて成熟していて、
旅行者に対して「おもてなし」の精神を強く持っており、カノ自体が旅行者に優しい都市である、とカノのホスピタリティーをしきりと強調しておられた。
確かに、Lonely Planetにも同様のことが書いてある。9.11以降の、イスラムに対するキリスト教諸国を中心とする一部の人々の偏見を持った見方にたいし、
キリスト教徒の外国人観光客に冷たくあたるといったことはない、ことを訴えたいようだ。
▽伝統工芸の支援策
次に、私たちが翌日カノで訪れる予定の藍染場と関連して、カノ州政府がいかにこの染物のような伝統工芸を支援しているのかについて、お話を伺った。
伝統工芸品を作っているのは、家族単位の工芸家であり、500〜600年の伝統があるそうだ。家族工房の中では、男性が染色などを担当し
、女性が室内での作業を担当する分業作業が確立しており、観光局は男性・女性両方のエンパワーメントを支援しているという。
主な支援方法は、マイクロクレジットである。しかも無担保・無利子で貸し付けるそうだ。
ある工芸家に貸し付けるにあたり、その工芸家が属する村の長に保証してもらうのだ。
保証と言っても、工芸家が返済に窮したときに村長が肩代わりするというわけではなく、村の中で非常に尊敬されている村長の顔に泥を塗るわけにはいかないという心理を、
借り手である工芸家に働かせるという、共同体規制を利用して債務保証をする手法だ。
いくら返済が滞りなく行われても、インフレが恒常的に続く中、無利子で貸し付けることは実質損していることと同然だが、
マイクロクレジットによってカノの伝統工芸産業が盛んになり、カノの観光業が潤うようになれば、長い目で見てカノ州の利益となるということで、
無利子のマイクロクレジットが許容されている。
また、クラフトセンターを一箇所作り、そこに工芸家を集めて生産を行なってもらい、旅行者がそのクラフトセンターで買い物をするという取り組みも試みられている。
工芸家にいくらかの料金を払ってもらう代わりに、場所代・水道代・電気代等は観光局が負担する。観光地のお土産屋で実際に芸術家が生産を行なうことによって、
お土産屋をより魅力的にしようとする試みである。外国人観光客だけでなく、地元民消費者も考慮している。
このようなカノ観光局の姿勢は、都市企業家的で、自らの都市の観光産業に、政策的な競争力をより強く与えようとするものであった。
カノをより魅力的な観光都市とするために、既存のツーリズム資源を最大限有効活用しようとする積極姿勢は、感銘を受けた。
▽カノの経済〜中国との自由貿易がもたらすジレンマ
次に、カノの都市経済と産業について、お話してくださった。
カノの人口は1200万人を誇り、州の中には44もの自治体がある。これは、全国の州の中でも最大であるという。
現在のナイジェリア経済は、インフレ率が高く、資金を借りようとすれば金利は20%弱にもなる。消費者物価も上がっている。
だが、中国や韓国から安い輸入製品が流入してきたにより、消費者は以前より安く同じ種類の商品を購入できるようになった。
経済は自由化され、外国資本も国内市場に参入しやすくなっている。このように、自由貿易体制が、インフレにもかかわらず、
一般大衆の生活水準をそれなりに向上させていることがわかる。
ここで私たちは、原油価格の上昇などで潤った資金を投機に回すのではなく、製造業に回すことが国の経済発展のため重要ではないか、
と質問をしてみたところ、カノはもともと製造業も発展していた、とおっしゃる。カノには3つの工業地区があり、以前は500社ほどが立地していたという。
ところが、現在は200社まで減ってしまった。その一番の原因は、電力問題だ。電力が十分に供給されず、思うように操業ができず、
自前で発電すると非常にコストがかかる。この状況が改善されないところに、第二の原因が起こった。中国などから安価な輸入製品が流入してきて、
コストをかけて製造するよりも安価な製品を輸入した方が有利になり、多くの企業が操業をやめてしまったのである。
確かに消費者にとって、安い商品を購入できるようになるのは利益であるが、ナイジェリアの製造業が中国からの安い輸入品によって発展せず、
むしろ縮小していくという状況は、自由貿易体制がもたらす否定的側面である。
▽電力問題〜もう連邦はあてにできない。州政府が自前で解決
このように、産業経済の基盤がそれなりに強いカノにおいて、電力インフラの整備は死活的な問題となっている。
いつまでも非効率的な連邦政府に任せていたら、いつまで経っても発展のためのインフラが整わない。
そこでカノ州政府は、自ら問題解決に動き出し、自前で発電所を建設することにした。ナイジェリアでは、法的基準さえクリアすれば、
各州単位で電力インフラを整備できる。既に、ジョス(Jos)には、州独自の発電所(Independent Power Plant)が建設されたそうだ。
州が独自にインフラ整備を進めるというのは非常に良い試みにはちがいない。だが、カノ州政府に、
自前の発電所を建設するほどの資金力とガバナンス力が備わっているのだろうか。局長に伺ってみると、
資金に関しては、PPP(Public Private Partnership、第三セクター)を用いることで解決するということで、
投資家・運営者を探しているらしい。これは、PPPの一つの方式であるBOT(Built Operation and Transfer)という方式で、
外国企業を含めた企業に対して、規制緩和を行なって電力発電分野への参入を認め、独自の資金で建設させ、30年など一定期間操業する権利を与え、
契約した期間が過ぎれば施設を国家に引き渡すという契約方法である。
ガバナンスに関して、局長の意見は、1999年まで軍事政権であったナイジェリアにおいて、民主主義が定着するのはこれからであり、時間もかかるため、
徐々に変化を起こしていくしかないということであった。連邦政府というスケールにいつまでも頼っていてはいられず、
州のスケールで独自に発展していかなければいけないということであろう。観光政策に関しても、産業政策に関しても、そして電力政策に関しても、
このような立場をふまえた、カノ州の積極的な姿勢が感じられる。ここには、規模が巨大で、
民族間対立など様々な利害に絡まれた連邦政府の空間スケールから下位の州のスケールへ、
というナイジェリアのガバナンス能力のスケール間シフトをみてとることができるように思われた。
今回の巡検でも、PPPについて、ドゥアラ港のマネジメントをデンマークの企業に委託していた例、カメルーンの鉄道の例などを私たちはみてきた。
これらは、運営のみを民間にゆだね、港湾の建設・設備投資・軌道の保有と整備などには国家行政が関与していた。BOTは、これらとは違うPPPの形態である。
カノのように巨大な人口を誇り、産業基盤もある地域では、電力業でBOTを採用しても利益があがる可能性は高いだろう。その成果を見守る必要がある。
▽終えて
局長は、夜11時を過ぎるまで、私たちに熱心に、カノ州の将来の経済発展の可能性について、私たちに熱を込めて語ってくださった。
私たちは、こうして長い1日のスケジュールを終え、くたくたになって床に就いた。